My life as a cat
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2011年05月31日(火) ラブストーリーの途中

3月の地震以来、筆不精のJからのメールが増えた。安否の確認だったり、物資が不足していないかの心配だったり。でも今日のメールは少し違った。パースは例年にない厳しい寒さの冬を迎えていて、君がいてくれたらもっと温かいのにとか、中国に出張に行って君に少し近くなったとか、また君を旅行に連れ出したいとか。。。。いつもはこんなんじゃなくて、出張先の町や人々、その暮らしや休日の過ごし方の話など本当に他愛ない話題ばかりなのに、何があったのか、今日届いたメールにはわたしが恋しくて会いたいのだということが切々と書かれていた。そして最後に今の職場に韓国関連の仕事があったからアプライしたんだ、これが通れば韓国で働いて日本にいつでもひとっ飛び、だとも。去年の8月にパースの空港で手を振って以来、もう会うこともないだろうと思っていたのに、また会うようなことがあるのだろうか。密かな期待とダミアンを欺いているようなやましい気持ちで胸が震えた。ダミアンと付き合うようになって以来、はっきりと別の人がいるなどと告げないまでも友達以上を思わせるようなことは一切書かなかったけれど、そこから何も読み取らないのがオージーの典型だろう。ダミアンにもぷっつりと断つことの出来ない複雑な思いの絡んだ関係のひとつやふたつあるのだろうか。今日、わたしと同年代の同僚が二度目の離婚をすると聞いた。彼は頭も良いし、見た目も良いし、人当たりも良いから女の子を落とすのなどいつも朝飯前だ。会社の内線で話しているだけで、お互い顔も知らない支社の女の子を名前と声が可愛いというだけで食事に誘ったという武勇伝もあるくらい。(もっと驚いたのは相手がOkしたことだが)一度目の離婚は何があったのか知らないが、二度目の結婚はこのまま言い訳がつく程度のそこそこの火遊びを他の相手として淡々と退屈にやりすごしていくかのように見えたが、何があったのか突然離婚を決めたらしい。職場には結婚を切望しているにもかかわらず一度たりとも結婚できていない男女が沢山いるのだから、二度も結婚して離婚してしまう彼はすごいといえばすごい。

「俺はあと2,3回は結婚するんだろうか。」

と冗談めかして笑っていたけれど、言葉の節々にそれは本望じゃないと読み取れた。

「よぼよぼの爺さんになるまでには心から寄り添える人をつかまえないとね。」

と言ったら、それもそうだなっ、と深く頷いていた。

結婚してもしなくても悩みはつきない。わたしの人生にもいつか完結するラブストーリーがあるのだろうか。そんなことを想像するときふと脳裏に浮かぶのはJとその背景に広がるSouthern Oceanだった。


2011年05月27日(金) Monster

金曜の夕方、冷蔵庫に冷やした白ワインを思って家路を急ぐ。途中で魚屋に寄り、旬の真鯵を一尾捌いてもらう。真鯵は脂が乗っていて炙るとじゅわじゅわと音をたてた。そして今日の夕飯は初夏の野菜スープ。にんにく、にんじん、キャベツ、新じゃが、新玉ねぎ、ピーマン、セロリー、トマト、そして赤レンズ豆をハーブとワインで煮込んだ。化学調味料など使わなくてもまろやかな良い味がでる。塩とミックスペッパーで味付けしておしまい。野菜スープはいつでも良い。飽きのこないほっとする味。炙ってほぐした真鯵と煮込んだスープから取り出したキャベツにほんの少しお水をそそいで、これはクロエちゃんのごはん。猫もやはり旬の魚と野菜がいいのだろうか、先日動物病院で避妊手術前に受けた健康診断では健康優良児と太鼓判を押された。

TSUTAYADISCASからデリバリーされたDVDをセットして、ソファにどっしり腰を下ろす。だらだら夕飯を摂りながら映画鑑賞するのが一人暮らしの一番のお気に入りだ。

映画は"Monster"というフロリダ州で連続殺人鬼として死刑執行を受けたアイリーンという女性の生涯を描いたノンフィクション。アイリーンを演じたシャーリーズ・セロンという俳優をよく知らないが、本当はとても綺麗で人で、役作りのために13kg太って挑んだというのが興味深い。ストーリーはひたすら気が滅入る。アイリーンはフッカーだった。フッカーといっても"プリティ・ウーマン"のヴィヴィアンのようにビバリーヒルズで高級車に乗った客を掴まえて高級ホテルで事におよぶようなのではなく、それよりも断然劣悪な環境。町外れの路上でヒッチハイカーを装って車に乗り込んでは、売春を匂わせて客を取をとるフッカーだった。肌は荒れ果てているし、化粧もしてない、ぽっちゃり体系でセクシーな服を着ているわけでもない、シャワーも浴びていないだろうぷんぷん匂いそうな汚い身なり。そんなアイリーンでも妻よりましだと誘いに乗るお金など持っていそうにない貧しい身なりの男達と車中で事におよぶ。お金をはねようともいざとなったら身を守ってくれるピンプすらいないのだからどんなに危険なことか。自分はダイヤの原石だと信じていつか女優になる日を夢見ていた子供の頃、8歳で父親の友達にレイプされ、父親に訴えるも逆に友達を侮辱したと罵られ、13歳で家を追い出された彼女は食べていくための手段としてそんな道しかなかったのだろう。パブで知り合ったセルビーにはじめ自分はクリーナーだと嘘をついて"クリーナーは良い仕事だ"と言う。学生のバイトか主婦の小遣い稼ぎのようなクリーナーの給料では生計が立てられなかったのだろう。どうやって堅気になれるのかわからず、彼女をそこに導いてくれるような良い出会いもチャンスにも恵まれず、30歳になっても相変わらず同じ仕事をしていた。"向上心がないだけだ"と簡単に切り捨てることもできるが、向上心などと言う言葉は全うな家庭で両親の愛情に包まれて、食料や安心して眠れる場所が当たり前に与えられて育った人間だから思いつくもので、本来誰にでも愛されて当たり前の幼少期に愛をもらわずに育って、生きるために何でもやるしかなかったアイリーンに"向上"などというアイディアは浮かばないのも無理はない。ふと食べていた野菜スープを見て思う。大抵の親は子供に"もっと野菜を食べなさい"と言う。しかしアイリーンはそんなことは言われたことがないに違いないと想像した。誰も、彼女自身でさえ、彼女が健康で生きているかなどということには無関心で、いつも片手にビール、口にはくわえ煙草だった。愛情を注がれたことがなかったから、注ぎ方も知らない。初めての人殺しは仕事の途中で殺されかけての正当防衛だった。二度目は幼児性愛者。そこまでは殺人の中にもまだ正義があった。しかしそれ以降はアイリーンを初めて人間として尊重して慕ってくれたセルビーを盲目に愛して、二人の生活を守るための無差別な強盗殺人だった。何も持っていないのに自分の全てをセルビーに捧げてしまったアイリーンと裏腹に、"愛してる"などと言いながらもいざとなったら自分を思いやってくれる両親の元に帰ることができる恵まれたセルビーが疎ましかった。

しかしアイリーンを演じたシャーリーズ・セロン、すごい変身ぶりだ。この人の生い立ちもどこかアイリーンと通ずるものがある。だからこんなに役にのめりこめたのだろうか。

シャーリーズ・セロンの生い立ち 以下Wikipediaより - 
南アフリカ共和国ハウテン州ベノニで道路建設会社を経営していたフランス系の父親チャールズと、ドイツ系の母親ゲルダの間に一人娘として生まれる。一家は幼い頃からアルコール依存症の父親による家庭内暴力に悩まされていた。

シャーリーズが15歳の頃、晩に酔って帰ってきた父親に暴力を振るわれ、娘の命の危険を感じた母親が父親を射殺してしまうという事件が起きる(母親に対しては、正当防衛が認められた)。その後、母親は破産寸前だった会社を5年で立て直す。

16歳の時に地方のモデルコンテストに優勝、モデルとしてミラノやパリで活動し、一年後、バレエ学校で学ぶために、アメリカ・ニューヨークに移住する。彼女はそこでバレエ・ダンサーを夢見て日々挑戦を続けていたが、不運にも膝の怪我でその夢を断念せざるを得なくなる。なお現在の公称身長177cm。

その後、女優を目指しロサンジェルスに移るが、仕事がなくその日暮らしの困窮生活を送る。手元にあった小切手を現金化しようと銀行を訪れた際に、その小切手が期限切れで、銀行員に現金化を頼み込むが素っ気ない態度で対応されたため激怒、その銀行員と口論していたところを現在のマネージャーにスカウトされ、本格的に女優活動を始めることに


女の子は誰だってダイヤの原石だ。磨かれれば光ってゆく。踏まれ続けて、輝きを放つことなくこの世を去ったアイリーンの姿は同姓としてとても痛ましかった。"Monster"とはアイリーンのことではなく、社会に潜む暗い影のことなのかもしれない。


2011年05月21日(土) La voie du chat

うららかな春の夜、"みはし"であんみつを食べて、ほっこり良い気分になって上野公園を散歩した。真冬に寒さに蹲るように寝ていたホームレス達も、今はすっかり手足を延ばして平穏な眠りについている。その傍らには猫がいる。

先日観た"La voie du chat(邦題:ネコを探して)"というフランスの映画を思い出してダミアンに話した。ひとりの女性が鏡の中を彷徨う愛猫のクロに導かれて旅をするという架空のあらすじの中で、旅の途中で出会う猫と密接に関わるあらゆる社会問題を取り上げたドキュメンタリーだ。猫と長旅という設定がそもそもマッチしないし、仕方ないがフランス語で語られたものを日本語に直して不自然になってしまったような翻訳も、あらゆる意味でピンとこないシュールな作品だったが、取り上げられた問題は胸にずっしりと響いた。

水俣病では人間より先に猫に症状が顕れた。酔っ払って踊るようによろよろと歩いては狂ったようにぐるぐると回転し、崖から海に飛び込む猫を笑い転げて見ていた少年は、やがて中学3年生で自身も水俣病にかかり余生を病気と共にすることになる。戦災から立ち上がる為に経済成長が何よりも優先された時代、チッソの工場は国から守られていて、患者の訴訟などお金が目当てなのだと世間の冷たい視線を浴びるだけだった。心身共にどんなに辛かったかと語る言葉も、麻痺した神経のせいだろう、呂律がまわっていない。チッソは何万匹もの猫を無駄に解剖しては自分達の取り組みを見せつけ、その安全性を主張した。現在水俣市には猫達の慰霊碑がある。

そしてまた日本。猫を擬人化して、洋服を着せ人間と同じように接する。猫を飼いたいが飼えない人には猫カフェやレンタル猫なるものも存在する。猫をデリバリーして写真と見た目が違うと交換を求める客もいるという。人間を癒すために多大なストレスを強いられる猫達。主役の女性は「ばかげた消費社会だ」と批判するが、「しかしこれは20年後のヨーロッパの姿だろう」と予想する。こんな華やかな消費社会の裏側でひっそりと人知れず処分される猫の数は一日600匹。わずかな保護期間中に新たな飼い主に引き取られる猫はこのうちわずか2%。

ホームレスに面倒を見られている猫もいる。インタビューに答えるホームレスの手には缶ビール、そして市販のキャットフードも映っていた。ホームレスでも面倒を見る人がいれば猫は保健所に連れてはいかれないのだそうだ。"ばかげた消費社会"から脱落した人間の世話になる猫はのびのびと自由に歩き回り、服なんか着せられた猫よりよほど目が輝いていた。

アメリカでは"看取り猫"として病院で働く猫もいた。最期を一緒に看取ってくれる家族がいない人々のためにいるのだそうだ。猫は敏感に死期を読み取って、患者の死亡の数時間前になるとそこから離れないのだそうだ。ふと自分の最期を想像する。クロエちゃんに看取られる?いや、とんでもない。猫を残して死ねない。ふと、恐る恐るダミアンに聞いてみる。万が一わたしに何かあったらクロエちゃんの面倒を見てくれるかと。

"Of course! Don't worry. No problem"

ですって。よかった。だからわたしの財産は全てクロエちゃんとダミアンに捧げると申し出たのに、ガラクタばかりもらっても困ると思ったのか、全く嬉しそうじゃなかった。

(写真:近所の公園にて。こんな気高い見た目のノラちゃんは珍しい)


2011年05月13日(金) SEESAW GAME

仕事がたまりにたまっている。残業や休出することを暗に見込んでスケジュールが組まれているのだから、特別優秀ではないわたしが定時退社していては終わらないのは当然といってもいいだろう。基本は定時退社といってもそれでも週に5時間くらいはエクストラでやっている。それでも"期日までに完了していない"という事実が評価の全てだ。どんな無理な要求も首を縦に振ってしまう新米マネージャーと違って前マネージャーの時はよかった。上部から滅茶苦茶なスケジュールを強いられる時、わたし達の意見を聞き、出来る範囲のみ確約して、あとはとても無理だと突きかえした。彼は若くして奥さんを病気で亡くして以来ずっとひとり身だけれど、厳しい内容のミーティングの最後にはよくこう言った。

「世の中一番大事なのは家族ですよ。仕事は一番じゃないよ。」

"やらされている"という無責任な意識で働いているわけではない。わたしはそう精神が弱くないから、どんなに叩かれようと自分のペースを保ち、持続可能な働きかたを守っている。しかし、世の中はそんなに強い人ばかりじゃないということを上部は認めるべきだろう。言われるがまま(仕事が趣味という人はどんなに残業が続いても鬱病などにならないからそうでない人だ)がむしゃらに働いた結果鬱病にかかって社会復帰できていない人もいるのだ。

昼休み、ぐったりとへたりこむわたしにアメリカからエクスパットとして来ている同僚が笑いながらこんな言葉をかける。

「人生は遊ぶためにあって、それが暮らしの柱だよ。仕事は空いた時間にちゃっちゃと遊びでやるものだよ。」

アメリカの本部にはこんな残業民族はまず存在しないらしい。やっていることは同じなのにあちらでは定時間内にこなせている秘訣は臨機応変さと合理性があるからだろう。こちらではどんな大量な仕事が舞い込んでもやり方を変えることは考えずひたすら残業などをして終わらせようとする。しかし、アメリカではまず妥協点を見いだしてラインを引く。そして譲れない部分だけにしっかりフォーカスを当て、あとは切り捨てる。やっていくうちに問題にぶち当たればその都度やり方を変えていく。アメリカは大雑把だとは言える。しかし、アメリカがやらかすミスやアバウトなデータ管理などを差し引いても、従業員が充実した私生活を保ちつつも結果的に期限内に終わっているという功績は見習うべきものだ。この職場には依然残業する人=働き者と思い込んでいる人もいるようだが、そんなばかな話はない。定時間内に終わらせられるように努めている人こそ真の働き者だと認められるべきだ。

私生活が一番大事だといってもそれを支えるものの一つはお金なのだから、仕事がおざなりでは成り立たない。今いちばんわたしを悩ませているのは仕事と私生活のバランスだ。なんとかこの事態を乗り切ろうと試行錯誤を繰り返している。

( 写真:そして一番の心の薬はやっぱりクロエちゃん)


2011年05月05日(木) 靴下を履いた猫

クロエちゃんが無事帰宅。傷口を舐めないようにとプラスチックのカラーをつけられてきたのだが、あちこちにぶつけながら歩いていて、見ているほうも鬱陶しい。外してあげると、3日くらい毛づくろいをしていなかったのだろう、体中を念入りに舐めまわして、最後に腕に唾液をつけて何度も顔をふいて、
"ふは〜、やっぱり3日ぶりの風呂は気持ちいいね〜"
とでも言っているようなすっきりした表情を見せた。古い靴下に適当に穴をあけてセーターを作ってみたら、あらサイズもぴったり。カラーのストレスから開放されて、よく遊び、よく眠っている。




2011年05月03日(火) 本当の自由時間

新緑が鮮やかに色付きはじめた田舎の風景は美しい。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながらブッシュを散歩した。

わたしの会社は先週からもうすっかり連休に入っていて、クロエちゃんは避妊手術のために入院したりで、久々に時間にしばられずあちこちふらりふらりと出かけている。数日前は美味しいカレーラクサを求めて、ちょっと遠くのマレーシアン・レストランまで足をのばした。わたしと年の変わらないチャイニーズ・マレイの女性が一人営んでいるという小さなレストランは、薄暗い地下にあって、10人入るのがやっとというモグラの会議室のような場所ではあったけれど、人気があるあらしく満席だった。シェフは忙しい。料理をし、客とおしゃべりし、皿を洗い、電話をとる。日本人との結婚がきっかけで日本に来たけれど、別居してひとりでこの商売をやるようになったとか、日本で学校に行っている妹を養っていかなきゃならないとか、カウンター席に腰かけてたまに彼女とおしゃべりをしながら気長に料理を待ったが、待てど暮らせど、一向にでてこない。ダミアンの時計はいつでもヨーロッパ時計であるから、そんなことは全く気にしていない様子だったが、わたしは本土以外の中国人のせっかちさを知っているから、こんなに待たせることをどう思っているのかと気になった。結局ラクサがでてきた時には1時間以上が経過していた。肝心な味のほうも、わたしが求めているものとは程遠く残念だった。GWはどこへも出かけないと話したが、その忙しさ故、他の誰かと間違えているのか、
"Have a nice trip!!"
と満面の笑みで見送られて店をでた。

オサマ・ビンラディンが殺害されたという。死体は海に沈めたなんて、怪しすぎると疑っていたが、アルカイダによる遺体奪還を警戒した上に、墓でも作ればアルカイダの”聖地“になりかねないなどという全うな理由もあるらしい。それでもまだ怪しい、と思っていたりして。。。
それにしても、相変わらず日本のニュースは自分達に直接影響を与えない世界の動向には全く無関心で、今日のニュースヘッドラインはパンダ。世界的テロリスト死亡の報道はパンダより断然小さかった。


Michelina |MAIL