My life as a cat
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2011年03月29日(火) I work for living, not live for working

放射能漏れ。"ただちに健康に被害を与える量ではない"と何においてもそう言うけれど、ものごと個々についてはそうかもしれないけれど、それじゃぁ平均的な人の平均的なライフスタイルで一日にどれくらい自然に摂取してしまうかということが大事なのに、それについては説明がない。東京に住んで、朝にミルクを飲んで、水道水を1日1.5リットル飲み、傘を忘れて雨に濡れて帰り、福島産の野菜を食べる。こんなごく普通の一日でどれくらい摂取しているのか、それが知りたいところ。"風評被害"を防ぎたいならば、もっと説得力のある説明をするべきだ。

朝の会議で、これから更に忙しくなるであろうことを知らされた。現状でも手がまわっていないというのに。あちらは暗にもっと残業をして欲しいというようなことを囁いていた。

家に帰るといつものようにドアの前でクロエちゃんが待っていてくれた。一目散にハグをしてキスをする。夕飯は味噌をソースにした和風のパスタを作り、明日のおやつにレーズンやナッツをたっぷり入れたキャロットケーキも焼いた。私生活の充実があるから健康で毎日働ける。残業ばかりして、家はめちゃくちゃ、インスタント食品を胃に流し込んで寝るなんていう暮らしでは心身共に蝕まれてしまうだろう。そんな暮らしを続けて結局何ヶ月も休養が必要なほどぼろぼろになってしまった人も少なくない。趣味を仕事にできたほんの一握りの人は別として、そうでない人は自分でうまくバランスをとってやらなくてはならない。
"I work for living, not live for working"
とはなかなか日本語では聞かない言葉だが、暮らしのために働く、しかし、それによって暮らしを奪われるならば何のために働くのか。"死なないから生きている"のではさびしすぎる。今までどおり、やれる範囲で頑張っていきましょう、と同僚と肩を叩きあった。

( 写真: 近所のワンコちゃん。)


2011年03月25日(金) 心の灯り

節電なんてこんな事態にならなくたって常日頃から心がけるものだと思う。エアコンになど頼らずにせっかくの四季を肌で味わうのがいい。昼間に沢山日なたぼっこをして、夜は暗闇を受け入れるのがいい。テレビを消してしみじみ家族の会話を持つのがいい。ひとりの人はじっくり自分と向き合えばいい。わたしの家は停電はないけれど、音のない静かな部屋でアロマキャンドルを灯してクロエちゃんと戯れたりする時間はほっと心に灯りがともるようにあたたかくなる。クロエちゃんはよくお菓子屋さんなどでクッキーの袋をとじるのに使われるきらきら光った針金で遊ぶのがお気に入りで、あれを投げると、一目散に走っていってくわえてわたしのところに持ってくるようになった。何度も何度も繰り返し、最初はわたしの周囲にぽろりと落とすように置いたのを、今では5回中3回くらいはちゃんと手のひらに置けるようになった。実家の犬もなかなか覚えなかった芸を猫がやるのだから面白い。しかし、こちらが飽きても、脳みそのシンプルなクロエちゃんは何時間でもこれで遊びたがる。飼い主もひとつ芸を学んだ。片手で鍋の野菜をかき回しながらもう片方の手でクロエと遊ぶ芸だ。沢山遊ぶとふたりとも夜はぐったり2度と目を覚まさないんじゃないかというくらいよく眠れる。

(写真:パソコンも大好きなクロエちゃん)
春ですね!壁紙提供は"Andante"


2011年03月18日(金) ここにいよう

大地震とそれに対する海外メディアの恐怖を煽るような報道の数々、そしてそれを鵜呑みにする以外に手段のない外国人達のパニックに巻き込まれ神経をすり減らした一週間だった。交通機関の乱れで火曜あたりまではみんなどたばたしていたものの、水曜には日本人はほぼ普段のリズムを取り戻し、淡々と働いていた。が、各国政府が相次いで避難勧告をだしたこともあって、外国人達は原発事故による放射能の被害が気になってそれどころではなかった。もう一週間後に帰国が決まっていて、あとはお別れ会でぱっと飲んで去るはずだったブリティッシュ・ガイは木曜の朝突然チケットを変更し、別れの挨拶もなしに去っていってしまった。まだ連絡がないので、なぜそう決断したのか、本人の決断だったのかわからない。ランチタイムをだらだらと気だるく一緒に過ごし、いくつもの夜を沢山笑って飲み明かした仲間だというのに、最後に彼に買った風鈴を渡すことができず、こんなお別れになったのがせつなかった。ダミアンは火曜の仕事中に電話をかけてきて、

「今から名古屋に逃げよう。」

という。彼の職場(全員外国人)の人々はもう東京を去って残るは自分ひとりなのだという。突然のことに驚いて、一度電話を切って考えた。確かに通常よりも放射能を多く浴びているようだ。しかし、健康にただちに被害を与える量ではないと専門家が口を揃える。些細な会社内の噂ですら正確に伝達されないのだから、報道なんてどこまで真実なのかわからない。しかし、原子力発電所が自分の町にできたら嫌だと思いながらもみんなちゃっかりその恩恵にあずかっている。それが悪いことが起きたといって、ただ逃げることに気がすすまない。必死で対応に当たっている人々がいる。そしてわたしの家族もここにいる。もちろん本当に"危険なので逃げてください"と言われてまでここにいてチェルノブイリのような悲惨な事故を巻き起こすのはノーポイントだ。しかし、今わたしにできることは、大丈夫だという政府の言葉と、必死に事故の対応に当たっている人々を信じて見守ることだ。ダミアンを説得し、ひとりで名古屋に行ってもらった。アメリカン・ガイも後から名古屋に向かった。

パニックに陥っている欧米人とうらはらにアジア系の外国人達は冷静だった。友のインディアン・ガイは母国にある派遣元の会社にチケットを手配され、帰国命令を受けたので仕方なく去ることになったが、うかない顔でこんなことを言った。

「いつも日本人と仕事をして日本人と過ごしている。みんなで激務をこなし、一緒に頑張ってきた。それなのに、この国に悪いことが起きたからといってすぐに自分だけ逃げ帰っていくのは日本人に申し訳ないように思う。僕はここに留まって、一緒に事態が好転するのを祈りたい。」

わたしは感動していた。この国にこんなに情を持っているなんて今まで知らなかったし、彼が思考の違いから生じるトラブルに悩んだり、孤独を感じたりしながらも、一生懸命この国にアダプトしようと努めている過程を見てきたから、あぁ、やっとこの国と心を通じ合わせたのだと感じた。いや、あらゆる葛藤を乗り越えてきたからこそ、大きな情が沸いたのかもしれない。

わずかな額の寄付金を出す以外にわたしにできることはないけれど、ひとつひとつの復興への思いがやがて身を結びますように。


2011年03月13日(日) Presents

先日通りすがりの書店でパッと目に付いて購入した角田光代さんの短編集。生まれてから最初にもらう「名前」、そして「ランドセル」、「初キス」「ウェディングベール」「家族の絵」など女性が一生の中で受け取るpresentsをテーマにしていて、短編集だけれど、最後は「涙」で完結する仕立てになっていた。主人公はパーフェクトな幸せを手にするわけでもなく、理想と現実の違いに気を揉みながらも、それでも夢を見て、その中に小さな幸福を見出して、山あり谷ありの人生を泣いたり笑ったりしながら歩いている、みんなみんな普通の女の子で女性でおばちゃんで、おばあちゃんだ。自分の人生を振り返り、どれもこれも当たり前のように受け取ってきたけど、しみじみ思えば感謝の気持ちが湧き上がるものばかりだと思った。中でも「鍋セット」は自分の姿と重なって心に染みた。大学進学と同時に東京でひとり暮らしをすることになった娘に、なんの変哲もない大・中・小の鍋セットを母親が買い与える。お洒落な都会暮らしとル・クルーゼの鍋などに密かに憧れのある娘はそんな母親をちょっと疎ましく思って苛立ったりするのだけれど、結局娘はその鍋と生活を共にしていく。飲み明かした夜明けにはインスタントラーメンをつくり、クラスメイトを招いてはおでんをふるまった。辛いときもひたすら玉ねぎをあめ色になるまで炒めたり、トマトをひたすら煮たりしていると心がやわらいだ。そして、「あの時、母がわたしにくれたものはなんだったんだろう。」と後から振り返る。

わたしの母もオーストラリアから戻ったと思ったらまたすぐに引き返すという娘にちょっと高価な圧力鍋を買って持たせてくれたっけ。わたしはそれで日々ご米を焚き、小豆を煮てお汁粉やどら焼きを作って、和食こそ最高と言いながら海外で生き延びた。今も相変わらずそれでごはんを焚き、クロエちゃんにあげる魚を骨まで食べられるように煮ている。どこへ居ても元気でやっていけるのは美味しいごはんがあるからだ。ふと、母に感謝してみる。しかし母の愛は無償である証拠に、当人はわたしに買い与えた物などいつも殆ど記憶にないのだ。


2011年03月11日(金) 地震

言うまでもなく、日本列島は地震とそこから発生した二次被害、三次被害に動揺していて、わたしのような被害を被らなかった人間は固唾を呑んで事の成り行きを見守っている。地震が発生した時はわたしはオフィスでいつもの午後を迎えていた。小さな地震などしょっちゅう体験しているというのに、何かのお告げのように、前日に限って同僚のブリティッシュ・ガイが、大きな揺れを感じたと訴えるので(実際はとても小さかった)、会社でヘルメットを支給してもらいなさい、とか、竹薮に逃げ込むといいらしい、とか、2005年に東京がM5の地震に見舞われた時は電車など止まってしまってホテルも満員で帰宅困難だった、などと地震を1度しか経験したことのない彼にあれこれと話していたのだ。それが翌日ものすごく揺れて机上のお茶が周りに飛び散り、ファイルが棚から落ちてくるので嫌な予感に包まれて、ぞっとした。揺れが収まってヘルメットをかぶり、靴を履き替え外に出た。小さな子供がいるお母さん達は泣きべそをかいて子供の安否を心配していた。わたしもクロエちゃんが心配で心の中で泣きべそをかいていた。後々、それは埋立地で地盤がゆるく、建物の建てつけもヤワなせいだと知ったが、M5の地震がM7に感じるくらいわたし達の職場は揺れが酷かったのだ。子供の安否を気遣うお母さんは同情を得るが、それが猫となると他人は目もくれない。他人にとっては「たかが猫」でもわたしにとっては唯一の家族なのだ。それにうちのコはメールのひとつも打てやしないんだから。。。。とぶつぶつ小言をつぶやきながら飛んで帰宅した。ドアを開けて拍子抜けした。物のひとつすら落っこちていない。朝家を出た時と同じ状態で全てが存在し、いつものようにクロエちゃんが喉を鳴らしておなかを撫でろと床を転げまわっていた。

同僚の半数は都内からこちらに通っていて、帰宅できず会社に泊まったということだ。歩いて帰宅できて、いつものように温かい夕飯を食べて、暖かいブランケットにくるまって眠れるわたしはどんなに幸運だろう。テレビでは町がまるごと津波にのまれ、避難する人々の背後には雪が舞ってるのが繰り返し映し出されていた。彼らの長い夜を思っていたたまれない気持ちになった。しかし2004年に東南アジアのそれも貧しい地域が津波に呑まれた災害は人々の津波に対する危機感を煽り、この国も多くを学んだに違いなかった。あの災害がなかったら今回の津波による被害者はもっと膨れ上がったに違いないと思う。

世界各国に散った友人達から安否を気遣うメールが届き、大丈夫だと返信しているそばから余震に見舞われている。報道されている内容も、日本国内ではグレイなところも、欧米などに行くとブラックになっているようだ。2004年の津波の際、スリランカのナショナルパークの野生動物達は何かを察知して高台に逃げ込み助かったというニュースを見たが、うちのクロエちゃんは余震に見舞われてもぐぅぐぅ寝ていて起きもしない。野生の勘は働かないらしいと分かったら、この先が余計心配になってきた。


2011年03月05日(土) 江戸風鈴

朝から快晴。ひんやりした空気と陽の暖かさが心地良い絶好の散歩日和。JRの御徒町駅で下車した。目的はまるよしさんの江戸風鈴のお店。安売り・叩き売り、そしてそれに群がる人々で賑わう駅前を抜けて、5分くらい歩くと佐竹商店街アーケードの入り口がある。閑散としたアーケードに入るとすぐに工房が見つかった。民家の玄関のような入り口から中へ入る。誰もいない。ウェブサイトの家族紹介に載っていたカメ男君だけが嬉しそうに水面から半分顔をつきだしていた。いかにもひとつひとつ手作りという全部違う形で全部違う音色、絵付けも簡素なのんびりした風合いが好きで、もうすぐイギリスに帰ってしまう同僚にプレゼントしようとやってきたのだ。カメ男君にお金を置いて持ち帰るわけにもいかず、何度も大声をあげて呼んでみたが、二階から楽しそうな家族団らんの音が聞こえてくるだけで誰もこない。仕方なく、一度お店をでて、アーケードを一周することにした。どの店も売る気があるのか、ないのか、流行を追うこともなく、自分の時間の中に閉じこもって、じっとまた人々が戻ってくるのを待っているかのようだ。不親切というわけではないが、客に媚びるわけでもない、売れれば嬉しいが、かといって頑張って無理にでも売ろうとも思わないというようなのらりくらりとした雰囲気だ。中屋洋菓子店というお店でコーヒーロールを買い食いした。きめ細かなしっとりした生地ともったりとしたバタークリームが美味しい。またお店に戻ってカステラも買った。そして工房に戻ってみたが、やはり誰もいない。仕方なく電話してみた。背後の電話が鳴っていた。するとやっと奥さんが降りてきて、背後で電話を取った。あぁ、やっとなんとか人がでてきた。あれこれとアドバイスももらい、カニの絵のついた風鈴を買った。

また駅まで戻るとやはり安売り・叩き売りが賑わっていた。空気がガラリと変わっていた。まるでタイムトリップから戻ったような不思議な感覚だった。


Michelina |MAIL