My life as a cat
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2006年03月30日(木) あたたかいはなし

ここへ引っ越してきて間もない頃の寒い寒い雨の日の夕方。傘を持たずに出たマーティンをバス停で待っていた。パソコンも濡れてしまってはいけないし、こんな寒い日に雨に濡れたら風邪をひくだろうと自然とそこまで歩いていっただけのことだった。それなのに思いがけず、バスを降りてわたしを見つけた時の彼の表情たるや、お母さんを見つけた幼稚園児か、あるいは飼い主が現れた保健所の犬のように嬉々としていた。ありがとうとも言われなかったけれど、すごくご機嫌でわたしの着ていたジャケットをエレガントだと言ってくれた(いつも着てたじゃんと思ったけど(笑))。家に着いてボール一杯ホカホカのミネストローネをハフハフ言いながら食べてなぜかその日は自分が世界一幸せなのではないかと思った。

今日は久々にキャンベラに冷たい雨が降ったからそんなことを思い出していた。迎えに行く必要はなかったけれど、仲良く風邪っぴきのわたし達の為にやっぱりまたミネストローネを作った。VerdiのRigolettoを聴いて、「今のわたしのように哀しい雰囲気だから好き」と言ったら「そんなに単純じゃない」と撃沈されたが、そのCDをくれた。

日本にはきっとこんなに冷たい雨が降らないから、こんなこともすぐに忘れてしまうだろうな。


2006年03月29日(水) Tannhäuser

ベッドに横になっていたらマーティンがリビングでかけているヴァーグナーが聞こえてきて咽び泣いてしまった。お互いが外国人で生活はいつも不安定だったけれど、マーティンとミケはわたしがはじめて自分で選んだ家族のように思っていた。前途多難に思えて、一生一緒にいようという決意などなかったけれど、かといって別れを想像しただけでいつも泣いてしまっていた。

夜中にアイスクリームを買いに行く途中なんとなくマーティンに聞いた。
「もしオーストラリアをでていきゃなきゃいけなくなったら悲しい?」と。
「うん。少し。」
「少しだけ?」
「うん。だって僕は故郷にいた頃欲しい物が手に入らなかったことのほうが多かったから慣れてるんだ」
と言われてはっとした。
彼は夢や希望に溢れているけれど、同時に現状を素直に受け止めることも出来る。お金を取っておくということをあまり知らなくて、あれば使ってしまうから何かあると素直に貧乏になってしまう。そしてそんな時もお酒ばかり飲んでいて、この人と家族を持つことができるのだろうかと不安にさせられたけれど、きっと彼は既にわたしよりも沢山我慢をしてきたのだ。わたしは欲しい物は何でも手に入るのが当たり前だと思って育ったから、それが手に入らないと泣き喚く。マーティンに「絶対ミケリーナの未来には沢山いいことがあるから、それだけを想像するんだよ。絶対大丈夫だよ。Trust me」と言われた。彼よりもよほど安定した幸せを分けてくれる人がいたかもしれないけど、やっぱり彼とでなければ得られなかったことが沢山あると思った。


2006年03月28日(火) Hopeful Hopeless

キャンベラにいます。
ミケのことやビザのことなど
あれこれと考えなければならないことが山積み。
泣きたくなることもあるけれど、
結婚や出産をする前でよかった。

実家では、
生き甲斐だったコロちゃんが動かなくなってしまったせいか、
父親の表情に希望というものが見られなくなっていた。
アクティブで無鉄砲な人間だったのに、
今はひたすら時間を潰しているように見える。
母親の一日は愚痴で終ってしまう。
どうしたら彼らがもっと楽しくなれるのか知っているけど、
それを与えるどころか、いまだに心配をかけているのだから
わたしはとんだ親不孝者に違いない。

ここへ来る飛行機の中で韓国人の女の子二人と並んだ。
大学を卒業したばかりで
ワーキングホリデーでシドニーへ入るのだとつたない英語で話していた。
辞書をひきひき、わたしに話しかけてくる。
通じると「やった〜」とはしゃいでいる。
あぁ、わたしにもこんなふうに希望に満ちている時があった。
どんな希望もやがてただの現実になっては朽ちていくけれど、
きっとまた新たに形を変えて再生する。

「あなたはいい人」と言って韓国版カロリーメイトをくれたので
お礼にじゃがりこをあげて"Good luck!"と言って別れた。


2006年03月21日(火) 暗闇の中

障害犬のコロちゃんは唯一よかった耳も、もう微かにしか聞こえなくなってしまった。目も見えない、耳も聞こえない、だから殆ど動かない。家族みんなで「コロちゃんのこと忘れてないよ」という印に沢山、沢山体に触ってあげる。体が熱いことに、ちゃんと生きているのだと安心する。暗闇の中で、どんなことを考えて暮らしているのだろう。


2006年03月20日(月) 魔の旅行

一日遅れでモンペリエを発ってキャンベラに戻ったマーティンからメールが届いた。今回の旅行は彼にとっては"魔の旅行"と言っても過言でないくらい災難続きだった。そして最後の最後までそれは続いてしまったらしい。悪運が強いのかエールフランスを使うことが間違いなのか。。。あまりにもすごいので書いておこう。

キャンベラ−モンペリエ間は合計飛行時間22時間かかる上に3回も乗り継ぎをしなければならない。キャンベラ−シドニー−シンガポール、ここまではカンタスにて無事到着。そしてここからがエールフランス。テクニカル・プロブレムが発生し、大幅に足止めを食らった結果、パリへの到着も遅れる。更にラゲッジ紛失。仕方なくラゲッジなしで国内線乗り場まで行くとストの為、また長々待たされる羽目に。結局ホテルに到着したのはキャンベラをでてから約40時間後。

翌日、ラゲッジがシドニーで発見される。どうやらエールフランスがシンガポールで間違えてシドニーに返してしまったらしい。着替えも何もなく過ごす。1週間以上経ってやっとホテルにラゲッジが届けられたが、ローラーがひとつ紛失している。にも関わらず"I'm sorry"の一言のみ残して置いていかれる。

職場にて。ランチタイムに支社の人間が鍵をかけ忘れ、ノートパソコン(私物)を盗まれる。パスワードが必要なのでログインできずどこかに捨てられるだろうが、それにしてもショック。

そして帰国途中。またまたパリにてエールフランス、テクニカル・プロブレム発生。機内で2時間待たされた挙句、外に出される。そしてシンガポールに着陸する時、向こうのほうでシドニー行きのカンタスが離陸するのを目撃してしまう。1時間半後にシドニー行きの便を発見し喜んだのも束の間、それはダーウィン−アデレード−シドニーという過酷な乗り継ぎ便だった。仕方なくそれに乗る。そしてシドニーからキャンベラまでは無事。またまた40時間の移動をしてしまったのでした。

エールフランスって大丈夫なのかなぁ。妹もこれに近い体験をしている(彼女はさらにベジミールリクエストも忘れられ、ミータリアンミールをもらったらしい)。わたしは運良く(?)パリで1時間遅れられたのみだったけれど。

(写真:モンペリエのとある坂道)


2006年03月19日(日) 泥武士

さなちんさんと銀座で再会。「泥武士」という創作和食のお店へ案内してもらいました。まずは、白ワイン。まぁ、これさえ持たせておけばわたしは大人しいんです(笑)。近況報告はもうするまでもなく、ネット上に書ききれないこぼれ話などをした。料理の味は上品で酒を飲んでるわたしはもう少し塩が欲しかった。しかし野菜サラダに果物を入れるのにはどうしても首を傾げてしまう。今だかつてこれを好きだという人に会ったことがない。それなのに世の中からこれがなくならないとは熱狂ファンでもいるのだろうか。

さて2軒目は頑固な居酒屋?で、ごはんと味噌汁とあんみつでシメ。海外から帰ってくると何でもない味噌汁の味にほっとする。絶望したまま後にした日本にも、心の平静を取り戻して帰ってみれば、一緒に笑ってくれる友達がいた。少しずつ好きな物を見つていこう、と思った。


2006年03月18日(土) 痛いの痛いの飛んでけ

銀座にてパースの友が集結。待ち合わせ場所に現れた二人はもうすっかり「丸の内OL風」に綺麗になってしまって、わたしは思わず自分の靴に泥がついていないかと確かめてしまう。居酒屋で会わなかった5ヶ月の出来事や胸の内を話す。すっかりお酒も弱くなっている。話が佳境に入ってくると、遠い国にいるBFと一緒にいられる方法を模索しては落胆することを繰り返しているアカリちゃんは「もう死んでもいいと思った」と話しながら涙ぐんでしまった。20代に激しい恋愛ばかりしてきて沢山傷ついた果てにやっとみつけた暖かい場所にずっと留まることが出来ない。心だけは繋がっているのに。これ以上辛い思いをするなら死んだほうがいいのではないかと思ったという。誰が、「そんなこというものじゃない、世の中にはもっと辛い人が沢山生きてるんだ」などと言えるだろうか。どれだけ辛いかなんて本人にしか解らない。未来への希望よりも目下の苦痛を殺すことを選ぶのならばそれも仕方がないと思う。

透明感のある肌やさらさらの髪を持つ彼女の口からでる「死」という言葉は妙に生々しく響いて、心細くなった。「死んじゃだめ」とか「希望を持って」とか何も言ってあげなかった。ただそれに真顔で答えたら本当になってしまいそうで、軽々しく「わかる、わかる! わたしも何かあるたびにそう思っちゃうわっ」とだけ言った。生きた人間は永遠の幸せも永遠の不幸もどちらも手に入れることができない。それを受入れられないのなら生きてはゆけないのかもしれない。わたしはただただ彼女の痛みが軽減することを願った。


2006年03月17日(金) いいコンビ

無事成田に到着。機内で見かけた水商売以外想像出来ない出で立ちの胡散臭そうな男二人と女一人が、空港出口で揉めていた。年のいったほうの男が若いほうに怒鳴っている。「オマエ!空港出口はここしかねぇじゃねぇか!どうしてオマエはそんなに頭がワリーんだよぉ」。この後も延々背後から怒鳴り声が聞こえていた。コントのような情景だが本人にとっては真剣な日常なのだろう。滑稽で哀れ。

14時間前にいた重圧な歴史を刻んだ石畳の迷路の町は幻だったのではないかと思えてしまう。電車の窓から見える景色は空のマッチ箱が転がった草原みたいに弱々しい。恐ろしいくらい無表情に沢山ならんだ背の高いマンションの窓に個性は無い。あぁ、どうしよう、見知らぬ町にひとりぼっちでいる時よりも心細い。斜め向かいに座った水商売とサラリーマンの中間のような奇妙なスーツ姿の男が携帯電話ごしに「オマエちゃんとやれよ」と語気を強めている。オマエって誰?わたしは人をオマエと呼ぶ人はイヤ。

実家に着くなり、母親はいつものごとくひととおり、お洒落をすること以外は億劫がって何もやらない妹に対する愚痴をこぼす。妹もいい加減ちゃんと「生活」を成り立たせてからお洒落をしなさい、自分のことは自分でやりなさいと思うが、母にも妹のことを子供扱いせずに自分で動くまで放っておきなさいと言いたい。結局いいコンビで、妹に手を焼くことがなくなったら母もぼけてしまうのではないかと内心思っている。


2006年03月16日(木) Au revoir Montpellier

とうとう帰国日となってしまった。2週間前にクリーナーとして入っていたあまりにも暗い表情をしたアフリカ人女性はぴったり来なくなり、代わりにご機嫌なラテン系の女性がドタバタと走り回るようになった。朝にドアをノックするコンッコンッという音すら憂鬱に響いて、開けると人生に失望したような顔でモップを持って立っていて、寝坊するわたしを無言で脅かした彼女はどうしてしまったのだろう。

ランチタイムにナビのアーノルドも乗せて黒のルノーで空港へ送ってもらった。フランスの交通事情はひどい。のんびり屋の顔のまま思いっきりアクセルを踏んで気まぐれに走ってしまうのだから恐ろしいことこの上ない。彼らを"Naked Driver"と呼ぼう。

車中でアーノルドに中国人がやってる日本食屋が大盛況なことや、度々「ニーハオ」と言われたことなどを話す。アーノルドは笑わない。マーティンが「何度も言うけどミケリーナは日本人だよ」と付け足して初めて笑ってくれた。外国の観光地で日本が大好きですなどと言われてしまう煩わしさを思えば、この無関心もなかなか心地良い。

チェックインを済ませ3人でランチを摂った。食事中もフランス人のアーノルドは自然とSweetで「ミケリーナ、このチーズ美味しいよ。食べる?」などと言って切ってお皿に乗せてくれたりする。それをマーティンはニヤニヤしながら傍観している。ドイツ人が照れちゃってできないことを自然とやっちゃう彼らと、それに明らかにトロリとしちゃう日本女子を見るのが面白いに違いない。食事中にボーディングタイムになってしまったので「ゆっくりしてて。わたしはもう行くから」と立とうとすると、「遅れたら次のに乗ればいいじゃん」とマーティン。電車じゃあるまいし。。。「ちょっと遅れていくのがフランス人のマナーだよ」とアーノルド。。。。そうでしたか。

が、ゲートに着いたら「マダム!走ってください」と言われてしまった。メルシーボクーとアーノルドと握手をするとそのまま引き寄せられ頬をくつけられた。あぁ、そうか、そうだったと慌ててもう片方の頬をくっつけて振り返るとまたマーティンがニヤニヤ笑っていた。


2006年03月13日(月) ここが好き

同じホテルにステイしているチャイニーズビジネスマン達に話しかけられ、彼らの相槌の素っ気無さとせっかちさに母国を思い出して、帰国恐怖に襲われる。フランス人やアフリカ人は雰囲気や表情がロマンティックで、他愛のない会話の途中でもちゃんと目を見て真剣に聞いているような顔をしてくれる。相槌をうったり返事をしたりするのが遅いのも、単にのんびりやなのか誠実に返答の言葉を選んでいるのかわからないけれど、この時間と空気の緩やかさが心地良い。みんなが急ぐ理由なんてないじゃないかと言ってくれているような気がして、わたしは空気を沢山吸い込みながらゆっくり喋ることができる。もう帰りたくないなー。



2006年03月12日(日) みんなの休日

トラムに乗って町の中心に向かった。午後3時の車内は陽射しも差し込んで暖かい。この青いトラムに乗るといつももう降りたくないと思ってしまう。

この町では土日はみんなの休日みたい。お店はどこもパッタリ。その代わりに露店がちらほらと出没している。ヘンテコな黒猫の絵の前でマーティンは立ち止まり、この絵が好きかと聞く。即座に首を横に振ったら「ミケリーナに買おうと思ってたのに」とがっかりしていた。あぁ、いつもこんな風にヘンテコな物ほど意欲的にわたしにプレゼントしたがったわねっと思い出が駆け巡った。

夜は赤ワインを飲みながらテレビ鑑賞。ひたすらカチャカチャとチャンネルを切り替えていたマーティンの手が相撲中継で止まった。なんで塩を撒くのかとしつこく詰め寄られるはめに。ふと、相撲のようなスポーツは「ただのデブ」ではなく「パワフルなデブ」が沢山いるオーストラリアでもっと流行ってもいいのではないか、などと思う。

(写真:アルルのプラス・リパブリック)



2006年03月11日(土) Cafe de soir

ゴッホが精神を病みながら有名な作品「夜のカフェテラス」を生み出した場所、アルル(Arles)へドライブ。ローヌ川の向こう側に広がるほんのり気だるく淀んだ空とくすんだ橙色の屋根の家々、こつこつと歴史を刻んで重みがかったような町並はどこを切り取ってもぽってりと塗られた彼の油彩画のよう。細い迷路の路地を散歩した。マーティンはここへ来てから本当にSweetsをよく食べる。小さなケーキ屋の前で立ち止まっては、これはおばあちゃんが作ってくれたとかクリスマスに食べたなどと言いながらショウウインドウを覗き込みスーッとお店に吸い込まれていってしまう。チョコレートを塗ったそば粉のクレープを買って女子中学生のような顔で食べながらトロトロとわたしの後ろを歩く彼は、ひょっとしたら内股になっているのではないかと想像だけしてひとりにやにやと笑った。

夕方になるとお店はパッタリと閉まる。この辺りは土日は町の住民全員がお休みといったかんじ。ゴッホの描いたカフェもすぐに見つけたけれど営業していなかった。町の中心の大きな通りが通行止めになっていて人だかりができているので何事かと看板を見ると牛のイラストが描かれている。嫌な予感がして心臓が震えた。この町は伝統的な闘牛や牛追い祭りが名物だと聞いた。が、何も起こらなかった。二頭の馬に人間が跨り、その間を子牛が走って、その後ろを子供達が走っているという意味不明なものが通り過ぎただけだった。ほっとしたもののその後目にしたポスターには来月の牛追い祭りの告知が書かれていた。勇敢な者が参加するなどと言われているが、ひたすら怯えた牛の目を見れば精神的な弱い物イジメにしか見えない。

ともあれここは過去と夢の中に吸い込まれていってしまうような魅力のある町だ。


2006年03月10日(金) あっさり、すっかり。。。

笑わないでください。泣き疲れてそのまま寝て、起きてみたらすっかり立ち直ってしまってすごく元気です。別れには「別れの予感」というものがあるでしょう、普通は。それがわたしには全く逆、スタートとすら感じていたのだから驚くばかりでした。人間、あまりにも大きなショックを受けてしまうと逆に全てどうでもよくなってしまうものなのですね(笑)。昨日は未来のヴィジョンがまっさらだと言ったけれど、冷静になってみれば幸か不幸か、いやでずっと逃げてきたけれど、いつか1年くらい日本に腰を落ち着けてやらなければと思っていたことがある。とりあえずそれを片付けよう。

夜にトラムに乗って先日見つけた小さなベジタリアン・カフェに行った。金曜の夜とは思えない静かな空間で、頬のこけた神経質そうな表情の人々がもそもそと食事をしている。マーティンはやばいところに足を踏みいれてしまったとおどおどして、自分も頬のこけた表情を作ってわたしを笑わせる。するとまた彼らが神経質そうに眉をひそめてわたしを見るというちょっと不気味な空気が流れていた。健康的に丸いベジタリアンのわたし達はかなり浮いていた。ともあれ店員はノーマルで食事はなかなか美味しかった。

寒さに凍えながら帰りのトラムを待っていると、黒人女性が寄ってきて「ねぇ、よかったらわたしのコート着ない?あなた本当に寒そうよ」と言ってくれた。つい日本人の遠慮癖で丁重に断ってしまったけれど有り難かった。昨日はもう二度とここにはこないなんて思ったけど、思い直した。友達とあかの他人の境目のあまいこの町の雰囲気が大好きです。


2006年03月09日(木) リハビリテーション

朝になるときちんと目を覚ましてしまうことに失望してしまう。けれどこの大きな物体がわたしの生活から消えてしまうなど実感が沸かないほどいつもと同じ朝がある。窓を開けて車に乗り込むマーティンに手を振って。

お互いが移民で生活が不安定だった3年半。悩んで悩んでやっと見つけ出した未来のビジョン。一緒にいることを前提にしたものだったから、今は自分の未来に何も見えなくてただただ過去にしがみついて足が竦んでしまっている。

帰国している間に友人・知人からよくマーティンに会えなくて淋しいでしょうと言われました。けれどわたしは別にそうでもないと答えました。ある人はちょっとひきつった表情をしてそういうクールな関係なのね、、、と言いました。簡潔に説明がつかないので黙っていたけれど、本当はクールなんかじゃありませんでした。わたし達は一日起きたつまらない出来事をいちいち報告しあっていました。わたしがどこで何をしていてもわたしの存在を認識してくれている人がいるという安心でしっかり繋がっているような気がしていたのです。他人の理解を得ることは難しいですね。いつもいつもこんな風に勘違いされて生きてきたように思います(あっ、もちろん他人のせいではありません)。

日中はひとりでぼんやりとわたしのPCに詰った写真をスライドショーで流して眺めていました。マーティンと知り合う前のわたしも楽しそうに笑っていました。きっとわたしは大丈夫と一瞬少しだけ勇気を得ました。

さて、これからは自分でドアを開けなければいけません。道路を渡る時の左右確認も。階段を登るときはしっかり手すりにつかまって。風が冷たい時は自分で風の来ない場所を探さなくては。よし、リハビリだ!とドアの前で小走りになって勢いよくノブを引きました。ん?開かない。「ミケリーナ、何やってるの?そこは倉庫だよ」と言われました。

夜に赤ワインやサラダやケーキを買ってベッドの上に広げてピクニックをしました。思い出話をして二人して沢山泣きました。わたし達の幸せな過去を未来に繋げることができなかった無念をこめて本当に沢山。


2006年03月08日(水) 終焉

これを読んでくれている人を驚かせてしまうかもしれません。
わたし自身が一番驚いています。
マーティンと別れることになりました。
ここモンペリエでケンカしたとかではありません。
ただタイミングやきっかけがこの旅行にあったというだけで、
遅かれ早かれそうなっていたのかもしれません。

わたしの内側はこの日記のタイトル通りなのです。
信頼して心を開ける人間が現れて、暖かい場所を提供してくれれば、
喉をゴロゴロ鳴らしてそこに住み着いてしまうのです。
けれど、ミケリーナは僕ではなくこの生活を愛しているのではないか?
というのはYesでありNoでもあります。
確かにわたしはパースの青い空やスワンリバーを愛していましたが、
ひとりぼっちで見たらこんなに愛さなかったと思うのです。
モンペリエのこのホテルからの見える景色も今はモノクロに見えてしまう。

わたしが妊娠したかもしれないと言った次の日、
COMOの幼稚園の前で、僕らの子供はここに通うんだね
と言ってくれた嬉しそうな横顔をどうやったら忘れられるでしょう。
3年半の記憶を全部取り除いてくれる手術があればどんなに楽になれるでしょう。


2006年03月05日(日) Marseille

北風が吹き荒れる中、マルセイユへドライブ。天気がいいので車中から見る風景は穏やかに見えるが、1300のルノーが風にハンドルを取られている。不器用なマーティンの荒い運転と、わたしが見ているあまりにも大雑把な地図にハラハラしながら東へ東へ。ニームという味気ない街と、アルルというものすごい歴史の重みを感じる街を通り抜け、2時間でマルセイユに到着。想像の5倍くらい大きな都市で面食らう。下調べ不足だった。モンペリエでさえ運転するのが恐いというマーティンにこんなごみごみした都市を走らせるのは酷。なんとか渋滞を抜け、港にパークして車から降りて寒風に震え上がる。千葉の南房総をドライブする度に写真で見たニースやマルセイユを思ったが、実物もやっぱり似てる。南仏まで来る時間の無い人は、是非南房総へお出かけください。

街の密度を見ただけで疲れてしまったが、せっかくきたのだからと丘のてっぺんに目立っているノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院を見学することにした。街が一望できる展望台に立つも、海まで飛ばされて荒波にさらわれてしまうのではないかと本気で思うくらいの強風に煽られる。大の男達でさえまっすぐ歩けずよろよろと立ちすくんでしまっている。寒さと恐怖で車の中に戻った時は助かったと思った。

日曜でお店もパッタリ閉まっているのでさっさと帰ることにした。が、帰りはほんのちょっと違うハイウェイを通ったわたし達にまたまた恐怖が待っていた。あまりにも海に近いところに作られた箇所で、荒れ狂う波のしぶきを浴びて前が見えにくくなってしまうのだ。ハイウェイごと波に呑まれてしまうのではないかと思うくらい激しい。夜の海と荒れた海ほどわたしに恐怖を与えるものはない。寒さも苦手、風の強い日も嫌い。今日はもうダメかも。

やっとのことでモンペリエに着いたが、また道に迷う。この辺りの道は複雑で難しい。1時間近く彷徨いホテルが見えた時は二人ともぐったりだった。階下のレストランで熱いコーヒーを手にした時は安心のあまり泣きそうだった。

マルセイユの感想を話しあう。わたしはモンペリエのほうが好き。マルセイユは治安の悪そうな匂いがした。というとマーティンはいつものごとくそうか??と反対する。そりゃそうよ。だってスリや強盗はマーティンのようなガタイのいい男はあまり狙わないもの。スモールジャパニーズガールズにとっては治安の悪い街が沢山あるのよ。


2006年03月04日(土) 迷路の中

読書しながらお疲れのマーティンが起きるのを待つ。早くどこかに行きたいな。ミケはいつもこんな気持ちでわたしが目を開けて魚缶の蓋に手をかけるのを待っているに違いない。

午後にやっとホテルを出る。トラムに乗ってモンペリエの中心街の裏手で下車。巨大な教会と大学が一体となった建物を目指して迷路のような細い路地をくぐり抜ける。ヨーロッパに住んでいると高い建物は目立つから、それが視界に入ってしまうと近いような気がして、ひたすらそれを目指して歩いてしまうから太る暇もなかったとマーティンが言う。いくら歩いても一向に進んでいないように感じるオーストラリアとは距離感覚がすごく違う。

途中でアップルシュトルーデルやベトナミーズのライスペーパーで包んだ揚げ春巻きを買ってエナジー補給をしながらひたすら石畳の迷路を彷徨う。町の中心のプラス・デゥ・ラ・コメディから延びる坂の裏手の迷路に来ると一揆に肌の色の濃い人が多くなる。石造りの小さなアパートメントの小さな窓枠から提がる撚れた洗濯物。家のドアの前の窪んだ桟に腰掛けてふざけあってる子供達。どこでも移民というのは街の中心のコジーな所で肩を寄せ合って、希望と絶望の中に哀愁のような物を漂わせて暮らしているものなのだなぁ。

気付いたら休憩もせずに3時間以上歩いていた。


2006年03月03日(金) 贅沢の探求

マーティンの同僚達と本格フレンチレストランの贅沢ランチへ。メニューを読めないわたしとマーティンとサムの英語組は10人の仏語組にこんな物が食べたいとイメージだけ伝えて選んでもらう。わたしが「出来ればヴェジタリアンで」と言うと仏語組はざわめき始める。何を言っているのか解らないが、恐らく"ヴェジタリアン"という言葉は彼らの辞書になかったのではないかと思う。すっかり体調の回復した若いオージーのサムは"Steak and Chips and Chocolate cake!"と言い放った(笑)。

アペリティフに甘いワインをグラスに軽く1,2杯飲んでオントレー、メイン、デザートとたっぷり時間をかけて進む。誰一人として時計など見ない。これが仕事中のランチなのか?とこの国の豊かさと母国の時間の貧しさを思い知る。料理はどれも感嘆するほど美味しいと思わないが、上品な量と味でお金さえ続けば毎日でもいいかなと思うくらい健康的。ここでデブを見つけることが難しい理由がよくわかる。見た目はもちろんすごい。凝りすぎていて美味しそうとかいう次元ではない。

壁にかけられている数枚の油彩画のひとつに背景が真っ赤に塗られ、その前景に矢を沢山突刺され、前脚を大きく跳ね上げている牛の絵がある。牛追い祭りや闘牛はわたしにとっては地獄の光景だ。血に染まるものをアーティスティックだなんて思ったことは一度もなくて、ましてや食事中に見たいものではない。「わたしはあれが大嫌い」とその絵に目をやって呟くと、隣で美食に舌鼓を打っていたマーティンが「僕も嫌い。あれはアホだ。」と一言返してくれたことに少し救われた。

結局ランチにかけた時間2時間半。午後3時近くにのんびりとオフィスに戻っていった。ホテルへの車中で日本では考えられないよ〜と言ったらマーティンとアーノルドが口を揃えて「人生は楽しむ為にあるんだ。」と断言した。フランス人は気難しいとか陰気だとかいうのはもっと北の天気の悪いところの話だったのかもしれない。年間300日は晴天だというこの辺りの人間には全くそんな雰囲気が無い。フランス人は英語を(出来るのに)喋らないという噂もここではちょっと違うかな。本当にあまり出来ないみたい。夜に行ったレストランのレジでサムが英語で喋り、店員がフランス語で返してそのままなんとなく解りあって二人でうんうんと頷いていた。そんな場面にはジム・ジャームッシュ映画のような空気が流れていて、腹の底からゆっくりと静かな笑いがこみあげてくる。

(写真:ペルー公園内にある建物。何だろう?)


2006年03月02日(木) Place de la Comedie

熟睡して目覚めもすっきり。ホテルで朝食を摂ってから必要な物を買いにカルフールへ。ただの庶民のスーパーマーケットだと認識していたのに、やはりフランスは食がすごい。ずらりと並ぶバラエティに富んだ惣菜の美味しそうなことよ。マーティンはスパークリングミネラルウォーターを1ダース買った。いつになく自然でのびのびしているような彼を見て、あなたはやっぱりこの辺りから来た人なのね、と実感した。そう本人に言うと、毎日スパークリングミネラルウォーターを1.5リットル飲んでるから体の調子がいいだけだよと言う。そんな話をしながら車を走らせているとキャンベラオフィスから一緒にきているサムが死にそうな顔で会社に向かって歩いているのが見えた。彼は生粋オージー気質で、生れてこのかたキャンベラを出たことも出たいと思ったこともなくて、ただでさえもう帰りたくて仕方がないのに、更に風邪をこじらせて心身共に滅入っているらしい。

ランチタイムにホテルに戻ってきたマーティンとトラムに乗ってモンペリエの中心プラス・ドゥ・ラ・コメディへ。街の概要をざっと説明し、マーティンは仕事に戻った。わたしは迷路のような細い路地を散策し、歴史ある町並に反してモダンで小さなお店を眺めて、ランチに沢山の野菜が入ったキッシュとコーヒーを摂り、古い水道橋まで坂を登り詰めた。天気はいいけれど北風が冷たい。背後を歩いていた浅黒い中東と白人のミックスのような顔をした見た目のいい若い男が"Do you speak English?"と話しかけてきた。自分はカナディアンで仕事はITエンジニアでヨーロッパを旅行しているなどと話す。最初は英語の通じないこの町で淋しかったのかと思って聞いていたが、どうも英語が怪しい。カナダ生まれのカナダ育ちでその職を得て、その奇妙な英語はないだろうと思った。自分の写真を撮ってくれと渡されたカメラなどフィルムを入れて撮る昔々の安そうなもの。悪党には見えなかったが化かされているような気持ちになって、わたしはここで、じゃぁね、と細路地へ入った。路地を歩くだけでロマンティックな気持ちになるこんな南仏の町には小さなまやかしがよく似合うように思う。しかし、フランス人は気難しい、ツンとすましているなどというイメージはどこかへ飛んでいってしまった。みんな気さくでニコニコして素朴な感じ。メルシー!と何度も繰り返し、またトラムに乗って引き返した。わたしはトラムのある町が好き。乗り込むのに階段の上り下りのような段差がなくて快適だし、渋滞にはまらないし。東京ももっと自動車用の道路を削ってレールを敷いてトラムを走らせればいいのに。人口が多すぎて、順番待ちしなければならないサンフランシスコのトラムのようになってしまうのかしら、、。


2006年03月01日(水) Boujour Montpellier!!

ぐっすりと寝てすっきりと目を覚ましカーテンを開けると窓の外は雨。昨日キャミソール一枚でここまで飛んできたことが夢だったかのように、葉っぱを全部落とした裸の木々が凍えるように佇んでいる。レストランに降りてビュッフェの朝食を。ごはんとお味噌汁、漬物に湯豆腐。あぁ、幸せ。

昼前にパリへ向けて出発。恐怖の13時間フライトのはじまり。大酒飲みで日本びいきのフレンチビジネスマンと控えめな関西人の男子学生に挟まれて、ものすごい圧迫感の中で赤ワインを飲みひたすら時間を潰した。今日のベジミールは昨日と打って変わってとてもいい。関西人に「あのぉ、ベジミールのほうが美味しいからそれをたのんでるんですか?それとも本物のベジタリアンですか?」と聞かれてしまった。本物よぉ!と答えたら、もっと何か聞きたそうにしていた。すごく素敵な映画との出会いもあった。"Always"という邦画。昭和33年、戦後の日本。着々と進む東京タワーの建設と平行して、どんどん豊かさを手に入れていくその下町の庶民の暮らしぶり。素朴な子供達、隣家どころか町中が家族のような人々の情深さ、嵐は去って平穏を取り戻し、人々の心に夢と希望が芽生え始めた、日本が一番幸せだった頃のお話。

さて、やっとのことで雪がちらつくパリが見えてきて、シャルルドゴール空港に到着。かねがね耳にするフランス人は冷徹という風評に覚悟して挑んだが、わたしは運がいいのか、それとも重い荷物を抱えて言葉もできない相当憐れな佇まいだったのか(笑)、人々はとても親切で、強いフレンチアクセントの英語でドメスティックラインの乗り場まで誘導してくれた。乗り換えまで2時間。ひたすらベンチに座って人々を眺めた。顔も見た目も服のセンスもいい人々。目が合うとみんなにっこりと笑ってくれる。おすまし趣味というイメージはあっさり崩れ、この国の第一印象はなかなかいいものとなった。

ここからはエールフランス。これもまた悪評とは裏腹にアテンダントなどすごく親切。たったの1時間フライトなのにライトミールがでる。卵のサンドイッチと真ん中に生チョコが入ったガトーショコラ。熱いコーヒーと一緒に流し込んだら少し疲れが取れたような気がした。

フライトもラゲッジも全て無事、モンペリエに到着。ものすごい疲労の中に沸沸と湧き上がる達成感とともに出口を抜けるとマーティンとフランス支社の同僚のアーノルドが待っていた。会社があてがってくれているという黒いルノーに乗り込みホテルに向かった。避暑地の小さなペンションのような宿に辿り着き、荷物を降ろし、すごい勢いで深い眠りに落ちた。

(写真:ホテルからの景観。夏はもっと美しいのかも)


Michelina |MAIL