My life as a cat
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2003年11月30日(日) 初泳ぎ&フライドマッシュルーム

夏がすぐそこまで来ているようなので初泳ぎにでかけた。今日の波はいつも以上に大きかったので、わたしは沢山人がいるコテスロービーチで泳ぎたかったがマーティンが「子供と一緒には泳げない」というので隣のスワンボンビーチへ。確かに人は少ないけど、波に飲まれたら誰も助けてくれないだろうと思うと恐い。波打際でちょっと遊んで帰ることにした。

夜にマーティンがフライドマッシュルームを作った。巨大なマッシュルームにパン粉をつけて揚げるだなのだけれど肉厚で歯ごたえとまろやかな香りがたまらない。彼は余った卵と小麦粉をミックスして丸め、これもパン粉をつけて揚げていた。これをスープに入れたりして使うそうだ。結局捨てるものは何も無い。彼は料理など滅多にしないけれどこういうことが普通に身についているのがお国柄を感じさせる。


2003年11月28日(金) 過酷なサイクリング

運動不足解消のためにサイクリングに出かけた。30分くらいかけてシティへ行き、バブルティを飲んで休憩して引き返すというのがいつものパターン。行きは風もなくスイスイ進んで、あっさりシティに着いた。

いつものお店で休憩しているとマレーシア人の男友達アレックスが中国系の女の子と一緒に歩いて来た。彼に会うのは半年ぶり以上。「わー久しぶり」と言いながら近況を話し、そして彼の連れにも"Hello"と言うとツンと横を向かれた。不穏な空気が流れていた。小さな声で彼に"GF?"と聞くと首を横にふる。ただの友達だという。そのうち彼が「昼ごはん食べた?良かったら一緒にどう?」などと言い出したが、その背後にある彼女のつり上がった目を見てしまい遠慮した。その後歩いていたら無言で昼ごはんを食べている彼らを見かけた。よく喋るアレックスが女の子と向き合って無言だなんてただごとならぬ事でもあったのかと人事ながらドキドキした。

そして帰りは地獄だった。パースは午後から風が強くなる。しかも向かい風。半分きたところでばててしまった。強い陽射しに照り付けられ、心身共に疲弊してとてもネガティブな感情が沸いてきた。「あぁもうわたしは若くないんだ」「どうしてこんなに体力ないんだろう」などなど。同じようにサイクリングやジョギングをしている欧米人はたくさんいてどんどん抜かされていく。しまいには「あぁわたしはサイクリングもろくにまっとうできない駄目人間だ」とまで思ってしまった。←かなりイカれている。けれどそれくらい疲弊していたのだ。家の屋根が見えたときには安堵のあまり泣きそうだった。

勉強になった。パースの風を甘く見てはいけない。


2003年11月27日(木) 初夏の陽気

ヘルシーな生活を取り戻すべく朝のキングス・パークを散歩した。初夏のような陽気だったので日焼けしようと水着で横たわっている若者達やピクニックに来ている家族、観光客で賑わっていた。広い広い公園内をゆっくり散歩して、喉が渇いたのでシティに下りた。

セント・ジョージ・テラスのアイリッシュコーヒーも置いていない名前だけのアイリッシュカフェで、ビジネスマンに混じっていかにもピクニック帰りという恰好でコーヒーとベーグルサンドをオーダーしてだらだら本を読んだ。

帰りのバスを待ってベンチに座っていると老人が通り過ぎて行き、その数分後わざわざ引き返してきて話しかけてきた。天気がいいねとかそんな感じで。そしてわたしのバスが来て同じバスに乗り込んだ。ドライバーに「すぐそこまで」と行き先を告げているのを見て、さっきから沢山バスが通り過ぎたのにどうして乗らなかったんだろう。わざわざわたしと同じバスに乗ってきたのか?怪しい人なのか?とちょっと疑って、隣に座られないように二人がけのシートの既に人がいる脇を選んで座った。2,3個バス停を過ぎたところで老人が降りた。見ていたら振り返ってわたしに向かってずっと手を振っていた。喋る相手が欲しかっただけなのかもしれない。自分だっていつか若い人と喋りたくてもなかなかきっかけのつかめない孤独な老人になるかもしれない。そう思ったら急に胸が締め付けられて、後悔の念に囚われた。


2003年11月25日(火) 助け合う鯨達

タスマニアの浜辺で100頭以上の鯨が死んでいるのが見つかった。原因は群で行動する彼らが単純に一頭についていってしまったのか浜辺に上がってしまった鯨を助けようとして次々と打ち上げられてしまったのかという説もあるがはっきりと解明されていないらしい。鯨やイルカはとても情深い生き物で網にかかってしまった仲間を置いて逃げたりするようなことはないとどこかで読んだことがある。一頭が漁師に捕まっても即座に逃げず死んでしまった仲間の周りでうろたえているんだそうだ。動物は無垢だ。何かに盲目になって自分の命を擲ってしまう。彼らは傷つけあう人間達よりもよほど幸せな生き物なのかもしれない。


2003年11月24日(月) 水道から泥水が出た

夜に突然水が出なくなった。水が出ないと不便なものでノース・ブリッジにお茶をしに出かけた。遅い時間のお茶はいつもヴェトナム料理屋さんで春巻きをつまみながら喉にへばりつくような甘いコンデンスミルク入りのコーヒーを飲む。

「いつも自分の好きなことだけして生計をたてられたらいいね」という話で盛り上がり、二人で夢見心地で家路に着いた。

水道を捻ると泥水がガンガンでてくる。工事するなら一言くらい言ってくれないんだろうか、ここは。この泥水を知らずに飲んでしまう人がいるだろうに。とブツブツ言いながら自分は日本人だと実感した。


2003年11月21日(金) 鱒の夕飯

わたしがいない間にマーティンは魚を買い込み、犬が骨を地中に埋めるように冷凍庫に大事にしまって、たまに取り出しては嬉しそうに見せてくれた。鱒だった。内陸部育ちの彼は魚が大好きだったけれど肉の三倍もの値段だった為あまり食べられなかったし、新鮮なものも手に入らなかったけれど、子供の頃小さな川で鱒を捕まえて食べた記憶があるという。大事に大事にしまってあるのはいいけれど「早く食べないと冷凍庫の匂いがついて味が落ちるよ」とわたしに忠告され、今日やっと作ることにしたらしい。

ポテトの皮を剥き、塩を入れたお湯でボイルし、完全に茹で上がらないうちに水から上げ、ざっくりカット。鱒をプレートに置きその周りにポテトを置き、バターを乗せて塩とクミンシードを振り、オーブンで焼く。これでお終い。

大きな真っ白いプレートに魚とポテトを盛り付ける。魚からでた油がバターと交じり合っていい具合にポテトに絡んでいる。マーティンはきれいに骨を除きあっという間に平らげたが、わたしはポテトでお腹が膨れて半分も食べられなかった。残った魚をミケにあげるとガツガツ食べていたけれど、ですぐに満腹になったのか半分残してまたすぐに外に遊びに行ってしまった。

マーティンも食べ終わるとさっさと友達と飲みに行ってしまったので、今夜は一人で本でも読んでおとなしく過ごそう。仕事をしなくなってからめっきり金曜日の夕方に心はやることがなくなった。何をするわけでもなかったがちょっとあのそわそわ感がないのが淋しい。


2003年11月18日(火) 待ちに待った給料日

とはマーティンのお話。彼の部署の事務係はスゴイ。会社がスゴイのか彼女がスゴイのかわからないけれど日本人のわたしから見たら尋常ではない。三回分も彼に給料を払っていなかったのだ。わたしが日本に帰国する前から「今日こそ給料が入る」と毎日にように言っていたのに会社の手違い(事務係の手違い)でたらいまわしにされ、彼に支払われるはずの給料の明細書がどこにあるのかわからない状態になっていた。結局二回目の給料日に滞納された分も含めて支払われると言っていたのに、またもや明細書を失くされ、そして今日三回目の給料日。やっと彼は三回分の給料を手にした。信じられない。わたしだったらカンカンに怒るだろうけど彼は全然怒っていない。「あ〜嬉しいな!やっと来た。どこかに食べに行ってワインを飲もうよ!」などと呑気に喜んでいる。以前働いていた会社もこんな風だった。いつも給料日にパソコン上で給料チェックをしては「あぁ今月も入ってない」とがっかりし、事務係に聞いては会社中たらいまわしになっていた。彼だけがこういう目にあっているわけではないらしいが誰もキレたりしないらしい。こちらの日系企業が事務係にオージー女性ではなく日本人女性を使いたがるというのはきっと本当だ。


2003年11月16日(日) カレーライスの日曜日

深い眠りについたので目覚めは絶好調。外はいい天気。クラッカーとチーズ、そしてマーティンが一度買っただけで何故かわたしの大好物だと勘違いして沢山買っておいてくれたヤクルトを飲んで、外へ繰り出した。スカボロービーチまででてインド洋の海岸線をフリーマントルまでドライブ。もうビーチには沢山の人がでていて飲んで、泳いで、騒いでと典型オージーライフを楽しんでいる。

フリーマントルもすでにヨーロッパからの観光客らしき人々で賑わっていた。旬の桃やダークチェリーを沢山買い込んで家路についた。

夜はマーティンがジャパニーズカレー作るというのでわたしはご飯を炊くことにした。ワインを片手に音楽に乗ってボンボン野菜をきっては放り込む。ブロッコリー、ポテト、オニオン、マッシュルーム、人参、隠し味にダークチョコレート、ブルドックソース、醤油、ミルク。野菜を沢山入れ殆ど野菜から出る汁で野菜を煮る。最後にほんの少しだけカレーのルーを溶かして出来上がり。うん、おいしい。野菜の味がカレーの味に消えてしまっていない。日本の家庭で食べられる市販のルーで作るカレーとはとても違うのでジャパニーズカレーとは言い難いけれどわたしはこっちのほうが好き。

食後に赤ワインを飲みながら「火垂の墓」を鑑賞。サクマドロップは亡くなった祖母がいつも持っていてわたしはコーヒー味とミルク味しか食べなくて、残ったフルーツ味のものはいつも溶けて底にくっついていた。セツコが死んでしまう間際に意識朦朧とビー球をサクマドロップと錯覚し口に入れるのが哀しくて、フルーツ味を底にくつけてしまったことを申し訳なく思った。飽食の時代に育ったわたしは飢えなど一度も経験したことがない。けれど豊かさと引き換えのようにきれいな蛍を見ることはなくなってしまった。どこへいってしまったんだろう。


2003年11月15日(土) 空から見た宝石

一人暮らしをしていた時に買い集め、実家の押入れで眠っていた陶器をせっかくなのでパースに持っていこうと思って詰め込んだらものすごい重さになってしまった。それを見かねて成田まで送ってくれるという妹と、検疫で荷物を開けられたら怪しまれるのではないかとちゃんとうまい言い訳も用意して、早朝家をでて成田へ向かった。

千葉駅から成田への電車から見える田舎の風景も空港の雰囲気もとても好き。既に楽しい旅行ははじまっている。土曜日の空港は忙しくて、妹とクロワッサンエクスプレスでコーヒーでも飲んでいこうと言っていたのにすぐにお別れとなった。わたしが見えなくなるギリギリのところまで追いかけてきて手を振る妹を見てつくづく姉妹でもタイプが違うよなと思った。

シンガポール航空の機内で席に着くなり眠ってしまった。起きて赤ワインを飲み、また眠っての繰り返し。そのうちにヴェジタリアンミールが運ばれてきた。フェタチーズとほうれん草のラザーニャやグリルした野菜が入っていて機内食にしては上出来。隣の座席には人懐っこいシンガポール人の女性が座っていて起きてはあれこれと喋った。「パースの帰りにシンガポールに寄るなら電話してくれれば案内するからね」と言って連絡先も教えてくれた。

ガラスの向こうは雨季でじめじめしているだろうシンガポール空港に降りて、彼女と別れて一人乗り換えのゲートに向かった。ひたすら座って時間が過ぎるのを待っていると中国系の50代くらいの女性が近寄ってきた。彼女はマレーシア人で同じくマレーシア人と結婚しパースに6年前に移り住んで永住権も持っていると英語で話していた。が、読み書きが全く出来なくて入国カードが書けないのだと言う。「じゃぁわたしが書きましょうか?」と言うと嬉しそうにペンと入国カードを差し出してきた。読んで質問し答えを書き込む。日本人のわたしには理解し難いのだけれど英語圏に住んでいても中国人コミュニティは大きいので彼女達は一切英語ができなくとも生きられてしまう。

シンガポールからパースへは約5時間。また赤ワインを飲んでうとうと眠ってを繰り返した。もうすぐ日付が変わる頃やっとパースの街が見えてきた。パースの夜の上空を飛んでも真っ暗なのではないかと思いこんでいたけれどそんなことはない。空から宝石を見ているようだった。着陸するとマーティンがいつも小さな男の子のような顔でサンドイッチを食べながら、夢中で行き交う飛行機を見ている展望台が見えて心がはやった。

イミグレーションでは質問攻めにあったもののなんとか通過し、たった2ヶ月で5kgも痩せてしまったマーティンに再会。家に着くと反対に丸々太ったミケが喉をゴロゴロ鳴らして迎えてくれた。お願いした通り家中ピカピカに磨いて、冷蔵庫には色々な種類のチーズを用意してくれていた。スーツケースから沢山の陶器をだすと驚かれ、「君はまるでヨーロッパの老人みたいだ」と言われた。彼のお祖母ちゃんも沢山食器を集めてそれを毎日「綺麗だ」と言って眺めながら亡くなって行ったらしい。「君は陶器キチガイだ。空港でスーツケース開けさせられたら怪しまれるよ。何て説明するつもりだったの?」と言われたので「わたしの友達は陶器キチガイで日本から持ってきてとしつこくお願いされたので彼にあげるのだって言おうと思ってたよ」と答えるとニヤニヤと笑っていた。


2003年11月14日(金) 行ってきます!

またまたテレビの前でYEEEEES!!!と大喜び。あの強豪キューバに日本が勝った。キューバは男女共にとてもバネが強くものすごいジャンプ力でスパイクを打ってくるし、レシーブも強く手強く拾う。接戦だったが日本が勝った。明日は対中国。中国は今大会では一敗もしていない。わたしは実は高さもあまりない中国だけれど日本にとっては一番の強敵になるのではないかと思う。高さで勝負してくるアメリカ、イタリア、ポーランドなどの欧米チームよりも高さはなくとも粘り強さと巧妙な技を持つアジアのチームのほうが日本にとっては恐い相手なのではないかと思う。あぁ見たかった。なんで明日の飛行機のチケットを取ってしまったのだと後悔したけれど何はともあれ明朝パースに向かう。行ってきます!


2003年11月13日(木) 大麻を食べる

ベジッ子の集いということでMihoさんShizuさんKaoringoさんと下北沢にある「
」というレストランで大麻料理にトライしてみることになり、久々に東京へ繰り出した。

待ち合わせの下北沢に早めに着いたので一人で周辺をぶらぶらと散歩した。ここには学生の頃の思い出が詰っている。居酒屋、古着屋、ライブハウス、、、なつかしい。すっかり変わってしまっているのではないかと思っていたのに、当時ひやかした古着屋さんが残っていたりして少し嬉しくなった。

先に着いたKaoringoさんとShizuさんとお茶を飲んで、Mihoさんも合流し楽しみにしていた麻料理にトライ。自然食とうたうだけあって、「ヴェジタリアンなんです」の一言で「卵は大丈夫ですか?魚の出汁はどうですか?」と気を使ってくれた。サラダ、中東風コロッケ、麻の実春巻き、麻の実豆腐、カレー、麻の実ミルクなどどれを食べてもおいしい。麻の実を主役で食べるというよりは胡麻などのようにちょっと香ばしさをプラスしたりするのに使っているようだ。味付けも薄味で野菜やハーブの本来の味が活きていてとても良い。これは普及してほしい食材だ。

あっというまにわたしは帰らなければいけない時間になってしまい、一人駅に向かった。


2003年11月12日(水) 飛行機のミールリクエスト

先日使ったカンタス航空ではミールリクエストをするのが遅かった為ヴェジタリアンミールにありつけなかった。今週の土曜日に使うシンガポール航空こそはと旅行会社に電話を入れた。「ヴェジタリアンミールリクエストしたいのですが」というと「卵と乳製品は大丈夫ですか?」と聞かれ、「はい」と答えると「それでは3つの中から選んでください」とインド料理、オリエンタル料理、ウエスタン料理と3つの選択肢を与えてくれた。すごい!ノンベジには魚か肉かという選択肢しかないのに。さすがシンガポール航空。土曜日は一日中飛行機の中でシンガポール乗換えなので、成田〜シンガポール間をウエスタン、シンガポール〜パース間をオリエンタルにしてもらった。シンガポール航空はハーゲンダッツのアイスクリームも出してくれる!「今だったらカラメルプディング味かな〜」と言ったら妹に「あり得ない。バニラかストロベリーだね」と撃沈され、「成田のクロワッサンエクスプレスでクロワッサン食べてから行こうっと」と言うと「そんな朝早く開かないよ。開いてるのはマック」とまたもや撃沈された。


2003年11月11日(火) 赤い傘

こんな風にシトシトと弱い雨が降り続く一日を味わうのは本当に久しぶりだ。パースにはこんな日はない。傘を持っていない人が多いらしい。雨ばかりだと嫌になるけど、久々の雨の日は情緒があって良い。雨の日の何気ない出来事は印象深い。

今日は歯医者に行かなければならなかったのでついでにちょっと100円ショップを覗いてみた。マーティンが日本に来た時これを見せるべきだったといまさら少し後悔した。この低コスト、大量生産、大量消費という3拍子はすごくアジアっぽい。次回(あるとは思えないが)は是非ジャーマンボーイに見せよう。

歯医者に行くために歯を念入りに磨いてきたのにあまりにもの寒さに温かい缶コーヒーを買って飲んでしまった。

歯医者が終って図書館に行った。雨足が強まってきた。車のトランクに確かお気に入りの赤い傘を積んでいなかっただろうか。あった。6年前に一目惚れして買った傘なのに数えるほどしか使っていない。次に使うのはいつになるんだろう。


2003年11月09日(日) Kitchen

このところ家族の帰りが遅いので夕方お腹が空くとキッチンで簡単なものを作っている。でもわたしは一度この家を出て行ってしまった身だからここはやはり母のキッチン。どこに何があるのかいまいちわからなくて落ち着く空間ではない。今日はローズマリーブレッドを作ることにした。小麦粉と卵とベーキングパウダーと水と塩と砂糖、そしてローズマリーを入れて練って焼くだけ。オーブンに入れると軋むようなすごい音がしてきた。このオーブンは20年くらい前に我が家に来たもので子供の頃から料理好きだったわたしが色々な物を焼いた思い出の品。もう寿命なのかな。爆発するかもと思い、猫をキッチンから追い出し自分も隣の部屋に非難してオーストラリアの歴史の本の続きを読みながら焼けるのを待った。6万年前のアボリジニ達の食事は後に来たイギリス人よりも変化に富んでいたそうだ。頭の中は完全に6万年前のオーストラリアにタイムスリップしていたがチンという音で現実に戻った。恐る恐る扉を開けてみると無事に焼きあがっていた。アツアツのハーブブレッドにバターをたっぷりつけて腹ごしらえして湯船に浸かってボーっとしていたら家族が帰ってきた。一人のキッチンは寒いけれどみんな揃うと温かい。


2003年11月08日(土) やったストレート勝ち!

ワールドカップ女子バレー、日本はトルコにストレート勝ち。今日の日本はわたしが出したコマンドをそのまま他の人間がプレイしているかのような動きで気分爽快。高さのあるトルコに対して時間差やクイックを使ってブロックを完全に外しすようなプレーが沢山でた。思いのほかトルコの猛アタックも拾っていた。もう少しで3セット取って勝ちだ!と盛り上がっていたら電話が鳴って思わずでてしまった。マーティンからだった。あぁなんてタイミングが悪いんだろう。けれどわざわざ国際電話をしてくれていると思うと「後でかけて」とも言えない。上の空で会話をして神経は完全にテレビに釘付け。そういえば男子の部も見たかったのに、ちょうどその頃にはパースにいると思い出した。あぁまたまたなんて間の悪い!と思っていたら「パースに帰ってこれて幸せ?」と嬉しそうに聞かれてしまい思わず"so so"と答えてしまった。


2003年11月06日(木) 6万年前のオーストラリア大陸

オーストラリアの歴史の本を読んでいる。アボリジニがアジアから小さな筏で漕ぎつけオーストラリア大陸を発見し移り住んでゆくところから始まる。

6 万年前、海の水面はもっと低くオーストラリアはもっともっと大きな大陸だった。タスマニアなどの島も含めてオーストラリアの全ての島は陸続きだった。パースにしても、今はシティから海までは車で15分もあれば行けるけれど、当時は何日も何日も歩かなければ着かない遥か向こうに海岸線があった。気候も今のように日中太陽の下で過ごせない程暑いことはなく、雪が降るところが沢山あった。ユーラシア大陸とオーストラリア大陸も今ほど遠くはなく筏で緩やかな流れの中インドネシア辺りからアボリジニ達が漕ぎつけオーストラリア大陸を発見した。この時アメリカ大陸でもまだヨーロピアンによって発見されていなかったので、事実アボリジニは世界初の大陸を発見した民族になる。そしてこの時カンガルーやタスマニアンデビルやワラビーなどの動物は既にこの大陸に生息していてアボリジニ達の貴重な食料となっていたようだ。これらの動物達が今まで種を絶やさずこれたのはオーストラリア大陸の孤立に起因しているという。

綺麗な空や水に恵まれた楽園のようなオーストラリアが脳裏に浮かぶ。できることなら6万年前のオーストラリアに行ってみたいと思いを馳せる。わたしが住んでいた西オーストラリアにはまだ手付かずの自然が残されているというけれど、それも年々破壊されていく。パースから400km南に向かうHWYの脇には森を切り開いて作られた農場が広がっている。ところどころ森は残っているけれど、野性のカンガルーやコアラや蛇が住めなくなり、渡り鳥も帰ってくる場所を完全に失う日は遠くない。


2003年11月05日(水) イタリアの攻めはすごかった

女子バレー日本対イタリア戦負けてしまった。今日はイタリアは随分フェイントをかけて穴を見つけてボールを落としていたがあれは絶対日本には拾って欲しいところだ。あぁいうのをしぶとく拾うところがアジアンのいいところではないか?明日は対アメリカ。頑張れ、ニッポン!


2003年11月04日(火) 気持ちのいい空気

日中はひんやりしてキレのいい空気がとても気持ちいい。ちょっと近所まで出かける用事があったので、薄手のウールのセーターとお気に入りのアクリルのスカート、素足でローファーを履いて出かけた。こんな日は芝生の上で裸足でバドミントンでもやりたい。用事を済ませ鼻歌を歌いながら帰ってきた。J-WAVEでタランティーノ監督のジャッキーブラウンのサントラを聴いてしまったから今日の鼻歌はそれしかでてこない。

夕方に歯医者から電話があって、先日とった型が不鮮明なのでもう一度来て欲しいという。また車に乗って鼻歌を歌いながら出かけた。我が家のかかりつけの歯医者は先生の趣味なのか助手が綺麗な人揃いなので父もお気に入り、先生もカッコよくて母もたまに「今日は先生がわたしにそっけなかった」などと不平を言ったりする。口を開けながらふと松田聖子を思い出し、よく恋愛初期段階で口の中まで見られて燃えあがるなぁと思った。


2003年11月01日(土) ネガティブな気持ち

家でテレビを見たり図書館で本を読んだりだけの生活をはじめて2ヶ月が過ぎようとしている。パースにいるときもやっていること自体は今と変りがないけれど、あちらは休暇で今は予定外のプータロという感じで心持ちは大きく違う。

以前働いていた会社は男性が圧倒的に多いところで彼らは細々した物の在り処をよく忘れた。だから仕事を休んだ次の日は「**どこにあるの?昨日みんなで探し回って大変だった〜」と言われたりしてそんな小さなことに自然と自分の存在価値を見出していた。けれど、今はわたしが一日中寝ていようとも社会はうまく廻っている。日曜日の夜のドラマで賀来千佳子が完璧に家事をこなす主婦の役を演じている。1円でも安く食品を手に入れる為に遠くのスーパーに自転車ででかけバランスよく30品目摂れるような食事を作る。けれど誰もそれをありがたがったりはしない。彼女が、「主婦の仕事なんてみんなやってあたりまえだと思ってる。誰もありがとうとは言ってくれない。いくら頑張ったって同じ」というセリフがあってなんだか自分のことのようにズキッときてしまった。わたしはキャリアウーマンタイプではないし、家でじっと本を読んでいるのも大好き、けれど人との接触が希薄になる生活の中で、こんな風に自分の存在価値を見出せなくなって落ち着かなくなってしまうこともある。


Michelina |MAIL