37.2℃の微熱
北端あおい



 四季

「生きていることが、どれだけ、私たちの重荷になっているか、どれだけ、自由を束縛しているか、わかっている?」
「生きていることが、自由を束縛している? それは、逆なんじゃない?」
「いいえ、生きなければならない、という思い込みが、人間の自由を奪っている根元です」
「でも、死んでしまったら、何もない。自由も何もないじゃないか」
「そう思う?」彼女は微笑んだ。
「だって、それは常識だろう?」
「常識だと思う?」
(森博嗣『四季 春』講談社、2004 )

「君はいったい何がしたいのかね?」
スワニィが押し殺した声で聞いた。
「私はただ、私の生を見たいだけ」
「生を見るとは、どういうことだ? 自分の人生ならば、誰でも見られると思うが」
「貴方が覗かれる顕微鏡の中に、貴方の生がありますか?」
「人間の神秘はあるよ」
「貴方の神秘は?」
スワニィは目を細め、難しい表情で止まった。
(『四季 冬』同上)

その問いに答えがないのは、わかっている。
生きてここに在ることは、大いなる矛盾だ。
だが、神にも等しい天才・真賀田四季は微笑んでいう。
その矛盾は綺麗だ、と。
「生き」ているという薄いガラスのような
足場の上に積み重ねられていく日々の出来事。
立っている場所はあまりにも脆弱で希薄で、奇跡的。
いつ崩れ去ってもおかしくはないというのに。
この、矛盾を多くの人はどうやってやりすごすのだろう。
例えば、世界があと5分後に消滅するとしても、不思議はないのだし、
同時に5分前に出現したのだとしても証明のしようはないのだ。
どちらでも違いは、ない。あってもわからない。
どちらであっても、なぜそうあるかのその理由も根拠もない。
ただ、終わらずに在る。

……いつか終わるだろうと思っての二十数年はさすがに長い。
それでもこの矛盾は綺麗なのでしょうか。

「永遠に対する希求でもなく
終わらないことに対してだけ
そう、
終わらない。
絶対に終わらない   でも

もう やめてよ   ねえ?」
(岡崎京子「終わらない」『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』平凡社、2004)

2004年07月28日(水)



 占い師

占いを生業としている人と会う機会があった。
生年月日を聞かれ、突然占われてしまう。
恋愛運と結婚について。

「恋愛」や「結婚」について占ってくださいと言った覚えはない。
ただ、自動的にそれらの項目を相手が選び、占ったのがとてもショックだった。
占いは十種類あれば、十通りの答えがでるもの。
科学のようにいつも答えはひとつというわけではない。
だから、そのように非常に曖昧なものを信じることはない。
信じる根拠を、わたしは持たない。
だから占いの結果がどうあれ、楽しむことはできる。
失恋するだろうといわれれば、必死で対応策を聞き出そうとしたり、いい出逢いがあるといわれれば、多少オーバーリアクションで喜んだりはできる。
そうしているふりでしかないのですけれど。
占いは、(根拠がないゆえに)しょせんエンターテイメントにしかならない。

今回、自動的にそれらの項目が選択されてしまった原因は、ひとえにわたしの身体、わたしが宿る「器」が「女性」であるということによるのだろう。
そして、それは占い師であるその人が、「女性」を占う場合はこういった選択でOKなのだ、と経験をつみ、そこから引き出された結果なのだ。
では、別の項目であればいい? 
たとえば、「仕事」運とか「人生」の総合運とか?

違う。
問題なのは、固定観念なのだ。
それに回収されたことにとてもとても違和感をおぼえてしまったのだった。

2004年07月23日(金)



 言葉の罠

その2

 わたしの言葉の中に、『のようなもの』だの、『とかいうもの』だのという単語が頻繁に出てくるようになった。文末は『かもしれない』で締めくくられた。紙に書くと、あらゆる単語をカギカッコでくくってしまうか、あらゆる単語の前に『わたしの言う』をつけなければ不安になる。わたしの言葉で言えばわたしはわたしの言う『天才』かもしれなかった。世間一般から見ればママにとってパパは『かれ』だったかも知れなかった。わたしと『まりかちゃん』はともだちなのかも知れなかった。日本は『しあわせ』なのかもしれなかった。
 わからない。
 もうなにもわからないのかも知れない。
 ほんとのものはなにもない。『ほんとのもの』があるだけだ。
(木地雅映子『氷の海のガレオン』講談社、1994)

言葉の罠に引っ掛かっている。

「あなたはどうしたいのだ」と、聞かれることがある。
でも、人は、対社会における「わたし」とか対家族の「わたし」とか、対友人Aや対友人Bの「わたし」とか、いくつもいくつもに分裂している。だから、なにをどうのこうのしたい、というまえにその主語である「あなた」が、それらのうちのどれを指しているか確定できないと、どう答えていいかわからなくてとまどってしまう。
「あなた」という言葉だけだとすごく曖昧で、中途半端なのです。
この「あなた」という言葉をどの時間と空間にリンクすればよいかわからないからです。
まずどうのこうのしたいの主語を決定することから考えないと相手が投げてくれた会話を返せないのです。
だから、「なになににおいてあなたは…」とか「これこれに対してあなたは…」といった言い方をして貰えると、フリーズしなくて済む。頭の中で必死に計算しなくて済むのです。
「あなた」という言葉に引っ掛からないで済むのです。
でなければ、「」でくくった言葉しか、理解できなくなっています。でも、こんな言い方を他人に要求する人っているんでしょうか?

でももしかしたら、「わたし」はそういう人「かもしれない」のでした。


その1

やったぁ! ついに恒常的に日記にログインできるまでには接続状態が復帰いたしました。
連休中、いじっていたかいがあったわ。
メールはかろうじてOKだったのだけれど、この日記帳はなかなかログインできなかったのだ。相性がわるいのではないだろうか!? と危惧していたけれど。
ということで、接続できる限りは書きます。

2004年07月22日(木)
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