月に舞う桜

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2020年09月02日(水) なぜかバス停でふいによみがえった記憶

先日、バス停でラポールの送迎バスを待っているとき、ふいに二十歳で亡くなった同級生を思い出した。
季節も、景色も、そのほか諸々も、彼女を思い出すようなトリガーは特に何もなかったのに、本当に唐突に、しかも本当に久しぶりに、思い出した。

「彼女の分まで生きなくては」なんてことを、私は言うつもりはないし、言いたくはない。
彼女の人生は彼女固有のもので、私の人生は私固有のものだから。
それに、彼女が生きていれば生きられるはずだった人生は、私が「彼女の分まで」とお手軽に言えるような、ちゃちなものではないだろう。

彼女は、20代、30代で得たかもしれない喜びや楽しみの数々を経験できなかった。そして、数々の災害や、広がっていく社会の格差や、コロナ禍などなどは知らずに済んだ。
悲しいとか、寂しいとか、羨ましいとかではなく、ただの事実として、そんなことをしみじみと思った。
人生は、1秒1秒が分岐点だ。彼女も私も、どこかで何かが少しでも違っていたら、人生が大きく変わっていたかもしれない。

よみがえった記憶がある。
彼女にお姫様抱っこされてお店の階段を下りたことがある(車椅子は、別の友人たちに抱えてもらった)。
でも、それがどこのお店で、いつの、どういう集まりだったかは、まったく思い出せない。みな、私服だった記憶があるので、プライベートな集まりだろう。
飲み会だったような気もするけれど、高校卒業以降に彼女も含めて大勢で集まったことなんて、あっただろうか。私たちは伸び伸びしつつも真面目な、ちゃんとした高校生だったので、高校時代に飲み会なんてものはしなかった。
あれは、飲み会ではなく、普通の食事会だったのだろうか。

思い出そうとしても、どうしても思い出せない。

私は、もう彼女の倍も生きてしまった。
その分、思い出は増え、忘れていく記憶も多い。
二十歳で亡くなった彼女は、全部鮮明に覚えていたかもしれないのに。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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