月に舞う桜

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2020年07月31日(金) 【本】村田沙耶香『マウス』

村田沙耶香『マウス』(講談社)読了。

それぞれのやり方で生き延びてきた少女二人が交わることで、一歩外に出て新たな生き延び方(世界との対峙の仕方)を互いに獲得していく話。
著者の作品独特のえげつなさや奇妙さが薄まっているので、『地球星人』や『生命式』のような強烈な世界観が苦手な人でも読みやすいかもしれない。

本来はノンフィクションより小説のほうが好きな私が、最近は心底面白いと思える小説に出会えなくて、ノンフィクションを読むことが多くなっていた。
でも、村田沙耶香に出会ったおかげで、夢中で読める小説が再び現れ、どっぷりつかることができている。
あと、この長編小説『マウス』を読んで、やっぱり私は、基本的には短編より長編小説のほうが好きだと再認識した。

「息抜きしなきゃいけないほど、息苦しい場所から、どうして出ようとしないの?」
「協調性って? 高いとえらいの? 協調するって、そんなにいいこと?」
「何で、私が私の性格を、誰かに許されなきゃいけないの」
(村田沙耶香『マウス』より)


2020年07月25日(土) 【本】マイケル・サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由』

マイケル・サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』(林芳紀・伊吹友秀 訳、ナカニシヤ出版)読了。

エンハンスメント※に批判的な立場での論考。論旨が非常に明快で、理解しやすい。
サンデルの主張全体が、努力至上主義と自己責任論への批判となっていて、共感できる。
また、サンデルの論に対して想定される批判を先取りしつつ、さらなる反論も試みていることにより、様々な考え方に触れることができて好ましいかった。

※エンハンスメント
健康の回復や維持のための医療を必要としない健常人に対して、遺伝子操作などの技術を用いて能力の増強や強化を施すこと。


2020年07月23日(木) 安楽死制度希望

私たちは、いつか必ず死ぬ。でも、よほど運が良くなければ即死や眠りの延長で死ぬことはできず、たいていは死に向かって長いあいだ苦しまなければならない。
みんな、安楽死制度がなくて怖くないのだろうか。

私は、将来大きな病気を患ったとき、病や治療の苦しみに耐えられないと思う。だから、大きな苦しみが訪れる前に生を終わらせたい。
耐えがたい苦痛が訪れてから検討を始めたり、私が感じる耐えがたい苦痛を「耐えがたい苦痛」かどうか他人に判定されたりする安楽死制度でさえ、まだ足りない。

〈安楽死した女性は「早く終わらせてしまいたい」「話し合いで死ぬ権利を認めてもらいたい。疲れ果てました」などと周囲に漏らしていた。〉
(シェアした記事より引用)

安楽死制度がないから、こういうことが起こる。

死にたい人の自殺を止めた人が、生き延びてしまった本人の意向に関わりなく行政から表彰される一方で、本人の希望を叶え、苦しみを取り除いた人が逮捕されてしまう。
なぜなんだ?

医療は、人の命を救うことより、人を救うことを第一義としてほしい。
人の命を救うことが尊いこととされ賞賛されるべきなのは、本人が命を救われることを望んでいた場合だ。
多くの場合、人は自分の命が救われることを望むので、それがいつなんどきも賞賛されることだと勘違いされている。
でも、必ずしも、命を救うこと(=本人の希望にかかわらず、何が何でも生き永らえさせる)が人を救うことになるとは限らない。

◆安楽死したALS患者女性の語った言葉とは 京都安楽死事件、医師2人逮捕(2020.7.23 京都新聞)
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/314374


2020年07月21日(火) 【本】村田沙耶香『授乳』

村田沙耶香『授乳』(講談社文庫)読了。

『コンビニ人間』と『生命式』で村田沙耶香の小説の世界観――生々しく、破壊的で、痛々しく、独特――に衝撃を受け、『地球星人』で完全にハマった。
次は何を読もうか迷ったあげく、出版順に読んでいくことにした。
そんなわけで、デビュー作の中編集。
収録されている三編の中では、『コイビト』が好きだった。

村田沙耶香の主人公は、皆、自分だけの閉じた世界を持っていて、現実を営みながらも、その閉じた世界に引きこもっている。彼女たち(彼ら)は“普通の世界”から見ると“常軌を逸し”ているように見えるけれど、私たちだって、多かれ少なかれ、自分だけの閉じた世界に引きこもっているのかもしれない。


2020年07月20日(月) 人生3度目の憩室炎

おととし7月、去年11月に引き続き3年連続、3度目の憩室炎になった。
とは言え、3回ともきちんと検査したわけでなく、問診のみで「憩室炎でしょう」と判断された。
処方された薬で治ったので、まあ良いのだけど、こうもたびたび起きると、大丈夫か? そもそも本当に憩室炎なのか? と気になってくる。
医者は「検査したければ紹介状を書きます」と言うけれど、「検査するべし」と明確には指示しない。
いいんだろうか?
でも、大腸検査は嫌だしなあ。直腸のポリープがどうにかなっているわけじゃ……ない、よね?
憩室炎のあの強烈な痛みは二度とごめんだけど、またいつか起きるのだろうか……。


2020年07月18日(土) 誰かの死にたい(死にたかった)気持ち

誰かの死にたい本当の理由は、他人には分かりようもないけれど、死にたくなるのは少しも不思議ではない。
生きていれば、死にたくなるようなことがいくらでもある。
死にたくなるこの世界で、それでもここまで生きたのは、すごいことだ。

私も、ここまでよく生きてきたな。いま生きているのも、すごいことだ。これまで誰のことも殺さずにきたのも、すごいことだ。

私は、誰かの自殺そのものよりも、その誰かが長い間(あるいは一定期間)死にたい気持ちでいた(いる)という事実が、つらいことだなと思う。


2020年07月15日(水) 【本】内田樹『レヴィナスと愛の現象学』

内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)読了。

大学生のとき、思想家エマニュエル・レヴィナスに出会い、入門書や著作を読んで感銘を受け、卒論でもレヴィナスを取り上げた。
大学卒業後はすっかりレヴィナスから離れてしまったけれど、約20年ぶりに、その思想に再び触れてみた。

これはレヴィナスの思想を読み解いて解説している本で、最初のほうは難しいというか、私の興味から外れていたけど、80ページあたりから面白くなった。
レヴィナスの思想について忘れていたこと、あやふやになっていたことを学び直すことができて良かった。また、大学時代にはきちんと読み込めていなかった(理解できていなかった)論についても、あの頃より少しは理解が進んだだろうか。

でも、全体的に私にはちょっと合わない本だったかもしれない。
著者が冒頭で断っているように、これは中立的な立場の研究者によるレヴィナス入門書ではなく、自称弟子による、批判精神のない読み解き書だ。だから、レヴィナス贔屓が過ぎる。
再度レヴィナスを一から学ぶなら、私には合田正人さんの『レヴィナスを読む』か熊野純彦さんの『レヴィナス入門』のほうが良いのかも。

内田先生のこの本でレヴィナス思想の理解が少し進んだことで、よりレヴィナスが好きになるというよりは、むしろ逆の作用が働いてしまった。
(相変わらず、感銘を受ける点も多いが)

父権主義的で男尊女卑的だと捉えられて批判された論について、この本では批判に対する批判と、内田流の読み解き方によるレヴィナス擁護を試みている。
でも、私が学生時代に『全体性と無限』を読んで感じた疑問(「疑問」と言うより、俗っぽく言えば「嫌な感じ」)は解けず、批判者たちの批判のすべてが的を射ているわけではないにしても、やはり彼らが批判した論は批判されるべきものであるように思った。

たしかに、レヴィナスは「女性とは、柔和で、慎み深く場所を空け、男性を歓待するものだ」というような言い方はしない。
レヴィナスが言う「女性/女性的なもの」「男性/男性的なもの」は、実社会におけるセックスやジェンダー的な意味での女性・男性という属性のことではないから。
けれど、セックスやジェンダー的な意味での女性・男性について語っているのではないにしても、なぜ、主体を「男性的なもの」と名付け、「私」を歓待する他者を「女性/女性的なもの」と名付けてしまったのか。
まだジェンダーの問題が社会で問題として扱われていない時代ならまだしも、フェミニズムが巻き起こっている時代において、なぜ。
なぜ、「私」と「他者」の関係を巡る論において、「女性的なもの」「男性的なもの」という言葉に、あえてわざわざ言い換えなければならないんだろう。
「女性的なもの」「男性的なもの」と言わなくたって、レヴィナスがそれ以前に既に用いている言葉でもって、論の組み立てはできるように思うのだけど。

根本には聖書の解釈があるようなのだけど、つまりは、やはり聖書自体が父権主義的で男尊女卑的であるということに尽きるのだろうか。


2020年07月12日(日) 夏はピノ

夏はピノ
固く凍るはさらなり、舌の上で溶けゆくもなほ、チョコの奥よりバニラの香り出でく
また、一つならず二つ食はむか迷ふもをかし
喉、器官と冷やさるもをかし

※文法のおかしさ(間違い)はご容赦を

2020年4月14日の日記「春はたけのこ」


2020年07月06日(月) サイト閉鎖

2005年からやっていたサイトを閉鎖した。
ここ数年はまったく更新していなかったし、今後も新しい作品を掲載できるかどうか分からないので、ここで区切りを付けた。
閉鎖予定の告知を5月中旬に出し、今日、正式に閉鎖した。

掲載していた創作物の中で、小説は、今となってはジェンダー観などが時代錯誤なこともあり、今後どこかに改めて載せることはないだろう。
でも、詩と歌詞の一部は、どこかの投稿サイトにでも掲載できればと考えている。漠然と考えているだけで、掲載場所を探したり吟味したりしないまま、サイトを閉めてしまったけれど。

本当は、新しい詩がいくつか頭の中にあるので、それも含めて、いつか公開できるといい。
すべては私のやる気次第だ。


2020年07月04日(土) それでなぜ子どもを生んだのか

母が、戦後の娼婦が置かれていた境遇について本で読み、「誰だって、親が死んだり、いろんな状況によってはそうなる可能性がある。自分だって、そうなっていた可能性がある。人ごととは思えない」と言う。
それ自体は正しい認識だと思う。
でも、それならなぜ子どもを生んだのかがさっぱり理解できない。人ごとではないとの思いは本を読んで初めて抱いたものではなく、昔からそう思っていたらしいなのに。本当に謎だ。謎すぎる。


2020年07月03日(金) 【本】村田沙耶香『地球星人』

村田沙耶香『地球星人』(新潮社)の感想メモ。

至言多し。
全部引用するわけにいかないので、一つだけ。

「私はいつまで生き延びればいいのだろう。いつか、生き延びなくても生きていられるようになるのだろうか。」

そう、生き延びる(survive)と生きる(live)は別ものだ。そしてこれは、サヴァイヴの物語だ。

前作『コンビニ人間』よりもさらに、この社会にある暴力性や加害性、洗脳(呪い)や圧力に踏み込んでいる。特に、女性が受けるそれらについて。
労働や生殖や、その他諸々の抑圧に生き難さを感じ世界に馴染めずにいる人にお勧めだけど、人によってはフラッシュバックが起きる可能性があるので、要注意。

安全を脅かされ続けたとき、心が壊れないようにするため、あるいは壊れた心を守るため、子どもは子どもなりのやり方で生き延びる方法を編み出す。魔法少女になったり、自分は異星人だと信じたり、ヒステリーを起こしたり、ただ声なき命令に従ったり。
けれど、大人になるにつれ、それらの方法のいくつかは使えなくなってしまう。生き延びるためには、別の方法が必要になる。

私は子どもの頃、感情を切る術を身につけていた。とても嫌なことがあると感情を切り、心が動かないようにしていた。でも、その“魔法”は、成長するにつれて使えなくなった。

主人公・奈月に打ち明け話をされた人間の反応がことごとく、テンプレだ。あまりにテンプレなので、陳腐に思えるほど。
だが、現実の我々地球星人は、たしかに陳腐なテンプレを生きている。だから、彼ら(打ち明けた相手)の言葉は、陳腐に、鋭く、生々しく、迫ってくる。現実を突きつけ、えぐってくる。彼らの言葉を目で追うと、自分が言われているかのように、苦しい。

奈月、由宇、智臣の、工場の“洗脳”に対するスタンスが三者三様で、対比がはっきりしていて良い。
私もポハピピンポボピア星人なのかもしれない。でも、彼ら三人の誰とも違う。感情を切るという“魔法”が使えなくなった私は、いまどうやって生き延びているのだろう。よく分からない。

私は、生きているのではなく、いまだに生き延びているんだなあと思う。

小説から少し離れて、現実に立ち返る。
もし、私たちが働く道具、生殖の道具なのだとして、例えば私のような障害者は、そういった道具と見なされているのだろうか。いや、世界=工場にとって価値ある道具としてカウントされていないのではないだろうか。
だから、異性間恋愛と生殖が推奨される一方で、強制不妊手術が行われた。
労働と生殖の道具と見なされていない人間の一部には、“洗脳”と並行して、道具となるための矯正が試みられる。が、矯正できなかった者は、工場の鉄くずとして、うっちゃっておかれる。
それはある意味“洗脳”を免れたとも言えるが、本来「免れる」にある好ましさはないし、道具と見なされない人間には、道具である人間に対するのとは別の“洗脳”が施される。

人間が道具である世界で、道具とは見なされない存在があること。しかもそれは自由や特権を意味せず、別の“洗脳”が発動すること。それを、著者(村田沙耶香)だったらどんなふうに物語にするのだろうかと、興味が湧いた。

現実世界の話をもう一つ。
ときどき、子が親を殺す事件が起きる。
殺人は許されない。けれど、親から安全を脅かされ続けていた子が親を殺したとしたら、誰がいったい、その殺人犯を一分のためらいや後ろめたさなしに責めることができるだろう。
それは殺人であると同時に、(タイムラグのある)正当防衛ではないのか。
ときどき考えるそれを、思い出した。
(ちなみに、『地球星人』に、子による親殺しは出てこない)


2020年07月02日(木) 久しぶりの美容院

7,8ヶ月ぶりに美容院に行った。

2月頃、そろそろ髪を切らなければと思いつつ、少し暖かくなってからでいいやと後回しにしていた。そうこうしているうちにコロナ禍が始まってしまい、行けなくなった。
先月、伸び放題、増え放題の髪にいいかげん我慢できなくなって電話したら、「予約がいっぱいなので7月になります」と言われたのだった。店内が密にならないように予約を受けているらしい。

だいぶ切って、さっぱり、すっきりした。ちょっと短くなりすぎな感はあるけも。
どうして、美容院に行くと理想より短くなりがちなんだろう……。

6月は、私のように我慢できなくなって切りに来たお客さんがたくさんいたとのこと。
みんな、考えること、やることは同じだ。

髪を切ったら茶色い部分がなくなって、すっかり真っ黒になってしまったなあ。
前は一年に一回くらい、たいていはToshlのライブに合わせて茶色く染めていたのだけど、いまは染めたくなるようなイベントがない。
もう少し明るいほうが好きだから染めたい気持ちはあるけれど、特にイベントがないともったいないというか、面倒になってしまう。


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© 2005 Sakurai Yuzuki