月に舞う桜

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2020年05月29日(金) 弱き者が見殺しにされる、そんな国で

新型コロナウイルスの感染拡大で、より弱い立場の人たちの生活が脅かされている状況を取材した連載記事「弱き者が見殺しにされる国」。
いま出ている三回とも、障害者とその家族が直面している現実についてです。

記事をシェアしておいて言うのもなんだけど、こういうのを読むと本当に絶望的な気持ちになる。
私は今のところ自宅で家族とともに生活できていて、ストレスが溜まりつつも衣食住にはとりあえず困っていない。
でも、それをありがたいと感じるより先に、私だって記事のような状況にいつ陥るかか分からないという危機感が募る。
そんな世で、そんな社会で、そんな国で、そんな無理してまで生き続けなきゃならないの?

◆第一回 新型コロナウイルスの猛威の陰で
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2031

◆第二回 命綱を失った障害者家庭
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2037

◆第三回 孤立化する障害者たち
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2042


2020年05月28日(木) 親子の絶対的権力不均衡のもとで

先日起きた、息子が父親を刺殺してしまった事件。
父親からの暴力が実際にあったのか、あったとしたらどれくらいの暴力だったのかなどはまだ分からない。
でも、少なくとも、子どもにとっては助けを求めないといけない状況だった。
子どもがちゃんと外部に助けを求めたのに最後までは助けてもらえず、子どもが親を殺す結果になって、死んだ親はある意味逃げおおせた。
そして、裁かれるのは子ども。

去年、こんな記事もあった。↓

◆「2回目は父を死なせる」 少年が畏怖を殺意に変えた日(2019.5.2 朝日新聞デジタル)
https://www.asahi.com/articles/ASM3L51ZBM3LULOB00J.html?iref=pc_ss_date

この事件は、元々は父親が加害者で、子どもは被害者だった。なのに、裁かれ、加害者として生きていかなければならないのは子どもだ。

なぜ。

親子の権力勾配は絶対的不均衡なのに。


2020年05月27日(水) ビニールマスクをかぶせられた日々

押し込めていても、記憶の蓋は簡単に開く。
日本小児医会が2歳未満はマスクを着用しない方がよいとの見解を出した記事を読んで、その記事内容とは直接関係ないけど思い出したこと。

幼少期、ドーマン法という民間療法をやらされていた。
その中に、ビニールマスクで鼻と口を覆って自分の呼気を吸う(=酸素を薄くする)ことで心肺機能を高めようとするプログラムがあった。
医療者立ち会いでもなく、脳性麻痺治療の医学的エビデンスもなく、場合によっては、これ、虐待になるんじゃないのか。

(だいたい、出生時に脳内が低酸素状態に陥ったがための脳性麻痺なのに、さらに低酸素状態にしてどうするのかしら)

ほんと、大切な子ども時代に、何であんなに時間と労力を奪われなきゃいけなかったんだろう。

思えば、歩けるようになりたいなんて子どもの頃から一度も思ったことがないし、ドーマン法をやらされている頃から障害が“治る”なんて1ミリも信じていなかった。

ただただ周りの大人たちに“治る”ことを願われ、期待され、私は彼らが諦めるのを待っていた。

もちろん、歩けるようになりたいと思ったことがないからといって、この身体でこの社会を生きることに問題を感じないわけがない。
この世を生きねばならないなら、障害のある人生より、障害のない人生のほうがいいに決まっている。
ただ、私にとって、歩けるようになる(=自分が犠牲を払って体を社会に合わせる)ことが解決策だと思ったことはないし、いまも思わない。

「医学モデル」「社会モデル」という考え方を知る遙か昔から、自然と医学モデルを拒否していたのだろう(社会モデル的な価値観までは、はっきり持ってはいなかったけれど)。
でも、医学モデル的な日々に時間と労力を奪われていたからこそ、歩けるようになりたいとは思わず、医学モデルを拒否していたのかもしれない。


2020年05月26日(火) 最も困難な者のために

書類にしろオンラインにしろ、10万円の給付金の申請手続きが難しく、申請を諦める視覚障害者や知的障害者がいる、と。
「視覚障害者は郵送を選ぶ人が多いとみられるが」とあるけど、オンライン申請のページってアクセシビリティは確保されてないのだろうか(されてなさそう……)。
こういうのは、最も困難な人に合わせて設計してくださいよ。

◆給付金申請、障害者支援を 手続きできず諦める人も(2020.5.25 共同通信)
https://this.kiji.is/637384274356896865?c=39550187727945729&fbclid=IwAR1PxEJEMzmbSNDaGicZLe9WpY5VyU4dzoBR6zJe8qeyv2UPobyYIrxSHJk


2020年05月25日(月) ずん!

フィクションの世界に浸ったままうとうとしかけたところに、急に現実(現状の自分のダメさ、将来への不安etc.)が脳をハリセンし、心がずん!となりつつ眠った昨夜。


2020年05月16日(土) 奇形で苦しむのは子どもなので

テレビで、ある医師(どなただったかは忘れた)が「アビガンを使ったら、しばらくは避妊した方がいい」と言っていた。
それが患者に周知徹底されているのか、すごく心配している。「しばらく」って、どれくらいの間なのかというのも気になる。
もし奇形の副作用が出たら、被害を受けて苦しむのはアビガンで助かった本人ではなく、他人(まだ生まれていない子ども)なのだから、なおさら口酸っぱく言ってほしい。


2020年05月11日(月) 反出生寄り

私は障害当事者で、将来のために安楽死制度があったらいいなと思っていて、おまけに、単なるチャイルドフリーというよりは反出生寄りだ。
障害者団体や障害当事者の学者や障害学の研究者には賛同できる思想や発言もたくさんある一方、そういう人たちはたいてい反安楽死で生賛美なのが馴染めない。
例えば友人に子どもが生まれたら「子どもを生むなんて、ひどいやつだな」とは思わないし、普通に「おめでとう♪」と言う。反出生主義者を名乗るほどの強い思想も持っていない(名乗れるほど、まだ反出生主義について学んでいない)。
でも、一般論として、この世の中に子どもを送り出して生きることを強いるのは、手放しで賛美されることとは思えない。だから、ガチガチの反出生主義ではないけど反出生寄りとの認識。
結婚している男女が子どもを作ること、産むことを無条件に良いことと考える人たちより、反出生主義者の言うことの方が共感できる。そして、子どもを生んだ人(男女問わず)が言う「子どもをほしいと思った理由、子どもを生んだ理由」よりも、子どもを生める可能性大だけど子どもを生まないことを積極的に選択した人が言う「子どもを生まない理由」のほうがはるかに共感できることが多い。

ちなみに、旧優生保護法下での障害者に対する強制不妊手術のように、国家が恣意的に特定の属性から生殖の権利を剥奪することには、昔も今も反対だ。これは、私の中では、反出生寄りな考えと矛盾せず共存できる。そもそも、生殖の権利以前に、自分の身体を他者(国家を含む)に勝手にどうこうされない権利の問題だし。

子育てしやすい環境(制度や人々の意識)は整えたほうがいい。
でもそれは、第一義的には、親のためじゃなく生まれた子どもが生きやすくあるため。
生まれてしまった以上は、誰でも幸せになる権利があるし、どんな環境に生まれたとしてもなるべく生きづらくなく、生きづらさが解消される社会を作るべき。


2020年05月08日(金) 映画『トイ・ストーリー4』

今日の金曜ロードショーは『トイ・ストーリー3』だ。
それで思い出したけど、そう言えば『トイ・ストーリー4』の感想を書いていなかった。

私が2019年に観た中で最も良かった映画の一つが、『トイ・ストーリー4』だった。
(良かった映画のもう一つは、『主戦場』)

パート1がヒットして映画がシリーズ化されても結局パート1が一番面白い、というのが私の中で定説だったけど、トイ・ストーリーは別!
シリーズ4作の中で『トイ・ストーリー4』が断然、良かった。
スタッフが、いろいろなことをきちんと考え抜いて作ったのだろうな、と感じる作品だった。

どんな生き方も否定されず、それぞれに尊重されているところ、それから何より、友情や絆を大切にしつつも、そういったものを鎖にしていないところが良かった。
ウッディが大きな決断をしたときも、仲間たちはウエットすぎず、案外あっさりしていた印象。みんなが、ウッディを信頼しているからだと思う。
友情を鎖にしない、絆で相手を縛り付けない。それは、相手を心から信頼していなければできないことだ。

おもちゃたちはみんな、他人(特に人間)が決めた存在価値や役割に縛られることをやめ、自分で生き方や役割を見つけていく。
ボー・ピープとギャビー・ギャビーは、女性としての生き方が対照的だけど、それぞれにエンパワメントされている。どちらも否定されず、大切な生き方として描かれている。

ウッディがボイスボックスをギャビー・ギャビーにあげたのは、「クリアに声が出る」というアンティーク人形としての価値――人間に決められた価値――に縛られず、自分の人生の価値を自分で決めることができたからだろう。
他者から与えられた役割や価値から自由になることは、主体性を持った個人として生きていくのにとても大切なことだ。
それは、自信にも繋がる。

いま、「絆」や「一致団結」が盛んに言われるけれど、そういった言葉がもてはやされるようになったら、気をつけなければいけない。
それらの言葉は、人々をたやすく全体主義に駆り立て、「個」を無化して踏みにじる方向に仕向けるから。

そういう意味でも、『トイ・ストーリー4』は、いま必要な作品だと思う。


2020年05月04日(月) ネガティブは、やさしい

「明るく前向きに!」みたいなのが、いよいよ受け付けなくなってきた。
キラキラポジティブより、「希望も救いもないわ〜」ってネガティブ抱えながら、それでも、私も大切な人も生きてるし生きてしまう……っていうくらいのほうが、いまの私には合っていて、ほっとするし、しっくりくる。

ネガティブなものは、日陰みたいにやさしい。
キラキラポジティブは、真夏の直射日光みたいに、こちらのエネルギーを吸い取るから疲れる。

「新しい生活様式」とやらが盛んに言われて、それが定着したあとの世界は果たして生きるに値するのかな……と考える。
でも、完全に絶望しているわけではなく、「生きるに値するのかな……」と口に出してみることで、むしろ、「でも、何だかんだ言っても、いま生きてるしな」と気づいたりする。

ネガティブな思いや言葉を飲み込むんじゃなく、吐き出すの大事。
息を吐かないと、吸えないからね。

Toshlを好きなのと、「明るく前向きに!」を受け付けがたいのと、矛盾しているなと思う。
でも、前向きな言葉が好きというより、歌声や存在やいろいろに、私が勝手に希望を見出してしまう。この “勝手に” が、私には大事なんだと思う。
最近「としチャン」も聴くのちょっとしんどいんだけど、歌は聴きたい。
心が前向きなときに視聴すればいいんだけど、視聴期限が一週間だからねえ。


2020年05月02日(土) 今日という日に

「今日という日にお聴き下さい」というメッセージとともに、Toshlが今日アップしたのは、逝ってしまった人を想う『木蘭の涙』。

https://youtu.be/4-L2u1Km5p8

歌って、こんなにも気持ちを込められるものなのか……と驚くほどの、溢れ出る感情――愛、かなしみ。

今日は風が強い。
『木蘭の涙』を聴かせたい人が、あの笑顔で空を駆け抜けているのだろう。
Toshlの歌が22年前より遙かに進化したこと、多くの人に認められ愛されるシンガーになったことを、きっと、空の上で誇らしげにしているよ。

『木蘭の涙』を聴きながら思いを馳せるのは、逝ってしまった人のこと以上に、これを今日、ひとりで歌ったToshlの気持ち。
たぶん、言いたいことも、言えないことも、いろいろな想いがあるよね。
その想いのすべてを理解することはできなくても、公に言葉にしていないけど思っていることや伝えたかったこと、たくさんあるのだろうなというのは理解しているつもり。

今日、これを歌ってくれて、聴かせてくれて、ありがとう。

2020年5月2日


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