月に舞う桜

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2018年03月18日(日) 「異常な人たちの異常な犯罪」で片付けてはいけない

オウム真理教の死刑囚13名のうち7名が東京拘置所から全国各地の拘置所へ移送されたことを受け、オウム真理教問題にかかわってきた弁護士やジャーナリストが、一斉に死刑が執行されるのではないかと懸念して「麻原彰晃(松本智津夫)以外の12名の死刑を執行してはならない」と声を上げている。
滝本太郎弁護士もその一人だ。
先日、滝本弁護士がFacebookでご自身のブログをシェアしていた。そのブログには、13名のうち最後の1人の死刑が確定した2011年11月に出された以下の3つの声明、要請書が掲載されている。

●「オウム真理教家族の会」(旧「被害者の会」)の声明
●「日本脱カルト協会」の要請書
●「オウム真理教被害対策弁護団」の声明

この声明、要請書に共通しているのは、

・実行犯12名の死刑を執行しないよう望む。
・実行犯12名は破壊的カルトについての貴重な研究対象であり、彼らの背景や心理を分析・検討することで社会がカルト防止の対策を講じる必要がある。

ということだ。

私は、死刑制度についての考えを長いこと保留にしたままだし、この実行犯12名の死刑判決が妥当であるか否かは判断できない。
ただ、少なくとも教祖より先に実行犯に対する死刑が執行されてはならないと思うし、死刑執行によって、一連の事件が社会の中で「異常な人たちが起こした異常な犯罪」で片づけられて風化していくことをとても危惧している。

もちろん彼らがおこなったことは法の下に裁かれなければならないが、その一方で、なぜ社会はあの一連の事件を止められなかったのかという視点がなければ、再発防止策を講じえない。
組織がカルト化する要因やカルトが生まれる社会構造、人がカルトに取り込まれていく心理状況、そういったことが世の中にもっと徹底気に自分たちの問題として周知されてほしい。カルトの首謀者やカルトに入る人たちだけの問題と考えていては、破壊的カルトの被害はなくならない。
なぜ、彼らはカルトに取り込まれ、どんな心理状態であそこまでの凶行に及んだのか。オウム真理教の何がそんなに魅力的だったのか。事件後、どんな心の変化があったのか、あるいは、なかったのか。そういったことを死刑囚を含む実行犯から聴き尽くすべきだし、彼らは語り尽くすべきであると思う。
心理学的、社会学的、そのほか様々な見地から彼らを研究し、分析し、未来へ残るよう記録してほしい。そして、私はそれを知りたい。

オウム真理教という破壊的カルトが引き起こした一連の事件を知らない世代が、これからどんどん増えていく。比較にならないかもしれないけれど、私のこの危機感は、戦争を知る世代がどんどん減っていくことへの危機感を戦争経験者が抱くのと似ているのかもしれない。

破壊的カルトの被害者が出るのは嫌なんです。
誰かが、誰かの大切な人が、破壊的カルトに苦しめられるのは嫌なんです。
ただそれだけです。

★滝本弁護士のブログ
http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/20111121/archive


2018年03月08日(木) 講演会備忘録その3(最終回)

3月3日に行った熊谷先生講演会の備忘録の続き(最終回)です。
私の意見や感想は交えず、熊谷先生のお話のみをまとめています。
画像は、配布資料をそのまま掲載するのはまずいと思い、私が似たようなものを作成しました。

※その1は、こちら↓
http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/day?id=105384&pg=20180305
※その2は、こちら↓
http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/day?id=105384&pg=20180307


<3>自立と依存
●「依存」は、自立の反対語か?
・人間は、個体としてはとても弱いが、依存しあうことで集団として強くなった。
・歴史学者によれば、「依存」という言葉が悪い意味で使われるようになったのは、近代になってから(筆者註:歴史学者の名前もおっしゃっていたが、失念)。
・依存(=頼る)はいいこと!

●健常者と障害者の違い(下の画像参照、ここでの障害者は車椅子ユーザー)
(例)地震が起きたときの避難方法の選択肢(※画像の矢印の太さ=依存度)



・健常者:階段、エレベーター、縄梯子
→依存先(=選択肢)が多く、一つ一つへの依存度は低い
・障害者:エレベーター
→依存先(=選択肢)が一つしかなく、依存度が高い

★日常的には矢印の太さ(依存度)が注目されるが、本当に大事なのは矢印の多さ
★「自立度が高い」とは、依存先(選択肢)が多く、支配されないこと
⇒備忘録その1の≪導入≫の「介助者の数を増やすことで、暴力を受けにくく、支配されにくくする」につながる

※薬物依存者は「依存できない」病気
薬物依存者の多くが子ども時代に虐待を受けている
→「身近な人に頼ってはダメ」と学習してしまう
 ↓
依存先は・・・
・物質(薬物、アルコールなど)
・遠くの人(=カリスマ)
・自分→自分を極限まで高める方向へ

身近な人に頼る(依存する)ことができず、依存先の選択肢が少なくなるので、物質(薬物)への依存度が高くなる

●障害者の自立
・健常児は「親→友人や先生→地域社会」と依存先を増やしていける
・障害児は、自然に依存先を増やしていくことが難しい
・重度障害者の依存先は、家族か大規模施設しかなかった
・昔より社会資源は増えているが、まだまだ足りない

★自立=依存先の分散
★見捨てるまでが愛情

(終わり)


2018年03月07日(水) 講演会備忘録その2

3月3日に行った熊谷先生講演会の備忘録の続きです。
経験談や「〜してほしい」などの記述も含め、すべて熊谷先生のお話内容です(私自身の考えではなく)。

※その1は、こちら↓
http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/day?id=105384&pg=20180305


<2>手足論と自己決定論
●手足論・・・介助者は先回りせず、障害者の指示に従う手足となるべき
●自己決定論・・・いつ何をするかは、障害者本人が決める
 ↓
しかし、介助者が自己決定の原則を順守するあまり、障害者に際限なく自己決定を迫ると、かえって不自由になる。
=手足論と自己決定論の間にある矛盾

(経験例)入浴介助を頼んだら……
介助者「どこから洗いますか?」
障害者「腕からお願いします」
介「右腕からにしますか、左腕からにしますか?」
障「右腕からお願いします(どっちでもいいけど……)」
介「分かりました。腕の付け根から洗いますか、指の先から洗いますか?」
障「じゃあ、指からで(どうでもいいけど……)」
介「どの指から洗いましょうか?」
障「……」

・そもそも、健常者は細かい行動について、いちいち意識的に自己決定せず、手足が勝手に動いているはず。
・経験上、手足のように感じる介助者とは、細かい動作を勝手にやってくれて、要所要所で自己決定させてくれる人。
→要所は、人によっても障害によっても違うから難しい

●ベーシックレベル
・マクロな行為(例:このドラマが終わったら入浴する)→意識的・手動的
・ミクロな行為(例:体を洗う)→無意識的・自動的
⇒意識的・手動的におこなう行為の範囲を「ベーシックレベル」という

★ベーシックレベルだけ、自分で決めたい。あとは、いつもの通りに勝手にやってほしい。

※ベーシックレベルと、無意識行為との境界ラインは、人によっても障害によっても異なる(上記の「要所」と同様)

※共同研究者で自閉症当事者の綾屋紗月氏の場合(障害特性)
・細かい行動(ミクロな行為)も無意識的・自動的におこなえず、一つ一つ自己決定しなければならない。
・ベーシックレベルの境界ラインが、健常者(多数派)より、かなり下(よりミクロな行為)のほうにある。

●自己決定と手足論の関係(自転車に乗っている子どもの例)
・まだふらふらしながら乗る子ども→自己決定が多く、自転車が手足になっていない
・スムーズに乗れる子ども→自己決定が少なく、自転車を手足のように扱っている

(続く)


2018年03月06日(火) 今年も疑惑の季節が!

今年も疑惑の季節がやって来た!

いやー、「私は花粉症じゃない!」と言い続けてもう何年も経つんですけどね。
この2,3日、何だかちょっとアレだよねー。

・朝起きたら目やにが出てる
・日中、涙ポロポロというほどではないが、じわっと涙目
・頭がボーっとする(風邪や疲労時の「ボーっ」とは何か違う感じ)

いや、ま、でも、鼻は何ともないからな!
春の空気って、花粉以外もいろいろと刺激が強いし(だから肌が荒れがち)。


2018年03月05日(月) 講演会備忘録その1

3月3日に行った熊谷先生の講演会(ともいくクラブ25周年記念講演会)の備忘録を作ったので、興味のある方はどうぞ。
配布資料に走り書きしたメモと記憶をもとに作成したので、足りない部分や、うまくまとまっていない個所があると思いますが……。
私自身の意見や感想は盛り込まず、すべて熊谷先生がお話された内容です。

登壇者:
東大先端科学技術研究センター准教授・熊谷晋一郎先生(脳性麻痺の車椅子ユーザー)

テーマ:
「共に生きる」を考える
〜障害がある人もない人も依存しあえる社会を目指して〜


≪導入≫
●「共に生きる」の対義語は「暴力」
●30人の介助者と契約している
 ↓
介助者の数を増やすことで、暴力を受けにくく、支配されにくくする。
=弱いまま、強くないままで強くなるシンプルな方法

・障害者1人に対する介助者の数が多いほど、暴力・支配を避けられる。
・例えば障害者5人に対して介助者が1人だと、障害者の間で競争が起き、介助者に気に入られようとして顔色をうかがうことになる。

<1>障害とは何か?
●障害の医学モデル・・・障害者の内側に障害がある
●障害の社会モデル(1980年代から主流に)・・・障害者の外側に障害がある
・平均的ではないかもしれない、マイノリティかもしれないが、私の中にあるのは障害ではなくバリエーションの一つ
・社会は平均的な人(=多数派)に合わせてデザインされており、多数派(環境)と少数派の間に発生する相性の悪さ、摩擦が起きる ←これが「障害」

※「障がい」「障がい者」という表記を好んで使う人は、医学モデルの考え方なのでは?
外側にある障害をはっきりさせるために、きちんと「害」という字を使ってほしい。

●disabilityとimpairmentの違い(どちらも「障害」)
・disability=環境と少数派の間の摩擦としての障害
・impairment=私の体の特徴としての障害

★障害の社会モデルの最終目標はdisabilityをなくすこと
・環境を少数者に近づける=バリアフリー
・少数者を環境に近づける=医療
 ↓
バリアフリーと医療をどの割合でミックスさせるかが課題
個人と環境の可変性の限界を計算してミックスさせる=合理的配慮

※可変性の限界の例
・個人:どんなに頑張っても歩けるようにならない
・環境:ストレッチャーも乗れるエレベーターをすべての建物に設置することは不可能

※歴史
権威主義:教授の言うことは正しい!
 ↓
エビデンス主義:統計を取って有効だと証明されたものが正しい
 ↓
当事者運動

(続く)


2018年03月03日(土) 実りある一日

今日は、東大先端科学技術研究センターの準教授・熊谷晋一郎さんの講演に行った。
熊谷先生は脳性麻痺の車椅子ユーザー当事者で元小児科医、現在は障害学の当事者研究をされているそう。

とても分かりやすく、すみずみまで納得できるお話だった。
障害当事者でありながら、感情論ではなく、社会を客観的にとらえていて、でも障害当事者としての感情もきちんと組み込まれていて、さすが研究者だなという印象だった。
誰かに何かを語るとき、「感情論ではなく、感情が伝わること」はとても大事なことだ。
学問は、自分の中のもやもやした気持ちや腑に落ちない気持ちを整理し、言語化してくれる。学問って大事だなと、つくづく思った。
私がなぜ「障がい者」という表記に違和感や気持ち悪さや嫌悪感を抱くのかも、よく分かった。
レジュメに走り書きした内容を、近いうちに備忘録としてまとめたい。


ランチに行くつもりだったジョナサンが知らないうちになくなっていたので、近くの中華屋へ。
五目焼きそば、おいしかった!
あんかけ焼きそば、好きなんです!! 野菜も魚介も豚肉も食べれて嬉しい♪
だから、結果オーライだった(ジョナサンも好きだけど)。

あと、駅で深谷のチューリップを無料で配っていたので、もらった。
深谷市って、チューリップが有名なんですかね?
チューリップも好きだから、これまた嬉しい。
あと数本でなくなってしまうところに通りかかったので、グッドタイミングだった。

時間があったのでパン屋に寄ったら、つい買いすぎた。
パン屋って、あれこれ買いたくなってしまう。
パン屋の誘惑、恐るべし。罪だわ!


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