月に舞う桜

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2018年02月14日(水) 今夜は良い夢を。

今日はバレンタインだ。
遠藤まめたさんがコラムの最新号でバレンタインについて書いている。
そちらも興味深い内容なのだが、そう言えば昨年末のコラムが個人的にはとても身につまされたなと思い出したので、シェアしつつ私自身の経験を書いておきたい。

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『大人になった自分はいまでも、制服のスカートを着る羽目になる夢を見る。海外に旅行したらトランクからセーラー服だけがポンとでてきて、ベトナム語を駆使しないとほかに服は買えないし、だいいちベトナムのストリートに買い物にいくのにもパジャマしか着るものがない、という窮地にいたる夢もこの前見た。』
(最下部にリンクを張った遠藤まめたさんのコラムより引用)
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まめたさんは、トランスジェンダー男性だ。
わざわざこう明記したのは、それを知らないと、上の引用箇所が持つ意味合いが伝わらないからである。
ちなみに、この夢の話がコラムの主題ではないのだけど、私の経験とリンクして「そういうこと、あるよねえ」としみじみ共感したのがこの個所だったので、引用させていただいた。

内容は異なるけれど、私も、ある決まったシチュエーションで窮地に陥る夢をよく見ていた時期がある。
私の場合は、トイレだ。
夢の中で、トイレに座っている。でも、どんなに頑張っても、出ない(小のほう)。
夢の中の私は、「いま出しておかなきゃ!」と心の底から焦る。

この夢は、現実を色濃く反映している。
小さい頃から、そして大人になっても、トイレのことは心の片隅でいつも気にしていた。行きたくなくても、「しばらくトイレに行けなくなるから」と、頑張って出すことも結構あった。しばらくトイレに行けなくなるのは、介助者がいなくなるとか、移動先には車椅子で入れるトイレがないとか、そういう理由だ。
例えば、学校では、トイレに行く時間を決めていた。中休みと、昼休みだ。
1時間目と2時間目の間、3時間目と4時間目の間の休み時間は、行かない。介助者がいないからだ。
トイレに行きたいときに行けないというのは、結構なプレッシャーである。「いま用を足しておかないと、次に行けるタイミングの前に行きたくなったら困るのに、何も出なかったらどうしよう」といつも思っていた。

トイレの夢は、そのプレッシャーの現れだろうと思う。
夢の中の私は、焦りを募らせる。でも、焦れば焦るほど、本当に一滴たりとも何も出てこない。
現実であれば、「そんなに何も出ないなら、しばらくは大丈夫だろう」と思えたりもするけれど、夢だと、そうはいかない。「何が何でも、ここで用を足しておかないと!」と強迫観念を持ってしまい、どんどん追い詰められる。

そんな夢を、本当に何度も見た。
何年ぐらいだろう。足かけ20年近くは見ていただろうか。
ある解決策を取り入れて、トイレ事情が少し改善された。その解決策も完璧ではないけれど、今のところはこれで良しとするかと思えるし、前ほどはトイレのことを気にしなくて済むようになった。
そうしたら、その夢を見なくなった。
やっぱり、私は長い間トイレを気にして生活していたんだなあ。そしてそれは、私にとって重荷だったんだなあ。

夢から解放された今でも、あの夢の中で追い詰められていく感じとか恐怖とか、夢から覚めたときの疲労感をありありと思い出すことができる。
だから、夢の中でセーラー服しか着るものがなかったときの、まめたさんの追い詰められ感は、本当によく分かる。
もちろん、他人のことだし状況も違うから、完全には理解できないし想像するしかないんだけれど、「あるよなあ、そういうこと。一緒じゃないけど、一緒だなあ」と思う。

トランスジェンダー男性が、セーラー服しかなくて窮地に陥る夢を見る。
車椅子ユーザーが、トイレに行っても出るものが出なくて焦る夢を見る。
大声で訴えて回るようなことではないかもしれないけれど、でもやっぱり、そういう夢を何度も見るのって、不条理だよなあと思う。

人生には、無数の不条理がある。
それはもちろん私に限ったことではなくて、まめたさんに限ったことでもなくて、おそらく誰の人生にも。

例えば、車椅子ユーザーはエレベーターがないと困る、なんていうのは多くの人が知っている。そして、それは最も目につきやすい表層的な困りごとだ。
その奥に、人知れず、いろいろな厄介ごとや心の重荷となっているようなことがある。大きいのも、小さいのも、いろいろな不条理が。
たぶん、誰の人生にも、私が考えもしないような厄介ごとや重荷、不条理があるのだろう。

人生には、無数の不条理がある。
だから、おいしいものでも食べよう。チョコレートでも、チョコレートじゃないものでも。甘いものでも、甘くないものでも。

私と、私の大切な人たちへ、Happy Valentine's Day !!
今夜は、良い夢を。

★遠藤まめたさんのコラム『トランス男子のフェミな日常』より
2017年12月31日号「一人称『おれ』が再デビューしなかった2017年」
http://wezz-y.com/archives/51071


2018年02月12日(月) 続・時代が容赦ない

先日、時代がスマホへの移行を強制してくるって話を書いたのですが、

参照:2月3日の日記

もうね、スマホに切り替えようと腹をくくったわけよ。二台持ちとか、なしで。最悪、電話はスピーカーかイヤホン通話にすることにして。

で、iPhoneにするかアンドロイドにするかめっちゃ悩んで。
携帯会社の店舗に行ったらアンドロイドを勧められたけど、ネットで調べたら「スマホ初心者はiPhoneにしたほうがいい」って言ってる人がいっぱいいて。
たしかにアンドロイドのほうが安くて助かるけど、「iPhoneはどの機種でも操作が同じだし周りに使ってる人がたくさんいるから、困ったときに聞きやすいし調べやすい」ってのは、その通りかもなあ、と。

いろいろ、ああでもないこうでもないと調べた結果、軽くて幅もそんなに広くない機種があったから、これに決めちゃおう! と、またまた腹をくくったのに、携帯会社のオンラインショップにその機種がないの!

ちなみに、何で店舗で機種変しないかと言うと、店舗に行くたびにあれこれ勧奨されて面倒なのと、前回の相談のときに必要ない高いオプション付けて見積もり出されたから。
(あとでネットで調べたら、店員が勧めるサービス使うとしても安いほうのオプションで十分だった!)

そんなわけで、欲しい機種がオンラインショップになかったので、iPhoneかアンドロイドかというスタート地点まで戻ってまた悩み始めるという……。

もうね、悩みすぎて、自分がいったい何に悩んでるのかも分からなくなるくらいなんですよね。
欲しかった機種はiPhoneで、でもそれがダメとなったら、候補の中で次に軽いのはアンドロイドで。
でも、多くの「スマホ初心者はiPhoneにしたほうがいい」の意見が頭から離れなくて。

あ、そう言えば、パソコンや携帯のトラブルシューティングの過程を細かく書いて、ネット上でタダで読ませてくれる人たちって、いったいどんだけ神なんですかね?
ありがたすぎて足を向けて寝られないけど、どこにお住まいの神か分からんので、ぐるぐる回りながら寝るしかない、みたいな。


2018年02月03日(土) 時代が容赦ない

私、ガラケー使ってるんですよ。
正確に言うと、ガラホ。
形状はガラケーなんだけど、若干スマホ的な機能も付いているというもの。
でも、Google Playが使えないので入れられるアプリなんてたかが知れてるわけ。

まあ、今までは、それでも事足りてたので文句なかったんだけど、とうとうスマホにせざるを得ないかなと思い始めているのです。

何でかって言うと、「ミスチルとスピッツとエレカシが夢の共演!」ってなライブがありまして、ミスチル大好きだしスピッツも一度行ってみたかったから、倍率高そうだけどダメ元で申し込んでみようかなと思ったわけですよ。
そしたらね、スマホからじゃないと申し込めないの!
ガラケーはもちろん、パソコンからも不可なの!
スマホ以外、申し込める手段が皆無なの!

いやー、もうね、とうとうそんな時代なのかと。

これね、今回は容易に諦められるライブだからいいけど、X JAPANやToshlのライブだったら、わたしゃ暴れまわる事態ですよ。

今まで頑なにスマホにしなかった一番の理由は、私には幅が広すぎて片手で持って通話できないからなのね。
あと、タップがどうしても無理ってことはないけど、できれば押してる感のあるボタンのほうが操作しやすいのね。
私の手で扱うには、サイズも操作性もガラケーのほうが都合がいいわけですよ。

まあ、ネット関係やメールやSNSは慣れればスマホでもいいかもしれないけど、もしスマホを導入するなら、もう一つ別に、真の意味での「携帯電話」が必要。
スマホとガラケーの二台持ちかなあ。それならいっそ、電話は「らくらくホン」でいいかなあ。
どっちみち、二台持ちだとお出かけアイテムが増えるのが、ちょっと嫌だなあ。

うーん、でもやっぱりそろそろスマホな気がする。

いや、でもなあ……。


2018年02月01日(木) 思い上がりもはなはだしく、今日を生きる

わりとデリケートな問題を友人に相談したら、とても有益な情報をくれた。
その情報自体がすごく助かったのだけど、それ以上に、「言いづらいことだったと思うよ」と私の心情を慮ってくれたのが本当に嬉しかったし救われた。

友人のありがたみと大切さを噛みしめた日だった。

友人に恵まれるのは幸運なことだ。
それが大きな真実である一方で、「周りに素敵な人たちがいることは、自身の人徳の表れである」という、いつ誰が言ったのか分からないそんな言葉を、私はしばしば心の拠り所にしている。
だから、デリケートな問題を相談することのためらいや勇気を想像し、理解してくれるような人を友に持てたのは、私の人徳がその人を呼び寄せたからだ、と思い上がってみる。

それとはまったくの別件で、もう本当にあらゆる暴力がなくなってほしいと、最近よく思う。

性暴力も
カルトの暴力も
親から子供への虐待という暴力も
パワハラという暴力も
体罰という暴力も
差別や排除という暴力も
ヘイトスピーチという暴力も
被害者の被害性から目を背けることで被害者を抹殺するという暴力も
人の尊厳や心や大切なあれこれを踏みにじる、名前の付いていないありとあらゆる暴力も。

私だって、そのつもりがなくても何らかの暴力を振るってきたことはあるのだろう。
それでも、少なくとも、あらゆる暴力がなくなってほしいと願うこの瞬間、私は善良な人間であると思う。
自分は善良な人間なのだと、思い上がる。

もしも目の前にデスノートが落ちてきたら、私はそれを拾わずにいられるだろうか。それを使わずにいられるだろうか。
そんなことを年に数回……少なくとも5回は自問自答する。

もう何年も前のあるドラマで、人を殺すためにナイフ片手に突進していった登場人物が、すんでのところで刃先を握りしめ、思いとどまる場面があった。自分の手を血まみれにして、震えていた。

例えば……

例えば、とても大切な人を傷つけた人物の名前を思いがけず見かけたタイミングで、デスノートが目の前に降って来たら、私はどうするのだろう。
ペン先がノートに触れる前に自分の左手でページをふさぎ、その手にペンを突き立てることができるだろうか。

分からない。

分からないから、もっと手前で踏みとどまるしかない。
私にできることと言えば、降ってきたデスノートを見て見ぬふりで踏みつけ、車椅子のタイヤの跡をくっきり残すことくらいだろう。

それが想像できるうちは、まだ大丈夫。

私は、健全で善良で、人徳のある人間だ。
そんなふうに思い上がって、今日も生きている。


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