月に舞う桜
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2018年01月08日(月) |
人生のあらゆることはどこかで繋がっていく |
私は産業カウンセラーの資格を持っていて、それとは関係なく、障害者の就労支援の仕事をしていたことがある。
就労支援で連携したことのある別事業所の人のインタビュー記事が、産業カウンセラー関係の会報に載っていた。
私はまったく関わってない記事だけど、自分の人生の様々がどこかでちゃんと繋がっている気がして嬉しかった。 産業カウンセラーの資格を活かして就労支援に携わっていたわけではなく、二つの事柄は私の中でそれぞれ独立したものだった。 でも、人生の中の一つ一つの経験は、そのあとひょんなことで繋がったりするものだ。 考えてみれば確かに、産業カウンセラーの講座で学んだ「傾聴」のエッセンスは就労支援でも役立ったし、コールセンターでのお客様対応や新人教育でも「聴く」スキル(「聞く」ではない)はとても重要だった。
もちろん、人生には経験しなくてもいいことや、そのあとのどんなことにも繋がらないような経験や、無駄な経験というのも存在する。 でも、少なくとも、自分自身の決断や選択によって得た経験は、あらゆるものがどこかで必ず繋がっていく。
2018年01月05日(金) |
死後の世界がこんなふうなら |
年始にFacebookで「今年の目標は土屋太鳳とディーン・フジオカの顔を覚えること」とアホなことを書いたのだけど、そんなことを言いながらも、実は昔からお正月というものが苦手で、年明けはいつも精神的に下降する。 お正月と言っても、特に精神的に疲労するような何かをするわけでもないし、どこかへ出掛けるわけでもない。ただ、いつもより遅く起きて食べたいときにおせちだの餅だのを何となく食べるだけだ。私にとってお正月とはただそれだけのことなのに、心が鬱々としてくる。お正月というものの空気が、なぜか苦手なのだ。 もっとも、ここ数年はお正月の空気そのものの影響で精神が下降するというより、「お正月が苦手」と意識するあまり暗示にかかっているような気がしなくもない。
ともかく、今年のお正月もそんな感じで鬱々とした上に、ちょっと心が荒れてしまうようなこともあった。 それで、新年2日か3日に「これはやばいな」と感じて、部屋で一人、Toshlのアルバム『GRACE』を聴いていた。 そうしたら、驚くほど心がすうっと凪いで落ち着いていった。
昼間の、程良く明るい、音楽以外は何も物音がしない部屋に私は一人でいて、Toshlの歌声にも感情が過剰に揺さぶられることなく、フラットな状態でただそこに身を任せている感じだった。 そこに余計なものは何もなく、余計な思考もなかった。
そのとき、ふと、死後の世界がこんなふうなら、あってもかまわないと思ったのだった。
私は、天国も極楽も地獄も、死後の世界というものを信じていない。それは、何か宗教的な信念というものではなくて、願望と言ったほうがいいのかもしれない。死後の世界なんて存在しないでほしい、という願望。誰かのためではなく、自分が死んだときを想像しての願望だ。
死は、取り返しのつかない事態であると同時に、ある種の救いだ。私にとってその「救い」とは、すべてが終わること。すべてが断ち切られること。すべてから――もちろん「この私」という意識からも――解放されること。 肉体はもちろん、意識や魂にも、死んでまで縛られたくはない。自分の魂が永遠だなんて、ぞっとする。永遠は、いらない。そこで終わり、がいい。永遠なんて、恐怖だ。
そんなこと言ったらhideはどうするんだ、と言われるかもしれないけれど、例えば晴れて風の強い日に「hideが飛んでる」と思ったりするのは、生きている私のためだ。 死者の魂がそこにあろうとなかろうと、生者は自分が生きていくために死者の魂を「感じ」たり「信じ」たりする。生者は、それができるのだ。それでいい。 私が望めば、hideのための天国は存在する。誰かが望めば、その誰かのための天国はきっと用意されている。
思えば、私はいろいろなことについて、「始まり」よりもむしろ「終わり」にわくわくする傾向がある(もちろん、すべての事柄に対してではないが)。わくわくと言うか、物事が終わるということに対して夢見がちと言うか。 例えば、会社勤めしている頃、入社からそれほど日が経っておらず仕事や人間関係に悩んでいるわけでもないのに、自分が退職する日を想像して楽しくなることが多々あった。お菓子を配ったりお礼の言葉を述べたりしたあと満面の笑みで会社を出て行く、そんな退職日の自分を思い描き、その想像は私を浮き浮きさせるのだった。
年が終わることも、そうだ。年末の空気は好きで、気分が高揚する。「一年」をやり終えたときの解放感と、物事がリセットされるような清々しさ。 年が明けたとたん、その解放感や清々しさは跡形もなく消えて、代わりに失望と嫌気と憂鬱がやってくる。旧い年が終わり新しい年が始まるという循環に、永遠に閉じ込められているような憂鬱感だ。
お正月の空気が苦手であることと、死後の世界がなければいいのにと願うことは、たぶんどこかで繋がっている。 さすがに自分の命の終わりに対してわくわくしたり夢見がちになったりはしないが、自分の意識や肉体も含めて何事にもいつか終わりが来るということは、私にとっては悲しみでも絶望でもなく、希望だ。永遠などないという希望。循環に閉じ込められないという希望。
そんな感じで、自分には死後の世界なんて存在しないでほしいと以前から変わらず願っていた私が、Toshlのアルバムを聴いて「こんなふうなら、あってもかまわない」と思ったのだった。 そのアルバムは幾度となく聴いてきたけれど、そんなことを思ったのは初めてだった。
鬱々としたり荒れたりしていた心が静まっていったときの、あの感覚は、「無」という言葉がぴったりくる。 ただ歌声に身を浸しているとき、私という存在はたしかにそこにあるのに、そこに漂う空気に溶けて同化していくみたいだった。喜びや幸福という感覚すら、背後に溶けていた。 こんな空間なら、こんな世界なら、永遠でもいいと思った。これが永遠なら、閉じ込められてもかまわない、と。
これを書いている今、私はやはり死後の世界を信じていない。 でも、一瞬でも「死後の世界があってもかまわない」と思えたことは、もしかするとそれ自体が希望であり救いであるのかもしれない。
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