月に舞う桜
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今の会社に勤めて、今日で丸5年が経った。明日から6年目に突入する。 5年という節目に、「5年間ありがとう。6年目もよろしく。お互い頑張ろう!」の気持ちを込めて、同期社員にささやかながらバームクーヘンを配った。
同期の一人である男性社員Kさんの奥様Nちゃんは、やはり私たちの同期で、すでに退職している。 Kさんはあまり甘いものは食べず、反対にNちゃんは大のお菓子好きだ。
私「もしKさんが食べないなら、Nちゃんにあげてね」
Kさん「うん、俺のものは全部Nのものだから」
おお、なんと素晴らしい! 感動(?)したので、
私「そうだよね、さすがKさん! 旦那さんの鑑だね!」
と言っておいた。
「俺のものは全部、弓月のものだから」
……いつか誰かに言われたいものだわ。
忘れないでいるために、書き残しておきたい。
3月11日、金曜日。 この日、母が入院した。もちろん震災とは関係なく以前から決まっていたことで、一週間ほどの予定だ。
父も私も有休を取り、午前中に病院まで母を送って行った。 レントゲンと心電図検査を受け、入院手続きを済ませて病室へ。運良く、母のベッドは窓側で、見晴らしが良かった。 私たちはもう少し長くそこにいるつもりだったけれど、昼食が運ばれて来たのを機に、母が「もう帰りなさい」と言った。 思案したあげく、父が「そうしよう」と言うので、後ろ髪を引かれつつ病室をあとにした。 いま思えば、この判断は正しかった。地震が起こるまでそこにいたら、帰宅が大変だっただろうから。
病院の近くでお昼ご飯を食べ、帰宅した。 午後2時46分、父はリビングにいて、私は自室でネットを見ていた。 数日前から地震は起こっていたから半ば慣れてしまっていた部分もあり、最初に揺れを感じたときは今回もすぐ止まるだろうと油断していた。 けれども揺れはおさまらず、だんだん強くなっていく。 そして、パソコンとエアコンと部屋の電気がいっぺんに消え、hide人形が落ちてきた。
そのときはもう、頭の中で危険アラームが鳴り響いていた。 家中が、ガタガタと音を立てていた。人生で体験したことのない、長くて激しい揺れだった。 私は、家の中では自走式の車椅子を利用している。部屋を出て玄関前まで行こうと思うのだけど、揺れと、半分パニックになっているせいで車椅子を動かせなくなり、父が引っ張ってくれた。
揺れはどれくらい続いていたのだろうか。 何だかもう時間が果てしなく感じられた。 家の中はこれといった被害はなく、植木鉢が棚から落ちて辺りが土まみれになっている程度だった。 少し気持ちが落ち着いてくると、またすぐに余震がやって来る。そのたびに、いつでも外へ出られるように玄関前に出た。それを何度も繰り返した。
母が入院すると知っている人が、私が家に独りでいるんじゃないだろうかと心配して、10分ほどかかるところを駆け付けてくれた。 それから、団地の「お助け隊」と呼ばれる人たちが、一軒一軒「大丈夫ですか?」と声を掛けて回っていた。 誰もが自分のこと、家のことで手いっぱいのときに、ありがたいことだ。
電気はいっこうに復旧しなかった。 コートを着込み、分厚い靴下を重ね履きして寒さに耐えながら、携帯ラジオで情報を仕入れた。 テレビもネットも使えず、貴重な電池だから携帯電話もあまり使っていられない。そうなると、携帯ラジオが唯一、情報源だった。
夜、家の中は真っ暗になった。 空が少し明るいままだったので、ちょっと向こうの町では電気が通じているのかもしれない、と父が言った。実際、後日会社の同僚に聞いたところによると、隣の区は停電しなかったようだ。 私たちは懐中電灯と非常用のロウソクをつけて、わずかな明かりを灯した。 幸いなことに、うちはガスも水道も止まらなかったので、お湯を沸かして温かい味噌汁を飲み、チキンラーメンを食べた。 食欲なんてなかったけれど、とにかく体を温めたかったし、何か食べておかなければという危機感があった。
携帯電話には何度か緊急地震速報が来た。あの速報の音にも、余震にも怯えた。 ラジオからは、交通網が麻痺して帰宅難民が町や駅にあふれているという情報が聞こえて来た。
母は無事だろうか。こういうときは、病院が一番安全かもしれない。きっと、私たちのことを心配しているだろう。 会社の人たちは大丈夫だろうか。帰ることができたのだろうか。 友人たちは、みな無事でいるだろうか。 暗い中でじっとしていると、父の兄弟たちから連絡が入り、互いの無事を確認し合った。
何もすることもないので、少しでも体を休めようと8時半過ぎにはベッドに入った。 熟睡できるはずもなく、うつらうつらしても緊急地震速報に起こされたりした。 10時過ぎだっただろうか、電気が復旧したと父が知らせにきた。
私の3月11日は、そうして終わった。
翌朝、母や友人や同僚と連絡が取れ、みんな無事でいることが分かって安心した。同僚の中には何時間もかけて帰った人もいれば、会社に泊まった人たちも大勢いたとのことだった。
テレビでは「観測史上最大の地震」と伝えていた。 母の入院に加え、この大地震だ。非日常的な事態が重なって、そのときはまだ何だか半分夢の中にいるような気分だった。
その後、母は13日の日曜日に手術し、おととい19日の土曜日に無事退院した。もちろん、まだ無理は禁物だけれど、比較的元気にしている。
※何やらごちゃごちゃ書いてますが、心配無用です。
3月は、物事に区切りがつく季節だ。
先週の金曜日、仕事が一段落した。だから、今日は久しぶりに有休を取っている。
それから、恋が終わった。要するにフラれたわけだ。 あー、これは3月に入ってからじゃなくて、まだギリギリ2月だったっけ。 思い返すと、これまでは別れたりフラれたりした後は、相手と会わずに済んだり、会うとしても近しい関係でいなくてよいケースばかりだった。 だけど、今回は違う。今後も変わらず関係を保って行かねばならず、しかもある意味かなり密接な関係なのだ。 以前は、恋が破綻したら、会いたいのに会えないのがつらいと思っていた。でも、会わなきゃいけない、話さなきゃいけない、良好な関係でいなくちゃいけないっていう状況のほうが実はしんどいんでは? と思った。
まあ、蓋を開けてみれば意外と元気で、普通に笑顔で会話しているんだけれど。こんなとき、自分の中にある役割意識の強さが助かる。
だけど、それでも、ときどき心が「ずん!」となる。それが失恋のせいなのか、仕事で疲れ切ってしまったからなのか、それとも家のことで心配事があるからなのかは分からない。たぶん、全部が絡み合っているんだろう。
ある日、会社からの帰り道で「ずん!」に襲われた。あまりにしんどいので、失恋は何でこんなにしんどいのかを考えてみた。道端で泣き喚くわけにはいかないから、自分の気持ちをそらすために、ちょっと他人事のつもりで分析してみたのだ。
その結果、「愛されていないこと」よりも、「希望がなくなってしまったこと」がかなしいんじゃないかと思った。 一緒にご飯を食べに行ったり遊びに行ったりは、もうできない。いや、できることはできるけれど、その先に私が望んでいたような関係性は、ない。 とても疲れているとき、取るに足らない会話で元気になってしまうようなことも、これからはもうない。 「もしかしたら……」が、全部消えてしまったのだ。たぶん、それが一番かなしい。 現状がどうのこうのと言うよりも、先を望めないことが、人をひどく落ち込ませる。
「希望がなくなってしまったこと」がかなしいなら、何か別の希望を見出せば元気が出るんだろう。 ……なんてことが分かったところで、希望なんてすぐに見つかるわけじゃないけど。
人それぞれ、いわゆる「泣き歌」ってのがあると思う。 私の場合、
大塚愛「クムリウタ」 YUKI「Home Sweet Home」 Mr.Children「タガタメ」
が代表的な泣き歌だ。 上の2曲は着うたフルを携帯にダウンロードした。ついでにXの「Tears」も入れてみたけれど、実は「Tears」なんかより、「Silent Jealousy」のほうが泣ける。こんな私は変でしょうか。
いやー、それにしても「クムリウタ」は泣けて泣けてねえ。
心が広くて岡田くん似の人を探しなさい、と君は言う。 ばかだねえ。 岡田くんみたいな人がいたとしても、たぶんきっとただの観賞用だよ。本当に恋に落ちるわけじゃないんだよ。だいたい、あんなに恰好良い人が隣にいたら、落ち着かないし素の自分でいられないじゃない。 別に特別どこかが秀でてるわけじゃないのに、一緒にいたらなぜか楽しくて、素に近い自分でいられて、楽ちん。そんな人が、いいんだけどな。
ばかだねえ。
いや、岡田くんが目の前に現れたら、やっぱり一瞬で恋に落ちるかもしれない……って、テレビで「SP」観てたら思ったけどね。
私も、ばかだねえ。
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