月に舞う桜
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2011年02月22日(火) |
ラーメンとかツンデレとか |
■ときどき1
大学の学食にあった「横浜味噌ラーメン」が急に食べたくなった。 具はほうれん草とネギと薄っぺらなチャーシュー1枚だけで、味もどうってことはない味噌ラーメンだったけど、わりと気に入っていてよく食べていた。 卒業して8年経つ今でも、ときどき無性に食べたくなる。 でも、ラーメンを食べるためだけに行くには、大学は遠いんだよなあ。
■ときどき2
仕事は大事なんだけど、ときどき猛烈に辞めたくなる。会社がどうのって言うんじゃなくて、働くこと自体をやめてしまいたくなる。 やめて、毎日やりたいことだけやって暮らしたいなあと思う。そんな生活に飽きたら、たまに働いてみたりして。 そんなことできるはずないから、余計に憧れる。でも、もしそんな生活ができたとしても、実際はそんな人生あんまり面白くないのかも……いや、面白いかな? 休みたいなあ。まだ火曜なんだけど、もう休みたい。
■属性
自称ツンデレなんだけど、実はツンデレの定義をはっきりとは分かっていない。 でも、間違いなく私はツンデレだと思う。
■どうするの、これ
YOSHIKittyの新しいデザインが気に入ったので、ハンドタオルとクリアファイルを買った。 YOSHIKittyのハンドタオルは3枚目だ。まあ、タオルは使うから、何枚あっても困らない。 問題はクリアファイルだ。もったいなくて使えない。封も開けていない。旧デザインも前に買ったから、未開封のクリアファイルが2組もある。 他に、以前に衝動買いしたYOSHIKittyのノートとメモ帳、ストラップも未開封だ。 使いもしないグッズを買って、いったいどうするんだか。
■オーマイゴット
たった一言が言えなかったために、あとになって激しく後悔することがある。 たいした言葉じゃないのに、なんで言えなかったんだろう。 なんだかねぇ……うん。はぁ……。
同じ建物で働く別会社の人の中に、かなりのイケメンがいる。 その人は職種柄、朝はいつも中庭(?)に出てラジオ体操をしており、私たちのフロアからその様子が見える。
私の席は中庭側の窓に近いので、同じグループの人たちと朝こっそり彼を鑑賞して、目の保養をしている。
そして私たちが内輪で彼につけたあだ名は……
ダルビッシュ。
だって、本当にそれくらい恰好良いんだもの。 私たちはてっきり、ハーフか沖縄の人だろうと思っていた。 でも、どうやら違うらしい。ハーフでも沖縄出身でもなく、純粋な大和人だそうだ。
私の周りの人たち……いわゆる「ダルビッシュ鑑賞組」のメンバーは、「昨日ダルビッシュとエレベーターで二人きりになった!」とか、「帰り際に偶然会って、挨拶した!」とか言っている。
なのに、私だけ彼に直接会ったことがない。 なんで!? 私だって、ダルビッシュと挨拶を交わしたいのに! 窓ガラス挟んでじゃなく、近くで顔を見たいのに!
彼とよく一緒にいる男性なら、しょっちゅう会うんだけどなあ。
例えば私が落ち込んでいるとき、そうとは知らない友人が不思議と偶然にも連絡をくれたりする。落ち込んでいることを打ち明けなくても、私はその連絡自体に救われる。 そういうとき、人と人とはつながり合って、きちんと関わり合って、確かな縁と絆の元に生きているんだと思える。
その一方で、ときどき人間はやっぱりひとりなんだなあ、と思うことがある。 誰かに裏切られたわけじゃないし、疎んじられたわけでもない。ただ、「結局はひとりなのだ」と強烈に認識する。 楽しいことは他人と分かち合える。悲しいことも、分かち合ってくれる人はいる。 けれど、孤独は分かち合えない。
ならばいっそ、すべてを投げ捨ててどこかに行ってしまいたい、と思う。 煩わしいことは知らん顔して、消えてしまいたい。
だけど、そんなふうに思う時こそ、本当は繋がりを求めているのかもしれない。 すべてを捨ててここから消え去ったあとのイメージは、君の傍らでまどろんでいる私の姿だから。
「君がいれば、それでいい」なんてことは思わない。 家族も必要。友達も必要。仕事も必要。Xや他の音楽も必要。素敵な洋服やバッグも必要。 君がいなくても、そういう他の大切な人や物に囲まれていれば十分生きていける。 それなのに、衝動的に「君がいれば、まあいっか」と思いそうになる。
ミスチルの歌みたいに愛されたい。 あんなふうに愛してくれたら、Coccoの歌みたいに愛してあげる。 そうして、すべてを投げ捨ててどこかへ行って、そのままどんどん堕ちて行きましょう。
去年のいつ頃からだろうか、日記を書く意欲が皆無に近くなってしまった。日記だけじゃなく、そもそも「物を書く」という意欲が湧いてこない。 このままだと日記ではなくて「月記」になってしまうなあ……いや、すでになってるか。
職場では、年が明けてから最近までずっと風邪やインフルエンザが流行っていた。 特に私と席の近い人が次々にダウンして会社を休むので、風邪とインフルエンザが背後から忍び寄って来るような気がして恐ろしかった。でもまあ、幸いなことに私はダウンせずにいて、そろそろ流行も過ぎ去った感があるので、何とか乗り切ったかなあと、ほっと胸を撫で下ろしている。 が、まだまだ油断は禁物! 通勤中のマスクは欠かせない。だけど、マスクをしていると、どうも顎の辺りが荒れて嫌だ。
横浜は毎日寒い。 昨日は雪が降った。雪が積もると車椅子での走行が難しく外に出られないので、連休中で良かったとつくづく思う。 毎日寒いけれど、確実に日は長くなっている。会社を出たときの空の色が、日に日に明るくなるのだ。昨日より今日、今日より明日。
週末、ブックオフで手塚治虫の「ブッダ」を買いそろえた。 「聖☆おにいさん」をきっかけに興味を持って、いつか読破したいと思っていた。だから今回の大人買いは、5月に公開される映画の主題歌をXJAPANが担当するから、というわけではない。けれど、映画のことが頭にあって大人買いを後押しされたことは事実だろうと思う。 こういうふうにいろんな偶然の巡り合わせが重なると、私はいつも、すべては繋がっているんだと感じる。
1月末に行った「オンタマカーニバル2011」でスキマスイッチの「ガラナ」を聴いたとき、私は目が覚めた。「情けないぜ 何してんだ」のフレーズで、ハッと我に返ったのだ。 大人でいること、社会人でいることにはたくさんの責任が付きまとう。仕事は大事。それを取り巻く人間関係も、大事だ。 だけど、責任だとか仕事だとかって言葉を、私は便利な逃げ道に使っていただけだ。自分が傷ついたり、何かが壊れてしまうのが怖いから。 いま一番優先すべきものは何なのかを、「ガラナ」の歌詞に突きつけられた。歌詞のたったワンフレーズに触発されてその気になるとは、なんて単純なんだろう。笑っちゃう。でも、そんな単純さが自分に残っていたと分かって、安心した。
頼りたくなるのは愛情ゆえなのか、それ以外の正当な理由があるからなのか、まったく別次元の心配ごとから現実逃避したいだけなのか、それは分からない。分からなくても、いいではないか。必要か、必要じゃないか、それだけだ。 ひょうひょうと、あっけらかんと生きてるんだと思ってた。だけど、案外「気にしい」な面もあるんだと知った。だから、なるべくやさしくいたいと思った。
仕事は大事だ。 その大事な仕事に私を繋ぎ止めてくれたのが誰だったのか、思い出した。いまとは違う立場と関係で、その頃は今日みたいな日を全然想像していなくて、でもたまたま隣にいて、本人は知る由もないけれど、繋ぎ止められた。 仕事を失ってもいいけれど、こんなふうに下らない話で笑い合える人間関係を失いたくない。そう思ったから、もう少し頑張ることにした。頑張ったら、道が開けた。 それで私は、いまこうしている。
やっぱり、すべては繋がっているんだ。
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