平家物語の或る和歌の「見るべき程の事は見つ」という句が 高校の古典でうろ覚えしたまま心の中に残っていたんだけど、 大河ドラマ「義経」でたまたま再会して、 それが平知盛という人の言葉らしいことに初めて気が付きました。
人生で経験するべきことは全て経験してきたので、 もうこの世に思い残すことは無い: …そんな意味だったと思います。
あんまり言うとまた「悲劇のヒロイン」呼ばわりされるし、 私よりももっと苦労している人に失礼になるかもしんないけど; 私も、23年間生きてきた人間の中では 比較的多くの喜怒哀楽を経験してきたつもりです。
お金にも困った、人も殴った、一人旅も野宿もした、 暗い三角関係もした、いろんなバイトもした、身を投げようともした、 心から大声で叫んだ、何度も泣きじゃくって悶え苦しんだ、 全身全霊全人生をかけてシンフォニーを演奏した、 人と接することが怖くて幾度と無く布団の中でぶるぶる震えた…。
他にももっとやったことのないこともたくさんあるかもしんないけれど、 私個人としては、かなりおなかいっぱいな感じです。
そんなこんなで、私はもうあんまし生きなくてもいいような 感じがしてます。
別に自殺をするわけじゃないけれど、事故で人が亡くなるニュースとかを 見ると、私が代わってあげたのにってよく思う。
だからもし私が難病にかかって5千万で命が助かるとしても、 私の命はもういいから、そのお金でもっと別のたくさんの人の命を 救ってあげてくださいって感じになるんです。
「ノルウェイの森」では 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」 という文章が、太字で記されていました。
何度もその小説を読んだりするうちに私の中にできあがった概念は、 人はいつか死ぬし、人が死ぬことは実はそんなにたいしたことじゃない ってことです。
そして生きている人が、死んだ人のことをどうこう言うのは無駄なこと。
死んだ人にはもう会えないって悲しむけれども、 生きている人でも、もう二度と会わない人はたくさんいます; 生きてる人にはいつかは会って話す機会があるっていうのに…。
会おうとすれば会える可能性がある人(⇒今生きている人)に 会おうとはせずに会わないっていうのは、 とてもひどいことだと思います。
今あなたが生きているんなら、 会えない人(⇒死んだ人)に会えないことを憂う前に、 会える人、会うべき人に会う作業をした方がいいんだと思う、きっと。
もしそれがつらくて耐え切れないんだったら、 さんざん嘆いたり塞ぎ込んだりした挙句、自殺でもなんでもすればいい; 死ぬことはたいしたことじゃないんだから。
それが私の今の自論です。
…とは言うものの、自殺を助長するつもりはあまりありません。
死ぬのはやっぱりとても痛くて苦しいし、 他の人に迷惑がかかる場合も多いからです。
私は冷徹…でしょうか、それとも病的でしょうか。
でもそう考えでもしないと、 世の中とても生きづらくてたまりません。
江戸時代の人が「浮世」と表現した意図が、私にはとてもしっくり来ます。
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