脳がダメージを受けていることは確かだが、早期にすることはない。日々回復しているし、失って得たものも大きい。気持ち悪いのは元々であってそのせいではない。気にすることはない。昨日の焼きソバ屋のババアだけは本当に腹が立つ。何様だと思っているのか。何で人を怒鳴りつけないといけないのか。気持ち悪そうな顔で人を見やがって、客を何だと思っているのか。でも不機嫌そうな態度を取ってやったら、最後はおとなしくなっていた。自分を虐待する奴の機嫌を取る必要はない。同じようなことをしてやればいいだけの話じゃないのか。仲良くする必要なんてない。こちらを嫌っている人間にどうして好かれようとしないといけないのか。そこが一番大きな矛盾点だ。それに昨日気づいて、改めることにした。一人さんのお蔭で気付いたのだ。天国言葉を言ってもよくならない人は虐待するものに依存していると。依存する必要があるならわかるが、そんな必要なんかさらさらないのに、依存する。そして傷つく。自分をいじめようとしているとしか思えない。これだけは絶対にやめることにした。自分の中の悪徳裁判官を追放し、自分が自分を虐待することを一切完全にやめることを誓う。自分を虐待するものは自分も他人も許さない。仲良くなんかしない。ご機嫌なんか取らない。いい加減にしろだ。この気付きは一年間かかって得た最大最高のものだ。一人さんのお蔭だ。これからどんどん良くなる。もっともっと良くなる。 どうも寝不足で気分が良くない。酒を飲むといつもこうだ。仕方がない。こうして何か書くと幾分落ち着く。不安な気持ちが少し弱まる。自分は良い方向に向かっている。これからどんどん良くなる。展望が開けてきた。素晴らしい未来が待っている。自分を虐待する人間の機嫌を取らない。仲良くしない。離れる。自分をいじめない。自分を尊重する。自分を虐待する人間に依存しない。虐待を受け入れない。拒否する。 私はどんどん良くなっている。パキシルのお蔭で、ウォーキングのお蔭で、休養のお蔭で。これからもどんどん良くなる。 最近のマスコミの調子はおかしい。弱いものいじめ、魔女狩りばかりやっている。すごい権力を乱用している。大衆を思いのままに操作している。大衆もそれに乗っかっている節がある。大衆の怒りみたいなノリでマスコミが代わりに成敗してくれるみたいなノリ。こんなことでいいのだろうか。いじめる側にもいじめられる側にもなりたくない。もっと穏やかな社会であってほしい。 老子の世界を思い出そう。とても感動した。加島氏の教えてくれた世界。平和で穏やかで全てを包む素晴らしい世界。悪いことはしない。 hのことは本当に腹が立つ。あいつが私を追い詰めて長期休職に追い込んだのだ。それなのにのうのうと恩着せがましく見舞金など持って来る。お前の顔など見たくもない。自分を虐待するものと仲良くはできない。機嫌を取ることもできない。一体何を考えているのか。私は私の味方だ。今疲れているからもっと自分に優しくしよう。甘やかしても良い。今やすまなかったらいつ休む。 抗うつ剤は攻撃性や反社会性を高めることもある。気をつけないといけない。元々反社会性がある。もっともそういうのは一切やめたが。義人になった。思ったより簡単だった。義人になるとすごく気持ちが強くなる。自分が悪いことをしていない自信があるから、強い気持ちになれる。悪いことを過去にしたとしても悔い改めれば何も言えないのだ。誰でも悪いことをしたことがあるだろう。悔い改めるのは一瞬で時間などかからない。自分を虐待する人間と仲良くなどできない。機嫌を取ることなどできない。 私は義人になったのだ。何があってもこの気持ちは変わらない。義人であることは気持ちがいいものだ。義人になれば、堂々としていられる。義人になれば働ける。義人になれば人を愛することができる。義人になれば人に信頼される。あのグループには戻らない。あいつはおかしい。虐待だ。虐待なんか耐えられるはずがない。 何でうつになったか。自分を虐待する奴と仲良くしようとした。自分を虐待する奴の機嫌を取ろうとした。自分で自分を虐待した。虐待を誘発するようなことをした。このいずれかだ。高校のときは最後の奴だった。自分が虐待されると分かっているようなことをする。訳がわからない。両親や家族には迷惑をかけた。悔い改める。義人になろう。あの虐待野郎のところには戻れないだろう。昨日の姫路旅行でも嫌なことがあった。食堂の件。バスの中。ロープウェー。誰にでも気味悪がられ、変な目で見られる。新潟に行ったときは子供にまで馬鹿にされた。子供も可愛くないものだ。自分を虐待するのはやめよう。そういう変な目で見られることを自らしてしまうことがある。 少し気分が良くなってきた。お前は今弱っている。甘えたいだけ甘えて良い。休みたいだけ休んで良い。今頑張る必要はない。自分を大切にしろ。誰が気持ち悪がろうと、いじめようと、自分は自分を守るのだ。自分を愛するのだ。自分をいじめてはいけない。自分を大事にするのだ。人のことはこの際関係ない。自分を甘やかしたいだけ甘やかせ。悪いことはしていない。義人になったのだ。今頑張る必要はない。今元気を出す必要はない。 今はゆっくりしよう。だいぶ良くなってきた。私は悪くない。ゆっくり休もう。私は義人になった。人にとやかく言われることはない。 今日はだいぶ調子が悪い。ゆっくり休もう。私は悔い改めた。自分を責めてはいけない。私はもういい人間になった。悪いことは一切していない。人と揉め事も起こしていない。ゆっくりしよう。カウンセリングもいいだろう。公園に行くのもいいだろう。横になっているのも良い。できるだけ自分を休ませる。自分を大切にする。落ち着こう。 ずいぶん調子が悪い。カウンセリングに行こうかどうしようか迷っている。人のことは悪く考えない。人とうまく行かなくても恨みには思うまい。相性が悪いだけだ。私は義人になったのだ。寝ているだけでも頭が痛い。楽ではない。でも外出はしないほうがいいだろう。体力が落ちている。めまいがする。横になっていよう。ゆっくり休もう。ハッピー何とかが悪かったのか。脳のダメージのことは言うまい。義人になった以上、どうでもいいことだ。悔い改めることが肝心だ。悪知恵が働く方が良くないだろう。私は義人だ。いいことだけを考えよう。 hのことを悪くは思うまい。でも私を追い詰めたのは確かだ。自分の気に入らないと、人を追い詰める。なんでも自分の思い通りにしようとする。とにかくあそこのグループには戻らない。これは条件だ。新しく一から出直したい。そのほうが気分も楽だ。 私は自分が悪くても怒られるとカッとしやすい。人間的欠陥だ。中学のときも自分が悪いのにも拘らず怒ってしまった。良くない。人生のごく初期に義人でなくなってしまった。しかし今は悔い改めた。自分をいじめたりしない。カッとしたりしない。卑屈にもならない。常識的な大人の考えができる。義人になったからだ。悔い改めたからだ。でもこの間の事件と抗うつ剤のバランスでとても不安定になっている。難儀なことだ。 困ったことは起こらないのに困った困ったと騒ぐ。何もいいことはない。それだけはやめよう。医者は余り良い顔をしなかった。それはそうだろう。自分で決めた薬だけ飲んで、医者の出す薬は飲まない。医者を馬鹿にしている。でも仕方がない。ptsdで効く薬はパキシルだけだ。実際効いているからいいのだ。実績が全てだ。 今日は大仙公園に行ってきた。楽しかった。あれで気分がいっぺんに改善した。博物館はつまらないようで面白かった。窓から見る池の景色には癒された。青サギがえさを取っていた。それから自転車博物館にも行った。これも面白かった。平和を感じた。人が嫌いではない。好きだと思った。特に子供は可愛い。爺さんですら可愛い。おばさんも悪くない。平和的なところが良い。 医者の言うとおり、様子を見よう。脳にダメージといってもいずれ回復するかもしれないし、あわてても仕方がない。通常の生活には何の支障もない。それどころか良くなった面もある。悪いことを考えなくなった。義人になることができた。普通の人の気持ちがわかるようになった。常識が身についた。自分をいじめないようになった。自分を虐待するものに依存しなくなった。良いこと尽くめじゃないか。 私はどんどん良くなる。どんどん良くなる。人は優しい。どうしてこんなに優しいかなと思うくらい優しいことがある。医者でも私は相当失礼なことをやっていても怒らないで親切に傷病手当を書いてくれた。受付の女でもわざとやっているのかなと思ったけど全然そうではなかった。本当にひねくれているんだなと思った。優しい人ばかりなんだなと思った。これは大きな発見だった。良い人ばかりじゃないか。何で悩むことがある。自分を愛する。自分をいじめない。
今日は目覚めが良かった。途中覚醒して、まだ例のイベントショックが残っているかもしれないが、その後うとうとして目覚めたときは気分が改善していた。理由はわからない。抗うつ剤と脳のバランスがちょうど良かったのだ。今脳がゆっくりしているのでパキシルの効き目も穏やかなんじゃないか。躁状態にはならない。少し幸せ。少し嬉しい、少し楽しい。今はそれがいいかなと思う。有頂天は失敗が多い。ハッピーリーダー塾なんて無理だ。穏やかに回復しよう。脳の回路が壊れるということは悪の回路が壊れるということだ。間違った回路付けが壊れるということだ。これは嬉しい。今のうちに魂力を高めよう。良い本だけを読み良い言葉だけを聞こう。 私は良い。どんどん良くなる。もっともと良くなる。自分を虐待する奴と仲良くする必要はない。自分を大事にしよう。 パキシルを飲んで追い詰められていなければ健康食品を飲まなかっただろう。でももう言うまい。それは必然だったのだ。前の精神状態が良かったとは言えないので、何とも言えない。義人になること、自分を愛すること、自分を虐待するものと仲良くしないこと。これらに気付いたのはその後のことであるからこれでよかったのだ。 書写山に行ってきた。まああんなものだろう。楽しかった。平日でも行楽客はいるものだ。いろんなことがあるものだ。ちょっとした旅なのだが、勉強になった。ババアとの小競り合いとか良くあることだ。おとなしくしていてはいけない。今日思ったことは自分を虐待する奴、攻撃する奴と仲良くしたり機嫌を取ったりする方法はないし、そんな理由はないということだ。何でそんなことを思ったのかわからない。それがわかればすごく楽になる。偉そうにする必要はないが、卑屈になることはない。どうして自分を虐待する奴に近づいたり、機嫌を取ったり、仲良くしようとしたり、うまくやろうとしたりするのかさっぱりわからない。あのババアやhと仲良くする方法なんかあるわけないじゃないか。それに何よりそうする理由がない。自分の中にも自分を虐待する奴がいる。一人さんの悪徳裁判官、劣等感というものだろう。そんなものは縁を切っちまえ。追放しちまえ。そんなものに栄養をやるな。それに気付いた今日は最高の日だ。 今朝夢を見た。仲良くしていた奴と別れた。そいつは小さい頃に付き合った悪い子だった。もうそんな奴と付き合わなくてもいいんだ。そう思った。私は変わったのだ。自分を虐待する奴と仲良くしなくてもいいんだ。自分の中であれ、外であれ、自分を虐待し、攻撃する奴と仲良くしたり、機嫌を取ったりする必要はないのだ。すごく楽になった。 自分を虐待する奴と仲良くしたり、機嫌を取る必要はないんだ。すごく当たり前のことがすごくよくわかって良かった。 自分を虐待する奴と仲良くしたり、機嫌を取ったりする必要はないんだ。当たり前のことだ。 自分の中にも自分を虐待する奴がいる。そんな奴は追い出してしまえ。悪徳裁判官だ。自虐の虫だ。私を虐待する奴は許さない。機嫌を取るなんてもってのほかだ。仲良くするなんてもってのほかだ。何で仲良くしないといけないのだ。いい加減にしろ。 自分を虐待する奴と仲良くしたり、機嫌を取ったりする必要はない。すごく楽になった。それだけで。当たり前のことだ。何のサービスなんだ。自分を虐待する奴を喜ばせるなんて、何のsm行為なんだ。何の奉仕なんだ。全く理由がない。
何か今朝は気分が良い。そんなに熟睡してないが気持ちよく目覚めた。最近では珍しい。もう治りそうな気がする。自分に優しくしよう。もうあんな職場なんかどうでもいい。自分を虐待する奴のところなんかに行くな。当たり前だ。 脳がダメージを受けているといっても大したことはない。ゆっくり回復している。これからどんどん良くなる。どこまでもどんどん良くなる。 頑張らなくてもいいのだ。すごく良くなった。どんどん良くなる。義人になった。全く違う人間になった。 気分がいい。楽しい。これまでにないことだ。もっとどんどん良くなる。もっと自分に優しくしよう。脳のダメージはかなり回復した。抗うつ剤との組み合わせで信じられないくらい回復するだろう。もっとずっとずっと良くなるだろう。 もっとどんどん良くなる。私は良い。素晴らしい。義人だ。聖人だ。正しいことを考え、正しいことだけを実行する。 すごく良くなった。ついてる。嬉しい、楽しい。ありがとう。感謝します。幸せ。許します。絶対良くなる。どんどん良くなる。あのセミナーも悪くはなかった。善良で弱い人は宗教的なサポートも必要かもしれない。一人ではできないことが集団だとできるのだ。弱いことを認めよう。 私はどんどん良くなる。どんどん良くなる。今はこの程度だが、これからどんどん良くなる。やると決めてやるだけだ。何でもできる。もっとどんどん良くなる。義人になった私は良いことが雪崩のように起きる。私は犯罪者なんかじゃない。義人だ。聖人だ。昨日までの自分とは全然違う。全く違う自分に埋まれ変わった。人に愛され、人を愛する。素晴らしい人間だ。仕事もバリバリできる。ptsdも治る。誰からも信頼される。悪いことを考えない。 ちょっと疲れている。どんなに疲れていても私は私で大事にする。一番大事な自分のことを大事にする。本当に自分が愛おしい。悪いことをすることは嫌なことだ。悪いことをしなくても生きていける。誰もがそうであってほしい。自分を虐待する奴とは仲良くできない。誰でもそうだ。明智光秀は織田信長を殺した。人間とはそうしたものだ。許すことはできる。でも一緒にいることはできない。私は母親と一緒にいることはできない。私が逆に虐待することも耐えられない。この一年で学んだことはそういうことだ。人と仲良くうまくやっていくことは大事だ。でも虐待する奴とは一緒にはいられない。一人さんも言っている。天国言葉を言っても良くならない。それは虐待する奴に依存しているんじゃないかと。確かにそうだ。どうしても自分を虐待する奴と仲良くしないといけないだろうか。機嫌を取らないといけないだろうか。そんなことはない。 大仙公園に行ってきた。やっぱり盛り上がらなかった気分が重い。重すぎる。義人となった。聖人となった。頭が重い。本を読む気がしない。それでもいいだろう。人は良い人ばかりだと思う。子供も大人も。公園で遊ぶ家族は罪もない顔をしていた。善良な人ばかりだ。悪いことをしても何もならない。 本が読めないなら読まなくていい。新聞が読めないなら読まなくていい。脳はものすごい勢いで回復している。きっとずっと良くなる。自分が思っているよりずっといい人間だ、私は。誰にも非難されるいわれはない。いま少し寝てちょっと元気が出た。ほんの少しほっとすることを探してみよう。今受容量が極端に減っている。この半年のうつptsd状態と脳のダメージ(気にすることはない)で何も楽しいと思わなくなった。小説もサークル活動もお祭りも。でも小さな喜び、ほっとすることなら受け入れられる。それが生きる喜びにつながる。 自分を傷つけるような奴とは仲良くできないし、一緒にはいられない。当たり前のことじゃないか。人生の最初で躓いたのはこのことだ。自分を虐待する人間とは分かり合えない。どうわかりあったら良いのだ。smか。あほじゃないのか。絶対に分かり合えないし、反撃するか離れるかどちらかだ。二度と会うな。私はあのグループとは絶対に一緒にならない。基本中の基本だ。私が仕事をしたくなるときは、自分を虐待する人間から離れて安全でいられるとわかったときだ。芸術家は迫害者から離れて自由を享受しているときだ。知識人は権力から逃れて自由に本を読んでいるときだ。迫害者と仲良くできるという幻想は一体どこから生じたのだろうか。全くの誤りだ。義人となる第一歩だ。それがここから始まる。 聖人になった。脳にいっぱい穴が開いたのかもしれない。でもそっちの方がいい。昔は人に優越していると確かに感じたが今はそうではない。パキシルはもっと効くはずだが、脳がダメージを受けているので余り効かない。それでも良い。じっくり治そう。きっと良くなる。脳がゆっくり動くので、腹が立つこともないし、恐いことはない。
一人塾に行ってきた。みんなノリの良い人ばかりで、私はうつで元気がないので浮いていた。何か今の私は暗くて恐い感じがするようだ。抗うつ剤はある程度攻撃的になるので中途半端に効くと確かに恐いかもしれない。職場でのトラブルも抗うつ剤のせいかもしれない。でも飲まないわけにも行かないので、これは抗うつ剤の効果という認識が必要だ。頭のよしあしは関係なく、本当の地金が出る。でも一ヶ月前に比べるとはるかに良くなった。自分が恐がられているくらいはわかるようになった。一ヵ月後にははるかに良くなっている。ところで昨日の塾は出ないほうが良かったかもしれない。過覚醒が再開したかもしれない。2,3日様子を見よう。無理やり何かをやらされる感じとか、嫌がることをされる、ptsd的なこととかは禁物だ。恐い経験をするとか。あの職場はずっと恐かった。ババアが来てからもっと恐くなった。hも恐い。恐くない振りをして頑張ってきたが、恐いと言おう。ptsdが治まらない。抗うつ剤で元気になりつつ、慎重に、人間らしく行動しよう。アクティングアウトとかは絶対に禁物だ。そんなことくらいはわかるようになってきた。薬物や人の言葉に即反応しない。良く考えて行動する。私は義人だ。人間が好きだ。以前だったら全く受け付けなかったであろう、昨日のような会でも参加できた。ただ私にはまだ早すぎる。健康な状態で参加しよう。途中で頭が痛くなってきた。明らかに洗脳だ。宗教団体そのものだ。近づかない方が良いことははっきりしている。でも会社も宗教団体だし、いずれ洗脳される。洗脳マニアのカウンセラーもいる。あの人は特別だ。 善人であることは恥ずかしいことではない。悪人になろうと必死で努めて来たがそんな必要はない。昨日も元悪人の告白に真剣に腹が立ったが、笑ってやればいいのだ。皆笑っていた。善人はそういう反応をする。自分と関係ないからだ。心のきれいな人はそういう反応だ。私も洗脳もできないくらい、悪人になっているのだ。義人になろうと決めた。するとすぐに変わった。これを元に戻さないようにしよう。 この日記もネガティブなことは一切書かないようにしよう。正しいことなんて何かわからないのに、ネガティブなことを書けば真理に近づくという考えは幼稚だ。こうなりたいとか、こうありたい、こうなってほしいということ、よきこと、夢をいっぱい書けばやがてそれが実現する。私は必ず復帰する。完治する。薬も不要になる。仕事もうまく行く。人間関係もうまく行く。よきことが雪崩のように起きる。義人になろう。馬鹿でもいいじゃないか。頭がいいと評価されるより、人間的に信頼された方がずっといい。そんなことぐらいわかっていたはずなのに。馬鹿になろう。昨日の人々は皆善人ばかりだ。善人が生きていくには宗教が必要なのだ。神や人の助けが必要なのだ。義人になれば全てがうまく行くようになる。今でも私は義人だ。義人であればきっとうまく行く。私は明らかに義人ではなかった。悪いことばかりしていた。いい人間なのに悪い人間になろうとした。これからの自分は今までとは全く違う。別の人間だ。全く新しい人間だ。弱くてもいい。強い必要はない。女性的でもいい。今はちょっと弱っているからこれくらいにしておこう。私はきっと救われる。困ったことは起こらない。劣等感を捨てて差別意識も捨てて自分を愛し、自分を虐待せず、明るく楽しく働いて生きていこう。 今ちょっと調子が悪いが、いろんな人のパワーをもらって元気になろう。脳のダメージは徐々に回復している。一ヶ月もすればすっかり回復している。もし回復しないとしても義人である私は全く恐くない。昨日も人が恐くなかった。人の心がすごくわかった。きっと全てうまく行く日が来る。今ももう既にうまく行っている。義人である私には困ったことは起こらない。人が善人に見えた。実際長いこと悪人をやってきたが、悪人は疲れる。やってられない。キャラにないことなのだ。義人になれば全てうまく行く。ptsdも治る。対人恐怖も治る。働けるようになる。魅力的になる。あの作品を書いたときは義人だった。義人になれば友達もできる。義人になれば人生が開ける。世の中悪人なんかいない。いたら排除される。昨日の元悪の例でも途中で悪いと気付いたのだ。善と悪が心の中にいるというリアルな告白だ。私の心にも善と悪がいる。義人になるとはいつも落ち着いて正しいほう、善なるほうを選ぶということだ。善を選ぶと損するだろうか。それだったら、窃盗、カツアゲ、引ったくりまでやっていた昨日の男のようになってしまう。もっともそこから経営者になった根性はすごいものがある。神を信じるといっていた。神を信じるようになってから善を選べるようになった。私も神を信じている。善悪は見られている。必ずわかるようになっている。だからというわけではなく、善を選ぶのが義人であり、大人だ。善でも悪でもないグレーゾーンがあるといっていたが、少なくとも悪とわかっていることは選ぶまい。善だけが道を開いてくれるのだ。私は義人だ。昨日までとは違う。すっかりいい大人になったのだ。必ず道は開ける。ちょっとぼんやりするようになったのは悪いことを排除するための一時休業期間だ。いいソフトと悪いソフトを入れ替える準備期間だ。それに三ヶ月かかる。そして新しい環境が必要だ。多分。同じ環境に入れられたら、悪いソフトが作動する可能性がある。 完ぺき主義はやめよう。自分が楽にやれることから始めよう。自分を追い詰めない。 やっぱり昨日は行くんじゃなかった。催し物は選ぼう。ああいう洗脳的なことをやるんだったら、行くんじゃなかった。お人よし過ぎる。無害な穏やかなものを選ぼう。今日は行かなかったが、遺跡の話とか、当たり障りのないもの。今日の疲れは今日眠れば取れるものと思う。さっきは少し気分が回復した。パキシルで明るくなったら、義人としてよいことに使う。今は疲れすぎているので休むことに使う。これが好循環を生む。義人の好循環だ。悪いことや自分をいじめることにエネルギーを使うな。今までというか前回抗うつ剤を飲んだときはどちらかというとそうだった。今は脳がダメージを受けているのでおとなしくしていられる。もっぱらハイキング、ウォーキングにエネルギーを使おう。癒されることに使おう。 すごく謙虚になったと思う。悪いことをしたなという思いがある。結局あのおばさんにも悪いことをしているのだ。嫌いだからといって悪いことをしていいことはない。義人ではない。私はもう義人になった。下らないことでもめたりしない。今日は本当に疲れた。弱音を言いたい。弱音を言うと少しは気がまぎれる。愚痴とか不平不満は言ってはだめといわれるが、疲れたときは疲れたといおう。それにしてもうつになる人は良い人が多い。結局私も良い人、義人なのに無理して悪い奴を演じるのは無理なのだ。そういうところがb校でも問題になったのだ。人間嫌いというか反社会的というか。自分を責めてはいない。もう悔い改めたのだ。簡単なことだ。元々義人なのだから。抗うつ剤で元気になった分、自分にも人にも優しくできる。そういう好循環を今度は生み出そう。 今日初めて外に出たが、おかしな感じはしなかった。むしろいい感じがした。赤ちゃん連れのお母さんを見てほほえましい気持ちになったり、母娘の会話を聞いてほほえましくなったり、家族っていいなあと思った。私は少し気持ち悪いだろう。脳にダメージを受けているせいだ。きっと回復する。義人になってきっと回復する。人が恐いと思わない。普通に行動できた。回復しているんじゃないか。義人宣言したとたんに世間が近く思えてきた。良い人ばかりなんだと思えてきた。 今は脳がダメージを受けているから、多少気持ちが悪くても仕方がない。でも義人として基本的なことはかえって間違えなくなった。人が嫌いだったのが好きになった。良い人ばかりだと思えるようになった。家族はいいなと思えるようになった。かなり回復した。 新聞が読めない。何が書いてあるかわからない。小説も少し難しい。目を開いたまま寝ているような感じ。人の言うことをすぐ聞き漏らす。目が活字を追っているのに読めない。仕方がない。少しずつ回復するのをまとう。躁うつ病でも小説を書いている人もいるのだ。 字が読めないのは我慢しよう。仕方がない。無理をしたり焦ったりしてはいけない。安らかな気持ちでいよう。どんどん良くなる。ずっと良くなる。きっと良くなる。気持ち悪いなんていわれなくなる。 今日は相当辛い。前頭葉が必死で頑張っているのだが、ついていけない。ゆっくりやろう。自分に優しくしよう。昨日の会合に来てた人たちは皆元気なんだ。アトピーの人とかもいたけど、一応健康なんだ。私は気持ち悪がられるくらい弱っている。行くべきじゃなかった。本を読み、cdを聞くだけで十分だ。一人さんは言葉は穏やかだが、やることは徹底していて甘くない。うっかり近づくとえらい目に遭う。 私は人間が好きだ。義人になったら、急に好きになった。馬鹿になるのもいいことだ。ヤンキーは自分がお人よしなんじゃないかと思って、悪いことをしたいのだ。私も良くわからなくなった。今更ヤンキーと仲良くしろといわれても苦しい。適当にしたい。差別しているわけじゃなくて合わない。無理すると苦しい。ヤンキーから見ると私も相当ヤンキーみたいだ。抗うつ剤は上手に使おう。今日は7時に寝ようかと思う。疲れすぎている。昨日の疲れと酒の疲れ。不安定になっている。でも人が好きだ。昨日の人々は悪い人ではない。でもやりすぎではないか。あんな洗脳みたいなことをしてはいけない。暴力的だ。密室に閉じ込めてあのやり方はおかしい。耐えられないくらい野蛮だ。あれを盛り上がりと感じる感性が信じられない。一人さんも気をつけたほうが良い。本とcdだけにしておこう。 今まで散々反俗的なことを言ってきたが、義人となって後は民衆の皆さんが好きになった。何もエリートでなくてもいいじゃないか。平凡な庶民が好きだ。どうしてかわからない。悪いことはしたくない。いいことだけしたい。 義人として真面目にこつこつやって行きたい。きっと世間は認めてくれるはずだ。真面目だったことは一度もない。これではいけない。義人になるのだ。 脳がダメージを受けてから気持ち悪がられるようになった。でもくじけない。きっと良くなる。義人になろうと決めたのはその後であった。これは良かったのだ。今はずっと良くなった。これは必要な過程なのだ。こうなる運命だったのだ。きっと良くなる。実際良くなっている。義人になった。これは以前にはなかったことだ。 どんどん良くなる。私はもっともっとどんどん良くなる。必ず良くなる。義人になった今は世界は開け、仕事もうまく行く。今までうまく行かなかったのは能力ではなく、人間性の問題だ。それはもうあらかた解決した。義人になったからだ。 人間は本当に良い。良い人ばかりだ。どうして私だけ悪くて怠け者で卑怯で悪いのだろう。絶対に改めよう。義人になろう。父親に誓う。これはうつと関係なく実行できる。むしろそれによってうつは治る。義人になればうつもptsdも治る。 私は嫌われてなどいない。気持ち悪くなどない。邪悪でもない。義人だ。善悪の区別はつく。正しい人間だ。 人間は悪くない。世の中の人は皆真面目で働き者だ。私もそのようになりたい。簡単だ。やると決めてやれば良いだけだ。きっとできる。絶対にできる。この間衣替えなどの仕事があっという間にできた。決して怠け者でもないし、能力は十分だし、できないことなどない。自信を取り戻せ。絶対にできる。義人になればきっとできる。 人間はいいなあ。自分が義人になって初めてそのことに気付いた。今までいかにおかしな考えだったかわかった。うつの本当の原因はそれだ。 うつは自分で直せる。自分で自分をいじめて治ろうとしないだけだ。仕事も自分で決めてやればいくらでもできる。 私は犯罪者みたいなところがある。それは確かだ。だから気をつけないといけないのだ。義人にならないといけないのだ。それは意思の力でできる。昨日のあの元ヤクザもちゃんと誰に言われるでもなく更生しているじゃないか。誰だってできるのだ。私はきっと立ち直って見せる。義人になる。悪いことをしてうまく行った奴はいない。
今日は風邪気味だ。昨日薄着して出かけたからだ。小さいことは気にすまい。やると決めてやるだけという言葉は大きい。何でもできるようになった。苦痛とかめんどくさいとか一切感じない。回復しているんだ。義人になったんだ。本当に何でもできそうな気がする。今日は斎藤一人ハッピーリーダー塾がある楽しみだ。関係者は外見ちょっと恐そうだ。大丈夫だろうか。それから洗脳されないだろうか。私は免疫ができているから大丈夫だ。 休みがありがたく感じる。どん底のときはそれさえわからなかった。多大な犠牲を払って貴重な休みをもらっているということさえ。今は回復期にあるので本当にありがたい。何でもできそうな気がする。いや実際できる。部屋の片づけからエアコンの掃除から何でもできたじゃないか。今までの私とは180度違う。女は馬鹿だ。すぐ怒るし、訳がわからない。子供みたいなことを言って愛情を求めてくる。愛情は関係ないだろうといいたくなる。何でお前みたいな化け物を愛さないといけないのか。訳がわからない。何のボランティアなんだ。 労働は人間の真の喜びだ。それを犠牲にしても休まないといけない。その辛さがわかるだろうか。 だいぶよくなってきたとわかる。どんどん良くなる。どこまでも良くなる。そう信じられる。今までの自分とはまったく別の自分になった。脳が一時的にダメージを受けたのは良かったかもしれない。ダメージはいずれ完全回復する間違いない。今までの間違った回路が破壊されて、新しい回路ができ始めた。 どんどん良くなる。私は今までと全く違う新しい人間になった。この世は悪くない。良い人ばかりだ。恐がる必要はない。 やっとここまで回復した。脳がダメージを受けて馬鹿になっているけど大事なことはそれではない。義人になることだ。私は義人になった。 焦る必要はない。ゆっくりやろう。脳がダメージを受けているので急には回復しないが、ずいぶん回復した。 パキシルを飲むようになってから落ち着いてきた。この半年は自分に何が起こったかわからず、パニックになっていた。それが漸く治まってきた。過覚醒も収まっている。自分がコントロールできる感じがする。人が恐い感じがない。少し愉しみが出てきた。仕事ができるようになった。 堺のイベントに行ってきたが余りにも場違いだったのでそのまま帰ってきた。大半はどっかのえらいさんで招待客らしかった。早く言ってくれ。外に出ても不安になることはない。脳にダメージも悪くはなかった。悪いことも忘れたから。これから覚えることだけで生きていける。 斎藤一人の催し物に出てきた。最初の方はよかったが、最後いろいろやらされそうになって逃げて帰ってきた。あれはやめてほしい。でも前半は思ったより良かった。一人さんの顔が見られたから良かった。 義人であること。それだけだ。それだけで全て解決するとわかった。
今日は良く晴れている。今日行けばよかった。でも楽しかったからいい。昨日私はやる気が猛然と湧いてきた。これで安心なような気がした。薬がやっと効いてきた。体が動き始めた。やると決めてやれば何でもできるじゃんと思った。いつも逃げ腰で優柔不断ではいけない。曖昧な態度ではいけない。悪に対しても同じだ。悪いと思ったらやらない。昨日明け方悪夢を見た。性的逸脱が魅力的に語られる悪夢だ。私は自分が二つに分裂しているように感じた。義人となったために悪が私を呼んでいるように思った。でもいずれ終息するように思った。義人としての人格に統一すると思った。私は義人だ。悔い改めた。義人だ。私が一所懸命働くことを誰が邪魔できるだろうか。誰にも文句は言わせない。私は義人だ。 私は自分をいじめてきたなと思った。小さい頃ちょっと悪い子と付き合ったためにこんなに人生が狂うものだろうか。二人の兄弟は結婚して子供がいるのに。あれらも私の悪い影響を受けた。でも私は義人になった。悔い改めた。それは完全に可能だ。遅すぎることはない。やると決めたら何でもできる。 だいぶ回復してきた。脳がダメージを受けたのが良かったかもしれない。前頭葉がもう一度ご破算になって何かを作り上げている。義人になるために頑張っている。 悪の道に邁進しすぎて人格障害ぽくなっているかもしれない。でも今からでも遅くない。義人になろう。あの三ババなんか完全に人格障害じゃないか。絶対相手にしてはいけない。自分を大事にしないといけない。自分を守れるようになった。とにかく自分を守らないといけない。それが最優先だ。抗うつ剤で漸くここまで回復した。落ち込むところまで落ち込んだのもある意味良かったかもしれない。自分の真の姿と問題点がわかったし、進むべき方向がわかったし、抗うつ剤がどんなに有効かもわかった。酒の危険さもわかった。脳はやがて回復するだろう。むしろ一度ダウンして自分の無力さがわかった。義人になることだとはっきりわかった。困ったことは起こらないとわかった。 前頭葉が昨日急回復して、すごい意欲が湧いて何でもできると思った。回復も近い。 外出すると変な奴から暴力を振るわれそうになる。恐い。馬鹿にしたような態度をされる。気にしないほうがいい。でも復帰は近い。精神的に大丈夫になってきた。これくらいだったらもう大丈夫なように思う。恐がる必要はない。義人になった。義人とは普通の人ということだ。普通の人と全く違うことを考えてきた。芸術家だから仕方がない。二つの人生を生きることはできない。 寒い中を薄着していたら鼻がおかしくなった。自分を虐待する人間に接近するのはやめよう。よっしゃんもそうだったし。何で機嫌を取らないといけないのだ。酒を飲んだ翌日は調子が悪い。今日は早く寝よう。ほっこりするとか、ほっとするというのが最近ない。いつも緊張している。酒を飲んだ直後くらいか。だから飲まずにいられない。でも良くがんばっている。だいぶ良くなった。一ヶ月前からするとはるかに良くなった。 私は良く頑張っている。偉い。決して人にとやかく言われることはない。自分を愛そう。自分を尊重しよう。人も尊重しよう。 本が今は読めないが焦る必要はない。脳は次第に回復している。記憶も問題はない。特別おかしなところはない。焦らないことだ。 義人になった。それだけが生きる道だ。善悪の区別はつくようになった。義人になろう。最近は脳の回復期と抗うつ剤の効果が重なっているのか、不安定だ。ほっとするとか楽しいと思うことが少ない。いつも緊張し、怯えて、不安だ。山の辺の道のときもそうだった。もう少し回復すると良くなるだろう。 観心寺に行ってきた。立派な寺だ。あそこで永代供養してもらおうか。四天王寺でもいいけど。緑のなか、ベンチで休んでいると少しいい気分になった。最近では珍しい。夕方になるとひどく冷えたので、何か着て行けば良かったと思った。自分を本当に尊重しようと思った。自分を守ろうと。 とにかく真面目に義人になることだ。悪くなっても生き易くはならない。良くなるのだ。良い人間でなかったら誰も助けられない。義人であれば助ける名目はある。義人になろう。 きっとうまく行く。昨日は初めてやる気が出た。鳩よけの目玉を作った。カーテンレールとコースターを買ってきた。鍋の材料を買ってきて鍋をした。衣替えをやった。何でもやると決めてやればできると思った。今までできなかったことが簡単にできた。義人になったからだ。対人関係も図書館もレジもうまく行くようになったじゃないか。全てうまい方向に回転し始めた。嬉しいことだ。
今日は山の辺の道に行く。何となく元気がない。何もしていないのに。大丈夫だろう。何も考えない。そしてついてる、幸せ、ありがとう、感謝している。許します。嬉しい、楽しいと唱える。これで気分はだいぶ良くなる。 山の辺の道に行ってきた。虚しい。余り楽しくない。楽しい瞬間が一瞬でもあればと思うのだが。仕事に復帰したいと思うようになってきた。それは回復してきたからだろう。何もかも忘れた。あいつはすねているだけなのだ。自分が愛情を得られないために甘えているだけなのだ。義人はそんなことに動じない。義人とは大人のことだ。誰でも義人になれる。 今猛烈にやる気が湧いてきた。何でだろう。抗うつ剤の効果か。はとよけの目玉模様を作るわ、皿洗いをするわ、買い物に行くわ。私とhやkの違いはなんだろうと思って、能力じゃないことだけは確かで、なりふり構わずやることじゃん、と思った。やると決めて、一所懸命やることじゃん。それができそうに思った。いやできた。散らかった部屋を片付けよう、片付けられる。やろうと思えばすぐできると思った。抗うつ剤の効果に他ならない。素晴らしい。この調子でできないことはない。やると決めればいいのだ。上手下手、完ぺき主義なんかどうでもいい。昨日の一刀彫の弟子なんかイノシシ千体彫れといわれて不平一つ言わない。これだよ。そういう気になったことが嬉しい。出来そうだじゃなくてできたことが嬉しい。これで問題は解決した。
今日はすごくいい天気だ。ハイキング日和だが、エアコンの日なので家にいないといけない。あの馬鹿のせいで大損害だ。でも怒るまい。何も困らないのだから。何も考えないようにするといいみたいだ。朝起きたときも何も考えないでゆっくり寝ていると気分が良かった。脳がダメージを受けたのは考えるなというサインなのだ。頭がよければなんなのだ。義人の道、愛の道のほうが大事だ。女や子供の方が偉いのだ。 だいぶ元気が出てきた。もうすぐ復帰できる。いろんな意味で少しずつ良くなっている。最高というのではないが安定していて何が起こっても困ったことにはならないだろうという気がする。人に腹が立つと言うこともない。喧嘩になるということもない。義人だから、愛ある道を生きるから。これくらい気分がよければいいだろう。すごく頭が良くなくていいじゃないか。考えすぎないのがいい。というかこれから一か月何も考えずに生きていくというのはどうだ。昨日の朝みたいに、今朝みたいに何も考えずに生きること。これが鍵になる気がする。とにかく考えすぎる。脳に障害があるのかもしれないが。それはパキシルで何とかなる。脳がダメージを受けたのを気に何も考えないことを心がけよう。 私と女の間には微妙な問題がある。でもそれを暴き立てても何にもならない。私は自分が女性的であって良かったと思っている。女性的な自分が好きだ。争いごとが嫌いな自分が好きだ。女性的だからといって能力も価値も全く劣らない。とにかく何も考えないようにしよう。好きなことに没頭しよう。それでいつの間にか回復しているというのが理想だ。 義人になることはいいことだ。自分の一番価値のある、有意義な努力だ。自暴自棄の反対。自虐の反対。自分を愛すること。何も考えないことは素晴らしい。大人とは義人である。大人は汚いと思っていたがそうでもない。残酷さでは大人も子供も変わりはない。何も考えないことが今一番自分を大事にすることかなという気がした。会社のこととか、人生のこととか今まであったひどい経験のこととか。一切考えないでのほほんと生きているのが一番いい。少なくともこれから一ヶ月はそうして生きて行こう。周りの皆さんもきっとそういう私を望んでいるだろう。 義人とは自分を愛する人だ。聖なる気持ちを失わない人だ。聖なる時間を生きることだ。悪は誰でも心にある。でもきちんと抑えることができる。でも攻撃されたら、使うことがあるかもしれない。凍結されていたらいけないかもしれない。武道なんかはいいかもしれない。体を動かすだけでもいいかもしれない。聖なる気持ちはいいことだ。 ちょっとしたことで少し落ち込む。レイプされた女性の手記を読んでいるが気が重くなる気がする。余り読まないほうが良いか。自分に自信を持ちすぎるのか。私は強くはない。でも生きていかないといけないし、できると思う。自分を愛そう。朝パキシルを飲んだが、驚くほど気分が良くなるわけでもない。基本的に気分が悪い。でも幸せを感じることはできる。こうして休んでいられるのも職場の会社の全ての人のお蔭だと感謝している。嬉しい、楽しい、幸せだ。許します。ありがとう、ツイテル。これらは本当に実感できる。難しいことじゃない。笑ってしまうくらい簡単だ。だからこそ実行できる。実感できる。 朝、昨日の朝も何も考えない気持ちのいい瞬間があった。それを信じたい。例えば田舎に行っていい風景に出会い、ほっとするその瞬間、何も考えていない。誰も恐がっていない。人を信じられる瞬間。豊かな感情が傷つけられないでよみがえる。何も考えない状態ならば、人を拒否することはないだろう。そんな状態に戻ろう。自分の機嫌は自分で取ろう。温泉に行けば直ると考えるのは間違いだ。人は私が悪いことをする、人を傷つける人間だとわかっている。噛む犬だと。あの女は私と同じことを私にやっている。それがどんなに不愉快かわかった。それを私はずっとやっていたのだ。自分を傷つける人間は受け入れられないんじゃないのか。あの最初の自己愛性人格障害とか。受け入れられないものは受け入れられないんじゃないのか。自分を虐待するものに近づく。私の一番悪い点だ。 私はどこの職場でもトラブルを起こしてきた。悪と攻撃性がうまくコントロールできない。誰でも悪は持っている。欲もある。でもたいていの人間はそれをコントロールできる。望ましい社会的行動を選択できる。だから私は自分が義人になる以外ないと思っている。義人とは悪を肯定しないことだ。差別をしないことだ。優しいことだ。幸せ、ありがとうと思えることだ。義人になろう。聖なる時間を過ごそう。残りの生涯にわたってそうしよう。父との約束だ。 悪いことをしても何もいいことはない。当たり前だ。それが許されると思うということが病気だ。ずっと病気だったのだ。これからは自分を愛そう、義人になろう。馬鹿でもいいじゃないか。馬鹿正直に生きていこう。 自分が変わればいいのだ。人を変えるなんて絶対に不可能だとわかった。自分が変わる。劣等感から自由になる。人が劣等感から妙な行動に走ることを見抜く。自分も劣等感から妙な行動をしていないかチェックする。明らかにそうだった。劣等感からおかしな行動に走っていた。義人になろう。簡単なことだ。聖なる気持ち、感謝の気持ちで聖なる時間を生きることだ。 自分に優しくしようと思った。我慢するのはやめようと。我慢を自分に強いるのはやめようと。何も考えずに過ごそうと。仕事に復帰しても同じだ。何も考えずに淡々と仕事をしよう。 トラウマの本を読むと確かにあの日から時間が止まっている気がする。何であんなちっぽけな事件でこんなに傷つくのかわからない。男に対する基本的な信頼が崩れた。女と違って男は信頼できると信じていた。でもそういうことはありうることだ。自分を愛することだ。こんな自分を愛することだ。自分を愛そう。何も考えない時間。何も考えないというのは素晴らしいことだ。 私はいい人間だと思う。一歩一歩回復している。今日は昨日よりずいぶんいい。私は頑張りすぎないことだ。私は強くない。強くなくても生きていけると思う。強くない強さってあると思う。人間の本当の強さは力じゃないと思う。私は弱くても生きていけると思う。卑屈にならずに生きていけると思う。劣等感から自由になって生きていけると思う。今日はやたら眠い。眠いときは自由に寝たらいい。少し不安定になっているのだ。自分を愛するのだ。義人になればおばさんや女に卑屈にならずとも好きにならなくても生きていけるのだ。 エアコン屋は来ない。何も考えないで義人であること、自分を愛することだけ考えれば一ヶ月で良くなる。今不安なのは逆に社会と波動があってきたから色んなことが頭に飛び込んでくる。今まで見えなかったものが見えてくるから不安になってくる。義人になることだ。図書館でもレジでもそれでうまく行った。私とあの三悪人の違いは善悪の基準ではない。私は悪に寛容だから自分を守りきれないのだ。義人になれば善悪の基準は一致するから一方的に攻撃されたりはしない。それで自分を守れるのだ。悪に寛容ということは相手が攻撃してきても受けてしまうことだ。受けてはいけない。悪だから排除しないといけない。義人の強さはそういうところにある。 何も考えないのは非常に有効で、楽になれると思う。昨日の朝、本当に何も考える力が残っていなくてそのとき、ふと楽になった。これで生きていけそうだと思った。 エアコン屋が来た。あっという間に直していった。心配することは何もなかった。世の中は私が考えているより、はるかにうまくできている。 何も考えない。これは楽なことだ。楽しいことだ。明日は山の辺の道に行こう。何回行ってもいい。義人になれば何も恐いことはない。悪にも厳しくなるから、私を悪と見て攻撃されることはなくなる。何で私が悪者にならないといけないのだ。何で私が悪に寛容と見られねばならないのか。 義人になる。ただそれだけで楽になる。人間関係なんか全てうまく行く。結局私が悪人と見られて攻撃される。それでストレスが溜まる。私は悪人なんかじゃない。攻撃なんかされるいわれはない。 義人であること。自分を愛すること。たったそれだけでいい。人のことはどうでもいいから自分のことだけ気をつけろ。 悪に寛容である必要はない。悪は悪でいいじゃないか。私が悪を好きな理由なんか全くないじゃないか。義人になろう。簡単なことだ。私は過去多くの罪を犯した。その罪悪感がたまらない。それをクリアーできるのは悔い改めることしか考えられない。このまま反省も後悔、改悛もせずに生きていくことは土台不可能だ。義人になると決めた時点で周りは大きく変わった。図書館、クリーニング、レジなど。全く問題が起こらなくなった。義人と愛の道を進むのだ。 義人になればhとかkみたいなチンピラに絡まれなくなる。義人になれば不都合なことは一切起こらなくなる。
今日は天気が悪い。こんな日に会社に行かなくていいなんてなんて恵まれているんだろう。さっきふと楽になった。昨日二日続けて酒を飲んだので夜12時くらいに目が覚めて、うとうとしか眠れなかった。でもそこそこ寝ている。朝、自分が義人であれば、誰にも非難されないと感じた。そしてババアのことなんか考えなくていいのだと感じてふと楽になった。ババアのことを考えないといけないだろうか。私が義人である限り、何で傷つけてくる人間のことをあれこれ考えないといけないだろうか。どうして傷つけてきたり不機嫌な人間のことを私のほうが考えないといけないだろうか。それに気付いてすごく楽になった。怒りとか暴力的な気持ちではなくて、自然に気付いた。復讐してやろうとか思わない。話を付けたいとも思わない。中学のとき、母親が嫌いになった。反抗期だったのかもしれないし、自分の境界を守ろうとしたのかもしれない。あんたのためを思ってという重圧が嫌だったかもしれない。とにかく私は今でも女が嫌いだ。でも女を愛することはできる。100人に一人くらいは好きな女がいる。それで十分だろう。女が嫌いなことを咎められるいわれはない。いじめられたりするいわれはない。義人である限り、嫌いなババアのことを考える必要はない。好きにならないといけないと言うことはない。母親も人の境界を破って侵入してくる。私の人生は一体なんだろう。私が聖人である限り、女が嫌いなことでいじめられたり、そのことで悩んだり、責められたりするいわれはない。朝それに気付いて楽になった。何も考えなくなった。ババアのことを。嫌いな人間と一緒にいることによって自分を傷つけてくるのを黙ってみている必要はなくなった。自分は義人だということはそれ以上何も考えなくていいということ。いじめられる必要はないということ。一緒にいる必要はないということ。 私が義人でないならば、ババアのことを考え続けないといけないだろう。解決方法を自分で考え出すまで。そしていじめられ続けないといけないだろう。人格崩壊し、人生が収拾つかなくなるまでストーカーみたいに人生犠牲にされないといけないだろう。あの母親みたいに。でも私は義人になった。一切そのような不利益を課せられるいわれはなくなった。このことだけははっきりしておこう。ババアのことを考える必要すらなくなった。 私は安全でいたい。自分の意志に反することをされたくない。母親との関係は最悪だった。私が父の代わりになってしまった。何でそんなことになったのか。私の中の悪がそうしたのか。でも私は悔い改めて義人の道を歩くことにした。そうすると何もかも変わる気がする。きっと変わる。実際変わった。図書館やレジの対応一つとってもがらりと変わった。やっぱり悔い改めないままではおかしな人間と映り、義人になれば義人として扱われ、世界は再び開かれてくる。b校で起こったこと、女どもとの軋轢、母親との問題、ババアとの揉め事、全て根っこは一つで、女ともめるようになっているのだ。でも義人になればそれは完全に解決できる。私のほうがちょっかいを出していることになっているのだ。散髪屋で危害を加えられたこと。クリーニング屋で見下すような態度をされたこと、図書館で失礼な態度をされたこと。温泉で失礼な態度をされたこと。全部私が挑発したことになっているのだ。母親との問題もそうだ。私は母親を傷つけてしまったのだ。傷つけずにいられないのだ。私は悔い改めた。間違った道をどこまで行っても正しくはならない。聖人になる。この誓いは尊い。非常に大きな気付きだ。女を嫌ってはいけないだろうか。聖人であれば許される。私だって女を好きになることはある。だが、全ての女に好かれる必要はないし、好きになる必要はないのだ。無理をするからおかしくなる。義人になるのだ。その上で女を愛することは可能になる。今の状態では女を愛することは無理だろう。 暗いのか明るいのかわからない。非常に大きなことに気付いて希望が出てきたことは嬉しい。でも今の気分自体は酒のせいか天気のせいか、引きこもりのせいか余り良くない。 悪いことをしてもいいことは一つもない。どうして悪いことをしようと思ったのだろう。悪魔に取り憑かれたのか。でも義人になって正しい道を歩もうと思っただけで全てが全く違ってくる。簡単なことだ。両親には悪いことをした。きっと立ち直って親孝行しよう。義人になろう。何も考えずにゆっくりしよう。 パキシルのせいか少し気分が軽くなってきた。活字が読めないと騒いでいたがいいんじゃないかと思う、かえって。朝、何も考えずに休もうと思った。そんなことを考えたのは初めてだ。考えすぎて悪くなっていたかもしれない。悪いことばかり考えて筋が悪いから考えない方がましだ。義人になれば考える必要はない。 またちょっと気分が悪くなってきた。例の事件以来、抗うつ剤に反応しなくなっている。食事ものどを通らない。考えないようにしているのだが、ptsdだから頭に勝手に浮かんでくる。5年間もいびられたことが思った以上にトラウマになっている。劣等感と悪徳裁判官を捨てることと、自分を尊重すること。抗うつ剤の元気を用心深く保つこと。 お前は疲れている。自分を大切にしてゆっくり休め。 お前は悪い人間ではない。悔い改めて義人になった。真面目に生きていけばきっと立ち直れる。怒ったり、攻撃的にならず、穏やかに自分の目的をかなえることができる人間だ。 色々心理療法とか止めて、穏やかに過ごそう。困ったことは起こらない。 今日は5時まで寝ていた。不安や恐怖心の強い一日だった。こんな日もある。波がありながら良くなっていくのだ。余りものを考えない方がよい。例の事件以来、頭が働かないから本も読まないし、逆にいいんじゃないか。 今日は不安定な一日だった。義人と愛の道に戻ろう。私は優しかった。その頃に戻ればいいだけだ。 お前は着実に良くなっている。すごくいろんなことがわかるようになった。今日は最近では最悪の調子だったが、それでも出社できるようであれば復帰できるだろう。 脳がスローダウンしているのでゆっくり生きよう。 今日は辛かった。対女の問題が全て共通していることに今日初めて気付いた。母親に始まって、職場の女、b校の女、朝カルの女全て同じだ。会わない方がよかった。嫌いなんだから。嫌いなものは好きにはならない。100人に一人くらいしか好きにはならない。相当変わりもんでないと好きにならない。
昨日は高槻に山の学校とやらの会に出かけた。長倉という写真家が主催しているngoらしい。ちょっとわかりにくい面もあったので入会も寄付もしなかった。ユニセフとか色々寄付援助団体はあるが、こちらも裕福でもないし、そうお金ばかり上げられない。そういう優しい自分によってしまうようなところがあって良くない。現地の子供たちもなんで自分たちばかりが優遇されるのか理解できないんじゃないか。まあ写真家の個人的魅力で持っているような気がした。 昨日はすき焼きとビールで栄養補給した。私はもう大丈夫なような気がする。ちょっとアルコールで脳がダメージを受けたが、お蔭で大事なことがわかった。私自身が劣等感にとらわれていることがわかった。世の中のことが大体わかった。仕事がしたいと思うようになった。仕事がしたくないと思うのは仕事をするといじめられると思うからだ。そんなことは妄想だ。一所懸命仕事をするのを止めることはできない。人のことを気にして仕事ができないってどういうことだ。自分が犠牲になって仕事ができなくて惨めな状態になれば、あのキチガイの思い通りだからこれ以上いじめられないですむということか。とにかくあそこから離れないと洗脳から自由になれない。あいつは本物のキチガイで誰にも説明できない。でも自由にならないといけない。このままではだめになる。ついでにhも完全におかしい。虐待する。虐待する奴に依存していたら立ち直れないとひとりさんも言っている。自分を尊重してください、自分を愛してください。そう一人さんも言っている。それが鍵だろう。自尊心を取り戻せるか。自尊心を取り戻せれば働きたいと思うだろう。どうせ自分なんかと自虐的な気持ちになるから、劣等感にとらわれて何もできなくなる。私は能力がないんじゃない。人より能力がある。自虐的になっているだけだ。自暴自棄になっているだけだ。私があのキチガイの自尊心を傷つけたのであのキチガイは怒り狂って私を攻撃してきたのだ。それに気付けば攻撃は止むだろう。もう一人のキチガイババアも同じだ。自尊心を傷つけられたので攻撃してきたのだ。私も自尊心を傷つけられたら、反撃していいのだ。 これだけ譲ってやって、私が自尊心を傷つけられてもまだ攻撃してくる。キチガイだ。あの三人組はキチガイだ。絶対に離れないといけない。自分に対する攻撃を許してはいけない。 45年生きてきて漸くわかったことがあった。一人さんのcdに入っていた。簡単なことなんだ。でも誰も教えてくれなかったし、いくら考えてもわからなかった。難しいことではないのだ。自分を愛するのだ。自尊心を持つのだ。自分を虐待することをやめるのだ。自分を虐待する奴から離れるのだ。これは生死にかかわる問題だ。のんきに考えている場合ではない。 すごく良くなった。わかってきた。抗うつ剤は使いようによってはすごく効果がある。もちろん副作用はあるから気をつけないといけない。薬と自己啓発でやっていけばすごく良くなる。 私は悪い人間ではない。真面目で勤勉だ。人の心もわかる。自分を愛することだ。自分を尊重することだ。一人さんの言うとおりだ。 自分を愛することができれば義人になれる。人を愛することができる。働くことができる。 人のことを余り気にしないほうが良い。だれそれが私をいじめるとか、気に入らないとか。自分のことが一番大事だ。自分を愛そう。自分を尊重しよう。これが一年休んで得た最高にして最大の教訓だ。 人を憎んだりはしていない。 お前は人間味豊かで優しい。悪いこともしていない。お前はきっと立ち直れる。心を入れ替えて一所懸命働け。自分を愛せ。自分を尊重せよ。簡単なことだ。あんなもののことで悩むな。自分らしく自信を持っていけ。 謙虚で優しい私。そういう自分になりたい。これからはきっと立ち直れる。だいぶ回復してきた。人のことが気にならなくなってきた。自分を尊重するのだ。自分を愛するのだ。自分を大事にするのだ。 人を悪く思ったり、批判したりしない。馬鹿にしたり、差別したりしない。人が好きだ。怖いという気持ちは薄れてきた。人を愛したいものだ。本当に人を愛したいと思う。私は人間嫌いではない。人が好きだ。自分のことを愛おしいと思うし、人も愛おしいと思う。特に子供は可愛い。この一年休んだのは無駄ではなかった。色んなことを学んだ。困っているんじゃない。学んでいるんだ。兄は遊びに行ったとき、優しくもてなしてくれた。私は社会との絆を失いかけているので兄弟は大切だ。私は頑なな心が解けてきて、人を憎んだりしなくなった。いいことだ。とてもいいことだ。昨日の会でも嫌いとか嫌だと思ったことは一つもなかった。これは思った以上に回復しているし、成長している。 なんばに行ってきた。最初は調子が良かったが、最後のほうで不安とか恐怖が出てきて少し難儀した。徐々になれて行こう。焦る必要はない。焦ると恐怖が出てくる。でも今日は人がそれほど恐くなかった。いつもより多かった気がする。感覚が鋭敏になっている気がする。道頓堀の見慣れた風景が違って見えた。昨日酒飲んだし、薬飲んでないし、多少不調なのは無理もない。すごく今の状態が自然に見える。人に腹が立ったりしないのは大きな進歩だ。嫌いになったり、恐くなったりしない。馬鹿にしたり、逆に卑屈になったりしない。 ずいぶん具合が悪い。おばさんの攻撃に耐えていたら具合が悪くなった。私は強くない。前からそう言っている。逃げる以外にないんじゃないか。職場では逃げられない。怖いといっているのに、何で攻撃してくるのか。馬鹿になんかしてないじゃないか。本当に恐い。おっさんも恐い。あの図書館のおっさん、人を馬鹿にするな。 薬で調子を整えているのですぐ具合が悪くなる。気長に行こう。お前は間違っていない。悪いこともしていない。正しい道を歩いている。自分を大事にしよう。自分を尊重しよう。自分を愛そう。簡単なことだ。 私は暴力で物事を解決しようなどと考えていない。悪事を働こうとも思わない。正しいことをしたい。普通のことをしたい。困ったことは起こらない。人を馬鹿になんかしていない。人を尊重している。自分を尊重するのと同じように人を尊重している。 私は決して人を馬鹿にしたりなんかしない。攻撃的になったりしない。何で攻撃されないといけないのかわからない。 外出することは自傷行為だろうか。具合が悪いときには注意しよう。波があるものだ。明日は良くなっている。 ビール飲んだら少し気分が良くなってきた。というかどうでも良くなってきた。いいことだ。
今日は曇りで穏やかだ。よく眠れた。最近ではいい調子だ。余りテンションが上がらないのは事故のせいか。でも誰でもいつもそう状態な訳ではない。困ったことは起こらない。義人になった。一人さんの講演はとても良かった。毎日聞こうかと思っている。頭に完全に入ったら、週に一回くらい。一人さんの話が理解できたら一人さんと同じレベルに立てたような気がする。有頂天にならないことはいいことのような気がする。もしかして最大の成長かもしれない。有頂天になるから善悪の見境がつかなくなって悪いことをしたり、ルール違反するんじゃないか。平静な気持ちを保てるならば、馬鹿と付き合う気にもならない。 一人さんの話を聞いてから自分が守れそうな気がしてきた。自分を愛するこの当たり前のことがどうしてもできなかった。もう大丈夫だ。
今日は曇りでさえない気分だ。早く目が覚めてしまった。昨日は朝電話したのが悪かったか。仕方ない。よくあることだ。十分気をつけよう。今朝すごくやる気が出てきた。今までにないくらい。義人になったからだ。このままptsdに埋もれてはいけない。無理のない範囲でやる気を出して行こう。昨日ははるか京都まで行けたじゃないか。仕事もすごくやる気が出てきた。これまでにないことだ。昨日の電話でもやる気が出てきたからできたことだ。 義人とは自分を尊重する人のことだ。義人になろう。仕事ができそうな気がしてきた。やる気が湧いてきた。自分を尊重する気持ちが湧いてきた。劣等感から脱出できるかもしれない。きっとできる。 お前はいい人間だ。悪いことを止めてしっかり働くようになればきっと未来が開けてくる。お前は素晴らしい人間だ。人の心もよくわかる。卑下することも恥ずかしがる必要もない。立派にやっていける。 一人さんの本が届いてcdを聞いた。感動した。素晴らしい。まさに私が苦しんでいる問題に的確に答えている。自分を尊重すること、自分を愛すること。恐れをやめること。皆思い当たる。 ところで今日は余り気分が優れない。何だろう。昨日余り眠れなかった。今日が金曜日だとは気付かなかった。ぼけて曜日の感覚もない。そのうち直るだろう。 エアコンの洗浄をやってもらったら壊されてしまった。ケチって堺の中小業者にやってもらったのは失敗だった。何となく電話したときから感じが悪かった。さっきも来た時も感じが悪かったし。でも困ったことは起こらない。何とかしてくれるだろう。 ちょっと具合が悪い。社会と接触すると具合が悪くなる。相手に気をつけよう。自然を相手にしていた方がよい。数日前から柳生街道に行った頃から人間嫌いが高じている。ほとんど人に会わないのにその少ない人間にイラつく。でも今日は外出したとき、人にじろじろ見られるとか胡散臭い目で見られるとかまったく思わなかった。むしろ受け入れられ、あったかい物を感じた。赤ちゃん連れの主婦を見てあったかい気持ちになった。すごく落ち着いてきた。そこでこんなことも起こったわけだが、一瞬恐い気もしたが、そんなに恐がることはない。困ったことは起こらない。困ったことが起こらないように社会人全員で頑張っているんじゃないか。お前もその一翼をになうんだ。それが一番楽しいことなんだ。夢も希望も失って、人間を恐がって引きこもっているのは明らかにおかしい。責めているわけではない。お前はいい人間だ。十分できる人間だ。人を愛したり、愛されたりできる人間だ。人の心がわかる人間だ。人を恐がったりしない人間だ。人を愛せる人間だ。だいぶ回復している。こういうことがあって、波がありながら回復していくのだ。いっぺんにスッキリ直るというものではない。誰も皆苦しい思いやプレッシャーを感じて頑張っているのだ。さっきのおっチャンだって一所懸命やったのに失敗して儲けはないはずだ。気の毒な話だ。そういう優しさを持たないといけない。 なんでもしゃきしゃき片付けよう。ぐずぐずいつまでも引きずるからおかしくなる。この療養だって、いつまでもずるずるやっていると回復不能なダメージを受けるリスクだってある。しゃきっとしないといけない。真面目になるって言ったじゃないか。いい加減にスパッと割り切るのだ。一人さんの言うことを聞いてスパッと今日から切り替えて復帰を目指そう。決めた。困ったことは起こらない。復帰しても困ったことは起こらないのだ。 少し気分が回復してきた。やっぱり世の中優柔不断では通らなくて頑張るとき、しゃきっとするときは必要だ。もう抗うつ剤のお蔭でそれができるような気がする。 自分を愛し、尊重し、天国言葉を心から唱えていれば、悪いことなんか自然にしなくなるんじゃないのか。これしちゃだめ、あれしちゃだめとか言っていると何もできない。自分に禁止が多すぎる。仕事したいだろう。社会参加したいだろう。義人になればいくらでもできるんだ。義人とは自分を愛する人のことだ。それがどうしてもできなかった。悪徳裁判官と劣等感を追い出そう。 困ったことは起こらないと、いつも思っていよう。不安とか恐怖は困ったことが起こると思っているから生じる。
昨日はホテルルワンダを観て楽しかった。日一日と回復している。抗うつ剤とウォーキングのお蔭だ。この半年は苦しみぬいた。もう困ったことは起こらない。この日記にも自虐的なことはもう書かない。自分の幸せのことだけ書こう。必死で不幸にならなくていいのだ。今朝はこの半年で一番気分がいいかもしれない。自分を尊重することがこんなに気分がいいことか。困ったことは起こらない。ありのままの自分でいいのだ。私を嫌う人間は何でも批判してくる。そんなこと聞いてられるか。俺のいき方で行くのだ。 椎名誠の講演会に行ってきた。面白かった。辺境に旅した面白話、というより、ゲテモノ話が主だった。でも最後は食や自然を巡る文明批評につながって、15年前からするとだいぶ成長していた。人間は成長するものだ。行きや帰りの電車で不快な思いをすることが多い。私のことをモラハラやプチ暴力を振るってくる輩も多い。どうしたら避けられるだろうと思う。じっと我慢するしかないのか。ptsdになりそうだ。楽に生きていくことはできないのだなと思う。男でも女でも若くても年取っていても全く安全ではない。人は暴力を振るう生き物だ。z氏とて同じことだ。気に入らなかったら暴力を振るう野蛮な生き物だ。そうやって私に危害を加えてくる人間は機嫌が悪いのだ。機嫌が悪い人間は上から下までいるものだ。そいつは私のほかの点が気に入らなければそれを攻撃してくるだろう。機嫌が悪いのだから仕方がない。機嫌の悪い奴の機嫌を取ることまではできない。機嫌の悪い奴は気に入らないと暴力を振るう。生まれが悪いのか育ちが悪いのかわからないがとにかくそうする。世の中の半分くらいはそうだ。アメリカ人なんかほとんどそうだ。基本は機嫌が悪い。我慢するということができない。気に入らなければ攻撃する。俺様体質。それが世間の大半だ。私は困らない。困ったことなど起こらない。困った顔をすると喜んでもっとやってくる。知らない振りをするかひどい場合は立ち去るのみだ。b校なんか全く理由もなく機嫌の悪い奴ばかりだったじゃないか。何のためにあんなところに行ったのか。自傷行為か。自傷行為はやめよう。そういう機嫌の悪いやつは大都市中心にうじゃうじゃいるし、絶対に勝てない。なぜ戦いを挑むのか。全くわからない。自傷行為だ。そんな機嫌の悪い奴の機嫌をとろうなんて思わずに自分の機嫌だけ取ろう。ヤンキーなんかは機嫌が悪い。人を殺したりする奴もいる。コンクリ詰め殺人とか人間じゃない。あいつらは人を殺そうと死刑にはならない。成熟した人間じゃないのだ。そんな奴の機嫌なんか取ることが可能なわけがないじゃないか。スーパーマンじゃないのだ。私も大人になろう。義人になろう。ツイテル、嬉しい、楽しい。幸せ、感謝します。ありがとう、許します。この天国言葉を言おう。良いことをしようというより、普通のことができるようになろう。 とにかく抗うつ剤を飲んで気分を整えよう。無理せず疲れたら休もう。私は野蛮で無防備なのだろう。京阪沿線の恐さを感じた。世の中優しい人間だけではない。でも困ったことは起こらない。困ったことは起こらない。 今日はちょっと元気が出たからといって少し頑張りすぎたかもしれない。朝から電話などして疲れた。昼飯も食い損ねたし。京阪での長い旅も結構苦痛だった。抗うつ剤で作った元気だから無茶はいけない。それに前にも経験済みだが、悪い面が出ることがある。暴力や怒りに結びつく粗野な面。自傷行為に思える無謀な行動。今休んでいるのだってずいぶん無謀だ。基本に適応障害があるから、あるいはptsdがあるからなかなか正常化しない。安全運転を心がけよう。無理は禁物だ。 お前は一日一日を一所懸命生きている。真面目でひたむきだ。悪い気持ちは誰にでもある。純粋だったお前は悪魔に取り付かれて苦しんだ。でも今は十分コントロールできる。お前は素直で優しい良い人間だ。もう悔い改めている。もう許されている。人間は優しいのだ。優しくないのは未熟だからだ。劣等感を持っているからだ。私自身も長く劣等感に苛まれてきたのだ。でももう大丈夫だ。天国言葉を唱えて、抗うつ剤を飲んで徐々に回復していこう。困ったことは起こらない。人間は優しいのだ。 父は優しかったが、無責任で卑怯に見えた。当時の私にはそう見えた。私は怒り狂った。それ以来、働く気を失った。でも結局私が間違っていたのだ。私が狂っていたのだ。今の私を見るとなんとなく人は馬鹿にするか、恐がる。正常には見えない。でも最近は少し良くなっている。なるべく人の接しないようにしよう。朝電話なんかしたのは間違いだった。まだ正常ではない。安全運転で、人となるべく接しないようにしよう。 お前は悪い心がある。それを十分コントロールできるようになれ。完全にコントロールできなければ社会で生き残ることは難しいだろう。でもきっとできる。自分を客観的に見ろ。人がされたら嫌なことはするな。義人になれ。幸せ言葉で自分の機嫌を取れ。機嫌の悪い人間の機嫌を取るな。 やっぱり私は悪いことをした。悪いことをしておいて、人を責めるなんておかしすぎる。私は悪いのを通り越して完全に頭がおかしかった。今こうして社会生活をしているのが不思議だ。 お前は元々良い人間だった。悪魔が住み着いたために悪いことをしてしまった。自分のした悪いことのために返り血をべったり浴びてptsdになり生きることができなくなった。でも今からでも遅くない。悔い改めて義人となって生きよう。何もボランティアをしろとか寄付をしろとか言っているのではない。自分の悪への性向をよく認識してコントロールせよといっているのだ。困ったことは起こらない。ババアのプチ暴力なんかなんでもないだろう。京阪沿線では当たり前だ。前にも恐い思いを何度もしたじゃないか。 暴力や恐怖で人をコントロールすることはできない。犯した罪は償うことだ。父は死をもって私の反社会的な性格を諌めてくれたのだ。私が反省しなかったらどうするのだ。 困ったことは起こらない。この世は困ったことは起こらないのだ。義人になること。そうすれば全てはうまく行く。ptsdも直る。仕事もできるようになる。明るくなる。元気になる。悪いことをしなくなる。私に悪いことをしてくる人間は元々機嫌が悪いのだ。機嫌が悪い人間の機嫌まで取れるわけがない。人間のダークサイドのことなんか知らない。モラハラや暴言をなぜするかなんか知らない。そんな下等な人間の機嫌なんか取れるわけがない。自分の機嫌だけ取るのだ。天国言葉を唱えるのだ。困ったことは起こらないのだ。
昨日は柳生街道の残りを歩いてきた。良い天気だった。何も問題がなかった。何も困ったことは起こらない。何か困ったことを仕掛けたり、人の気分を害そうと必死な奴を見かけるが、何にもならないことを知っているのだろうか。しかしいまひとつ気分は最高とはならず憂鬱なのはどうしてだろう。抗うつ剤にも限界があるのか。あまり有頂天になることをどこかで戒めているのか。しかし嫌な駅員だった。死ねといいたくなる。何でhやkが嫌いなのか。馬鹿だからだと気付いた。人に襲い掛かって来るような奴は馬鹿に決まっている。本当に欲深でしつこい。気分が悪くなる。人にものを要求してこずに自分で解決しろと。馬鹿を受け入れようと努力する結果、気分が悪くなる。昨日の馬鹿駅員でもそうだ。本当に気分が悪くなる。受け入れなければいいのだ。劣等感があるのだ。それで人に襲い掛かって気分を害そうとしてくるのだ。下等動物なのだ。 困ったことは起こらない。本当に私の人間嫌いも病膏肓に入ってきた。行きの電車の乗客、弁当屋のババア、タクシーの運転手、道を聞いてきたババア、柳生で見かけた二人連れのババア、立ちんぼのおっさん、ふもとで追いついたハイカーグループのおっさん、おばはん、温泉の受付の女、駅員、スーパーのレジの女。どれをとっても憎憎しい、大嫌いな奴ばかりだ。人を差別的な目で見る。会社に行けばまともじゃない奴が襲い掛かってくる。仕事ができようが、まともじゃない奴は困る。何がおかしかったのかわからないがとうとうこういうところまできた。でもそれでも困ったことは起こらない。ハッピーだし、ラッキー、サンキューだ。私はあの家を悪くした。でもなんて言って良いかわからない。皆良い人たちだった。誰も恨みになんか思っていない。私を恨んでもらっても憎んでもらっても構わない。最近自衛のためなら悪いことをしてもいいと思えるようになった。それが普通の考えだ。悪いことといっても危害を加える奴に反撃するくらいのことだ。正当防衛は許されると言うことだ。 でも今頃になってようやく人が何を考えているか正確にわかるようになったし、自分を守るために何をしたらいいかわかるし、まともになってきた。今まではまともだったためしはなかった。脳がだいぶ劣化している。でも大丈夫だ。困ったことは起こらない。自分を守らないといけない。自分を守る方法は穏やかな方法ばかりではない。ほとんどの人がそうであるように暴力的な方法が有効であることが多い。まともな人間ばかりではないと言うこともわかった。馬鹿も多いし、何を言ってもわからない奴もいる。 何か体調が悪くなった。昨日頑張りすぎたか。もともと体調が万全ではなかった。でもお前は良く頑張った。元々善良な人間だった。でも善良すぎて悪魔が取り付いて悪さをした。でも今は立ち直った。お前は未熟だ。早熟すぎた人間が未熟になる。思うにお前のやったことは過ちが多かった。責めるわけではないが、世間を恨まないように言う。hやkは変わり者で欠点が多い。でも私も攻撃される欠点が多い。甘えすぎるのは悪い点だ。会社での私の振る舞いは病気を差し引いても褒められたものではなかった。反省は改善のために必要だ。無意味な自責は良くないが、明日につながる反省は必要だ。私を不審な目で見た人々を責めることはできない。私は社会に甘えているのだ。社会全体からずれ始めているのだ。だから襟を正さないといけない。しっかりしないといけない。このままではいけない。ようやくわかった。自分がしっかりしないと、世間や他人をせめても何もならない。義人になるという誓いはそのためのものだ。困ったことは起こらないのに自ら困ったことを起こす。そして人を恨む。それは人に嫌われるだろう。嫌われると世間を責める。やっぱり客観的に見るとおかしい。真面目になろう。人を苦しめて平気なお前の性根がおかしい。義人とはそこまで直せと言うことを言っているのだ。人に変な目で見られても気にしない。人に変な目で見られることはしない。お前はもっと自分を尊重しないといけない。自分を愛さないといけない。自分のを粗末に扱ってはいけない。自分をいじめてはいけない。感謝しないといけない。許さないといけない。お前は世間を恨んではいけない。お前は少し身を慎まないといけない。もっと良いことを考えないといけない。それは誰も教えてくれない。自分で考えないといけない。お前は自分を愛さないといけない。愛した方がよいだろう。誰からも愛想をつかされるだろう。 お前は良い人間だ。優しい心を持ち、なんでも良く理解できる。社会に役立つ人間だ。だから自分をいじめる行為は止めろ。この日記でも自分を罵ったり、傷つけたりしてはいけない。お前は自分を尊重せよ。悪い点に気付いたらすぐ改めよ。悪い点に気づくと言うことは善良であると言うことだ。お前はきっともっと良くなるし、幸せになれる。変わっていける。悪い点を改めることができたら、見違えるように変われる。誰からも愛され、信頼される。わざと悪いことをして、自分を傷つける行為をやめさえすれば。ヤンキーみたいな行為をやめれば。自分が悪いことをいっぱいやってきたと言う自覚を持って、根本的な反省に立って、今すぐ悪い点を改めろ。そうすればかならず良くなる。山を歩くのはいいが、身なりや行動に気をつけろ。できれば単独行動は避けろ。優しくしてくれる人に甘えるな。まして傷つけるな。人格障害といわれる。お前はもう自分が十分わかったはずだ。だから決して世間を恨んだりせず、身を慎むのだ。自虐的なことをすることは直ちに止めろ。 お前は良い人間だ。ものの道理もよくわかる。人の心も判る優しい人間だ。自分を裏切るようなことをしてはいけない。自分を傷つけるようなことはしてはいけない。困ったことは何もないのにわざわざ自分を困らせるようなことをしてはいけない。自分を尊重しないといけない。お前はずいぶん苦労をしてきた。しかしそれは皆自分がまいた種だ。決して世間を恨んではいけない。お前は何不自由なく育ったはずだ。両親にも感謝しろ。両親に恩返ししろ。今からでも遅くないから、まともな人間になって親に恩返しをしろ。お前は良い人間だ。できるはずだ。自暴自棄になるな。真面目に考えろ。真面目になれ。楽ばかりしようと思うな。人に迷惑をかけるな。お前は良い人間だ。悪いことをするような人間ではない。幸せだ。生きているだけで幸せだ。運が良い。感謝しろ。自分がしなければならないことはよくわかったはずだ。直ちに実行しろ。 人に優しくしろ。人を見下すな。人と仲良くしろ。優しくあれ、つましくあれ、人の先に立つな。 人を見下すから怒り狂って攻撃される。なぜ人を見下すか。劣等感を持っているからだ。そんなことは関係ないのだ。怖いという名の差別。恐いの反対は優しい。おばさんに限らず、人は優しいのだ。恐怖は人間が勝手に作り上げるのだと一人さんも言っているじゃないか。おばさんなんか弱くて愚かで無知で恐れる必要なんかないじゃないか。むしろ労わってやるのが普通だ。 お前は優しい良い子だった。弱いもの愚かなものを憐れむ良い子だったじゃないか。あの日に戻ろう。優しいお前に戻れ。そうすればきっと立ち直って生きていける。お前は真面目で良い子だった。真面目が悪いことであるわけがないじゃないか。真面目に帰れ。誰も笑ったりするわけないじゃないか。 中学くらいからしんどいのはわかっている。でも良い薬もあるし、カウンセラーもいる。きっと回復できる。恐い感じはなくなった。優しいのだ。人間は。 お前は優しいから傷つくことが恐くて中学から自分の殻に閉じこもるようになった。自尊心を守るために勉強だけに打ち込んだ。それが劣等感の始まりだ。それが人を差別することにつながった。お前はもうわかった。良かったじゃないか。全てがわかった。わかっただけで謎が解けるのだ。我慢してはいけない。 お前は良い人間だ。真面目に働けば誰にも非難されない。きっと立ち直れる。魂力をあげるのだ。悪いことをすればいいことが起こると思うのはおかしい。 お前はできる人間だ。真人間になってまともに働け。 ホテルルワンダを観てきた。疲れていたので最初の方は見逃したが、やっぱり衝撃的な内容だった。こういう政治色の強い映画は芸術的には味気ないのだが、それもいいだろう。人間の素晴らしさと愚かさ、恐ろしさを感じた。戦争は人を狂わせる。絶対だめだ。戦争になれば皆狂ってしまって逃れられない。だから起こさないことが肝心だ。 だいぶ回復している。最初調子が良かったのが飛ばしすぎてダウンして、苦しんだ。しかしその間に多くのことを学んだ。成長した。自分はやっぱり良い人間だ。もっといい人間になろう。そうすれば受け入れられる。今まではやっぱり悪い点が多かった。反省できるということは改善できるということ、善良であることだ。 困ったことは起こらないと念じていれば怖いことはなくなる。恐怖というお化けを自分で作ることがなくなる。困ったことになるんじゃないかという気が強すぎるので、誰もが敵に見えて恐くなる。人は恐いんじゃなくて優しいのだ。 自分を尊重し、大事にしよう。誇りを取り戻すために働こう。必ずできる。恐れに負けてはいけない。 困ったことは起こらない。おかしな学生とか見て何かするんじゃないかとか困ったことが起こるんじゃないかと考えると、それが奴らを刺激する。困ったことは起こらない。絶対に起こらない。困ったことが起こるんじゃないかと不安そうにしているだけで、何かしてやろうという気持ちを刺激する。それに対処行動を取り始めると奴らは宣戦布告と映るらしい。対処行動なんか取ったって防げるものではないのだからやめたほうが良い。何も困ったことは起こらないのだ。恐怖がお化けを作り出す。それはやめたほうが良い。私も成長したものだ。 困ったことは起こらない。いつも幸せ、ラッキー、感謝、ありがとう、嬉しい、楽しい、許します。今日吹田から帰ってきたときも困ったことも不快なことも一切なかった。すごい勢いで社会に適応している。劣等感から解放されている。恐怖から解放されている。働ける体になりつつある。 お前は良い人間だ。何でもよくわかる。人の心もよくわかる優しい人間だ。甘えは良くない。悪いことはするな。良い人間なのに悪いことをして自分を傷つけるな。困ったことは起こらない。お前が義人となり、悪いことを止めれば何もかもうまく行く。
今日は柳生街道に行ってきた。面白かった。バスの時間に困ったが、タクシーで円城寺まで言った。それから歩き出した時は本当に楽しかった。柳生に着くとバスがなかったので笠置まで歩いた。温泉に入って駅に行くと嫌な駅員がいて一時間ないという。京都が近いから嫌な奴が多いのかなと思った。
いつもの月曜の朝だ。会社に行かなくていいのは本当に幸せで、嬉しく楽しく、感謝したい。ありがとう。今日は映画でも見に行こうかな。女でも誰でもガードを下げて力を抜けば抜くほどうまく行くのだと思った。力を入れて興奮し、怒れば怒るほど全くうまく行かない。 仲良くしようとするからいけない。仲良くなんかできるわけないだろう。人格障害の宅間みたいなやつが包丁持って襲い掛かってきているのに我慢なんかできないだろう。あの洗脳マニアのカウンセラーもほとほとうんざりだ。自己犠牲はうんざりだ。 対人関係の注意事項は優しさ、慈悲である。引くべきところを押している。自分ができうる限り優しくあること。相手の立場まで降りていくこと。腹が立つときこそ哀れみが必要だ。人は人が恐いのだ。 こうやって動けるようになったのは喜ばしい。3,4月はむしろ躁状態で良い状態とはいえなかったのだ。危険に満ちた状態だ。今は落ち着いて危険を見分けられるし、危ういところはない。 カポーティーをみてきた。面白かった。もっと気持ち悪いかと思ったが、大丈夫だった。カポーティーは同性愛なのだろうか。気持ち悪い人物に描かれていた。やっぱり人に情けをかけるのは大概にした方がよい。絞首刑まで見せられる羽目になる。作家と言うのは業の深い商売だ。でもだいぶ大丈夫になった。外に出られるようになった。見られても平気になった。義人であるためには哀れみがどうしても必要だ。義人であればその辺が自然にできる。本当に憐れだと思う。この気持ちは大事だ。抑圧も排除もする必要はない。女々しいと思われても平気だ。女性的に生まれてよかったと思う。私は悔い改めて許された。新しい人生を生きるのだ。 抗うつ剤の効果はすごい。でも有頂天にならないのは脳全体がダメージを受けているのか。それでも一向に困らない。世間は私の100倍くらい馬鹿な奴ばかりだ。気にすることはない。困ったことは起こらない。哀れみというのは本当に大事だ。これがあれば何も困らない。 一人さんのcdを聞いていたら涙が出てきた。神様が認めてくれているんだから回りが何と言おうと気にしなくて良い。そう言ってくれる人が地上にいると言うだけで嬉しくなる。ありがとうと手を合わせたくなる。劣等感がひとを苦しめる。ものすごく思い当たる。自分が何かの劣等感を持っているから人を攻撃する。自分を攻撃する。人に嫌われる。穴ババアも劣等感の塊だ。それに怒っても仕方がない。私が劣等感の塊なのをコピーしているのだ。それを私に100倍にして返しているのだ。劣等感。学歴とか色々ある。母親との問題。父親との問題。母親は父親が出世できない理由を学歴に求め、子供に当たってくる。私は高望みしてここまでやってきたが無理なんだ。無理がたたってこんな病気になってしまったのだ。でも私は回復する。きっと立ち直れる。 斉藤さんの講演を全部パソコンで聞いた。すごすぎる。私が一年かかって考えたことが全部語られている。最後の話が特にすごい。死は恐ろしくない。優しい神なんだ。多分そうじゃないかと思っていたことをずばり言ってくれた。人間にそんな困ることや嫌なことを神様が与えるわけがないと。全くそうだ。テロメアと言う何だかdnaだかなんだかがあって寿命を決めているそうだが、神様が何でわざわざそうして寿命を決めたのか。すごくよくわかった。生きることは時には大変な苦しみだ。それはもう70年か80年でいいだろうと。苦しみから救ってくれるんだ。もうがんばらなくていいんだよと。死は何も恐いものじゃない。全くその通りだ。むしろ甘美なものかもしれない。一番恋焦がれているものかもしれない。安らかに天寿を全うして死ねるものならば、決して恐れるものでもなんでもない。小さい頃から死が本当に恐かった。恐怖が私をこんなにも苦しめてきたのかもしれない。私もだいぶ成長した。一人さんの話が一回でこれだけわかってしまうなんて。恐いの反対は優しいじゃないか。あのババアも死と同じで訳もなく恐がっているからほんとに恐くなってしまう。恐いわけがないじゃないか。最近本当に恐くなくなってきた。女は弱くて無知で時には醜い。でもそれが人間の姿じゃないか。普通にしてたら人間とはそういうものだ。自然な姿だ。子供だってそうだ。赤ん坊なんか全くそうだ。見ようによってはサルのように醜いという人もいる。親自身がそういう。それが当たり前じゃないか。老人だってそうだ。弱く愚かで醜くなって死んでいく。もう頑張らなくていいんだよと、神様が優しい神様が迎えに来る。死は優しい神様だというのが一人さんの教えで私もそう思う。人は恐いだろうか。普通にしていたら恐くなんかない。人間の真の姿は空腹に泣きじゃくる憐れな赤ん坊じゃないか。何も恐くなんかない。優しい。哀れでもある。恐いと思うのは全く間違いだ。全く間違った妄想か何かに取り付かれている。恐れと言う魔物に取り付かれている。悪い人間と付き合ったってそんなのは過去の話だ。もう悔い改めて許されている。ババアだって恐いんじゃないのだ。弱いし、優しいのだ。死が恐くないんだったら、ババアなんか全く恐くないに決まっているじゃないか。 私はもう義人なんだから良いんじゃないかと思う。恐がることも卑屈になることもないと思っている。過去に変な人間と付き合って変になったからと言って今はもう悔い改めて許されているのだから、気に病むことはないのだ。 スピードを上げて頑張ることではなく、スピードを最小限に落として、はるか下のほうにまで降りていくことでうまく行くんじゃないだろうか。厳しくしてもだめで、優しくすることじゃないか。恐いと思えば恐くなるし、優しいと思えば優しくなる。
やっぱり眠れない。二日続けて酒はまずいのか、昨日のイベントが悪かったのか。薬の効き方なのか。穏やかであること。薬の効き方が激しいので、穏やかであるように気をつけよう。自分は自分の辛さをわかってやれる唯一の人間だ。親兄弟でもこの辛さはわからない。本当に気の毒だ。かわいそうだ。ゆっくり休めと言ってやりたい。我慢するなと。世の中義人であれば困ったことは起こらない。困ったことは起こらない。抗うつ剤は一定期間は続けてみよう。危険なことはないはずだ。既に経験済みだ。合気道のあの女の子は嫌だ。嫌なら嫌とはっきり言えばいい。耐えることはできないだろう。自分を守ろう。人がどう思うかではなくて自分がどう思うかだ。私は耐えられない。面白くはないだろう。抗うつ剤の作用で元気になっているので、これを乱用してはならない。まあ今が一番辛いくらいでこれからは良くなる。きっと楽になる。 少し落ち着いた。自分に言葉をかけてあげた。お前は根は純真で善良で優しいことは私が一番知っている。悪いことをしたのはお前が弱くて優しいから悪魔が取り付いたのだ。お前はもうその報いを十分に受けた。これからは自分の人生を歩いていけ。かわいそうになあ。気の毒になあ。辛かっただろう。痛かっただろう。悔しかっただろう。お前はとても傷ついている。今は何も考えずゆっくり休め。 こういうことを言ってほしいと言うことを自分に語りかけよう。カウンセラーにわかってもらうことは途方もなく骨が折れる。しかも無駄骨に終わることが多い。しかも洗脳される危険がある。良く私はb校に行ったものだ。蛮勇だ。こういうことはやめよう。egに行ったことも蛮勇だ。悪という古い道具を手放したらどうだ。善良な人間、聖なる人間、悔い改めた人間、義なる人間に生まれ変わって生きていこう。そうすれば困ったことは起こらない。困ったことは起こらない。近江商人も自分よし、相手よし、世間よしの精神で義なる道を歩んだから繁栄できた。義人であろう。引くべきときに押す悪い癖を直そう。悪から手を洗おう。昨日のおばさんみたいなのと果てしない不毛な闘争を続けたいか。100%負けるし、傷つくのだ。金払った上に侮辱される。何のことかわからない。義人になろう。そうすれ新しい世界が開けることを私は知っている。脳に重大なダメージを受けた。でもそのお蔭で利口ぶらずに、素直に生きて行こうと思った。善良になろうと。悪人になりたいか。なれるわけがない。義人になろう。簡単なことだ。 昨日の平和集会は割高だったが、カンパということで。人と対すると一種の対人恐怖症で、ガードをすごくあげすぎる。全く自分を固く閉じてしまう。そうすると帰って安全ではなくなる。孤立は安全ではないことは中学高校時代の経験が証明している。だから逆にガードを下げる。リラックスする。そうすれば社会に溶け込むことができて、帰って安全だ。それにしても新潟に行ったときの新幹線で子供にいじめに遭ったときはショックだった。どうってことはないのだが、精神的に参る。東京、大阪の子どもは恐い。私は私で生きていこう。義人として。自分は困っているのだったら、助けを求めたら良い。困っているのに困っていないというと大変困ったことになる。困っていると言えば、助けの手が差し伸べられる。 困ったことはないのに困った困ったと言いすぎる。困っていないのだ。困ったことなどない。引くべきときに押している。 困ったことは起こらない。悪い人間はもう飽きた。疲れる。悪い人間はそういう人間なのだ。義人になれば困ったことは起こらない。 私に言葉を贈りたい。お前は善良だ。一時的に悪魔に取り付かれただけだ。辛かっただろう。恐かっただろう。さあこれからは義人として善良な人生、自分の人生を生きるのだ。馬鹿で何が悪い。ガードを下げるのだ。自分の殻を破るのだ。お前は疲れている。かわいそうだ。本当に孤立無援で母親にまでわかってもらえなくて恐かっただろう、辛かっただろう。私は解放された。もう困ったことは何もない。困ったことは起こらないのだ。義人になれば幸せが雨霰と降ってくる。義人になれば誰からも信頼される。義人とは馬鹿のことじゃなかろうか。馬鹿になれた。嬉しい。ハッピー、ラッキー、サンキュー。 困ったことは起こらない。あれがいたからといって困るか。でもhが側にいると困る。私に攻撃してきたからだ。絶対にあそこに戻ることはできない。困ることしなければ困らない。 お前はかわいそうだ。お前は善良だ。悪魔に取り付かれて悪いことをしたが、今は改悛して許されている。お前は安心してよい。困ったことは起こらない。困ったことなんて起こったことはないのに、騒ぎ立てて衝突する。馬鹿な話だ。全く意味がわからない。お前はもう武装解除してよい。ただしあの場所を立ち去ることだ。ガードを下げるのだ。リラックスするのだ。 薬を飲んだらふっと良い気持ちになった。やっぱり必要な薬なのだ。6ヶ月も気付かなかったとは迂闊な医者だ。困ったことは起こらない。だから私もガードを下げていいのだ。周りと溶け込んでもいいのだ。昨日、そう思ってホールの中に入ったら、若い奴ばっかりで何となく溶け込めない感じを受けた。でもそんなに恐い感じとか嫌な感じがしなかったのは今までとははっきり違う。周りが少し見えてきた。 呼吸法を久し振りにやったらすごく快調だった。ものすごくリラックスできた。素晴らしいことだ。 私は悪いことを過去にしただろう。でももう十分に報いを受けた。なぜこれ以上苦しまなければならない。もう苦しまなくて良い。もう困ったことは起こらないのだ。そう心の底から思えるのだ。悪を働く必要はないし、そのつもりもない。卑屈にもならず堂々と生きていける。 何かすごく幸せがやってきそうだ。幸運なことが訪れそうだ。今日はミナミをいつものようにぶらぶらしたが、いつになくリラックスできた。なぜだろう。薬と呼吸法だろう。困ったことは起こらないとすると自然にガードが下がる。そうすると何かの交流が生まれる。親しみを持ったわけではないが、今までのような恐怖心はなかった。 楽しい。困ったことは起こらない。自分に言葉をかけてやった。自分がかけてほしいと思う言葉を。かわいそうだね。気の毒だね。良く頑張ったね。偉いね。お前は悪くない。十分報いを受けている。許されている。新しい気持ちで生きよ。私は頑張れない。頑張っていいのだ。もう何もかもokなのだ。だから頑張っていいのだ。
いつものように朝早く目が覚めた。色んなことを考えた。抗うつ剤で少し調子が上向いていること、女のこと、今までの人生のこと、昨日の柳生街道の茶店での一こま。私は広い世界を知らずに生きてきたのだ。自ら窮屈な狭い場所に閉じこもって。そして抗うつ剤のお蔭でそこから少し顔を覗かせてみた。b校の門を叩いても見た。痛い目にも遭ったし、良い思いもした。ptsdスペクトル障害群と言う概念は大変目を開かれる思いだ。まさしく私の人生全体を覆っている黒い雲のことを言い当てている。いつからと言えば小学校の低学年くらいだろう。変な子と付き合ったこと、いじめに付き合わされたこと、とことん変な子とばかり付き合ったこと。書きつくせないくらい妙な経験ばかりした。小学校高学年から中学では教師による虐待にあって、ptsdは決定的になった。中学になってから女が妙に恐くなった。女の早い性への目覚めが恐かった。私は晩生だったのか。そうともいえない。女が余り好きではなかったかもしれない。素直じゃなかったのかもしれない。女を嫌うことは余り得策ではない。それが今になってこれほどたたるとは思わなかった。昨日も電車やバスの中でババアと衝突しそうになった。私は悪い癖で暴力に訴えたくなる。レイプとかしたいと思ったことはなく、暴力だ。やっぱり余り好きではないのだ。性的に惹かれる度合いが普通より少ないのだ。同性愛と言うわけではなく、ヘテロには違いない。でも少し歪んではいる。これがこんなに大きな問題に発展するとは思わなかった。でも昨日帰りの電車の中で若い女の話を聞いているときは悪い気はしなかった。惚れ惚れするほど馬鹿だなは思ったが、悪い感じではなかった。今までとは少し変わったような気がする。ガードが固すぎたのが少し甘くなった。猫に情が移ってかまぼこをやった心理と重なるような気がしないでもない。これも抗うつ剤の効果か。情が必要だ。義人になるためにもそれは必要だ。でもヒステリックに糾弾されると反発したくなる。嫌なものは嫌なのだと。でも昨日は少し嫌でなかった自分、それを快いと感じる自分を発見して驚いた。この調子で行けばいいのだ。困ったことは起こらないのに、困った困ったと言い続け、とうとうここまで来た私。でも遅すぎると言うことはない。人生の最後の日まで幸せを諦めることはない。ハッピー、ラッキー、サンキューだ。こんなに楽しくても許されるのだから、私もたいていのことは許す。私は冷たいと言われたことがある。情がないということだろう。その意味が漸くはっきりわかった。義人になるためには是非クリアーすべき問題だ。女や弱者に優しくすること。抗うつ剤の効果ですごく良くなった。躁転することさえ気をつければ、非常に有効な薬だと思う。私の場合は人生を変えることさえできる。ハッピーになり、ラッキーと思え、人に感謝でき、人を愛することが可能になり、情を理解すること篤くなり、文学をよりよく理解でき、人間や世の中を人並みに理解できるようになった。これならば働くこともできる。世の中は私が思っていたような空虚な空間などではなく、愛に満ちた困ったことなど起こらない世界なんだと思った。私は困ったことなど一度もない。それは自分の努力によるところはごくわずかで、ほとんどは誰かのお蔭、親のお蔭、世間のお蔭だった。愛のない空間などないことは昨日の茶店での出来事だけでもよくわかる。愛に背き続けてきた私もとうとう愛を学ぶ時が来たのだ。女を人を愛することができるような気がしてきた。女がそれほど嫌じゃなくなった。思えばこの間の講演会でも隣におばさんが座っていても気にならなかった。相当改善された。義人になることができそうだ。困ったことは起こらない。今困っているんじゃなくて学んでいるんだ。b校に通い始めた頃はまだ若葉マークだったのだ。今漸く愛についてわかり始めた。でも私は相当女にガードが固い。相当きれいな女でないと情が動かない。昨日も猫に情が動いたのは、子連れで子猫が可愛かったからだ。昨日は歩いている間ずっとハッピーでラッキーだった。人に感謝できた。許すことができた。義人であれば人を愛することができるようになる。義人になれば困ったことは起こらなくなる。女は好きでなくても優しくすることはできるんじゃないか。暴力を振るうなんてとんでもない。愛を知らないことはどうやら大きなマイナスらしい。私も女を愛することができそうだ。少なくとも優しくすることはできそうだ。人に愛されることに戸惑わなくても良さそうだ。子供だけしか愛することはできないだろうか。そんなことはなさそうだ。誰にでも優しくできそうだ。困ったことは起こらなくなりそうだ。脳が壊れて馬鹿になったことは良かった。真実に気付いたからだ。愛という真実に。b校でも何となく合わなかったのは変わり者が多かったせいもあるが、愛を知らなかったためだ。愛を知らない人間は困るだろう。私はそんなにサドマゾヒスティックになる理由などないのだ。おかしな奴と付き合ったと言うだけで、別に自分がそうなる理由はない。付き合いが良すぎる。影響を受け易すぎる。でももう問題は解決した。長い旅は終わった。困ったことは起こらなくなった。義人になった。人を愛せるようになった。人を信じられるようになった。自分にやさしくできるようになった。抗うつ剤はしばらく飲み続けたほうが良さそうだ。ptsdスペクトル障害群の緩和に大いに役立つ。あの何でも人のコピーをし、なんでも仕返しをする、人格障害の女が現れなかったら、自分の根本問題にも気付かなかったのだから、感謝しないといけないかもしれない。このままやり過ごすことは不可能になっていたのだろう。何でここまで不都合が生じるほど徹底批判されないといけないのかとも思うが。良い面はあるのだから、良い面を見てくれたらいいじゃないかと思う。どうして悪い面ばかりクローズアップして、徹底批判するのかわからない。それは自分が愛されなくて受け入れられなくて悔しいからだ。認められなくて悔しいからだ。そんなに悔しく思うと言うことは私に執着していることだ。それ自体が恐いのだ。弱くて醜くて馬鹿なおばさんに執着されることがパニックを引き起こすのだ。母もおばさんも私に愛されなくて困っている。困った人間は救わないといけないんじゃないのか。でも大概の人間はおばさんが嫌いじゃないか。でも私ほど、暴力を振るいたいほど毛嫌いする人間はいないので、やっぱりおかしいのだろう。義人ではないのだ。弱者に優しくできないのは致命的なのだろう。でももう問題は解決した。私は義人になった。困ったことは起こらない。 女との関係も特別なものじゃなく自然体で、卑屈になる必要はさらさらなく、おばはんに擦り寄らないといけない理由もさらさらなく、いじめを受けないといけない理由もさらさらなく、ごく普通にやっていけるだろうと言う気がしてきた。徹底批判などされる理由もさらさらない。義人になれば自然にうまく行くだろう。とにかくあいつにだけは近づかないことだ。私にどれだけ欠点があろうと精神を破壊されるほどひどい仕打ちを受ける理由などさらさらない。私は普通に生きていける。困ったことなど起こらないと本当に実感できる。あのババアたちを前にしても。 困ったことは起こらない。幸せになれる。多田富雄という人は脳卒中で体に自由がほとんど効かないが、何か困っているだろうか。何も困ってはいないのだ。困ったことがあれば誰かがすぐ解決してくれるだろう。この世は愛に満ちている。愛を知らない私にも愛の恩恵は均てんしてきた。こうして生きていられるだけで素晴らしい。感謝だ。働けなくなっても困らないようになっている。これは多くの人々の汗の賜物だ。感謝だ。私は昨日までの私ではない。愛を知る義人である。困ったことは起こらない。とにかく合わない。あの職場は合わない。でも私はもう大丈夫だ。聖なる存在になった。聖なる時間を生きられる聖人になった。足蹴にされたり、糾弾されたりする人間ではなくなった。それがそもそもおかしいだろうと言いたい。何で私のような義人を批判したり、いじめたりできるのか全くわからない。 自分に優しくしよう。自分を大事にしよう。いじめられても我慢しているなんてやめよう。一人さんの言うことを聞いていれば間違いない。困ったことは起こらない。義人である私には二度と困ったことは起こらない。我慢していたら死んでしまう。困ったことは起こらない。愛を知った私には困ったことは起こらない。暴力を振るわれるいわれはないのだ。困ったことは起こらないのだ。 私はバランスがおかしい。嫌だったら嫌で良い。嫌なものを我慢しないといけないことはない。何で自分を受け入れないものと一緒にいられるのか。全くわからない。怒るときは怒ろう。昨日も電車で嫌がらせされるのをじっと我慢していたら、モラハラみたいになって、何かいじめるのが当然みたいになって、悪党の天国みたいになった。何で悪が許されるのか。私にだけは悪が許されるのか。何故?ホワイ?悪を許すから悪が蔓延する。暴力を許すな。許すことと許さないことがある。過去の罪は許すだろう。でもこれから自分に行われる罪を許すことは誰にもできない。イエスも仏陀も一人さんもそんなことは言っていない。いじめを我慢しろとは言っていない。中国も韓国も過去のことは許すと言っているが未来に同じことをすることまで許すとは言っていない。許すの意味が違うだろう。未来志向とは未来には二度とこんなことはさせないぞと言う意味も入っている。いじめで自殺する子らも学校に行かなければいいんだ。何で我慢して学校に行けというのか。全くわからない。あんな職場に戻りたくない。新しくやり直したほうがましだ。どうして人間はいじめるのだろう。でももう困ったことは起こらない。困ったことは起こらないのだ。 気が楽になった。人に優しくできる。愛することができる。義人になった。困ったことは起こらない。揉め事は起こらない。 困ったことが起こらなくなるためにはどうしたらいいか。義人になる。それだけで良い。他のことは考えなくても良い。自分に優しくしよう。やっぱりおばさんが恐いと言っても邪慳にするのはやり方としてまずいんじゃないのか。でも芸人でもないのに何でご機嫌取らないといけないのかわからない。だから中間でいいんじゃないか。自然体でいいんじゃないか。何で奉仕しないといけないのか。 今図書館に本を借りに行って思ったけど、義人になるだけで全てが変わる。私は社会の一員として受け入れられ、全ての扉が開かれ、困ったことは一切起こらなくなる。すごくハードルを自分で高く設定している。社会はそんなにハードルは高くない。すごく優しい。愛に満ちている。感謝と愛と優しさを持って、義人足らんと欲するものには世の中は究極に優しい。何か私のためにしてあげられないかと鵜の目鷹の目になっている。そう思ったことであった。 大阪映画祭に行ってきた。子供兵の映画はきつかった。ptsdになりそうだ。実際子供兵はptsdになるらしい。それはなるだろう。それだけでもみていて辛かったが、終わった後訳のわからないngoの代表とかがしゃべり始めて、こいつが大嫌いな松岡修造にそっくりなしゃべり方の嫌味なやつで、死にそうになった。嫌いな奴の話を最後まで聞かないといけないというのはフッキー症候群の原因となった出来事と同じシチュエーションじゃないか。またptsdになったらどうするんだ。何で我慢しちゃったんだろう。我慢するなと言っているのに。自分が我慢すると人にも我慢させようと無意識にしてしまう。そんなことはありえないことだ。ptsdの温床だ。レイプだって戦争だって一番嫌なことを人に我慢させようとするところが一番罪深いのだ。喜んで人を殺せる人間がどこにいる。騙されてはいけない。男女で結構だ。むしろ誇らしい。それで帰りの地下鉄の中で大阪人を呪っていた。全然大阪人には罪はないのに。そういうところがおかしいとわかった。自分が機嫌が悪くなると目の前の人間を呪う。関西人が悪いのだとか。何人とか。関係ない。明らかなことだ。そういうところは改めないといけない。絶対に。絶対おかしい。引くべきときにどうして押すのだ。中学のとき、おかしくなったのは引くべきときに押したからだ。どうして自分が悪いとわかっているときに怒ったりするのか。絶対通らない。今日の教訓である。ところで今日天満橋の地下で若い女の子が立っているのを見た。帰りに通りかかったときもその女の子は立っていた。もしかして気の毒な例の商売の子かなと思った。かわいそうだなと思った。本当にそう思った。大阪は恐いと思った。でもそれが大都会だなと。私だって昔は近いことをやっていた。偉そうなことはいえない。 パキシルを飲んでいると人に優しくできる。怒ったり、人より偉そうにしたり、勝とうとしたりすることは全然方向が反対だ。力を抜いて、すっとこちらから引けばいいのだ。全然力むことはない。 普通に歩いているだけで、普通に買い物をしているだけで、バス停で待っているだけでおかしな顔をされるのが辛い。飲食店に入ってもものすごく馬鹿にされるのが辛い。意味がわからない。多分私という人間を誤解しているのだ。誤解されるのが腹が立つので怒りをあらわにするとおかしな具合になる。あのババアとのこともそうだと思う。誤解されるようなことをしているのだ。きっと。困ったことは起こらない。卑屈になることはない。人にとやかく言われることはない。卑屈になることはない。困ったことは起こらない。義人になることだ。義人になれば困ったことは起こらない。気をつけることは義人になることだ。赤信号を渡る奴がいようと関係ないじゃないか。義人であれば良い。自転車でぶつかってくる奴がいてもいいじゃないか。歩いてぶつかってくる奴がいてもいいじゃないか。義人になろう。困ったことは起こらない。 今日は色々あった。気持ちが安定するまで余り刺激の強い活動は避けたほうが賢明かもしれない。パキシルは初めて飲む薬だし。やっぱり大阪は恐い。恐いの一言だ。油断できない。のんびりしたいのに。柳生街道くらいしかのんびりできるところはない。ちゃんぽん屋のババアが強烈だった。天満橋は恐ろしいところだ。前にもやられたことがある。その頃既に調子が悪化し始めていた。ババアは一瞬で全てを見抜く。そして的確な攻撃を仕掛けてくる。何でそんなに喧嘩がすきなのかわからない。アドレナリンが出まくっているのか。とにかく普通ではない。私は絶対に買わない。引きまくるのが唯一の正解だ。女相手になんで喧嘩しなけりゃいけないのか。いい加減にしろ。 とにかく落ち着こう。義人である。困ったことは起こらない。困ったことは起こらないのだ。ハッピーでラッキーなのだ。酒を飲んだ翌日は調子が悪い。いつものことだ。だからと言って困らない。喧嘩を売られても絶対に買わない。バス停でくそみたいなババアがにらみつけてきた。人間じゃない。ヤクザレベルだ。でも困らない。喧嘩は絶対に買わない。どうして買わないといけないのか。困ったことは起こらない。ハッピーラッキー、感謝だ。さあ悪口を言いまくったところでスッキリ寝よう。誰とも喧嘩しないのだ。絶対に買わないのだ。
柳生街道に言ってきた。朝起きたとき、まだ万全ではなかった。風邪っぽい疲労感が残っていたが、空は快晴だし、もったいないと思って出かけた。パキシルのお蔭だ。奈良へは11時過ぎくらいに着いたが、バスを乗り間違えて春日大社で降りてしまった。でも地図を見ながらようやく入り口までたどり着いた。まんざらぼけてはいない。それから素晴らしい道を歩いた。森のトンネル。森林浴し放題。素晴らしかった。下は石畳で相当なものだ。これ以上素晴らしい道は関西、いや全国でも他にはないだろう。峠の茶屋で弁当をあけようとしたら忘れてきたことに気付いた。やっぱりぼけている。ところが茶屋ではうどんも出していたので月見うどんを注文した。時間がかかった上にまずかった。冷凍の讃岐うどんのようだった。山奥だから仕方がない。猫が近寄ってきてすごい目でにらむので食い終わってからかまぼこを一切れ分けてやった、私はすばやくその場を立ち去ろうとすると猫がもっとないのかといわんばかりににらみつけてきた。すごく恐かった。やっぱり安易に人に施しをするものではない。自分の身まで危うくなるのだ。アメリカの国立公園に行ったとき、リスに襲われそうになったことを思い出した。私は優しいので怒れないのが欠点だ。これからは怒るようにしよう。私のほうは怒られてばかりなのに何で私は怒れないのだろうか。金を払うとき、おじさんが猫がかまぼこを食っているのを見て怒り狂って猫を追い払っていた。やっぱりやるべきじゃなかったのだ。犬にもほえられて恐かった。ちょっとした波紋だ。やっぱり権利が侵害されたら怒れるようになりたいものだ。法学部に行ったのもそのためでそれは良かったとおもっている。怒らなくてもいいことまで怒っているが。それで困ったことはないのだなあと思った。確かに私は猫を怒れなかった。だが、それで何か困っただろうか。猫はかまぼこにありついた。私は腹いっぱいだったので困らない。おじさんは猫を怒って教育した。猫はおとなしく散っていった。誰も困らない。私はこうやって休んでいるが何か困っているだろうか。金は毎月振り込まれ、食うには困らない。薬は飲みきれないだけ安く手にはいる。寝たいだけ寝ていられる。会社は私が重要な仕事をしていたわけではないので全く困らない。第一、一銭も私に払ってはいない。結局誰も困らないようにできている。私は病気で会社を辞めたが困っただろうか。次の会社を首になったが、食うに困っただろうか。金に困っただろうか。今も昔も金に困ったことなどない。困ったことがないというのはいいことだなあと思った。子供も困ったことなどない。女も困ったことなどない。男も困ったことなどない。北朝鮮が核実験をしたからといって誰も困らない。これからも決して困らない。誰も困りたいなどと思わないからだ。北朝鮮の指導者だって何も困っていない。困っていたら今すぐ亡命する。生きているのが楽しくて仕方がないから、やっていられるのだ。何も困ってなどいない。仕事というのは困ったことには違いない。何も困ったことなどない世の中を困ったことを作り出して、物を売りつけようとするのだから。だから困っていない人しかできない。一応私はこまっている人ということになっているから、仕事をしちゃいけないことになっている。でも本当は何も困っちゃいない。飛行機を操縦する奴が精神病や障害者など困った人だったら本当に困る。困った人は仕事をしちゃいけない。おばはんが嫌いだからといって何か困ったことがあるだろうか。全く困らない。嫌われて当たり前の生き物じゃないか。私は何も困らない。本当に困ったときは困っているんじゃなくてそのときこそ学んでいるんだ。今こそ私は学んでいる。でも困ってはいない。学んでいることを困っているとは誰も思わないだろう。 女は馬鹿で弱くて醜い。社会から排除されるのは当然だろう。馬鹿で弱くて醜い。何で相手にしないといけないのかわからない。 帰りの電車で若い女が何か放しているのを聞いていたら、kattunの誰かが休業するとか言う話らしい。聞いている方の女の応答振りがまた馬鹿っぽかった。もちろん話題自体が最高に馬鹿っぽいのだが。女は惚れ惚れするほど馬鹿なんだなと思った。小さい頃は馬鹿で可愛い。でもずっと20代になっても馬鹿のままだ。でおばさんになってもやっぱり惚れ惚れするほど馬鹿だ。要するに一生馬鹿だ。馬鹿で醜くて弱い。これは明らかなことだ。めでたいことだ。 女は馬鹿で弱くて醜いのにもかかわらず、男は欲情し、高い金を払う。私は笑わない。当然そうだと思う。しかしそれから自由であることもありだと思う。馬鹿で醜くて弱いものに金を払わない自由もありだと。
今朝はひどいめまいがした。朝起きられない。脳がダメージを受けている。休もう。夜寝る前に明日は会社に行かなくていいことを喜び、感謝しよう。朝起きたとき、今日会社に行かなくていいのだと喜び感謝しよう。抗うつ剤は一応効いているが、最初ほどではない。 パキシルをゲットした。何か憂鬱な気持ちになった。診断書をもらったが、次の三ヶ月で一年になる。一年の予定だったが、はかばかしくない。気分はスッキリしない。スッキリしないまま復帰しないといけないのだろうか。無理してまたダウンということもありうる。そういうことを思って憂鬱。義人となってから二週間くらいになるだろうか、いいことばかりでもなく良い気分とは行かない。でもこんな気分が普通じゃないだろうか。この危険に満ちた世の中で良い気分ばかりではいられない。でも困ったことは起こらない。義人になれば困ったことは起こらない。困っていないのに困った困ったと騒ぐのは悪い癖だ。困っていない。私は困っていない。これからも困らない。 トレドミンは良くないかもしれない。ノルアドレナリンはptsdを悪化させるとある。やっぱり止めといてよかった。学習性無力症を治すのに良いらしいが今はptsdを先に直さないといけない。 私はあの時代、良心に大きな罪を犯した。でもいくらくよくよしても事実は消せない。でも過去は変えられる。と一人さんは言った。それは受け止め方によって過去はどうにでも変えられるということだ。もし改悛し、許しを請えば未来に向かって生きられる。それができなければいつまでも過去は変えられない。重くのしかかったままだ。悔い改めて義人になると決心し、実行するならば、過去の罪は私を成長させるために大きな財産となる。決して悪いことを二度としないと言う大きな歯止めになり、心の糧になる。これが過去を変えることの意味だ。これがくよくよして働けない状態であれば、大きな罪は消せないし、悔い改めたことにならないまま罪として残る。あのときのトラウマでおばはんが恐くなった。おばはんとの間で葛藤が生じることが恐かった。それでいまでもおばはんをみるとパニックになる。ptsdだ。でも義人になればptsdを脱することができる。ptsdになれば困ったことは起こらない。今でもおばはんの顔を見ただけ、姿を見るだけで体が凍りつく。恐怖条件付けが生じている。ptsdスペクトル障害群が生じている。それを無視しているとか怒り狂って攻撃してくる。病気になるまで攻撃してくる。脳に何らかの障害が生じている。起源は中学時代かもしれない。中学高校と強化され、大学で発病した。それ以後、病気と失業により、決定的になった。今は社会に適応することに困難すら覚える。でも義人になれば全ての問題は解決できる。たとえ私の脳に重大な損傷が生じていたとしても可能である。困ったことは起こらない。困っていない。困ったことなどなかった。どうしてこんなトラブルの多い人生だったのかわからない。もう考えるのは嫌だし、考えたってわからない。フロイトに聞いてもロジャースに聞いても森田に聞いても精神科医に聞いてもわからない。考えるだけ無駄だ。でも義人、聖人になることで解決はできる。全ての問題は解決した。困っていないし、困ったことはないし、困ったことは起こらない。 義人になれば恐いという感じがなくなるだろう。今はまだかなり強い。おばはんや若い女でも恐い。恐がっていると逆に切れてくる。でも女がいたからといって困らない。女が恐いからといって困ることがあるだろうか。全くない。義人になれば困ったことは起こらない。義人になれば働ける。b校に行ったのもどうかと思う。フッキー的人物の宝庫じゃないか。いっぱい傷ついたわけでptsdはその頃から準備されていたのじゃないか。でももう私は義人になったので困ったことは起こらない。 義人になるとは罪を認めることだ。悔い改めることだ。それ以上くよくよ悩んだり、罪悪感に苛まれる心配はなくなる。新たに未来に向かって生産的な人生を歩める。義人になれば悪いことをしなくなる。義人になれば人の心がわかる。適切な行為を行うことができる。恐くなくなる。恐くてもコントロールできる。困ったことが起こらなくなる。困らなくなる。過去が変わってくる。未来はいくらでも変えられる。 義人は悩まない。ただ生きる。働く。人のために役立つ。楽しむ。悪いことはしないで良いことをする。これが義人だ。悩む暇はない。聖なる時間を生きていけばきっと救われる。 義人であることは必要だ。義人でない状態は考えられない。昨日今日と風邪気味だった。仕方がない。琉フェスが悪かった。本当に疲れた。精神的に疲れた。モラハラ状態に置かれた。精神的におかしくなった。酒も飲んだ。これからは義人となって生きる。困っていない。困ったことは起こらない。困ったことがある人が人を助けられるだろうか。人を助けられない人が仕事ができるだろうか。これからは人を助けよう。簡単なことだ。困ったことは起こらない。漸く回復するのではないかと思う。 私は自分がかわいそうでならない。本当にかわいそうだ。でももう義人になったので自分を救うことができる。自分を救うのは簡単だ。義人になった。私は聖人になった。 かなり良くなった。お笑い番組を見て笑えるようになった。この調子で行こう。後半年休もう。
北朝鮮が核実験をした。大騒ぎをしている。本当にそんなに恐いだろうか私は全く恐くない。 昨日はかなり眠れた。今日は風邪気味だ。何も考えなくていい。これは楽なことだ。ハッピーだ。あんなやつらのことを考える必要はないのだ。ありがたい。頭がぼけてきたので昔のことはきれいに忘れた。新聞を見ても何を書いてあるのかわからない。いいことじゃないかと思う。余計なことを考えない。おばさんと同じレベルだ。義人になろう。義人は困ったことが起こらない。義人は世界一偉い。義人は困らない。私は世界一偉い。世の中の全てのことがわかる。全ての人に愛される。全ての人に信頼される。 世界超一流聖人君子。それが私の姿だ。義人である私は困ったことが起こらない。全てのことを理解できる。小六のときくそみたいな奴と付き合っていたために私が悪人みたいに言われて虐待を受けた。それから人と付き合うのが嫌になって自閉するようになった。家族からも離反した。嫌いになった。それから色々あったが数多くの罪を犯して人間嫌いになった。それでババアが喧嘩を売ってくる。人間が嫌いなのが普通だから、何で攻撃されないといけないのかわからない。人と接触せず交流しないのが普通の状態だ。回路を断ち切って、いることさえ忘れる。互いに無視する。これが普通だ。何でそれで攻撃されるのかわからない。大所高所から見よう。聖人君子だったらどうみるかどう行動するか考えよう。自分を愛さないと許さないというのはストーカーの考えだ。許されるものではない。抗うつ剤を飲んでも素晴らしい気分にはならないのはこの間の事故で脳細胞が痛んでいるからじゃないか。新聞も読めないくらいだから。目が開いていても何も見ていないことがある。危険はないが、ババアなどから身を守ることはおぼつかない。 ババアが機嫌を取れと喧嘩を売ってくる。今も同じだ。機嫌を取れと脅してくる。何で怯えて機嫌を取らないといけないのか。全くわからない。大所高所から見よう。細かいものつまらないものには目もくれまい。当たり前のことだ。ptsdが少しよくなり始めた。抗うつ剤のお蔭だ。 今困ったことは何もない。生まれてからこの方困ったことなんか一度もなかったのだ。それを困った困ったといい続けてきた。お釈迦様みたいなものだ。人の悩みまで世界中の悩みまで背負い込み、困った困ったという。馬鹿みたいだ。私は一度も困ったことなどない。ババアが騒ごうが誰がどうしようが私は一度も困ったことなどないし、これからもない。生まれつき義人だからだ。 何も困ったことなどないのに、大げさに騒ぎたて、人に襲い掛かり、破滅させようとする奴。そんな奴の相手なんかなんでしないといけないんだ。私は何も困っていない。 私は困ってなんかいない。一人でいるのはそのほうが気楽だからだ。家族がいるものを羨ましいとは感じない。自分の方が不幸だなんて思ったことはない。人を受け入れるのは絶望的に不可能だ。でもだからといって何も困らない。愛はいくらでも得られる。私は義人だからだ。聖人君子だからだ。小泉を見よ。あいつは変人で愛するものなどいない一匹狼だ。それでもオペラに出歩き、愉しみや愛を見つけることができる。 私は風変わりな人間だ。でも困ってはいない。こんな人間がいても一向に悪くない。私は小さいころからまったくおかしなところはなかった。私より変わった人間はあの職場にもいくらでも居る。全く困らない。私は困ってなどいない。これからも困らない。あのババアが何か困るだろうか。hが何か困るだろうか。あの会社に勤めることに何か困るだろうか。何も困らない。困ってなどいない。心も体も正常だ。健康だ。 私は悪くなどない。悪いことなどしていない。悪いことをしたのはお前らだ。私を病気にしたのはお前らだ。私は何も悪くない。あのババアが長年にわたって私に悪いことをして、私の精神が病んだのだ。愛されないのはお前がその資格がないからじゃないか。何で私が責められなければいけないのだ。いい加減にしろ。私は悪いことをすることにした。悪いことをされたら、悪いことをすることにした。私は困ってなどいない。悪いことができないから病気になる。悪いことができれば病気にはならない。どんどん悪いことをしよう。同時に義人になろう。聖人君子になろう。聖人君子とは良いことのためにどんどん悪いことをしている奴のことだ。私は人を愛することはできない。でも困ってなどいない。何で攻撃されるのかわからない。愛は素晴らしい。でも愛と殺意は同じものだ。注意しないといけない。戦争反対といっても愛と根が同じだから根絶は難しい。愛するのを抑えるくらいだ。仏陀の言ったように。 義人とは悪を肯定するもののことだ。世の栄えたものは皆義人であるが生きていられるのは悪を肯定し、実行しているからだ。私が悪を否定し、実行できないので苛立って攻撃してくる。私が優しいから攻撃してくるのだ。私はあのグループに戻らない。別の場所に移るが十分な配慮を求める。 世の中で栄えているものは悪人である。義人、聖人君子とは悪人のことである。悪人は義人であれば何をしてもいいと思っているからである。実際世の中はそうなっている。そうならないのは負け組とうつ病患者だけである。 私は自衛のための悪は許されていると考える。全ての人間はそう考えている。正当防衛とか緊急避難を認めている。どこまでが悪かという問題はあるが、とにかくそうだ。人間は許されていると思うと自然と悪を行う。法や暴力や道徳でいくら縛りをかけても嘘の様に吹き飛ぶ。宗教もだめだろう。アウシュビッツを見ろ。スーパーでセクハラされる。トマトを選ぶ振りをして異様に近づく。誰もとめることはできない。なぜ人は悪を行うのだろう。大阪のババアだからか。もちろんそうだろう。でも許されているとわかっていれば人は何をするかわからない。南京大虐殺を見よ。何で悪を行うのか不思議に思う自分が不思議に思えた。義人は悪を認める。少なくとも人が悪を行うという事実は認める。人は悪いことをする生き物だと認める。そうすればなぜ悪いことをするのだろうとか、何が悪いので攻撃を受けるのだろうとか、驚いたり、不思議がったりすることはなくなる。なぜフッキーは攻撃してくるのかとか。なぜhやkは攻撃してくるのかとか、なぜ不思議がるのかが不思議だ。そういう生き物なんだとはたと気がついた。電車の中で嫌がらせをする。言葉で侮辱する。何でなんだと悩んできた。でもそういう生き物なんだと思えば、納得がいく。レイプされた人も男はレイプする生き物なんだと考えないと整理できないだろう。絶対にレイプしない男なんていないのだと。私のような聖人君子、義人になるとそういうことまで考える。人は悪いことをする。困ったことだろうか。少しも困らない。これからも困らない。私は悪を行われないために引きこもっていないといけないだろうか。そんなことはない。いくらでも防ぐ方法はある。悪は逆に許されている。自分も悪を行う生き物だ。行っていい生き物だ。そうすれば恐くない。 私は悪いことをしてないかというとしている。電車の中で嫌がらせや暴力を振るうのは私が悪いことをしていると思うからだろう。私は義人であるから悪を肯定する。私が歩いているだけで怪しむのは人が悪いことをするものだという考えからに他ならない。私が怪しいからではない。私は自分を守るとき以外悪いことはしない。 大所高所から考えよう。人類は悪いことばかりしてきた。西洋人、アジア人問わない。戦争や虐殺はどの民族でもやっている。それで大阪のおばはんはとか言っていたらおかしい。あれに慣れるということは肯定する代わりに自分にも悪を許す以外にない。卑屈になる必要はない。もうあのグループには戻らない。悪は許される。自衛のために悪は許される。奴隷じゃないんだ。人は悪いことをする。止めることはできない。義人になることは素晴らしい。 困ったことは起こらない。私は何も困ってなどいない。誰も困ってなどいない。ホームレスも困ってなどいない。障害者も困ってなどいない。高齢者も困ってなどいない。家族がいないからといって困ってなどいない。休職中だからといって困ってなどいない。 この間の事故から、文章の意味がわかりにくい。新聞を読んでも目は活字を追うのに意味がよくわからない。この間山に行ったとき、鶴橋を乗り過ごした。戻ってきたとき、鶴橋の名前を見てもそこで降りないといけないと思わなかった。脳がおかしくなっている。今日はフライパンを焦がしそうになった。危険だ。元に戻るだろうか。でもその間に聖人君子、義人という概念を得た。少し馬鹿なほうがいいんじゃないか。この苦境を脱するには。ptsdのことに気付いたのもその後のことだ。 グリシンを飲んでから一か月になる。まだ完全にはよくなっていないが少しずつよくなっている。目の前のものに脳が反応しない。物忘れがひどい、物覚えが悪い。新聞が読めない。人が何を言っているのかわからない。でもその間に気づいたことの方がより本質的な気がする。ptsdのこととか、聖人君子、義人の概念とか。一人さんの言っていたことが実感でき信じられたのは初めてだ。奇跡を信じられたのだから本物だ。実際、実行してその効果を感得できた。今のところ、図書館のおばはんとレジのおばはんくらいだが。こちらが義人として振舞えばそれなりに扱われるということ。それは偉そうにすることでは決してない。当たり前のことができるようになることだ。普通の人ができることができることだ。大人になることだ。体の不自由な人に自然に親切にできることだ。目が見えなくなって、馬鹿になったらより本質的なことがわかりそうな気がする。今が現にそうだ。人がどうして悪いことをするのか。何で悪いことをされるのか。私が悪いからとか悪いことをしたからではない。人は悪いことをする生き物だからだ。すごくよくわかった。なぜ中学の頃虐待にあったのか人はできるとわかれば直ちに悪いことをする生き物だからだ。悪いことをしたいといつも思い、妨げるものが何もないとわかればやる。そういう生き物だ。あの吉がいも私を密室に呼んで痛めつけた。人目とか気になるということは悪いことをしているということはわかっているのだ。どうして悪いことをするのか。悪いことをする生き物だからだ。なぜこれだけひどいことをされて、そう思わなかったのか。馬鹿としか言いようがない。私が怪しい目で見られるというのは人は皆悪いことをすると思っているからだ。自分を善良だと思うとか、人が私を善良と思うとか、笑うべき勘違いである。私も悪いことをする。悪いことをしてもいいのだ。自分を守るためには。私は悪いことができない。でも人は悪いことをする。だから頭がおかしくなる。悪いことをされたら悪いことをしたらいいのだ。義人の概念はそれを越える。人が悪いことをしようがしまいが困らない。義人は人が悪いことをすると知っているからだ。それに十分対処できるからだ。考えすぎだ。今回の事故は私が頭を使いすぎることへの警告だ。もっと馬鹿のほうが良い。変態にもキチガイにもならない。義人になることだ。筋肉馬鹿になっても良い。三島はそのようになって筋肉とともに自滅した。それは天皇のため、日本のための決起のようでありながら、愛人との心中でもあった。善とか悪とかは意味をなさない。義人であるとは悪と善とが溶け合っていることだ。どちらかを無視したりしないことだ。私は自分が完全な善人であるとか悪人であるとは信じ得ない。それが普通だ。それが義人の概念だ。純粋化するときちがいじみてくる。人が悪いことをするはずがないというのが一番大きな勘違いだ。レイプはほとんど顔見知りの犯行という。この世は安全な場所ではないということか。義人はそれを越える。ptsdになった人は義人になれる資格がある。それを知らない人はむしろ幸せかもしれない。しかし知らない人がいるだろうか。子供ならいざ知らず。
昨日は琉球フェスティバルに行ってきた。余り楽しめなかった。隣のおっさんが目に見えないミクロな嫌がらせをしてきた。チックみたいな奴。チックのやつって見ていると気分が悪くなるから止めてくれといいたいんだけど、嫌がらせじゃなくて病気だからいえない。そういうやつ。イライラが募る。気が狂いそうになる。義人の道は険しい。数日前北花田に行ったときからおかしい。雑民の皆さんのパワーに押される。昔は馬鹿にしていたのに今は心底羨ましいと思う。でも義人は世のため人のために生きているので、羨ましがったりしない。色んなことを考える。私が幼い頃、悪の道に目覚めたことは大きい。後になって大きな災いを自分と周囲の人間に引き起こした。申し訳なく思っている。今その報いを受けている。こういう考えはうつ特有だろう。罰を受けているとか言うの。あのババアの姿を見、声を聞くだけでptsdになる。私は気が弱く善人なので受け入れて我慢してしまう。他の人にとって我慢できても私には我慢できない。挙句にモラハラしてきた。救いようがない。抗うつ剤を飲むこと。あの職場には戻らないこと。この二つが回復の条件だ。私は自分の悪事によってptsdになる。あの姉も相当おかしい。言葉では表現できないが、モラハラ体質であることは間違いない。私も相当被害を受けた。父も確かに優しかったが、モラハラ体質(隠れ)だったかもしれない。飲んだくれ振りが子供心に悪影響を与えていた。正月のたんびに母ともめていた。問題なしとはしないだろう。結局私がたまたま悪くなったのではなく、家族の病理が私に収斂されたとも言えるだろう。それにしてもあの職場の病人の多さよ。hやkは明らかに病人なのに、うまく適応する技術を持っているのだ。悪とは適応のひとつではないだろうか。行き過ぎると悪となるが適切であれば褒められる。それであくがますます栄える。サドの言うことは間違ってないかもしれない。あれに似た人物はいる。フッキーとか加藤とかプチサドみたいなやつ。ptsdになる。私は善人で小心者だから。飲酒は悪ともいえるが適度であれば、疲労回復、潤滑油になる。義人となろう。大所高所から見よう。聖人君子となろう。必ずなれる。そうすれば楽になる。義人となれば人の子が可愛くなくなる。どうしてだろう。人の子を可愛く思うのは優しさのように見えて欲望だからかもしれない。義人となろう。愚直に義人となろう。それ以外考えられない。自分を救う方法は。 純粋にhとかkに怒りを覚える。何の関係もないのに絡んできやがって嫌がらせをする。お前らにどうして愛情なんか持たないといけないんだ。赤の他人じゃないか。何で機嫌の悪いお前らの機嫌を取らないといけないんだ。全くわからない。私はこの数年間苦しみぬいた。それに対してもっと怒ってもいいはずだ。仲良くなんかできるわけない。無視したって無視も何も関係ないじゃないか。何でお前らの機嫌を取らないといけないんだ。ものすごい怒りを覚える。私は義人だ。義人に対してそういう振る舞いをして許されると思っているのか。もう我慢できない。何で我慢しないといけないんだ。ストーカーみたいに絡んできやがって。それに対して怒れないというのはおかしい。聖人に対して許しがたい行為だ。ものすごい怒りを覚える。怒りを覚えないのは奴隷根性だ。常備軍を持たない国くらいおかしい。変なことをしたらただじゃ置かないぞという気持ちが大事じゃないか。何をされても黙って我慢しますというのはおかしい。私はこれを許さない。許しようがない。中学時代に私をptsdに陥れたキチガイにも激しい怒りを覚える。お前らのやったことは単なる犯罪行為だ。 何に怒りを覚えるか。しつこいところだ。許さないところだ。それぞれ事情があるのだ。それを一切聞かないで許さない。しつこい。頭がおかしいんじゃないかと恐怖を覚える。その後激しい怒りを覚える。義人の道を歩もう。義人を傷つけることはできない。攻撃することはできない。iもしつこかった。境界例特有だ。頭おかしいんじゃないかと思う。大所高所から見よう。義人聖人の道を歩もう。悪とはなんだろうか。馬鹿な奴と付き合ったのが悪だろうか。確かにおかしい。悪に魅せられたのはおかしい。自分も悪の同類とみられても仕方がない。じゃあそんな奴を野放しにするなといいたい。悪から子供を守れといいたい。ptsdになった。hやkにしつこく言われると小学校や中学のとき、感じた怒りがよみがえってくる。私は義人となってこの怒りを克服しよう。あいつらにとっては私に邪慳にされることが悪なのだろう。子供が見捨てられるくらいの悪なのだ。細かいここの人格とか言い出したら全く収拾がつかない。hの声を聞くだけで今は気分が悪くなる。それくらい状態が悪い。フッキーや加藤にあの見捨てないでという声を聞くからか。善の側が悪の側に呼びかける声を聞くからか。良心の声を聞くからか。私は聖なる道を歩こう。聖なる時間を生きよう。聖者となろう。全てが聖なる人間と感じられるまで。悪が染み付いているからそう思うのか。私が間違っているのか。私はあいつらに悪の響きを聞く。私の善良な部分はそれを聞き逃さない。中学のとき、あのキチガイは愛情など全くなく、怒りと憎しみだけで私を罰した。私はそれを許せなかった。今でも許せない。でも恐らく許さないといけないのだろう。相手に愛情があろうとなかろうと、キチガイだろうと境界例だろうと、私がルールを破ったことは間違いない。しかし、世の中がこれほど信頼の置けないものだとは思わなかった。私には理解する力はない。わからない。どうしてこれほどの怒りがこみ上げ、消えないのか。だから聖人になろう。義人になろう。ごく当たり前の義人になろう。理解できないptsd的な出来事は忘れて、義人になろう。 私は素晴らしい人間だ。フッキーのことも加藤さんに何であんなのと付き合うんだといわれて、素直だから嫌いになってしまって、その結果私が傷つけられて終わったということだ。何も傷つけられる必要はなかった。単なる面白い親父でよかったじゃないか。そのまま付き合うのは自然消滅でよかったのだ。確かになんで接近したのかわからない。それと最初の飲み会のとき、明らかにおかしいと気付いたはずだ。このまま行くと大変なことになると。加藤さんはそれを注意したのだ。あんな人間の体をなしていない奴にと付き合っても得にはならないし、大変なことになると。全ての人間が恐くなってくる。加藤さんも恐くなり、職場の人間も恐くなる。z氏まで恐くなる。だから義人になる必要があると思う。聖なる気持ちがなかったら、誰とも付き合えないし、どんな仕事もできない。起こったことを許すためにもその人間より上に立たないといけない。上に立つことは気持ちのいいことなのだ。その人間の上に立つことができる。自分も癒される。 どんなときでも許すことができなければならない。子供に対してでも老人に対してでも寛容と宥恕の気持ちがなかったら、接することはできない。だから義人になりなさいという。聖人になりなさいと、聖なる時間を生きなさいと。女は聖者なんかではない。でも子供を生んだ瞬間に聖者になれる。それだけでもすごい。私は聖者になる資格が十分に備わっている。悪人なんかではない。あらかじめ全ての人間を許せるようでなければ聖者にはなれない。許すとはいかなる場合もあらゆる人間の上に立つということだ。その覚悟があって初めて聖人になれる。それで初めて癒されるだろう。女は生みの苦しみを自分に与えたことで子供を許さないだろうか。そんな母はいない。人間とは生まれながらにして聖なるものになる資格を持っているのだ。 激しい怒りを感じつつ許すことはできる。許さない限り、癒されないし、時間は前に進まない。もっとも許したくない人間もいつかは許さなければならない。そうしなければ癒されず、成長もせず、大人になれず、聖人になれないからだ。許すことで忘れられる。許さないことはその人間をいつまでも覚えておかなければならない。それは生理に反することだ。私は私に害をなした全ての人間を許すだろう。激しい怒りを抱いたこともやがて忘れることができるだろう。これは神様が与えた宿題なのだ。これを片付けないと進めない。でも今そのときだ。中国人は日本人を許した。忘れようとも努めた。でも反省していない態度を見せれば許しは取り消され、再び怒りが噴出する。許すことは難しい。許される側はもういいだろうといい、許す側はまだだめだという。でも人間は許すだろう。それが人間が神に近い理由だ。私はそれを信じる。お互い忘れよう。忘れるために離れよう。私を見て私を許せないと思うのだろう。それで攻撃するのだろう。だから近づかない。私は許すだろう。今がそのときだ。許すときが来た。その代わり私は聖人になる。聖人を傷つけてはならない。二度と許さないとは口にしないだろう。それで私は成長し、癒され、聖人となり、神に一歩近づく。父はまだ私を許してくれないだろうか。きっと許してくれていると信じる。私は今日一歩を踏み出すことにした。 許すということは強くなったということだ。うつも治るということだ。許すことで気持ちの整理がつき、癒しが早まる。中学時代のどうのこうのとか、今まで人生で起こった全てのことが許せないだろうか。許せる気がする。許せないことはこれまでの人生でもなかったし、これからもないだろう。そう思えて初めて人生を生きることができる。巻き戻し法の効果が早速現れてきたか。 hのやったことはモラハラだ。一連のモラハラ行為が私を長い休養に追い込んだ。人の良い私は敵と味方の区別もつかない。危害を加えられることと、適切な行為も区別が付かない。こうして休んで長い人生を振り返って漸くわかることがある。私はあいつを許す。しかしあいつとかかわりのある場所には戻らない。ptsdが再発する可能性があるからだ。モラハラは犯罪行為だ。処罰する法があるかどうかは関係ない。逃げる術はいくらでもある。自己愛性人格障害の心理的呪縛、コントロールから逃れるときが来た。許すことで私はhの優位に立てる。それで呪縛が解けた。私がhに反抗的になったのはモラハラ的呪縛から自由になりたいという心の叫びがそうさせたのだ。何でモラハラを行う相手に自ら進んで従うのか。奴隷根性。小学生のときに起こった出来事を繰り返している。ptsdのごっこ的繰り返し。私は解放された。父親も許す。その代わり、私は父親から解放されたい。許されたい。私はhを許す。そして許されたい。そしてその心理的呪縛から離れたい。 モラハラなんか自分から相手の心理的支配下に積極的に入らない限り、有効ではない。許すことで相手の優位に立つのだ。心理的にだ。役職がどうとかは全く関係ない。役職がどんなに上だろうが心理的にまで隷従する必要はない。そんなことをするからモラハラをやってくるのだ。あの最初のモラハラ王もそうだった。自己愛性人格障害そのもの。私は義人となった。困ったことは起こらないといった。その通りになっている。電車の中で咳を気にするというのは心理的にコントロールされた状態なのだ。モラハラ状態なのだ。ptsdなのだ。真のモラハラ野郎はhだったのだ。最初の頃あいつに迎合するかのように飲みに行っていた。あれも正常ではなかった。あいつは全く私に心を開いていないのに、全く不均衡な関係、これも共依存、モラハラ的関係だ。n氏との関係もそうなりがちなので距離を置いた方が良い。面倒を見る代わりに隷従するという。なぜそんな関係が心地いいのか。母親も私をそのような羽をもがれた状態にしようとしていた。恐ろしい。私は義人となったのでそういうことが初めてわかるようになった。生きるためのストラグル、それはいくらでもする。それをしないといって責められるいわれはない。義人となった今は働くことはいとわない。モラハラを受け入れるいわれはない。 大所高所に立たないといけない。義人とならないといけない。i津に戻るのはもう嫌だ。あいつは何様だと思っているのか。あの場所から逃れないとモラハラは終わらない。モラハラは絶対に許さないという覚悟が必要だ。人は許す。だがそれを、その行為を繰り返すことは絶対に許さない。中国や韓国の態度も同じだ。当たり前のことだ。モラハラは処罰されない。でも許されないことだ。逃れる方法はいくらでもある。 義人になることだ。まずその上で色々な技法などを試してみよう。人は許す。しかし、モラハラ行為は許さない。二度と繰り返させない。何だ。あの電話も持たせない。人の手足のように使う。何もしていないのに叱り飛ばす。継子扱いなどと陰口を利く。馬鹿にしたような笑い顔で見る。私は自信を取り戻した。必ず回復する。あの職場にはもどらない。戻ると考えている奴がいたらお笑い種だ。hは必ずモラハラを繰り返す。一度起きたことは繰り返す。日本人が靖国参拝しただけで怯える。危険極まりない人間が隣に住んでいれば当然そうなる。引っ越すことはできないとは中韓のほうの台詞だ。あの職場に戻らないため、よりよい職場に移るため、全身全霊を尽くす。やっぱりおっさんは嫌だ。おっさんが嫌だから仕事ができないんじゃないか。おっさんの何が嫌ってモラハラ的なところだ。パワハラといった方がいいかもしれない。モラハラとパワハラのダブル攻撃だ。義人であろう。そうすれば困ったことは起こらない。勇気が出てくる。問題が解決する。恐がる必要がなくなる。 あのグループ自体がモラハラに汚染されている。私のほうも心理的に汚染されている。モラハラ行為がいつまでも続くから心理的に疲弊してパワハラを誘発する自傷的行為が発生したのだ。でもお蔭でモラハラ職場から脱出できた。 あんな職場に戻れるわけないだろう。私は義人であって、人に危害を加えたりしない。 義人は身を守る術を知っている。モラハラ女やパワハラ男からどう身を守ればいいか知っている。パニックやトラウマから自由でいつも自分をコントロールできる。 私は会社では許されないことをしたかも知れないが、なぜそうなったのか理解されたい。モラハラ状態に追い込まれて長い時間が経ったためにそうなったのであって、そこを理解する必要がある。 私は小さい頃から悪いことをすると思われてきた。遅刻をするとか、悪さをするとか。悪事をしておいて起こられると切れる。ptsdになる。自分がわからなくなった。仕事がしたいに決まっている。しかし安全が確保されなければならない。あんな職場であんな扱いでは無理だ。私は義人だ。 悪いことはしないさせない。善行を積む。義人は攻撃されない。義人は悪事を行わない。義人は悪事をされない。こんなことを今考えるべきではない。考えても仕方ないし、今考えるべきことではない。 今は何も考えない方が良い。何を考えてもおかしい。迷っているときに考えたことはどんな結論でも間違いという。 悪の問題を考えてしまうが、悪いことをするから悪いことをされるんじゃないか。中学の教師も全くそういう考えだった。自分がなめられているからいじめる。馬鹿にされたからいじめる。報復の論理だ。善悪ではない。教育的何とかとか全くない。愛情もない。訓戒も改悛もない。やられたからやり返す。それだけのことだ。あのグループで起こったこともその通りだ。ババアを馬鹿にしたから鬼みたいになって私を攻撃してきた。hを馬鹿にしたから報復してきた。だから休んだ。報復の連鎖だ。過去は許そう。人も許そう。でもまた起こるだろう。だから戻れない。仕事をしないからいじめる。でも仕事をしないんじゃなくてできなくなったというのだ。できなくなったのはモラハラによるストレスから来る欝だといっているのだ。そんなものが耐えられるか。 私の人生で私に何が起こったか漸く理解できた。ptsdを発症している。何が起こったにせよもう耐えることはできない。 答は義人となってどこかで幸せに生きていくことだ。あそこではありえない。 今までもhに悪いことをしていないだろうか絶対している。悪いことをいっぱいしている。悪いことをしても許される関係などない。甘えということじゃないのか。北朝鮮みたいに何をやっても許される国などない。制裁を受けるだろう。 朝起きてから寝るまでツイテルツイテルハッピーハッピー、幸せ幸せありがとうありがとうといい続けていたい。あいつらにも特に恨みはない。私が結局恐怖心から嫌悪感憎しみを持ってしまったのが良くないのだろう。今は何も考えなくていいのが幸せだ。それと巻き戻し法は効果がある気がする。フッキーとのことを巻き戻していると、そのことがなんでもないことに思われてくる。そのほかの全てもトラウマもやってみたい。小さなことでもトラウマになりやすい。それは間違いない。なるべく考えないことだ。憎しみについて。許すことだ。義人になることだ。 義人になることだ。hもkも恨んではいない。許している。あいつは財形の貯金を下ろしてくれたり、色々やってくれた。最初の頃は一緒にのみに行っていた。それが自分が調子が悪いからといって、憎んではいけない。私のほうが絶対おかしい。誰が見てもそうだ。だから義人になれと。aという刺激に対してbという反応をするのが普通の人間とするとxというとんでもない恩知らずな反社会的反応をするのが私だ。今回のことでもhに対してxというとんでもない行為をしたのに対し、bという普通の反応を返してきたのが一連の事件じゃないか。 それに対してwというまたとんでもない反応を返したのが休職ということだ。私というブラックボックスは常人にはわからないものになっているのだ。フッキーのことでも私の反応はおかしい。今思うと。最初無理やり仲良くしてもらっておいて、後で向こうが仲良くして来ると気持ち悪がって邪慳にする。それは普通の人でも起こるだろう。あの人は人を傷つけることをなんとも思わないから思わぬ事態になってしまった。自分が十分注意していればよかった。 はっきり言ってhやkをいっぱい傷つけている。それが帰ってきたのだ。自分のやったことが自分に帰ってきたのだ。だから解決策は義人になることでしかない。過去のことを許しを請うとか、卑屈になるとかではない。反省し、改悛するならば、義人となってうまく行くだろう。困ったことは起こらないだろう。
今日も良く晴れた。琉球フェスティバルの日だ。嬉しいな。今日はずいぶん気分が良い。二日酒を飲んで眠れなかった昨日でも苦しくはなかった。義人となったお蔭で何でも乗り切れる。大所高所から考える。女というのは目に見えないようなミクロの視点で見ている。そんなものを目を凝らしてみる必要などない。大所高所から見ていれば女はそんなもの見えやしないから、優位に立てるのだ。あくがどうしてもしたいか。義人になればいくらでもできるのだ。 薬のせいで調子が良い。良く眠れる。気分が良い。良いこと尽くめだ。何で飲まなかったのか。片田のせいだ。悪の薬みたいに言いやがって。上手に利用すれば非常に有効なのだ。義人になれば自分を守れる。悪の道と義人の道は別だろうか。違う。義人の道は全ての悪を内包している。女を愛すること、子供を作り育てること、家を建てること、全て悪だ。義人の道には悪が内包されている。義人の道に行けば悪はたらふく食える。政治家なんか料亭でうまいものをたらふく食っている。善人の振りなんてしてもだめだ。皆悪人なのだ。みんなで渡れば恐くないと思っているのだ。 私は世界で一番偉い。全ての人間はそうだ。世界で一番偉い。世界で一番偉いし、そう思っていない人間など一人もいない。障害者でも女でも子供でもマイノリティーでもそうだ。機嫌の悪い奴はどこでもいる。そういうやつというのは自分だけが世界一偉いと思っている。hとかkみたいなやつだ。iみたいなやつだ。いるだけでptsdになる。一緒に仕事したくない。義人の道と悪は矛盾しない。分けて考えるとおかしなことになる。悪だけ追求することはできない。義人の道は悪と一致している。 機嫌の悪い奴は人に絡んでくる。ババアはまず人に絡んでくる。どこまでも絡んでくる。人が病気になるまで絡んでくる。hは病気になっても絡んでくる。お前のせいで機嫌が悪いのに機嫌が悪いからといって攻撃する。絶対ptsdになるだろう。家までやってくる。そのうち命まで取られる。その間に自分は結婚し、子供まで作っている。 モラハラは犯罪行為である。人に心理的外傷、トラウマを負わせる傷害罪だ。耐えられる方法などない。逃げるべきだ。何で危害行為を加えられているのに反撃も逃走も許されないのか。あいつは人格障害のモラハラ体質だ。負けてはいけない。何が私の何が攻撃する理由、正当性になるのか。絶対にない。 大所高所から見ることだ。義人としてみることだ。モラハラする奴は絶対に間違っている。従って必ず止めさせるか逃げる方法はある。私は完全な義人である。誰も攻撃することなどできない。私は仕事ができないだろうか。絶対にできる。できるに決まっている。そう確信することだ。信じて良い。かつてできていたのだから。やる気を失うとできなくなる。それは誰でも同じだ。義人に解決不能な問題はない。義人をいじめると七代たたるぞ。 鏡の法則の話。何か困ったことが起こるとそれは自分の心を鏡のように映し出したものだと。人を差別するものは差別されると。人をいじめるものはいじめられると。今起こっていることはきっとそうなのだろう。あのババアは自分がババアだから差別されていると思い込んで攻撃しているのだ。お前の機嫌が悪いのが恐いといっているのだ。お前がババアだからじゃない。自分の機嫌を直せといっているのだ。機嫌が悪いのに社会に出てくるなといっているのだ。差別心を完全に全ての人間から取り除くことは不可能だ。認めていいといっているわけではない。しかし人間から爬虫類脳を取り除くことはできないし、セックスを止めさせることができないのと同じように、差別やいじめを止めさせることはできない。ババアは自分がババアだから差別されていると勘違いして、今度は金とか体臭とかそういうもので差別し始めた。お前が境界例でptsdで機嫌が悪いから恐いといっているだけだ。自分の機嫌だけ取ろう。人の機嫌を取るなんて恐ろしい。最後には命まで差し出さないといけない。義人である私はもうこんな問題で悩むことはない。あいつの機嫌を取るなんてことは誰にも不可能だし、そんなことを何で私がやらないといけないのかわからない。
昨日の夜、加島祥造のタオの番組をやっていた。一番見たかった番組だ。私も孤立して一人生きているのでもない。こうして魂の連帯を感じることもある。ただ文学だけをやっている人間などいない。必ず生活があり、人間関係がある。どれだけ破滅型でも無頼でも愛する人はいる。世間に対しても何かあるだろう。私は人生の極早い段階でつまずいた。悪に見せられた。それから悪の道を突っ走った。立ち直れなかった。自分とは違う悪のエネルギーに引きずられた。真面目な人間ほどそういうことになる。悪はもういい。うんざりした。小林や宮崎や宅間のことなどどうでも良い。錯乱して人を殺す奴のことなんかどうでも良い。私は義人になるのだ。悔い改めて聖人義人になるという物語を生きるのだ。退屈だろう。でもそれしかない。悪なんかどうでも良い。大きな物語を生きるのだ。改悛と謝罪の物語でいいじゃないか。義人になればもう一度社会に受け入れられる。義人になれば働ける。義人になれば尊重される。義人になれば誰からも愛される。義人になればptsdうつは直る。義人になれば人生の喜びを味わえる。義人になれば信頼される。今まで義人だったことなどない。悪が骨の髄までしみこんでいる。体全体が悪にコントロールされている。義人になれば悪を追い出すことができる。悪魔憑きを追い払うことができる。ヤンキーでも更生しているやつはいる。義人になれば人を愛することができる。義人になれば人として大切なことがわかる。義人になればおかしな奴に喧嘩を売られることはない。義人になれば身を守ることができる。義人になればモラハラを受けなくなる。義人になれば自傷行為はしなくなる。義人になれば幸せが雨霰と降ってくる。義人になれば困ったことは決して起こらなくなる。義人になれば世の中の役に立つ。義人になれば妬まれなくなる。義人になれば悪いことを考えなくなる。義人になれば自分が変わる。義人になれば過去の罪滅ぼしができる。義人になれば愛する人ができる。義人になれば楽になる。義人になれば世界が一変する。義人になれば生きる力がいくらでも湧いてくる。 やっぱり二日続けて酒を飲むときつい。久し振りに一時に目が覚めた。夜中に体がぶるっと震えた。ptsdだなと思った。でも義人になればこの辛いptsdから逃れられる。義人になれば人のいうことがわかる。義人になれば世の中のたいていのことはわかる。義人になれば卑屈にならなくて住む。義人になれば攻撃されなくてすむ。悪はもううんざりだ。z氏にその話をすると必ず切れる。よくわからない。バランスが取れているのだろう。私は外を歩いているだけで気持ち悪がられる。差別される。でも義人になれば差別はされない。 悔い改めることが必要だ。責めることはない。自分は素晴らしい人間だと思う。心優しい普通の情の通った人間だ。だからきっと立ち直れる。義人になればいいのだ。義人とは普通の人のことだ。義人とは世の役に立つ人だ。誰からも愛される人だ。 義人になれば行いが正しくなり、思考も正しくなり、自然と過去の罪は清められる。義人になれば人を傷つけることがなくなり、人の恨みを買うことはなくなる。傷つけられることはなくなる。人に馬鹿にされたり、差別されたりすることはなくなる。人に棘棘した態度をされたりすることはなくなる。 これからは困ったことは起こらないような気がする。やっとptsdから脱した。互いに思いやりの気持ちと信頼を持って人間関係をやっていける。おかしなモラハラ的関係はありえない。大局的な目で見れば女の細かい嫌がらせなんか目に入らない。女はそんなことしかできないのだからかわいそうだ。 昨日のクリーニング屋とか図書館での対応とか見ていたら私が義人に変わりつつあることは誰の目にも明らかだ。私はキチガイにptsdにされた。あれも結局自分が無意識に傷つけたのが帰ってきたのだ。いつも自分の悪事が原因でptsdになる。自傷行為だ。悪は私には無理だ。悪が勝手に私の心と体を乗っ取って悪いことをさせる。義人になることだ。意志の力で100%コントロールできる。今日から義人だ。誰からも傷つけられることはない。誰も傷つけることはない。 大局的に見ることで小さい過去のこととか、現在のたわいもない小さいこととか、全く気にならなくなる。義人になれる。 義人とは大人になることだ。大所高所から見ることだ。義人になれば誰からも非難されることはなくなる。義人になれば人を信じられるようになる。全ての嫌がらせなんか義人になればきれいさっぱりなくなる。 大局的に見れなくなることが引きこもりやモラハラの始まりだ。自分が何をやりたいのか、やるべきなのか。大局的にみればすぐわかる。自傷行為と悪に耽るとわからなくなる。義人になった私にはもうないことだ。どうすればなくなるか。義人であれば考える必要もない。義人であれば欲望を肯定してよい。悪に取り付かれた人間が欲望を肯定するとかつての私のように鬼畜になる。今の私のように義人聖人であれば欲望を一定の範囲で追求してよい。義人であれば卑屈にならずにレベルの高いことを考えて良い。天下国家のこと人類全体のことさえ考えてよいのだ。 義人であるとは自分で考えて行動してよいということだ。批判されないということだ。 私は子供と悪の道を離れて聖人義人の道を歩き始めた。昨日までの極悪非道の鬼畜道からきっぱり縁を切った。困ったことはもう起こらない。大所高所からいつも考えていけば全てがうまく行く。心配事悩み事なんてなくなる。 聖人義人の道を歩き出した。これまでの道とは全く違う。明るい楽しい道だ。小さいことにこだわらない、困ったことの起こらない道だ。 義人であれば心はいつも平安に保たれ、どんなことにも簡単に対処でき、困ったことは起こらない。既にそういう境地にある。 過去の全ての罪を悔い、謝罪し、傷つけた人に謝罪し、義人として出直すことにした。これからは困ったことは起こらず、何もかもうまく行くだろう。全てを知ることができ、迷い悩むことはないだろう。 聖人として出直すことにした。もう聖人だ。義人だ。文学の道でも義人として生きることが必要だろう。子供の道を離れよう。義人として生きる。 義人ということは自分が確立していることだ。卑屈にならないことだ。何をしたらいいか考えなくてもいいことだ。義人とは自分を守れることだ。 結局自分がやったことでptsdになったのじゃないかという気がする。自分がやったことで悪くなり、悪いことをしたお蔭でptsdになる。どうしたらいいか。義人になることだ。義人になれば自己主張をしてもいいのだ。
昨日は楽しかった。でも飲みすぎた。何か色んなことを考える。z氏のこと。あれは社会が使わしたスパイで秘密警察で、私に喧嘩を売ってくる境界例で、私を洗脳と人格改造であるegに送り込んだ張本人であると。会社から公認もされていないものとなんで会うのか。危険すぎないか。何でegなんかでモルモットにされないといけないのか。すんだことだ。私は大人になった。色々あったろうが、私は大人になったのだ。聖なる時間、聖なる自分を生きるのだ。私はどうしても社会の外に押し出されるのだ。ならば聖なる自分を生きることで社会に貢献しよう。障害者の人に親切にするとか。大局的に考えよう。egで人格改造、洗脳を受けたが、何か変わったろうか。人を変えることができるとは上に立つ人間だけができることだ。あんなz氏なんてましてやあのカウンセラーなんか私の上にはたっていやしない。ずっと下のほうにいうる。私はそういうややこしいものと付き合う癖がある。だから聖なる時間を生きるのだ。選ばれし者として大局的に生きるのだ。罪は罪として素直に認めて、改悛して悔い改めて出直すのだ。あんな境界例みたいな奴にとやかく言われることはないのだ。とやかく言われる筋合いはないのだ。自分で治すのだ。人から言われて直すことはできないし、自分で直そうと思わないと直らないのだ。だから聖なる自分、大局的に生きるということが必要になってくるのだ。 これまで全てうまく行くと感じたことはなかった。抗うつ剤の効果かもしれないがいいではないか。どんな優れたカウンセラーでもどんな良い薬でも自分が代わろう、良くなろうと思わなければ何の意味も効果もない。おかしな教師が暴力を使って変えようとしてもそのときは変わろうと思わなかった。今はおかしいと思う。当時の自分はおかしいと思う。でもいったん車輪が回り始めると止まらない。私が変な人間であることは誰の目にも明らかだ。悪いことをすると救われるのか。そんなことがあるわけがない。z氏も会社の命令に背くような男だ。付き合うべきではない。付き合わないで良い方法は自分で変わることだ。聖なる自分を生きることだ。大局的に生きることだ。もう十分に生きた。大人になろう。子供を卒業して大人になろう。聖なる時間を生きよう。大きな目で見よう。それができるときが来た。自分で自分を変えることは全てを変えることだ。世界の全てを変えることだ。抗うつ剤がその役に立つのであれば使ってもいい。自分を変えるという目標ができた。大変なエネルギーが要るが私ならできる。優しくて優れた能力のある私ならできる。 母や姉は私のことが良くわかっているのだ。誰でもおかしいと感じるのだ。誰でも私のおかしな点は感じられるのだ。病気だからと逃げ込まずに自分の力で変えてみよう。簡単なことだ。一人さんや稲盛さんの本でも呼んで自己変革、成長に向かうのだ。egなど単なるきっかけに過ぎない。本当の変革はこれからだ。 悪いことをして得することがあったろうか。何もない。いじめられるだけだ。私が転校したとき、いじめに遭ったのは悪いことをするやつと見られたからだ。その頃既におかしなものと付き合っておかしくなりかけていた。そうなる運命だったのか。わからない。でももう変えると決めた。きっと変えられる。人に言われると腹が立つことでも自分が変えると決めたら全く腹が立たない。聖なる時間を過ごそう。改悛して大人になろう。聖なる自分を生きよう。一人さんも稲盛さんも自分を変えていける人だ。それが偉大なのだ。元は普通の人だったのだ。松下幸之助でもそうだ。普通の人が自分を変えていった結果、偉大な人になったのだ。自分を変えるのは気持ちがいいぞ。どんどん世界が変わる。世界を変革したかったら、自分を変えることだ。抗うつ剤でも何でも使って自分を変えることだ。 聖なる時間とはなんだろうか。マザーテレサのような時間だ。緒方貞子のような時間だ。弱者を思いやること、困っている人を助けること。神であればするだろうと思うようなことをすることだ。魂を高いレベルにおくことだ。過去の罪を消し、自分を変え、価値を生み出し、成長し、大人になるためにはそれしかない。心を閉ざし、悪や無益なことに耽るのは良くない。愛と平和のために生きるのだ。悪はもう知り尽くした。これ以上新しい発見などない。悪といえば核兵器ほどの悪はない。アウシュビッツでも南京虐殺でも同じだ。人間はいくらでも悪いことを考えつくし、いくらでも悪いことができる。だが、それは罪を生むだけだ。過去の罪を消すどころか新しい罪を生み、堕落させ、醜く変えてしまう。itは善だろうか。それ自体は中立だ。でも悪いことに使ってはいけない。新しい罪を生むことに使ってはいけない。hなんかに説教されるのは金輪際嫌だろう。自分で自分を変えていくのだ。あいつから離れて自分で自分を変えるのだ。 私はptsdでおかしくなっている。妄想とか出ている。でも救う道を見つけた。聖なる時間を生きること。大局的に生きること。これしか自分を目覚めさせ、変えていく道はない。hに言われてカッとするのは大局的ではないからだ。もう私は大人で善悪の区別はつくのだ。過去にありとあらゆる罪を犯したこともわかるのだ。そして自分を変え、罪を消していくことが必要なこともわかる。北原や課長が私を問題視するのもわかる。だから時間がほしい。ptsdである私には時間がほしい。聖なる時間を生き、大局的に生きるのだ。隅っこで臆病者のように震えているのではなく、聖なる時間を生きるのだ。あれこれとやかく言われないようにするのだ。 抗うつ剤を飲むことはきっかけに過ぎない。自分の脳が活性化し、ptsdの呪縛から解かれ、正しい判断ができるようになる。聖なる時間を生きることが可能になってくる。大局的に生きることが可能になってくる。卑屈な考えじゃなくなってくる。 悪い癖はなかなか抜けない。私が今まで散々悪いことをしてきたことも明らかだ。でも一人さんによると過去は変えられるという。何となくわかる気がする。過去をどう思うかによって過去の意味は変わってくる。過去の見方を変えるということは自分を変えるということだ。自分は変わらないと思う人は過去は変わらない。自分は変われると思う人には過去は変えられる。そういう意味だ。一人さんや稲盛さんは自分で自分を変えていけたので過去を変えることができ阿。稲盛さんなんかは落第坊主で就職口がなかった人なんだ。地方出身者でしかも京都。すごい針の穴のようなところからビッグになった。ビッグになることは大局的になることだ。聖人になることだ魂力を上げることだ。すごく簡単なことだ。聖人になることで過去はどんどん変えていけるし、過去の罪も消せる。善行を積むことで自分が清められ、変わって行ける。悪の上に悪を重ねていけば必ず堕落して、過去の罪はますます深くなる。罪を犯すのは仕方がない。それも幼い頃だけだ。子供は罪を知らないから生き物を殺したり、残酷なことをする。でも大人になって罪を知るようになれば悪いことはしなくなる。成人するとはそういうことだ。私は今からでも遅くないから成人するのだ。聖人になるのだ。hやkのやっていることはモラハラだ。母や姉は兄は私にモラハラした。なぜそうされるのかわからなかったが、今はわかる。今でも私は職場で、店で店員に、電車で乗客にモラハラされる。でも私は聖人になろうと思う。大局的に常に見ようと思う。そうすればモラハラも気にならない。自分を変えていくのだからモラハラもされなくなるだろう。 小さい頃から悪いことをしていた。だからすごく兄や姉は私を嫌がり、モラハラした。悪はきっと報われない。私のせいで彼らは悪くなったかもしれない。そういうことまで考える。その子供たちにまで累が及んでいるのではと思う。私はぐれてしまった。ヤンキーになってしまった。でもいい年なんだから悔い改めよう。悔い改めれば楽になる。でも少なくともあの職場は変えてほしい。悔い改めるきっかけが必要だ。私もこの職場に来たばかりの頃は悔い改めて頑張っていた。でもだんだん地金が出てきた。少なくともモラハラ状況が進んでいる以上、避難したほうが良い。朝カルでもモラハラに遭う。どう付き合って良いかわからない。正直言って嫌いだ。兄弟が悪かったら逃げられないのだからきっと嫌だろう。不気味に思っているだろう。回心できないままの私を見ることは不気味だろう。兄や姉に罪はない。兄がリストラされたのは私のせいじゃないかと思う。家が火事になったのも私のせいだと思う。でも逆に全部自分のせいだと思えば気が楽だ。自分が変わればいいのだ。自分が変わろうというはっきりした動機になる。裕ちゃんがいじめに遭ったのは私のせいじゃないかと思う。私はやっぱり普通じゃない。まともな人間とは違う。何かが違う。でもそういうやつは聖人になることで救われるし、人や周りを救うことができる。回心したといえるのはいつだろう。どんな状況になったときだろう。多分、hにうるさく言われても腹が立たなくなったときだろう。理不尽に感じなくなったときだろう。私のような人間は周りが見えない。自分が見えない。悪いことをやっているという自覚がない。今こうして苦しむことではっきりわかった。何かが根本的におかしい。小手先の修正ではなく根本的に変えたほうが早いと。根本的におかしいのなら、根本的に変えたほうが早い。兄は私に本当のことを言おうとしない。大学の頃からだ。私がモラハラに走ってしまったからだろう。兄は悪くなった。そして私に決して心を開かなくなった。私は弱いから優しいから悪いことをしてしまう。でも今は優しいことは強いことだから、悪いことは決してしない。過去に犯した罪は消せない。でもこうして悔恨し、改悛し、生まれ変わる決心をしたことで過去の罪は生きてくる。そのときに罪は消えるのだ。仏陀という人も相当な人だったと思う。悪というのではないが、結果として両親や妻子を苦しめた。家族を捨てるということは大変なことだ。でももう心に悪を飼い、罪を知ってしまった彼にはそういうことしかできなかった。罪を消すためにも生きなくてはいけない。死んだら罪は消せない。自力では消せない。この世で罪を洗い清め、あの世に行かないと浮かばれない。人を傷つけるので友達もいない。人を傷つける人たちが集まるサークルに行っても傷つくだけだ。フッキー加藤でよくわかった。能力があるとか偉いということは聖人であることに及ばない。私のような罪深い人間も聖人になれるか。悪人こそチャンスがある。悪人正機説。悪人は罪の何たるかを知り抜いている。業の深さを知り抜いている。悪人は人を傷つけることなしには生きていけない。悪いことを平然と行う。罪の深さを知り、悔い改め、聖人になることだ。決して高望みではない。普通の人こそが聖人だと思う。ちょっと変わった人が聖人なのではない。過去の罪を全て認めることは案外楽な気持ちの良いことだ。きっと変わって行けるという気がする。確信する。私は悔い改めることにした。私は根は善良だ。私の物語は終わっていない。ドラマはこれからだ。b校で直ってないんじゃないかとか、ひどく傷つけられた。人を傷つける人間は同じように傷つけられる。私が一番傷ついている。兄や母や姉が傷ついていることでしかも自分が原因かもしれないことで大変傷ついている。大きな仕事をすることはない。聖人になることは普通の人になることと同義だから、そんなに難しいことであるはずがない。どんなときでも聖なる態度で、大局的に生きるのだ。昨日、偶然にも体の不自由な人が現れたのは神が遣わされたのか。私は生まれ変わった。生まれ変われる。義人となることは自己犠牲ではない。キリストのように磔にならなければならないというものではない。もちろん人を磔にすることでもない。聖人になることは簡単なことだ。一冊の本を読むことだ。簡単な本を読むことだ。私は良い大学を出た人と同じくらい頭が良いはずなのに、交通が悪いために役に立たない。交通を良くするには義人になることだ。聖人になることだ。成人になることが、過去の罪を洗い清め、自分を変えることに他ならない。過去の自分は今ここにはいないのだから。機械のようにいじくって修理することはできない。なぜ交通が悪いのか。悪人だからだ。義人であれば、交通が悪いわけがない。兄は私に本当のことを決して言わない。私に連絡さえしない。全く信用していない。きっと深く兄を傷つけた。謝りたい。優しい兄を傷つけてしまった。今までどれほど多くの人間を傷つけてしまっただろう。悪人の特徴は嘘をつくことだ。孔子や仏陀が人類の歴史の極早いときに既に仁や徳を解いた。愛を解いた。慈悲を説いた。当たり前のことなのに、戦によってそれが守られない。愛と平和を説く義人になろう。三年寝太郎になろう。 hやkが恐いのは私が義人ではないからだろう。私にモラハラをしつこくしてくるのも私が義人でないからだろう。人を変えることはできない。今は道を歩いているだけで不審がられる。誰が見てもおかしいのだ。この間は取締役に暴力を振るわれそうになった。悪人は交通が悪い。悪いことばかり考えているうちに人と会話することもできなくなってしまった。 悪いといっても精神に以上をきたしたと考えられるから、責めることはできない。なぜ私だけがこんなことになるのか。小さい頃に悪い奴と付き合ったらそうなるのか。そうなったら元には戻らないのか。そうではない。聖人になろうと努力することで救われる。自分を変えることに他ならない。自分を変えるとは考えや行いを変えることだ。それで十分であって、過去に遡って人格改造をするとかそういう悪魔的なことではありえない。新たに自分を作っていくことが変えていくことだ。聖人になること。大局的にみること。 芸術は悪だろうか。善悪の区別はない。役に立つとか立たないということはない。無用の用。文学は実学といった人がいるがそうかもしれない。人間のやることで役に立たないことはないだろう。私がここに書いていることも誰かの役に立っているかもしれない。中学や高校の頃は既に精神に変調をきたしていた。教師の体罰がptsdになるくらいに病んではいた。そのことに誰も気づいてはくれなかった。ずいぶん前から外界との疎通性が悪い。悪いことばかり考えてしまう。人の考えていることがわからない。統合失調症気味だ。でも人格の統合性は大学の一時期を除いて完全に崩壊したことはない。でも今はその危機にある。聖人になることでその危機を回避できる。聖人とは普通の人のことに他ならない。普通に生き、働き、結婚して子供を作る人のことに他ならない。私はずいぶん隔たってしまった。兄は悪くなったとしても、それだけの仕事ができたのだ。父もそうだ。私はできない。これを説明しようとしても誰にも理解されない。わがままとかなまけといわれるだろう。hもkも結婚して子供がいる。普通の人だ。普通の人は私を攻撃してくるのだ。恐いのだ。悪人に見えるのだ。確かに悪人だ。私は怠け者で自堕落で馬鹿者だ。嘘つきだし、何を考えているのかわからない。人格障害を発症したかもしれない。でも攻撃されるのはかなわない。離れないといけない。中学のとき教師から攻撃されて、逃げられなくてptsdを発症した。 聖人になることだ。それで救われる。決して自己の快楽を追求することではない。昨日の水谷の話には泣いた。親に捨てられて、街角で体を売っていた娘が母親と住めることになって、働きすぎて、薬でぼろぼろになっていた体が痛んで、足を切断して、明日から済めるという前の日に不安から薬を飲みすぎて死んでしまった。優しいからそういう風になるのか。女や子供は本当にかわいそうだ。文学のやってきたことはなんだろう。人を豊かな気持ちにさせる。悪いことではない。悪は誰の心にも住んでいる。義人になろう。聖人になろう。そのことで人との疎通性がよくなり、救われる。 義人は悪人を攻撃する。仕方がないことだ。平気で人を傷つけるからだ。私のやっていることは盗みだ。まともに働いたことがあるか。そのことだけでも大きな気付きだろう。義人になればそんなことは簡単にわかる。細かいことを考えずに大局的なことを考えれば簡単にわかる。私は罪ばかり犯してきた。悪が私に取り付いて止まらなくなった。今からは違う。罪びとということを認め、改悛し、真面目に働く。人と仲良くする。簡単なことだ。組織に従い、上の言うことを効く。当たり前のことだ。アート系の人は自由だから悪いこともする。アートは悪を許すのだ。サドやバタイユみたいなものだ。馬鹿で境界例気味の私はふらふらと引き寄せられてしまった。本当に馬鹿だ。それでもアートの世界に逃げ込めば、生きていけたかもしれない。でも私がいるところは堅気の人間の住むところだ。悪が通用するわけがない。義人になることだ。聖人に。大局的に判断することだ。 困ったことは起こらない。例えばモラハラされたりとか、そういうことは二度と起こらない。義人になることにしたからだ。 細かいことは気にしない。悪事は細かいことに宿る。モラハラというのも細かいことを気にするからだ。 やっぱり真面目になろう。おかしい。前の職場を首になったのも危険人物とわかったからだ。いい加減に気付けよ。自分がおかしくなっていることに。何で良い人間だ何て思えるんだ。おかしいところを直さない限り、やっていけない。 悪いことを繰り返すのは自傷行為に他ならない。なぜそんなことをするかというとptsdになっているからだ。ptsdになった人はリストカットなどの自傷行為を繰り返す。なぜptsdになったかというと自分の悪事のせいだ。悪人と付き合ったために恐い体験をさせられた。いじめの手伝いをさせられた。きれいな心の持ち主だったのに。こんなことになった。権力やお金を手に入れても幸せにはなれない。本当の幸せとはありふれた平凡な情の通い合いにある。家族の温かみの中にある。どうして平凡な幸せを求めないのか。簡単なことだ。 悪いことをして処罰されて、傷つけられてptsdになる。その繰り返しだった。最愛の父親を死に追いやったことで最大のptsdになった。なぜそんな恐ろしいことができたのか。悪霊が取り付いていた。今はもう取り憑かれてはいないと思っているが、そうでもない。絶えず基本に戻って悪を戒めないと出てくる。長い間の癖になっているからだ。聖人になる。それ以外に方法はない。大局的に考える。それしかない。 私が正しいとか構わないとか思っていることでも間違っていることはたくさんある。刷り込まれた悪のイメージは容易には抜けない。聖人になること、義人になることだ。大局的にみることだ。それ以外にない。自己変革はそれしかない。回心すること。それしかない。普通の人のやるようにやること。 徐々に切り替えるより、スパッと切り替えた方がよい。悪の衝動を持つ人間はいくらでもいる。北原やhやkもそうだ。悪は人の心を傷つける。サドの作品はひどいptsdを私に残した。私は鬼畜ではない。だからptsdになるのだ。ptsdになるということは私が善良であること、普通であることの証だ。傷つけられた人間は傷つけることによって癒される。加藤フッキーが私にしたことはそれだ。私は何で傷つけられるのかわからなかった。それでptsdになった。人が恐いと感じるのは自分の中に悪の衝動があるからだ。人を傷つけたいと思っているからだ。義人になろう。聖人になろう。一所懸命働くことによって人は義人になれる。hやkはそのようにして義人となったのだろう。私もそうすればいいのだ。大局的に考えるのだ。甘えというのは許されない。社会人として許されない。私はptsdになった。まだ立ち直れない。でも義人になることで立ち直れる。
人間が恐い。女だけじゃない。女はすぐに攻撃してくる。昨日の写真展の女もそうだった。元々攻撃性の高い女もいる。ptsd的なモラハラ的なスポーツ、アート系に多い。だから私はどちらも深入りしなかった。b校ではじめてその先例を受けた。二度と会いたくない。相当疲れている。z氏自体がストレスなんだろうか。体の力を抜いてリラックスする。突っ張らない。どこかで突っ張っているから喧嘩を売ってくるんじゃないか。ボードレールは娼婦におぼれ、梅毒で死んだ。色んな人生がある。それもいいじゃないか。やりたいことをやって死んだ。大学に入る前赤頭巾ちゃん気をつけてを読んでおかしくなった。がむしゃらに働くことが馬鹿らしくなった。役に立たないことをやりたくなった。大学を出る頃には全く役に立たない人間になっていた。 ptsdから回復し、社会に貢献できる人間になる。それが目標だ。あの小説はptsdにうずくまる回避、引きこもりのバイブルだ。ライ麦畑で捕まえてのパクリだ。ぱくりと言う時点で人としておかしい。破綻している。少なくとも精神的に病んでいる。その後発表されたエッセーはかなり病んでいた。統合失調症的な趣がある。何で攻撃してくるのかわからない。あの職場でも何でhやkが私をターゲットにしてくるのかわからない。ptsdでおばはんがいるだけで体がしびれて動かなくなる。恐怖で凍りつく。hみたいなやつ、しつこい奴がいるだけで恐怖で動けなくなる。あの職場は離れたい。 自分はおかしい。間違ったこと悪いことを信じて押し通すことが良くない。改めよう。反抗的なことは良くあることだ。でも大概の大人は間違いに気付き、真っ当な道に戻る。どうして私は戻れないのか。両親や兄弟に謝ろう。私のめちゃくちゃな性格が家庭をめちゃくちゃにした。家は燃えてもうない。私は憑き物が落ちたように悪いことに気付いた。本当に今まで気付かなかった。卑屈になる必要はないが改悛してやり直すべきだろう。私は世の中が人間の心が全く見えていない。 反省はカウンセリングとは関係ないようであるような、多分カウンセリングに助けられて自分の力で自分を変えようという試みで良い事だろう。素晴らしいことだ。hがどうしたとかkがどうしたというのは全く小さなどうでも良いことだ。こんな大きな回心を前にすれば、小さすぎて意味を成さない。大きく変えていこう。女がどうしたとか、男がどうしたとか全く無意味だ。優しい人間でいいんじゃないか。偉そうにしたり、厳しいのは柄じゃない。強く厳しくなろうとすれば悪くなってしまう。私はそういう癖がある。中学の頃からおかしかった。高校の頃ますますおかしくなった。大学でついに発病した。就職してから病気をして荒れて手が付けられなくなった。職業的倫理を身につけるべきとき、修練の時を放蕩と無頼に過ごした。それを反省しろといっている。反省したほうが良い。そうでないとやり直せないということ。親兄弟に謝罪しろということだ。謝罪すれば許してくれるだろう。でも本当に回心しなければ意味がない。悪いことをしても得することはない。自分も傷つくし、人も傷つける。どうしてそれで平気なのかということだ。 父親が悪いことを全くしなかったかというと飲んだくれて母親を苦しめていたようだし、モラハラ的なこともあったようだ。共依存的でもあった。母親は立派だ。でも私のしたことは罪だ。大きな罪だ。する必要のない罪だ。どうしてそんなことをしたのかもわからない。罪の大きさにptsdになり、仕事が手に付かない。普通の社会生活を営むことが困難に思われる。それを知らないで攻撃されると耐えられない。私の犯した罪の大きさ。それは誰にもわからない。でもそれを何とか整理して働けるようにならないといけない。 聖なる時間であってもいいんじゃないか。この時間が俗っぽいものであることは私の反省と成長を促すものではない。聖なるものであれば反省は自然な心地よい形で行われるものだろう。ゆったりとリラックスした気分で気付きと成長はスムーズに行われるだろう。傷つける心配はないだろう。この日記が自傷的行動でないことを望む。 回心し、成長したいと思うことは素晴らしい聖なる決断だ。誰にも邪魔されることはない。聖なる気持ちで生きていこう。そうでなければ常に間違ってしまう。常に間違ったことをしてしまう人もいる。私のようなものだ。自分が釈迦か孔子か老子になった気持ちで大局的に考えてみないだろうか。大きな回心をするというのであれば是非そうすべきだ。hがどうとかkがどうとかフッキーがどうとか小さすぎることにこだわっていてはいけない。三年ね太郎になろう。三年寝太郎は何かのきっかけで引きこもりになったが、三年後に村のために大きな仕事をした。男はそういうものだ。無駄に寝ていたら意味ない。抗うつ剤を飲みながら、自己実現、回心、改悛、罪のあがない、夢の実現についてゆっくり聖なる気持ちで考えてみないか。老子になったような気持ちで、この身はもう天に召されたものだと思って大きな気持ちで考えてみないか。聖なる気持ちになって見ないか。私は選ばれてあると信じてみないか。夢みたいなことがもっとも現実的だ。政治家の語っていることは夢みたいだ。私のちっぽけなキチガイの境界例に悩まされていますというような悩みなんて小さすぎる。大きな夢について聖なる気持ちで考えれば、小さな意味不明な悩みは吹き飛ぶ。美しく生きよう。ぼろは着てても心の錦というじゃないか。心が腐ってしまったらいくらいいものを着ていてもだめだ。 今日はリービ英雄の講演会に行ってきた。シンポ風のものもあったが付け足しみたいでつまらなかった。あの片倉とも子というのは失礼な女だなと思った。モラハラ的な態度でリービ氏に喧嘩を売っていた。あれはキャラクターなんだろう。日文研の所長というのはああいう姉御肌というか喧嘩上手なところが買われたのだろう。でも感じ悪かった。大したこと言わないし。リービ氏は才能溢れる人でパワフルだった。変わり者ではあるが。面白い人だ。困ったことは起こらない。困ったことが起こるんじゃないかと心配する。嫌なことが起こったとくよくよする。いずれも馬鹿な話だ。そんなことは起こさせない。起こらない。それで終わりだ。そう悟った旅であった。 聖なる気持ち、大きな気持ちで生きると世界が変わって見える。障害者の人にも適切に親切にできる。すごく感動した。自分にもできるんだと思って。色々嫌な人にも会ったが結局ああいう人は自分がコントロールできないのだ。あわれなひとびとだ。ああいう人々がどうしてああなのかなんて考える必要ないじゃないか。 私は境界例なんかじゃない。おかしな境界例の人々を相手にしないことにした。境界例の人を何とか理解しようとしたが、何でそんな必要がある。全くない。下流階層の人を何で理解しないといけないんだ。
朝が来た。余り気分が良くない。抗うつ剤とアルコールの相性は良くないようだ。色々嫌なことに気づく。暴力やレイプ。私のされたことはレイプじゃないか。貪欲な人間と無欲な人間がいる。私の父は無欲だった。私はそれが物足りなかった。それは何が違うのか。あの自称セレブババアはものすごく貪欲だ。私はptsdの結果無欲になった。人は生来貪欲じゃなかろうか。子供はいくらでもおやつやおもちゃをほしがる。大人でもそうだ。欲望には限りがない。仏教は欲望を抑えることを教える。欧米人特にアメリカ人は貪欲だ。なぜそうかはわからない。日本人も貪欲でないとは言い切れない。特にバブル以降は贅沢の味を覚えてしまい、セレブなんていう頭のおかしなおばさんも増えている。私はそういう変なのに差別されたりする。笑止だ。キチガイフッキーが私にしたことは精神上のレイプである。愛が得られないから無理やり得ようとする。そんなことは許されない。最も重い罪だ。egやカウンセリングもある種の精神的レイプだ。抗うつ剤もそうだ。ptsdから回復するためには抗うつ剤を飲み続けるしかないのか。天然の覚せい剤をやっているような奴ら、アメリカ人とかhやkみたいなやつらには勝てないのか。勝とうと思っていない。平和を望んでいる。商売は平和に行うものじゃなかろうか。商売はレイプではない。町や山を歩いていても田舎に行っても安全とは感じない。危機に曝されていると感じる。不安に感じる。疑われ、差別されていると感じる。辛い時間だ。どうして普通に働きたいと思っているのに恐がらされたり、ptsdにさせられたり、精神的レイプといえるモラハラに曝されなければならないのか。小六のときに教師にモラハラという精神的レイプを受けた。中学のときも同じだ。それでptsdになった。私はptsdになりやすいようだ。どうしてかわからない。生まれつきの性質によるのだろう。hやkもptsdだ。それを何かに依存することで天然覚せい剤を得て働き者になったのだろう。でもそれは他人を私のようなptsd人間を不安にさせる。側にいるだけで不安になる。一緒に働くなんて絶対無理だ。不安なのだ。一緒にいることが。私のptsdが暴力で解決できると信じているらしい体育会系にありがちな体質が恐ろしい。アート系の人間もやはり恐ろしい。商人も恐ろしい。権力者も恐ろしい。この世は恐い化け物だらけだ。父は弱かった。優しかった。それが私には頼りなかった。父にとっての私は今の私にとってのhやkなのだろう。恐ろしくてたまらない。ptsdだ。後ろめたさ。罪の意識が人を恐がらせる。ptsdによって人は自分を責め、悔恨する。そしてうつになる。愛はptsdに似ている。それから逃げようとすると怒り狂ってレイプしようとしたり、ストーカーと化す奴がいる。フッキーみたいな奴。hやkみたいなやつ。レイプで思いを遂げられると考える野蛮な生き物。だから一緒にいたくない。z氏もptsdサバイバーだ。しかしある種のレイピストだ。egというレイプを私に強いて来た。私はレイプされた。前回のカウンセリングでegという言葉が出た。私の愛情が冷めてきたと感じたのでまたレイプしようとしている。自分もegにたびたび出ている。頭がおかしい。フッキーやhやkと大差ない。 私はこんなことを書きたくない。働きたいだけだ。働く喜びを味わいたい。誇りを取り戻したい。でもあのレイプ魔がいる空間では体が凍りつく。唇も凍る。だからあの空間から解放してほしい。 優しいことは必須条件だ。人間として当たり前のことだ。ptsdになると優しくできなくなる。これは危険なことだ。優しくない人間の行動なんかありえない。戦いは良くないことだ。天下泰平が世の習いだ。私は優しくされたい。どんなときでも優しくされたい。たとえptsdになって人に優しくできないときでも、そのときこそ優しくされたい。レイプなどされたくない。優しいことが人間の本質だと信じているし、優しさを失ったら関係は成り立たない。恐怖によって人を支配することはできない。でも実際は修練、スポーツ、芸事、仕事は厳しい修練によって支えられている。でも厳しいことは恐怖ではない。高橋直子選手は人よりたくさん練習する。厳しさではなく優しさからだと信じたい。勝ちたいと思うことは結構なことだ。負けたら殺されると。でも負けても人は殺さない。アメリカ人は日本人を殺しはしなかった。物を与え、教育を与え、政体を与え、惜しみなく援助した。人は優しいのだ。恐怖にとらわれると、人の優しさが判らなくなる。z氏も優しいのだ。私に恐がる必要はないこと、優しくすることを教えてくれたのだ。私も優しくしたい。優しくされたい。それが当たり前の世の中でそう信じたからといって馬鹿ではない。 優しいことは卑屈でも恐れでもない。偉大なことだ。私の父は偉大だった。ごく普通の世間の人が偉大に見える。それは優しいからだ。私は優しくなろう。元々優しかったのに、ptsdが、何かが私を傷つけ、優しくできなくさせた。恐怖で人を支配などできない。優しさだけが全てだ。愛こそ全てだ。愛、優しさ、感謝だ。優しいから失敗したのでは断じてない。恐がりで優しくできなくなったから失敗したのだ。また人生は最後までわからない。これからいくらでも優しくできる。そうすれば人生は開けていく。働くことは優しくする第一歩だ。働きたい。猛烈に働きたい。働くことは喜びだ。喜びを奪われたくない。働くことは誇りだ。 優しいことはいいことだ。自分にも優しくしよう。女性的であることは恥ずかしいことではない。悪いことでもない。人間色々あるだろう。男らしさは優しいことだ。これから精一杯優しくしよう。自分にも優しくしよう。世の中は優しい人間ばかりではないだろう。でも私は優しくしよう。世の中を優しさで満たすくらい優しくしよう。それは夢でなくて当たり前のことだ。世の中を暗くしてはいけない。こんな良い世の中を優しくない言葉や行為で暗くしてはいけない。一人さんの言葉がやっと理解できた。魂力とはなんなのか。やっとわかった。それは愛だ。優しさだ。当たり前の人の心だ。ptsdになってもまた立ち直れる。こだわりの強い人間はptsdになりやすい。でもきっと立ち直れる。優しさと愛だ。それは弱さではない。強さだ。 あの変なおばさんも私の魂力を上げるために神が遣わしてくれたのだ。お蔭で相当私の魂力は上がった。これだけ忍耐強くなった。誰も私に注意などしてくれない。hとkは私に遣わされた試練なのだ。優しくなりなさいという神の声なのだ。愛を学びなさいという天の声なのだ。悩んでいるんじゃない。学んでいるんだ。これは強がりなんかじゃなく真実だ。 私は多分間違っている。これだけ多くの人に指摘され、不審がられ、注意され、自分でも苦しんでいるのだから何かやり方が間違っているのだ。矯正の必要がありそうだ。このままぶっちぎると言うようなことはどうやら許されないようだ。でも卑屈になることはないし、いじましいことをする必要はない。ただ愛だけ、優しさだけの話だ。簡単なことだ。元々愛と優しさに満ちた人間だったのが、中学の頃、ptsdになって、ぐれたのだ。それを今直すべきときが来たのだ。簡単なことですごく自分が楽になる。人に優しくし、自分に優しくするのだから当然そうなる。自分の喜ぶことをするのだ。それが人が喜ぶことなのだ。私が苦しむことが人を喜ばせるなんてそんな恐ろしいことは絶対考えるな。もっぱら自分を喜ばせることを考えよ。一人さんの言うことは正しいと確信した。 優しさが足りない。愛が足りない。簡単なことだ。愛をケチってはいけない。その必要もない。愛は無限だからだ。人にひどいことをしてはいけない。お釈迦様の教えだ。孔子も言っている。人に優しくしなさいといっている。当たり前のことだ。でも落ち目になると苦しくて人に優しくできなくなるのが人の常だ。でも不可能ではない。抗うつ剤を一錠飲むだけでそれは可能になる。ptsdの本を読んで思い当たった。これという治療法もないということ、ただ抗うつ剤が効くらしいことがわかった。それで試してみる気になった。そして狙い通り、奏効した。素晴らしい薬だ。もちろんリスクはある。でもそれを知って使いこなすのはありだと思う。hやkの言うことは良くわかった。そして私は悔い改めた。だから問題はない。後はこだわりだけだ。ただこれだけこじれたい情。一緒にいないで新たにやり直すことが得策だ。賢明だ。もう問題はないのだ。私はやり方が間違っていた。それは人にひどいことをして何とも思わないということだ。悪いことをして反省しないということだ。どうしてそうなったのか。悪い仲間と付き合ったからだ。だが人間は馬鹿ではない。やがて愛を知り、優しさを受け入れ、悔い改めることができる。今日1割悔い改め、明日1割悔い改めしていけば復帰する頃にはきれいな心身状態になって仕事もバリバリできる。悔い改めることは恥ずかしいことではない。むしろ誇らしいことだ。父の魂に誓って悔い改めよう。 私は悪いことをしても反省しない。それは本当に悪いことだ。悪を感じる感覚が鈍いのか。そんなことはない。わかっていてやっている。小さい頃悪い奴と付き合ったからだ。馬鹿になってしまった。どんな人生だろう。ちゃんとしよう。今からでも遅くない。悪いことをいっぱいしたのに反省がない。反省がないから繰り返す。元々良い人間なんだ。きっと元に戻れる。抗うつ剤を飲んで元気になって、悪いことは反省し、回心しよう。悔い改めよう。hは悪い奴ではない。やさしいいい奴だ。ちょっとしつこいし、こだわりが強いが、優しい。どこかで何かを悟ったのだろう。私も回心しよう。あの職場に貢献すれば居易くなる。出世も夢ではない。どうして出世を夢と諦めるのか。諦める必要はないのだ。 働かないのではない。働けなくなっていたのだ。ptsdだ。ptsdの本当の原因はわかった。やっぱり私が悪いのだ。今からでも改めることはできる。会社でサボっていてはいけないだろう。おかしいのだ。悪いことをしておいて反省しない私が悪い。ただ母親との葛藤によるptsdという考慮すべき点はある。情状酌量。でももうきちんと心の整理がついてちゃんとできる。やっぱり私に悪い点がある。できない私が悪い。悪いといっても責めているわけではない。同情すべき点はたくさんある。きちんと悔い改めれば楽になる。 何かぼけてる。やることなすこと間が抜けている。良くなるだろう。でもぼけたお蔭なのか大事なことに気付いた。知に働いているだけでは気付かなかったことに気づいた。怪我の功名だ。何がどう転ぶかわからない。 今思い返してみるとずいぶんおかしなことをやってきた。この会社に入ったときからおかしなことをやってきた。いくら変なやつとはいえ上司に反抗するのはもうだめだ。失格だ。狂人であることを証明してしまった。中学のとき、変な教師に怒られた。それは遅刻をしたのにへらへらしていたから悪い。悪いことをしても反省しないという私の悪い面が出た。それで反省すればよいのに更にひねくれて反抗した。反抗自体は反抗期だからありがちなことだ。でも常軌を逸している。こだわりすぎだ。正しいことにこだわるのなら褒められるが、間違ったことにこだわり続けるならばサドみたいなやつになるだけだ。そうなりたいなら別だが、なりたくないだろう。強くなりたいとか訳のわからないことを言うな。間違ったこと、悪いことを押し通そうとしても絶対に世間は通らない。事実通ったためしはないじゃないか。いい加減に目を覚まして正しい道に戻ろう。正しい道はさわやかで気持ち良いぞ。絶対にそう思う。悪いことをして得をしようとか、反省しないとか、ヤクザの考えることだ。絶対に間違っている。やめたほうがいい。出直したい。もう一回チャンスがほしい。必ず立ち直れる。今度こそ正しいことがわかったからだ。 b校でいじめられた理由もわかった。今までの職場で一度たりともうまく行かなかった理由もやっとわかった。やっぱり悪いことを平気でする。人を傷つける。そして反省しない。恥の意識もない。でもこれからは悔い改める。きっと希望に満ちた人生が開けてくる。確信した。大好きな人生の楽園、それは夫婦愛であり、勤勉さという美徳であり、思いやりであり、人の善良さであり、私にかけているもの全てがそこにあるからだ。悪いことをする人間は恐いと思う。私が人を恐いと思う以上に人は私が恐いと思う。強いから恐いんじゃない。何をするかわからないからだ。信頼関係が築けないからだ。良い人間は馬鹿だろうか。そんなことはない。勤勉な人間は馬鹿だろうか。とんでもない。正直者は馬鹿だろうか。とんでもない。人に迷惑をかけない人間は馬鹿だろうか。とんでもない。悪い人間こそ馬鹿だ。悪いのに改めない人間こそ馬鹿だ。私には漸くわかった。h子君やフッキーやお坊さんみたいに何があったか知らないが悪いことをする人間、人を傷つける人間はだめだ。そんなのと付き合うからこうなる。私は根っからの悪じゃないから傷つく。でもチョイ悪みたいなやつはいくらでもいる。でも私の柄じゃない。私は善人だ。だからこだわってしまった。悪にこだわることはないじゃないか。悪い人間のことを思いやることはない。 悪いことはしても絶対に報いが来る。天網恢恢とはこのことだ。優しさと愛に帰れ。この間執行役員にいじめられた。でもそれに似たことはよくある。あのサークルでもm氏に暴行を受けた。おかしい奴なのだ。なぜ気持ちが悪いかというと悪いことばかりやるからだ。恐怖といっても悪いことをしていなければ恐くないだろう。悪いことをしていれば常に恐い。何かが恐い。誰かが恐い。悪いことをして怒られてptsdになる。その人間を恨む。おかしいと思う。悪いことをしなければいいのだ。どうしてこだわるのかわからない。モラハラもいいが、そこを改めないと同様のことが起こる。自分が悪い点を考えないといけない。きっとこうして報いを受けてきたのだ。良いことをいっぱいすれば褒められる。過去の悪行も消える。どうして今まで気付かなかったのか。ここまで追い込まれないとわからないということだ。でもわかってよかった。小さい頃からのこだわりがやっと解けた。きっと今度こそ大丈夫だ。 天邪鬼の程度の悪い奴だ。あの職場にいると体がこわばる。ptsdだ。前回別のおばさんとトラブルになったとき、ptsdが生じた。でも根本は悪へのこだわりが私の中に根付いていることが原因に他ならない。これの解決法はないものと思っていたが、ある。心で思うだけで改めることができる。確信した。力はある。善良でもある。純真無垢な心を持っている。ところが悪いことに染まってしまい、台無しになった。でも今からでも遅くない。一種の病気だから、同情すべき点はある。人格障害的、境界例的な側面はあるからなかなか気付きにくいし、治療の術も乏しい。ヤンキーが私に興味を持つのは同じメンタリティーを持っているからだ。恐いのは自分が恐れていること、悪と指弾され、権力者に罰せられるということ。それが実現しそうになるからだ。同じ穴の狢じゃないかといわれることが恐いのだ。実際同じ穴の狢だ。そう認めてしまえば楽じゃないか。でも悪いことは二度としない。偉そうにもしない。地道にこつこつ善良な役に立つことを積み重ねていく。一気に百点狙うのはおかしい。10点や30点で良い。地道にこつこつ積み重ねて信頼を勝ち取るのだ。正攻法しかない。私も漸く正しい答を見出した。hだってある種の悪だ。顔を見たらわかる。なぜ恐いかというと悪だからだ。ヤクザみたいだからだ。自分が一緒にされることが嫌なのだ。でも同じなのだ。もっと悪い。私は反省してないからだ。悔い改めて正しいことができるようになっていないからだ。あの職場に来る奴はいずれにせよ、何かを抱えている。ヤクザの吹き溜まりだ。この変化が起きたこととあのカウンセラーにかかっていることと関係あるだろうか。私は自分を責めているわけではない。でも馬鹿なやり方を改めなさいといっているだけだ。極めて優しい、もっともな一番すぐに楽になれるやり方を勧めているだけだ。絶対に正しい。あのサルみたいな顔をした奴もいっぱい失敗してきたのだ。善良なんだけど悪に染まってしまった。人は何らかの脳障害を抱えている場合以外は善良な純真無垢な状態で生まれてくる。全く無力だ。親に完全に依存している。でも悪いことに染まる場合もあるだろう。でも人間だったらすぐ気付いて、改めることができる。あのカウンセラーは余り快くない。癒されることを期待していくとえらい目に遭う。でもこうして大事なことに気付いたことと何か関係があるような気がしてならない。前回思い切ってこちらの恐怖心を告白した。居心地悪い感じ。思いやりを感じない雰囲気。昨日、室生寺の店員と話したときとても恐かった。傷つけられる感じがして足が震えそうになった。頭が今ぼけているから脆弱な状態だ。不安だ。ところがそういうヘルプレスな感じになって初めて自分のやり方が間違っていたことに気付く。こうならないと気付かない。遅すぎることはない。今からでも十分間に合う。普通の人間になるチャンスが訪れたのだ。お坊さんは古本屋巡りを趣味とするおとなしい善良なところがある。私は風俗遊びをするくらい反社会的だ。もちろんそういう人間はたくさんいる。でもそういうことをする人間は悪いことを知っている。悪いことをしていることを知っている。そんな自分である、どうしようもない人間であることを知っている。ところが私は自分を知らない。自分がやっていることの意味を知らない。故意に人を傷つけることの悪質さに気付かない。自分を騙しとおそうとする。自分は騙せても人は騙せない。世間は騙せない。裸で歩いているようなものだ。美化してはいけない。悪を美化してはいけない。それはヤクザがやることだ。親父もそういうものを抱えていたらしい。ヤクザと付き合っていた。同時にヤクザを非常に恐れていた。遺伝かもしれない。内面は苦しいものだったのだろう。hにも同じものを感じる。弱々しい繊細な感受性は善も悪も区別なく受け入れてしまうのか。でも一体受け入れた後でもきちんと理性の力で善悪を区別することを学んでいく。それが当たり前の人間だ。きっと私もできる。できなかったら生きていけない。必ずやる。 自分は憐れな無力な子供だ。それを受け入れよう。そうすれば変わって行ける。自分は強い。世間の非難もやり過ごせる、ごまかせると考えるならばいつまで待っても変化は起こらないだろう。心地よいカウンセラーは変化を促さないかもしれない。z氏は快いカウンセラーであったために甘えを許し、悪の居場所を見つけたのだろう。私のような人間は悪を許し、甘えさせてくれる人を求めてさまよう。あの坊さんと同じだ。フッキーも脳に器質的障害があるために悪をコントロールできない。人を傷つけてしまう。あの人のせいではない。しかし、だからこそ普通の人間と同じように考えて近づいてはいけない。必ず傷つく。ptsdになる。あの人は本当に壊れている。でもそのお蔭で私は壊れた。壊れることによって間違ったやり方、あり方心の持ち方に初めて気付いた。私は救われた。今度こそ本当に救われた。甘えているんだ。大人であっても何らかの心の病を抱えている人は甘えずにいられない。だからカウンセラーがいる。でも私は変化した。本当に長い間かかって問題に気付き、直せる見通しがついた。本当に根本的な変化が生じた。そう確信する。悪いことはやりつくした。人として許されないことを全てやりつくした。甘え。悪行三昧。最後に甘えを許してくれる人格障害的な人に救いを求めた。しかし、反省がないので明らかな失敗に終わった。でもこれからは違う。真に反省した。頭が良くても強くても間違ったことや悪いことをいくら頑張っても絶対にうまく行かない。
抗うつ剤を飲んだ。ptsdに効くとあったからだ。実際効いている気がする。アレルギーがあったので飲まなかったが、結局ptsdだったとすれば、応急的に飲むのは悪くない。この苦境を脱するためには多少のリスクはやむをえない。安定したら、トリプトファンと有酸素運動と呼吸法に切り替えよう。今急にあのキチガイが恐くなくなった。あんな奴は外に出すな。監禁しておけ。私はストレスがすぐにトラウマにまで発展しやすいのじゃないか。恐がりなのだ。悪循環になっている。恐がると余計にトラウマになりやすい。私はトラウマサバイバーだ。偉いと思う。良くここまでやってきた。今は抗うつ剤で乗り切ろう。仕方がない。 抗うつ剤の効き目はすごい。ものすごく元気が出てきた。躁状態にならないよう気をつけよう。私のトラウマや悩みの種になっている奴というのは本当に下らない犬のくそみたいな奴ばっかりだ。犬のくそを踏んでトラウマになる。そのパターンだ。犬のくそと知ってて踏んでしまうこの心理って何なんだろう。これからはこういうことがないようにしよう。かつ過去に踏んだのは犬のくそだということでトラウマにならないようにしよう。 室生寺に行ってきた。楽しかった。大野寺まで行こうと思ったが道に迷って室生寺に戻ってしまったので足も痛いし、雨も降りそうなので切り上げてバスで帰ってきた。正しい賢明な判断だ。抗うつ剤の効き目はすごい。本当にすごい。一日で気分が一変してしまった。これなしでやり過ごそうとしたこの数ヵ月は何だったのか。おばさんが嫌なんじゃなくておっさんが嫌なんじゃないかと思った。あのおばはんが嫌なのはおっさんみたいだからだろう。女性的なおばはんは抵抗が少ない。だとすると本当に嫌いなのはおっさんなんじゃないか。中学のとき、小六のときトラウマを受けたのは男の教師だった。男らしくなくてもいいだろう。本当にそう思う。そういう人間がいてもいいのだ。ナチスは同性愛者をガス室に送り込んだ。極端に言えばそうなる。私はトラウマサバイバーだ。その当時だけでなくそのトラウマは生きてじくじく血を流し、膿んで痛んでいる。それを生き抜かねばならない。本当に立派だと思う。素晴らしいと思う。天はきっと味方してくれる。こんなに頑張っているのだから。これからはまともな人間になろう。きっとなれる。悪い気持ちがすっと抜けた。hは良い奴だ。良い奴なのに何で恐がる。自分が悪いことを考えているからだ。でもこれからは違う。きっときちんとできる。世間の普通の人と同じようにできる。きっと優しくなれる。悪いことをしても絶対に許されない。私が長く休んでいるのは誰かを困らせようとか、自分だけ得をしようとかそういうことであってはならない。そんなことはありえない。z氏も不思議がっているだろう。素直に正直にやっていけば必ずうまく行く。私は女性的であっても問題ないと思う。恥ずかしくもない。仮に両性愛、同性愛であっても恥ずかしくはない。市会議員もいる。抗うつ剤を飲むと悪の虫が暴れ出す。リスパダールが必要になってくる。医者にまで攻撃的になる。おかしい。自分は絶対におかしい。でも根本から考え直したからきっと楽になる。悪の虫は考え方次第だ。悪い風に考えなければ良い。hは良い奴だ。仏のような奴だ。父親の生まれ変わりだ。でもそれだけに今会うのは辛い。悪いことはしない。偉そうにしない。会社に入ったとき、悪い見本がいた。私は良くない状態だが、きっと良くなる。 もう私は昨日の私ではない。心を入れ替えた。悪を完全に諦めた。私の悪を許してくれる境界例的な人を捜し求めてはいけない。そのつもりもない。正直に地道に生きる。 悪なんて柄じゃない。もうやめていいんだ。善良で正直で優しいのが本来の私の姿だ。やっぱり悪いことをしても通らない。正しい道に戻ろう。絶対可能だ。希望が見えてきた。私は自分が思っているより、悪くないし、善良でもない。もう悪いことはしない。自分が善良だと誤信して平気で悪いことをしない。どうしてこの年になってそんなことに気付かないのかわからない。今日を境に生まれ変わる。きっと生まれ変わる。 今図書館に行ってきたが、何か今までと変わったように思う。普通に会話でき、変な感じがしなかった。偉そうにしないこと、人の気持ちを傷つけないこと。突っ張らないこと。柔和であること。自分に厳しくしないこと。人にも自分にも優しくすること。さっきのおばちゃんにもすごく普通に優しくできた。素晴らしいことだ。当たり前のことが普通にできるようになるまでこれだけかかったということだ。良い日だ。今日はこんな日がずっと続けば良い。 馬鹿であれ、優しくあれ、もうこれ以上傷つかなくていいんだ。人にも自分にも優しくして良いんだ。強面とかやり手とか絶対私には似合わない。優しく柔和で女性的で穏やか。それで十分生きていける。愛情を求めてもいいのだ。女性を手本にしよう。偉そうにしない。感謝する。許す。迷惑をかけない。喧嘩しない。張り合わない。女性に優しくする。優しい気持ちになるとすごく楽になる。女性が優しく見えてくる。緊張したり、恐がったりするとそれが相手に伝染して気まずく不自然になる。悪い気持ちを持たない。実際持っていない。優しい気持ちになれた。限りなく優しい気持ちになれた。人間を産みはぐくむ優しい性。男を受け入れる優しい性。子供を守り育てる強い性。不平一つ言わない。本当に立派に見えてきた。優しいことが強いことだ。女性の目線で見ると色んなものが見えてくる。優しい。hも女性的なのだ。色々世話になった。とても感謝している。悪い気持ちは何もない。なくなった。すごく感謝している。有形無形の世話になった。だから裏切りたくない。傷付けたくない。今の状態では会わないほうが良い。優しいことはいいことだ。限りなく優しいことはいいことだ。過去にした悪いことを全て後悔し、反省し、悪いことをしたら、素直にごめんなさいといえるようになりたい。悪いことを押し通そうとしても絶対に通らない。悪いことをしたら反省しよう。悪いことをしようなんて考えまい。人を傷つけないことだけ考えよう。迷惑をかけたら謝ろう。優しい当たり前の気持ち。女性的でいいんだと初めて思った。女性的とは立派なことだ。男で女性的であることはとても都合のいいことだ。人に優しくできる。自分が強いと勘違いしたり、偉そうにしたりするのは止めよう。人に優しくしよう。今までにした悪いことを全て反省し、謝罪し、悔い改めよう。フッキーも坊さんも許そう。生きていることが地獄なのだ。あの人たちは。自分ではどうしようもないのだ。帰って近づくことが傷つけることになる。傷つけられる元になる。自分の悪を許してくれる誰かを探している。誰がみすみす傷つけられることを受け入れるだろうか。本当に両親には申し訳なく思っている。本当に謝罪したい。hにもkにも迷惑をかけて本当に申し訳なく思っている。フッキーみたいに私は自分がコントロールできないかわいそうな奴なんだ。人を傷つけても何とも思わない悪い奴だったのだ。これからは違う。人を傷つけたり、迷惑をかけたら、申し訳なく思う。反省し、謝罪する。威張ったり、馬鹿にしたりしない。自分ではばれてないつもりでも悪い心、汚い心は見えている。誰からも見えている。さあ、心を入れ替えよう。必ずできる。心の大掃除だ。悪いことをこだわり押し通そうとしても絶対に世の中通らない。優しい、愛に満ちた謙虚な人間でいいのだ。どうして悪くならないといけないのか。悪くなったら強くなるのか。ならない。絶対にならない。ヤクザが強いだろうか。一番弱いと思う。優しい女性が一番強いのだ。優しいこと、弱いことは恥ずかしいことではない。素晴らしいことだ。肩の力を抜こう。突っ張るのは止めよう。素直になろう。人に優しくしよう。一所懸命働こう。一所懸命働く心優しい、正しい人間を誰がいじめるだろうか。強くなろう、偉くなろうと思わなくていい。弱者で良い。優しいもので良い。謙虚であれば良い。人の先に立たない。馬鹿にする奴はおかしい。正しい気持ち、さわやかな優しい気持ちで生きていればきっと神は生かしてくださる。今まで善良であるとは弱いこと、馬鹿なことと信じていた。特に大阪のような大都会ではそうだ。私は悪い。悪いことをするのは自分だけは許されていると思っている。故意に悪いことをする。心の中は荒れ放題、荒みきっている。もう一度z氏との絆を思い出そう。忘れかけていた善への絆を取り戻そう。悪いことをして、人を傷つけて自分を傷つけて何とも思わないばかりか、得意になり、自分だけは許されていると勘違いし、怒られると逆切れする。悪いことをされて黙っている奴がどこにいるのか。それは怒るだろう。中学のとき、教師に虐待されてptsdになった。それは事実だろう。でもその前に悪いことをして怒られているのに平然として自分だけは許されると考える態度はやっぱりおかしいのだ。小六のときも同じ経験をした。学級委員で人の模範とならなければいけないのに、悪い友達と付き合って、悪いことをしてまたptsdになって、それを教師に咎められて、反抗する。自分だけは許されるべきだと思い上がる。そんなことは絶対に通らない。この年になって漸くそれがわかった。でも遅すぎるということはない。安全で正しく有益な人間以外社会人とは認められない。hもkもz氏も当たり前のことを言っているだけだ。当たり前のことを言われて切れるのも中学の頃から一貫して変わっていない。悪ぶって傷ついて社会からますます孤立する。私は自分を責めているのではない。だからさわやかな気持ちだ。目の前に広い道が現れたようだ。悪いことをして咎められて切れてptsdになる。そんな馬鹿はいない。もういい加減に止めよう。死んでしまう。幾度も社会的死を宣告された。今度立ち直れなかったら最後だ。でもやっと私の心のメカニズムがクリアーに理解できたので、きっと真人間に戻れる。人を傷つけて喜ぶ最低な人間に成り下がっていた。悔い改めよう。人に自分に優しくしよう。三人ともptsdだ。誰でも多少はそういうことはある。大げさに苦しんでしまうのは何だろう。小説の悪影響か。小説のせいにするな。ぼけたお蔭で真人間に戻ろうと思った。自分は明らかにおかしいこと、それは今なら直せると確信した。直そうとすればいつでも直せると確信した。社会への再参加、それが必要だ。当たり前の常識、芸術なんか全く関係ない。それを取り戻したい。取り戻せる。もう取り戻したといえるかもしれない。取り戻そうと思った時点で九割方取り戻せたのじゃないか。苦しんでいる人間は私だけじゃない。あの三人だってきっと傷口から血を流しながら生きているかもしれないのだ。生きるとはそういうことの連続じゃないのか。面白おかしいだけの人生なんかが存在するなんて考えるのは、狂人か放蕩者かヤクザだ。極道者だ。悪いことを押し通すことは絶対にできない。自分だけ悪いことが許されているなんて信じることはばかげている。今まで何回首になったんだ。何で反省もせずに悪いことを繰り返すのか。悪いことを繰り返すような人間だからあんな職場に入れられた。あんな職場でも与えてくれただけで感謝だ。それをどうして不平を言うことができるのか。上のほうもわかっている。トラブルを繰り返すからあそこに入れられた。そこでトラブルを起こしても他には行きようがない。トラブルメーカーは誰も引き受け手はない。人に迷惑をかけたら申し訳ないと思う。それが当たり前だ。きっとhやkをいっぱい傷つけたのだ。そして反省がないから危険極まりない。また何度でも繰り返す。間違ったことを良いことと勘違いしている。完全におかしい。完全におかしいということにやっと気付いた。嬉しい。気付かなかったら直せない。でも気付いたら直せる。きっと直せる。困っているんじゃない。学んでいるんだという一人さんの言葉は全く正しい。学ぶチャンスを神から会社から与えられたのだ。そして私はいろいろな人のお蔭で今ようやく気付くことができた。カウンセリングは自分の問題を自分で解決できるようになるまでサポートすることだ。引きこもってしまったら、解決はできない。恐怖症には回避はだめで暴露が正しいという。犬が恐ければ犬をずっと見ること。今や女もおばさんも全くといっていいほど恐くはない。今日の写真展はちょっとパニクっていたので恐かったけど通常の状態であれば全く問題はない。z氏も私の問題の多い性格を全てわかっている。ptsdは結果だ。その原因を作っているのは悪を悪とも思わない私の反社会性だ。自分をこのままで受け入れてくれるところなどない。簡単なことだ。正直で真面目で優しくなればいいのだ。勤勉になればいいのだ。悪いことを悪いことと認識できることだ。そして対処できることだ。きっとできる。ここまでどん底に堕ちてしまったが、きっと回復できる。z氏がもう一度信頼できそうだ。自分を助けるものだけが助かるのだ。悪いことをやっておいてなぜ平然としていられるのか。宅間と基本的には同じじゃないか。おごりも甚だしい。優しくするのは楽しいと思った。女は優しいから長生きできるのだ。 私は自分が働いた悪事、今自分が身につけてしまった悪い性格のせいで報いを受けている。自分のした悪いことは全て自分の心と体に刻み込まれ、全ての報いを受けている。人は悪いことをして、報いを受けないことはない。自分だけ逃れられることはない。悪いことに固執して楽しいことが何かあったろうか。放蕩、悪事、人を傷つけること、何かいいことが私に起こったろうか。本当に悲惨な筆舌に尽くしがたい報いを受けた。そして今も受けつつある。今こそ悔い改め、善悪の区別をし、悪を厳しく排除することを決意する。絶対の決意だ。どんなに困難であろうとも、この悪い癖のようなもの魂に刻み込まれた罪の痕跡と今生きている悪の芽を摘む。真面目で正直で一所懸命で勤勉になる。ptsdになった。でも女はそんな仕打ちを受けようとも絶対にへこたれない。強くないといけないだろうか。そんなことはない。弱くても生きていける。善良でさえあれば生きていける。わざと悪いことをする。咎められても反省しない。悪いことをしてもいいと思っている。絶対に正すべき間違いだ。法律なんか勉強しても意馬心猿だ。自分が悪いことの屁理屈をひねり出すことを学んだに過ぎない。私はそんなに悪い人間ではないと思っていた。でもやっぱり信じられないくらい邪悪だ。誰でもそういう面はある。でもちゃんとセーブできる自制心を持っている。悪いことをして罰せられないなどとは思っていない。もちろん日本人には特有の甘えがあることはあるが、大半の人間は正直で勤勉だ。そうでなければ社会人として認められない。どうしてこんな風になったのか。責めているのではない。悪いことは反省し、改めよう。人を裏切ったり傷つけたりするのは止そう。z氏とは長い付き合いだ。でもさじを投げられた。抗うつ剤のせいではない。自分が培ってきた性格には責任がある。薬のせいにすること自体甘えだ。z氏は甘えを許してくれると思ったのだ。私は必ずこの奇怪な性格を改め、社会に再び帰れる日が来ると信じている。自分の悪い点を直さないとだめだ。はっきりとわかったのだから、自分で直せる。きっと直せる。楽ではないかもしれないが、きっと直せる。私はフッキーや加藤氏を刺激する何かを発散していた。悪を許容し、抱擁できる力があるかのような。z氏が私の悪を許し、癒してくれるのではないかと思ったのと同じように。z氏もきっと傷つけたのだ。途中からストーカーか境界例みたいになってしがみついたことを覚えている。そのときかすかに無意識にでも傷つけてもいいような気がしたかもしれない。両親や兄、姉を傷つけたように傷つけていいと思ったとしたら大きな罪をまた犯したことになる。信頼を裏切って悪事を働いたことになる。なぜ悪事を働くのか。そこが一番大きな問題だ。ptsdは抗うつ剤がなぜか効果がある。有酸素運動や日に当たることもいいだろう。きっと私はこの大きな問題を直せるだろう。愛と勇気と優しさだ。働くことは優しさだ。いくら優しくてもいいのだ。hは優しいのだ。kもそうだろう。いくらでも働くということはとても優しいのだ。優しくなかったら、意味がない。自分の権利ばかり主張し、人に優しくできない。人から孤立し、責任を果たせない。生まれ変わろう。生まれ変わるチャンスだ。いよいよ生まれ変わるのだ。フッキーはともかく加藤さんは優しい。でもあのひとのptsdが私に同じものを引き起こしてしまった。自分を責めるわけではない、業のようなものだろう。慎重さを欠いた。悪に勤しむ自分の性格が出てしまった。優しい、真人間の、正直で働き者の人間に戻ろう。 簡単なことではないだろう。優しさ、愛、感謝に戻るしかない。z氏も精一杯やってくれた。私ももう一度やり直したい。パワハラとかモラハラの影響を脱して、通常の生活ができるようになりたい。悪は通用しない。人を馬鹿にしても自分に戻ってくるだけだ。愛と感謝と優しさだ。今日、図書館のおばちゃんとはうまく行った。誰とでもうまく行くようにしよう。何も考えない。馬鹿であることから出発したらどうか。恐がることは何もない。恐がって警戒して、攻撃的になることに何も意味はない。人を信頼し、心を開くことだ。銀行に入ったときには既におかしかった。大学時代もおかしかった。高校も中学もおかしかった。ptsdだ。自分が招いたものだ。必ず直せる。 優しく愛に満ち、心を許せば誰でも優しくしてくれる。写真展に行ったときは都会を歩いていたので緊張して警戒心でいっぱいになってしまった。一度ではうまく行かない。一歩一歩学んでいこう。恐れることは何もないと、愛と感謝と優しさに満ちた関係は絶対に可能だ。人は優しい。悪い人はいない。それをいいことに人を傷つけたり、苦しめたりしてはいけない。優しい男を誰が軽蔑するだろう。自分が邪悪すぎるからそんなことを考える。大切なz氏を傷つけてしまった。それは薬のせいなどではなく自分の意志でコントロールできる。どうして人を信じられなくなったのか。人を信じよう。人を信じない人間を誰も信じてくれない。いい人間を演じきればそれはいい人間ということになる。一瞬でもそれを裏切る行為をすればすなわち信用できない罪人ということになる。それは当たり前だ。もう一度やり直そう。頑張ってみよう。鬼畜みたいなことは止めよう。そういうやつはいる。でも私の柄じゃない。悪いことをするのは悪い奴に任せればいい。私は人を信じ、優しく正直に生きて行きたい。 この頭のボケは治るんだろうか。昨日も狐につままれたみたいに同じ道を歩いてしまったし、今日は赤信号を渡っていた。いつか事故にあうのではないか。ボーっとしてしまう。注意力散漫だ。気をつけよう。慎重の上にも慎重に行こう。無理は禁物。特に心はぼろぼろなので本当に注意した方が良い。勢いで何かできると思ったら大間違いだ。でもぼけたから道が開けた。抗うつ剤を飲むという選択は勇気ある選択と思う。自分が悪いということに気付いた。人に迷惑をかけたら申し訳ないなと思う。それでいいんじゃないか。申し訳ないなと思っていればそれ以上何もできない。何が悪いという居直った態度は悪い癖でそれこそ直さないといけない。素直になろう。悪いと気付いたら即改めよう。
今日は秋晴れで良い天気だ。でも薬のせいで遅く起きてしまってハイキングに出かけられない。頭の方は少しいいだろう。目は少しかすむ。頭の働きが少し衰えたようだ。また元に戻るだろう。 細心の注意を払おう。自分は今危機的な状況にある。冒険主義は厳に戒めよう。女が恐ければ十分注意していればいいのだ。恐がる必要はないのだ。 私がptsdにあることは明らかだ。女を好きになれない。人と仲良くなれない。人が嫌いだ。これはptsdだ。ptsdだからといって怒鳴られたり、モラハラにあったりすることは二次被害だ。この会社に入ったときにキチガイからモラハラになった。どうして自分がそういう目に遭うのかわからないが、じっと耐えた。それがptsdだ。それ以前からptsdになっていた。色々な惨事。ババアを見るだけで恐怖に襲われる。ババアの声を聞いただけで恐くなるのはあの療養生活によるものだ。婆とものすごい葛藤が生じた。あれほど人と憎みあったことはない。人と信頼関係をもてなくなったのは私のせいではない。ババアが嫌いになったのは私のせいではない。レイプされた女性が男を憎み嫌うのは当然の反応だろう。 小さい頃からptsdだ。友達ができなかった。中学のときに付き合ったくそ馬鹿のせいで家族が嫌いになり、ptsdになった。それからはptsd一筋だ。 今本当に疲れている。本当に慎重にしたほうが良い。休む勇気が必要だ。 恐がったり不快な気持ちになるのは損だろうという気持ちになった。人間なんて恐いものではない。全く恐くない。法律と道徳と良心とありとあらゆるものでがんじがらめになっている。恐がるだけ損だ。嫌がらせをしたからといって不快な気持ちになるだけ損だ。自分を喜ばせよう。人を喜ばせてどうする。 大泉緑地に行ってきた。いいところだ。緑が多い。人も少ない。猫が可愛い。 キチガイと酒を飲んだ。ptsdになった。これが私に起こったことだ。キチガイは私を好きになった。狂った自分を無限に受け入れてくれそうな気がしたからだ。私もおかしかったから優しい気持ちから受け入れてしまった。だが、さすがに恐くなった。嫌いになり離れようと思った。最後にのみに行ったとき、嫌で嫌でたまらなかった。そういう態度にキチガイは腹を立てハラスメント的怒りをぶつけてきた。キチガイの嫌味嫌がらせ光線を数時間に亘って浴びながら酒を飲んでいると翌日から眠れなくなった。酒を飲むとは性的な感じがするくらいに親しい行為だ。それを嫌な相手とするということはレイプとそっくりなことだ。それをやられたのだ。だからptsdになった。ありうることだ。というより、現にこの身に起こったことだ。抗うつ剤を飲もう。緊急避難的に仕方がない。長くは飲まない。この苦しみを早く脱出するために抗うつ剤を飲もう。最近男も恐い。hやz氏も恐いと感じた。カウンセラーも微妙に恐い。ptsdだ。男が全部恐いわけではないのに、男が恐い。恐がるだけ損だ。 女も恐いし、男も恐い。男は信頼していたのに裏切られた。キチガイによる精神的レイプ。医者ともうまく行かないし、カウンセラーともうまく行かない。男が恐い。 今まで数多くのトラウマになりうることがあった。良く生きてきたといえる。中学のいじめ、不登校、教師による虐待。高校での孤立、虐待。大学でのいじめ、自殺未遂、発病、銀行でのいじめ、発病、入院と入院拒否、引きこもり、両親との葛藤。父の死。就職と解雇、就職してからのモラハラ、配置転換、職場不適応。一瞬たりともうまく行ったことはない。そして今回のキチガイによる精神的レイプによるptsd。どれ一つとってもptsdになりうることを生き抜いてきた。良く頑張った。良く正気で生きていると思う。まさしくptsdだ。 その前に人に迷惑をかけないよう十分注意しよう。人を傷つけないよう、十分注意しよう。朝日カルチャーでもああだめだなと思ったらさっと撤退した方がよかった。意固地になってしまう。間違っているのにこだわってしまう。モラハラ的な行為をするのは私も同じだ。良くないことは何でもやっている。真面目になろう。美しく生きよう。ちゃんとした社会人になろう。えらそうにしても仕方がない。法学部なんか行くんじゃなかった。文学部に行って、ひ弱な花を咲かせて満足すべきだった。もう遅い。でも遅すぎるとは思わない。どんなに失敗に見えようと最後の最後棺桶のふたを閉めるまでわからない。良い人間であることに何か不都合でもあるか。絶対ない。良い人間しか残れない。悪い人間など残れない。優しい、正直な良い人間だけが生き残るのだ。今ちょっと疲れている。ptsdになっている。抗うつ剤と有酸素運動で乗り切ろう。丸くなろう。丸くなって生き延びよう。まだまだ死ぬわけには行かない。体の力を抜こう。ちょうど馬鹿になったことだし、悪を諦めよう。突っ張らない。機嫌を取るということの意味が初めてわかった。機嫌が悪い状態で人前に出ること自体許されない。たとえ親兄弟であっても。朝起きれないのはうつだった可能性がある。ptsdだったと思う。何によってかというと悪い仲間との付き合い、そこで経験したこと全てだ。教師に目を付けられたことだ。 今機嫌が悪かったら、抗うつ剤でも飲んどけということだ。機嫌が悪いまま会社に行くな、社会に出るなということだ。反社会的でさえある。今抗うつ剤のお蔭か少し機嫌が良い。美しく生きよう。人に優しくすることは美しく生きることの第一だ。心を愛で満たし、美しく保つことは素晴らしいことだ。日野原重明先生みたいなものだ。突っ張らない。体の力を抜く。美しく生きる。これをモットーにしよう。悪をごり押しする人生はピリオドだ。
今日は比較的いい気分だ。レンドルミンのお蔭でずいぶん眠れた。秋だし眠りやすい。考えると予定が催し物で少し埋まり始めた。休みに入り始めた頃と似ている。漸く復活し始めた。昨日はキムチ鍋がうまかったし、株が少し上がってきたし、パニック状態から回復してきた。十分注意、準備すれば恐がる必要はない。自分を喜ばそう。恐いからといって全ての喜びを諦めたら、自分を喜ばせられない。回復も遠くなる。三割できそうだったらやってみよう。三割の喜びを得られたらよしとしよう。希望を持とう。夢を持とう。夢を諦める必要はない。夢実現のために戦いや競争も必要だろう。邪魔する奴もいるだろう。でも負けてはいけない。負けたら喜ぶだけだ。同情などしない。敵と味方をはっきり分けよう。負けてはいけない。負けることは人の機嫌を取ることだ。究極には自殺だ。退職だ。田舎暮らしだ。それは人に機嫌を取ることだ。意地悪もするだろう、邪魔もするだろう。でも負けてはいけない。いじめに負けてはいけない。小学生の頃いじめに負けずに撥ね返したじゃないか。今頃になっていじめられたからとか言ってんじゃない。 自分を傷つけて不幸になって、破滅して喜ぶ人間は確かにいる。でもそんな奴らを喜ばせることはない。自分の幸せを喜んでくれる人間を喜ばせる。まず自分だ。自分を喜ばせる。そして自分を愛してくれる人を喜ばせる。 z氏と会ってきた。余り盛り上がらなかった。きっと人を喜ばせることを止めたので肩透かしを食ったかもしれない。自分の身は自分で守らないといけない。自分を守るということができていない。自分を喜ばせようと思う。人を喜ばせるからおかしくなる。 ずいぶん前から緊張する人と話さねばならないとき、人前で話さねばならないとき、急に父親のことを思い出して泣きそうになることがある。これは私が弱いのではなく、明らかにptsdだ。これで強くなれというのは間違っている。細心の注意を払わないといけない。今まさにptsdの影響下にある。ババアがどうとか言う問題ではない。正常ではないのだ。 私はptsdだと感じた。少なくとも直近の出来事、フッキー加藤事件は今の私を苦しめている。典型的なptsdだ。職場での出来事もptsdだと思うし、前の職場での出来事、その前の職場での出来事、その前の会社を解雇されたこと。父が死んだこと。銀行を解雇されたこと。病気になったこと。大学のとき自殺未遂の末入院したこと。いじめ。高校でのクラスでの孤立、教師との対立。中学でも同じ。小学校ではおかしな奴らと付き合ったこと。その結果家族が嫌いになったこと。善人を憎むようになったこと。 人間が恐い。男でも女でも若くても年取っていても、どんな奴でも好きにはなれないし、恐い。恐いということと好きとは両立しない。好きでも嫌いでもないが、恐くはないということはある。フッキー事件はptsdだ。あいつは完全におかしいので人を傷つけても傷つけたとわからない。善悪の区別もつかないので、本気でとめどなく傷つける。良心というものがないので自制するということができない。あのババアと同じじゃないか。良心ないじゃないか。この会社に入ったときもキチガイみたいなおっさんに逆らってモラハラでうつ病になった。傷害だ。でもそれは自傷行為だ。キチガイのおっさんに逆らったらいじめられるというのはやっぱりおかしい。モラハラを誘発する自傷行為だ。どうしてそうなるかというと誘発しているからだ。根が深い。おかしい。義人になろう。これからは困ったことは起こらない。最近、店員に馬鹿にされたり、朝カルでいじめに遭ったり、困ったことが多い。信じられないことが多い。義人となることでそういうことは解消できる。 あのキチガイフッキーのいじめに遭ってptsdになったのも自分がまいた種だ。自分が誘発しているのだ。あんなキチガイを怒らせるとどうなるかわかっているだろう。hだってkだってキチガイだって一目でわかるじゃないか。何でそういうやつに喧嘩を売るのだ。境界例に決まっているじゃないか。自傷行為を止めよう。全ての自傷行為を止めよう。アルコールも含めて。アルコールとグリシンを一緒に飲むなんて危険すぎる。 私は義人になると堅く決意した。聖人になる。聖なる時間を過ごすと。大局的に考えよう。義人とは善行を行うことを専らとし、世のため人のために生きる人だ。そういうことを考えて行動し、行きたいと本当に思う。会社で一所懸命に働くことがまさにそのことだと信じる。誰でもそのことを知っている。義人になれば困ったことは起こらなくなる。良いことが雨霰のごとく降ってくる。昨日だって体の不自由な人を神が私に遣わされたのだ。そう信じればいいじゃないか。神様はいるんだ。心に聖なる気持ちを取り戻しさえすれば必ず神様は助けてくださる。 義人になれば自分の楽しみを取り戻せる。義人になれば幸せなことが雨霰のごとく降ってくる。義人になれば困ったことは起こらなくなる。義人になれば皆が親切にしてくれる。義人になれば気持ちが優しくなる。義人になればルールを守れる。義人になれば働ける。義人になれば自傷行為はやむ。義人になればptsdは直る。義人になれば信頼を回復できる。義人になれば人を愛することを思い出す。義人になれば人に愛される。 よくhが人にものを言うときに嫌な顔をするのが気になったことがある。でも今はとても良くわかる。あいつもptsdだ。人が恐いのだ。でも何らかの方法でそれを克服したらしい。スポーツなのかアートなのかわからない。それらはコミュニケーションの技術であり、修練である。それにより、ptsdにありがちな疎通性の悪さを克服したのだろう。kも明らかにptsdだ。海馬に損傷を受けているらしい。それをスポーツだか何だかで克服したのだろう。それであの二人は私には同じに見える。私は強くなるのが嫌だった。恐かった。だから真面目に修練することをやめた。自分が弱いので修練に耐えられない可能性があると考えたのだ。同じようなことをhが言っていた。何をやっても中途半端だと。自己卑下のようにも聞こえるが実感なのだろう。私も自分にそういうものを感じる。中途半端だと。文学も中途半端、法学も中途半端、金融も中途半端、人生も中途半端。何もかも中途で放り出す。それは尊敬されないだろう。義人になればそんなことは問題じゃなくなる。細かいことが一切気にならなくなる。義人になれば今ここ、目の前のことに焦点を合わせられるようになる。今クリーニングを出しに行ったとき、私の重大な変化に気づいたらしい。みるところが細かいからすぐわかるのだ。いいことだ。こんなに良い変化なのだから気づいてもらわないと損だ。目に見えて良い効果が現れてくる。図書館でも同じだった。hもkもptsdだが、何かでスイッチが入るとセロトニンだか何だかが猛烈に出るのだろう。スポーツ系の奴の特徴だ。それが恐いので私はスポーツを中途でやめた。弱すぎる。 義人となることはある意味弱くなることだ。人を信頼することは危険でもある。でもそれが強さになる。その理屈が小さい頃はどうしてもわからなかった。負けるが勝ちと言うか。わかっていたのが、ノイズが入ってわからなくなってしまった。何かに感染したようなものだ。 北花田に行くと何か恐くなる。最初は良いのだが、幸せそうな家族連れの塊を見ていると徐々に威圧されたような気分を感じる。無言の圧力を感じる。ここはお前の来るところではないと。考えすぎか。ブランド物のショップの店員もそういう目で見ているような気がする。でもそれはそうかもしれない。金持ってそうに見えないから。義人になることで解消する。そんな小さなことにはこだわらない。義人となれば何をすればいいか自ずとわかる。女性的でもいいのだと思った。小さい女の子が可愛いともあまり思わなくなった。目鼻立ちの造作が小さいせいか、未完成作品という印象を受ける。最初に姪たちを見たときもそう思った。でも親の目から見ると可愛いのだろう。それで十分じゃないか。義人としては見守るだけでいいのだ。執着したら恐いだろう。 あのババアをどうしたらいいか。大局的に考えることだ。余りに小さなことで私の考えることではないということに気付くだろう。義人は小さなことにこだわらない。
今日は雨。これから休みが始まるのだと思うことにした。今までは苦しむだけ苦しんだ。これからゆっくり心を休めるのだ。これまでは問題を発見するのに今までかかった。私は眠れさえすれば気分は悪くない。それと嫌な奴に会わないならば。今日はhに会わなくて良いし、朝まで眠れた。恐怖はコントロールできる。無理やり抑えるのではなく恐怖の原因を理性的に直視して解決のために必死で努力する。あるいは最大限の配慮をする。ウォームハートとクールブレイン。 hなんか全く恐れるに足りない。十分注意していれば怖いことはない。もし十分注意しているのに恐いのであればそいつは犯罪者か狂人だ。フッキーとかh子みたいな奴だ。そういうやつらはこちらがいくら何もしていなくてもまともであっても何かして来る。理由もなく危害を加えてくる。宅間とか林みたいなものだ。そういうやつは近づくことが危険なのだから、近づくとか付き合うこと自体が十分危険を認識していないことだ。hとかkとか側にいることが危険なのだ。付き合うのはとんでもない話だ。あのカウンセラーなんか一緒にいるだけで傷つけられる。十分注意してもだめだ。通って会うことが注意が足りないのだ。 人間関係で危険が完全に取り除かれるというのは幻想だ。会社を休んだってあいつは家にまで来る。他人の機嫌に依存している限り、危険は増大する。自分の機嫌をよくすれば自分は良く働き、人の機嫌なんか関係なく自分がハッピーになる。境界例の奴に屈服する理由はない。十分注意すれば危険はない。怖いことはない。だが危険がゼロになることはない。車を運転するのは危険がゼロになることはない。 人間がなぜ恐いか。女がなぜ恐いか。爬虫類だからだ。男女のこととかお金の話は人間として醜いことが出てくる。何でセックスなんかしちゃうんでしょうか。爬虫類だからだ。哺乳類もするけど爬虫類からやっている。非常に危険だと思う。危険性も認識せずに不用意に近づくのは非常に危険だ。危険性を十分認識して、十分注意するならば避けられるだろう。恐がることはない。あの職場では私は自分を守れない。だから戻りたくない。単純明快だ。危険で傷つけられるのがわかっているのが明らかなのにいるということはおかしいだろう。例えばあんな変なカウンセラーのところに通うのはおかしいだろう。あいつ自身が不思議がっていた。何で我慢しないといけないんだ。馬鹿じゃないのか。 どうして仲良くするのか。ワニと仲良くできるか。食べられるだけじゃないか。 やっと私も少し回復した。そして大いに成長した。何でこんなに女が嫌いなのかこんなに人間が嫌いなのか。仕事が嫌いなのか。 嫌いと恐いを分けないといけない。嫌いであっても恐がる必要はない。一方的に攻撃されることはない。人の機嫌を取ることに汲々として自分の機嫌を取ることはない。これからはいっぱい自分の機嫌を取ろう。まず休ませよう。hやkの嫌なところはいつも機嫌が悪いことだ。すぐ喧嘩を売ってくるところだ。何で穏やかにできないのだ。自分が恐がりで境界例だから凶暴になる。あんなのと一緒にいると頭おかしくなる。恐怖で人をコントロールすることはできない。 このままではいけない。自虐的になっている。人の機嫌を取ることは良くない。自分の機嫌を取るということは本当に自分に優しくすることだ。自分を休ませることだ。それで初めて人に優しくできる。自分を大切にできて初めて人に優しくできる。人を傷つけるようなことを平気で言う奴。信じられない。なんでも人のまねをする奴。病気になる私は正常だ。 非常に用心深く嫌なことは嫌といおう。不用意に傷つけられないように十分注意しよう。危険なことはすまい。危険には近づくまい。あのサークルに近づくと嫌なことを強いられる。外人の相手とか、oさんの相手とか。人の機嫌を取らない。これは最低限だ。日本は共依存の国だから、そういう関係はありうる。人を疑うことを知らない人間ほど傷つけられる。 モラハラの加害者になる奴は自己愛性人格障害だ。人を傷つけることを我慢できない奴だ。絡んだり、喧嘩を売ってくるやつだ。人を傷つけることに依存する奴だ。サディストだ。もしくは共依存関係の奴だ。私はもう我慢できない。戻ることなんか考えられない。 自分を好きになることだ。自分を大切にすることだ。中学のときより家族もクラスも嫌になった。ぐれたんだな。色々いじめられた経験もあって、それと関係ないんだけど家族が嫌になった。母親が嫌いになった。家族が嫌いでクラスがいやだったら、24時間嫌ということになる。逃げ場がない。それで学校に行くのが嫌になった。クラスの境界例の担任が嫌になった。今どうしたらいいかわからない。傷を癒すことだ。自分の機嫌を取ることだ。十分注意することだ。 人間は嫌いだが恐くはない。こんな私でも100人に一人くらいは好きになることもある。それでいいと思っている。好き嫌いで生きている人間などいないといっていい。家族を愛せばそれで十分だ。人類全体を愛するなど凡人には無理だ。政治家が国民の幸せを考えているか。自分の権力欲と、金銭欲と、名誉欲と目立ちたがり根性だけじゃないか。早い話が。人類愛とか国民愛とかは境界例の奴だけだ。 漸く少し落ち着いてきた。とにかく自分を守らないといけない。十分注意すれば大丈夫だ。恐怖で人を支配することはできない。これは私の大きな確信だ。大変な犠牲を払って体得した真実だ。あのレイプされた女性カメラマン。許すことによって自由になった。私はptsdだったかもしれない。大学のときの病気。社会人になってからの病気。失業、解雇。配置転換。全てがうつの原因になりうる。父親の死。母親の錯乱、実家の火事消失。何でこんなことばかり起こるのか。十分注意しないといけない。人間は爬虫類だ。優しいとは限らない。鬼畜を皆心に飼っている。特に東京大阪の境界例の奴らは。 人の機嫌を取ろうとするやつは究極は破滅型ということになる。作家だけでなく芸人はこのパターンが余りにも多い。人の機嫌を取るということはそれほど恐ろしいことなのだ。自分が不幸になるということは究極的に人が喜ぶことだ。私はそれを小さい頃嫉妬深い兄弟のお蔭で知った。幸せになっちゃいけないのだと。私の幸せなことを全く喜ばない兄弟たち。人間は全てそんなものだ。スーパーに行って普通に歩いていてもそんなことを感じた。さっきのようなものを。自分と家族だけ幸せならいいのだ。人は不幸になればいいんだ。そんな殺気を感じる。でも恐くはない。そんな奴らを喜ばそうとすれば死ぬだけだ。負けてはいけない。負けたら死ぬだけだ。善意の人間になってほしいと願っても絶対にならない。皆幸せになろうといっても絶対にそうはならない。大阪人なんて犬畜生みたいな奴らだ。本当に最低だ。仲良くなりたいとは思わない。人の機嫌を取ろうとすれば究極には自殺しかない。偉大な作家が皆自殺したのは人を喜ばそうとしたためだ。自殺でなくても破滅型生き方で寿命を縮めた奴はいくらでもいる。落語家は終わったとき誰も笑ってはいないという。中には自分に腹を立てる奴もいる。人の機嫌を取るとはそういうことだ。自分を大切にしよう。ゆっくり療養に努めよう。人を喜ばそうとしてもだめだ。全く意味がない。自分が大切だ。自分を喜ばそう。恐がるんじゃなくて警戒する。注意する。護身術。身を守る。準備する。そういう当たり前のことだ。それが世間の常識だ。 こんな犬畜生の町で甘い考えで生きてはいられない。人の機嫌を取るのではなく自分の機嫌を取る。自分を喜ばせる。それに気をつければこれから45年は生きられる。それにしてもだいぶ回復した。回復がこれだけ遅れたのは飛ばしすぎて変な奴と付き合ったためだ。 作家とは鬼畜である。人の命を食らうものだ。やめたほうがいい。私は若くしてそれに捕らえられたが、命からがら脱出して生き延びた。本当に誇張ではなく死にかけた。家族全部の信頼を裏切った。両親を苦しめた。私のせいではなく、作家の業というものだ。何で鬼畜の機嫌を取らないといけないのか。それで具合が悪くなった。自分を喜ばせよう。十分注意することだ。簡単だそれだけだ。恐がることは何もないし、卑屈になることはない。義人は誰からも愛される。義人は誰からも信頼される。義人は色んな仕事を任される。義人は誰からも非難されない。義人は困ったことは起こらない。 今日本当にきつかった。ずっと寝ていた。ちょっと買い物に出かけただけでものすごく疲れた。こんな日が続くときついが、義人となった私には困ったことは起こらないだろう。抗うつ剤が効いてくるだろう。 大所高所から見ないといけない。細かいことを気にしても仕方がない。義人の道はそういうことだ。なかなか険しい。昨日も義人でありながらずっといらいらさせられていた。まだ修行が足りない。 なぜ義人になると決めたかというと悪いこと罪をたくさんやってしまったからだ。数え切れないほどありとあらゆる罪を犯した。もう大人になりたい。悪はもうこりごりだ。義人になりたい。それしか生きる道がないのと、それにものすごく魅力を感じる。罪が滅ぼされ、新しい道が開ける。働けるようになる。信頼される。愛される。愛することができる。人の痛みがわかる。世の中のたいていのことがわかる。神に一歩近づく。 義人とは平和を愛し、人類を愛し、誰にでも愛のある言葉と態度で接し、困っているものがいれば助け、弱いものはかばい、人の嫌がる仕事を率先してやり、世のため人のために生きるもののことである。私はこれまでの罪多き人生を償うためにはそれ以外ないと考えるに至った。 大所高所からみないといけない。喧嘩を売られても買ってはいけない。義人として振舞わないといけない。細かいことを気にして挑発に乗ってはいけない。人が何を言うかなんて関係ない。自分が何を思うかだ。義人として生きて行こう。何で病気になってちゃんとした治療を受けられないのか。全くわからない。義人は理屈を言わない。昨日の延長線上で過去にこんな腹が立つことがあったとか許さないとか言っても仕方ない。義人にはなれない。
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