希望の日記

2006年09月30日(土) 土曜

今日は土曜だ。昨日hから電話があったのだが、いつものように不機嫌そうな声と態度で気分が悪くなった。金はz氏に持ってきてもらうことにしようか。ある意味耐えられない。どっちが悪いということじゃなくて関係が成り立たない。カウンセラーと同じ問題だ。恐怖にとらわれて機嫌を取ろうとする。それは良くない結果をもたらした。でも生きるためには仕方がない。果たしてそうだろうか。仕方なく不良とつきあうのか。売春婦が仕方なくヤクザと付き合うように。そんな必要はない。恐怖に支配されているのだ。あの声を聞くだけで悪化するのだ。どうして我慢しないといけないのか。会社のことを忘れられれば回復したも同然だ。恐怖に支配され振り回されてはいけない。今はデリケートな時期だ。細心の注意を払いたい。今ほど休みが貴重なときはない。人が恐いのだ。男であれ、女であれ。ただ女は少し恐くなくなった。誰も恐くはない。あのカウンセラーと話していると脅されてしゃべっているような気になる。あの人に自分のことをしゃべるのはすごく抵抗がある。いちいち反応するのもうざい。聞き直されたりすると切れそうになる。しゃべりたくないから小さい声になるのにそれを咎められているような気になる。低姿勢なようで傲慢な服従的なようで支配的な温厚なようで攻撃的な、優しいようで残酷な、それは全ての人間に共通しているのかもしれない。だったら会わない方がましだ。もう会いたくない。会う気力をなくした。hも声を聞くだけで嫌だ。私は疲れ傷ついているのに、それに腹を立て攻撃してくる。訳がわからない。思えば社会人になったとき体を壊したときはこんな状態だった。女が嫌いで人が恐くて傷つけたくて仕方がなかった。反社会的人格障害のようだった。今抗うつ剤の影響でそういう面が出てきている。hのヤクザ性にも刺激を受けて。カウンセラーとも衝突するのだから良くないのだ。デリケートな時期だから細心の注意が必要なのだ。無理をすべきではないのだ。全力で自分を守らないといけない。絶対に危険に曝してはいけない。
抗うつ剤を飲んで境界例の連中に戦いを挑むことは危険極まりないことだ。勝ち負けなんかどうでも良い。勝ち組とか負け組みとか正気とは思えないたわごとを信じる連中と戦いたくなどない。今本当に休みが必要だと思う。あのhの声さえ聞きたくない。あの境界例トリオ。どうして私が付き合わないといけないのか。今心静かに穏やかに慎重に思慮深くありたい。都会の弱肉強食のサバイバル狂想曲から静かに身を引きたい。人間らしくありたい。切腹などしたくない。恐くないといいうるためには慎重に危険から遠ざからなければならない。境界例患者に抗うつ剤を飲んで戦いを挑むなど命知らずにもほどがある。今私がすべきことは森の中の静寂に身を隠し、休むことだ。傷を癒すことだ。人間から離れることだ。商いや戦いや活動から身を引くことだ。恐がる必要はない。でも恐くないといいうるためには万全の手を尽くさないといけない。慎重でなければならない。この世を変えて安全なものにすることは誰にもできない。思慮深く、用心深く、慎重である以外に恐怖から自由になる方法はない。田舎に引き込むのも一つの方法だ。ここは十分田舎で私は大阪や東京のような大都会で戦うことを免除されている。もう既に余生だ。今私は満身創痍だ。たたく気力も体力も残っていない。それで恐くないといいうるためには、危険から遠ざかり、じっくり休み、体力を養わねばならない。カウンセリングさえ危険である。恐怖である。傷つくからだ。掲示板を読むだけで傷つくこともある。人を傷つけずには生きられない境界例の人々の巣食う空間もあるからだ。十分危険から遠ざからねばならない。勇猛果敢もほどほどにしないといけない。
悪に走るのは恐怖からだ。アメリカの強大な軍事力は恐怖の集積だ。私は人と交わらなくなった。中学生の頃だ。恐くなった。傷つけられることが恐くなった。その代わりに反社会的になり、悪をなし、思うようになった。社会を憎むことはそれだけで既に反社会的である。社会から遠ざかり、社会を呪うことは十分反社会的である。精神病を患うほどに。今でも大人のまともな付き合いはない。人間が恐い。隣人は何度引っ越したかわからない。社会性ゼロ。傷つけることが恐いし、傷つけられることが恐い。恐くないといいうるためには、十分慎重でなければならないし、社会的でなければならない。社会の義務を果たし、社会に貢献できなくてはいけない。逆に迷惑をかけるようではいけない。カウンセリングさえ受けられない。最初あのカウンセラーは私を警戒した。傷つけるような気がしたのだろう。恐いから強くなるというのは正しいようで正しくない。野蛮で凶悪な人間になる。ますます人間らしくなくなる。恐いならば理性的に手を打ち、周囲と仲良くし、十分自分の安全に配慮しないといけない。付き合いを断ち切っても安全にはならないし、恐怖は減らない。恐怖は誰にでもある。恐怖で人をコントロールできるとは妄想である。愛と優しさと感謝だけが人を動かし、変えていける。カウンセラーが恐いのは傷つけられる恐怖をかじるからだ。これでは安全な状態でカウンセリングはできない。z氏がこれほど間を空けたのは思慮深いことだ。思慮深く臆病で優しくあろう。休もう。善良であろう。生を楽しもう。人間は弱い。誰も弱く恐がりだ。傷つけてはいけない。愛し、優しくしなければならない。
人の機嫌を取るから具合が悪くなるというのはすごく説得力があった。最初の悪との出会いはご機嫌取りだった。ご機嫌を取るとずっと機嫌を取らないといけなくなる。自分の機嫌を取ろう。そうすれば人に優しく接することができる。人を愛することができる。自分の機嫌は自分で取ろう。
人の機嫌を取る必要はないが自分の機嫌は取りましょう。幸せとかありがとうとかついてるとか言って魂力を上げましょう。そうすれば人を罵ったり、差別したり、傷つけたりすることはなくなる。女は弱い。憐れだ。そうすれば自然に思いやりやいたわりの気持ちが湧いてくるだろう。
人間らしくなろう。これは一番の近道だ。人の機嫌を取ろうとする限り、苦しみは果てしなく続く。自分の機嫌を取るようにすれば楽になる。
絡まれるのは悪いことを考えているからだ。悪いことを考えないようにしよう。人を差別したり嫌ったり、悪いことを考えていると顔に出る。それで絡まれる。私は役員に絡まれたことがある。よっしゃんとか変な奴にも絡まれた。幸せ言葉をいつも口にし、幸せな気分でいよう。悪は必要だろうか。悪であることは必要だろうか。必要ない。悪人であることは必要ない。
十分注意すれば恐いことは何もない。恐がる必要はないのだ。なぜ人の機嫌を取ってしまうか。恐怖から。愛されたいから。でも子供じゃないのだからそう愛される必要だろうか。
恐れる必要はないが、十分注意せねばならない。努力しないといけないし、一所懸命働かないといけない。悪人であってもメリットはない。善人であろう。幸せ、嬉しい楽しい、ありがとう、感謝します、許します。
あんなババアは十分注意しないといけないのだ。注意しないで恐くないというのはおかしい。無謀なだけだ。抗うつ剤で無謀さを増強しても危険が増大するだけだ。今回は危険が実現したわけだ。良い人間であることは最善の自己防衛だ。人の機嫌を取ることではなく、自分の魂力を上げるのだ。
無謀になった。抗うつ剤の影響で。egに行ったのも無謀だった。良く絡まれるようになった。この間母親に絡まれた。もうおしまいだ。z氏にも見放された。ゆっくり休もう。z氏に恨みをもったこともあった。とんでもないことだ。私は良く逆恨みをする。egを勧めたのは彼が悪いと。そうではない。私の素質と抗うつ剤の作用だ。あの人は悪くない。良かれと思ってやったことだ。今は恨んでいない。善人であることは良いことだ。でも悪人であること、あったことはまた悪くない。親鸞の教えだ。悪人正機説だ。弥陀の本願は我ら悪人のためにこそあるのだ。織田信長だって悪人だ。狂人に近い。憧れたり、まねしたりするのは無謀というものだ。小泉氏はそれをやってのけたが。善人であっても何も悪くないんじゃないのか。私は今悪人ではないと思う。悪いことは考えないし、しようとも思わない。悪いことをされても仕返ししようとも思わない。アングロサクソンとは違う。一向門徒だ。
今朝恐怖について考えたことが私の心を落ち着かせた。恐がる必要はないが、用心深く、慎重に行動することが大事だ。それさえ守れば必ず安全は確保される。悪はメリットがない。善こそ生き残るメリットがある。悪は強くなるだろうか。確かにそういう面はあるかもしれない。悪いことは強いことだ。でももう十分だろう。悪いことはもうする必要はない。考える必要もない。
hが来た。そんなに感じ悪くなかった。なぜだろう。用心していれば恐がることはないのだ。それにあいつは私がしんどいということを今日始めて実感したようだ。しんどそうに見えるといわれた。大体大人の人間同士はそういうものだろう。今日は酒飲み二日目だし。私は職場を変わったほうがいいと思う。ストレスの原因はあいつである可能性がある。十分注意することだ。十分注意すれば怖いことはない。十分注意しないと危険なこともある。十分注意すれば怖いことはない。悪い人間はいないのだ。hは私があいつを恐がっていることを知っているのだろうか。本当に薄気味悪い。でも十分注意していれば恐くはないだろう。用心深く行こう。私が女性的で恐がりであっても一向に構わない。不注意で無謀であることの方が恐い。自分の安全をよく考えて十分慎重であれば、恐いことはない。恐がりすぎは良くない。何もできなくなる。恐怖の余り、冷静な判断を失ってしまう。恐怖にコントロールされて愚かなことをしてしまう。攻撃的になってしまう。自分に不利な馬鹿なことをしてしまう。上司に逆らうとか、飛ばされるようなことをしてしまう。全て恐怖心の災いだ。恐怖心を上手にコントロールできることがポイントだとわかってきた。
なんばに行ってきた。好日だった。御堂筋を歩いた。一人で御堂筋を歩くおじさんはどう見えるだろう。透明人間になった気がした。不安だ。孤独だ。それを直視することは困難なので、幻想と狂気に逃げ込む。恐怖は消えることなく増大する。恐怖や不安の原因を取り除くよう努力したらどうだろうか。目をそらしても原因がある限り限りなく増大していく。アングロサクソンは恐がりだ。hやkも恐がりだ。でもそのために必死で働く。普通そうだろう。私も中高生の頃は必死で働いた。でも代償に精神が崩壊した。人が恐くて付き合えなくなった。社会性が全く育たなかった。反社会的になった。本当に努力しているだろうか。本当に十分注意しているだろうか。全く努力してなく、全く注意していない。無謀であり、無防備すぎる。だからひどい目に遭う。人の心を傷つけても何とも思わないようになった。恐怖心があることは健全なことだ。でも放置すればどんどん増大する。フッキーは人間の体をなしていない。そんなものがこの世にいるとは思わなかった。本当に不注意だった。人の機嫌を基準におく限り、こういうことは何度でも起きる。自分の機嫌を取ろう。人の機嫌を取ろうとするやつは命までとられる危険がある。大げさではない。数多くの天才作家が自殺している。狼も傷ついたときは森に篭って傷を癒すという。私もそうする以外にない。十分注意しているだろうか。無を自分に強いていないだろうか。自分を危険に曝していないだろうか。この際考え方を180度転換すべきだ。自分の機嫌を取ってやるべきだ。自分を傷ついた孤児のように放っておくのは罪悪だ。必死で自分の機嫌を取ってあげよう。
恐怖を取るために必死で働くとか、必要な配慮をするとか、ヤクザや上司に喧嘩を売らないとか。配慮が必要だ。優しさとか配慮とか。そういうことが重要なんじゃないか。十分注意すれば恐がることはない。でも私は恐怖が強すぎて混乱し、必要な配慮ができているとは言いがたい。全ての人に好かれることによって、問題を解決できるだろうか。全く間違っている。間違ったことをごり押しする悪い癖がある。抗うつ剤の副作用もある。人生の楽園を見ると本当に羨ましい。羨ましさとは魅力なんだろう。実際以上の魅力があるのか。実際はもっと魅力があるのか。配慮を失っている。人間らしさを失っている。父親は優しかった。優しいことはいいことだ。どうしてこんなに悪くなったのか。その報いを受けたのだ。自業自得だ。でも自分をこれ以上責めるのは止めよう。自分の機嫌を取ろう。父親はそんなことを望まないだろう。私が元気を出して再び生きることを望んでいるだろう。配慮、優しさ、愛情が足りない。父親に残酷だったように周りの人間に配慮が足りない。電車の中でも配慮が足りない。でも自分ではどうにもならない。配慮と優しさが必要だ。人間らしさが必要だ。それは必ずできる。人間である以上必ずできる。人に優しくすること、一所懸命に働くこと。甘えないこと。自立すること。必ずできる。
真面目で働き者になろう。私の父のように。どうしてこんなになってしまったのかわからない。今は疲れすぎているから止めよう。自分の機嫌を取ろう。幸せ、ありがとう、ツイテル。感謝します。許します。そしてごめんね。これだけで十分じゃないか。



2006年09月29日(金)

昨日は楽しかった。一応5時まで眠れたのでよしとしよう。足が相当疲れている。もう少し短い距離の方が良さそうだ。頑張りすぎ。風邪っぽい感じはまだある。わき腹と下腹部の痛みは良くなった。歩いているうちに落ちてきたのかもしれない。結石が。昨日の夜考えたのだが、女を恐いと思わなくなったのと、恐がる必要はないことと、恐がるのは損だということ。私は恐がりだけれども恐がる必要のないものを恐がって損をするのはもう嫌だ。そう思った。恐がるということを聞かないといけないような気になる。全然そんなことはないのにそうしないといけないような気がしてくる。人にもそういう風に恐怖心でコントロールしようとしてしまいたくなる。それは明らかな誤りだ。戦時中、そして今でも日本人がやっていることだ。アメリカ人でもどこの国の人間もやっているが。自分で自分を恐がらせて自縄自縛になっている。自分を恐怖心から解放しよう。人の機嫌を取らないというのはそういうことだ。私がサドを読んだのは邪悪になりたかったからだ。邪悪になれば強くなり、恐怖心から自由になれると思ったからだ。それはかなったんじゃないか。私は強くなった。恐怖で人をコントロールすることはできない。女は私を恐がらせて私をコントロールしたり、財物や利益を奪ったり、支配することはできない。私は今女に余り興味を感じない。性的興味、人間的興味、何も感じない。恐怖も感じないから、女につけこまれたり、いいようにあしらわれたりすることはない。自発的に自由を放棄するようなまねさえしなければ。自発的に隷従の道を歩まなければ。私は恐いものは何もない。女を恐いと思わない。私は十分邪悪だ。邪悪であることのメリットは邪悪な人間に恐怖によって支配されないということだ。私は人間が大嫌いだ。だが恐いとは思わない。私は邪悪な人間だからだ。アメリカ人は邪悪だ。恐怖が人を邪悪にさせる。恐怖によって人を支配しようとする人間は少なからずいる。そういう人間は自分がそうされた経験を持っている。自分が恐怖によって支配されたかされているので、人をそうできると信じている。私は恐怖から解放された。恐怖の支配から解放された。人を恐がると人は自分が偉くなったと勘違いする。だから人を恐がるのは損だ。言うことを聞かなければいけないような気がしてくる。その必要はないのに自分から自由を放棄し、自分の大事なものを差し出す。その必要があれば別だ。軍隊に入っていて、言うことを聞かなければ殺されるとか、会社に入っていて、金をもらっているから言うことを聞かないと首になるとか。でも私は女と付き合ってもいないし、結婚もしていない。束縛される必要もなければ恐れる必要もない。でも女は私を脅して言うことを聞かせようとしてくる。ばかな話だ。私は十分邪悪なので女の邪悪さ、ずるさに十分対抗できる。体力的にも知的にも、言葉の上でも絶対的に優位にある。にも拘らず女を恐れる必要があるだろうか。全くない。機嫌を取らないといけないだろうか。だれかれ構わず恐れ、機嫌を取ろうとする愚かな振る舞いは金輪際止めにしたい。
私は成長した。女が、人間が恐くないと感じるからだ。フッキーとか加藤氏に支配されないといけないだろうか。彼らの言うままに奉仕し、喜ばせ、楽しませなければいけないだろうか。全くの勘違いだ。私は大きく成長した。フッキーや加藤氏と出会い、傷つくことはある意味必然であった。b校のキチガイ女どもに会って無防備なまま傷つけられることも必然であった。自分でそれはおかしいと気付くまでそういうことは続く運命であった。しかし今は違う。自分の自由意志で自分のおかしな行動と思考をコントロールできる。馬鹿なことをしないように自分を監視することができる。つい奉仕してしまう。つい無償の隷従に身を置きたがる。しかし今は全くそんなことはない。ウォーキングのお蔭だ。人が全く恐くない。女も当然恐くない。恐いものがなくなって初めて仕事ができるし、職場にも復帰できる。今私はその第一関門をクリアーした。人が当然享受している自由を私も感じられるようになった。自由に恋愛し、結婚できるかもしれない。自由に嫌いな人間から離れ、自分を守ることができるようになった。体力的にも知的にも社会的にも女が全く恐くない。そう宣言すればそうなる。それを初めて知った。私は穏やかで優しい、愛を知る人間だ。感謝できる人間だ。それでも十分すぎるほどの邪悪さすなわち、強さを兼ね備えている。それゆえ私はいきり立つ必要もない。焦る必要もない。この世から追放される理由もない。安らかに楽しんで人生を過ごすことができる。恐怖のピークを通り過ぎて何も恐がる必要はないとわかった。素晴らしい気付きだ。恐怖心から自ら自由と利益を放棄し、下らないもの。最も蔑むべきものへの隷従を選択する。それが今までの私の人生だ。しかし無駄ではなかった。私はお蔭で強くなった。邪悪にもなったが、邪悪さに負けなくなった。心穏やかに強く優しくいられる。弱いものに優しくできる。女を弱いものと認めなければ優しくはできない。恐いと思えば攻撃するだろう。女とうまく行かない最大の理由はそれだ。女は弱い。ちっぽけな存在だ。恐れる必要は何もない。だから優しくできるのだ。弱いからいじめると思われているのだ。私が女性的であるかどうかにかかわらず、男である。その利益を享受できる。そうである以上、女に優しくする義務がある。そうすれば自然に女との争いはやむだろう。女は被害者意識を持つというが、実際弱い立場にあるということを理解すれば自然に優しくできるだろう。まず恐怖心がなくなるだろう。恐怖心がなくなれば自然と優しくできるだろう。少なくとも敵意は抱かなくなり、争いはやむだろう。あのババアどもの言いたいことは女性として優しくしてほしいということだ。いくら厳しく、恐怖心でコントロールしようとしても絶対にうまく行かない。女は男よりも我慢強い。厳しさ、忍従にはいくらでも耐える。でも優しさには本当に弱い。愛と優しさには本当に弱い。感謝とねぎらいには本当に弱い。私は十分に邪悪で余りにも多くの罪を犯した。でももう悟った。強くもなった。今必要なことは強くなること邪悪になることではなく、優しくなること、愛に生きることである。慈悲である。老子の生き方である。
女や子供を恐怖心で支配することはできない。性によって支配することもできない。金で支配することもできない。愛と優しさと感謝だ。それも支配ではない。愛で支配するということはない。愛とはそれ自体が目的である。支配の道具ではない。経済がこれだけ発達しても愛だけはお金で変えない。商人はお金よりも感謝の言葉と気持ちを嬉しいと思う。人間とはそういう生き物だ。悪い人はいないというz氏の言葉は当たり前のことだ。人を恐怖で支配しようとしなくなるためにはまず自分が恐怖から自由にならなければならない。で私はそれに成功した。ありとあらゆる辛酸を嘗め尽くし、恐怖と屈辱と苦痛を味わいつくした後、私は漸く恐怖から脱し、愛と優しさと感謝に帰ってくることができた。これは尊いことだと思う。ただ何も考えずに生きてきたよりも何倍も素晴らしいことだと思う。私の魂には愛の尊さがしっかり刻み込まれているからだ。
やっぱり私の辿った道は悪の道だった。その点はしっかり反省せねばならない。両親に対しても本当に悪いことをした。自分で自分のやっていることがわからなくなっていた。今でもわかっているとはいえない。恐怖からそういう行為に走ったのだ。恐怖から自分が強くなりたいと思ったのだ。不良が喧嘩に明け暮れるのと同じだ。でももうやっとわかった。愛と感謝と優しさだということが。頭の中が千日手のようになってハングを起こしている。アルコールと薬で少し壊れたのが良かったかもしれない。この世に大事なものは愛だということがわかったから。恐怖がなくなった。悪い人間はいない。恐れるものは何もない。恐怖で人を支配することはできない。
私はもうぐれていた。でももう立ち直った。恐れるものはない。恐れるものはないというためにはフッキーや加藤から身を守らなければならない。自ら危険に身を曝すことはあってはならない。
愛の道は善の道だ。愛と感謝と優しさだ。仕事は愛を実践できる主な活動だ。一人さんも稲盛さんも同様のことを言っている。少なくともそう感じられる。私は恐怖から脱し、仕事をすることができそうな気がする。人を信じられる気がする。疑ったり、恐怖から妄想に逃げ込んだりしない。人を馬鹿にしたりしない。傷つけたりしない。森田に行ったときものぞき趣味みたいなことがあったから逆に傷つけられたのじゃないか。
私は愛と感謝と優しさを信じているので、恐怖にとらわれたりしない。何で加藤さんの言いなりにならないといけないのか。何でフッキーの言いなりにならないといけないのか。恐怖にとらわれているからだ。そんな必要は全くないのにお蔭で傷つけられた。高いレッスン代だ。
私は悪いことをいっぱいした。恐かったからだ。人が信じられなくなったからだ。でも今は違う。回心した。きっと立ち直る。悪いことは反省する。これからはちゃんと人間らしく生きる。いくらでもすることはある。
今の私を見て何かおかしいと感じる人は多い。最初の海外旅行のときもものすごい目で見られた。私はなぜそんな目で見られるのかわからなかったので、気にしなかった。でも本当におかしくなっていた。悪に染まっていた。罪悪感に苛まれる必要はないが、罪はきちんと反省しよう。善良でありたい。悪人であることが騙されないことだと思った。強いことだと思った。それは間違いだ。すごく善良になった。善悪の区別ができるようになった。恐怖にとらわれないことが回心し、善良になるきっかけになる。
最近少し良くなった。加藤フッキー症候群から漸く立ち直ったようだ。以前より強くなったと思う。傷ついたが、二度とこういうことはないから賢くなった。最初はこういう感じだった。明るくて楽しい感じだった。何でもやってやろうと思っていた。今ようやくそういう気分に戻れた。良かった。善良になった。謙虚になった。優しくなった。愛に目覚めた。感謝できるようになった。
恐いと思わなくなって良くなった。人を嫌ったり、馬鹿にしたりしなくなった。
女性に優しくしよう。女性をうまく扱うことは優しくすることに他ならない。コントロールすることはできない。厳しくしようとか恐怖や暴力や悪や悪いもので支配することはできない。愛と優しさと感謝だ。
かなり良くなったと思う。脳の働きは少し、すばやさを欠くようになったが、理解力は飛躍的に向上した。こちらの方がどれだけ大事かわからない。eqといわれるものだろう。感情、情操の理解力は非常に良くなった。
少し外出したがあまり具合は良くない。大きな気付きは疲れを伴うんだと思う。恐怖心はなくなった。早く復帰したいとふと強く思った。やっぱり真面目になったんだ。善良な人間になったんだ。大きな代償を支払ったが、まともな人間になってよかった。すごく嬉しい。脳がハングを起こして考えられなくなっていたので、少し壊れた方が良かったのかもしれない。脳の方はやがて少しずつ回復するだろう。仕事はしっかりすること。弱者には優しくすること。善良であること。恐怖に支配されないこと。これはもうできるようになった。今まではわかっていてもできなかった。強く悪くなっても自分を救うことにはならない。優しく善良になることが自分を救う。恐くなくなった。すごく弱いものに感じる。恐怖心は感じても良い。危険と安全について教えてくれる。でもそれに圧倒されたり、支配されたり、混乱してはならない。冷静に対処することだ。
私は回復したとはいえ、やっぱり調子は良くない。恐くないといってもいざ外に出ると恐いことは恐い。じろじろ見られると足がすくむほど恐い。悪いことをしているわけではないのに。やっぱり歩くのであれば郊外のフィールドか山以外ないだろう。
カウンセラーが合わない。どうしても合わない。わがままなのだろう。z氏は私のわがままを聞いてくれたし、間違っていても言いたいだけ言わせてくれた。あの堺のおじさんも基本的に安全な気がする。でもあの人は遠くからつんつんつつかれているような気がする。本当にこちらの苦しみに共感しているとは感じられない。帰りの電車でくそみたいな女がすごく感じが悪かった。恐がるから悪いのだ。恐がる必要はないのだ。せきするなって言うんだ。感じが悪い。でも私は謙虚になろう。そんなことで怒ったりするのは止めよう。
愛と感謝と優しさだ。謙虚であろう。怖がることなんかないのだ。
カウンセリングは耐えるものではないだろう。相性が悪いことはよくある。特にこの私の病気がカウンセリングに合わないのかもしれない。それはあの人の責任ではない。あの人を責めてしまわないためにも打ち切るべきだろう。私も少しも癒されない。いじめられている気がする。他のカウンセラーならもう少し癒される。女のカウンセラーと話しているのと同じだ。緊張し恐い。話したいと思わない。大事な問題を告白しようと思わない。合わないことは明らかだ。もうこれ以上耐えられない。
gareに行ったら思い切りじろじろ見られた。私が余裕を持って振舞えればいいのだが、挙動不審になってしまう。恐がる必要はない。練習だ。練習しているうちに恐くなくなる。でもあのカウンセラーと練習するのはどうしても嫌だ。金儲け主義っぽい。恐くない。隣のくそ女でも恐がるそぶりを見せたから調子に乗って危害を加え始めたのだ。恐くはない。恐くないのに機嫌を取るために恐がる。恐がって機嫌を取る。馬鹿なことをするんじゃない。
絶対うまく行く。ものすごくうまく行くような気がしてきた。恐がる必要はないと考えるとすごくうまく行くという気がしてきた。これだけの時間があるんだから絶対にうまく行くという気がしてきた。すごくうまく行くという気がしてきた。困っている人に手を差し伸べたいくらいだ。絶対に全てがうまく行くという気がしてきた。



2006年09月28日(木) 葛城古道

今日は葛城古道を歩いてきた。楽しかった。途中舗装路が多く暑くて死にそうだったが、山道に救われた。また九品寺あたりから一言主神社にいたるあたりは雰囲気があって良かった。田園と彼岸花のコントラストは素晴らしかった。人生の中でも楽しかった。統合失調症も治るんじゃないかと思った。行きの電車で可愛い幼女を見かけてとても可愛かった。本当に愛すべき存在は幼子だけじゃないだろうか。小学生くらいになるともう憎たらしい。でももう女は恐くないと思える。そう思えるためにはそれなりに強くないといけない。傷つけられたり、害せられたりしないと言う堅い決意が必要で、相手の善意に依存するような考えではいけない。日光とウォーキングは本当に有効みたいだ。心理療法や薬よりよほど良い。



2006年09月27日(水)

今日はレンドルミンのお蔭でよく眠れた。目覚めずに10時まで眠れた。毎日これにしようか。頭も痛くないし、これが良い。新聞を読んでも意味がわからない。脳がダメージを受けた。仕方がない。
前みたいに少し楽しくなった。色々イベントとか参加しようかという気になってきたし、外出しても気分が良い。これならいつでも戻れるんじゃないか。人が恐くない。女が全く恐くない。小さい子はかわいいし、若い子はセクシーだし、おばはんはコミカルだ。全く恐いと思わない。えらい変わりようだ。脳がダメージを受けたために恐くなくなったのか。
自分がすごく正常な気がして来た。異常だ異常だと思うとそう思えるが、そうでないと思うとそうでない。全く普通だ。普通だし、良い人だ。
z氏が悪い人はいないといっていたのがわかる気がする。この間カウンセラー役をやってみたとき、ババアの気持ちをわかってあげればいいのだとわかった。私ができないのはあのババアの気持ちをわかってあげることだ。一所懸命やっているのに夫も子供も感謝してくれない。子供も独り立ちして寂しい。夫も相手にしてくれない。自分も女として終わりなんじゃないか。焦りを感じる。そういうことだと思う。薬が効いてきてやっと楽になった。嬉しい。



2006年09月26日(火)

昨日は早く目が覚めた。4割くらいでいいだろう。5,6時間は寝ている。でも風邪っぽい。不眠なのに体力を消費したからか。昨日は統合失調症ぽかった。女を恐がる必要はない。喧嘩を売らない。買わない。絡まれない。反応しない。反応すると面白がってやってくる。恐がるのは禁物だ。犬やサルと全く同じだ。恐がると自分が偉いんだと思い込んで面白がってちょっかいを出してくる。実際恐くなくなった。昨日の関ヶ原からの帰りに恐くなくなった。恐がる必要はないと思った。
恐くないと思うとほんとに楽だなと思った。ババアが群れていようと親父が偉そうにしていようとブスがにらみつけていようと、チンピラがしゃがみこんでいようと恐くなんかない。恐がる必要はない。というより恐くなくなった。恐いというのは何かされるかもしれない、というのとやられたらやり返せないという状況で生じる。やったらやり返すという保障があるなら向こうも恐くてできないだろう。個人だけじゃなく国レベルでも同じだ。安全保障の基本だ。誰もが赤ん坊のように無邪気で無力であれば苦労はない。恐くないというためには反撃できる能力がなくてはいけないのだ。それがないのに恐くないというのは頭が悪いだけだ。
愛と感謝と優しさだ。恐くないと思うと本当にいいなと思う。本当に恐くなくなった。道を歩いていて恐そうにしている奴がいるだろうか。いない。恐くなんかない。恐いから機嫌を取ろうとする間違った考え。恐がる必要なんかないし、恐くない。恐くないと初めて思った。恐くないと。恐がると自分が偉いんじゃないかと思う。犬やサルと全く同じだ。
女なんか恐くない。何で恐いと思ったのかわからない。マインドコントロールだ。恐いと思い込んで反撃できなくなっているのだ。何で恐いのかわからない。大阪のおばはんだろうと徒党を組んでいようと全く恐くない。自分で自分を守れる。
人間が大嫌いだ。性別年齢問わず本当に大嫌いだ。生涯変わることはないだろう。何でこんな目に遭わないといけないんだ。本当に嫌いだ。何で機嫌を取らないといけないんだ。何ですぐ狂犬みたいに喧嘩売ってくるのかわからない。何も恐くない。女なんか何で恐いなんて思ったのかわからない。本当に大嫌いだ。でも恐くはない。少しも恐くない。全く恐くない。
全く恐くない。女なんか何で恐いのかわからない。それと人間が死ぬほど嫌いだ。以上。



2006年09月25日(月) 関ヶ原

関ヶ原に行ってきた。良い旅だった。快晴でアップダウンのある中を楽しく歩いた。ウォーキングはスポーツだ。ドーパミンはスポーツによって消費されて減るのだろうか。そうであればいいが。そして太陽を浴びてセロトニンは増える。間違いなく良い効果がある。今朝はなぜか少し不機嫌だった。良く眠れたのだが。今日は6割くらい楽しかった。旅としては100%の成功だ。トラブルゼロだった。帰りに人が嫌いだなと思った。私を理由もなく傷つけてくるから。女ばかりでなく男も嫌いだ。油断すると偉い目に遭う。親兄弟でも例外ではない。姉はいまだに私にモラハラ的な態度を取る。明るく優しく人に接するという根気がなくなってくる。根本的な信頼感がなくなる。中学の頃変ないたずらの手紙を送りつけられたことがある。くそ女の仕業だ。私は一度そんなことをしたことがある。人に優しくする気がなくなる。そんなに機嫌の良い人間は世の中にいないと気付いた。平気で人を傷つける奴ばかりだ。絶対に人を傷つけないと思っていたら人に傷つけられるだけじゃないのか。護身術が必要だ。信頼だけではだめだ。不信感の絆というおっさんがいたがそうかもしれない。人は傷つけるものだと思っている。アメリカ人は少なくともそう思っている。このごろになって日本人とアメリカ人の違いが判るようになって来た。付き合いは真っ平だと思う。日本人も嫌いだが仕方がない。出て行くわけにも行かない。
ああ人間が嫌いだと思った。人を傷つけて利益を得る。よろこぶ。そんな奴ばっかりだ。好かれなくてもいいじゃないかと思った。中学のとき理由もなく女にからかわれたりいじめられたりした。そいつは高校になってからも私をからかってきた。まったくわからない。人は理由もなく私を嫌い攻撃してくる。少なくとも10人に一人はそうしてくる。ワキガが理由かもしれない。顔が気に入らないのかもしれない。でも暴力を振るう理由にはならない。境界例とか統合失調症みたいな奴ばかりだ。そのときなぜ女を恐がらないといけないのだろうと思った。全く恐くなくなった。何か悪いことをしてくるならいじめてやればいいのじゃないのか。男をなめるなということだ。何で仲良くしないといけないんだ。何で好かれないといけないのだ。ばかかお前らは。何暴力振るっているんだ。バランスの問題だ。どうしても女が好きになれない。それで刺激を求めて変態行為に耽っているうちに本当に興味がなくなった。それも成り行きだから仕方がない。幼女に向かうのか。そんなことはない。100人に一人くらいは好きになることもある。10人に一人くらいは欲情することもある。長続きしないが。へんなビデオばかり見ていたら本当に嫌いになった。本当に嫌な奴らに見えてきた。そうじゃないのかもしれないが、脳がそういう風にしか反応しなくなった。現実の女はそれに反応して私に意地悪をしてくるのだ。女でなくても男も変な奴はそうしてくる。この間のカウンセリングの先生みたいに。あいつは頭おかしい。それがわかっていて近づくのか。フッキーと同じことにならないか。ドーパミンが過剰になってくると危険がわからなくなってくる。危険なものに吸い寄せられるようになる。フッキーみたいな飛び切り危険な低脳のキチガイに近づいてしまう。どんどん程度が低くなる。下流に近づいていく。それで良い人でいられるだろうか。見ただけで喧嘩を売ってくるやつも中にはいる。ワキガというだけで暴力を振るう奴もいる。何もしないのに襲い掛かってくる奴もいるのだ。あのくそババアみたいに。働き者とは統合失調症かうつ病のことだ。b校の奴らなんか何もしていないのに襲い掛かってきやがった。頭おかしい。それは治るということがなかった。どうにか工夫すれば収まるということはなかった。完全におかしい。仲良くなんかできるか。カウンセリング講座も結局同じじゃないのか。朝カルのババアと仲良くできたか。そもそも仲良くしたいか。高校球児や韓国人や首相にまで欲情する奴らなのに。私の手に負えるわけがない。それが自虐的だというのだ。人間は理由もなく人を攻撃する生き物だ。少なくとも私にはそう見える。理由もなく人に襲い掛かってくる。すごく恐ろしい。すごく人間が嫌いだと今日初めて思った。傷つけられたから、そんなはずはないと思って何度でも近づく。何度でも傷つけてくる。絶対に止めることはない。人間はそういう生き物だ。カウンセラーなんて頭おかしいじゃないか。病んだいるかみたいな奴らじゃないか。何で私が付き合わないといけないのか。何で私がそれにならないといけないのか。どこまでお人よしなのか。きっと傷つけてくる。何度でも。思い違いなんかじゃない。暴力で禁止することもできない。姉は今でも私を隙あらば傷つけようとしている。全く信用していない。私が信頼を築こうとしても決して心を許さない。女は家庭の中で居場所がないのだ。だから自分で家庭を築く。子供を生んで初めて居場所が見つかるのだ。何で面倒見なくて良いやつの面倒を見ようとするのか。何で繰り返し、自分を傷つけるとわかっているやつらに近づくのか。私は姉を理解できない。母親も理解できない。人間が理解できない。私は壊れているのだ。ずっと壊れたままで生きていくのだ。太陽が本当に脳がいいのか。うつにはいいかもしれないが、統合失調症には良くないんじゃないか。太陽を見る統合失調症のまぶしそうな目。私は関ヶ原の駅に帰ってきたとき不機嫌になっていた。キオスクのババアが喧嘩を売ってきた。喧嘩を売られても絶対に買わない。絶対に絡まれない。何もしていないのに喧嘩を売ってくるやつが確かにいる。それも少なからずいる。ババアに多い。若い女にもいる。おっさんでも若造でも同じだ。フッキーはその代表だ。あの低脳は意味もなく人を傷つける。自分でもコントロールできないのだ。あの職場は統合失調症、人格障害、知的障害の巣じゃないか。私は意味もなく喧嘩を売られる。最初あの低脳児と付き合ったのは学校帰りに喧嘩を売られたことがきっかけだ。二番目の変態と付き合ったのはやはり意味もなく喧嘩を売られたことがきっかけだ。三番目のキチガイ低脳は上履き入れを持ってきたのを見たからだ。訳もなく面白いと思ってしまった。それが運のつきだった。四番目は寂しさから変な奴をからかってやろうと近づいたら絡んできた。それ以来人と付き合わなくなった。そしたら教師の低脳に絡まれるようになった。父親も正直何を考えているのかわからなかった。ちょっと境界例ぽかった。遺伝だろうと思う。中学くらいから私は泳げない人間がおぼれるように人生に苦しみ始めた。苦しみは減るどころか増す一方だ。今がピークだ。地獄の苦しみだ。女は低脳児と同じに見える。ばかで平気で人を傷つけてくるからだ。繰り返し、際限もなく。力やルールで縛ろうとしてもだめだ。何であんなものを恐がらないといけないのか全くわからない。人を恐がる必要なんかないのだ。何で恐がらないといけないのか。今日ウォーキングの帰りの電車でそう思った。低脳の面倒なんか見なくていいんだ。いたずらの手紙を送りつけてまで人を傷つけようとする低脳なんか相手にすることはないのだ。そうはっきりと思った。世の中にはまともな人間と低脳の二種類がいる。低脳は理由もなく喧嘩を売ってくる。b校の奴らみたいに、フッキーみたいに。何でそんなものを恐がる必要があるのか。何でおばはんや女を恐がる必要があるのか。今日そう思った。事実全く恐くなかった。何も悪いことをしていないのに攻撃されても全く恐くない。北朝鮮みたいに悪いことをしていれば攻撃されるのではないかと怯えるだろう。人は皆人が恐いのだ。
恐がる必要はない。人の機嫌を取るのはやっぱり良くないのだ。人の機嫌を取るために嫌なことを我慢したりするのは精神衛生上一番良くない。低脳を恐がったり、機嫌を取ったりしてはいけない。いけないわけではないがその必要はない。そうすると不利になる。あの執行役員も頭おかしい低脳だ。私に絡んできた。何もしていないのに絡んでくる奴は低脳としか思えない。攻撃性を抑制できないのだ。
ああ嫌だ。ほとほと嫌になった。世の中が人間が。人を邪魔者扱いしやがって。こっちだって大嫌いなんだ。
低脳やボーダーはもううんざりだ。恐がる必要もないし、憐れむ必要はないのだ。憐れみは誰も嫌だろう。憐れみを通じて支配するのか。理解できない。わからなくなった。愛と感謝と優しさだ。でも低脳やボーダーはうんざりだ。世の中がもううんざりだ。



2006年09月24日(日) カウンセリング

昨日はカウンセリングの無料体験会に行ってきた。洗脳セールスみたいだったが、よく考えよう。o氏という定年退職したおじさんと知り合った。子供が引きこもりらしい。気の毒だ。余り人に同情したことはないが、人間らしい感情が芽生えつつあるのか。受け入れる気持ちは大事だ。昨日カウンセリングのロールプレイをやってカウンセラー役は面白かった。人の話を聞くというのは楽しいことでもある。受け入れることは恐いことでもあるが、それほど恐れることでもない。例えばあのババアにしても受け入れないので怒るのだ。受け入れれば怒りようがない。境界例の人を除いては。あいつは境界例か。もし境界例の場合は自分の身を守らないと大変なことになる。
愛と優しさと感謝は大事だ。でも生きるためのストラグルというか生存競争も必要なのだろうか。わからなくなってきた。適度にやってもいいが、人の先に立たないというのが老子の教えだ。
嬉しいな。おじさんが心を開いてくれたのが嬉しいな。これが人生の普通の姿だ。抗うつ剤を飲んでからおかしい悪魔が暴れ始めた。恐い感じがする。自分が悪いことを平気でしそうで恐い。カウンセリングを受け始めたときはそう状態でもなく統合失調症も再発してなく、人間らしい気持ちを保っていた。それが壊れ始めたようだ。でもまた統合しよう。緩やかにでもいいからまとまりのある人格を作ろう。中学のとき、自分を閉ざして人を受け入れられなくなった。家族や級友も含めて。でもできるのだ。5%できればいいじゃないか。昨日のおじさんとも完全にコミュニケーションできたのではないが、6,7割はできたのじゃないか。上出来じゃないか。愛と優しさと感謝と題目のように唱えていると理解できるようになった。私も普通の人間なのだ。
z氏が会ってくれなくなったのは私の変質に気付いて恐くなったからだ。もちろんカウンセリングには限界があるから、それは当然なのだ。私はむしろカウンセリングを始めたとき、私の本質に気付いているのかと心配になった。
人を受け入れ、感謝し、愛し、尊重し、優しくすることはごく当たり前のことだ。悪いことを考えることは馬鹿馬鹿しい。辛いし、本心に反する。天然自然の情に反する。人に嫌われる理由はそこだ。
人を傷つけて喜ぶ変な奴と付き合ったのも悪いし、低脳の根性悪と付き合ったのもおかしい。私はまともじゃなくなっている。でもまともであろうとすればすぐできるような気がする。回心して、一所懸命働き、人を受け入れ、心を開けばうまく行く。世間の人は立派だ。一所懸命働いて家族を養い、親の面倒も見る。家を建て、車を買う。子供を大学に行かせる。世間の義務を果たす。私はどうだ。何もしていない。私は困難なところに来ている。
一所懸命働こう。人に迷惑をかけまい。人に心を開こう。人を受け入れよう。人を受け入れることはとても気持ちのいいことだ。昨日はそれを味わわせてもらった。女であっても男であっても心を開くことが必要だ。人に心を開ければ未来が開けてくる。人を操作しようと思ってもだめだ。人はデリケートな生き物だ。コントロールも操作もできない。愛し、感謝し、優しくすることだ。5%でもいいからやってみよう。最初から完璧なんて無理なんだから、気楽にやってみたら良い。
私は世間に居場所がない。路上を歩いていても虚しい。一人浮いてる気がする。自分が自分でない気がする。不真面目な気持ちではいけない。真面目に生きていこう。今日はちょっと調子が悪い。でも悪いなりに何とか乗り切っていこう。5%でも10%でもいいからやってみることだ。勇気だ。
人を尊重しよう。人に心を開こう。人を受け入れよう。簡単なことだ。100%できなくても30%でも10%でもいいじゃないか。良い人間になろう。悪いことをしないだけではだめで、良いことをいっぱいしないといけない。
真面目になろう。少し自分がわかってきた。どこが悪いか。芸術的才能があることと悪とは関係あるのか。愛と優しさと感謝だ。小さい頃から夢想家だった。白日夢を見ていた。そういうことと仕事ができないことと関係ないとは言えない。悪につけこまれやすい。ボーっとして訳のわからないことを考えてしまう。それは脳に問題があるのか幼児環境かわからない。多分両方だろう。甘えと悪が私の中にある。これは意志の力である程度コントロールできる。薬はいらないと思う。姉が母が私を甘やかしたので悪くなったと言ったことがある。私はとても傷ついた。人格を否定されたような気がした。人を批判するにも言い方があるだろう。私はいまだに理解できない。世の中色々な人間がいる。自分が変わっているのは許せるが、人が変わっているのは許せないというのでは通らない。長い間に私は自分を甘やかしてだめにしてしまった。でも遅すぎることはない。回心して正しい道を歩み始めるのだ。それが両親への恩返しだ。正しいことが何かわからなくなっている。甘えだ。悪いことをしても許されると思っている。
普段でも頭がポーっとすることがある。気持ちよくなる。遺伝じゃないかと思う。でも何とか理性と意志の力でコントロールできる。
悪とか汚いものに興味が強いというか抵抗がない。良くないだろう。悪とされることはしない。人に迷惑をかけない。z氏に言うと必ず反発するのは悪を彼も飼っているからだろう。自分がわからなくなった。でも次第にわかってくるだろう。私は正しい道に戻りつつある。やっぱり宗教的な考えは必要だし、私も持っている。それがなければ回心ということは難しい。3割方私は回心した。これである程度十分だ。全く回心せずに生きている奴もいる。やくざみたいな奴。100%回心することは難しい。何年かかるかわからない。だから5,6割回心したらよしとしよう。私は何でもハードルを高くする癖がある。一割でも達成したら褒めてあげよう。褒めてよくするのだ。叱ったりコントロールしようとしてもだめだ。
町内を自転車で一周してきた。行かないより行った方が良かったか。でも調子はかなり悪い方だと感じた。目がかすむ。人が恐く感じた。居場所のなさ。疎外感。統合失調症的傾向だ。愛と優しさと感謝で何とか補おう。正しい答はわかっているのにピンと来ないのだ。そういう人はいる。三島由紀夫、芥川、伊東静雄。良い人でいたい。良いことをしたい。大学のときも一時おかしくなった。人格崩壊に近いような激しい症状だった。でも薬でしばらくしたら回復した。それ以来、そういう症状は出なかったが、この年になってストレスからか昔の地金のようなものが出てきたのか。人格の統合感が失われてきた。今あまりよくない。でも良く見ると堺の市民にしろ、そう楽しそうにはしていない。北花田ではそれなりに寛いでいたが、道路を歩いている人は普通の顔をしていた。私も3%くらい楽しければそれでよしとしよう。快楽を求めるとすさんだ気持ち、異常な行動、反社会的な態度になって現れる。しばらく穏やかに過ごしてやり過ごそう。悪ければ悪いなりに過ごすのだ。誰でもいつも楽しくてたまらないわけではない。特に堺市民はすさんだ顔が多い。ビビル必要はない。
今横になっていたら、パッと頭に血液が流れるような感じがしてぐっと気分がよくなった。有酸素運動の効果はすごい。体から直していく。薬でもカウンセリングでも心理療法でもなく、呼吸や血液の流れから改善する。これが一番効果があることがわかった。
やっぱり今思ってもあいつは恐い。体が拒否する。本当に恐い。やっぱり物理的に距離を置く以外になさそうだ。自分を受け入れないからといって攻撃するのは信じられない。
別の商業施設に行ってきた。自転車でゆったり往復。気分はまずまずだった。碁盤の目状になっているので走りやすい。走っている連中に多少問題なしとしないが。5割くらいの満足度だろうか上々だ。私は何でもやらせれば結構うまくできるのだ。だから3割くらいできると思ったら失敗を恐れずにやってみればよい。カウンセリング講座どうしようか。週2回はきつくないか。でもその値段でカウンセリング何回分もの効果、しかも永続的な効果が見込まれそうな気がする。3割くらい効果が期待できればピンと来なくてもやってみようというのが今の私のポリシーだ。やってみようかと思っている。o氏はミクシーに入らないようだ。無理もない。20代が中心で私でも違和感を覚える。
去年の暮れ、雪の京都で研修を受けていたときのことを思い出す。もうあの頃から変化が見られていた。かにを食いに行ったり、小田和正のクリスマスの約束を見て感動したりしていた。抗うつ剤の影響が顕著に現れていた。人格崩壊の一歩手前だった。b校も酣で毒を思い切り浴び、自虐の極致だった。自分をコントロールしようとしてできず、周りをコントロールしようとしてできず、混乱していた。現実と妄想の区別が怪しくなり始めていた。それを成長と信じようとしていた。z氏はその頃私を見捨て始めていた。少なくとも距離を置こうとし始めているように感じられた。
優しくされたい。理解されたい。味方になってほしい。愛がほしい。愛と優しさと感謝。これは私が切実に求めているものだ。でもこれを惜しみなく与える相手しか返してはくれない。これが世のおきてだ。私は会社に対して恩義を感じる。決してないがしろにはしない。報いたいと思っている。世の中を自転車でうろうろするだけで自分が疎外されている、取り残されていると感じる。無理もない。でも受容されていることも確かだ。養われ、治療を受けている。若い頃あんな暮らしをしたのは良くなかった。でも今更言っても仕方がない。とにかく真面目に正直に生きていこう。皆努力しているし、辛い思いを耐えている。私だけ免れるわけには行かない。私も頑張ろうと思う。初めて自分からそう思う。会社の恩義に報いたいと思う。
今は少し気分が優れないが100%なんかめったにないのだ。3割くらいでもいいじゃないか。それで何とかやり過ごそう。また気分の良くなるときも来る。
気分が優れない。今日は早く寝よう。今はゆっくり休もう。私は誰にも恨みもないし、喧嘩したいとも思わない。きっと良くなる。今がそこだ。体から直していけばきっと良くなる。愛と感謝と優しさだ。今がきっとそこだ。これからだんだんよくなる。良い方向に向かっている。
ちょっと疲労気味だ。すぐ無理をする癖がある。今日は3時に目が覚めたのに。自分を労わろう。自分が労わらなければ誰が労わってくれる。
リスパダールは飲まないといけないのだろうかうつになる。セロトニンを抑えるんだから間違いない。トリプトファンを飲めばいいのか。目がおかしい。文句は言うまい。今をしのげば何とかなる。
今明るく優しくできそうな気がする。誰にでも親切に明るく優しく接することができ、邪悪な気持ち、傷つけたいとか支配したいとか思わないと今思った。それが普通だからだ。田舎に泊まろうとか見ていても大体全員そうだ。たとえ女であっても親切に優しくできそうな気がした。ナイスガイ。という奴。別にそれで病気になったり、苦しくなったりしないように思う。人を受け入れる気持ちのよさ。尊重する気持ちのよさ。卑屈とは全く無縁で人を尊重できる。親切にできる。人として当然のことだ。昔はそういう人間だった。思い出せ。今すぐできる。



2006年09月23日(土) お彼岸

今日はお彼岸だ。父親のことをしのぶ。母親のことを思いやる。多くの罪を悔いる。昨日は良く飲んだ。ドリカムのライブをテレビで見る。最高だった。幸せあるじゃないか。5割超えたらやってみよう位だろうか。その辺は柔軟に対応したい。私の苦手なことだ。頑なで融通が利かない。頭が固い。だから悪いこともとことんやってしまう。今は悪いことをしようとは全く思わない。今は6,7,8割くらい超えたら、やる気がというかやりたい気持ち、意欲が、やってみようと思っている。だんだんハードルを上げていって最終的には1%でもあればやってみようかということにしたい。私は悪い性格で直さないといけないというものではない。状態が悪い。使い方が悪い。悪いことに使いすぎる。有効に使っていない。有益なことに使っていない。そこを改善すれば十分いける。褒めてやろう。自分を人を。そうすれば不思議なくらいうまく行く。だいぶ学んだ。休み始めてから今までに学んだことは数多い。素晴らしいことだ。大分良くなった。落ち着いた。愛と優しさと感謝だ。それさえあれば他いらないくらいだ。稲盛さんは愛がわかる人、愛を与えられる人だ。それを学んだのだ。初めから知っていたのではない。でも備わってはいた。私にも備わっている。
私は100%整わないとやらないと思っている。思っていた。そうであれば絶対にうまくは行かない。始まらない。あのババアは1%でもやる。そこが違う。仕事に関してはそういう態度、貪欲さが必要だ。1%でもあれば何でもとことん食らいつく。その違いだ。
一歩前に進んだような気がする。傷ついては癒し、倒れては起き上がる。七転び八起き。
おばはんが腹が立つというのは完全主義の現われだ。おばはんは完全に劣っていないといけないという思い込み。そんなことはない。緒方貞子みたいな人もいる。鶴見和子みたいな人もいる。能力に差はないのだ。女が攻撃してきても関係ないじゃないか。5%関係が築ければいいじゃないか。女とうまく行かないというのは思い込みじゃないのか。嫌いなら近づかなければいい。



2006年09月22日(金) ヘッドフォン

朝起きてヘッドフォンをセットして聴いてみたら素晴らしい音質であった。やっぱり買って良かった。私は脳がぼけているのに買い物だけは失敗しない。立派だ。芸術に賭けたらいいのか、実業に戻るべきか。5%程度であればやってみよう。5%の効用、快楽、リターンがあればやろう。
生き急ぐという言葉があるが私にも当てはまる。こんなにもやる気がなく、何もできない私でも焦りすぎた面はある。落ち着いて必要なことをやっていればある程度の成功は望めたのに何もかもぶち壊しにしてしまう。どうしてだかわからない。5%位楽しくてやっているうちに10%から20%くらい楽しくなるかもしれない。そうすれば30から50%それ以上になる場合も考えられる。それくらいが普通じゃないのか仕事にしろ、遊びにしろ、そんなに楽しいはずはない。
記憶が飛んでいる。意識が途切れることがある。目を開いて見ているのにそれが何かわからない。聞いているのに何のことかわからない。そのうち良くなるだろう。少し変になったから良かったんじゃないか。愛と優しさと感謝に目覚めた。
暗峠に行ったのがいつか昨日どこに行って何をしたか日記を見るまで思い出せなかった。恐ろしい。脳が傷ついている。記憶が痛んでいる。大丈夫だろうか。おかしい。今日は丸井に行ってきた。大変な人出だが誰も何も買わない。関西人だ。



2006年09月21日(木)

私の脳はハングを起こして使い物にならなくなっている。体を使おう。体を浸かっていると生きられる。頭がおかしいならば体を使え。キチガイババアとかhも頭じゃなく体を使っている。だから食い違うのだ。
30%良ければよしとしよう。うつ体質の人間は100以上を望む。それは不可能だ。この休みだって100%の回復はありえないから最後は見切り発車しかありえない。精々ベストを尽くすことだ。5%楽しいと感じられれば実行しようかと思っている。100%楽しくなければやらないとは非現実的なまでに傲慢だ。5%楽しくてもやるところが上達と適応の秘訣だ。すごく状態が良くなってきた。
愛と感謝と優しさのお蔭だろうか。脳が馬鹿になったことのお蔭だろうか。馬鹿ほどいいということになる。
回復宣言を行おう。心の傷がやっと良くなった。半年かかった。でもこうなる運命だったのか。余りにも無防備だから傷つくという運命。あんなキチガイと身を守る術を持たないまま付き合うなんてばかだ。心の傷はある。でも生きていこう。有頂天にならないだろう。でも30%で生きていこう。そんな有頂天の奴ばかりだったらおかしいだろう。今までがおかしかったのだ。
あんなキチガイでもばかにすると恐い。嫌だったら付き合わなければいいじゃないか。何で近づくのか。s会だって明らかにおかしいのに無理に決まっているのに何度も行ってばかじゃないのか。
あの時もドタキャンしたらよかったのだ。k和尚と一緒にいたほうが安全だったのだ。いきなり100%うまくできるものはない。誰もいない。5%ほどうまく行きそうだなと思ったらやってみよう。ある程度失敗することが多いだろう。でもビギナーズラックで成功するかもしれない。失敗しても何度も繰り返してやっているうちに上達する。全ての人間活動はそうだ。スポーツであれ、芸術であれ、仕事であれ、そうだ。5%うまく行ったら満足しよう。そしてまたやってみよう。
でもすごく良くなった。脳が痛んだことが良かったのじゃないか。変な考えすぎが一時的にせよ良くなったのだ。
愛と優しさと感謝だ。今日は梅田に行ってヘッドフォンとlanケーブルを買ってきた。私は反社会的だ。それもこの会社に入ったときに忘れたと思ったが、結局三つ子の魂百までというわけか、誰彼なく反抗してしまう。今まで抑えてきたが、抗うつ剤の副作用でそれが抑えられなくなった。昼間はボランティアでもした方が良い。
現実感が薄い。この間のグリシン事件以来、活字が読めない。ぼんやりするなどの症状がある。脳を酷使している。薬でおかしくなっている。こんなときは脳を使わず体を使おう。自分と現実との関係が感じられない。人はもちろんものにも興味が湧かない。目に何かが映っていてもそれが何かわからない。自宅の電話番号を忘れる。
私は暴力や悪に頼る。やくざと同じだ。脳がおかしくなったので愛とか優しさとか感謝とか言い出したのだから良くなったのだ。悪くなったのではない。あいつとどううまくやったらいいのか。それは不可能だから考える必要はない。考える必要のない事を考えてはいけない。わかることだけ考えていたらいいんじゃないのか。
悪は見返りがあるだろうか。あるわけない。ただくせみたいなものだ。母親と本当に仲が悪かった。何でかわからない。悪い奴と付き合っていてそいつにそそのかされたということもある。
2割くらいいけそうなら頑張ろうかなと思っている。興味なくても5%くらい楽しければやってみようかなと思う。やっているうちに楽しくなるという説もある。復職も100%ということはまずありえないと思う。8割方回復したら復帰を準備しても良いと思う。さもないと時間切れになるし。
私は悪かもしれないが人の迷惑をかけなければいいんじゃないのか。サドみたいに権力と金に物を言わせて悪いことをしたというなら別だが、悪いことなんかしてないし。
人に喧嘩を売られない。これが肝心だ。売らない買わないは当たり前だ。売られないというのは相当な覚悟を要するに気が張るというか身が引き締まる。やらねばと思う。自分を守るとはこういうことだなと思う。暴力なんかでは身は守れない。悪いやつを見るとやっぱり身の毛がよだつ。死んでくれと思う。やっぱり悪いことはしたくないし、されたくもないし、そういうやつと一緒にになりたくない。
3割から5割くらいやる気があればやってもいいかなと考えている。仕事も私は結婚とか子作りとか家を建てるとか車を買うとか夢を全て諦めて、それで仕事にやる気を持てというのは、無理だ。欲があって初めて人は働く。あいつらが慈善事業とか親切とか、美徳から働いているんじゃないことは明らかだ。我利我欲があるから働くのだ。家庭があるからローンがあるから働く。あんな職場でモチベーションを維持するのは極めて難しい。でも生きていたい。それが5%の意欲を持たせることは可能だろう。5%あれば頑張ろうと思う。5%の意欲を持つことができればやってみようかとおもう。そうしないと生きてはいけない。今でも5割くらいやる気のあることはいくらでもある。沖縄旅行、屋久島、韓国、温泉、読書、いくらでもある。それをやっているうちにやる気は湧いてくる。昨日も行く前はやる気は10%くらいだった。でも歩いているうちに気分は良くなっていた。弁当もおいしく食べられ、いい天気でいい景色が見られて幸せだった。それで十分じゃないか。これ以上快楽を求めたら実社会には戻れないだろう。覚せい剤でもやるしかない。抗うつ剤とは覚せい剤の一種らしいが、脳を破壊された。ハッピードラッグとは覚せい剤だ。



2006年09月20日(水) 生駒

生駒の暗峠に行って来た。朝2時くらいに目覚めたが眠れなかった。戸外に出る時間が長いと目が覚めるのか。厄介だ。セロトニン不足はアウトドアで補おう。日の当たるところを堂々と歩いていると逆に怪しまれないようだ。泥棒は太陽の光を嫌うだろう。私は治療のため、できるだけ日の光を浴びたい。今日の満足度は50点くらいだった。それでもああ楽しいとは思わない。ああ来てよかった、最高とも思わない。まだ調子が悪いのだ。でもこういうことの積み重ねが大事だ。
喧嘩売られても絶対買わない。ヤンキーでもやくざでも恐くない。絶対喧嘩を売らない。絶対買わない。喧嘩して得することはない。北朝鮮が得しているだろうか。どんどん見放されて破滅への残り時間をすり減らしている。悪いことをして得をすることはない。悪が栄えたためしはないのだ。悪徳の栄えなんかないのだ。
慎重に行こう。かなり悪い状態にまで落ち込んでいる。もうこうなった以上焦っても仕方がない。
キチガイフッキーと付き合ったのは一生の悔恨だ。でも大きな教訓を残した。それを立ち直りのヒントにしたら良い。そうすればあんな気違いでも存在理由があるというものだ。あのくそババアどもでも同じことだ。もっと賢くなるための教訓にすればいいのだ。
目がおかしい。活字が読めない。体をうごかすしかない。いいことだ。今の状態では頭がさえていたら逆に苦しい。体で生きよう。頭は後からついてくる。街道を歩きまくろう。山に登りまくろう。日を浴びまくろう。
目がおかしいというより脳がおかしい。治るんだろうか。大丈夫だろう。できるだけ長く日を浴びよう。セロトニンを増やそう。ドーパミンは薬で減らそう。喧嘩を売るまい。売られまい。数日前に比べたらだいぶ良い。
やっぱり理由はどうあれ、中学から悪いことばかりやっている。どうしてかわからないがそうだ。でも少年とか見ているとホント悪いことばかりする。顔見るだけで気分悪い。何かされそうな気がする。でも今日はいい日だった。50点位でも気分は最高とは行かないものだ。でも数日前から比べたら雲泥の差だ。誠実に頑張ってよかった。
愛と感謝と優しさだ。私にはそれ以外信じられるものはない。脳が痛んでしまったのだなと思う。今日なんと言うこともなく目的の駅を乗り越してしまった。戻ってその駅の名前を見てもすぐにはピンと来なかった。どういうことだろう。脳が壊れたのか空恐ろしくなった。ボランティアでもしようか。悪いことをする奴は自分にも悪いことをするからだめだ。自滅してしまう。昼間に山を歩いていても楽しくない。でも今は調子悪いのだと思ってゆっくりしよう。30点でいいじゃないか。
悪いことをするからいけない。悪いことをする奴なんていない。不良くらいだろう。私は薬をきちんと飲んで日に当たりよく運動をする。
正直言って大学を出てからこの方きちんと勤まったためしはない。社会に貢献できたためしはない。それが今更という気がする。最悪期は脱出した。店員から喧嘩を売られることがなくなった。喧嘩を売らない、買わないは当たり前だが、売られないということがある。売られやすいことが問題なのだ。自分が一番偉いと思っている。はいはいあんたが大将。天才。偉人。リーダー、頭領。何でそんなことを張り合わないといけないのか。全くわからない。峠でババアの群れに会ったときは不良に絡まれないように逃げる気の弱い高校生みたいに目を合わせないように逃げた。それでいいのだ。何で絡まれないといけないのか。喧嘩を売られないということは喧嘩を売ったらただじゃ置かないということだ。それくらいの覚悟が必要だ。喧嘩を売られてどうしようとかじゃなくて売られるのが悪いのだ。目が合っただけでメンチ切ったとか言って喧嘩売ってくる奴もいるのだ。大阪の女なんか全員ヤンキーなのに気をつけないといけないのだ。小さいときから喧嘩の売り買いばかりして来た。元暴走族のリーダーは喧嘩の経験が役に立っただろうか。そんなことはない。喧嘩は売っても買ってもいけない。売られるのがいけない。不徳のいたすところだ。



2006年09月19日(火) 歩き

病院に行ってきた。自転車がないので歩いていってみた。気持ちよかった。天気が良くて、真夏ほど日差しが強くなく快適だった。日に当たることとウォーキングはいいだろう。抗うつ剤の代わりになる。副作用がない。目がおかしいがどうということもない。活字が読めないがどうということもない。
石切神社に行ってきた。面白かった。歩くことは面白い。日を浴びることは面白い。うつに効くだろう。活字が読めなくても面白いことはある。
喧嘩を売っても買ってもいけない。電車の中でサルみたいな婆やブスを見ることは危険だ。ブスとかババアと思ってしまうから、敵意があると思うだろう。箕面のサルと一緒だ。見ることがどういうわけか喧嘩を売ることになるのだ。野生動物だ。言葉ではなく見た目で判断しているのだ。
愛と感謝と優しさだ。愛は統合失調症を癒すだろうか。ロジャースは統合失調症を相手にしてショックを受けたらしい。全ての精神疾患に効果的ではない。宗教は統合失調症的かもしれないのでロジャースは嫌うだろう。z氏も嫌っている。カウンセリングが有効な限界の外側にあるからだ。喧嘩を売っても買ってもいけない。愚かなことだ。小さい頃その馬鹿なこどもと付き合う羽目になったのは喧嘩を買ってしまったからだ。喧嘩を買ってしまうと自分が巻き込まれて責任が生じてしまう。大概うまく処理し切れなくて破綻してしまう。
二番目に付き合った馬鹿野郎も喧嘩を売られたので買ってしまったことによる。三番目は喧嘩ではないが、絡まれたような気がして受けてしまった。その次もそうだ。それ以降私は人と付き合うのが嫌になって自閉してしまった。喧嘩を売っても買ってもいけない。損することは絶対にない。身の破滅だ。姉がいつも喧嘩を売ってきたが頭に来てかっとして家を飛び出したことがある。もちろん自分が悪いと怒られた。事情がわからないからだ。姉はいつも私を嫌っていた。終生変わらないだろう。この間家に行ったときも邪慳な扱い、モラハラな扱いを受けた。けんか腰だ。田舎暮らしといっているが慎重に考えた方がよい。私のためを思っているとは決して思えない。ひどい目に遭うのは明白だ。何かわからない理由、私が女性的だからなのか邪悪だからなのか、統合失調症的だからなのかわからないが見た目だけで喧嘩を売ってくる。肝心なことは対話が可能だなどと思わず、絶対に喧嘩を買わないことだ。姉ともずっと喧嘩ばかりしていた。もうそういう運命なのだ。顔を見ただけでかっとする。b校のときもそうだ。我慢するなどということはできない。絶対に喧嘩を売ったり買ったりしてはいけない。
愛と感謝と優しさだ。何で一方的に私が悪いみたいになるのか。全くわからない。大阪なんかやくざと被差別部落とヤンキーとおばはんと芸人と盗人の巣だ。絶対相手にしてはいけない。絶対に。おばはんとかヤンキーとか何で見たりするのかわからない。被差別部落とやくざを合わせたくらい邪悪なのだ。まともな人間ではないのだ。まともな人間であるはずがない。
喧嘩売られても買ってはいけない。ヤンキーとおばはんはやくざと同じなのだ。何で買うのかわからない。どうして情け深いのかわからない。どうして自分を危険に曝すのかわからない。抗うつ剤の副作用でやくざに喧嘩を売るようになったのか。
愛と感謝と優しさだ。カウンセリングなんか受けても根底に統合失調症と神経症のコンプレックスがあるから難しい。カウンセリングを受けている気になるだけで実際は効果がない。効果がないと自分ではわかるものだから馬鹿にしたくなる。効果はないが刺激はあるので躁状態になったりする。抗うつ剤もegもカウンセリングも効果はない。とにかく慎重に喧嘩を売ったり買ったりしないことだ。それしかない。女や子供や境界例のおっさんが喧嘩を売ってきても絶対に買ってはいけない。あとフッキーみたいなやくざとか。あんなもの薬も森田療法も何療法も効くか。やくざの統合失調症じゃないか。イカレポンチ。最低最悪の社会のごみだ。生まれてくるべきじゃなかったのだ。
何を信じて良いかわからない。何も信じなくて良い。自分だけ信じていればいいのだ。あんなやくざやおばはんやヤンキーと仲良くできるわけないだろう。いい加減にしろ。
愛と感謝と優しさだ。もうこれ以外信じられるものはない。何でヤンキーややくざやおばはんがいるのかということはフッキーみたいな奴がなぜいるのかということと同じだ。何で付き合うのかわからない。何の自殺行為なんだ。何の自虐行為なんだ。何のボランティアなんだ。訳がわからない。何で喧嘩を売るのか、何で喧嘩を買うのか。やくざやおばはんやヤンキーに。何でそう自殺行為がすきなのか。全くわからない。絶対に喧嘩を売ったり買ったりしない。関西人はやくざかヤンキーかおばはんか盗人か人殺しのどれかに当てはまるのだ。一体誰を相手にしていると思っているのか。全員犯罪者なんだ。しかも統合失調症の。または人格障害の。宅間の里じゃないか。少年aの。ありとあらゆる犯罪の巣窟じゃないか。何十年連続引ったくりワーストワン、虐待もナンバーワン。全体が被差別部落なんだ。それか組事務所。
愛と優しさと感謝が足りないのだ。化け物みたいな奴でも愛が在れば生きられる。宅間みたいなやつでもカウンセリングを受けていた。うまく行けば回心できたかもしれないのに殺してしまった。おかしいと思わないのか。日本人は愛が足りない。ここはキチガイとやくざとヤンキーとおばはんの巣窟だが、愛と優しさがあれば何とか生きていけるんじゃないか。愛の力はそれほどすごい。こんな醜い無価値な奴らも救うことができる。そう信じている。フッキーみたいなウジムシみたいなやつらでも救うことができる。
愛と感謝と優しさを信じること。自分を愛すること。喧嘩を売ったり買ったりしないこと。
抗うつ剤があってegがあってb校があって揉め事があって休職があって、フッキー加藤があって今の苦しみがある。大阪に出てきてから嫌なこと信じられないことの連続だった。愛と感謝と優しさで大丈夫なのだろうか。とにかく喧嘩を売ったり買ったりすることは絶対禁止だ。得体の知れない人と付き合ったりするのも抗うつ剤の影響だ。
世の中には統合失調症も神経症も障害者もいる。でも愛さえあれば救うことができる。
愛と感謝と優しさじゃないでしょうか。フッキーみたいな犬のくそみたいな奴でも生かされている。絶対あんなのとつきあってはいけない。何でそんな自殺行為をするのか。知らない人間と飲むというのは危険な行為なのだ。
愛と感謝と優しさだ。今は30%で行こう。65点でいいじゃないと某女史は言っていたが、私は30点で良い。こんな状態では普通に生活することさえ困難だ。
私は悪くない。愛と感謝と優しさだ。今は一番楽しくても30点、30%くらいだ。フッキーのせいだ。あのくそキチガイ。全くどうでも良い。30点主義で以降。30点くらい楽しければよしとしよう。



2006年09月18日(月) もめごと

昨日から隣の部屋が騒がしい。男女のトラブルが生じているらしい。女が締め出されてわめいている。関西らしく下品だ。色と欲丸出しだ。やくざじゃないだろうか。愛とか優しさが馬鹿らしくなる。私には関係ないことだ。
私は小さい頃に悪に目覚めたらしい。そのまま暴走して大きな罪も犯した。分裂病にもなった。狂気と犯罪は近いものだ。
頭の中が千日手のようになってハングしている。頭が痛い。昨日は3時頃外で馬鹿どもが騒いでいて目が覚めた。統合失調症が再発したのか。
女なんか何だ。関係ないじゃないか。何で私がご機嫌取らないといけないのか。
愛と優しさだ。感謝だ。でも卑屈になることはない。
愛と感謝と優しさだ。目がおかしい。戻らない。悪いことをしてしまう。高校までは勤勉だった。誰でもそうだ。当時は。
悪と狂気に目覚めた幼い頃。でも誰でもそうだ。小さい悪がきはいる。統合失調症でも愛と感謝と尊重、優しさで癒すことができる。
気分が優れない。目がおかしい。頭が痛い。今までで最悪だ。愛と感謝と優しさだ。大事なのは。悪い人間はいる。でも悪ければ悪い風にすれば良い。悪いのに良い風をするからおかしい。私は悪い。両親や兄弟にも迷惑をかけた。反省をすること。改善すること。悪いなら悪いなりにすること。人に迷惑をかけないこと。愛と感謝と優しさだ。
頭が痛いのと目がおかしいので本も読めない。辛いので横になっている。それはそれでいいのだ。辛いのがよくなったらまた本も読もう。私は愛によって生かされてる。それを感謝する。雨露をしのげること、食べ物があることを感謝している。それで十分じゃないか。愛によって生かされてる。
悪は誰の心にもある。でも誰もが抑えている。何かあるとすぐ死刑と叫ぶ国民。そこが恐い。変になっている。思い通りにならず我慢を強いられてきてストレスが溜まっている。母親にはとりわけ迷惑をかけた。遅刻が増え、家庭内暴力を振るった。申し訳ない。また戻ってきて迷惑をかけた。楽しい老後が待っていたのに台無しにした。悪だ。悪をコントロールできない。小さい頃からそうだ。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。こうして生きているのは奇跡だ。愛の奇跡だ。感謝しなければならない。
この間まで全ての人間に嫌われているように思ったが、そんなことはないと思えるようになった。嫌う人間はいるかもしれないが、全存在を否定されることはない。母親や両親に悪いことをしたかもしれないが、良い大学に入った。全てが悪いわけではない。悪いところもあったということ。純情だから悪くなると本当に悪くなってしまう。これからは反省して悪いことはしない。
何で悪いことをしてしまうのか。反省が足りない。一所懸命仕事をしない。怠慢。意図的に悪いことをする。何でそうなるのか。全くわからない。反省が足りないのか。fみたいに自暴自棄になって人に悪いことをする。病気だ。統合失調症は病気だ。悪いことをしたいという願望がどうしても消えない。どうしてだろう。悪いことをしても許してもらえる人やところを探しても絶対にいない。母親だってだめだ。
一所懸命仕事をしないことや家庭を作らないことは怠慢だ。義務を果たしていない。私はもう悪いことをするのはうんざりだ。不利益ばかり受ける。良いことをすれば利益を受けるのに。小さい頃の刷り込みというのは恐ろしい。でももうこんな年なんだからいい加減に修正できるじゃないか。悪いことをしないで良いことをする。愛と優しさと感謝に目覚める。ボランティアでもやってみようか。あのサークルはボランティア精神なしにはやれないだろう。何が楽しいのかと思う。あんな人たちの相手。
疲れた。でも良くなっていると信じよう。愛と優しさと感謝のお蔭で。うつ状態じゃないかと思うが、抗うつ剤はこりごりだ。休養と代替医療で治そう。
絶対に喧嘩売られても買わない。いくら機嫌が悪かろうと、そのため喧嘩を売られようと、絶対に喧嘩を売られても買わないと堅く決心すれば決して喧嘩にはならない。それは屈辱ではない。勇気だ。勇気のない奴が喧嘩するのだ。例えば女。屑みたいな女だけが喧嘩を売ってくるのだ。絶対に喧嘩を買わない。
抗うつ剤の副作用で人に喧嘩売っているみたいになるのだろう。顔見ただけで喧嘩売ってくる女もいる。でも絶対に買わないことにした。喧嘩は相手がいる。自分が相手にならなければ絶対に喧嘩にはならない。恋愛と同じだろう。もしそうすればストーカーだ。
愛と優しさと感謝だ。ウォーキングはいいな。ウォーキングを始めよう。金が要らない。歩いているとスッキリする。
私は恐いんじゃないかな。女は私を見ると恐いと思うのか。犯罪者っぽいし、人間味が感じられない。温かみ、優しさが感じられない。それで喧嘩売ってくるのだろう。喧嘩売ってこられても買わなければ良い。絶対に買わない。弱い犬ほど良くほえる。
やっぱり人間としてきちんと義務を果たしてこなかった。就職して病気になって引きこもり。気の毒な面はあるがやっぱり社会的責任から逃げてしまった。悪いことをしてしまう。今は責めたりしない。でもいずれは反省して回心すべきだろう。明らかに間違ったことをやってきた。それがわかっているのか、わかっていないならそれも救いがないし、わかっているなら悪性が強い。でもわかって反省して改めるならば救いはあるだろう。それは自分の意志一つなのだ。
私はひどく臆病で恐がりだ。それが弱さだったり、攻撃性になったりする。でももういいだろう。いい年なんだし、恐いものないだろう。今休職に至る過程がありありと浮かんでくる。最初、hとトラブルになったのだ。それで北原に言って取締りを強化し始めた頃からおかしくなった。その原因はというと抗うつ剤だと思うし、もっと根っこには統合失調症とか悪いことをしたがる心性とか反社会性になってくる。あの職場は刑務所みたいなところだ。流刑地。他で問題があってどうしようもない奴が懲役刑、更生のために送られてくる。更生といっても出て行った奴はいない。病気になって出て行くくらいだ。出るときは死ぬときだ。
女が私を恐がっているために攻撃するという仮説は正しい。今日レジでおばはんがすごい勢いで私から遠ざかった。おばはんになっても男というだけで恐いんじゃないか。でも私はそんな理由で喧嘩を売られても絶対に買わない。そうすれば絶対に喧嘩にはならない。
私はもう考えることは余りない。愛と感謝と優しささえあれば何もいらない。ウォーキングしたせいか少しというかかなり気分が良くなった。夕方だからか。生きる喜び&食欲が少し湧いてきた。
悪いことをしないというだけじゃだめで良いことをしないといけない。仕事で業績を上げるとか、家庭を作って妻子を養うとか。どうしてそういう発想がないのか。愛と優しさと感謝だ。強さとは優しさだ。
例えば対hにしても私は悪いことをしていないといえるだろうか。善悪の区別すらついていないんじゃないか。
愛と感謝と優しさが自分にも戻ってきたので自分にきついことを言えるようになった。
ずいぶんおかしいなと思う。自分は。長い間に全くおかしくなった。おかしいということにやっと気付いた。あいつらもおかしいけど私もおかしいのだ。上から見るとどっちもどっちだ。
愛と感謝と優しさ。戻らなくなってきた。調子がいつまでも戻らなくなってきた。aは精神的には健康らしい。あの三人は全員おかしい。でも本人は平気なのだ。信じられない。愛と感謝と優しさ。これが大事だ。
喧嘩を買わないというのは究極ではないか。喧嘩を売らないのはもちろん、仮に喧嘩を売られても受けない。買わない。そうすれば絶対に喧嘩にはならない。ババア相手に喧嘩することはないだろう。



2006年09月17日(日) だんじり

きょうはだんじりらしい。余り興味が湧かない。元気がない。大きな気付きがあったのに元気がない。仕方のないことだ。これからが大変なのだ。悪いことばかりやっていた人間がよいことをする。悪いことは興味がない。愛こそ全て。愛は素晴らしい。愛に真剣に生きたい。愛に真面目。
少し落ち着いた。愛は落ち着きを与える。
愛という大海に浮かんでいるので小さいことにくよくよしない。パニックになっていた。医者に泣き付いたり、カウンセラーに甘えたり、大変だった。でも今は愛に目覚めたので大丈夫だ。愛と感謝と優しさ。
愛は落ち着く。フッキー加藤症候群で半年くらいパニックになっていた。変なのと付き合うからだ。何が起こるかわからない。慎重に用心深く行こう。愛はこんな状態でも救われる。愛は素晴らしい。ptsdだ。b校に行ったのも良くはなかったかもしれない。私は愛から遠ざかってきたのでそれが恐いのじゃないか。女を傷つけるかもしれない。母親はそんな私でも唯一受け入れてくれる。愛だ。愛と優しさと感謝だ。
愛だ。愛だ。愛こそ全てだ。小説家といっても芸人に違いない。その恐ろしさに耐えられないらしい。実際、若い頃それが恐かった。
落ち着くと眠れるかもしれない。愛は素晴らしい。少し穏やかになってきた。愛の素晴らしい効果。
愛は素晴らしい。愛と感謝と優しさ。どこからおかしくなったかはわからない。遺伝かも知れない。物心ついたときはおかしかった。愛は義務を伴うし、悪いことはできない。愛がなければいくらでも悪いことができる。私は愛を失いたくない。失っていないと思う。親や兄弟を大事に思う。自由とは愛のない状態ではない。愛ある自由だ。
優しいことが大事だ。女を愛せれば良い。女のほうが私を警戒して近づかない。近づくのは野性化したおばさんくらいだ。母親もおかしい。世の中には色んな人間がいる。幸せだ。嬉しい、楽しい。ツイテル。感謝しています。許します。愛を失うと幸せにはなれない。悪いこともしてしまう。善悪の区別もつかない。私は母親を愛しているだろうか。非対称な関係になっている。お金をせびったりしている。どうしてそんなことができるのだろう。愛を失ったからだ。これからは愛を取り戻そう。必ずできる。今までで一番大きな回心だ。
愛は大事だ。男はそんなこともわからなくなる。女だっているだろう。そういう女しか相手にしてくれない。
私は独特な人生を送ったために独特の人生観を持っている。犯罪だって犯しかねない。罪もいっぱい犯した。法には触れないが人間に対する罪。自分への罪。兄や姉の方がやっぱりしっかりしている。私は家庭が営めない。愛がない。愛から目を背けて生きてきた。愛は大事だ。自分がかわいそうだ。
私はこの年になっても無垢なところがある。それはいいことかもしれないが、免疫がないので悪いものでも取り入れてしまう。悪影響でも受けてしまう。愛が私を守るだろう。変な人間に近づくと思わぬ危害を加えられる。大きな教訓だ。おかしいと思ったら近づかない。私は悪いところはない。でも脳が勝手に興奮して悪いことをしてしまう。薬もいいだろう。でも愛だろう。本当に必要なのは愛だろう。芸能人も愛されることで生きていられる。生かされているのだ。本当に混乱してしまった。こんな状態でも仕方がない。というか最初の頃の状態にはなかなか戻らない。あれが良い状態かどうかもわからない。今が一番良い。これでいいのだ。愛を信じるようになった。
少し落ち着いた。凡庸であることと引き換えに落ち着くのなら良い。何で変わったことばかりしないといけないのか。いちびりか。受けたいのか。愛によって落ち着いてきた。愛に怯えることはない。愛を信じる。薬よりも愛のほうが有効だ。
何もできないのは辛いな。でも今は自分を責めたりはしない。こんなひどい状態なら誰だって何もできない。18くらいから何もできなくなった。発病したのだ。今は休養しかない。抗うつ剤はこりごりだ。
でも落ち着いてきた。愛に目覚めた。愛のない性とか当たり前だったが、それでは動物以下だ。人間道に戻ろう。愛に戻ろう。浄土真宗は愛の宗教だ。
z氏が会ってくれないのは私が傷つけてしまったからだ。あのキチガイ親父に傷つけられたことの腹いせをあの人にやっているのだから逃げられるだろう。あの二人の爺も誰かに傷つけられたのだ。それを私が癒してくれると思ったのだ。でも無理だ。そんな義務はないし。男女じゃないから愛欲もないし。絶対近づかないほうが良い。そういうのは愛とは違う。病気だ。大変な被害を受けた。もうこれでいいじゃないか。近づくべきでない人に近づいたので手ひどい目に遭った。それで終わりだ。教訓としよう。過去のことは忘れよう。教訓とすることで変えられると一人さんも言っている。メサイア症候群みたいに人を誰でも救えると信じるのは間違いだ。自分を大事にすればそうは思わない。愛はもっと違うものだ。愛は自分を大事にするものだ。
優しさが大事なのでこの日記でも人を傷つけることは書かないようにしよう。どんな理由があっても人を傷つけるのは間違いだ。スポコンものなんておかしいと誰でもわかっている。日本はもっと開かれている。日本式smなんて誰も興味ない。愛に戻ろう。人をいじめるのは愛ではない。小学校から変な奴ばかり私の前に現れてえらいことになった。今は人から馬鹿にされる。自分をいじめるのは止めよう。かわいそうな人間なのだ。意に反して悪いことをしてしまう。病気だ。u教授みたいなものか。愛があれば必ず回心できる。更生できる。愛と優しさと感謝。これがあれば大丈夫だ。
愛に賭けよう。愛を信じていけば必ず正道に戻れる。元々悪い人間じゃない。どこかで道を間違った。愛から必死で逃げてきた。愛を信じよう。愛は裏切らない。全ての基本だ。全世界を包む大きな空気のようなものだ。
私は悪くはなれない。優しい人間だ。優しくていいのだ。感謝でいいのだ。愛でいいのだ。
私は今何とか正気だ。だが元気はない。ただ落ち着いてきた。医者に怒りをぶつけることもない。誰に腹を立てることもない。落ち着いて寝ていられる。愛の力だ。愛が大事だと気付いてからは落ち着いた。人は皆愛なしには生きられないと気付いた。愛なしに生きられない。愛の対象は何でもいいじゃないか。国でも会社でもいいじゃないか。母親でも姪でもいいし。人類でも良い。ただ、そんな心の広い人間はいない。愛は素晴らしい。人に残酷になることが良いことではない。絶対に違う。優しくすること、愛すること、尊重することだ。感謝することだ。当たり前のことがわからなくなっていた。どうしてかわからない。いくら力に頼ろうとも力では勝てない。愛だ。愛は強い。弱いようで強い。か弱い女が強くなれるのは愛のお蔭だ。愛は強い。偉大な権力者も愛情深い人が多い。愛は無尽蔵だ。惜しむことはない。愛こそ全てだ。安心するが良い。
愛は強い。正義と同じくらい強い。愛は正義そのものだ。愛の裏づけのない正義は嘘だ。私は愛に目覚めた。頑張る。真面目に慎重にやる。真剣にやる。怠け心はいけない。ただいまは本当に弱っているから仕方がない。消耗は避けてゆっくりした方がよい。愛こそ全て。
感情は大事だ。感情を低く見ることはおかしい。中国や韓国が怒っているのは感情を傷つけているからだ。感情が一番大事だ。愛が一番大事だ。愛と優しさだ。感謝だ。
やっぱり根本的におかしいので反省したほうが良い。愛と感謝と優しさに立ち返ることを肝に銘じることだ。前のトラブルでも私がやっぱりおかしかった。自分がコントロールできないのはおかしいし、人に迷惑かけて平気なのはおかしい。会社に適応できないのはおかしいし、休んでしまうのもおかしいし、遊びまわるのもおかしい。人に迷惑かける体質がおかしい。でも今は言うまい。もっと元気になって愛と感謝と優しさが理解できるようになってからもう一度考えよう。
人と自分の疎通性がおかしい。人に迷惑かけて人が苦しんでも平気なのがおかしい。むしろ喜んでいるのがおかしい。自分が苦しんでも平気なのがむしろ喜んでいるのがおかしい。これでは人が付き合ってはくれない。愛と感謝と優しさだ。愛を思い出すのだ。愛を良く理解していた。それが小学校からおかしくなった。人に危害を加えるようになった。怪物になった。愛を思い出して人間に戻れ。私は相当おかしい。この間の訪問のときもおかしかった。嫌な顔をされても仕方がない。いっぱい迷惑をかけた。これからは愛を思い出して頑張る。
少し落ち着いてきた。人に迷惑はかけない。
これまで両親や家族に迷惑かけたことを本当に申し訳なく思う。愛を見失っていた。会社にも迷惑をかけた。必死で頑張ろう。復帰に向けて。
酒を飲んでグリシンを飲んだために目がおかしくなってからパニックになっている。今はもうほとんどいいのだから、気にしない。
悪いことはもううんざりだ。もう大丈夫だ。悪いことはほんとにもううんざりだ。悪いことをして何か得をしたことがあったか。愛と優しさ、感謝でいいのだ。優しい、温かい、これが人間として当たり前だ。間違った道を戻るには愛しかない。キリスト教も浄土真宗も愛だ。優しさだ。感謝だ。
仕事を一所懸命やろう。当たり前だ。薬がきつい。酒がいけない。グリシンを飲んだからだ。厄介な奴。でも苦しいのだから仕方がない。自分を責めるのは止めよう。ほんとに仕方がない。かわいそうに思う。自分を哀れに思う。私は悪くない。
のんびりしよう。自分をいじめるのは止めよう。悪い点を謙虚に反省するのは良い。いつまでも自分の悪い点がわからないのはおかしい。私はすっかりわかった。
悪いところは反省して改めよう。いじめるのとは違う。愛があるからだ。愛こそ全てだ。愛があれば反省もできる。素晴らしい。悪いことをしないというなら仕事を一所懸命やろう。それが一番悪いことだ。女を嫌うことも良くない。善悪の区別が付いていないのだ。悪いことはもううんざりだ。
外界との疎通性がおかしい。人と自分が大きく違う。でも誰でもそうだろう。愛と優しさと感謝がそれを補う。
愛があれば何でもできる。愛と感謝と優しさ。愛は全てだ。愛こそ全て。若い頃統合失調症だったことがある。長いこと神経症レベルで収まってきた。今抗うつ剤の副作用でそれが再発している。でも愛はすべてを癒す。
愛は正義だ。愛は全てだ。愛と優しさと感謝だ。それがあるから生きられる。兄や姉と私の違いはそれだ。
愛と優しさと感謝だ。小さい頃のフローチャートの大きな影響を受けている。白痴みたいなやつと付き合ったばかりに大切なことがわからなくなった。悪いことばかりするようになった。今から理性の力で直せると思う。愛と優しさと感謝だ。



2006年09月16日(土)

昨日酒を飲んだら頭が痛い。目がおかしい。もうこれから1週間は飲まない。何で飲まずにいられないのかわからない。昨日のことは覚えていない。嫌なことがあったから飲むのか自分を痛めつけたいのか。自分は良い人だ。愛と感謝と優しさがいっぱいだ。でも欲は必要なのか。愛は欲なのか。妻がほしい、子供がほしいとは欲なのか。欲がないのがいけないのか。自分は愛と優しさで十分と思うが。悪いことはしたくないので臆病なのか。人が私に悪いことをしても逃げるだけ戦いたくない。
頭が痛い。できたらもうしばらく酒は飲みたくない。人に迷惑をかけるのもいやだ。人に憎まれるのも嫌だ。少し休もう。何もできなくても良い。できるようになってからやれば良い。今が底でこれから良くなる。
昨日はやっぱり飲みすぎた。反省。悪いことをいっぱいしている。私は悪いことをすることがある。でも反省しよう。良い人になろう。
人を尊重しよう。悪いことはするまい。変な本を読んでおかしくなった。影響されまい。正しい考えに従おう。人を尊重することが大事だ。変な本を読んで人を馬鹿にするようになった。それではいけない。心から反省する。人を尊重しよう。愛と優しさ。感謝。変な本を読んだために女を愛せなくなった。仏陀だって女は救われないとか良くないとか言っている。でも馬鹿にしてはいけない。尊重した方がよい。やっぱり偉いのだ。両親を尊敬する。父を母を尊敬し、愛し、感謝する。
昨日は飲みすぎた。これは確かだ。だから調子が悪い。でもいずれ回復する。女を愛せない。でもそれは問題じゃない。尊重すれば良い。女は母は偉いと思う。馬鹿にする理由はない。性的に興味がないという意味か。それならそれでいいじゃないか。全くないわけじゃない。今思うと姉はずいぶん私をいじめたと思う。あの姉は少しおかしい。よくわからない。今でも私にモラハラ的に接する。訳がわからない。私が女っぽいからか。女とうまく行かないのは私が女っぽいからだろう。それも仕方がないだろう。運命と諦めよう。全くうまく行かないわけじゃない。興味を持つ女もいる。私も好きな女もいる。好みが狭いだけだ。余り考えすぎまい。愛と優しさと感謝。人を尊重すること。この当たり前の気持ちを大事にしよう。余計なことは考えない方がよい。
いじめたいならいじめれば良い。男のくせに男らしくないとか。私は気にしない。好きにもならないだろう。私のよさをわかってくれるものだけを相手にしよう。私をいじめるものは相手にしない。それでいい。
まず自分に優しくしよう。そして人に優しくしよう。あのおばさんとうまくいかに一番の理由は私が女を好きではないことだ。とくにおばさんに激しい嫌悪を覚えることだ。どうしてかわからない。母親や姉のことがあるのだろう。でもそれを責められても困る。脅されようといじめられようと好きになることはできない。何となく好きでない。嫌悪感を覚える。それを理由に攻撃されても困る。好きではないからといって攻撃されても困る。それだけだ。私が言いたいことは。でもうまくやっていかないといけない。離れていたい。母や姉に最近接触している気がする。姉は一番嫌いだったのに頼りにせざるを得ない。他に頼るものがいない。母も姉も好きではない。でも母は私を父の代わりと思っているのか親切にする。でもそうされるとつらい。自分でもわからなくなる。それはこれ以上追求すると辛い。自分にやさしくしよう。私は女ではないから女同士つるむみたいに仲良くする必要はない。女として興味があるわけではないから男女として仲良くする必要はない。後は仕事の仲間くらいだ。それくらいはできると思っていたが、なかなかできない。これは反省点だ。仕事仲間として尊重することはすべきだろう。それができないのはルール違反だ。それくらいはできる。嫌悪感というのはない。
私は元々そんなに悪い人間ではない。でも変な人間と付き合ってしまい、おかしくなった。姉や兄は私ほどおかしくない。だから結婚して子供を育てた。私にはそれができなくなってしまった。人間の一番強い愛という感情が衰えてしまった。仏陀は愛とか執着を離れよという。性愛は最もいけないものだという。混乱してしまう。私は貪欲でありすぎて嫌になったのだ。
愛のない男は女にとっても扱いづらい。いないほうが良い。女に欲情しない男は用がない。欲のない人間は扱いづらい。こんな変な人間になってしまったが、何とか生きて行きたい。すごくクリアーになった。酒の効用か。情欲など欲がなくなったことが大きな問題のようだ。周りについていけない。邪魔者扱いされる。愛と感謝と優しさは必要だ。日本の仏教には優しさがある。浄土真宗は愛と優しさの宗教だ。苦行と選良主義ではない。それを好む人もいるだろう。欲の強い人は当然そうなるだろう。
私は優しさを求めているらしい。愛を求めているらしい。それは誰でもそうだろう。女はこんな苦しい思いをしているのだ。愛を求めて得られなかったら苦しい思いをするだろう。そういうことはしないほうがいいんじゃないか。本当に女が恐いだろうか。嫌いだろうか。自分の心にそむいているだけじゃないのか。好きになるのが嫌さに必死になって嫌いになろうとして自分を押さえ込んでいるんじゃないか。だとしたら愚かなことだ。愚かだし、間違っているし、罪だ。自分がかわいそうだ。余りにもかわいそうだ。幼女は疑うことを知らないからこんな私でも好きになってくれるかもしれないと幼女を好きになる。私は愛の怪物だ。愛を求めて得られなくて押さえ込んでついに化け物になってしまった。自分で好き好んで怪物になってしまった。三島由紀夫のようだ。愛することは本当は簡単なことだ。赤ん坊でもできることなのに、無理やり押さえ込むのはいけない。自分がかわいそうだ。私はなぜ町をうろつくのか。愛を求めているんじゃないか。少女たちは愛を求める。当然のことだ。私はかわいらしいと思う。自由でありたいと思い、愛を拒み、余計不自由になってしまう。愛の怪物。愛と感謝と優しさだけが私を人間に戻すだろう。化け物から魔法を解いて愛の人間に戻ろう。愛という魔法だけが私を人間に戻してくれるだろう。女を愛することは不可能ではない。そう思い込んでいるだけだ。愛を求める試みはいつも間違っていない。正当なことだ。女たちが愛を求めることは正当なことで邪魔することは許されない。
b校でも私は愛の不可能性を演じてしまった。化け物に成り下がってしまった。愛を取り戻すのだ。これは大きな問題だ。大きな仕事だ。大きな賭けだ。でもやりがいのあることだ。誰でもできることだ。自由の名の下に不自由な牢獄に閉じ込めてはいけない。愛という魔法でこの牢獄から脱出するのだ。人間を愛するのだ。概念を愛してはいけない。三島のように概念に殉じてはいけない。生身の生きた人間を愛するのだ。私はきっとできる。愛することは簡単だ。誰でもできる。それができている普通の人々を私は尊敬する。
今日はぼけていると思ったら最高にさえている。酒のせいか。愛が可能であると信じることだ。信じることは強い。生身でないものを愛することは危険なことだ。オタクとか幼女愛とかsmとか生きることにつながらない。自由であることはそういうことではない。生身の人間を愛することだ。愛するとは優しくすることだ。簡単なことだ。概念を愛してしまうとそんな簡単なこともできない人間になる。立ち直ろう。本当にそう思った。きっと立ち直れると思った。愛の力を信じよう。
医者に行ったらカウンセリングを勧められた。私が薬ではなく、愛を求めていると気付いたのだ。堺のカウンセラーに行ったらそれが少し得られた。それが得られた気がすることは大変なことだ。価値がある。あの大阪のカウンセラーは理屈っぽくて愛を拒絶している。理屈を愛してはいけない。自分を愛せ。愛の奇跡が私を立ち直らせてくれると信じている。愛を求めれば得られる。それを試みることを恐れてはいけない。あの坊さんでも何度でも女に愛を求めることで救われた。愛は大事だ。愛は奇跡だ。愛を拒むものは生きていけない。愛の掟だ。愛は素晴らしい。愛と感謝と優しさだ。怒りとか恐怖とかで人を動かそうとするのは間違いだ。こうして理屈っぽく論じていること自体が理屈を愛している。理屈に逃げ込んでいる。愛を信じろ。
愛を求めていながら拒む振りをする。恐ろしい間違いだ。昨日記憶の一部が飛んでいる。危険だ。ほどほどにしよう。破滅につながる。愛を求めよう。欲は間違いではない。人が愛を求めることは間違いではない。森田の人は欲が深い。欲が深くて失敗する。私のように欲を否定し、愛を否定する振りをするのは大変な間違いだ。答が見えてきた。私が森田の人と全く噛み合わないのはそれが理由だ。愛と欲望を肯定することで苦しみが生じるのにそれを否定してしまっては話にならない。そんな人生は生きる意味がない。愛を信じよう。簡単なことだ。自分を愛し、信じることだ。愛を自分に許すのだ。私は愛は必要でないなどと考えてはいけない。誰でも愛は必要だ。愛は無限で惜しむことはない。
でも愛に目覚めてよかった。きっと立ち直れる。愛は奪うだけではなく与えるものでもある。子供は親から愛を奪っていると同時に無限の愛を与えている。愛の奇跡。私がいまだに母親や兄弟にすがったりするのは他人ときちんと愛を築けないからに他ならない。これができるようになりたい。愛に絶望してはいけない。
斉藤さんや稲盛さんに人がついていくのは愛があるからだ。日本的共同体としての愛があるからだ。一人さんは厳しいかもしれないが愛があるからついていける。愛を貪ってはいけない。一方的に。愛は与えるものだ。相互的なものだ。会社が私に与えてくれるものははかり知れない。それに背くことはできない。当たり前のことだ。でもいい事に気付いてよかった。これなしには生きてはいけない。愛は与え合うものだ。一方的に貪ることは許されない。愛のいろはをこれから学ばないといけない。女は愛のプロだ。永遠に勝てないだろう。勝つ必要はない。愛とは負けることでもある。家庭で女が主のようになることは自然なことだ。愛の達人だからだ。男にはまねできない。男には男の愛の仕事がある。女を愛することだ。女を愛することは素晴らしいことだ。長い間に私は女を愛する勇気を失ってしまった。愛から逃げてはいけない。愛の逃亡奴隷。カルチャーセンターに逃げ込んでもそこにはまた愛がある。愛から逃げることはできない。愛の不毛。愛の不能。変なサークルに入るとそこから抜けられなくなる。
いい事に気付いた。愛は素晴らしい。愛を得るのだ。愛を求める勇気を取り戻すのだ。z氏は私にそのことを教えてくれた。貴重な人間だ。愛の飛ぼう奴隷に成り下がっていた私に愛の大切さを教えてくれた。カウンセリングは愛である。そうでなかったら価値はないじゃないか。なんかのレッスンや説教ではない。愛を乞う人。生まれもって人は全てそうだ。一人の例外もなく。宅間でさえそうだ。というよりあいつが一番強く激しく愛を乞うていたのだ。やり方が完全に異常なだけで、愛を求める気持ちは抑えることはできないのだ。
本質的なことに気付いたのできっと私は立ち直れる。そう強く信じることだ。生きてて良かった。そう思える。全てのことがこのことを指し示していたのに必死で目をそらそうとし続けた私。そんな卑怯なことではいけない。私は欠陥人間なんかじゃない。人を愛せる。人に優しくできる。人を思いやることができる。人を好きになることができる。愛情は備わっている。全ての人間に。林被告でも歪んだ形ではあるが愛は残っている。遺族を嘲る残忍な性格の裏に人を愛する能力が残っている。私も親や兄弟を信じ、愛する気持ちだけは残っている。それを一般の職場とか家庭とかで実現したらいいのだ。これは愛のレッスンだ。怯えてはいけない。どうして愛に臆病なのだ。
一所懸命仕事をすることが愛である。人に優しくすることだ。働くことは。仕事は愛である。これが一番当たり前の人間の道だ。人間は欲があるのが当たり前だ。愛だ。それが愛だ。愛を否定して生きても価値はない。欲の強い人間を恐れるのはそこに愛があるからだ。z氏が愛を求めるのは幼児体験とか色々あるだろう。愛は相互的なものだ。お互いに与え合うものだ。
私は本当に大切なことがわかっていなかった。判らない振りをしていた。でも本当はわかっている。宅間だって林だって本当はわかっている。わかっていなければあんな恐ろしいことができるはずがない。あんなにひどく傷つけることはできない。愛するものを奪われる苦しみがわかっているからあんなことをやったのだ。愛がいかに大切かわかる。そして愛の強さもわかる。私にはわからなくなっていた。愛から逃亡していた。うつ状態になったからか。z氏も何度も私に警告していた。他の職場ならとっくにクビだと。わかっていながら何もできなかった。愛から逃げていたからだ。これからは逃げない。きっと逃げない。愛を実現してみせる。愛という人間の本道に立ち返るのだ。本心を取り戻すのだ。愛ある人生を生きるのだ。薬なんか必要ない。
私は遺伝的におかしいわけではない。ふとしたきっかけで本道を見失っただけでまだ十分立ち直れる。若いとはいえないが、気付いたときがスタートだ。決して遅すぎることはない。臨終のその日でも回心すれば救われる。キリスト教も浄土真宗も同じことを言っている。人間誰でも道を踏み迷うことはある。散々迷ってきた。今が愛に立ち返るときだ。本道に本心に立ち返るときだ。人を愛したいだろう。人から愛されたいだろう。それは人間として当たり前の強い欲求だ。その欲求をあるがままに認めることが森田の教えだ。私は全く理解できなかったが、今は理解できる。
愛を知らないのはだめだ。知らない振りをするのはもっといけない。愛は求めてくる。それに恐れをなしてはいけない。愛の戦士、女を見よ。いくらでも求め、いくらでも与える。愛の無限の器だ。神が創ったものの中で最も美しい。価値のあるものだ。これを蔑むなんてとんでもない。愛は社会全体、命全体を支えている。最も強力なインフラだといってよい。愛こそ宗教であり、母胎であり、そこから生まれ、そこに帰っていく、名もなき偉大な何かだ。タオだ。私は愛のタオイストに生まれ変わったのだ。私は長い間、人生を踏み迷った。父との辛い別れ、人として許されない行いもしてきた。今こそ、ざんげして愛の教える正しい道に立ち返るのだ。慎重に用心深く愛の教えを乞うのだ。ダンテも道を踏み迷ったが、ベアトリーチェという愛の導き手に導かれて正道に立ち返ったのだ。愛を見失えば全てを失う。お金持ちなのに幸せでない人は愛を失っているのだろう。愛こそ真実だ。どこかよそに真実を求めてもえられない。愛の道に立ち返れば全てが見えてくる。今直面している問題も解決できるだろう。自分が愛を離れることを許してくれるものはない。愛に立ち返ること以外、生きる道はないだろう。愛とは厳しい面もある。子供は親の愛を離れて生きていくことはできない。だから親の愛を無限に受け入れ、与える。ところでこんなことは女であれば母であれば誰でも知っていることだ。女は愛の達人なのだ。到底私の及ぶところではないのだ。
愛は素晴らしい。加島氏のタオのお蔭だ。愛にたどり着いた。今は弱っているが、愛の力できっとよみがえるだろう。全ての生きとし生けるものは愛に支えられて生きている。教育パパの特集をやっていたがおかしいと思う。病んでいるとしか思えない。家庭は愛の領分で男の競争原理の出る幕ではない。昨日の不登校の子供を生み出す一因になっている。男には愛が理解できない。できないのだから口を出さないが良い。家庭では女が強くていいんじゃないのか。私は家庭で強くなろうとしすぎた。全てをコントロールしようとして、結局何もコントロールできなくなった。だが今こうして愛に立ち返ろうとしている。愛以外私を回心させるものはないとわかった。愛に帰ろう。
私は相当本道から離れてしまっているが希望がないわけではない。いくらでも改善点があることから言えばむしろ楽しみだといってよい。進歩する余地が大きいからだ。これ以上ないというくらい立派な人は実は大変だ。それを維持するだけで大変なのだ。
愛は義務を伴う。配偶者や子供を得れば養わないといけない。子供は親の期待にこたえて真面目に頑張らないといけない。愛の定めに背くものは私のように報いを受ける。でも遅すぎることはない。私もこれからは愛の定めに従う。愛は義務を伴う。
大きな気付きを得ることはそれはそれでしんどい。今までのパラダイムの転換を迫られる。でもこれは良い疲れだ。昨日まで疲れ果てていたので逆に本心に立ち返ることができた。森田のところに行ってもこんな状態ではだめだ。人としてだめだ。森田は宗教であって理屈ではない。愛を手がかりにというか愛によって本心に立ち返り、働けるようになるだろう。いきなり、180度違う方向とか違う自分とか無理をしないことだ。
ついに私もここまで追い込まれたが、追い込まれないとわからないのだ。愛の偉大な力に気付かなかったのだ。人が何をやっているかすらわからなかった。兄の家庭に行っても何かピンと来なかった。今は行かない方がよい。もっと回復してからの方がよい。愛の力により、本心に立ち返り、必死で働くのだ。きっとできる。愛の力を信じ、精一杯生きるのだ。愛を否定して生きることはできない。真面目に愛に生きよう。愛は裏切らない。家庭がないのは寂しいことだ。家庭を作りたい。散々見合いをしたが、しっくり来なかった。愛を知らないのだから当然だ。これから愛を学ぼう。愛の掟に従って生きよう。
兄や姉は私が理解できないことが理解で来ている。世間一般の人が理解できることが理解で来ている。私は実感としてわかっていない。愛を否定しては決して理解できない。愛の定めは厳しい。私は愛を乞う人だ。全ての人がそうだ。
加島さんに感謝しないといけない。やっぱり本は良い。人間はもっと良い。本の中には人間がいるからいいのだ。人間はやっぱりすごい。愛の力はすごい。
愛は確かに恐ろしい面はある。それは愛を裏切るから恐ろしいものに変わる。安珍と清姫の物語だ。女は悪くない。愛は悪くない。裏切る男が悪いのだ。阿部定とか恐いが、愛は強力なのだ。底知れないパワーがある。それを恐れてはいけない。愛は真実だ。愛は力だ。人を愛することは良いし、愛されることも良い。女は全てを熟知している。私はとうに忘れ果ててしまっている。これから愛の勉強だ。というより知っている。不完全で不十分かもしれないが、子供なら子供なりに大人なら大人なりに誰でも愛を知っている。ところがそれから逃げるから間違ったことをしてしまうのだ。愛は素晴らしい。愛こそ真実だ。誰でも知っていることだ。この大きな気付きが訪れたのはこんなにも疲れ果てていたからだろう。追い込まれていたからだろう。
今は疲れ果ててしかも気付きが大きすぎるから直ちには実行できないだろう。しかし徐々に体調を戻して愛の実践をして行こう。これ以外生きる道はない。愛こそ全てだ。普通の人はこんなことはわかっている。私は綱渡りのようにそれから逃げられると思っていたが、絶対逃げられないだろう。愛は全てだ。愛の定めは絶対だ。私は十分わかっているはずだ。愛を信じ、実行するのだ。



2006年09月15日(金) 曇り

朝晩肌寒い。昨日はカウンセラーに行って来た。良かったかもしれない。知ってるおじさんに話を聞いてもらっただけだ。内容は雑談だ。それがいいのだ。問題解決とか言われてもわからない。今はこれでいいのだ。
愛と優しさ。それに頼るしかない。強さに憧れても仕方がない。愛こそ強さだ。昨日よりは少し良い。眼は余り良くないが。すぐ良くなるだろう。
難しいことを考える気がしない。厳しいことなどできない。今はそれで良い。okだ。楽しくなくても良い。元気でなくても良い。あるがままの私がいいのだ。
アイムオーケーユアオーケー。今はこれでいいのだ。昔の日記を読んでいると興奮して怒り狂っている。今は穏やかになって来ている。これは良いことだ。
今日は昨日よりはるかに調子が良い。今は一番良く休んでいる。良いことだ。無理に元気出さなくてよい。何もせずにゆっくりしていれば良い。今のあるがままの私が良いのだ。
昨日は話を聞いてもらってよかった。
目がおかしくなっていたのでパニックになっていた。今は大丈夫だ。何もしないのが一番良い。疲れているし、多くを望まない。昨日に比べてこれだけ良くなれば万万歳だ。何もできなくても良い。元気がなくても良い。目が見えなくても良い。外に出られなくてもいい。
余り元気ないがこれでいいのだ。ありのままの自分がいいのだ。
スーパーで超気持ちの悪いババアに当たった。全く訳のわからん嫌がらせをされた。何をしたというのか。全くわからん。
久々に外出した。なんばを歩いた。少しは気がまぎれた。でも頭が混乱してくる。
女というのは全くわからん。なぜ攻撃してくるのか。何を見て攻撃してくるのかわからん。
私は何もしていないのだから気にする必要はない。
この間酒を飲んでグリシンを飲んでから少しおかしい。目はかすむし、記憶が飛んでいる。電話番号が出てこなかったのには驚いた。本が読めなくなって、飛ばし読みしてしまう。いらいらしやすい。気にしないことだ。のんびりすること。難波の通りを歩いていてそう思った。ゆっくりすることだ。誰も憎んでなどいない。穏やかな気持ちだ。愛と感謝、優しさだと思っている。
私は何も悪くない。別に嫌いなものは誰もいない。愛と優しさだと思っている。
母親との長い戦い。多くの犠牲を払った。でも今はもう何もない。愛こそ全て感謝と愛。優しさだ。今は疲れ果ててしかも気付きが大きすぎるから直ちには実行できないだろう。しかし徐々に体調を戻して愛の実践をして行こう。これ以外生きる道はない。愛こそ全てだ。普通の人はこんなことはわかっている。私は綱渡りのようにそれから逃げられると思っていたが、絶対逃げられないだろう。愛は全てだ。愛の定めは絶対だ。私は十分わかっているはずだ。愛を信じ、実行するのだ。
なんばに行ってきた。いまだかつてないほど落ち着いていた。いい天気で心安らかに町歩きを楽しむことができた。大阪はいい町だ。好きになった。いまだかつてないことだ。この気分は単なる高揚感とは違って実質的な意味が感じられてとても大きな変化であり、前進である。人間は愛なしには生きられない。真面目になろうと思った。姑息な手段では生きられない。最も根本的な変化が一番の近道だ。私は愛に真剣に生きる。これは子供でもできる簡単なことだ。愛こそ全てという信念は正しいばかりでなく、知識とも経験ともいえるから失われることはないだろう。これを認めないことが今までの私の人生を大きく狂わせていた。いつからか恩知らず、愛を知らない奴になった。これからは違う。愛こそ全てだ。色々世話になった人々への恩返しの気持ちで生きよう。会社には一番世話になっている。これを何とか返せるようになりたい。愛を信じて生きていけばきっとその日は来る。焦らず今の気持ちを忘れず歩いていこう。まず体力を回復しよう。今日は今までで一番書いたかもしれない。単なる興奮とか劇場とか高揚感ではない。実質的な何かを得たという手ごたえを初めて得た。愛を得て、愛に救われたのだ。これまでにない安らかな気持ちだ。今までの悟り体験と違って一番根本的な感覚であり、事実と同じくらいはっきりした出来事だから今度こそ間違いない。失うものがなくなってやっとこのこと、愛の大切さに気付いたのだ。
愛の大切さにやっと気付いた。人が恐くなかった。人が好きになった。町を歩いていても人が嫌いじゃなかった。こんな経験は初めてのことだ。
落ち着かないことは落ち着かない。でももう真面目になれそうだ。今までは真面目になれなかった。これからは真面目に働けそうだ。掃除のおばちゃんが本当に心の底から立派に見えた。電車で子供を遊ばせている母親が立派に見えた。妬みの感情が消えた。理性で自分をコントロールできそうだ。一所懸命働けそうだ。ふざけた考えが一掃できそうだ。尊大にならず、卑屈にもならず、堂々と人生を歩んでいけそうだ。人に悪い感情を持つことはない。
きれいごとじゃなく泥臭い真実、確かな力になる生きる力になる真実を得た。魂力が一つ向上した。これからの努力が肝心だ。楽しようとか全く思わない。苦しいけれど真っ当な道を歩いていこう。落ち着かない人生だった。小さい頃からそうだった。やんちゃだった。z氏も色々助けになってくれた。感謝している。これからは恩返しをしないといけない。愛は相互的という大原則だ。愛の掟に従っていれば間違いない。私もかなりの程度それにしたがって生きていたのにいつの間にか根気を失った。道はそれる一方だった。高卒時にはかなりおかしかった。おかしいものを肯定してはいけない。おかしいものはおかしいといわなくちゃいけない。
尊大な気持ちは消えた。さりとて卑屈でもない。堂々としている。私も漸く人並みに愛を知ったのだ。漸くスタートできる。これまで社会に貢献できたことがあったろうか。正直なかった。人に優しくできないのに社会貢献なんかできない。愛があれば生きていける。私は確信した。これからどんなことがあっても頑張って生きていける。愛の掟に従って堂々と生きていこう。hにも散々世話になった。これから返していかないといけない。愛に真剣に生きるのだ。真面目になれそうだ。愛に正直に真剣に生きるのだ。
愛がこれほど重要とは思ったことはなかった。男は愛はいらないと思っていた。とんでもない勘違いだ。
大阪でもどこでも人間は愛が必要だ。今日は町を歩いていて違和感を感じなかった。恐くもなかった。嫌いでもなかった。愛こそが全て。愛一筋に生きよう。私にはそれしかないし、誰も皆そうだ。皆愛によって生かされている。大きな命だ。抗うつ剤は不必要に脳を興奮させる。安易に薬に頼ってはいけない。頼るべきは愛だ。愛は力だ。きっと私の力を引き出してくれる。愛は人を傷つけず、豊かにする。抗うつ剤で興奮して躁状態になっても良いことはない。
愛を知れば落ち着くこともできる。これからはしばらく愛と薬で乗り切ろう。愛の大切さを知った今は落ち着くことができる。
やっぱり人としておかしい。間違っているのは私のほうだ。どうしてでかい面ができるだろう。やっぱり愛が必要だ。愛を信じて頑張っていこう。
やっぱり間違ったことをいくら主張してもだめだ。愛を信じて真面目に正しく生きていこう。
愛と優しさと感謝じゃないとだめだ。きっと自信を取り戻せる。きっと立ち直れる。悪いことをいっぱいしてしまった。でも愛を知った今は人を尊重し、真面目に立ち直れる。ここまで来れば大丈夫だ。焦るのが悪いくせだ。落ち着いてゆっくり行けばきっとうまく行く。悪いことはもうしない。悪いことなんかしても何にもいいことはない。尊大になるな、卑屈にもなるな。きっと立ち直れる。自分をいじめるな。
愛という大海に漕ぎ出してゆくのだ。世の中の多くの善良な人々と同じように。最初は疲れるだろう。愛を知らずに生きてきたのだから重い人生の意味が押し寄せて疲れるだろう。でもこれが生きることなのだ。大事なことなのだ。



2006年09月14日(木)

目が覚めた。いつものことだ。でも頭が少し痛いので不快だ。しばらく酒は飲まないほうがいい。神様に助けを求めたくなる。神を信じている。こうして頑張っている私をきっと見ていてくれる。仏も信じている。ありとあらゆる超越的存在に救いを求めたい。親兄弟や世間の普通の人々を尊敬する。ちゃんと働いて子供を育てるのは大変なことだ。本当に尊敬する。
目が覚めた。調子悪い。長くは眠れなかった。神はいる。辛いとき、困ったとき、一所懸命のとき、神の偉大な愛と力を感じる。昨日の夜はそれで眠れた。今朝は訪れない。もう自分の力でやりなさいということか。
自分を許す。もうこうなってしまったのだから、良かろうが悪かろうが自分を許す。こつこつ一歩一歩、回復を図ろう。私は悪いことはしていない。つもりだ。ゆっくり、自分を労わって、焦らず頑張ろう。
人に優しくしよう。自分にはもっと優しくしよう。神はいる。辛いとき、困ったとき、一所懸命なとき、神の偉大な愛と力は私の中で働く。
今日はこれからは自分に優しくしよう。これまでになく弱っている。どこが悪いとかそういうのも止めよう。
ゆっくり過ごそう。何を見ても劣等感になるので自分を責めないで自分に優しく過ごそう。
ゆっくり過ごそう。これだけ苦しいんだから何かが間違っているんだろう。でも今は考えるのは止そう。弱いのは悪くない。老子の教えだ。弱く優しいことは悪くない。
誰か私に優しくしてほしい。切実にそう思う。カウンセリングなんかに通うのはそれだ。でもお金だけ取られて理屈っぽいことを言われるのは納得がいかない。今は考えまい。
優しくしよう。自分と人に。人の機嫌をとってもいいんじゃないのか。ただし責任を取らないといけない。兄との関係はうまく行かなかった。人の機嫌を取るなといわれているので取らなかったら明らかに機嫌が悪かった。
今日は苦しいのでカウンセリングに行くことにした。苦しいから行くというのはどうかと思うし、結果も余り期待できない。でも耐えられない気分だ。一人でいることに。やさしいことは悪くない。いいことだ。人を尊重することはいいことだ。人の機嫌を取るのではなく、人を尊重するのであればいいのじゃないか。今日一晩寝て明日は元気になっていれば良い。
カウンセリングに行ってきた。行ってよかった。やっぱり共感が必要だ。大阪のカウンセラーは全く共感しない。理屈ばかり言って偉そうに言う。堺のカウンセラーが良いや。田舎っぽくて良い。難しいことなんかいらない。気の利いた小難しいことなんか聞きたくない。こちらの話を良く聞いてくれたらいいのだ。
優しいことが価値がある。愛。自足すること。人を尊重すること。優しさを失うならばどんな業績を上げてもだめだろう。悪事に身を染めたとしたら身の破滅だろう。こんな簡単なことがわからなくなるなんて。
やさしいことは恥ずかしいことだと思っていた。そんなことはない。これが一番なのだ。ほかの事は二の次三の次だ。仕事をするのは何のためだ。妻や子を養うためだ。普通は。私はそういう優しさが欠けている。優しさが多すぎてずるさが足りないのではない。いつの間にかそういうことになっている。本末転倒だ。最初が優しさだ。愛だ。尊重だ。どうしてそんな簡単なことを忘れてしまうのか。そういうことだから人に優しさを乞うことになってしまうのだ。



2006年09月13日(水)

頭が痛い。治るのだろうか。苦し紛れに酒を飲んだのはいけなかった。目もおかしい。治らない。朝起きたら11時だった。ぐっすり眠れたわけではなく朝早く目が覚めたし、いつ寝たのかよくわからない。休めるというのはありがたい。本当にありがたい。絶好調になることは考えにくいが低空飛行でやっていこう。優しいことが大事だ。
体調は良くないが精神的にはかなり良くなった。
私は神だ。タオイストは神だ。悩みとかなくなった。この数ヶ月は悩んだが今は何もない。
私は神だ。神に悩みはない。私は神だ。
私は神だ。間違いない。
私は神だ。悩みは何もない。
私は神だ。
支離滅裂な文章だな。でも自分さえわかればいい。発狂したわけじゃない。私は神だ。タオイストは神なのだ。
私は神だ。
目のかすみがなかなか治らない。いつか治るだろう。稲盛和夫のテレビを見た。面白かった。なかなか勉強している私。きっと復活できる。私は神だ。
私は神だ。
私は神だ。



2006年09月12日(火) 今日

今日は昼まで寝ていた。昼からもごろごろしていた。いいことだ。ゆっくり休んだことはないのだ。これが必要だ。
私は神だ。少しやる気が湧いてきた。これだけ寝れば元気も出るだろう。
リスパダールはうつを誘発するらしい。飲むの止めよう。睡眠導入剤だけ飲んでいればいい。
私は自分が神だということがわかった。もう悩みはない。
神であるから全てが理解できる。
昔の日記を読んでいると壮絶な内容になっている。これはリスパダール飲まないとだめだろう。でも今はタオイストになったので神に近づいたのですっかり落ち着いた。良かった。



2006年09月11日(月)

目が少しまだおかしい。治るだろうか。頭も少し痛い。大丈夫だろう。私は神だ。
十分注意して自愛していこう。目はすぐに治るだろう。頭も痛い。私は神だ。タオイストだ。優しいこと。自足すること。人の先に立たぬこと。
自分にも人にも優しくしよう。
私は神だ。タオイストは神である。私は神である。
昼からデパスを飲んで昼寝した。良かった。頭が少し痛い。いずれ治るだろう。私はタオイストで神だ。心を穏やかにするように生きよう。結局それがいいのだ。変な奴の相手をしないで穏やかに生きるのだ。リスパダールも飲んでみようか。
目がおかしい。良くなるだろう。今は調子が悪いので悪いことばかり起こるように見えるが、きっといい事が起こる。この2週間くらいはじっと自分のケアーをしよう。
この2週間は頑張って治療に努めよう。少し調子が良い。昼も眠れる。
私は神だ。優しいことは当然だ。嵐山のローカル線の旅は面白い。長崎に行きたくなった。旅をするのもしんどいから。
優しいことはいいことだ。人に優しくするのは当然だし、気持ち良いし、円滑に行くし、こちらも優しくしてもらえる。



2006年09月10日(日) 9月

目が少し変だ。すぐ良くなるだろう。昨日は少し眠れた。頭が重い。グリシン飲むんじゃなかった。でも昨日よりは気分が良い。昼近くまで布団にいた。優しくしようと思った。自分に優しくしよう。優しいことはいいことだ。人を尊重することは気持ちがいい。人に優しくすること自体が気持ちいい、楽しい、嬉しい。これが私の本心だ。全ての人にそういう気持ちがある。
少し調子が良くなった。目はやがて治るだろう。自分に優しくする。今は何もできない。人に会うのもいやだ。外に出るのも趣味も嫌だ。でもそんな自分もオーケーだ。アイムオーケーユアオーケーがやっと身についた。
すごく元気になった。明日からでも出勤できそうだ。自分に優しくする。人に優しくする。それがいいことだ。
私は神に近い。優しいということはいいことだ。あんなキチガイとは違う。
トリプトファンかグリシンが効いたらしい。気分の改善ということからトリプトファンだろう。セロトニンらしいから。これを飲み続ければ欝は治る。不眠も改善する。
私は優しい。自分に優しい。人に優しい。神に近い。
目が少しおかしい。明日には治るだろう。穏やかで優しいことだけが価値がある。怒ったり、乱暴だったりすることには何の価値もない。私は神に近い。というか神そのものだ。
アルコールが脳に効きすぎた状態。目が見えないのもそのせい。でも今日はだいぶいい。ということはいつかは治る。ところで私は神になった。元々神だ。人に優しい。女が余り恐くない。隣に女が座ったが何ともなかった。お金がほしいとつぶやかれたときはどうしようかと思った。
私は神だ。完全に神になった。
私は神だ。優しいということは素晴らしい。自分に優しく人に優しい。
私は神だ。トリプトファンのせいだろうか。
私は神だ。
私は神だ。
私は神だ。
私は神だ。
私は神だ。



2006年09月09日(土)

最悪な朝だ。やっぱり飲んじゃだめといったらだめなのだ。全く眠れない上に頭が痛い。無為。何もしないことがいかに大事か。老子の教え。つい悪いことをしてしまう私ってなんなのか。誰だって悪い心を持っている。でもコントロールしている。あるいは社会的にいい方向に利用している。例えば競争とか権力闘争とか。今日は今までで一番コンディションが悪い。昨日のカウンセラーも腹が立つ。私が悪いのだろうか。いちいち言い方が気に入らない。無為。優しいものでいること。これが正しいとやっぱり思える。これから外れたことだけが良くないことだ。せっかく優しい人間として生まれたのだから優しい人間として生きよう。昨日酒と一緒にグリシンを飲んだら目がおかしい。元に戻るだろうか。大丈夫だろう。視神経をやられたのか。大丈夫だ。自分に優しくしよう。目がおかしい。判断力がおかしい。
少し大丈夫になってきた。何とか乗り切れそうだ。
楽しくなってきた。意外だった。逃げることだ。
すごく気分が良くなってきた。目は何とかなってきた。昼からデパスを飲んで寝よう。無為。余計なことは止めよう。ぬる湯に浸かると気分が良くなる。リスパダールを飲むべきかどうか迷っている。あれを飲みだしてから不眠がひどくなった。頭の中をひっくり返されそうな気がする。酒とリスパダールの相性がとても悪い。沈静と興奮の繰り返しで脳がおかしくなっている。
無為。余計なこと、作為的なことはしない。
少し眠れた。目覚めると余り調子が良くない。頭痛がする。早く夜にならないか。人間は何て厄介だろう。穏やかで優しいものであろう。優しいのが本当の姿だ。
頭痛がする。グリシンのせいだ。あれは二度と止めよう。自分に優しくしよう。人に優しくしよう。これが人間らしいことだ。自分に優しくすることで長生きできる。とにかく今は混乱している。全く混乱している。
少し具合が良くなった。2時間眠れた。優しいものでいる。愛。これが気に入った。老子が心の支えだ。よる眠りが足りなければいつもこうやって寝よう。
目が少しおかしい。今日寝れば治るだろう。自転車がなくなった。自転車置き場においていたはずなのに。かってまだ数ヶ月しかたっていないのに。もったいない。
目がおかしい。活字が読みにくい。明日良くなっていればいいが。自分に優しくしよう。人に優しく。愛。優しいものでいる。
外を歩くのもしんどい。幸せを感じられることがない。家族連れが羨ましい。でも自分には無理だ。何で臆病なのか。
自分に優しくしよう。今が最悪のときなのだから今自分に優しくしなくてどうするのだろう。



2006年09月08日(金)

今日は良い天気だ。眠れなくて死にそうになった。やっぱり飲まないほうがいいんじゃないか。今日は久し振りに1時に目が覚めた。朝眉毛に白髪を発見した。ショックだった。やっぱり不眠のストレスだ。悩みは何もない。問題は何もない。人を尊重するのは気持ちのいいことだ。
悩みは何もない。問題は何もない。過去のことを穿り出すのはもう止めにしよう。時間を使いすぎた。悩みはないもない。問題は何もない。眠れなかったら睡眠薬を飲む。問題解決。愚痴を言わない。
優しいことはいいことだ。優しいことは自然なことだ。人を尊重するのは気持ちの良いことだ。老子はすごい。というより加島という人がすごいのか。すごいというより共感できる。優しくていいのだ。愛。慈悲。こういうものが大事で貪ることや暴力は絶対だめだ。
老子は恐怖への対処法だ。生老病死の恐怖をやわらげてくれる。私は何も悩みがない。問題も何もない。
テンションを上げるのではなく下げることで改善するだろう。副交感神経を優位にしないといけない。リラックスすることだ。興奮してはいけない。
悩みはない。問題は何もない。人を尊重することはいいことだ。
最初の頃は楽しかったのに今は苦しんでいる。いつか和らぐだろう。タオイストになったのだ。優しいことを旨とするのだ。自足するのだ。
本当にしんどい。外に出るのが恐い。人の視線が恐い。弱っているから自分に優しくしよう。人に優しくするのも良いことだ。人を尊重するのは気持ちが良い。
カウンセリングに行ってきた。どうも合わない。やめようかと思う。上からものを言う。途中で説教をされた。はっきり言って嫌いだ。中学のとき説教と称して虐待を受けていたことを思い出す。ほんとに全てが腹が立つ。
東京や大阪は嫌いだ。都会は合わない。本当にきつい。何でこんなことになったのか。



2006年09月07日(木)

b工に行ったのは間違いだったような気がする。キチガイにもみくちゃにされた。ところで人を尊重すること、愛することは気持ちのいいことだ。気持ちのいいことは味わった方がいい。
人を尊重し、自分を尊重すれば問題ない。
人を尊重するのは気持ちがいいと思った。十分注意すること。ゆっくり行動し、ゆっくり考え、ゆっくり話すこと。これだけで十分だ。
人を尊重するのは気持ちいいことだ。
ちょっと気分が良くなった。大した問題はないような気がする。問題があるといえばあるように見えるがないと思えばないのだ。
問題は何もないのだ。そんな気がしてきた。何も問題はないのだ。こんな気になったのは初めてだ。平穏な気持ちだ。人を尊重し、自分を尊重することだ。
悩みは何もない。問題も何もない。そういう気がしてきた。素晴らしいことだ。栃尾又温泉に行ったのがよかったのか。
何も問題がない。これは嬉しいことだ。
悩みなんだったかなと思う。問題はなんだったかなと思う。



2006年09月06日(水) 紀子

紀子が男の子を出産した。ところで昨日の良い気分は長続きしなかった。逃げることだ。母親が私のストーカーと化してから私の人生はめちゃくちゃだ。田舎で過ごす手もあったのに逃れたい一心で大阪に出てきた。この15年はなんだったのだろう。感謝と愛だ。恐ければ逃げれば良い。何でババアがこんなにも恐いのか。ババアがストーカーと化したからだ。自分らしさを取り戻したい。母親もさすがに私に執着するのはやめたようだ。いくらなんでもきちがいじみている。優しいものであれという老子の教えが尊い。
オニババやストーカーや犯罪者と付き合いたいとは思わないだろう。どうすればよいか。何もしないことだ。無為だ。無為の為だ。何の理由もなく危害を加えてくる奴とどうしたら良いかなど考えるだけ無駄だ。距離を置くこと、冷却期間を置くことだ。最低50年は必要だ。
異常に興奮して襲い掛かってくる奴とどうしたらうまく行くかなど考える必要はない。相手にしないことだ。慎重に扱うことだ。ゆっくり行動することだ。
優しいこと。愛。これが大事だ。
会社に行きたいと思うようになった。女恐怖症は自分だけのことだ。あいつらは関係ない。職場を変えてもらっても良い。このままではいけない。焦ることはないが職場復帰に意欲が出てきた。
人を尊重しあうというのは良いことだ。当たり前のことだ。昨日そう思った。人を尊重するというのは当たり前のことだ。
人を尊重するのは楽しいことじゃないか。愛じゃないか。愛とは楽しいことだ。「あおぞら」という小説を読んだ。感動した。愛は人を癒すのだ。愛によってしか救われない。人は支えられていると著者は言う。実感としてはまだわからない。一人で生きているような気がする。でもきっと私も多くの人に支えられている。感謝、愛、互いに尊重しあうこと。
支えられている。私も人に支えられている。互いに尊重しあうことは素晴らしい。
しんどい。眠れなかった日の翌日が辛い。気分が重くなる。人を尊重すればきっと良くなる。何とかしようと思うんじゃなくて何もしないことだ。自然に任せれば自然に良くなる。
人を尊重するとはいいことだ。好きにならなくても尊重はできるだろう。尊重とはいいことだ。尊重することは気持ちいいことだ。それが当たり前だと気付いた。世間はそうなっている。
優しいものであれ。これは大きいことだ。私が強く乱暴なものである必要があるだろうか。全くない。優しく穏やかであることで全ての望みをかなえることができる。お互いに尊重する社会が望ましい。というよりそれが当たり前だ。人を尊重することは気持ち良い。本当に気持ちいいものだ。タオを読んでいると自然にわかってくる。
自分は自分らしくていいのだ。優しいものであっていいのだ。何が対象であれ、優しくていいのだ。優しくなければ何もできない。優しさと愛だけが何かができる力なのだ。乱暴とか力は何もできないのだ。キチガイババア一人コントロールできないのだ。人を尊重することは気持ちが良い。自分を尊重することは気持ちが良い。



2006年09月05日(火) タオ

タオイストになろう。タオの思想はしっくり来る。穏やかで優しい。これが私の本質だ。あんなキチガイとどうして張り合わないといけないのか。どうしたらいいか。何もしなかったら良い。無為の為。頭に血が上っている。それをクールダウンすればうまく行く。全てうまく行く。やっぱり栃尾又に行ってよかった。深いところでリラックスできた。
二日間眠れたので気分が良い。タオイストになろう。タオの道に勝った負けたはない。小さいことは関係ない。毎日休めるのはありがたい。感謝している。女とうまくやる方法がわかった。何もしないことだ。近づかない。話さない。見ない。見られない。気にしない。
加島祥造のタオにつながるを読んだ。大いに感銘を受けた。私の考えていることそのものだ。私のほしがっている答。それがここに必要かつ十分にある。恐怖。社会は恐怖を煽り立てる。それが真実であれば良いが現実離れしている。人間の尊厳を失っていく。自ら尊厳を放棄する。タオイストであろう。大阪に来てから本当に尊厳を傷つけられることばかりだった。来なければよかった。この15年間はなんだったのか。そしてまだ15年間もある。深甚な恐怖を覚える。そして許そう。許すことによって終わる。関係は終わる。その代わり二度と同じことを繰り返すな。二度と私の前に現れるな。この本が今まで読んだ本の中で一番良かった。
人間は互いに尊重しあい、許しあうことによってしか共存、共生できない。憎みあい、馬鹿にし合っていたら一緒になんかいられない。一人さんの言う人を褒めろというのはそういうことだ。ゆっくり行動し、ゆっくり話すだけで世界が変わる気がする。それが相手を尊重し、他人を尊重する証だからだろう。傷つけあう関係なんか耐えられない。非対称な虐待のような関係なんかありえない。企業社会だから許されるなどということはありえない。
さっき散髪に行って来た。何か妙な感じだった。感動してしまった。いつも嫌で逃げ出したいのに人を尊重したい気持ちでいっぱいだった。私って変だろうか。そんなことはない。それが回りの店員にも伝わって私は感動の余り思わず涙ぐんでしまった。私が感じたことを言葉にするのは不可能だ。でも年を取ること、生きることは悪くない。人間は愛すべき存在だと思った。優しいことは素晴らしい。厳しいこと、強いことは優しさには勝てない。幸せと感謝と嬉しいは別々だと思ってきたが一つのことだと思った。やっとわかった。こんな簡単なことなのに。優しくされればありがたいと感謝したくなる。そのとき嬉しいと思うだろう。過去に何があっても許したくなるだろう。全て一つのことだ。宗教は誰にでも理解される。素晴らしい力だ。人を尊重するということは素晴らしい。どうしてこんなことに今まで気付かなかったのか。兄貴の家に行ったから良かったのか。わからない。温泉が良かったのか。加島さんがよかったのか。全てがよかったのだろう。
私は愛される人間だ。ゆっくり話し、ゆっくり行動し、ゆっくり考えるだけで全てが変わって見える。素晴らしい一日だった。人を尊重し、褒め、優しくすることはこんなにも気持ちが良いものか。それだけで生きていける。秀吉が家康が信長がなぜ偉かったか。人を褒める立場にあったからだ。喜んで死んでくれる武将がいくらでもいたからだ。人は自分を褒めてくれる人間のためなら喜んで命を差し出す。恐怖で人をコントロールできるなんてとんでもない。優しさだ。本当に価値があるのは優しさだ。そんなことは幼児でも知っている。暴力や恐怖なんて恐れることはない。



2006年09月04日(月)

今日は良く眠れた。珍しい。心の持ち方で違うのか。心穏やかでありたいと思うと良く眠れた。全てうまく行くだろう。逃げられるだけ逃げたら良い。徹底して逃げる。立ち向かう必要はない。
眠れたのは嬉しい。私はフッキーを許す。私を傷つけることなどできない。心穏やかでいることは完全に可能だ。
許すというのは大きなことだ。それで関係は終わる。心の苦しみも終わる。新しい道が開ける。穏やかな優しい心というのは大事だ。女から自分を守る方法もほぼわかった。極めて簡単だ。近づかないこと。話さないこと。逃げること。見ないこと。見られないこと。十分注意すること。
かなり前から私はやばい。今急におかしくなったわけではない。銀行に行った時も変な従業員が嫌がらせをして来た。でもなんでそれが嫌がらせになるんだ。全く関係ない。全く気にならない。女とうまくやる方法は十分気をつけることだ。うまく行くなんて思わないことだ。何もしていないのに喧嘩を売られるのにうまく行く方法などない。ひたすら注意することだ。
私はやはりおかしい。やっと最近気付いてきた。薬で脳の興奮が収まらないので余計におかしくなってきた。最近はそれをコントロールできるようになって来た。何の理由もなく攻撃してくるのは仕方がない。でもそれ以外はコントロールできる。十分注意することだ。
悪いことはすべきではない。物語の上であればよいが、現実にはできない。許されない。
何をすればいいか。何もしないこと。クールダウンすること。ゆっくり行動すること。ゆっくり考えること。何をしなければいけないかではなく何をしないかが大事だ。いかに何もしないかが重要だ。何かしないと、資格を取らないと、勉強しないと、気に入られないと、仲良くしないと、うまくしないと。そんなことは重要ではない。何をしないかが重要だ。しないこと、できるだけ何もしないこと、老子の無為、これが重要だ。ババアとうまくやるために何をしたらいいだろうか。何もしないことだ。女と仲良くするたまにはどうしたらいいか。何もしないことだ。近づかないことだ。見ないこと、見られないことだ。話さないことだ。何もしないことだ。



2006年09月03日(日) トワイライト

小説を読んでいて、皆苦しんでいるんだ。辛いことがあるんだと思うと勇気が湧いてきた。私も頑張ろうと思えてきた。生きていく上で色々困難があるし、やらないといけないことがある。それがあるなら全部やってしまえと思った。やれば開けてくる。
昨日は酒を飲んで2時くらいに目が覚めたか。調子は余り良くない。でも悪いときは悪いなりに過ごす術は身につけた。悪いことはしたくない。良いことだけをやって生きて行くことは可能だ。良いことができなくなると悪いことをしてしまう。タオの女性原理というのはいいと思う。私は女性的だからだ。小説は善か悪か。悪も善も許された世界だろう。そのなかで善を追求しても良い。そこに悪の問題が浮かび上がるだろう。一人さんは善良であれと教える。善良であることは厳しい道だ。でも善良であろう。これは誓いだ。勤勉であろう。嘘はつくまい。差別しない。嫌わない。
ゆっくりしゃべり、ゆっくり考える。これは今私に必要だ。脳の興奮を抑えることが大事だ。女から逃げよう。今は仕方がない。今は自分を守ることが肝要だ。とにかく今は何も考えずにゆっくり過ごそう。女を見たら逃げよう。
脳の興奮を抑えることが大事だ。
疲れている。眠れないのが大きい。自分を褒めよう。自分を褒めよう。自分は自分でいいのだ。ありのままでいいのだ。背伸びも変身もいらない。
自分は自分でいいのだ。ありのままでいいのだ。自分は自分の良さがあるのだ。一方的に危害を加えられることはない。自分を守ろう。
自分を肯定しよう。私は何も悪いことをしていない。ゆっくり休んで回復をまとう。女と闘う必要があるだろうか。逃げればいいだけの話じゃないか。
私は悪くない。悪いことをしたこともある。でも今は悪くない。悪いことはしていない。自分を認めよう。自分を肯定できないから仕事も人生もうまく行かない。自分をまず認めてあげよう。
女から完全に安全に自分を守る方法はある。大体基本が安全だから。何もできないのだ。人間が何かできるだろうか。悪いことができるだろうか。できはしない。逃げればいいのだ。
自分で自分を危険に曝しているのだからそれをやめればいい。少し落ち着いてきた。調子が悪くても何とかやっていける術は心得た。小さい頃からちょっとばかりおかしかった。大学のとき発病した。完治するということはないのだろう。でも何とか気分良くやっていくことはできる。のんびりしよう。自分を追い込む癖は止めよう。自分や他人をいじめるのは止めよう。人に優しくしよう。自分にも優しくしよう。ものすごく生理にかなった楽でよいことだ。病気の一番の治療法で再発予防だ。
自分や他人に優しくしよう。当たり前のことだ。人や自分をいじめても何の得にもならない。仮に得を得たとしても何になるだろう。人をいじめて自分が得をして嬉しいだろうか。人としておかしい。そういうことにやっと気付き始めた。z氏に見捨てられたのもその辺がある。湯治もいいけど自分が苦しい思いをしては何にもならない。落ち着こう。神経が興奮していることは明らかだ。それも長いことそうなのだ。徐々に時間をかけて落ち着いていこう。欲に駆られて興奮して訳のわからないことをする。浅ましい人間になってしまった。魂力をつけよう。ツイテルツイテルといって明るく生きよう。感謝の気持ちで生きよう。ありがとう。愛に生きよう。人の気持ちが嬉しい、といえるようになろう。以前はそうだった。どうしてこうなったのか。愛だ。命への慈しみ。私にも備わっている。それを大事にしよう。神経の興奮を収めよう。穏やかに静かに生活しよう。愛のある暮らしをしよう。私はおかしい。真面目に仕事しよう。私はずいぶんおかしい。人にも自分にも愛のある優しい言葉を言おう。それは自分の気持ちに合った簡単なことだ。小説を読んでいると学ぶことが多い。人は誰でも辛い思いに耐えて必死に頑張っているということ。妻子のため。誰かのため、愛する人のため。生きていく上で避けては通れない。そうすると生きる力が湧いてくる。「トワイライト」のジャイアンも辛い現実を前に傷つき、苦しむ。愛のために苦しむ。それが人間の姿だ。そういうものを失いかけているのだ。だから私は宗教的な気持ちが必要だ。そういう気持ちを失いがちなので。支えが必要だ。阿弥陀の情けにすがって生きるのもいいことだ。理屈ではない。気持ちの問題だ。人は皆極限状況を生きているのだ。どうして共感する力がないのか。ともに生き、喜びも苦しみも共有するのが人間だろう。
私は良くここまで頑張ってきた。心の病を抱えながら、一人で頑張ってきた。今はゆっくり休んでいいのだ。誰かに頼ってもいいのだ。人は誰でも辛い。その辛さを共感し合い、支えあうのが人間だ。一方的なことは許されない。
私はむしろ元気でバリバリというのは本来と違うのではないか。穏やかで思いやりがあって優しいというのが本来の姿で、そこにもどれという天のお告げではないか。興奮を冷ましてよく眠ることだ。
穏やかで優しく思いやりがあるというのが私の本来の姿だし、人間はそうありたい。今そういう気持ちになれそうな気がする。よく頑張ってきた。私は良く頑張っている。自分を褒めてあげたい。
優しく穏やかでありたい。それが本当の姿だ。悪いことはしたくない。私は良く頑張っている。辛いのに良く頑張っている。ゆっくり休むことだ。
脳の興奮を鎮め、穏やかに休息することが大事だ。こんなに苦しかったことはない。でも頑張ろう。
脳の興奮を抑え、優しい穏やかな気持ちを取り戻そう。真面目になろう。愛と真心と感謝の気持ちを取り戻そう。
真面目だったら損するだろうか。そんなことはない。真面目でないと信用されないから損する。というか生きていけない。愛と感謝と真心だ。
作家は家庭を顧みない。無頼派はそうだ。でも今の時代それではいけない。脳の興奮を抑えよう。たいがい調子の悪いときでも自分をコントロールして人とトラブルを起こさないようになった。新潟でも一応揉め事は起こさなかった。迷惑もかけなかった。自分をコントロールできる。小説でも勉強になる。誰でも苦しく辛いのだと。



2006年09月02日(土)

一夜明けた。色々あった旅行だった。辛いことも多かった。東日本はアウェーだから。でもヒントもいっぱいあった。自分がはっきり見えた。旅をして初めてわかる自分。ものすごく怯えて自信のない自分。自分のからの中に閉じこもっている自分。それがはっきり見えたから良かった。今回はトラブルはなかった。女やおばさんとの。餓鬼とのトラブル。ガキも可愛くはないのだと知った。
慣れない土地に行くと不安になる。慣れた堺に戻ってくると安心する半面うんざりもする。どっちなんだ。自分が良くわかった。大きな収穫だ。トラブルにならない自信がついた。新幹線のサラリーマン、本当にむかつく。何様だと思ってるんだ。キチガイめ。いい加減にしろ。ドンだけ態度でかいんだ。
私は私で良いんだと思う。誰に認めてもらわなくても自分で自分を認める。人に気に入られなくても良い。人の機嫌を取らなくてもいいんじゃないか。一人さんも言っている。そう思うとすごく楽になった。こうしなきゃいけないとかこうでないといけないとか全く思わない。世の中についていかないといけないとか全く思わない。
ものすごく自分が良く見えた。そうするとまず人とトラブルにはならない。自信を持つ。
殻の中に閉じこもって怯えきっている自分が見える。誰かに気に入られないといけないと必死になっている自分が。そんな必要なんかないのに。自分は自分で良い。自分のままで。そういう気になってきた。ほめられる必要はない。褒めればいいのだ。
自分が肯定できるようになった。こうでなければいけないとかこうであってはいけないとかそんなことはない。今の自分でいいのだ。今の自分でだめだと思うからおかしくなる。
温泉に行って効果が現れたのは初めてのことだ。私は私でいいのだと思った。私は私でいいのだ。



2006年09月01日(金) 新潟

新潟から帰ってきた。しんどかったので一日早く帰ってきた。それはそれで正解だった。色々あったが何とか無事だった。というか何もしなかったし。眠れない日もあったが何とか耐えた。嫌なことも多かったが、何とか耐えた。耳鳴りがでかい。眠れない。辛い。


 < 過去  INDEX  未来 >


リスパ

My追加