希望の日記

2006年05月29日(月) 今日

昨日は酒を飲んでしまった。できれば飲まない方がよかったかもしれない。でも我慢できなかった。だんだんあの人みたいになってくる。一ヶ月前に変な光線を浴びてから体調も心も不調だ。どんだけ邪悪なパワーを持っているのか。30年物の本物のキチガイだ。森田療法で治るわけがない。ものすごく邪悪で攻撃的で貪欲。人間ではない。私まで人の殺意を覚えるようになった。母親にまで悪意を抱くようになったらおしまいだ。あのキチガイの影響から早く脱しよう。本当に恐ろしい。
ゆっくり休んで精神状態を安定させよう。誰とも会いたくない。会わない方がよい。よく考えたら中学時代からうつ状態みたいだった。勉強はやっていたが、他のことはやらない。友達も作らない。変なやつを友達にしてからおかしくなって、それ以来、友達を作るのが恐い。ずっとうつで社会に参加したいと思わない。そのくせ権力欲が強い。森田神経質性なのか。それなら適応する。
殺意も生きていく上で必要かもしれない。護身術をいくら習っても殺意がなければ身を守れない。
私はOKだ。私はokなので自由に思い通りに生きていけば良い。私は善良で勤勉である。根が素直で純真誠実だ。正直に普通に生きていけばいいのだ。
森田で一番ヒントになったのは自分はokだということだ。自分はokであればやれば良いだけだ。
呼吸法をやっているといろんなことがわかってきた。このわかってきた状態をなかなか定着できないのが悩みだ。悟りを開いたみたいな気持ちになる。でもそれは当たり前のことで誰でも気づいているし、実践していることだ。アイムok,ユアokということだ。
私はokだ。それが周囲と切り離されて、自分ひとりになるとokでなくなる。感謝できない自分になる。よくヤンキーに同類と思われる。反社会的なところが全く良く似通っているからだ。私が反社会的なわけではない。ここ一ヶ月は危険な状態にあった。ユアノットok、アイムノットokになっていた。それはただのならず者だろう。あの半農半xとか言っている人も反社会的な人ではなくて、社会に貢献すること、使命ということをいう。自分と社会が直接向き合っていないと嫌なのだ。直接発信する。会社を通じて貢献するとかじゃいけない。
私はokだ。そう考えるとすごく落ち着いてきた。殺意も薄れてきた。中学の頃から色々あってうつ状態になった。それはそれで私の運命だ。でも運命は変えられると気付いた。つい最近だ。運命とは道徳と同義語だ。時間は未来に向かっていくらでも開かれているのに、84歳の老人でさえそうだ。あの鶴見氏はなお矍鑠として自分の意見を堂々と言える。私は青春まっただ中といっても過言ではない。
私はokだ。そうすると全てすっきりする。私は変人だ。で怠け者だ。それははっきりしている。でもほとんどの人間は怠け者と働き者を兼ねている。私もそうだ。全く怠け者だったら、受験戦争には勝てなかった。戦略家であり、努力家でもある。アイムokだ。でも所詮うつだから、坂道を転げ落ちるように堕ちてきたのだが、森田療法にもっと早く出会っていればと思う。苦しくてもやる。でも私も苦しくても公務員試験を勉強して受けた。結果は受ける前から明らかだったにせよ。
大学入っても勉強して栄光をつかんだ連中は元々何かが違うのだ。私は無理して入った。偶然とは言わないが。だから燃え尽きてしまった。中学時代からのうつをこじらせてしまい、いじめにも遭ってあんなことになった。今どうすべきかを主に考える。過去の原因を探ってもほぼ答えは出ない。というかほぼわかった。それで今どうするかだ。ああでもないこうでもないと考えて貴重な時間を空費するのは余りにも惜しい。それが一番自虐的だ。何も努力をしない決心をするのは早すぎる。諦めるのが早すぎる。もっと執念を持って取り組もう。
女ともうまく行く。うまくコントロールできる。何も仲良くできなければ無理して仲良くなる必要はない。適当に距離を保つことはできる。
今日はkさんと京橋であった。元気がないので心配したのかもしれない。私が元気であれば皆が喜び、落ち込んでいれば悲しむという母親の話を信じよう。私はok、ユアokと一日に何度も唱えよう。心の中で。
加藤さんと会うのはどうかなと思う。ストレス源になっているのじゃないかという疑いを捨てきれない。もしそう思うのだったら会うのをやめたらよい。加藤さんは愛を求めているのだろう。男にも女にも。そのストレートな愛を求める姿勢は時に重苦しい。私は母親にも冷たくする薄情な人間だからだ。
でも人間は愛を与えないと怒りだすのではないか。女は少なくともそうだ。愛とまでは行かなくてもユアokで十分じゃないか。そういう目で見ると帰りの電車でも普段は嫌っている若者や女やおっさんやおばはんが愛すべき興味深い存在に思われてきた。自分と似ていないから嫌うのではなく、自分と似ていないから好きになる。ヘテロセクシャルはそうだ。自分とかけ離れているからこそ好きになる。
アイムオーケーユアオーケー。これしかない。私は加藤さんに愚痴を言ってしまった。馬鹿だと思っただろう。愚痴とはまさにそういうことだ。私のような馬鹿はどうすれば良いか。アイムオーケーユアオーケーと100回唱えることだ。加藤さんはコーヒーをおごってくれるようになった。さすがにかわいそうになったのだろう。自分が追い詰められてくると、人を利用しようと考え出す。大事な母親まで利用するようになった。でも誰でもいつでも困っているのじゃないか。会社も困っているから人を雇っているのだ。それを助けるのが従業員の役目だ。使命と言い換えても良い。あの人のように。今何を考えてもうまく行かない。難しい本を読んでも意味はない。休むことだ。加藤さんは私がおかしなことをやっていたら注意してくれるから、oさんや京都の人たちよりは良い友なのかもしれない。私を引き上げようとしてくれる。私がoさんや京都の人と付き合うのはいささか自暴自棄、自虐の気味がある。加藤さんが指摘し、危惧するのはそういうところだ。やっぱりこれからも連絡を取り合ったほうが良いかもしれない。本当に困ったときに助けてくれるかもしれない。
アイムオーケーで行こう。ユアオーケー。これは一言で全てを解決する。アイムオーケーというのは自分が何かをできると確信することだ。小説を書いてみてそう思った。自分が人を喜ばせる力がある。今の私でも会社の中でもきっと何かできることがある。今脳が傷ついて弱っているから、うまく行かないと感じるだけで、この状態を脱すれば十分やっていける。



2006年05月28日(日) 今日

昨日は余り眠れなかった。といっても8時間は寝ているだろう。でも風邪は治らない。厄介だ。
疲れた。何もやる気が起こらない。
仲良くする必要なんかない。恐くなんかない。恐がらせようとしているだけなんだ。絶対恐がらない。殺してやる。お前なんか殺してやる。殺してやる。そう思う。殺そうとしたんだから殺されても仕方がない。
仲良くなんかする必要はない。殺してやる。殺されても仕方のないやつじゃないか。
関係ないじゃないか。殺したくなる。人間がたまらなくいやだ。
人間がたまらなく嫌だ。殺意を覚える。人は殺意を抱く生き物だと思った。人も私に殺意を抱いているだろうと思った。私にこれだけひどいことをするのはそれしか考えられない。自分と自分の家族だけが大事なのだ。それ以外の人間は殺したいのだ。人は一人でいる権利がある。アサーティブだ。
殺意を覚える。人が幸せそうにしているのを見ると殺意を覚える。



2006年05月27日(土) 今日

昨日はよく眠れた。毎日リスパを飲んで一週間くらい寝よう。人と会いたくない。絶対に会いたくない。自己防衛しないといけない。
絵の好きなやつとかいうのはおかしいやつが多い。攻撃的で意地が悪くて、犯罪的で根性が悪い。京都人の特徴と一致する。芸術とともに生きるということはそういう人間になることを受け入れるということと引き換えだ。b校の連中も全員そうだった。モラハラ状態というか、過敏状態になる。それは受け入れられない。どこかでブレーキがかかる。悪魔に魂を売ることはどうしてもできない。それは都会人であろうと田舎もんであろうと同じだ。どっちつかずの人間は森田的状況になる。モラハラ的やつなんか相手にしないことだ。そういう犯罪的なやつなんか全く相手にしないことだ。馬鹿じゃないのかと思う。
人に会いたくない。人を見るのも嫌だ。嫌いでもいいのだ。人間なんか好かれるようなところは何もないじゃないか。嫌いで結構という顔したやつばかりだ。今日の鶴見俊輔氏みたいな可愛いじいちゃんであれば好きにもなるだろうが、関西人は醜くて邪悪でどうしようもないやつばかりだ。私も悪魔に魂を売ってしまったようだ。
人間は嫌だ。本当に嫌だ。嫌いでいいのだ。誰も文句は言わない。魔境から脱しつつある。あと一週間くらい、薬を飲み続ければずっとよくなる。
モラハラ過敏状態にある。サドと同じだ。人と会いたくない。見るのも嫌だ。絶対臥じょくをやりたい。人間嫌いで良いじゃないか。あんなb校みたいなところは二度と行きたくない。二度と会いたくない。特にw。馬鹿じゃないのか色キチガイのドブス。何で仲良くしないといけないんだ。人間嫌いでいいじゃないか。そう思った。人間好きで良い人じゃなくて良いじゃないか。悪い人で良いじゃないか。道徳が崩壊している。道徳はやっぱり維持しないといけない。道徳を作り出していかないといけない。



2006年05月26日(金) 美山

美山から帰ってきた。超キチガイババアのモラハラにあった。京都はモラハラ王国だ。何回やられたかわからない。今日のは完全におかしかった。咳を二、三回やるのはわかるが、3時間にも亘ってやられたのは初めてだ。キチガイを通り越している。道徳に生きようと改めて思った。人に癒されることは望むまい。自然には大いに癒された。私の自然は肉体だ。体から治っていくだろう。昨日夜一睡もできなかったが、エクトプラズムのようにストレスが抜けていった。自然の癒しだ。湯治に行きたい。
人に癒されることはありえない。今の私は母親でも傷つけてしまう。美山の美しい自然を見たときも薄気味が悪かった。精神状態が普通ではない。人と接するのが苦痛だ。危険でさえある。人前に出るのをやめたほうが良い。
今は疲れている。リスパを飲んでゆっくり寝て、落ち着くまで人に会うまい。道徳に目覚める必要がある。森田のような体で覚えるやり方が一番良いのだ。絶対臥ジョクみたいなところから始めて、無理なく体を慣らしていけばいいのだ。私の道徳はとうの昔に崩壊している。中学時代から壊れ始め、大学のときは完全に崩壊して人格まで崩壊した。でも今はそれを言っても仕方がない。道徳は未来に向かって開かれている。どうにでも自由に創造していけるのだ。自分を信じよう。
単純に道徳的におかしいような気がする。森田的症状はない。でも心理的傾向は似ている。
道徳は自分を守る。私は働きたい。私は無能ではない。ストレスで脳にダメージを受けているだけだ。私は女なんか恐くない。道徳は自分を守るだろう。道徳で相手の態度を是正することはできる。
道徳が大事だ。道徳でやり直すんだ。
過敏状態から脱することが先決だ。昨日民宿でも嫌がらせされているような気がして仕方がなかった。妄想が広がっていく。サドもそういう妄想に苦しんでいたようだ。道徳は必要だ。自分を守るためにどうしても必要だ。
私はもう誰にも会いたくない。今日のあのキチガイババアは何なんだ。全くわからない。キチガイに絡まれるのはもう嫌だ。道徳的に行こう。道徳で徹底的に行こう。



2006年05月24日(水) 今日

昨日はまずまず眠れて良かった。道徳は未来に向かって開かれている。病気でキャリアを断たれたとき、私は希望を失った。今また希望を持とう。道徳によって。道徳は未来に向かって開かれている。
道徳は未来に向かって開かれている。気分がだいぶ改善してきた。パニック状態に陥っていたのだ。森田療法の本を読んだらすごくよくわかった。道徳的に振舞うことという私の考えがすごく正しいことがわかった。邪悪な考えが影を潜めて真っ当な考えに置き換わっていくようだ。道徳的な考えを持っていれば未来はどこまでも開かれていく。持っていなければ確かに全てを失い、ホームレスにもなるだろう。ホームレスになった人でさえ私よりまともな考えを持っている人もいる。どうして何もしないのに食べていけると思っているのか全くわからない。何をして良いかわからないなら人を楽しませる仕事でもしたらどうか。人は本当に道徳的だ。どうしてそれを忘れてしまったのか。それを思い出しさえすれば道は未来に向かって開かれていく。



2006年05月23日(火) 今日

昨日今日と母と姉が来てくれた。飯を作ってくれて色々話をした。私は激うつで当たってしまったが、肉親だから甘えられる。100万円貸してくれた。おろす時に難儀したというから俺俺詐欺と間違えられたのだろう。親不孝だ。でも本当に辛いのだから仕方がない。兄も調子が悪いらしい。会社を転職したらしい。母親に辛く当たるというから相当追い込まれているのだろう。私も辛いときは両親に当たった。子供が独立したらよくなるだろう。私も悪いばかりではないのだ。



2006年05月22日(月) 今日

今はよくない状態にあるが、きっと意志の力でこの状態を脱することができる。本当に邪悪な人間はいる。女は全て魔境にあって例外なく邪悪だ。その邪悪なパワーと戦っても負けるに決まっている。道徳と正義で古来男は女をその邪悪なパワーを封じ込めてきた。出産や地の穢れを非常に強力でまがまがしい邪悪なパワーと恐れて、忌み嫌うことでバランスを取り、封じ込めてきた。私も道徳と正義の力に付こう。魔境から脱するのはそれ以外ない。
堺の人間は本当におかしい。大阪方面に勤める人間は泉北などにこもり、付き合おうとしないのがわかる。本当に恐ろしい。あのキチガイ親父みたいなのがうようよいる。
付き合っていい相手とそうでない相手が世の中にはいる。正気な人間とそうでない人間。邪悪な人間とまともな人間。
父親が酒に逃げていた理由がわかる。邪悪な女のパワーから逃げたかったのだ。私は息も絶え絶えだ。あのおかしなキチガイ爺の邪悪なパワーにねじ伏せられて、心身ともに疲弊しきっている。
あの洗脳体験で暴走し始めた私の邪悪なパワーは女どもと正面衝突を繰り返し、疲れ切って私は倒れた。休もう。本当に休もう。生きていけない。休もう。
道徳が大事だ。道徳で切り開いていける。未来は開かれている。休もう。脳が暴走している。女と接触してはいけない。必ず衝突する。
邪悪であることは良くない。道徳と正義に従おう。貪ることも良くない。昨日は試飲だけで帰ればよかった。自分をひどい目に合わせることはよくない。貪ったり、酷使したり、あのおっさんのやっていることだ。人にまで迷惑をかける。私は善良な人間だ。悪いことをしろといわれても困る。精神的な原因で体までおかしくなったのは初めてだ。どんだけネガティブなパワーなんだ。絶対に許してはいけない。悪を許してはいけない。悪を許してはいけない。悪を自分にも他人にも許すから苦しくなるのは当たり前だ。人は誰でも善良に生まれ来る。何かのきっかけで邪悪にもなる。しかし道徳の導きで意志の力で悔い改め、反省し、本心に立ち返って真面目に努めれば必ず立ち直れる。邪悪な心でうまくいったものはいない。ホリエモンをみよ。どんな理屈をつけようと悪の栄えたためしはない。悪は必ず報いが来る。
これであくが抜けて良くなると思う。投げやりで自暴自棄な気持ちから脱して道徳的で勤勉な生活に立ち返れるだろう。まず体を直そう。あの親父が攻撃してきたのはあの親父を受け入れられないと思ったからだ。愛を示しておいて、愛にこたえると拒否するのはよくないことだ。私の方が間違ったことをしたのだ。最初から近づくべきではなかったのだ。あの京都の人たちもそうだ。近づかないほうが良い。文学は貪ることを肯定する。蕩尽することを。ほとんどの優れた作家は人生を蕩尽してしまう。最後は死を選ぶ。そんな人生が良いだろうか。私は人生を全うしたい。大多数の小市民と同じだ。であれば、道徳的であるべきだろう。
道徳的に立ち直ろう。体を鍛えて、丈夫にし、それによって倫理観を取り戻そう。悪徳に染まるのは止めよう。稼げないのに浪費するのは自分をいじめる行為だ。破滅への道だ。ツッキーでさえすごく真面目に仕事をしている。仕事ができないだけでも大変なことなのに何とも思わないどころか、喜んで遊びほうける。よからぬ連中と付き合う。浪費する。読みもしない本を買う。思考を放棄する。親に借金を申し込んで心配をかける。貪るという大罪を犯しているのがわからないのか。b校に行ったのは間違いじゃなかろうか。自分が何をやっているのかわからなくなったのじゃないか。道徳に立ち返ろう。ツッキーでさえ道徳的だった。私が人に不快感を与え、侮辱され、攻撃されるのは道徳を何とも思わなくなったからだ。悪を快楽と感じるようになったからだ。やくざと同じだ。文学の道はそういうことだ。壇ふみは父親を長いこと許せなかった。
人を楽しませることも仕事だ。昨日のお笑いはすごかった。一発芸で体を張って楽しませる。これも仕事だ。そういう仕事を選びたいなら不可能とも言い切れない。
私は善良な人間だ。誰でも善良な性格を持って生まれてくる。でも何かの原因で悪くなるものも出てくる。人は過ちを犯すものだ。でも道徳的な気持ちはいくつになっても取り戻せる。とても簡単なことだ。人を思いやること、自分も人も大切にすること、傷つけないこと。約束を破らないこと。尊重しあうこと。
しんどい。いきなり母と姉がやってきた。運悪く今日が一番具合の悪い日で衝突しそうになった。私は恩知らず感謝しらずだ。それはわかっているが、しんどいのだから仕方がない。これは絶対わかってもらえない。精神的にしんどいというのは理解してもらえない。女の店員とも喧嘩になる。意味がわからない。昨日も山崎で嫌がらせにあった。しばらく人と余り接触しない方がいいと医者に言われた。洗脳で短絡的、衝動的、怒りっぽくなった。全能感で躁状態になった。自分を守ることはできなかった。疲れると人間として必要なことができなくなる。悲しいことだが事実だ。
全能感から慎重さが消え、せっかちになり、短絡的になってトラブルが増えた。でも本当に全能になったわけではないから、力不足で失敗が増える。女は私の態度を不満として攻撃してくる。これが増えるトラブルの原因だ。道徳に従うしかない。感情とか好き嫌いとか気分に左右されてはいけない。トラブルが増える。貪ってはいけない。恩を忘れてはいけない。いたわりや思いやりを忘れてはいけない。
意志の力でそんなことは解決できそうに思う。女とトラブルにならないようにと気を付ければ避けられる。正面衝突する必要はない。道徳は平等じゃないか。別に卑屈になることはない。道徳は必要だ。
トラブルを避けることは意志の力によって可能だと思う。道徳的に振舞うことを気をつければ良い。



2006年05月21日(日) 新しい朝

何も卑屈になることはない。道徳と宗教に従って正しく生きていけばいい。時間は未来に向かって開かれている。
dは洗脳を行っている。私は苦しさから逃れたい一心で洗脳を受けてしまった。あんなことはやってはいけないことだ。ptsdのような症状になっていまだに不安定だ。誰にも文句の持っていきようがない。私にそれを勧めてくれたカウンセラー自身が洗脳マニアだから仕方がない。反省などするわけがない。自分で自分がコントロールできなくなった。すごく攻撃的になってトラブルを起こしやすい。かっとしやすい。とうとう会社を休む羽目になった。洗脳後絶好調になったのだが、それが人格崩壊の始まりだった。今はどうしていいかわからない。道徳に必死にしがみつくだけだ。逸脱行動をしないように宗教や道徳に救いを求めるだけだ。でも未来に向かって開かれている。やがて安定して、道徳に従って生きることができるだろう。
洗脳の悪影響。不安定になった。攻撃的になった。向こう見ずになった。自傷的行動が増えた。境界例ぽくなった。人とトラブルを起こしやすくなった。衝動的になった。セルフコントロールができなくなった。不眠になった。誰も責任を取ってくれない。もうあのカウンセラーと会うのもやめようか。私にできることは理性的に道徳に従って生きることを心がけるだけだ。
私は恩知らずになってはいけない。邪悪な行為の中で恩知らずほど重い罪はない。両親にどうしてひどいことをしてしまったのか。あんな良い人たちなのに。取り返しの付かないことをした。弱いものいじめも重い罪の一つだ。小さい頃、頭のおかしなやつを友達にしたらそいつの弱いものいじめに参加させられておかしくなった。私の病気の原点の一つだ。誰でも過ちは犯す。過ちは繰り返さないことだ。
ひどく疲れた。あのキチガイ親父のいじめがptsdのようになってなかなか回復しない。身体に現れる精神的打撃ってどれだけひどいんだ。私は知らないうちに我慢してptsdになってしまう。いじめに参加させられたのも虐待だ。ptsdだ。邪悪なものに興味を持ったのも虐待の悪影響だ。あの精神科医は本当に気持ち悪い。邪悪なものに興味を持つというのは自分の中に同じものがあるということだ。
道徳的に未来に向かって生きよう。道徳を死守するんだ。あのキチガイカウンセラーが何を言おうと道徳が大事なんだ。好き嫌いなんかどうでも良いだろう。私が精神的に病んでいたら攻撃するのか。逆だろう。いたわらないといけないのに。自分に優しくしよう。自分を虐待してはいけない。自分で自分を守ろう。誰も守ってはくれない。道徳的に生きよう。自分にも人にも優しくしよう。
一所懸命道徳的に生きよう。少しくらい辛くても道徳的に生きていればきっと救われる。人を救うこともできる。邪悪なものを一所懸命取り除こう。あのキチガイババアもキチガイ親父も私の邪悪なエネルギーに反応しているのだ。私がいくら何もしていないとか邪悪でないと言い張ってもやっていることは邪悪なのだ。道徳は自由だ。縛られることではなく自由になることだ。不道徳な気持ちではできないことが道徳的であればできる。
私は魔境に落ちたのだ。迷いの中にあっては是非も非という。迷った状態であれこれ言っても仕方がない。全て間違ってしまう。それが魔境だ。意識して道徳的に生きるしかない。
魔道に落ちた私を誰か救ってくれ。自助努力。宗教。道徳。魔境に落ちて魔性となった私もきっと救われる。道徳は自由だ。道徳は力だ。魔性に落ちて神経が麻痺してじっとしていたら沈んでしまう。どこまでも落ちていく。小説もいいんじゃないか。貪ることは良くないが、芸術であれば許される。芸術とは蕩尽である。稼ぐだけじゃなくて消費することも芸である。3億円のストラディバリを買ったやつがいる。高価な美術品を落札する人がいる。稼いだ金を使うことはかくも難しいのだ。芸術家は使い方を知っている。だからパトロンが現れる。ビトンを貢がせる女は芸術家である。私も美に殉じるのか。三島のように。芸術家はとことん邪悪である。なぜそんなものに興味を持ってしまったのか。
道徳的であろう。呼吸法をやったら少し落ち着いた。やっぱりすごい。心理療法に比べて効き目がある。kさんもこんな私では救えない。z氏もそうだ。道徳的であれ。昨日のu氏もそういうことを言っていた気がする。武道をやるということ、能をやるということはそういうことだ。
苦痛は伴うものだということだ。森田療法が教えることはそういうことだ。惰弱な快楽と安逸を貪る生活を続けた結果、そんな当たり前のことがわからなくなったのだ。今まで二次元だったのを三次元に移行するくらいでないといけない。恩知らずはいけない。母親や両親を憎むことは大変恩知らずなことで、地獄に堕ちる。簡単な道徳を守ればいいのだ。森田の教えだ。好き嫌いを越えるのが道徳だ。私は女が恐い。好きではない。でも好きになろうと努力する必要はない。もちろん、恐がる必要はないと言い聞かせ、呼吸法で恐さを取ることは大事だ。でももう一つは、恐くて嫌いでもそれはそれでいいということだ。非難されたり、攻撃されたりすることはない。気分や感情に左右されないといってもいい。これも森田の教えだ。気分や感情という子供のような一時的情動に基礎を置いて左右されるならば、生きることは地獄の苦しみになるだろう。世の中はそういうもので動いているのではない。道徳や思いやり、法や正義という人工的な人間が作った二次的な現実に依存して生きているのだ。それなしに人間が自然に自由に好き勝手なことを始めたら、生きてはいけない。そういうことは小さい頃から繰り返し教えられたはずなのに、邪悪な性分が身に付いたためにわからなくなっている。人間は迷い、過ちを犯す。しかし、そのつど、反省し、悔い改め、二度と繰り返さないと誓い、法や道徳の定めに従い、新しく未来に向かって開かれた時間を生きることを許される。一時的な感情や気分に従って生きることは無理だ。どんな天才でも不可能だ。法や道徳は新たに未来に向かって自由に作り出せるものだ。縛るものであると同時に、自由を確保し、未来を切り開いてくれるものだ。魔道から救い出してくれるものだ。
後悔とか、罪滅ぼしとかそういうものは無意味なんじゃないか。新しく時間は未来に向かって開かれているのにそういう後ろ向きのネガティブな作業ばかりやってるから、うまく行かない。遊びに行ったほうがまだましだ。小説の一つも書いたほうがましだ。スカッとする。
道徳は未来に向かって生きることを可能にする。自由に無限に自由に行き方を整理創造できる。それをしないことは生きることを放棄することだ。
女はそういう意味ではみんな魔境に堕ちているようなものだ。だから気にすることはない。必ず抜け出せる。道徳は自由だ。道徳や思想は自由に未来を切り開いていけると考えて、大学時代は思想に打ち込んだが答えは出ず、逆に魔境に落ち込んだ。そこから這い出すきっかけは何も考えずに遊ぶことだった。もはや何も考えないこと。それが一番道徳的だ。
快楽と安逸を貪ってはならない。道徳に従い、価値を創造せよ。私は今までとは別の人生を歩む。依存的で怠惰で反社会的な態度ではなく価値創造的で、道徳的な生き方をしよう。それは病気であろうと健康であろうと誰でもできることだ。しなければならないことだ。
悪いことはしてはいけないし、良いことをしなければならない。価値を生み出す行為をしなかったら生きてはいけない。b校は恐ろしい。邪悪な人々が集まる。邪悪な波動が生じる。貪ろうという悪い気持ちが充満する。悪が許されるという気持ち。私は怠惰であることが余計にまずかった。悪の波動をまともに受けた。どこでも出て行けばいいというものではない。洗脳体験が良かったのか悪かったのかは何ともいえない。
悪はいけない。洗脳されたから悪が許されるものではない。道徳水準の低下はずいぶん前からだが、それが正当化されるものではない。どうしても価値的なこと、道徳的なことは要る。頭がおかしいからといって悪いことをしていいというものではない。
騙されたと思って森田療法の言うように恐怖突入してみようか。女が恐い、人が恐いといっても恐がる必要はない。
洗脳以降、眠れなくなった。こらえ性がなくなった。セルフコントロールができなくなった。思いやりがなくなった。短絡的になった。衝動的になった。女に腹が立つようになった。目つきが悪くなった。ヤンキーに絡まれるようになった。女ともめることが激しくなった。もうなってしまったものは仕方がない。道徳の力で自由に自分の意志でコントロールできると信じる。
どうしていいかわからない。でも焦らず、自暴自棄にならず、価値あることをしよう。昔いた担任教師は目つきが怪しくきちがいじみていてすぐ暴力を振るった。おかしいと思う。暴力を振るうやつは大体決まっている。暴力を肯定するやつも大体決まっている。精神的におかしいやつだ。私はそうではない。正気だ。優しい。暴力は否定する。道徳的であることを目指せばこの苦境は抜け出せると思う。
本当に道徳的であろう。当たり前のことで全ての人はそうだ。小さい子でもそうだ。
もちろん今は苦しいが、必ず安らかな気持ちになるときは来る。意志の力と道徳の力で必ず自由に未来を切り開いていける。私は確信している。邪悪な状態から脱して社会に貢献できる。必ず。この魔境から脱することができる。
私はきっとこの苦境から脱出できる。道筋がはっきり見えた。悪いことはしないことは当たり前だが、良いことをして初めて人は生きていける。価値破壊ではなく、価値創造が必要だ。
私は人を傷つけたりしない。すぐ暴力を振るうやつはおかしい。戦争なんてもってのほかだ。道徳が大事だ。すごく大事なことに気付いた。偉いとは思わない。当たり前のことで普通の人なら誰でもわかっているからだ。
気分とか好き嫌いとか感情に基礎を置くと辛い。そういう生の一次的現実から離れて、道徳や法律などの二次的現実に根拠を移すこと以外にこの苦境を救う方法はない。快楽や安逸を貪る態度は義務や道徳を軽視する邪悪な考えから生じる。
普通の人は普通に一所懸命働いて、パートナーを見つけ、子供を作り、育て、家を立て、死んで行く。羨ましいと思う。私にもできる。そういうこと以外に何かすることがあると思うところがおかしい。芸術?そういうのは嫌だ。三島由紀夫みたいな人生?無理だ。私は凡人だ。凡夫だ。
今日サントリーの工場で嫌がらせを受けた。私だけお絞りが出なかった。差別だ。私が何をしたのだ。本当に女が嫌だ。接したくない。
頭が勝手に動く。すると女がそれに反応して攻撃的になる。本当に困る。私は悪くない。自分の思うとおりに道徳的に生きよう。全ての人間はそうして生きている。快楽や安逸を貪っているやつなどいない。
私は悪くない。道徳的に生きることにした。モラハラ状況を自分で作る必要はない。恐がる必要はない。
道徳によって自由に未来を切り開くことができる。



2006年05月20日(土) 今日

つくづく調子が悪い。あいつと飲んだ夜からずっと最低だ。どんだけ邪悪なパワーを持っているんだ。モラハラ光線を3時間も浴び続けて回復不能なダメージを受けた。風邪なんかじゃない。風邪薬を飲んでも治らない。kさんとも昨日おかしかった。あの人は敏感なので自分が傷つけられそうになるとわかる。今の私は誰でも腹が立つし、誰でも傷つけてしまう。邪悪な状態に入っている。人は誰でも邪悪な面を持っている。人が嫌いになる。継子いじめだ。あのババアがやっていたことは。そして私は実の母や姉と継子いじめごっこをやっていたのだ。ある日突然素直で明るい私は邪悪になった。邪悪なものをいっぱい見てしまって、邪悪になった。母や家族を憎み、学校を憎み、教師を憎み、社会を憎み、日本を憎み、人間を憎んだ。邪悪なモードに入っていた。今またあの男の邪悪なパワーを浴びて私の邪悪な面が開かれて自分の力ではどうしようもなくなっている。あの洗脳体験もいっそう自分をコントロールしがたいものにしてしまった。何を信じていいのかわからない。昨日の親鸞の教えもわからなかった。耳に入ってはこなかった。疲れている。ダメージを受けている。休むことだ。
膿を出し切るんだ。今は辛いけれどもここを越えればまた楽しい日々が待っている。母や姉とは対立関係が続いている。権力闘争だ。この間埼玉の家に行ったときにわかった。私を憎んでいるんだ。どうして人をそこまでしつこく憎むことができるのか私にはどうしても理解できない。母は私に結婚しろとは言うが、見合いを紹介してくれたことは一度もない。友達を失いたくないから紹介しないのだという。私から身を守りたいと思っている。こんな親子関係があるだろうか。父が死んでから私に対してストーカーのようになった。家に上げろとか言って来た。性的なものを感じた。恐くなって引っ越したら半狂乱になって姉に電話したらしい。頭がおかしい。私がそうしてしまったのだろう。私は女を許したり、愛したりすることはできない。でも性的なものだけが残る。相手をもののようにみてしまう。でもそれは自分に返ってくる。因果だ。私は人をたらしこむことはできるだろう。でもそれを本当に愛されることなのか。愛されたくもないものからストーカー的に狙われる。芸能人と同じだ。もてるということは、そういう形で愛を貪ることだ。どうして一人の人間を誠実に愛し、愛されることで満足できないのか。ドンファンに、光源氏になろうとするのか。私は女を人を好きとか嫌いとか言うことさえ嫌だ。もったいない。時間も手間も惜しい。心が一瞬でもとらわれ、占有されることが忌まわしい。何の利得もなく害悪だけしかないのに、なぜそんな危険なことをしないといけないのか。私はようやくその愚かしさに気付いた。あの坊さんもファンかストーカーのようになっている。それでいいのだろうか。もはや私にはそういう形の愛しか許されていないのだろうか。もの的な奴隷的な。私は宗教なしでは畜生道に落ちるだろう。父母の恩も知らない。
今の精神状態は最悪だ。でもずっと本当はそうだったのだ。最悪な状態をごまかし続けていたのだ。だから今膿を出し切ろう。誰でも邪悪な面を持っている。それは自然なことだ。でも宗教がある。人の道がある。反省や自戒がある。道徳がある。義理人情がある。一人で生きているのではないし、一人で大きくなったわけでもない。
貪る人は邪悪な相に入っている。サドは非常に能力の高い人間だった。でも性をむさぼったために邪悪の極みに行った。三島も非常に賢く、魅惑的な人物であった。でも貪ったために、邪悪な人物となって破滅した。信長もそうだ。仏教は貪ることを縛めている。あらゆる宗教はそうだ。宗教は頼るに足る。今は念仏のように心に入ってこなくても近いうちにわかるようになる。救われる。貪る。憎む。いずれもちょっとしたきっかけで邪悪な相に入って抜けられなくなる。宗教はその辺の事情を知り抜いているから心配ない。頼ることができる。そこから脱出して一段高いところにいけるよう導いてくれる。
あの坊さんも生い立ちが原因で貪ったこともあったろう。でも宗教が救いにもなり、歯止めにもなっている。でも宗教では飽き足りず、文学を貪ろうとしている。でも彼は未知を踏み迷うことはないであろう。それは経験によって裏打ちされた知恵があるからだ。
馬鹿であることはやめよう。賢くなれるはずだ。馬鹿の水溜りにいつまでもうずくまるのは止めよう。貪りたいのだ。安逸を貪りたいのだ。それは許されない。正しい道に戻ろう。獣道から脱しよう。人を憎むことは愚かな誤りであることを知ろう。美しく生きよう。立派に生きよう。安逸を貪る人間は畜生道に落ちるだろう。私を嫌ったから意地悪する。女のやることはそれに尽きる。俺の言うことを聞かないからいじめる。男のやることはそれに尽きる。賢くなろう。貪るのは止めよう。今の状態から一段高いところに行けばきっと何かが見えてくる気がする。宗教的に一段高いところに行かないと今の状態を脱することは難しいだろう。貪ることを止めない限り、畜生道から脱し、正道に戻ることは難しいだろう。
過ちを犯すことは誰にでもある。小さい過ち、大きな過ち。少年犯罪。でも更生してちゃんと生きているものもいる。なぜ更生できたか。宗教的な気付きがあったからだろう。過ちは偶然に作用された一次的な現実だ。それを反省して改めることは宗教的な意識なしにはできない。やってはいけないことはやってはいけない。二次的な現実を見ることができるかどうかだ。その目を持たなければ絶対に治らない。この間姉妹を殺したやつはやったことが悪いとは思わないと明言し、出たら同じ事を繰り返すといった。このような例もある。宗教的な目を持つことを拒否している。一次的な現実の快楽が余りにも大きい場合、人はそこから抜け出せなくなる。サドもそうだ。母親を殺したときに味わった性的快感が彼の人生の全てになってしまった。かわいそうな病人だ。しかも狂人ではないから意識ははっきりしている。憎しみや快楽は一次的な感情だ。人間として生きるには賢くならなければならない。賢くなることは楽しいこととは限らない。快楽を貪る方が楽しいに決まっている。今の私のように安逸を貪ることの方が楽だ。でもそれは現実とはかけ離れている。人間とはかけ離れている。まさに畜生道だ。母親も見放すだろう。
好きとか嫌いとか言うのは愛を貪って肝心なことを忘れている。道徳的、宗教的なことを忘れている。嫌われたら、いい気持ちはしない。あの坊さんも嫌われれば怒るだろう。貪っている。私は母の愛を貪っているのだ。貪るものは滅びていく。
18歳から私は勉強したり、働いたりすることが嫌になった。安逸を貪るようになった。不良だ。それまでは自分に厳しく道徳的だった。でもそうでない芽が芽生えていたのだ。道徳はどうしても必要だ。なぜ働かなくていけないか。宗教や道徳なしには答えは出ない。宗教や道徳を受け入れるならば簡単に答えが出る。
私はちょっとしたきっかけで邪悪の相に入って言った。怠惰、安逸、蛇淫を貪った。七つの大罪を犯した。もともとは素直でいい人間だった。能力も高かった。悪いことを始めると能力も高いだけにとことんまで行った。でも立ち直れる。
二次元で考えているからだめだ。言葉の悪い点は二次元であることだと甲野氏は言った。あのババアはいくら馬鹿とはいえ、三次元だ。二次元に三次元では勝てるわけがない。
新しいステージに上がることが必要だと思う。それは簡単なことだ。新しいステージに上がることは簡単だ。正反合という弁証法で進んでいけば二次元も三次元になる。頑張らないと。頑張ろうと自分から思うのは大丈夫だ。でも頑張り方がわからない。宗教的な意味で頑張ることが必要で、今までの延長上の貪り型の怠惰な虫のいい頑張りではだめだ。マゾヒズムは邪悪の極みだ。怠惰と迷いの極みであって、それ自体は健全なことが病的になる。私はf氏の邪悪な貪り的嫌がらせによってひどい状態に陥ったが、お蔭で大きな問題点に気付いた。
大学に入ったときも新しいステージに上がるチャンスだったのに変な作家の影響で引きこもってしまった。実に文学とは恐ろしい。世間とかかわりのないところで日陰者のように生きていくのか。kさんはそういうことを戒めている。fがネットでモラハラを仕掛けてきた。邪悪な人間はいくらでも嫌がらせの方法を思いつくものだ。病気だから仕方がない。なぜ病気か。遺伝だから仕方がない。私は付き合いたくない。絶対に嫌だ。好きとか嫌いとか関係ない。自分を傷つけられるのは嫌だ。自傷的な行為は止めよう。卑屈になる必要はない。心が晴れた。過ちは改めればいい。時間は未来に向かって開かれているのに、過去に引きこもるのは愚かだ。未来に向かって開かれた時間を生きることが生きることであって、過去に引きこもることは生きるとはいえない。
時間が未来に向かって開かれていることに気付けば宗教的に生きることは可能になる。いくらでも自由に自分の意志で人生を、生き方を決めることができる。嫌なことは嫌といえる。好きとか嫌いとかは内心の問題で自由であるはずだ。それをコントロールしようとするのはおかしい。私は自分を必ず傷つけるとわかっている人間に近づいてしまう。自傷行為以外の何者でもない。やられて黙っているのも過去に生きているからだ。宗教的に生きることが可能だ。人間は。あの殺人者は宗教的に生きることを拒否してしまっている。宅間もそうだ。簡単に宗教的に生きることができるのに。未来に向かって開かれた時間を自ら閉ざすなんて。人生は最後の瞬間までわからない。今までは過去に生き、宗教的に生きていなかったから人間らしく生きていたとはいえない。これからは自分の意志で宗教的につまり人間らしく生きて生きたい。絶対にそれを邪魔することはできない。テフロンのように丈夫になりたい。私は恐がりで、生きているだけでパニックになって落ち着いて考えられない。恐がる必要はない。
かなり悩みが解決した。多くの気付きが普通にものすごい感動など伴わずに訪れた。道徳的、宗教的に生きることはどうしても必要なことだ。全ての人にとって必要でその義務を免れる人は狂人と犯罪者を除いていない。私は意志の力で自由にそれが可能だとやっと気付いた。今日は調子が悪いとか、気分が乗らないとか、そういう問題ではない。快楽や安逸を貪ってはいけない。道徳とはそういうものだ。森田療法は本質を突いている。スポーツもいいかもしれない。好き嫌いなんか関係ない。関係ないのに一番こだわっているのは私だ。関係ないと思うならば、自分もこだわってはいけない。それは重要な問題ではないということと、内心の自由だから、理由など説明する必要はないし、できない。私があるとき、母や権力や学校が嫌いになったのはなぜか説明できない。でも嫌いになるのは自由だ。嫌いだからといって迫害されることがあってはならない。好きにならなければいけないものでもないし、好かれなければならないものでもない。この強迫観念の嵩じたものが芸人なり、小説家になったりする。芸人になど誰もなる必要はないのだ。これで後戻りすることはない。とてつもなく気持ちいいとか、気分爽快でなければならないものでもない。憂き世と昔の人は言った。憂鬱なことが多いのが世間だ。それで一人だけいつも上機嫌なんてありえない。皆砂をかむような思いをしながら生きているのだ。好き嫌いは関係ない。道徳の問題だ。好きなものにばかり取り巻かれて生きることなどできない。その代わり、好き嫌いのために迫害されたり、攻撃されたりするいわれはない。女を好きとか嫌いとかいうこと事態がもったいない。時間と労力と精神エネルギーと未来とが損なわれる。道徳的に生きるのに他人に好かれるかどうか他人が好きかどうかは関係ないのだ。
働くことは自衛である。自分の身は自分で守ってよいという権利と、守らなければならないという義務の両方がある。私は働きたい。自分の能力を発揮して自己実現したい。その意欲がまずなければならない。そして自分を守るためには働かなくてはならないという義務がある。これを受け入れなければならない。こんな簡単なことが中学のとき突然理解できなくなったのだ。抑うつ神経症というやつか。
洗脳体験は私が未来に向かって生き始めたことで有意義だったと認められるだろう。道徳的に生き、快楽や安逸をむさぼらないという覚悟ができたことで意味があっただろう。やっぱり休んでよかった。中学以来の悩みがほぼ解決した。気分の変調はあるだろう。変動もあるだろう。しかし、それは好き嫌いと同じで重要な意味はない。人間は宗教、道徳、思いやりという二次元、三次元の世界を生きなければならないのであって、快楽や安逸をむさぼるという一次元の世界に留まることは許されないのである。
感動よりも実践だ。せっかくいいことに気付いたのだ。これは100%実行あるのみだ。道徳的であろう。努力しよう。快楽や安逸を貪るのは止めよう。芭蕉は芸術のために命を懸けていたのであって、決して浮かれ歩いていたわけではない。山頭火だってそうだ。kさんだって良い作品を書きたいと思っている。私だけどうしてそういう風に考えられないのか。でも今は考えられるようになった。時間は未来に向かって最後の瞬間まで開かれている。走れメロスを書いた太宰は全くメロス的な人物ではなく女と情死してしまう破滅的な人間だった。でも私は嫌だ。そうなりたくはない。きちんと社会生活を送りたい。だったら道徳的で努力することが必要だ。金が天から降ってくるわけはない。努力しよう。人は関係ない。どれだけ女が嫌いだろうと努力はできるし、関係ない話だ。女が好きであろうと嫌いであろうと不利益を受けるいわれはない。
今日は阪大中之島センターでインドヨーロッパ語族の話を聞いてきた。すごく面白かった。面白いということは理解できたということだ。少し回復してきた。キチガイ親父の嫌がらせなんか気にならない。キチガイのキチガイたるゆえんだ。哀れみしか湧いてこない。それから朝日ビルに移動して内田樹の対談を聞いてきた。今日は盛り上がらなかった。でも面白かった。キチガイのモラハラから回復してきた。でもあれで自分を守ろう、道徳的、宗教的に生きようと思ったのだから、キチガイの力は偉大だ。
新しいステージに意志の力で上がっていくのだ。道徳的に生きるのだ。宗教的に生きるのだ。自分の身は自分で守るのだ。
食事はおいしくなかった。ビールもおいしくなかった。嫌なことがいっぱいあった。キチガイ親父の嫌がらせからまだ立ち直っていない。精神的嫌がらせから病気になったのは久し振りだ。道徳的に生きよう。時間は未来に向かって開かれている。道徳的に生きるのだ。
モラハラはこちらが道徳的であることで克服できる。モラハラは間違った行為なのにそれでいいじゃないかと思ってしまうことがおかしい。



2006年05月19日(金) 今日

今日は雨らしい。女を嫌うことは損だ。時間と労力の無駄だ。女の悪い性格は直るわけはないし、私のせいではない。私のせいではないのを何で私が面倒を見ないといけないのか。女を嫌うことは親切すぎることだ。絶対に相手にしてはいけない。何か世界が開けた。自由に振舞おう。王侯貴族のように振舞おう。嫌うのさえもったいない。嫌うというのは同じ土俵にいるということだ。絶対にそれはおかしい。せっかく男に生まれたのだから、絶対にそんな損なことはしてはいけない。差別とは非常にいい仕組みだ。差別しておけば嫌いなものと距離を保てる。差別とはいい仕組みだ。婆とかコギャルとか自分から差別してくれといっているようなものだ。嫌うほどばかばかしいことはない。絶対損だ。その必要はない。もったいないことだ。中学の頃母親を嫌った。全く無益なことだ。母親は私の世話をしてくれた。それを嫌うのはよくないことだ。無益なことだ。
人を嫌うのは悲しいことだ。私は中学の頃母親を嫌った。それは純粋に意地悪な残忍な気持ちからだ。娘が思春期に父親を嫌うのと同じかもしれない。悪いがきの影響かもしれない。でもそれは意志の力でコントロールできる。宗教的な気持ちが大事だ。性的なものは違う。私が女が嫌いというと性的なものがむき出しになる。男と女を結びつけるものはそれしかないからだ。女を嫌うことの危険性はそこにもある。嫌う必要などないのだ。醜いから嫌う。それは無益なことだ。暴力的なことだ。母親を嫌うことは父親を嫌うことでもある。なぜ嫌うのかわからない。ハンセン病患者を嫌う。死馬牛処理者や芸人、遊女を嫌う。理由は様々だ。醜いから、汚らわしいから、馬鹿だから、卑しいから。差別は嫌うことのエネルギーを節約する。社会的な制度だ。差別が悪いというならその前の嫌う気持ちが問題になってくる。故しらず嫌いと言うのもある。親父差別は厳然としてある。こうなったら完全に自由になることしかないと思う。昨日の夜そう思った。村上龍みたいに穢れたもの、差別されたもの、聖なるものに踏み込んで、一体化する。そうすれば恐いものはなくなる。宗教に惹かれるのはそういう理由だ。
母親を嫌うようになった。父親を嫌うようになった。兄姉を嫌うようになった。教師を嫌うようになった。級友を嫌うようになった。日本を嫌うようになった。世界を嫌うようになった。自分を嫌うようになった。ついに自殺を図った。なぜそうなったのかわからない。嫌うことはもったいない無駄なことだ。大変な労力を強いられる。でも嫌うことには何か必然性もあったかもしれない。それを解き明かすことは不可能だ。そうではなくより高次の段階を目指すことだ。何かに夢中になることだ。体を使うことがいいだろう。



2006年05月18日(木) 今日

今日は少し咳がよい。鼻水も出ない。今日も会社に行かなくて良い。嬉しい。女に会わなくてよい。嬉しい。
私は人がたまらなく嫌いになることがある。大体の人間はそうなる。これは小さい頃、変なやつと付き合って母親をけなされたことによる。それ以来、母親や兄弟が嫌いになった。嫌いになる理由はない。でも今は婆とか見ると本当に嫌いになる。あの職場はババアがうじゃうじゃいる。信じられない気持ちの悪いババアばかり。どうしていいかわからない。らい病みたいな気持ち悪いババアでもうつることはないのだから、恐がらないことだ。さりとて全く相手の自由になることもないのだ。ババアの餌食になる必要もないのだ。嫌いなら嫌いで良い。kさんでさえババアは嫌いといっている。
恐がる必要はない。恐がるから余計に悪いことをしてくる。客観的に言って私は少しもおかしくない。おかしくない人間が会社を休まないといけないと言う方がおかしい。職場を何とかしろ、いじめをやめさせろということだ。そうでなかったら復職しても同じ結果になる。
道徳的である必要はないじゃないか。何の理由もなく人を嫌いになることはある。母親が突然嫌いになった。それは仕方がないことだろう。私はわがままで甘やかされたので兄弟たちは不快に思ったかもしれない。でもそれなりに付き合うことはできたはずだ。でもそうはならなかった。そうならなかったことを今更悔いても仕方がない。それを悔いていることの方が病的だ。今道徳的であろうとしていることのほうが病的だ。キチガイみたいなやつに絡まれたら逃げれば良い。反撃すれば良い。寝逃げしていれば良い。恐がる必要はない。無防備無抵抗である必要もない。法学部に行ったのも自分が強くなりたいと思ったからだ。利用されたり、馬鹿にされたり、いじめられたり、虐げられたくないと思ったからだ。それは自由に利用してよい。いじめは非合法なものだ。中学のときに受けた教師によるいじめは非合法で犯罪的なものだ。自分の感情を晴らすためにやった私的なものだ。いじめは非合法であればこちらも黙っている必要はないということだ。こちらも非合法であってもよいということだ。相手が道徳的に振舞わなくてもいいということだ。ババアとかコギャルが道徳的に振舞うことを期待するなんて馬鹿じゃないのか。犯罪者なんだ。あいつらは。そんなやつらに道徳的に振舞う理由はないということだ。道徳的であることを期待する必要はない。それに何より恐がる必要はないということだ。何が恐いんだ。あんなもの。ウジムシ。豚。ごくつぶし。エイズウイルス。らい菌。
中学の頃、母親と対立して死闘を繰り広げた。担任ともだ。高校に入ってからはクラスから孤立した。担任とも対立して虐待を受けた。母親とは病気で戻ってきてからまた死闘を繰り広げた。父親の死という結末で終わりを告げたが、今度はストーカーみたいに私を追いかけ始めた。同時に私と張り合う気持ちもあったらしい。父親を巡って私は母親とライバル関係にあったのだ。母と娘という対立軸で考えるとわかりやすいかもしれない。それで私は一生のエネルギーをほとんど使い果たしてしまった。女を愛することも家庭を持つこともできないくらい疲弊してしまった。今また母親の代わりみたいな女と死闘を繰り広げて殺されそうだ。母親から必死で逃げたのに職場に現れたという感じだ。恐がる必要はないじゃないか。
父親と思春期に疎遠になる娘というのもあるから、私も異常とは言い切れない。母親を嫌ったのは申し訳ないと思うが仕方のないことだ。姉とも仲悪かったから必然だったのだ。今も女が好きではない。嫌いなものの餌食になるのは我慢できない。当たり前のことだ。好きになんかなるわけがない。
スーパーにものすごい気持ちの悪い女がいる。目に見えない嫌がらせをしてくる。完全に頭がおかしい。死ね。くそ女。ウジムシ。
堺って普通じゃない。人間の住むところじゃないし、働くところでもない。最低最悪だ。誰もこの町のことなんか好きではない。住んでいる人間が一番好きではない。
甲野善紀の講座を聞いてきた。すごく面白かった。実演が怪しさの一歩手前で面白かった。言葉では説明できないがすごい技を持っていることは信じることができた。胸がすっとした。私も武道をやりたい。合気道をやろうと思っていたところだ。体が大事だ。言葉はaからbにしかいかない。それに対し、体は三次元を自由に動ける。非常に大雑把だが、わかる気がする。体のほうが賢いという最近の私の流れと一致している。ヨガ、呼吸法、気功太極拳。あれは体だけじゃなくて脳と体の共同作業で、あの人の脳は尋常じゃないと思う。目が普通じゃなかった。体だけでもなく脳だけでもない。私は脳だけだから、あの体育馬鹿に負けたのだ。私も体を使えばいいのだ。体を使ってはいけないと誰が言ったのだ。女なんか嫌いになるのも馬鹿馬鹿しいだろう。全ての問題が解決した。体を使えば全てわかる。女なんか嫌いになるのも馬鹿馬鹿しい。それに尽きる。私は今何も悩みがない。あの人のあの演技を見た後では、全てが違って見える。



2006年05月17日(水) 今日

今日も少し風邪が残る。信じられないくらいしつこい。姉から電話がかかってきた。たまらなく不愉快な気持ちになる。私が女嫌いになった最大の原因だからだろう。我慢したり、受け入れたりする必要はない。別に何の負い目はないのだ。道徳的に私を批判することは絶対に許されない。絶対に受け入れられない。それが原因で病気になった。俺が女が嫌いで何が悪い。何でそれで不利益を受けないといけない。逆じゃないか。俺は女にひどい目にあったから嫌いなんだ。それで女を恐がったらいじめられるのか。おかしいんじゃないのか。あの九州にいた6年間、私は母親と死闘を繰り広げたのだ。間に入った父親は死んでしまった。私は母に憎しみしかない。私の人生を台無しにした。こうして借金を申し込むと即座に断り、会いたいといってのこのこ出てくる。大嫌いな姉を伴って。たまらない。この年になって説教するつもりか。絶対に許さない。
私は中学の頃、家が嫌になった。一切口を利かなくなった。その前から兄姉とはうまくいっていなかった。年が離れていたし、何かというと私を批判した。口を利かないというのはモラハラだろう。でも仕方がなかった。自分を守るためだ。
嫌だけど受け入れるというのがいけない。嫌だったら受け入れない。こういう覚悟が必要だ。モラハラに対する対応法だ。
受け入れる必要はないし、道徳的に振舞う必要はないし、相手にする必要はない。私は女を必要としていないからだ。親切は暴力だ。あのババアは暴力的だから、嫌だと言っているのだ。嫌だからくるなといっているのに来るのは暴力だ。とにかくもううんざりだ。
金を貸してくれとかいったので自分が必要とされていると勘違いして来ようとしているような気がする。親切という名の暴力だ。過保護が虐待だと知った。基本的に女なんか必要ないのだから、暴力を振るわれる必要はないのだ。私は精神的に不安定だ。大嫌いな女に話しかけられただけできれそうになる。親切という名の暴力。看護婦なんて暴力が振るいたいからなったようなやつばかりだ。全ての女はそうだ。女はなぜ母になるか。愛という名の暴力を振るいたいからだ。
あの坊さんが負担になっているのじゃないかという気もしてきた。あの病気のおっさんはそれはそれでいいのだ。英会話のおっさんも無邪気なものだ。人の交際関係に口出しするからおかしくなったんじゃないだろうか。私もあのおっさんはまともとは思っていない。でも通常社会からはじき出されたもの同士、共感を持っていたことは確かだ。昼間気分が悪くなったのは初めてだ。しかもなかなか回復しない。
死ね。くそ女ども。俺に命令するな。俺の前に出てくるな。死ね。何でお前らなんか受け入れないといけないのか。死ね。道徳なんかお前らには関係ないのだ。
だいぶわかってきた。自分がどういう状況に置かれていたか。どうして抵抗できなかったか。犬のくそみたいなやつらに。何で受け入れられないものを受け入れないといけないのか。何で耐えられないものを耐えないといけないのか。道徳なんか関係ないのだ。レジの女でも平気で暴力を振るってくるのに何で我慢しないといけないのか。
卑屈になる必要はないし、なってはいけない。このままでいいわけない。絶対に変えさせる。絶対にあの職場には戻らない。職場全体がモラハラ状況になっている。完全におかしい。絶対におかしい。モラハラを許してはいけない。
ところで今状態が良くない。風邪が治らないのもある。いらいらしやすい。道徳的にあれこれ言われるのが一番腹が立つ。精神状態が苦しいのに道徳的に非難されるのが一番腹が立つ。
私が中学のときに受けていたのは虐待であり、モラハラである。高校に入ったときそっくりな教師がいて、全く同じことをされた。私の遅刻を咎める理由も同じ。自分に注目されていたのが邪魔されるから。どんな理由なんだ。完全に頭がおかしい。自己愛性人格障害。何でそんなやつが教師をやっているんだ。死ね。
良い人間は飽きた。良い人間でいる必要なんかどこにあるんだ。何かいいことはあったのか。いじめられただけじゃないか。自分のほしいものは何一つ手に入らないじゃないか。良い人間はもう良いんだ。この状況を脱出するのは悪い人間になることだけだ。一年半休んで海外や温泉に行って、元の職場には戻らない。それだけだ。良い人の振りをしていると攻撃してくる。特にババアは餌食と思って群がってくる。殺してやろうか。くそババアめ。
悪いことがしたくてたまらない。私を傷つけいじめた人間を殺したくてたまらない。良い人間でいてこの状況を突破できるなんてありえない。悪人であることが大事だ。極悪人になろう。そうすればくそババアもくそ女も恐くない。どんなくそ女よりも極悪になってやればいいのだ。それが答えだ。良い人になろうとちょっとでも思えばくそババアの餌食になるのだ。
ちょっとでも良い人であろうとするのは止めよう。あのキチガイ親父に良い人であろうとしたために傷つけられた。私は良い人であろうとするためにいつでも傷つけられる。ババアなんか人殺しと考えて間違いないのだ。
本当に疲れた。良い人でいるのは疲れる。だから良い人でいるのは止めた。良い人であることを強いる日本社会もうんざりだ。kは極悪人、hは善人面しているがやっていることは同じだ。良い人はうんざりだ。何だあのキチガイババア。まともなことはできないのか。ババアなんか恐がる必要はないのだ。心に正直に生きればいいのだ。
イルゴイエンヌの本読了。大変参考になった。目からうろこが落ちた。私のことを書いてある。こういうことは世界中にあるのだ。日本では法制化は無理だろう。できたとしても私の定年後だ。定年までいるかどうかわからないが。女を嫌うということはモラハラなのだろう。私は中学の頃、母親が嫌いになった。なぜかわからない。付き合っていた馬鹿のせいかもしれない。でも思春期にはそういうこともあるだろう。母親には親不孝をした。父親にはもちろん。金の無心をするのは親不孝だろう。でも今の私には必要なのだ。
極悪人になろうと思った。この世で一番の極悪人に。そうすればくそ女のせいで傷つけられたりしないだろう。ちょっとしたことでびくびくおどおどしたりしないだろう。極悪人のババアにいじめられることもなくなるだろう。更に極悪人になればいいのだ。
世界一の極悪人になろう。女はみんな極悪人だ。それに負けてはいけない。絶対に負けない極悪人になろう。



2006年05月16日(火) 今日

風邪がすっきりしない。何でこんなに時間がかかるのか。咳も出る。こじらせるとろくなことはない。風邪だと気分がすっきりしない。ゆっくり休んで好きなことをやろう。頑張らないといけないのだろうか。今は頑張れない。頑張れないとモラハラに遭う。これは間違いない。
受け入れないということが大事だ。卑屈にならない。嫌だけど我慢して受け入れるというのは止めよう。私はキリストじゃない。嫌なことは嫌だ。絶対に受け入れない。
最近はどうも疲れる。いらいらすることが多い。女を見るだけで腹が立つ。声を聞くだけでも腹が立つ。何もしていないのに攻撃してくる。許せない。
女って本当に腹が立つ。側に来られただけで恐い。腹が立つ。実際に全く意味もなく攻撃してくる。私が職場にいけなくなったのは、くそ女どもが全く意味もなく攻撃してくるからだ。女なんか地球上からいなくなれ。
kさんは攻撃的ではなくおとなしい。古本を読んで満足しているようなおとなしい人だ。そういう人に私はなりたい。
恐がる必要なんかないし、気に入られる必要や理解してもらう必要はないし、和解する必要などない。受け入れられる必要はないし、穏やかである必要などない。全く受け入れがたいことを強いられても困る。私は絶対に受け入れない。絶対に受け入れられないことはあの職場に戻ることだ。Hとかkのいるところに戻ることだ。受け入れがたい気持ちの悪いやつを受け入れることはできない。
三ヶ月休んで少しは回復したようだ。夜はよく眠れる。そして自分のことがよくわかる。女が全く恐くなくなった。恐怖によるマインドコントロールからも自由になった。私はkと同じくらいhが嫌いだ。我慢ならない。あいつと一緒にいる限りはモラハラ状況は改善されない。あいつこそがモラハラだ。あんなやつと一緒に仕事をするなんて自殺行為だ。
何でこんなに嫌いなのに仲良くしないといけないのか。それがモラハラだというんだ。嫌いなやつと仲良くしないといけないと思ってしまうことがマインドコントロールされているのだ。私は今や自由になった。ある日突然自由になった。時間が解決してくれたのだ。
女なんか100人に一人好きになればいいのだ。もちろんならなくても良い。そんなのは自由だ。男を一人も愛さなかった女だっている。一人しか愛さなかった女だっているだろう。全ての女に好かれようとすることがモラハラの初めだ。そんな必要はないし、そんなことは不可能だ。
私はモラハラ的なのかも知れない。あのキチガイは自分にされたことをその通り私にしているのだろう。それが余計に腹が立つ。儒教社会は基本的にモラハラ的だ。家父長的な社会は大なり小なり、モラハラ的だ。しかしババアには通用しない。ババアとコギャル。常識は通用しない。
私の家庭はモラハラ的だった。どこの家庭も大なり小なりモラハラ的だろう。今日のkさんとの会談は失敗だった。私は風邪が完治していないためにいらいらしていた。私は多くのことをしてもらっているのに感謝が足りない。そのことに気付いた。それと人を怒らせることをしているのに怒ると逆切れする。多分キチガイババアを怒らせることをしているのだ。ババアだから当然だと思うのだ。なぜならババアが嫌いだからだ。
結局あの職場も私は仕事をしないで何とか乗り切ろうとしている限りはだめだろう。
真剣に女が嫌いだ。自分の身を守りたい。女を好きになったことはない。恐いものは好きにはならない。自分に意地悪をしてくるものを好きになったりはしない。仲良くしようなんて思うからモラハラ的な状況になるんじゃないのか。どこに女と仲良くしなければいけない理由があるのか。全くわからない。



2006年05月15日(月) 風邪

風邪がなかなかよくならない。もう二週間以上になる。あんなおっさんと飲みに行ったのが間違いだった。風邪だと気分が優れない。楽しめない。すぐ疲れて不機嫌になる。
あるがままというのは魔法のキーワードらしい。私の症状は女恐怖症じゃないのか。女が恐くてもいいのであって、恐ければそれを認めて反撃するとかが有効だ。恐いのに恐くないと思ったり、恐い自分が恥ずかしいと思ったりして適切に反応できなくなる。呼吸法で恐怖を抑えることはできるが全くなくすことはできない。
本当に疲れる一日だった。こんなに疲れる必要はないのだ。ゆっくりマイペースで行けばいいのだ。朝、よく眠れなくて気分が悪い。夜中に窓が少し開いていたらしくまた調子が悪い。まだ咳が出る。いい加減嫌になる。あのキチガイ爺のせいだ。市役所には二回も行かないといけない。カードローンを使おうとしたら、失敗する。嫌になる。さっきのスーパーもレジはほんとに気持ち悪かった。それと電話したカード会社の女がほんとに気持ち悪い。私は女というだけで嫌なのだ。
休んでいて一番いいことは女と接しなくていいことだ。一日寝ていれば良い。このモラハラ状況を一度完全にリセットすることだ。自分に振るわれている暴力を一切正当化しないことだ。卑屈にならないことだ。戦うことだ。女が嫌いだったら完全に排除することだ。その自由がある。卑屈になる必要はないのだ。道を歩いていて自転車でぶつかって来られる理由はないし、スーパーの中でぶつかってこられる理由もないし、キチガイレジ女におかしなことをされる必要はないし、くそカード会社の女におかしな口調でものをいわれる必要はないのだ。
私はこのことを理解してもらおうとは思わない。そうすることは既に卑屈だからだ。だが止めさせることはできる。私がこうして休んでいれば誰も何もできない。母親は私が電話したとき、私を傷つけた。このことを理解させることは絶対にできない。絶対に私は人に理解してもらうことを望まない。
一年間休んで傷ついた脳を回復させることと、二度と同じことが起こらないようにあの場所には戻らない。この二つが大原則だ。
何もないと考えればいいのだ。被害妄想的になっていたのが少し改善した。悪いことなんかできないのだ。もしそうなら攻撃できるのだから。



2006年05月14日(日) 今日

今日はよく寝た。デパスだけでよく眠れる。今日は遠足は行かないで家でゆっくりしていよう。別に私は女ともめる理由はない。恐がる必要はない。直ちに反撃防御できるからだ。
女とどうやってうまくやるかとか言う問題設定がおかしい。嫌いだったら付き合わなくて良い。卑屈になる必要はまったくない。嫌いなものを好きになる必要はない。自分を守ることは自由だ。恐がる必要はない。恐がる必要はない。
堺の女は全員キチガイだ。ブスで人殺し。さっき自転車でぶつけられそうになった。完全に頭おかしい。女は全員キチガイだ。人殺しと仲良くはできないだろう。やくざでキチガイで人殺し。それが女だ。
何で仲良くしないといけないんだ。何の用があるんだ。というかなんでいるんだ。女って。死ね。今すぐ死ね。



2006年05月13日(土) 今日

今日は雨で鬱陶しい天気だ。楽にしよう。苦しいことをわざわざやることはない。金を使うことは苦しいことだ。自分で自分の首を絞めることだ。自分が得をすることをしよう。借金することは更に苦しい。仕事を休んでいることも復帰のことを考えると苦しいことだ。自分を苦しめることをしてしまう。
楽になろう。楽になることをしよう。脳が痛んでいる。中学時代からそうだ。高校時代は全くモラハラ状態だった。恐れることはない。恐れる必要はないのだ。恐れる必要はないとは、自由に自分の身を守っていいということだ。自己防衛、反撃は自由ということだ。
女が本当に嫌いだ。理由なんかない。本当に嫌いだ。恐がる必要はない。恐がる必要がないというためにはいつでも自由に反撃防御できなければならない。そしてそれはできる。
卑屈になる必要はない。恐がる必要はない。恐がる必要がないということは即座に反撃し、防御できるということだ。本当に女が嫌いだ。でも恐がる必要はない。恐くないのだから、嫌いでも一向に構わない。
卑屈になる必要はない。マインドコントロールされる必要はない。恐がる必要はない。いつでも即座に反撃防御できるのだ。



2006年05月12日(金) 過保護

過保護は虐待なのかと思った。やっぱり私がうまいこと女の攻撃を避けることができないのはそういうことかと思った。手をもがれたような気がする。
思い通りにやったらいいんじゃないかと思う。腹が立ったら怒れば良いし、嫌なことをされたらやめろといえばいい。
今日は朝から呼吸法をやってすごく良かった。ある種のエクスタシーさえ感じた。トラウマの治療さえ可能かもしれない。
母親に借金を申し込んだら断られた。散々嫌なことを言って結局貸さない。ほんとに嫌なババアだ。銀行から借りるのが一番良い。今しか金を使うときはないのに、この病気に関する理解がないのにも驚いた。会社から何も言ってこないのかとか、行ったほうがいいのじゃないかとか、いけないから休んでいるんだろうと。道徳的に悪いみたいに言ってくる。言うんじゃなかった。自分の責任で自分が回復するまで休むんだろう。何を言っているのかわからない。私の脳はめちゃくちゃに傷ついているのだ。女は私の顔を見ると喧嘩を売ってくるし。電話でも切れられる。去年のgwに鹿児島で変な女に電話で切れられた。今日は病院に電話したら、何の予約ですかといきなり切れられた。何でそこで喧嘩を売られないといけないのか。全くわからない。
人間はやりたい放題やっている。私はやりたいことを全て諦めてこれ以上ないほど卑屈に生きている。こんな馬鹿なことがあるか。私はやりたいことをやる。当たり前のことだ。卑屈になってはいけない。女が嫌いで何が悪い。恐がる必要などないのだ。恐がる必要がないとはいつでも好きなように自分を守っていいということだ。



2006年05月11日(木) 木津温泉

木津温泉から帰ってきた。疲れた。風邪のときなんかに行くものじゃない。半分くらい損した。食事のとき失礼なババアにモラハラされたし。どうしてもババアはだめだ。薄気味悪い。先週あのおっさんと酒を飲みに行ってから本当に調子悪い。kさんも同じようなものなのだが、病人ではない。人格障害かもしれないが、薬は飲んでいない。
自分が自己愛性人格障害かもしれないと思って読んだが、そんなにひどくはない。あのキチガイは間違いなく人格障害だ。私は過敏すぎるので人の意を汲んで卑屈になりすぎる嫌いがある。女の気持ちなんかどうでもいいのだ。そんなものを気にするいわれはないのだ。私は性格的にも精神的にも全くおかしくないと思った。小さい頃から全く正常で、それどころか本当に美しい、立派な心根の持ち主だと思う。あの卑しいキチガイババアとは全く違うのだ。本当に死ねと思う。
恐がってはいけない。いけないではなくてその必要はないということだ。その必要はないということはいつでも反撃してよいと言うことだ。そうでなかったら、恐れなくても良いと言うことにはならない。いつでもいかなる手段でも反撃してよいから、恐れなくていいといっているのだ。
私は精神的におかしなところはない。性格的にも善良で常識的だ。たちの悪い犯罪者じみたあのきちがいどもとは全く違う。
あの温泉の仲居は本当に気分の悪いやつだった。私にモラハラを仕掛けて来た。大体旅館の仲居とはうまく行かない。水商売の女は嫌だ。ぞっとする。ヤンキー特有の嫌な感じがある。全く相容れない。では素人がいいのかというとやっぱり嫌だ。要するに女は嫌なのだ。激しい怒りと嫌悪感を感じた。恐れる必要はないのだ。でも気味が悪い。蛇が好きになれないのと同じだ。
恐がる必要はない。でも危険があるならば、適切な反撃、防御をすべきである。無抵抗、無防備ではいけない。女なんか恐がる必要はない。
姉は私を異様に嫌っていた。私は何とも思っていないし、何も悪いことをしていないのにもかかわらずだ。私は女なんか全く恐がっていない。でも危害を加えるならば必ず反撃する。無防備、無抵抗くらいばかばかしいことはない。JALのスッチーにも投書してやった。私のこの気持ちは間違っていない。感情は間違うことはないのだ。恐がる必要はない。それは自分の利益を死守するという決然たる覚悟があってのことだ。恐がっていては反撃も防御もできない。モラハラから自由になろう。私は女に対してモラハラ状況になっているのだ。マインドコントロール状態になっているのだ。これを解き放つことだ。恐がらなくなることだ。これが答えだ。恐がる必要などないということを心の底から納得することだ。
私の療養の目的は大きく少なくとも二つある。ストレスでだめになった脳の働きを休養によって回復させる。これは時間がかかる。これだけで一年はかかると見ている。もう一つはモラハラから過敏状態になったマインドコントロール状態の呪縛から解き放つということだ。女なんか恐くないと心から思えるようになることだ。
自己肯定感が持てるようになってきた。何か自分が間違っているような気がしていたが、自分は何も間違っていない。恐がる必要なんかないのだ。
時間は一年半ある。一年半しかない。それまでに上記の目的を達成し、健康な働ける体にしないといけない。これははっきりした目標だ。無駄にする時間はない。何よりも自分の回復を最優先しよう。あんなおかしなおっさんとじゃれあっている暇はないのだ。嫌なことは止めとく。そうでないと回復を遅らせることになるからだ。自分が損すること、嫌な思いをすること、苦痛なことはやらない。絶対にやらない。あんな英会話なんか金輪際行かない。何で金払ってモラハラやられないといけないのか。
恐がる必要がないというためには、攻撃されたら即座に反撃防御することで、それを止めさせ、自分を守ることができること。精神的にマインドコントロールされていないので即座にその行動が取れること。この二つを確保することだ。それができるまで出勤はしない。
私は本当は温泉嫌いなのかもしれない。温泉旅館が嫌いだし、旅館の仲居が嫌いだし、来ているやつらは我慢ならないし。私は温泉が大嫌いだ。



2006年05月10日(水) 今日

今日は割と眠れた。デパスだけで朝まで眠れたので不眠とはいえない。人の嫌がることをして何で受け入れないのかと怒っていじめる。これが女のやることだ。私は女が嫌なのだ。恐がる必要はない。でも学校でも半数は女だったし、いなくすることはできない。



2006年05月09日(火) 今日

今日は少し体調が良い。昨日少し眠れたのが良かった。明日は元気に温泉に行きたい。書いてる暇があったら読もうと思う。書くことは自分の中から搾り出す苦しい行為だが、読むことは人から贈り物を受け取る楽しい行為だからだ。
恐がらないことだ。恐がる必要はないのだ。恐がると向こうが恐がる場合と、逆に攻撃してくる場合とある。あのキチガイは攻撃してきた。自己愛人格障害は自分にも当てはまる。入社したときのあのキチガイにされたことは、モラハラだが、知らぬ間にそれが自分にうつっている。それをあのババアが何でもまねするからそれを取り入れたのだ。仕事だけはする気がしないのはなぜだろう。集団のために働くことをこんなにも嫌がるのはなぜだろう。
自由であること。あのキチガイババアは本当に自由だ。それがねたましいのだ。人間がこんなに自由であってはならないと言う思い込みがある。大阪のおばはんは全く自由だ。何でそんなに自由なんだと怒っても仕方がない。それから身を守るためには野獣を相手にするようにしないといけない。一からしつけをしようとしてもしつけられるはずがない。恐がらないことが必要だ。恐がる必要はないのだ。恐がる必要はない。私も全く自由だ。全く自由なのだ。だから恐がる必要はないのだ。全く自由な人間は野獣を恐れない。
私は恐がりだが、全く恐れしらずな面もある。両方があってバランスしているのだ。私も知らないうちに人を恐がらせているのかもしれない。暗いとか何を考えているのかわからないとか。実際発病してからは自分でも自分がよくわからない。ところでこんな非生産的なことをしているより、元気を取り戻してよく働き、よく遊ぶと言うのが重要だ。
恐がる必要はないが、全く無防備とか無抵抗とか言うのは良くない。全く良くない。本当に攻撃してくるやつがいるのだ。本当に世の中が平和で善意に満ちた人ばかりならそれでもいいが、そうじゃないやつが多すぎる。姉がそうだった。中学の担任がそうだった。こちらがどんなに善意であっても犯罪者はそんなことはお構いなしだ。恐がる必要がないということはこちらがいくらでも抵抗できると言うことだ。あの職場は私が全く抵抗できないようになっていた。私はあの職場には戻らない。完全に安全な状態に戻らない限りは。アサーティブの研修でも変な女にいじめられた。文校でもそうだ。職場でもどの職場でもだ。無抵抗ではいけないのだ。恐がっているから抵抗できないのだ。犯罪者はあの手この手で、平気で犯罪的なことをしてくる。
全く自由に自分を守ってよいから恐がる必要はないので、全く自分で自分の手を縛って、無抵抗と言うならそれは恐くない方がおかしい。命知らずと言うべきだ。力の均衡があって、こちらの抵抗力がはっきり確立しているから、安心していられるだろう。恐がる必要がないのは、女なんかに負けるわけがないからだ。私が法律を学んだのは自分を守るためで十分筋道が通っている。世の中には犯罪者みたいなやつがうようよしているのであって、その中で素っ裸で歩いているようなものだ。無抵抗、無防備であってはならない。恐がる必要はないというのはそういう意味だ。危険でないと言うのではない。子供でも男の子は明らかに攻撃してくるのだから、簡単に言えば殺したっていいということだ。自分の身を守るためにはそういうことだ。弱肉強食と言うことだ。
姉が何の理由もなく私をいかにも道徳的な理由で、猛然と攻撃していた。私が嫌いと言う以外の何の理由もなく。人が私を嫌ったとしても私には責任はない。自分を責める必要はない。何とかして好かれないといけない理由もない。父が死んだときも私を道徳的に攻め立てた。何を考えているのかわからない。私を見ると何かスイッチが入るらしい。あのババアと同じだ。恐れる必要がないのはいつでも反撃ができるからだ。私は暴力以外自分を守る術がなかったので暴力を振るった。口で人を傷つけることと、暴力は等価と確信した。だから止めなかった。私を傷つける言葉を吐き続ける限りは。この間、母親の見舞いをかねて行った時もおかしな対応だった。人としておかしい。絶対に私を普通に扱おうとはしない。普通には絶対にしゃべらない。食事もハンバーグ一個でビールは缶ビール350m一缶。俺が酒のみなの知ってるだろう。しかも久し振りと言うか初めて家に行ったのに何の親しみも持たないと言うのは精神的虐待だったと思う。あの姉はずっと私に精神的虐待をしていたのだ。この間、白浜に行った時も、全く私に連絡を取らずに勝手に行動して、訳がわからなかった。何でこんな目に遭わないといけないのかわからない。とにかく私を恐がり、先制攻撃してきた。私は何もしていない。私は人と仲良くしようなんて思わない。今まで仲良くしてもらったことなんかない。恐れる必要がないというのはどんな手段を使っても自分を守ってよいと言うことだ。こちらにも対等な防御手段があって初めて恐がる必要がないということだ。私は抗議と準備のために一年半会社を休む。引きこもりではない。引きこもりであったとしてもだからどうしたと言いたい。
今モラハラの記述を読んでいて、加害者の性格ややっていることが自分が無意識にやっていることと一致しているのではないかと思った。私は自分が愛情を感じない存在にはそういう残酷な態度を無意識のうちに取ることがある。それに気付いた。私は姉に愛情を感じなかった。そういう態度を自然に無意識に取っていたので、不安を感じて姉は牽制していたのではないか。傷つけられるのではないか、あるいは現に傷つけられていると感じて私を敵視したのではないかと思う。私は私を攻撃する人間をアプリオリに悪と決め付ける。どういう理由で攻撃するのかを深くは考えない。もちろんそんな暇はないだろう。いきなり暴力を振るわれているように感じるからだ。私は女に何の愛情も感じないだけでなく嫉妬を感じる。ほとんどの女はそうだろう。私は半分以上女なのでそれはごく自然なことだ。それで知らず知らずのうちにモラハラ的に振舞っている。あのババアは何でもまねするから、それをそっくりそのまままねして私にぶつけたのだ。ヤンキーはそういう育ち方をする。何の愛情もかけられずモラハラ的に育つ。だから私のやっていることが本能的にわかるらしく、と言うより全く自分たちと同類に思えるらしい。私は自分のことを邪悪と思ったりするがやつらにとっては当たり前のことらしい。
私は私に起こったことをほぼ完全に理解した。私が女どもにモラハラ的行為を行っていたのだ。これは明らかだ。母や姉に私はそういうことをしていた。モラハラと言うより、本当に暴力だ。私の中で道徳が崩壊した。九州はそういう境界例の人格障害者の巣なので私は抗することができなかった。会社を何社もくびになったのはそういう道徳的崩壊によるものだ。
道徳的に自分を守ることができなければならない。おかしな人間と付き合ってはいけない。私のこういう奇怪な怪物的性格はどうしてできたのだろう。自己愛性人格障害の本を読んだほうがよいのではないか。三島由紀夫もそうだった。そうするとあのキチガイをどうこうしようとか直そうとかよりも、自分を治したほうがよいのではないか。
私は女を愛することはできない。これは仕方のないことだ。猫が空を飛べないからといって責めることはできない。でも仕事に支障が出たり、病気になったりするのは大きな損失だ。と言うより人生そのもを失っているようなものだ。銀行は女が嫌いで嫌になり、病院は看護婦が嫌いで、今の会社も女でもめて左遷された。本当に女が嫌いだ。それは直すことはできない。でも日常や職業に支障が出るのはこれ以上嫌だ。破滅だ。と言うかなんで私だけこんな不利益を受けなければいけないのか。愛する必要はない。でもまともに争うくらい馬鹿なことはない。女なんかどうにでもなる。恐がる必要はない。社会は男中心にできているからだ。女がしゃしゃり出てくる場所ではない。いくらでも勝ち目がある。恐がる必要もないし、一歩も退く必要はないのだ。
女を恐がらない。女を相手にしない。女と喧嘩しない。最初から最後までこちらが勝者だからだ。
恐がらないことだ。恐がる必要はない。今まで私にひどいことをしたやつ全員視ね。何で俺がこんな目に遭わないといけないのか全くわからない。全くわからない。何で俺があんな職場にいなければならないのか。全くわからない。n課長も同じ気持ちだと言うことを俺に伝えたかったのだろう。私はそれを受け止められなかった。私の気持ちをわかってくれるやつはいないと思っていた。hはちょっとおかしいと思う。付き合わないほうが良い。執行委員か何か知らないが、私のことを全く理解していない。俺をひどい目にあわせるやつを殺したい。これを合理化したくない。説明も受容もできない。絶対に許せない。何であんな職場にいなければならないのか。恐がる必要はないということはいつでも自由に必要十分に反撃できると言うことが保障されて始めて言える。こちらは無防備無抵抗で、恐がるなと言われても無理だ。ひどいことをされて我慢しろとか、受け入れろとか言われても困る。私が言いたいのはそういうことだ。私が言いたいのはなぜこちらが無防備無抵抗なのに際限もなくこちらが病気になるまで攻撃してくるのかわからないと言うことだ。こちらも好きなだけ反撃していいのならばわかるが、全く反撃できないじゃないか。本当に女と関西人は理解できない。でも関東に行けばもっとひどいババアがいるに決まっている。父は暴力的な人間だった。あれだけ酒を飲み自分を痛めつけ、間接的に残りの家族に惨めな思いをさせた。私は文校のあの女どもを許すことはできない。信じられないやつらだ。犬畜生だ。



2006年05月08日(月) 今日

今日は少し風邪がよくなった。熱が下がった。恐がることはない。自分の利益を死守すればいいだけだ。マインドコントロールされる必要はない。全くマインドコントロールされない方法はある。女なんかになんでマインドコントロールされないといけないのか。
恐がらないことが大事だ。これが最大の発見でこれに尽きると思う。恐がらなければ本当は問題が何もないことに気付く。相手は実はこちらの承認と愛情を求めているだけで、それは幼児のように素直な心なんじゃないか。素直な心を傷つければ起こるのは当然なんじゃないか。フッキーも確かにキチガイだが、あそこまで怒り狂う必要もない。あのキチガイババアも同じだ。気持ち悪いと言うことは確かに恐い。ハンセン病患者が恐れられるのは危害を加えるからでないことは明らかで、気持ち悪いからだが、気持ち悪いことが恐怖を呼び覚まし、恐怖が一定の権力作用を帯びることはある。昔そういう哲学書を読んだことがある。アブジェクション論。でも本当に気持ち悪いとか生命身体財産にとって危険なのものも同様に気持ち悪い。そういうものを避けることは当然許される。衛生学の問題だ。不潔を避け、清潔に保つことは当然のことだ。キチガイや犯罪者と付き合わないと言うのも差別ではなく、当然の市民の義務だ。売春婦と接触しないとか。恐がるべきものを恐がらず、恐がるべきでないものを恐がる。これをきちんと調整すれば、再び、社会復帰は可能だ。恐れの気持ちは必要だろう。宗教的、敬虔な気持ちは道徳や法律、善に通じる。フッキーみたいな本物のキチガイは恐がるべきなんだ。売春婦もやくざも恐がっても恥ずかしくないんだ。やくざが恐がられなかったら、商売上がったりだ。あのキチガイババアは恐がる必要はないということだ。恐がる必要はないものを恐がる必要はないということに尽きる。
恐がらないと言うのに尽きる。おばはんは抑圧されているので意外に恐がる。人は人を恐れている。日本人であろうとアメリカ人であろうと人を恐れる。でもそれは当然で健全なことだ。アメリカ人はフリーズと言って立ち止まらなかったら発砲する。それで罪には問われない。そういう国だ。
同和が恐いと言う認識ができるとそれが一定の力を持つようになる。警察が駐車違反を取り締まらないと言う話を聞いたことがある。嘘かホントか知らないが恐いものが一定の力を持つと言うことはある。あの職場で気の狂ったやつが2,3いるがそいつらは一定の権力を持ちたがっているのだ。汚いやつらだ。嫌がられているだけなのに、それで権力をほしがるなんて。
恐がる必要はないのだ。キチガイだからといって何もできはしないのだから恐がる必要はない。女がキチガイだからといって何もできないのだから恐がる必要などない。モラハラ状況に陥る必要などない。呼吸法で恐怖心をコントロールできるようになれば全て解決すると悟った。私は恐怖心を失うことを恐れているのだ。汚いタオルを手放さない子供のように。汚いタオルを手放せばものすごくいろいろな可能性が開けてくる。女を恐がるのではなく役に立てることができる。女の能力はセックス以外では限られているけれども使えないわけではない。恐がらなければ世の中はそれほどおかしなものではないことがわかる。いろいろなものが見えてくるし、自分がいろいろなことができる可能性があると言うことがわかってくる。
恐がる必要なんか全くないのだ。白衣を着ていようが制服を着ていようが、恐がる必要なんか全くないのだ。モラハラ的状況に自ら身を置く必要はないのだ。自分から尊厳を放棄する必要などないのだ。あんなキチガイと付き合うことは自分の尊厳を譲り渡すことだ。恐がる必要なんかないのだ。なにが生活発見の会だ。いい加減にしろ。キチガイ集団め。キチガイを恐がる必要なんかないのだ。



2006年05月07日(日) 今日

私が元気がなくやる気がなくなり、自暴自棄になれば、あのババアの思う壺だ。それがモラハラの目的だ。結局私もあのババアがうるさく恐いのでおとなしくしてほしいから、無視して相手にしなかった。そしたら10倍になって返ってきた。私が今度は萎縮してモラハラ状態になることはあのババアの思う壺だ。あんなババアなんか恐くない。恐がれば思う壺だ。あんな無能で厄介者の馬鹿が存在理由を示せるのは人に嫌がられることだけだ。人が気分悪くなって、モラハラ状態になって、マインドコントロールすることが望みなのだ。恐がられて、自分の思い通りにしたいのだ。マインドコントロールできる自信ができてきた。他人に迎合しないことだ。モラハラから脱しないといけない。呪縛から脱しなければいけない。それができるような気がした。あいつが望むのと逆のことをすればいいのだ。あいつを怖がらなければいいのだ。あのくそ女どもを恐がらなければ好きでも嫌いでもないから、不当に扱うとか言う言いがかりを受けないですむ。自分の思い通りにできるのだ。それがマインドコントロールから脱することだ。相手が自分を憎む気持ちに屈してはいけない。必ず撥ね返さないといけない。
目の前の現実を受け入れないで、合理化しようとしてもうまく行かないのは明らかだ。嫌いなものを好きになるとか、どうしても嫌なものを受け入れるとか。中学の頃キチガイ教師に暴力を振るわれてその受け入れられない現実を受け入れようと、必死に合理化して受け入れようとしたが無駄だった。病気になった。この世に起こることを全て合理化しようとするのは虚しい試みだ。女を合理化して受け入れようとしても無駄である。恐がらないように自分をコントロールすることはできるし、それが必要にして十分である。恐がる必要など全くない。受け入れられるはずにないものを受け入れようとしてきた全ての努力は無駄であった。恐がらないよう自分をコントロールすることだ。恐がる必要のないものを恐がらないように。中途半端に受け入れるような受け入れないような態度が一番危険だ。私は女を受け入れられない。しかし恐がらないようコントロールすることは十分可能だ。暴力によらないで排除すること、自分を守ることは十分可能だ。
自分をコントロールすることと、恐がらないことと、自分の利益を守ることだ。損得を中心に考えよう。受動的に相手が改善することを待っていても改善しない。恐がってはいけない。どうすればいいかすごくわかった。相手を分析しても理解しても譲歩しても働きかけてもだめだ。本当におかしいのだ。女は。おかしいやつに何を言っても無駄だろう。何か共通点とか合意点を探ろうとしてもだめだ。完全におかしいのだ。暴力を振るおうとしているのだ。恐がらないことだ。穏やかに済まそうとか善人であろうとか馬鹿なことは考えないことだ。非暴力を貫くこと、決して屈しないこと。相手のいうことなんか聞く必要ないのだ。
咳止めと風邪薬と睡眠薬を一緒に飲んだら案の定おかしくなった。ODみたいになっている。どうしてこう世の中と折り合いが悪いのかと思う。特に女と。女同士はいつも折り合いが悪い。それが理由だ。私が女と折り合いが悪いのは。でも恐れないこと、自分で自分を守ること、それを言い聞かせよう。人が道徳的に振舞うべきことを強要する方法はない。特に関西人と女には。恐がらないことと意思の疎通は簡単ではないこと。人が善意に振舞うことは少ないと言うこと。恐がるから嫌いになる。それが相手の敵意を呼び覚ます。女なんかいつも臨戦態勢だ。いつも何かに怯えているから、こちらに何の敵意もなくてもいつの間にか加害者に仕立て上げられてしまう。善意で付き合ってはいけない。恐がってはいけない。向こうのペースに乗せられてはいけない。女に近づいてはいけない。
恐がってはいけない。と言うより、恐がる必要などない。むしろ楽しめ。人生は楽しいのにあんな変なやつのために苦しむのは大損だ。損得に徹しろ。相手が道徳的に振舞うことを期待していけない。そうしない自由があるのだ。法に触れない限りは。暴力の犠牲になってはいけない。そうなるまで放置するなんて。そうなってもまだ相手に道徳的であることを期待するなんて。損得で考えろ。私が女G嫌いなのは仕方がないことだ。しかしそのために不利益を受けるのは絶対に許せない。絶対に容認してはならない。女なんかすぐに人に危害を加える馬鹿な臆病者、卑怯者だ。何で黙ってやられてやらなければいけないのだ。いい加減にしろ。
恐がってはいけない。自分の利益、損得を最優先に考えなければならない。恐がるから嫌いになり、攻撃的になる。自分に不快感を与える人間には途方もなく攻撃的になり、容赦ない。私はワキガのせいで何度も暴力や暴言を受けてきた。文校もひどいところだった。ならず者ばかり集まるひどいところ。そこで自分が守られていると考えるなんて馬鹿だ。恐がってはいけない。ならず者に対して寛容であってはならない。何の理由もなく攻撃するやつはいるのだ。強姦魔みたいなやつはいるのだ。執拗に付けねらうストーカーみたいなやつは。そんなやつの前に無防備にいることが自殺行為だ。ババアの前に裸でいるとか。本当に馬鹿だ。相手が道徳的であることを望むとは。自分の損得を考えなくては。恐がってはいけない。恐がって相手の全く理不尽な要求を受け入れてはいけない。相手に同調したり、卑屈になってはいけない。暴力に屈してはならない。暴力を合理化してはならない。相手の暴力を正当化してはならない。暴力を手段として用いてはならない。自分を守るため以外に暴力を用いてはならない。逆に暴力を持って自分を守ることをためらってはならない。暴力を用いたくないために相手の暴力を合理化してはならない。暴力を用いるならばこちらも暴力を用いてよい。決して相手の暴力を受け入れたり、合理化したり、許したりしてはならない。自分をも守るために暴力を用いることをためらってはならない。暴力を許してはならない。合理化してはならない。受け入れてはならない。認めてはならない。暴力を振るわれて自分が悪いなどと思ってはならない。暴力は100%振るう方が悪い。アメリカはいつも悪いことをしている。誰も罰するものがいないと言うことと正しいことは違う。
恐れてはならない。恐がってはならない。相手が自分より強くても恐れてはならない。逃走という手段もある。アンクルトムはカナダに逃亡し、逃亡運動を指導したと言う。恐れる必要はない。いくらでも自分を守る手段はある。恐れることがなければ嫌いになることはない。適当にあしらうことなど簡単だ。自分が恐れられていると思うと女は図に乗る。女は決して優しくなどない。自分が強いと思ったらいじめてくる。自分が嫌われていると思うと平気で攻撃してくる。嫌うと言うことは恐れていると本能的に判断するのだ。自分がそうだからだ。私はもう社会の外側に立っている。女であれ、男であれ、簡単にコントロールできる。女を決して恐れてはならない。恐るるに足りない。全く足りない。自分の恐怖心をコントロールできれば、ほんの少しの勇気を持てば、なんでも思い通りになる。呼吸法だ。結局そこに行き着く。
恐れる必要はないということと自分の身は自分で守ってよいと言うことは表裏一体だ。人を恐れ、人の道徳心や善意にすがっているときは自分で自分を守らなくても良いと思い込んでいた。でも今は人を恐れない代わりに自分で自分の身を守ってよい、守らなければならないと言うことになる。もはや他人の善意など当てにならないと言うことを知ってしまったからだ。世界を奪おう。人の善意で自分の望みのものが手に入るか。自分を守ることを肯定することは世界を奪うことを肯定することに他ならない。恐れる必要などないということはそういうことを意味する。眠れないから本を読むやつはいるが、日記を書く奴はいないんじゃないか。



2006年05月06日(土) 今日

大体問題点がわかってきた。何が私に起こったことか。仕事をする気にならないのはなぜか。前の会社でも今の会社でもまともに仕事ができたことはなかった。それが一番の問題で、女と仲がいいとか悪いとかどうでも良いことだ。損得を第一にすることだ。私に利益を損なうやつは絶対に許さない。男だろうが女だろうが関係ない。女が嫌いかどうかは私の内面だけの問題で絶対に誰にも関係ない。それを理由に差別したり、暴力を振るったりすることは絶対許さない。損得だ。私の利益を損なうようなことは絶対に許さない。生活の何とかいうのも行かない方がいい。いじめる奴がいる。いじめる奴がいるんだったら、絶対に反撃する。私の利益を損なうやつは絶対に許さない。あんな会はもう絶対に行かない。お見合いが絶対うまく行かなかった理由は女が嫌いだったからだ。女が嫌いになったのは中学の頃からだ。高校大学とずっと嫌いだった。入院したとき看護婦を目の当たりにして本当に嫌いになった。それ以来、女特に看護婦は大嫌いだ。
忘れたらいいんじゃないか。女のことなんか。全くメリットがない。他にもっと楽しいことがあるのでそれを考えた方がよい。小説もそのひとつだ。仲良くなんかできないんだからできないことを強いてはいけない。何かされたら全力で反撃することだ。女には絶対に近づかないことだ。
仲良くなんかできない。忘れたらいいのだ。気にする必要なんかない。覚えている必要なんかない。利益を損なったら殺す。それだけのことだ。
私は全て忘れて良い。しかし許さない。中国人は起こった事は忘れるだろう。生きていられないから。でも絶対に許さない。私は女を絶対に許さない。私に甚大な被害を与えたことが絶対に許せない。忘れて良い。大嫌いなやつのことを覚えていることは不快だからだ。でも絶対に許さない。
私が心を入れ替えて、女と仲良くしたほうが良いのか。それは長い歴史があるから、簡単にはいかないだろう。三島由紀夫が女を好きになったことがあるだろうか。私が女が嫌いだといって差別するのは絶対に許さない。自分を守るのだ。女が嫌いだからと言って差別される自分を守るのだ。どう守るのか。自分の利益が損なわれないように主張するのだ。黙っていてはいけない。これは権力闘争なのだ。女が偉そうにするのは絶対に受け入れられない。散髪屋で女が嫌いだからと言って暴力をたびたび振るわれる。それは絶対に許してはならない。今回のことも暴力だ。モラハラとは暴力に他ならない。暴力を許してはならない。断固戦い抜こう。
私はこの会社に入ってから、ずっと女と戦っている。最初のところもいつの間にか、女との戦いになっていた。その次のところも結局女どもとの戦いだった。私は自分を守れなかった。そして今度もキチガイどもにモラハラに遭っている。生活の何とかに救いを求めても同じ状況が生じる。利益が損なわれて黙っていてはいけない。損得の問題だ。損得は命の問題だ。最大の利益は命だ。命を守るのだ。
私は自分がなぜ女が嫌いなのかわからない。でも自分の利益を守り抜くのだ。女と仲良くする必要なんかないのだ。女が嫌いでも絶対に問題ない。女が嫌いでも全く問題なくやっていける。自分の利益を守り抜くのだ。
呼吸法の良い点は恐怖心がなくなることだ。過敏状態が解消されて恐怖心がなくなる。女が嫌いなのはなぜか。恐いからである。恐くなくなれば、嫌いでもなんでもなくなる。サルは恐怖を感じる扁桃体を壊すと恐怖を感じなくなって、蛇をもてあそぶようになると言う。呼吸法。これで全ての問題を解決できる。女なんか恐がるようなものじゃないと言うことだ。それと自分の利益を守る。この二つだ。
女をコントロールすることはできない。でも恐怖心をコントロールすることはできる。それが全ての解決法だ。嫌いなものを好きになる。これは解決法でもなんでもない。卑屈なだけだ。マゾヒズムだ。恐怖心をコントロールすれば、恐怖で他人をコントロールしようとするやつから自由になれる。やっとわかった。女だって男が好きなのではない。男とセックスして気持ち良い自分が好きなだけだ。それと金が目当てだ。女は男を恐れている。若い頃は肉体上の優位性で男を恐れないが、ババアになると逆に恐れるようになる。全く男の攻撃性を抑圧するものがないからだ。ババアが嫌いなのはそういうことだ。女を下に見る。そうすれば恐くない。恐くなければ嫌いも好きもない。大発見だ。
女やおばさんを好きになることはできないし、その必要はない。だが、恐くなくなることは可能だし、是非そうすべきだ。恐くなくなれば、好きにはなれなくても、嫌いではなくなる。どうでもよくなるのだ。ゴキブリは恐いから嫌い、抹殺、ということになるが、カブトムシは恐くないから嫌いではない、好きということになる。それでも私が女が嫌いと言うことで攻撃するのならば、自分の利益を守るために反撃する。それがアサーティブということだ。人を恐がらせることは嫌われることで不利益になる。小説を書いて人に好かれることは楽だ。
嫌いなものを好きになれと言われたら、屈辱と感じるのは自然なことだ。でも恐いものを恐くなくなることは大いなる進歩で、逆に誇らしい。自転車が乗れるようになったくらいうれしい。犬が恐かったが、今はそれほどでもない。女は動物に近いから恐いのも無理はない。でも恐がる必要はないとわかった。弱弱しい、全く愚かな欲望に弱い情けない何の役にも立たないやつらだ。なぜ恐がる必要がある。やっと呪縛から解き放たれた。呼吸法のお蔭だ。ビバ、呼吸法。
長い間モラハラに晒されていたため、ストレスで脳が痛んでいる。その回復にも相当時間がかかる。
恐いと思わなければ、優しくしてやってもいいわけだ。嫌いではないわけだから、弱いものに優しくするのは当然だ。
攻撃的というのも脳内物質のバランスが崩れているので、恐くないものを恐がるため、臨戦態勢になる。戦うか逃げるか状態。本当はそんなに恐くない。呼吸法によって、脳内のホルモンバランスを整えることができる。恐くなければ嫌いにはならない。
損得中心で行こう。好き嫌いの問題じゃない。自分の利益が侵害されるときは戦っていいのだ。自分の身と利益は自分で守っていいのだ。
恐がる必要なんかない。恐がることがなければ嫌うこともない。好き嫌いなんか全く問題ではなく、損得の問題なのだ。自分の利益が損なわれるのは許すことができない。こうしている間にも一か月12万円ずつ失っている。その他想定外の不利益を受ける可能性がある。好きで休んでいるわけではないのに、何で不利益を受けなければいけない。損得で考えるべきだ。自分に酷なこと、損することは絶対してはいけない。



2006年05月05日(金) 今日

今日はプライドを見てきた。面白かった。散髪屋でいつものように女が暴力をふるって来た。私はお返しに思い切り失礼な態度を取ってやった。私はお前なんかにそんな失礼な態度を取られるべき相手じゃないということをわからせてやるために。そうすると少しそれがわかったようだ。私は今何も恐くない。ムキムキの凶暴な白人や黒人や若者であっても全く恐くない。女であっても当然全く恐くない。やくざでもさほど恐くない。私の後ろはやくざみたいなやつだったが全く恐くなかった。あのババアも全然恐くない。会社も恐くない。今の私を恐がらせるのは無理だ。
女が何で嫌いか。危害を加えてくるからだ。私の利益を台無しにするからだ。私の人生を台無しにするからだ。損得で考えよう。好き嫌いなんか関係ない。私が女やおっさんが嫌いだからなんで私が不利益を受けなければいけないんだ。私の利益を損なうやつがいたら殺す。それだけだ。わたしがこのきちがいどもに言いたいことはそれだけだ。このきちがいどもが考えていることはそれだけだ。自分の利益を損なうやつがいたら殺す。それがこの世の人間の考えだ。私もそれを実行するのみだ。



2006年05月04日(木) 今日

昨日も今日も素晴らしく良い天気だ。体調は少しよくなった。下腹部はもう一つすっきりしない。あんなものはもう二度と呼ばない。
女が嫌いでも一向に構わない。何で女と仲良くしないといけないのか。私が女が嫌いなのは当たり前のことだ。見ただけで腹が立つ。
鎮静しよう。穏やかになろう。刺激を避けよう。田舎に行こう。
良い人なんかである必要はない。女が嫌いで何が悪い。あんな根性の悪いもの誰が好きなんだ。いい加減にしろ。馬鹿。死ね。
呼吸法を一時間やった。とても気持ちが良かった。自分がコントロールできた気がした。今までなかった感覚だ。恐らくヨガでも同じだろう。人のために何かをする感覚は大事だ。会社勤めがいつもうまく行かない理由は、会社のために何かをするという感覚がないからだろう。
泉南市の藤を見てきた。きれいだし、香りが素晴らしかった。ぶどうのような甘い香りがあたり一面に漂っていた。
私が女が嫌いになったのはいつかわからない。もともと同性愛的だったから相性が悪いのは当然だろう。女と恋愛なんかしたことはない。女が女と恋愛するか。仲良くするか。姉と相性がまず悪かった。何もしていないのにいつも喧嘩を売ってきた。私もいい加減頭に来て暴力を振るっていた。ただ馬鹿にされたり、いじめられたりするのが嫌だから当たり前だろう。私は女を好きになる必要なんかない。女と喧嘩したいと思わない。でも喧嘩売ってくるなら買ってやる。私に不利益を与えようとするなら決して許さない。絶対に許さない。
同性愛であっても、女嫌いでも人生は十分楽しかった。女が嫌いでこんなに人生楽しいのに女と恋愛して結婚して子供なんかできたら申し訳ないだろう。女嫌いなのに付き合って結婚したりしたら、その女に失礼だろう。第一不可能だし。私が心がけることは女が嫌いでも不利益を受けないよう、いじめられないよう全力を尽くすことだ。女が嫌いなことは責められることでもないし、改めるべきことでもない。しかしそれにより、差別したり、いじめたり、攻撃するのなら断固として戦う。それは弾圧だ。いじめだ。モラハラだ。断固として戦う。
私は一年半休もう。ものすごく疲れている。この会社に入って15年になるがずっと耐えてきた。嫌なことばっかり、耐えられないことばかり耐えてきた。これからは好きなことをさせてもらう。思い切り好きなことをする。我慢なんかしない。
どこまでもしつこく私を付けねらい攻撃してくる女。私は絶対に許さない。絶対に許さない。私は職をいくつも失った。金も失った。名誉も何もかも失った。それは女のせいだ。絶対に許さない。私の利益を損なうやつは絶対に許さない。
本当に腹が立つ。あんな変な会出なかったらいいのだ。変なやつばっかり。女も男も全く理解できないキチガイばかりじゃないか。いい加減にしろ。何で我慢しないといけないのか。催し物ももうこれくらいにしよう。通りすがりの電車のやつらもふざけたやつらばっかりで殺したくなる。私の利益を損なうやつらは絶対に許さない。私は何度も殺されかけた。社会的に何度も抹殺された。私は許さない。私の利益を損なったやつらを絶対に許さない。私は自分の利益は自分で守る権利があるのだ。正当防衛だ。キチガイに四の五の言ってられるか。お前らに宅間のこと罵れるのか。宮崎のこと死刑だって騒げるのか。死ねキチガイ。
自分の利益は自分で守るのだ。自分の利益を守ることを放棄しているからこういうことが起きるのだ。
今後私に危害を加えるやつがいたらためらいなく殺すからな。俺が女が嫌いだからと言っていじめる奴がいたら即ぶち切れるからな。俺が女嫌いなのは俺の自由だ。内面の問題だ。誰にも迷惑はかけていない。ぐちゃぐちゃいうやつがいたら即殺す。



2006年05月03日(水) 今日

昨日真賀温泉から帰ってきた。疲れた。夜眠れなかった。あのおっさんのせいだ。もう二度と会いたくない。もう全て忘れたいと思った。あのくそばばあのこととか全て忘れた方がいいんじゃないのか。
モラハラ状況において過敏状態になることは自然なことだ。女が嫌いと言うのは高校時代に孤立状態にあったときにそういう反応が出たと言うことだ。女が嫌いでも全然いいんじゃないか。全く困らないし。
どうやって仲良くするかとか、うまくやるかとか関係ないじゃないか。好きになる必要もないし、仲良くする必要もない。
私が女が嫌いでも全く問題ないし、責められるいわれもない。改める必要もない。私がワキガでも馬鹿にされたり、いじめられたりするいわれはない。
女が好きかどうかと言うのは私の内面の問題であって、非難されるいわれなどない。
最悪の気分だ。女が嫌いでも関係ないじゃないか。それでも私は生きていく。女が嫌いだ。全然関係ない。女が大嫌いだ。
仲良くするなんて不可能だ。女なんかと。こんなに大嫌いなのに。小さい頃、兄や姉とほとんど口を利かなかった。嫌いだった。でも口を利かないのはきっと苦痛だっただろう。向こうとしては。でも私は嫌だった。何も悪いことをしていないのに、いじめてくる兄や姉が。自分を守るために私は口を利かなくなった。今でも嫌いなやつとは口を利かない。会社でもほとんどが変なやつなので口を利かない。それでいいんじゃないかと思う。
何もかも忘れたい。温泉に行ってそう思った。忘れていいのだ。何もかも忘れていいのだ。沈静が必要だ。田舎にいると刺激がなくて落ち着いてくる。ここだって、テレビやパソコンがなければ全く静かだ。刺激を断ち切るのだ。刺激で興奮しておかしくなる。刺激を抑えて沈静すると、疲れが漸く取れてくる。一日もいると、田舎の人の生活感覚がすごくよくわかってくる。これが必要だ。
田舎に行こう。田舎が私が育った場所だからだ。田舎は嫌だった。でも良かった。田舎が私のふるさとだ。刺激を抑えることだ。興奮が鎮まる。都会を離れて刺激を抑えて、正常化しよう。
私が女が嫌いだろうが、ババアが嫌いだろうが自由なんだ。内面の自由なんだ。私が心の中で何を思おうと自由なんだ。何でそれをあれこれ言わないといけない。あの森田療法も本当にむかつく。人を傷つけるためにやっているのか。ぶちきれそうになる。何であれこれ人に偉そうに言うのか。いい加減にしろ。



2006年05月02日(火) 今日

今日真賀温泉から帰ってきた。いいところだった。食事が最高においしかった。もてなしも家族的で良かった。こういうのを求めていたのかもしれない。もっと早く行けばよかった。これから時間を見つけてどんどん行こう。



2006年05月01日(月) 今日

昨日は伊藤氏、フッキー氏と飲み会。楽しくはなかった。もうフッキーは受け付けない。偉そうにされるのが我慢できない。話をするのが苦痛だ。kさんだったらわかる。私のことをよく知っているし、私のことを思って言ってくれる。あの人は自分が苦しいから、人を傷つけてしまう。h君と同じだ。京都で飲み会。外人女は不愉快だった。私は女を見ただけで不愉快になる。本当に心の底から嫌いだ。自分を守ることしか頭にない。何の理由もなく攻撃してくる。身を守るしかないだろう。昨日加藤さんと会ってしゃべった。初めておごってくれた。やっと少し信頼してくれたのか。私も別におごって欲しいわけじゃないが、でも多分物ほしそうにしているのだろう。貧すれば鈍するというやつだ。でも私は変われるし、変わってきた。一日一日変わってきた。


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