昨日は飲みすぎた。テレビがないせいだ。昨日のババアの対応には腹が立つ。キチガイじゃないのか。あんな銀行は潰れろって潰れてるか。げんくそ悪い。落ち着いて寝よう。今人に会わないほうがよい。自分の機嫌を取ろう。 自分の機嫌を取ると流れがスムーズになる。たとえ調子が悪くてもうまく行く。人が勝手に私の機嫌を取る。私も私の機嫌を取る。だから一致する。矛盾がない。 楽しいことをしよう。自分の機嫌を取ることにもなるし、それ自体が楽しいわけだから何のためなんか考えることはない。好きだから楽しいからだ。そういうものが一つもないとは情けない。楽しもう。お金なんか要らない。楽しもう。人生は楽しい。人の機嫌なんか取っている場合ではない。 自分の機嫌を取ろう。ツイテル。ツイテル。人の機嫌は取らない。昨日は飲みすぎた。何をしても楽しくないのはフッキー症候群のせいだ。これも人の機嫌を取ることからきている。これをすっぱりやめれば全てうまく行く。今は金を使わない。一切使わない。そうすればうまく行く。 女なんか嫌いなんだからもてなくていいんじゃないのか。セクハラとか暴力を受けるだけだ。もてようとしても。 引きこもりとかは体育会系の指導でうまく行くことがあるという。原田某という体育教師の指導法でもokなのか。わらをもすがる気持ちでやってみようか。過去のことを思い出しても何の解決にもならない。 女の機嫌を取らないといけないと思うからおかしなことになる。一所懸命に仕事をしていれば女なんか関係ない。これは絶対に言える。私は今仕事をできない状態になっていることが問題なのだ。真人間じゃなくなっている。それは宗教だったり、自己啓発だったりする。でも最近、明るい自己啓発の方がいいなと思う。心理療法は暗い。辛い。苦しい。効果がない。そうじゃなくて楽しくて明るくて効果絶大の一人さんみたいなのが良い。あれもあんまりやると苦しいけど。一人さんは自分に厳しいからまねしようとすると苦しくなる。 自分の機嫌を取り、不機嫌な奴の機嫌は絶対取らないと思うとものすごく具合が良い。人のミスがすっと指摘できる。自分のミスはすっと改められる。人のせいにしない。人の機嫌を取っていないから不機嫌にならないし、人に機嫌を取ってもらおうなどという傲慢なことはしない。万事うまく行く。うまく行くなと思ったのは昨日弁当買ったときと、本を買ったとき、すごくスムーズに行った。 人の機嫌を取ろうとすると、自分が不機嫌になる。絶対に止めよう。今で言えばあのくそババアが不機嫌な悪だ。人前で不機嫌になるとは一体どういう了見なんだ。そんな奴の機嫌を何で取らないといけないのか。自分の機嫌を一所懸命に取ろう。そうすると自分の時間が確保され、自分の価値が発揮され、自己実現できる。 あんなババアの機嫌をとらなあかんと思うから自分が機嫌が悪くなる。人の機嫌を取らず自分だけ機嫌よくして働いたらいいのだ。機嫌よく働ける職場を俺に寄越せ。 人の機嫌を取らないと思うとすごくうまく行く。自分の機嫌を取る。ひたすら取る。すると流れがスムーズになる。自分と相手のベクトルが一致するからだ。無駄な流れが出てこない。ものすごくうまく行く。 人の機嫌を取らないことが仕事の第一歩、人生に第一歩だ。女のご機嫌を取るなんて全くやる必要のないことだ。この世の最後にやることだ。自分の機嫌を取る。人の機嫌は取らない。これを毎日言い聞かせよう。これは意外に私の人生全体にかかわる重大なことで、これさえやめれば芋づる式に問題がするする解ける最大のポイントだ。自分の機嫌を取って悪の機嫌を取らない。悪の機嫌を取らないといけないと思い込んでいるので不安だし、不利益ばかり受けるし、自己犠牲になってしまう。 人の機嫌は取らないといっても、悪の機嫌を取らないということで、自分の機嫌はいつも取らないといけない。でないと自分が悪になってしまう。 人の機嫌は取らない。悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。今日は古書フェアーに行ってきた。kさんに会うんじゃないかとびくびくしていたが会わなかった。それから日本橋の電気街に行って来たが、ゴーストタウンのように寂れていた。大型電器店に客を奪われているのだろう。全くやる気が感じられない。大学に入ったときもうやる気を失っていた。というより病的で医療なり心理的サポートが必要だった。今でもそれは変わらない。それなのにやる気がないとか、協調的でないとか反社会的とか訳のわからないことを言っていじめられた。今だったら悪の機嫌は取らない。自分の機嫌を取るといえるだろう。悪の機嫌は取らない。自分の機嫌を取る。今日本屋で店員が妙に私を恐そうに見ていた。なんか不気味だったかもしれない。悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。そうすると自分の中でも矛盾がないし、相手との関係も矛盾がない。悪の機嫌を取っていると、自分が機嫌が悪くなるばかりか、自分が実害を受ける。いい加減にしろということだ。私はあんな婆のことなんか全くどうでも良い。あれは悪だ。どうして悪の機嫌を取らないといけないんだ。自分の機嫌を取ろう。アイムオーケーユアオーケー。自分の機嫌を取るとはそういうことだ。頭の整理にもう少し必要だ。 悪の機嫌は取らない。自分の機嫌を取る。今日は改札の係員も恐そうにしていたのでやっぱり恐いんだ。悪の機嫌は取らない。自分の機嫌を取ると決めるとやっぱり恐いんだ。 庄司薫なんか読んだのが間違いだったのだろうか。そんなことはないだろう。私は何も悪くない。悪の機嫌は取らない。自分の機嫌を取る。 機嫌を取る。自分の機嫌を取る。悪の機嫌を取らない。 自分の機嫌を取る。悪の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。悪の機嫌を取らない。 くそババアのことは何とも思っていない。全く意味がないからだ。ババアに何の意味があるのだ。自分のことを機嫌を取る。悪の機嫌を取らない。 何かコミュニケーションしようとか、機嫌を取ろうとか思っているからおかしくなるんじゃないか。機嫌なんか取る必要はないんだ。人の機嫌なんか取らなくて良い。私はババアのことは全く忘れた。 ババアとかブスのことなんかどうでも良い。今休んでいるのは脳を休めるためだ。全くどうでも良い。コミュニケーションなんかどうでも良い。機嫌は取らない。自分の機嫌を取る。
呼吸法は楽しい。治療法でもあり、快楽でもある。自分で色々何でも楽しいこと夢中になれることをやって行ったら良い。こうすればよくなる的な自己啓発的なことも自由に考えたら良い。自由なのに何かに縛られている。こうして休むのも自由なのだ。どこへ出かけようと自由なのだ。 ちょっと書類を読むと疲れる。これは慣れの問題だ。今は休むべきときだ。休み始めて半年。漸く休みが始まったのだ。これからゆっくり休むのだ。 困ったことは起こらない。自分の機嫌をいつも取るようにしていると、不思議と回りも自分の機嫌を取るようになる。自分と外界が一致してくる。これが自分の機嫌を損なって他人の機嫌を取るようにしていると、だんだん疲れて、周りと一致しなくなり、回りが自分に嫌がらせしているように思えてくる。自分の不機嫌は自分がそうしているからなのに他人のせいのような気がしてくる。自分の機嫌を取ることは素晴らしい解決法だ。 あんなくそみたいな職場は二度と戻らないだろう。私の機嫌を取らないような職場にはもう戻らないだろう。自分の機嫌は自分で取る。 やらなくていいことはやるまい。こんなに疲れているのに、何かをやらねばとか思う必要はない。ひたすら自分の機嫌を取っていれば良い。読むんだったら楽しい本、自己啓発もほどほどにして興味ある暇な本を読んだら良い。 楽しい。自分の機嫌を取るのは楽しい。毎日楽しい。週三日酒を飲んで四日は薬を飲む。良いじゃないか。植島氏なんかは365日飲み歩いているらしい。外で飲むことはめったにないし、家で一人で飲む。 あんなきちがいくそばばあ完全否定してやる。それで終わりじゃないか。何の話があるのか全くわからない。 今日の銀行のくそみたいなババアどもの対応も我慢ならなかった。死ね。キチガイ。ごみみたいな堺のババアの癖して偉そうにするな。死ね。死ね。インバイ。ごみ。ウンコ。 自分の機嫌を取るのはいいな。人の機嫌を取ろうとするからおかしくなる。自分の機嫌を取ろうとすると途端に誰も恐くなくなる。世界中の誰も。 死にたい。でも生きたい。死にたいなんて思っちゃいけない。生きなければ。生きたいと思うように頑張ろう。 金輪際人の機嫌を取ろうなんて思うまい。そのために大きな失敗をした。人の機嫌を取らなければ自然に流れが良くなってうまく行く。 本当に私は良い人間だなと思う。人の機嫌を取る必要はないし、私は本当に良い人間だなと思う。それだけだ。言うことは何もない。言うことは何もない。お前は悪い人間だという態度を取る奴もいるが、私は本当に良い人間だ。本当に良い人間だ。本当に良い人間だ。本当に良い人間だ。
カウンセリングを受けてきた。この間の飲み会のことを話したらずいぶん喜んでいた。多少辛い面もあったのだが、楽しい面もあった。心理療法なんかはやめたほうがいいという助言をもらった。それはそうだろう。私もいい加減うんざりしていた。ゆっくり休んで楽しんだ方がよい。自分の機嫌を取るという話をしたら良いんじゃないかといっていた。自分の機嫌を取ることは自己一致しているからストレスがたまらない。smでいうとsになりなさいということか。mはうつになる。植島氏もsだからストレスもたまらないし、精神的にokなのだ。mだから悪だと言われた日にはたまらない。sで行こう。 うつは私を守っているという話はなるほどと思った。確かにそうだ。休みをくれ、あいつらと会わなくてよくし、金を振り込んでくれ、異動させてくれるかもしれない。最強の味方だ。道徳的な非難をかわすことができる。 面白いことを追求しよう。坊主の言っていたことはもっともだ。自分の機嫌を取るとは面白いことを追求することだ。面白い本を読もう。 昼から朝カルの谷町散歩に参加した。ババアばっかりで嫌になった。人の機嫌は取らなくていいので取らなかった。もちろん誰も私の機嫌など取りはしないので良かった。人に機嫌を取ってもらいたいから人の機嫌を取るのだ。機嫌なんか取らなくてよい。ババアはいきなり何するかわからないので恐い。キチガイフッキーとか完全におかしい奴が多い。何で人の機嫌を取らないといけないのか。取らなくてよい。好かれなくても良い。良い人でなくて良い。元の職場にもどれといわれたら嫌だと言おう。 それから道頓堀を歩いていたら坂田藤十郎の船乗り込みに出会った。何と言う偶然。それから松竹座の前で式典があった。親父どもの挨拶の長いこと。やっと藤十郎の挨拶があって盛り上がった。面白かった。 人の機嫌を取らなくていいのは素晴らしい。自分の機嫌を取るのだ。楽しい。人の機嫌は取らない。ツイテル。ツイテル。ツイテル。
昨日は植島氏のパーティーに参加。私はおばさんみたいなものだからああいうのが好きだったりする。でもブスやおばさんは好きにはなれない。でも機嫌を取らなくていいと学んでから楽になった。自分の機嫌を取ればいいというのは無理がない。自分の本心と一致しているからだ。ブスが嫌いで自分が好きと言うのは自分と一致しているから矛盾がない。無理がない。従って楽だ。会社にいける奴は苦しくないからだ。私は苦しいから無理だ。何で会社なんか行かなくちゃいけないのだ。それとなんで死なないといけないのか。お前らが死ねと思う。これが正常な考えだ。いじめられた子供に学校に行けというのはおかしい。当たり前だ。一人さんの言うことはいちいちもっともだ。正常化ということを言い出してから半年。漸く正常化に向かっているようだ。 私は今本当に人に会わないほうが良い。egに出たことと、フッキーと坊主に会ったことで本当に状態が悪くなっている。私は良い人間だ。一人さんのいうことを聞いて本来の自分に戻ればうまく行く。でも状態が悪くなったお蔭でいろんなことに気づくようになった。いろんなことに気付き過ぎるから、嫌な気持ちにもなる。こういうときは家で本でも読んでいよう。 酒は止めよう。薬を飲んでいるから良くない。どう考えても良くない。植島氏も相当よくないことをやっているが人並みはずれた能力があるから生きていける。破滅型芸人の典型だ。今は名もない大学の教師だ。テレビの仕事で食っているらしい。考えた以上にクレージーだ。まねをしてもだめだ。ほんとに破滅するだけだ。 多分一人さんが嫌うのは私みたいなタイプらしい。でも小さい頃はこんなんじゃなかったし、ちょっと前まではもっとまともだった。今は暗くて自分の機嫌も取れなくて、力を出し切らなくて、ろくなもんじゃないと言われそうだ。一人さんは優しいけど恐い。宗教とは生き方の美学みたいなものでやっぱりどうしても必要だ。これをなくすと人間どこまでも堕ちていくから、やっぱり大切にしよう。基本に返ろう。あの体育教師の言うことは一人さんと共通している。 自分で自分の性格をゆがめたのなら自分で直すこともできるはずだ。そう確信している。宗教と言うと恐いが、直すこと、癒すことと考えれば良いことだとわかる。人にも自分にも優しくしよう。歪んだ鉄を鍛え直してまっすぐにする。そういうことだ。その間人に会わないほうが良い。誰とも。できるだけ。フッキーの後遺症からまだ抜けられない。どんだけ強力な毒素なんだ。体にしみこんで抜けきらない。自分の機嫌を取りましょう。人の機嫌を取るのはやめましょう。フッキーも自分の機嫌も取れないのに人の機嫌を取ろうとしてもだめだ。あの人はほんとに病気だから仕方がない。私は違う。性格から来る。でも悪影響を受けてしまった。じっとやり過ごそう。 自然にしていてもよくなる見込みはない。例えば体育教師の言うことを信じてしばらく努力してみよう。全力を出し切る。一人さんも言っている。必ずよくなる。絶対に良くなる。そう確信している。それまで誰とも会わないほうが良い。 自分の機嫌を取っていると外界と一致してくる。人は私の機嫌を取ろうとするし、私は自分の機嫌を取ろうとする。これ以上の一致、無矛盾はない。楽しくなる。 かなり良くなった。いろんな面で。金銭的な不安もなくなった。金を使う気も失せた。ツイテル。壊れたと思ったテレビが映った。ツイテル。持ち株が240万にもなっていた。ツイテル。勤務地が堺だ。ツイテル。梅田とか肥後橋だったら大変だ。ツイテル。源氏物語が面白かった。ツイテル。筋肉がついた。ツイテル。うどんがおいしかった。ツイテル。細雪の中と下がきちんと揃っていた。ツイテル。母親から手紙が来た。ツイテル。給料明細が来た。ツイテル。女がメルアドを教えてくれた。ツイテル。植島さんにサインをもらった。握手してもらった。おしゃべりしてもらった。ツイテル。感謝の気持ちが大事だ。堺は田舎だ。田舎暮らし実現だ。ツイテル。 自分はokなんだと信じることだ。アイムオーケーユアオーケー。ツイテルと思うと、機嫌がいいと損すると思っていたかもしれない。私はほんとに機嫌が良い。機嫌が良過ぎて人の機嫌を取って自分が苦しくなる。機嫌が悪くなる。人の機嫌を取ることは諦めよう。自分の機嫌をいつも良くしよう。これは難しい。でも機嫌は良いのだ。うつ状態だ。でもegとか行って無理やり元気になったら、反動が来て、機嫌が悪くなった。とうとう休まざるを得なくなった。egなんか行かなければ良かった。宗教なんかでまた自分に何かを強制することは良くないんじゃないかとも思う。egは洗脳である。人が成長すると言うのは本当だろうか。 私はついてる。私は良い人間だ。全く悪くない。善良な人間だ。勤勉で誠実だ。ツイテル。 本当に心身ともに不調だ。人間は病気になるほど働かないといけないだろうか。もちろんnoだ。自分を守ろう。自分の機嫌くらい自分で取れるようにしよう。今は人と会わないほうが良い。eg以来、人と会うことが全て善と考えているがそうではない。知った人とうまくやっていくほうがはるかに良い。知らない人と会うのは慎重にしたほうが良い。昨日も女にメルアドを聞いて顰蹙を買った。不調なら不調で何とかやっていこう。人と会わなくていいのが一番良い。やらなくていいことはやらない。それが機嫌を取る第一歩だ。やらなくていいことをやって苦しむ。今は本当に無理だ。店員とさえも喧嘩しそうになる。 ツイテル。ツイテル。ハッピーだ。自分で自分の機嫌が取れることは最低限必要だ。今それが難しくなっているので人に会わないほうが良い。人の機嫌を取る必要はない。自分の機嫌を取るのだ。新しい人と会わないほうが良い。英会話云々なんてもってのほかだ。自分を試す必要はないし、楽をすればいいのだ。自分に試練を与えるな。自分の機嫌を取るのだ。 ツイテル。ツイテル。ツイテル。ハッピーだ。いつも機嫌がいいというのは難しいものだ。でもいつも機嫌よくしていると機嫌の良い方に合わせざるを得なくなると言うのは面白い。力を手に入れるということだ。エンパワメントだ。植島氏の生き方で参考にしたいのは、smとかギャンブルに明け暮れていながら魂は穢れずに誰にでも優しいということだ。これは誰にでもできることではない。思い切りサボろう。やりたくないことはやらなくて良い。人に会いたくなかったら会わなくて良い。合わない奴とは会うなと一人さんも言っている。私や雅子さんにふさわしい助言だ。私はあの職場には戻らない。雅子が皇室を出る以外、治る見込みがないのと同じように私もあそこには戻らない。 誰があんな職場に戻るか。何であんな奴らの機嫌を取らなくちゃいけないんだ。何であんな職場に戻らないといけないんだ。何であんな奴らの機嫌を取らないといけないんだ。自分の機嫌を取ろう。自分の機嫌を取らないからこんなに長い休みを取り、経済的損失を受け、親兄弟を心配させたのだ。何で仲良くしないといけないのだ。
人の機嫌を取らないでいいとなると落ち着く。本当に心が楽になる。自分の機嫌を取っていいのだから自分の好きにしていいことになる。極めていいことだ。すごく気持ちが楽になる。今まで人の思惑ばかり気にして何もできなかったが、自分の人生だ。一度しかない。思い切ってやることだ。 テレビが壊れた。電気屋に行って2,3見てきた。良さそうだ。ソニーの奴が良い。パナはもう一つ。フル何とかは高い。コストパフォーマンス的にどうだろう。こんな状態だし、安い方で十分か。もし買うならローンで決まりだ。これから植島さんの講義に行ってくる。面白いおっさんだ。飲み会をやるらしい。 人の機嫌を取らなくていいというのは大変楽だ。精神衛生上すこぶる良い。自分の機嫌を取るっていうんだから更に良い。こんないいことはない。ツイテルツイテル。はっぴーハッピー。働かなくて食べていけるなんてツイテル。
自分の機嫌を取る。人の機嫌を取らなくていいということは何て楽なことか。自分をいじめなくていいのだ。ある機嫌の悪い奴のために自分が機嫌を悪くされて、そいつの機嫌を取ろうとするのは間違いで、自分の機嫌を取らないといけない。そいつはそいつの都合で機嫌が悪い。悪なんだ。悪に善良な人間が合わせる必要はない。自分の機嫌をひたすら取るんだ。これは大きなポイントだ。私は全然逆のことをやっていてどんどんどんどん自分の機嫌を悪くしていた。道徳的にも悪くなっていた。悪に合わせていたのだ。それをやめると楽になった。 ツイテル。ハッピーだ。これを毎日100回繰り返そう。朝から一人さんのcdを聞いていたら疲れた。朝一にはテンション高すぎた。100回聞くなんて無理かも。誰か似ている奴がいる。嫌いになりそうだ。誰だって嫌いな面を持っている。子供だって親だって憎いときがある。あまり近すぎない方がよい。母と兄も一緒に住んでいるからおかしなことになっている。私は母とは距離をとるようにした。決して一緒には住みたくない。嫌いになることは目に見えている。好きになってもおかしい。男女ではないのだ。神様と同じで感謝だけでよいのだ。機嫌を取らなくてよいのだ。自分の機嫌を取っていればよいのだ。ついてるとかハッピーとか言って自分の機嫌をひたすら取る。hみたいな大嫌いな奴と仲良くしようとか好きになろうとか機嫌を取ろうとしていた。欠点が多すぎる。あそこに来る奴はいい点と悪い点がごっちゃになって使えない奴が多い。私はその最たるものだ。自分の機嫌を取っていれば不道徳なことは考えなくなる。愛が増えて愛を人に配ることができるようになる。hkiは大嫌いな精鋭だった。あえて過去形にする。合わない奴とは会わないという考えはきっと正しい。そんな奴はいくらでもいる。あの三人は何を考えているのか全くわからないと言うことと、理由はわからないが大嫌いと言う点で共通している。しつこい。自分の要求が通るまで主張してくる。それがいい面に出ればいいのだが、悪い面が多すぎる。合わない奴とは会わない。人の機嫌を取る必要はない。自分の機嫌を取っていればいい。あいつらはいつも機嫌が悪い。機嫌を悪くしていれば誰かが機嫌を取ってくれるのだろうか。私は絶対に人の機嫌を取らない。自分の機嫌をひたすら取る。 自己啓発の本を読んでいると面白いように頭に入ってくる。困っているのだ。それで学び始めているのだ。アイムオーケーユアオーケー。ツイテル。ハッピー。皆同じだ。 人の機嫌は取らない。だから人に機嫌を取ってほしいとは思わない。自分の機嫌は自分で取る。これで世の中変わってくる。既にその確信を得た。アイムオーケーユアオーケー。ツイテル。ハッピーだ。 人の機嫌を取ると自分が苦しくなる。ますます自分は機嫌が悪くなる。それでも我慢して人の機嫌を取る。ますます苦しくなる。悪循環だ。人の機嫌は取らない。自分の機嫌を取る。一貫しているとすごく自然でわかりやすい。人間関係が。昨日のタクシーの運転手とのやり取りはあれが普通だと思う。金を払っているかとかじゃなくて、どっちが金を払っていようと機嫌を取る必要はない。ただ社会的儀礼は尊重した方がよい。しかしそれを越えてまでやる必要はない。機嫌の悪い奴は悪だ。悪に合わせる必要はない。こっちはニコニコ明るくしていればいい。これがなかなかできなかった。でも人の機嫌を取らなくて良いと言われるとできるような気がする。思えば悪の機嫌ばかり取ってきた。頼まれもしないのに、一番嫌いな人間の機嫌ばかり取って、自分は傷つくし、ぼろぼろになるし、人から恨まれるし、悪がうつってしまうし、全くいいことはなかった。そのため精神を病んでしまった。一番の悪、一番嫌いな奴の機嫌を取ってしまう。もう金輪際やめた。すると楽になった。それと合わない奴には会わない。それと人に好かれたからと言って嫌がらないことにした。坂本冬美みたいに、汚い爺やババアによって来られても嫌な顔一つしない。これがプロだ。政治家でもパーティーで化け物みたいな婆とカラオケでデュエットしなけりゃいけない。しかも楽しそうに。お金をもらうとはそうしたことだ。好かれるのだから得することだ。嫌いな人間に好かれる必要はない。でも攻撃してくる奴がいる。でも機嫌は取らない。自分の機嫌を取っていればいい。そうすれば機嫌の良いほうに合わせて来る。世の中はそういうものだ。合わない奴とは会わない。 疲れている。朝からずっと寝ている。自分の機嫌を取ると言うコンセプトから言うとこうなった。これが一番楽だ。楽しい。人の機嫌を取るために自分の一番嫌がることをしてしまう。そして自分がどんどん機嫌が悪くなる。あの姉は私に本当にひどいことをした。口がひどかった。私は何もしていないのに。b校も嫌なところだった。行くんじゃなかったとさえ思う。嫌な奴がいて散々嫌なことをされた。人の機嫌を取るために自分が機嫌が悪くなった。逆だろう。人の機嫌を取るんじゃなくて自分の機嫌を取る。 疲れた。自分の機嫌を取ると言うのは素晴らしい。全てうまく行く。自分の機嫌を取る。自分の機嫌を取る。素晴らしく当たり前のことだ。人の機嫌を取る必要がないということも当たり前のことだ。 人の機嫌を取らないで自分の機嫌を機嫌を取ることによってすごく風通しがよくなった。矛盾がすっきりと消えて、何かがきれいに流れ始めた。
私は十年後に社長になることにした。そのためには今何をしないといけないか。こうしてはいられない。私はずいぶん変わった。自分で自分を追い込んでいたが、そんな馬鹿なことはやめた。三年以内に結婚することにした。自分は素晴らしい。自分の機嫌を取るといいことがある。人の機嫌なんか取らなくて良いと聞くと本当にハッピーだ。私は本当に素晴らしい。自分の機嫌を取ろう。私は本当に素晴らしい。だから誰からも好かれる。それを拒否しないことにした。私を好きになるなら好きにならせておけば良い。人気商売の人はそれで飯を食っている。邪魔する奴はいるだろうが、それが面白いと一人さんは言っていた。 私は神だ。ツイテル。ツイテル。ツイテル。ツイテルツイテル。あんなもののことを考える時間なんかないじゃないか。10年後に社長になるんだ。 自分の機嫌を取るのだ。人の機嫌を取る必要はないのだ。こんないいことはない。ツイテルツイテル。 私は心も体も普通以上に優れている。普通にやれば平均以上の成績を上げられるのに、自分で自分をだめにしている。それをやめれば必ずうまく行く。 辺見庸の講演を聞いてきた。生きる勇気をもらってきた。でも疲れた。聞くだけでこれだけ疲れるのだから、しゃべる方は大変だろう。脳内出血にもなるだろう。これが最後になるかもしれないと思うと、両者とも真剣にならざるを得ない。でもすごい男だと思った。生き抜こうと思った。 ツイテルツイテル。人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取るを守ったら調子がいいようだ。 坂本冬美のコンサートに行ってきた。高齢者が多い。しかも女性が多い。どういうわけだろう。男性的な面があるのかもしれない。
今日は雨だ。日本はブラジルに完敗。当然だった。ありとあらゆる自己啓発本を読んで三年後に社長になろう。 気功をやってみた。楽しい。これが一番あっているような気がする。ヨガ、太極拳色々あるけどこれが一番良い。
今日はよく眠れた。久し振りに薬を飲んだからだろう。朝温泉dvdを見た。良かった。あのババアが機嫌が悪かろうが私が機嫌を取る必要はないのだ。機嫌が悪いことで主導権をとりたいだけなのだ。私は私で機嫌よくして置けばいいのだ。 京都のd大で黒木和雄の「美しい夏キリシマ」を観た。良かった。長かったが。疲れた。外に出るのがしんどい。暴力を振るわれやすい。失業者にでも見えるのだろうか。だとしたら暴力を振るっていいのか。全くわからない。この世は本当に暴力的だ。暴力には暴力しかない。それが真実だ。暴力に通じる道徳などない。暴力には暴力しかない。女は見るだけで不機嫌になるので見ないほうがよい。不機嫌にならない方法などない。だったら見ない以外にない。 私は人生で失敗していると考えている。実際は失敗なんかしていないが、もっと成功させるために努力してみようかと思っている。掃除がいいというのであれば掃除をするし、挨拶がいいというのであれば挨拶をする。昔成績を上げるために必死で頑張ったように、あらゆる努力をする。稲盛和雄や松下幸之助の本を読む。
昨日は調子がいいと思ったが、今朝はそうでもない。昨日時間つぶしに炎天下を歩き回ったのがよくなかったようだ。どうしてあの女は私を攻撃するのだろう。b校でもただ見かけだけで攻撃を受けた。特別攻撃性の高いクラスだったのか。私は一言もしゃべっていないのに、攻撃を受けた。警戒された。暗い。機嫌が悪い。そう見られる。一人さんの言う悪の状態か。小さい頃からそうだった。大体悪だった。優等生の面もあったから、陰日なたがあるとか言われた。そんなつもりはないのに。酒はリスパダールに相当する効果がある。機嫌がよくなる。人に機嫌を取ってもらってはいけない。自分の機嫌は自分で取る。これは守っていこう。この二ヶ月は苦しかった。まだ出口が見えない。アルコール療法と称して飲み続けている。体を壊すんじゃないか。飲まないとやっていられない。人と会わないほうが良い。本でも読んでいた方がよい。余りにも機嫌が悪くて人に八つ当たりしてしまう。ほんとに女が嫌いだ。これはどうしようもない。本当にストレス源になる。見ているだけで嫌だ。声を聞くのもいやだし、一切関係を持ちたくない。持ちたくないのに社会にいるだけで勝手にやってくる。既にそこにいる。何とかならないか。女を社会から排除しろ。 女とうまく行かない。機嫌を取ろうとしているんじゃないか。私は女が機嫌が悪いから機嫌を取ろうとしているんじゃないか。それより自分で自分の機嫌を取ろう。自分の機嫌を取るためには女を遠ざけよう。女に近づかないようにしよう。 気持ちは大事だ。私は関西が嫌いだった。今でも嫌いだ。その気持ちが私を悪く変えた。嫌いな人間とうまくやって行くのは本当にしんどい。病気になってしまう。関西にいる限り、病気になってしまう。女の機嫌を取ろうとしている限り、病気になってしまう。もう嫌いなやつの機嫌なんか取らなくてもいいと思うと気が楽だ。気持ちが大事だ。気持ちに正直になろう。 気持ちは大事だ。働く気持ちを作れないからこんなことになってしまう。大学を出てから、いや、大学に入ってから全く生きる目的を失ってしまった。それ以来何も変わっていない。今が変わるチャンスだ。ピンチはチャンスだ。自分の気持ちを犠牲にして誰かの機嫌を取ってきた結果がこれだ。人の機嫌を取らなくていいといってもらったことが嬉しかった。医者に酒を飲んだことを告白したらやっぱり止められた。肝臓にもよくないらしい。そういう例はよくあるのだろう。一時的には気分は改善した。これ自体は必要だったのだ。だからこれからは機嫌よく薬を飲もう。 一人さんの言葉は本当に名言だ。人にこんないいことを教えられる人は他にいない。業績を上げていても自分の何がいいかよくわかっていない人や、知恵を出し惜しみする人が多いからだ。自分の機嫌を自分で取る人を誰も責められないだろう。自分の機嫌を取るようにしたら、人とのトラブルが減る気がした。と言うか一切生じない。 今日中央図書館に行ってきた。広い。人がいっぱいいる。学生と何をしているかわからない人と半々くらい。でもあそこに一日いられるとは思えない。場所がないし、息が詰まる。自分の機嫌を取ろう。それも疲れていると意外に難しい。一人さんは相当タフなんだと思う。私みたいに自分をいじめるようじゃいけない。自分にやさしくできて初めて機嫌よくできる。これからは医者の言いつけに従って酒は控えよう。肝臓や体によくないらしい。 私は良い人間だ。でも自分で自分の機嫌が取れないのと、つい人の機嫌を取ろうとしてしまうのだけは悪い癖だ。これさえ直せば、どんな劣悪な環境でも頑張っていける。 ツイテル、ツイテルと百回言おう。アイムオーケーユアオーケー、と100回言おう。一流を目指そう。たとえこんなところにいても一流を目指そう。 自分で自分の機嫌を取るのはいいことだ。人に自分の機嫌を取らせるなんて間違いだ。人の機嫌を取ることも間違いだ。何てさわやかな言葉だろう。目からうろこが落ちた。
昨日も今日も晴れて良い天気だ。この二ヶ月は大変だった。精神的にレイプされたみたいだった。ptsdだ。人の機嫌を取っちゃいけない。自分で自分の機嫌をとれ。出し惜しむな。全て思い当たる。斉藤一人はすごい。こういうことを思いつくのは自分では無理だ。 私の悩みはどうやったら人のご機嫌が取れるか悩んでいるから生じるものだった。何で人の機嫌なんか取らないといけないのか。それより、自分が自分の機嫌をとること、自分を自分で守れることだ。 小さい頃から人の機嫌を取ることばっかり考えてきて本当にいつも傷ついて、疲れ果てていたのだ。自分の機嫌をとらなきゃいけない。 今日は良い日だった。一人さんの言うとおりに行動していたらいいことばかり起こった。
昨日も酒を飲んだ。リスパダールを飲んだくらい落ち着く。風邪は8割方治った。フッキー事件に端を発する長い低迷。大変な苦痛だった。害のあるもの、価値のないものは受け入れてはならない。一流を目指せ。価値のあるものを取り入れろ。 害あるものは受け入れない。一流のものに接する。価値あるものを受け入れる。 自分を守ること。ためらいなく断固として、決然として。決して自ら危険に晒さない。アルコール療法はなかなか良い。落ち着いてくる感じが薬にはない。これをしばらく続けよう。 私は病気などではない。自分を守れればいいだけだ。私は病気などではない。 すごく健康を取り戻した気がする。女なんか全くどうでも良い。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。 アイムオーケーユアオーケー。私は病気なんかじゃない。 私は病気なんかじゃない。心理学の本なんか読むより、斉藤一人とかカーネギーの本を読んだほうがいいんじゃないか。面白い小説とか。だって私は病気じゃないんだ。何で薬なんか飲まないといけないんだ。病気じゃないのに。 私は病気なんかじゃない。おまいらが病気なんだ。わかったか。死ね。
昨日はb校の荒川洋治氏の講演を聞いてきた。面白かった。ババアやブスどもか最悪だったが。ババアを好きになれって無理だろう。精神的にレイプされている感じがする。本当に最低なやつらだ。人倫にもとる行為を平気でする。キチガイだ。それから朝カルの内田の話を聞いた。昨日は力が入っていて面白かった。 私は新しいステージに入った。フォアマンが伝道師に生まれ変わるのと同じだ。愉しみだ。生活の質を高めよう。価値あるものを呼び入れよう。今そういうことができる準備ができた。具体的には武道やスポーツを始める。買い込んだ本を読む。努力を苦にしない。 アイムオーケーユアオーケー。だから新しい人生を始めるのだ。誰にも邪魔させない。 働くことがなぜ必要か。それが自分を守ることだからだ。働くことは自分のためだ。自分の存在を世間に認めさせることだ。全ての問題は解決済みである。害あるものを取り除くこと、そのための仕事が第一だ。例えば掃除、整理整頓。我慢しないことだ。おかしな状態を一瞬でも我慢しないことだ。自分で自分の身を守ることだ。 アイムオーケーユアオーケー。心と体がゆっくりスローダウンする。アルコールの作用はすごい。アルコール療法と名づけよう。適量のアルコールは万病を治す。 自分の思い通りに生きていいのだ。自分の身は自分で守っていいのだ。働きたいのだから働いていいのだ。誰でも働いていいのは自分を守ることだからだ。 私は人生の新しいステージに入った。今までやらずにいたこと、やれずにいたことをやるべきときが来た。うじうじと無為のまま一生を終えるなんて真っ平だ。 何か気分がよくなってきた。こころとからだがスローダウンすることは良いことだ。行動を立ち止まって考えることができる。現実をよく見ることができる。アイムオーケーユアオーケーでない状態でいくら何をどれだけ考えても無意味だ。アイムオーケーユアオーケーな状態でスローダウンしてゆっくり考えることが真実だ。 堺の人間は完全におかしい。全員おかしい。市全体が○○部落だ。本当におかしい。フッキーはその代表だ。 私は病気なんかじゃない。これは怪我だ。誰でもなるものだ。過去の原因とか探っても仕方がないのだ。 自分の身は自分で守ろう。全くわからないやつらがうようよしているのだ。そういうやつしかいないということだ。全くわからないやつしかいないということだ。戦うことは必要なのだ。どうしたって必要なのだ。
昨日はよく飲んだ。もうかれこれ5日間くらい飲んでいる。昨日くらいからアルコールの効用を実感している。リラックス効果が一番大きい。得体の知れない不安や恐怖が和らぐ。恐怖がなくなることはないしその必要はない。身に危険が迫っているのに気付かないのは馬鹿と同じだ。恐怖はその役割をしている。だからあるがままでいいのだ。恐ければ恐いでいい。理由があるのだ。物事には。それを無視するからトラブルが生じる。朝カルでババアの集団を見れば恐怖を抱くのは当然だ。自分が傷つけられないなどと妄想を抱くのは止めよう。この間のバスツアーでも同じだし、恐がる必要と理由はあるのだ。本当に恐れるべきなのはこちらが無防備無抵抗、およびその意思がないことである。圧倒的な恐怖を前にすると抵抗することを諦めてしまう。しかし抵抗は現実的で簡単である。即効的でというより同時に効果が生じる。馬鹿者には近づかない。付き合わない。気を許さない。嫌いな人間も同様だ。なぜ嫌いか、自分を傷つける可能性があるからだ。自分が反撃できない可能性があるからだ。 抵抗する気力というのは諦めないで働くことを意味する。一流のものと接しよう。価値のないものと戯れるのは止そう。フッキーみたいな百害あって一利なしみたいな人間とは。私はその意志さえあればこの苦境を脱することができると確信した。自分を組み替え、価値ある豊かな力強いものを呼び入れるのだ。倫理的にも物質的にも価値の高いもの。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は関係あるそうだ。倫理と経済は同じものだろう。 私が女性的であって現実に不適合を起こしやすい。それが何であろう。三島由紀夫だってそうだった。人生を楽しむのに何の邪魔にもならない。肝心なのは抵抗する意志だ。 文学は救いになる。少し、打ち込んでみよう。ただどうして文学をやるやつはあんなに嫌な奴が多いのか。全くわからない。中上健次のセミナーに出て初めて気付いた。でも多分どの世界でも嫌な奴なのだ。人間とは。都会人とは。あのババアを見ろ。ザッツ関西人だ。法律の世界に行けばもっと嫌な奴がいる。人間自体が嫌な生き物なのだから仕方がない。それが嫌なら田舎暮らしでも始めるしかあるまい。 アイムオーケーユアオーケー。アイムオーケーユアオーケー。現実的になろう。現実を無視することはよくない。と言うより、病気や怪我をする。大切なものを失う。私は人間の資質に欠けることはない。ただ現実的でないだけだ。現実は痛みを伴う。痛みが激しいと無視するようになる。嘘を簡単に信じるようになる。芸術家の誕生である。そういう人間がいてももちろんいい。必要とされるからだ。必要とされなくてももちろん良い。アイムオーケーユアオーケーだ。 嫌悪感を克服するのは難しい。というより不可能だ。女が嫌いだったらそれで良い。そんなもの克服しようがない。 女嫌い。アイムオーケーユアオーケー。現実的でありたい。もうこの会社に入ったときはおかしかった。職務遂行できない状態だった。倫理的でない人間はだめだろう。いつからこうなったのか。遠い昔だ。人間は堕落する。私は極端だった。でも今からでも遅くない。再出発しよう。自分を組み替えよう。行住坐臥が修行だと言う考えは素晴らしい。武士道だ。 ゼロトラレンスという考えに共鳴する。フッキーみたいな人間と付き合うなと言うことだ。ババアに近づくなと言うことだ。おかしな人間を近づけるなということだ。不道徳なことをするなということだ。 アイムオーケーユアオーケー。今日のカウンセリングは思ったことを言えた。飾りも嘘もなく、自然体で言えた。道徳的であること。自分を守る気概を持つこと。向上すること。女が嫌いと言うことを変えることは難しいし、逆に強める必要もない。それは遺伝と同じでどうしようもないが、道徳の力でいくらでも何とかなる。道徳の力は強いのだ。道徳的に向上すれば、嫌いな人間でも安全に自分を守ることができる。道徳とは自分を守る最大の武器で、人を攻撃することが自分を守ることではないのだ。行いを正しくすることで十分安全に過ごせる。自分を守る意志、気概が大事でいくらテクニックを1000通り聞いたとしても、意志がなければ子供にも負けるだろう。
昨日は粉河寺に行ってきた。寺は壮麗で古びていて良かった。しかしあの沿線、車内の雰囲気はいただけない。すさんだ感じがした。田舎なのに全然のどかじゃなく、暗く攻撃的で陰湿極まりない、世を恨むようなやさぐれ感。あれは一体なんだろう。人を素直に信じることが嫌になる。高校生は特にひどい。人間じゃない。側にいるだけで不安になった。日本人はこんなんじゃなかったはずだ。男はやくざ、女はあばずれ、何を考えているのか全くわからない。何かされそうで私は逃げ出した。人のいない反対側の線路に逃げ、避難した。そして一駅戻った後、降りてまた逆の線路に行き、戻ってきた。そうすると若い女の子たちが時間になると三々五々集まってきた。ごく普通の可愛い感じで不安ではなかった。やっぱりあの高校生たちはおかしい。私がおかしいのじゃない。人間の常識が通じない感じ。一般社会から隔離されると言うことがあんな異常な人間を作り出すのか。人ではない。人と人の間が境界がない。エイズのように進入して来る。心底不快なやつらだった。 私は自分で自分を守らなければいけない。姉はおかしい。犯罪者的なところがある。ねたみから私を何度も傷つけた。どうして仲良くするかではなく、どうやって身を守るかだ。フッキーみたいなやつが実際世の中にはいるのだ。常識も両親も通用しない本物の狂人だ。あの会に来ているやつは全員異常に攻撃的な狂人、変質者ばかりだった。自分で自分を守ると言うことは相手を信じることではない。何をするかわからないやつと警戒することだ。近づかないことだ。やられたらやり返すのだ。異常に攻撃性が高いくそババア、ドーパミンが異常に出まくった危険極まりない狂人たち。自分を守ろう。 正常化。これが目標だ。少し自分が見えてきた。今回の大不調は苦しかったけれども、多くのことを学んだ。アイムオーケーユアオーケー、U氏のコメント。自分で自分を守ること。他人の善意に自分の安全を委ねないこと。倫理的であること。ああいうババアから自分を守るということは攻撃力を高めることではない。けんかに強くなることではない。あんなやつらはキチガイなんだからいくらでも犯罪的なことをやって報復してくる。倫理力というか免疫力を高めるのだ。心の安全保障。私はあそこで自分が守りきれないと感じたので休むことにした。大正解だった。精神的レイプだ。洗脳といい、モラハラと言い。あの会社はおかしい。金融と違ってメーカーはまともと思ったのは楽観的過ぎる自己欺瞞であった。理系気印がうようよする危険極まりない空間だった。 自分を守るとは恐怖心を例えば森田的に克服して自分の倫理性を守るために働くことだ。能動性を取り戻すことだ。現実に復帰することだ。中学の頃から現実を見失うようになって来た。恐怖心からか、不適応からか。じゃあ不適応に理由はと考えるともうわからない。遺伝かと言う話になる。遺伝なら私にはどうしようもない。ただできることは自分を守るために勇気を振り絞って働くことだ。恐怖にとらわれ何もできなくなってしまった自分を変えるのは今だ。U氏の言うことは結局敗北の原因をよく見据えて正しく対処しなさいと言う極めて真っ当な助言であった。信じること。アイムオーケーユアオーケーであること。倫理的であること。あの気印から身を守ることは暴力でも喧嘩でもない。倫理的であることだ。私は勇気を奮ってメールを書いた。ちゃんと満足のいく返事が得られた。倫理的であれば大企業でも国家権力でも恐れることはない。倫理的でなければ。葉ずれの音にさえ怯えねばならないだろう。文学作品でも価値の高いもの、切実なものを選んで読もう。読むことは最も手っ取り早い修練である。 自分が倫理的でなくなっていることを自分でどうにもできないなら人から攻撃されてもどうしようもない。敵は女でも世間でもなく自分自身だ。セルフコントロールができて倫理的であること。そのために適切に働けること。それが私の中間目標だ。 やっぱり適当でいいとかじゃなくてやるからには最高を目指す。そのほうが伸びるだろう。気持ちがいいだろう。女なんかに馬鹿にされなくていいだろう。女と同じでいいのか。いいわけない。そう思うことが倫理的なのだ。アイムオーケーユアオーケーだ。 さっき自分の脳がコントロールできそうな気がした。夢うつつの中で。体を通じて自分をコントロールするのだ。 自分を組み替えること。良いもの価値の高いものを呼び入れること。成功した人の話を聞くこと。 さっきどういう感じでコントロールできそうだったかと言うと脳の興奮が冷めて、沈静したような気分だったときだ。呼吸法で練習したときの状態とよく似ている。酒を飲むのは余りよくないが、こういう効果もあるのだ。自分で脳の興奮を収められないとき、酒の力を借りるのも一つの方法だ。 朝日カルチャーの水上バスのコースに参加した。楽しかった。良い時間の過ごし方だった。おばさんも注意していれば何も不愉快なことは起こらない。でも対人的に不快な状態は続いている。フッキー症候群。日々の暮らしが修行の場だ。私は悪い人間などではなかった。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーだ。自分の身は自分で守るのだ。 楽しかった。自分で自分を守ることができれば全て解決だ。女なんか氏ね。
今日も3時に目覚めてしまった。でも今日はずいぶん気分が良い。もうすっかりよくなったと言ってもいいくらいだ。私は神の子ということが判明した。特別な存在だ。高層マンションは恐い。引っ越したい。できれば家を買いたい。一戸建てが良い。以上。私は気分爽快だ。サドを読んだのは女に持てるための仕方がなかった。お蔭で今や世界中の女は私のとりこだ。全て良かったのだ。誰も新しいステージに進んでいくのに、あの境界例の女でさえもそうしているのに、私だけ、いつまでも同じ場所に震えてうずくまっているのはどうしてだろう。人並みはずれて臆病なのか。私は神の子なのだから恐れる必要はない。思い切ってやれ。今まで溜め込んできたものを発揮しろ。ほらを吹け。小説は大いなるほらだ。 私は神だ。疑いもない。新しいステージに上がったのだ。自分を組み替えるのだ。最高の状態に組み替えて、価値を極限まで高めるのだ。思い切って自分を組み替え、最高の自分を目指すのだ。貪るのではない。愛するのだ。愛は奪うだけではなく、与える。奪うことはしない。相手の価値を十二分に引き出す。そしてそれ以上のものを相手に与える。それが愛だ。 ヤンキーみたいに堕落するのが良いのか。良くない。 向上せよ。自己の価値を高めよ。当たり前のことだ。どれだけ自分の価値を高めても良い。自分の価値を自ら貶めることは止めよう。 アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーだ。 はっきり言って私はどうしていいかわからないので、神仏にすがるのはいいことだ。 サドに出会えてよかったと言えるようになりたい。高橋源一郎も偉い作家になった。あのインテンシティーはサドを読んだものならではだ。私に人生に無駄はないのだ。 楽しい。私は私だ。昨日デパスを飲んでいながら酒を飲んだので目がかすむ。よくない。 結局仲良くする方法などないのだ。自分で自分を守らないといけないのであれば、攻撃には攻撃であって、我慢ではないだろう。妥協点を探ることでもないだろう。私は絶対に許せない。私は我慢に我慢を重ねた。その結果病気になった。何であんなやつと仲良くしないといけないんだ。いい加減にしろ。何だ。今日の電車の隣のやつ。偉そうにしやがって。何で我慢しないといけないのか、全くわからない。けんか上等じゃねえか。いい加減にしろ。臭けりゃ向こうに行けばいいじゃねえか。殺すぞ。 くそババア。何で俺が解決方法を考えないといけないんだ。何で俺がカウンセリングを受けないといけないんだ。殺すぞ。何でお前なんかと一緒に仕事しないといけないんだ。何でお前と同じ空気を吸わないといけないんだ。と言うかなんでお前は生きているんだ。全く理解できない。今すぐ死ね。何でお前と仲良くしないといけないんだ。何でお前と一緒に仕事しないといけないんだ。何で俺が我慢しないといけないんだ。死ね馬鹿。くそババア。殺すぞ。
変なビデオを見てへこんでいた。あんなビデオは見てはいけない。捨てた方がよい。脳が傷つく。自分で自分を傷つけるのはやめよう。自分を大事にしよう。それが基本だ。私がこの会社にいることで自分を大事にしていないなと思うならば即刻やめるが良い。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。本当にそう思え、そう行動できるようになるまで心の中で唱え続けよう。変なビデオを見て自分を傷つけることがなくなるよう。そんなにエロスを追及しないといけないか。貪るのもいい加減にしろ。金をどぶに捨て、自分にぐさぐさナイフを突き立てるのは止めろ。人の親切をあだで返すのは止めろ。自分に優しくしよう。こうして休まないといけなくなるくらい、自分で自分に辛く当たっていたのだ。今気付いた。敗北によってできた隙間に何かを呼び込むのは今だ。今が大きく成長できるチャンスだ。立派な恥ずかしくない人間になれるのは今だ。100%そうなれる。決して誰も邪魔できない。自分で自分を邪魔しない限りは。 私は心ならずも休職に追い込まれたのであるから、一敗地にまみれたのだろう。そうであれば植島氏の言うとおり、今が最大のチャンスである。何物かを呼び入れることによってより高い位置にいける。成長できる。あの時以来、私が成長しようと思ったことがあるだろうか。アイムオーケーではなかったのだ。でも今は違う。強くなるのだ。自分を守るのだ。向上するのだ。道徳的に高まるのだ。成長するのだ。賢くなるのだ。現実に適応するのだ。自分を組み替えることはいくらでも可能だ。アイムオーケーユアオーケーだ。性的に偏っていたとしてもアイムオーケーユアオーケーだ。光源氏を見よ。性的博愛主義者だ。自分が舞台に上がったと感じる。斉藤一人などはそうだろう。演技性何とかではなく、魅力的であること、強いこと、美しいことは賞賛されることである。妬むやつはおかしいのだ。おかしいやつに合わせる必要があるだろうか。兄姉やあのキチガイが私に辛く当たる理由は妬み以外に何もない。あさましい、さもしい根性だ。どうして自分で頑張らないのだ。老婆が私を貪ろうとしたり、攻撃しようとしたりするのも同じく妬みだ。あのフッキーとか坊さんが私に近づく理由が妬みであって親愛の情などではないと気づいて私は離れた。大変な犠牲を払って。そこに一つの解答がある。強くなることだ。どれだけ妬まれてもいいように強くなることだ。妬みに対する解答は攻撃することだ。張り合うことだ。張り合うことは恥ずかしいことだろうか。自分を守ることははしたないことなのか。あの狂犬を前にしてまさかそんなことは言うまい。私らしくあろう。強くなろう。賢くなろう。美しくなろう。金儲けをしよう。どれだけ妬まれてもいいように強くなろう。これが解答だ。愛とは妬みである。愛情の裏返しだ。女があれほど嫉妬深いのはそういうことだ。狂犬に身を投げ出すようなことは止めよう。母親も狂犬みたいになっていた。人間はもっとまともになれる。私は狂気にとらわれているとしか思えない。もっと心穏やかで満ち足りて生産的で豊穣な生き方が可能なはずだ。私にはそれだけの力がある。それを信じることがアイムオーケーユアオーケーだ。 まず自分が嫌なことは止めよう。損することは止めよう。疲れたら休もう。ルールに反することは止めよう。現実的に行動しよう。自分をもっと愛そう。いくら愛しても愛しすぎることはない。ねたんで攻撃するやつに迎合するのは止めよう。暴力には断固として立ち上がろう。 ふと思ったが、私はこの職場に来たときに非常に暴力的なものを感じた。刑罰を受けたような気持ち。それはその通りだろう。刑罰として、私は配置転換させられたのだ。それを正面から抗議するなら会社にたてつく人間と映るのではないか。それも仕方がない。全員あそこにいる人間は刑罰としてそこにやらされたのだ。前の職場でも同じことだ。私自身が変わったわけではない。それで最初のうちはその異様な雰囲気に気圧されて順応または迎合しようとした。しかしいい加減嫌になって、従わなくなった。適当に調子を合わせることにした。生きた人間と感じられなかったからだ。暴力的で非人間的な感じ。作業服姿はまるで囚人だ。でも迎合しなくても生きていける。自分で道徳的に高める努力をすればいいのだ。会社が要求する水準に達するだけの道徳を自分で持ち合わせればいいだけの話だ。従属するの、迎合するのは必要ない。それは会社の外で一人で生きていたとしても同じことだ。奴隷のように生きる必要などどこにもないのだ。これも一つの解答だ。誰かに何かに従属しなくても生きていける力が備わっているのだ。自分で道徳なり、技術なりを磨けばいいのだ。作家は良い小説を書く。政治家は良い政治をする。魚屋は良い魚を売る。そういうことだ。道徳的な世の中で不道徳に振舞うことは現実離れしている。 私は馬鹿だ。現実離れしている。自分の痛みに鈍感だ。それで耐え切れなくなって引きこもったり、気が狂ったりする。現実にあった損得を考えた行動をしていればそうはならないのだ。現実にあった行動をするということが道徳的ということに他ならない。何も崇高で自己犠牲的なことではないのだ。 私のやるべきことはなんだろう。ゆっくり休むことだ。まだ休まっていない。しっかり薬を飲んで芯から休むことだ。そうすれば自ずから元気が出てくる。それから道徳的に高まることだ。私は元々道徳レベルが低いわけではない。でも堕落することはある。人間だから。いったん堕落するととことん行ってしまうのは真面目だからだ。でももう立ち直るべきときだ。立ち直るとは本心に立ち返ることだ。回心することだ。これがどうしてもできない。普通の人ができることがどうしてできないのか。ヤンキーに絡まれる。私の中にヤンキーチックな部分があるからだ。でももうそれは良い。アイムオーケーユアオーケーの精神でそれは十分反省するならばオーケーだ。堕落した道徳レベルをもう一度上げるべきときが来た。本当はもうとっくに過ぎているのだが、神が猶予を与えてくれた。今十分反省して立ち直るのだ。修練が必要だ。スポーツでも良い。芸術でも良い。ギリシャ人のように修練することが必要だ。 敗北によってできた隙間に何物かを呼び入れるとはまさに私がやろうとしてきたことに他ならない気がする。敗北するからには理由があると考える。失敗学という学問があるくらいだ。学問まで行かなくても生きていく上で失敗に学ぶことは必要だ。失敗には理由があると考えるのは正しい。私も失敗、あるいは敗北の理由を考えないで苦しむだけではいけない。失敗から学ぶということでもある。植島氏のメッセージは。信じること、願望。道徳的であることはどんな場合でも必要だ。そうでない人間の行動などありえない。まあ気長にやろう。焦りすぎたことが失敗の理由の一つでもある。アイムオーケーユアオーケーでないまま焦りすぎると自分をいたずらに傷つけるだけに終わってしまう。 計画を実行するときが来た。買った本を読むときが来た。夢を実現するときが来た。夢とは快楽ではなく、自己実現という大きな夢だ。目先の快楽などではない。自分が高まる。これが一番の快楽だ。好きなように自分を変えていけるのだ。 アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。向上することだ。スポーツなんかはモデルになりうる。自分を鍛錬、修練する。良いことだ。敵からさえも学ぶ。私は悪くない。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。 変わることはそう難しいことでも特別なことでもない。人は生きているだけで変わっていく。物質的にも精神的にも。体操をして少し筋肉がついた。敏捷に成った。柔らかくなった。それだけで変化である。好ましい変化を起こすことが人間の賢さだ。まず体から変わっていこう。 宇治の三室戸寺に行ってきた。まだ早かった。しょぼかった。いつもは本当にあでやかで堪能するのにがっかりした。でもメインは平等院だったから良かった。本当に美しく優美であった。900年前というのは奇跡に近い。帰りに可愛い子がいた。大阪も捨てがたい。 人は皆私の応援団だ。私のファンだ。私の一刻も早い復帰を心待ちにしている。 私は神だ。神である以上、誰もが私を崇め奉ることは言うまでもない。気分がすっかり回復してきた。良いことだ。わいは自由や。 私は父が死んだときぼろぼろになった。フォアマンのように。そこから立ち直るのにものすごい時間がかかった。今も立ち直ったとは言いがたい。私はしかし今全ての人に支持されている。私の回復を全ての人が望んでいる。回心とは激しい心の組み替えであろう。u氏の言うように敗北によって生じた心の隙間を心が必死で埋めようとする試みの結果であろう。私はもう自分を疑わない。おばさんのように。自分を硬く信じる。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。これが私のアルファであり、オメガである。 私が自分を神か天皇か天使のように考えたとしても一向に間違いではない。事実そうだからだ。私は新しい次元に至った。ところがババアでさえも新しい次元に移っている。それであれば私も自由じゃないか。くそ高校生でも新しい次元に移ることができる。私も自由だ。私は自由だ。完全に自由だ。神だ。神だ。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーだ。 私は神なのだから、仲良くしてくれとか、うまくやるためにはどうしたらいいかとか、私はどこが悪かったろうかとか、どこが悪いか言ってくれとか、悪いところは改めるからとか、馬鹿馬鹿しいこと言ってんじゃない。私は神なんだから自由なんだ。優雅に好きなことをやってそれでオーケーなんだ。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーとはそういう意味なんだ。
今日は風邪がぶり返した。でも精神的にはタフだ。安定してきた。体本位で行こう。 アイムオーケーユアオーケー。私の能力は全く発揮されていない。努力は必要だと気付いた。自分の中にあるものを外に出せるようになるためには努力が必要だと。努力することが苦にならない。植島氏の言うとおり、敗北によってできた隙間に何物かを呼び入れることができるかどうかだと。何とか言うおっさんはホームレスになったという。そこから社長になった。ホームレスになったとき本当に自由になったと思う。それから社長へは一歩のことだ。 高めよう。高めるんだ。今こそ高めるんだ。 今日は源氏に久し振りに行った。面白かった。光源氏が若紫と同衾する話は最高にエロティックだった。どんなポルノよりエロいと思う。こんな話を千年も前に書いた紫式部はすごいとしか言いようがない。今日は落ち着いていた。ヨドバシに行って大画面テレビを見たが高かった。そんな高い買い物をするなんて躁状態だ。お金の価値が狂っている。3倍から5倍してみたら良い。買っていいかどうかわかる。 若者や子供の目は美しい。就活らしい娘の目をじっと見ていたら変な意味で取られたらしくもじもじし始めた。気をつけよう。目は人体で最も美しい部分の一つではないだろうか。モナリザの価値は99%くらいあの目にある。 すごく自分が価値があると信じられるようになって来た。問題解決は成ったも同然だ。自分の価値をいくらでも高められると感じた。
まだのどが痛い。どんだけしつこいんだ。フッキーみたいだ。あいつはマイミクからはずしてやった。これだけの甚大な被害を受けたんだから当然だ。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。あのキチガイのことを本当に憎んではいなかったと思う。優しいから許していたんだと思う。許す必要はないのだ。本当に憎め。本当に攻撃を加えろ。それが普通の人間がやっていることだ。 ちょっと元気になってきた。信じられない。前より強くなった。本当に憎んでいいのだ。自分に危害を加える人間は本当に憎んでいいのだ。 父は優しかった。でもあんなに優しかったら自分が傷つくし、自分を守れなくなる。今の私のように。でも私は自分を守れる。自分を傷つけるやつは本当に憎んで良い、傷つけていいと言うことだ。 私は強くなった。傷ついたが強くなった。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。これさえあればいつまでもどこまでも大丈夫だ。 アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。 呼吸法をやった。少しこつがわかってきた。これだけ長いことやって今頃こつがわかるなんて。 楽しむことを許そう。リラックスして楽しむことを許そう。セックスでも音楽でも良い。同じことだ。 楽しい。 アイムオーケーユアオーケー。キチガイは平気で人を傷つけてくる。それを黙っていてはいけない。黙って甘受してはいけない。世の中は私の思っているようなものじゃない。 あの大学に入学したときからやる気がなくなった。やるべきことをやらなくなった。もちろんそれ以前からやらなかったが、あのときから決定的になった。あのときに戻ってやり直そう。生産的な人間になろう。作家だって生産的である。 植島氏の講義を聞く。とてもためになった。私のためにあるような講義であった。敗北によってできた隙間に何を呼び込むことができるかが勝負だと。今私がやろうとしていることがまさにそれだ。別に宗教でなくてもいいと。アイムオーケーユアオーケーでもいいわけだ。小説を書くことでもいいわけだ。自分が素晴らしい人間になることができそうな気がした。斉藤一人だとか松下幸之助とかカーネギーとかああいう人の話を聞いたらいいような気がした。鶴見俊輔でもいいが。
アイムオーケーユアオーケー。自分を守らないといけない。その気持ちが猛然と湧いてきた。あのキチガイが何をしようと身を守らないといけない。中学のときキチガイが襲い掛かってきても自分を守らないといけない。誰かが守ってくれると考えるからおかしくなる。自分を守らないといけない。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。ババアが近づいてきても自分を守る気持ちがあれば大丈夫だ。相手が全く善人であると言う保証などないのだ。アイムオーケーユアオーケー。 リスパは本当によく効く。体がふわっとする。凶暴な気持ちがなくなる。リラックスできる。こんなになってもこの会社にいなければいけないだろうか。やめれば楽になるという気がしてきた。 しんどい。でもこのしんどさは躁状態に比べると良いような気がする。 アイムオーケーユアオーケー。アイムオーケーユアオーケー。何をどうすればよいか。 鼻はだいぶ良くなった。後はのどだ。外に出ただけで疲れる。通行人や店員にも疲れる。家にいたほうが良い。 アイムオーケーユアオーケー。アイムオーケーユアオーケー。本当にしんどい。 疲れていてもできることをやろう。できるペースでやろう。疲れを癒すために温泉に行くのは逆効果だ。飲み会なんてもってのほかだ。 すごく良くなった。楽しいことなんてあるだろうか。昔は何も楽しいことなどなかった。今は山ほど楽しいことがあるのにまだ不平を言うのか。まだ金を使おうというのか。おかしい。何もしないのが一番良い。せいぜい図書館で借りた本を読むとか掃除をするとか。買ってきて読んでいない本を読むとか。ハイキングをするとか。座禅をするとか。ヨガをやるとか。躁があってうつがある。今はうつの波なのだ。あのキチガイがいようがいまいが遅かれ早かれ悪い状態になるのだ。 アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。仕事ができるようになることだ。あんなキチガイのことなんか全くどうでも良い。全く関係ない。 アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。これは本当に力強い言葉だ。自分が一番の敵だったのが、一番の味方になったようなものだ。アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。キチガイのことなんかどうでも良い、全く関係ない。全くどうでも良い、全く関係ない。全くどうでも良い。全く関係ない。中学のときの担任?高校の担任?大学の同級生?全くどうでも良い。全く関係ない。社会に出てからであったやつら?全く関係ない、全くどうでも良い。
楽しいな。楽しいな。楽しいなったら楽しいな。アイムオーケーユアオーケーだ。小さい頃から今までアイムオーケーユアオーケーだ。アイムオーケーユアオーケーだからきっとうまく行く。絶対にうまく行く。 今は疲れている。無理はしない。人と会わない。出歩かない。 アイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケーアイムオーケーユアオーケー、アイムオーケーユアオーケー。 女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。 今日はどうしよう。昨日カウンセリングで言ったように打ち込めるものを探そう。それから休もう。じっと休もう。 呼吸法をやった。呼吸法は脳の傷を癒すんじゃないかと思う。楽しい。少し楽しくなってきた。この調子で2週間くらい過ごせば大丈夫だと思う。 あの坊さんどうしたらいいのかわからない。付き合うのを止めたいがどう伝えたらいいのかわからない。今病気だからしばらく会いたくないといおう。本当にそうだから。アサーティブに伝えよう。私がこの一か月以上調子が悪いのはあの坊さんのせいではないかという気がしてきた。電話に出なければいいのだ。とりあえずそうしよう。 禁欲的なのはやめて楽しもう。旅をするとか、本を読むとか。 朝カルのお遍路に行ってきた。すごい変なおばさんが訳のわからないことを行ってcdを売りつけようとしていた。でも芸人というのはあんなものだ。小説書きでも同じことなのだ。作家だって相当変だ。まともなやつは一人もいない。でもあの人は偉い。バーをやりながらああやって生きているのだ。境界例ぽいが女は境界例が多いのだ。 アイムオーケーユアオーケー。私は改善されてきた。今日のお遍路でもおばさんに気に入られた。半分セクハラのような気もするがそういうと全て人間セクハラだ。 アイムオーケーユアオーケー。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。働くことは大事だ。私は働くことが嫌だなどと言ったことは一度もない。働きたくて仕方がない。でも仕事がない。仕事をしないことはおかしい。若い頃から仕事ができない。やっぱり私はおかしいと思う。現実的に考えておかしいと思う。働かないのはおかしい。病気で働けなくなったことはあるが、それは一時的なことだ。やっぱり自分が働くということを考えなければならない。母親に金をねだっているようではいけない。
今日はカウンセリングに行った。今日は少しだけ噛み合った。気がした。昨日よく眠れた。クスリが効いた。なじんできた。うつの手段になっているそうだ。音楽にしろ。温泉にしろ。庭園にしろ。小説にしろ。うつが俺を何とかしてみろといって色んなものを利用するが結局だめで。確かにそう思う。カウンセリングにしろ。うつが底なし沼のように飲み込んでしまう。全てを。底なしの胃袋。全く生産性がない。でもうつだからということで正当化してしまう。ばかだ。庭園のときは自分が楽しめたから良かったのだそうだ。私もそう思った。夢中になってやったことが無い。一所懸命やったことがない。我を忘れたことがない。アイムオーケイユアオーケイ。好きなことを欝のためとか何とかじゃなく楽しいからやる。これが肝心かもしれない。打つと自分が自己同一化している。うつに人格を乗っ取られている。うつに夢中になっているのか。生産的なことに注ぐ余力がない。 昼から神戸の呼吸法に行ってきた。今日は落ち着いてできたと思う。風邪もずいぶん良くなって来たから呼吸法も再開しよう。ゆっくり治せば良い。呼吸法は良い。あのババアとの問題は母親にぞっとしたことから来ているかもしれない。ババアと仲良くしろといわれても本当に困る。女も性的なことしかないのにそれを拒否されたら困るだろう。私が女を拒否しているので向こうも私を拒否している。それで仕事で見返そうとしている。そればかりか私生活の全てで私に張り合おうとしている。最後にはモラハラをやり始めた。本当に始末に終えない。ババアを好きになればいいのか。全くわからない。アイムオーケーユアオーケーだ。どうしたらいいのかわからない。若い女でも嫌いだ。ぞっとする。本当にぞっとする。アイムオーケーユアオーケーでいいと思う。 薬が効いたせいか脳が落ち着いてきた。アイムオーケーユアオーケーだ。脳の異常な興奮が恐怖や不安と関係している。呼吸という簡単なことによって制御できる。職場でいらいらや不安が襲ってきても呼吸で制御できる。アイムオーケーユアオーケーだ。 女、特にババアって何とかならないものだろうか。全くどうでも良い。全く関係ない。全くどうでも良い。全く関係ない。これを一日一万回繰り返せ。全くどうでも良い。全く関係ない。全くどうでも良い。全く関係ない。全くどうでも良い。全く関係ない。全くどうでも良い。全く関係ない。 女なんか全く関係ない。全くどうでも良い。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。
疲れた。桂離宮に行ってきた。なかなか良かった。人と会うのは苦痛だが。今日は病院に行ってきた。リスパを錠剤で出してもらうことになった。毎日飲んで早くよくなろう。これを飲む羽目になったのは洗脳のせいだ。職場で周囲とトラブルが激化したのもそのせいだ。薬を飲み続けねばならないのだろうか。いつまで?わからない。誰にも会いたくない。誰とも話したくない。でも仕事をしないといけない。人と付き合うのは嫌だ。 アイムオーケーユアオーケー。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。誰もどうでも良いし、全く関係ない。 アイムオーケーユアオーケー。誰とでも衝突するようになった。あの爺のせいだ。もう二度と会いたくない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。誰とも会いたくない。しばらく誰とも会いたくない。洗脳のせいで性格がおかしくなった。 男とか女とか関係ない。どちらも嫌いだ。それでいいのだ。でも女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。これだけははっきりしている。どうでもよくないのは恋愛、結婚、セックス、それだけだ。どれも関係ないのだから関係ない。 アイムオーケーユアオーケー。 問題は洗脳されてますます適応が悪くなったことだ。ますますトラブルが増えた。それも正面衝突的なトラブル。これは避けたほうが良い。リスパを飲むことだ。女なんか全くどうでも良いし、全く関係ない。 洗脳されて全能感を味わい、躁状態になった。それで色々活動を広げてきた。そうしないとジリ貧になると思ったからだ。でももうそれも限界だ。キチガイ相手に張り合っても仕方がない。問題は逆に沈静化することだ。落ち着くことだ。落ち着いて地に足をつけて何かをじっくりやることだ。洗脳を解くことだ。まず人に会わずに薬を飲んで落ち着くことだ。 あの職場になってからストレスで病気になった。それでカウンセリングを受けて洗脳を受けて更におかしくなった。今は鎮静することが大事だ。活動を広げることでなく狭めることだ。薬を飲もう。誰ともしゃべるまい。 でもあいつらのやっていることは暴力だ。暴力は許すわけには行かない。
十津川から帰ってきた。面白かった。体調を崩して死にそうになったが何とか持ちこたえた。これからはこんな無理はしないほうがいいんじゃないか。十津川は秘境でいいところだった。湯泉地温泉は特に景色が素晴らしかった。もっとも宿の人には嫌われたようだが。女だけじゃなく誰からも嫌われた。 帰りに電車の中でふと思った。女なんか、全く関係ないし、全くどうでもいいと。全くどうでもいいと気付けばすごく楽だ。そう思い切る勇気があれば。女なんか若かろうが、年を取っていようが全くどうでも良い。全く関係がない。自分の肉親でも妻や恋人でない女なんか全く関係ない。職場の女なんか全く関係ない。関係を迫られるとしたら、セクハラだ。 アイムオーケーユアオーケーで乗り切った。素晴らしい。平日に旅行していると土地の人にものすごい目で見られる。絶対歓迎していない。冷たい目。私も善意のかけらのない顔だからお互い様だが。病気なんだからしかも一人で明るくはできない。私が過去に何を経験してもオーケー。サドを読もうがバタイユを読もうがオーケー。引きこもりであろうが、何であろうが全くオーケー。アイムオーケーユアオーケー。女なんか全く関係ない。 全く関係ない。女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。 女なんか全くどうでも良い。全く関係ない。全くどうでも良い。全く関係ない。 女なんか全くどうでもいいし、全く関係ない。関係あったらおかしいだろう。 女なんか全く関係ないし、全くどうでも良い。このことに気付いたときは幸せだった。このことの何でもっと早く気付かなかったのだろう。人は俺のことなんかどうでも良いし、全く関係ないと思っている。何で私だけが人の気を遣わないといけないのか。女なんか全くどうでも良いし、全く関係ない。 アイムオーケーユアオーケー。私はオーケーなんだ。女ともめようとどうしようと私はオーケーなんだ。 女だからどうとか全く関係ない。馬鹿に決まっているじゃないか。馬鹿だといって怒るなんておかしい。女なんかどうでもいいに決まっているじゃないか。全く関係ないに決まっているじゃないか。何でそんなことを問題にするんだ。全く問題ではない。 人に会いたくない。全く会いたくない。何で無邪気に人と会おうとするのか。全くわからない。金払っても馬鹿にされるのに会わないほうがいいだろう。馬鹿じゃないのか。何が温泉だ。あほらしい。 何暴力ふるおうとしてるんだ。くそババア殺すぞ。女なんか若かろうが、年取っていようが全くどうでも良い。全く関係ない。
今日も引き続き調子が良い。体調が回復してきた。あの坊さんとの付き合いに端を発した私の不調も漸く回復に向かってきた。手足や脳に血液が流れるようになった。重要なものは末端にある。脳、性器、手足。目、耳、鼻、感覚器官だ。アイムオーケー、ユアオーケーの効果だ。素晴らしい。この調子で現実をよく見て意志の力で人生を切り開いていこう。 心臓は末端というか、始まりの原点だ。エンジンであり、エネルギー源だ。アイムオーケーユアオーケー。頭の中の大きな塊がゆっくり溶け出した。血液が再び十分に力強く流れ始めた。細胞がゆっくり膨らみ、エネルギーを帯びて働き始めた。脳よりも心臓が中心と考えて生活した方が楽だなと思った。 私は女が全て嫌いとは言ってない。100人に一人くらいは可愛いと思う女がいる。馬場典子は可愛いと思う。ハセキョーは可愛いと思う。性格が問題だ。大半の女は私の複雑な性格を理解できないだろう。 頭が動き始めた。初めて安心できる。自分で自分を守れるような気がする。もう自分を守れなくなっていた。 自分の頭の動きが初めてわかるようになった。この間z氏と話していて自分の脳の状態や動き、相手の頭の動きがすごくよくわかった。 今日は中山寺に行ってきた。いい雰囲気の寺だった。適度に俗っぽく、でも人々はそこそこ信仰しているようにも見えた。つまり宗教的雰囲気が濃厚でかつ自然であった。宗教は誰からも強制されるものではなく自然発生的に起こるものだなと思った。民間信仰というか習俗というか。神仏習合というか。何で寺なのに安産祈願なのかわからない。着物で着飾った女が晴れ姿っぽくいるのは異様とは思わないが、日本人はとことん宗教を飼いならしてしまったのだなと思った。現世利益的なものに。彼岸のことなど考えてはいない。 道はなだらかでとてもよかった。弱った体力にはちょうど良かった。奥の院に着いたらすぐに下りに入った。途中道を間違えそうになったが、何とか清荒神に着いた。良い雰囲気の寺だった。ここも寺か神社かわからない雰囲気で聖俗のバランスが絶妙だった。他にはないのんびりした良い雰囲気だった。タイムスリップしたかのようだ。葛飾柴又みたいだ。
2006年06月03日(土) |
アイムオーケーユアオーケー |
何か気分が楽になってきた。自分が見えてきた。自分が見えると人も見えてくる。これが今までは全く見えなかったのだから大変な成長だ。z氏のお蔭もあるし、休養したせいもあるだろう。これからはどんどん行動し、勉強し、働き、成果を出して行こう。それができる気がする。 アイムオーケー、ユアオーケー。もうこれしか書くことはないのだが。でも日常のささやかな出来事を書いていこう。エッセー風日記、小説風日記に変えていこうかなと思っている。世の中には色々面白いことがある。 アイムオーケーユアオーケーと唱えることは非常に努力の要らない自己への報酬である。人に頑張れと励まされたり、慰められたりすることを求める必要はない。人からがんばれといわれることがどんなに辛いことか、元気な人にはわからない。私が弱っているということを彼らがわかってくれないように。母親は決してわかってくれない。母親と私はもう独立した大人の関係だ。共依存とか依存しあう関係ではない。 エゴグラムをやってみた。cpとかfcとか他はまずまずバランスが取れているというかむしろ人より豊なのだが、aだけがゼロ。これは何を意味しているのか。狂ってしまった人のようだ。現実を無視というか直視できない人は狂人とみなされるだろう。現実とは権力とかお金というものもあるし、人間関係というものもある。私は人間関係から逃げている。現実から逃げてしまっている。その姿がはっきり、浮かび上がった。これは由々しき事態だ。でもずっと由々しき事態だったのに、気付かなかった、あるいは目を背け続けてきた。 現実から逃避してきた。中学時代から。高校大学と通じて。きっかけはわからない。社会に出てからも全く逃避してきた。だからどこに行っても使い物にならない。何がそんなに恐いのか。他の感情は損なわれずにある。私は健全だ。現実をよく直視して、体で生きるようにすれば、きっと人並みの生活が送れるようになる。訓練がどうしても必要だ。ルールやマナーを守ることが必要だ。 今元気なのは会社という最大の現実から解放されて、現実から逃避できるからだ。森田の会とか行っても浮いてしまう。現実を見る目のなさからか。 現実を無視したら、どんなにいい素質を持っていても何の役にも立たないだろう。アイムオーケーに気付いたら自分の明らかな問題点に気付いた。これから私は再生するだろう。見違えるように変わっていくだろう。十津川に命の洗濯をしてこよう。 よく遅刻したり、ダブルブッキングしたり、そういうのはきっと現実を直視できていないからだ。浮かれてはしゃいで、躁状態になることが回復でもないし、適応でもない。適応とは現実をよく知り、対応できることだ。 今すごい転機だと思う。いい方向への。アイムオーケーユアオーケーはセントラルドグマだ。taの。それを私は聞き流していた。というより理解できなかった。右の耳から左の耳だった。それがふと気付いた。何のきっかけかはわからない。私はオーケーじゃなかったと、悟りのように気付いた。森田療法でも本を読むほうが100倍役に立った。私は洗脳体験があるから、そういうものを無意識に期待してしまう。そんなものは必要ないのだ。あってはならないことだ。非合法化すべきだといっても良い。うちの会社もこっそりか堂々とか知らないがやっていると聞いた。洗脳は目的が何であれ、やってはならないことだ。ところで正直大阪の町は好きになれない。恐いと感じる。異様な格好の若者たちが闊歩する。居場所がないとそこでも感じる。でもそんな私もオーケーだ。私もあなたもオーケーだし、そこで起こるすべての出来事もオーケーだ。きっと理由があって起こるのだからそれが理解できなかったとしてもオーケーだ。私も他人もオーケーという人生態度は努力しないとなかなかできないし、すぐ違う状態になってしまうのは自然なことだ。でもやっぱり、実りある人生にするにはそういう状態を保った方が良い。 エッセー風の日記にするんだった。今日ミナミを歩いて、ジュンク堂とビックカメラに寄った。何も買わなかった。良いことだ。武士道は良いかもしれないが、危ない気がする。現代に侍が現れたら、宅間のようにばっさばっさと若者たち、おっさん、おばはんたちを切り捨てないといけないのじゃないか。だって失礼なことし放題だし、切捨てごめんだろう。東京は武士の町だから多少違うのかもしれないが。 今日は調子が良い。酒がうまい。avが面白い。小澤マリア最高。
今日は朝カルの親鸞の講義を聞きに行った。okの気持ちが働いて講義もよくわかった。親鸞はやっぱりスーパースターだったのだ。okという言葉はとても強い。計り知れないほど強い。okでない状態を破壊しつくそうとするからだ。私がokであれば人はokでないと勘違いして私を攻撃してくる。中には通り魔みたいに何の理由もなく攻撃する奴もいる。何の論理があって人を攻撃するのかわからない。okは素晴らしい。絶対に正しいと思える唯一の信念だ。 私はよく恐がられるらしい。無表情だし、しゃべらないし、目つきがおかしいし。確かに普通ではない。でもokだ。誰がなんと言ってもokだ。アイムオーケーだ。 アイムオーケーユアオーケーは人が恋焦がれるあり方だ。これを人は忘れている。だからそれを思い出させてくれるものを求める。そういう人のことは聞く。アイムオーケーユアオーケーというのは真実だ。唯一の真実だ。 サドでも人生の探求とかじゃなくてもてたいという目的だけならばokじゃないか。私はサドやバタイユを読みました。ok。
疲れた。本当に疲れた。旅行から帰ってきた。心身ともに疲れた。嫌なことが多かった。癒されることよりも。人間がストレス源になっていることは間違いない。こういう経験は一度で良い。でもそんな私もオーケーだ。アイムオーケー、ユアオーケー。私は女嫌いなんかじゃない。嫌いなやつに会ったら、会わなかったと思い込むことにしよう。そして二度と会うことはないと。全ての人と仲良くするなんて不可能だ。本当に疲れる。でもオーケーだ。そんな私でもオーケーだ。ユアオーケーだ。これは強い言葉だ。人は強くなれる。 未来は自由に変えられる。持って生まれたものと、経験は変えられないが、こうしたいという気持ちで未来は変えられる。アイムオーケー、ユアオーケー。するとモラハラ過敏状態から脱することができる。この旅行も何とか終えることができたのはその信念だけだ。これは強い言葉だ。そうでない状態を変えようという気持ちが出てくるからだ。アイムノットオーケーという状況に抗おうとするからだ。働くことはまさにその行為の他ならない。強制されてやるものではない。労働は強制されてはいない。 サドは妄想に苦しんでいたというから、私の妄想もそういう起源なのだろう。道徳的に低下しているのも同じことだ。勤労意欲の低下。対人道徳の低下。アイムオーケーユアオーケーの気持ちが大事だ。未来は変えて行ける。確かに堕落していたこともあっただろう。でも反省して改めれば変えていくことができる。 もし道徳の低下であれば、意志の力で簡単に変えられるのじゃないか。病気であれば、治せばいいのだが、カウンセラーも首をひねっていた。どちらにしても意志で治せる部分は治したら良いんじゃないか。アイムオーケイユアオーケイで行けば大丈夫だ。 アイムオーケイユアオーケイの話をz氏に話したら納得していた。こんな話を理解してくれるのは彼だけだ。カウンセラーはストレスのかかる職業だ。それでも笑顔でやっていられるのは何だろう。私が色々いい話をするからだろう。 未来は自由に変えられるという話は共感してくれなかった。 アイムオーケーユアオーケーで行くと人に殺意を抱かなくなる。差別感情も持たなくなる。 私は女が嫌いだ。ok.私は女が大嫌いだ。ok。私は結核をわずらったことがある。ok。私は自殺未遂をしたことがある。ok。私は一度しか女と付き合ったことがない。ok。私は精神病院に入院したことがある。ok。私は仕事を何度も変わった。ok。私は何度も配置転換になった。ok。私はうつで休職中だ。ok。私はパートのババアにいじめられている。ok。私は会社をクビになったことがある。ok。何をやっても何をされても私はokだ。ユアオーケーだ。
|