希望の日記

2006年04月29日(土) 今日

楽しい。方向性が見えてきた。楽しい。昨日はアサヒのビールツアーに行った。楽しかった。関西人は嫌いだし、日本人は嫌だ。昨日はプールで平泳ぎをした。今私に不足しているものは体力だ。年齢に比しても体力が不足している。これでは競争に勝ち抜けない。人生は何の競争なんだ。何で競争させられなければいけないのだ。芸術や宗教には勝ち負けはない。スポーツにはあるがそれは架空のものだ。フィクションだ。勝ち負けのないものに興味がある。うそ臭い競争主義に嫌気が差したからだ。でも体力が必要なことは確かだ。人を癒すものは一に宗教、二に芸術、三に商売だ。商売は確かに人を癒す。政治経済といっても良い。どうしても必要なものだ。日経に書いてあるようなことだ。
何かが変わった。自分の中で。見えない何かが動き出した。癒し、あるいは潤い。潤いの方がよりよくわかる。癒しとは難しいし、手垢にまみれている。潤いとは経済的な意味も含んでいる。
自分の中のものを外に押し出して実現することが肝要だ。そのためには努力が必要だ。訓練が、鍛錬が必要だ。芸事が上達する方法と人生がうまく行く方法とは同じだ。待っていても何も変わらないし、何も手に入らない。努力しないとうまくならない。水泳と同じだ。難しい本をいくら読んでも泳げるようにならない。スポーツのわかりやすい快楽が嫌いだったが、自分を守るものとしてどうしても必要だ。宗教と同じくらい必要だ。水泳とか自転車みたいな、ルールのない、単純なものか、呼吸法、武道系がいいんじゃないか。とにかくやることだ。生きることだ。漸く人生が始まった。
ああ、関西人は損得、欲得ずくで生きているので全く面白くない。大嫌いだ。盗人みたいで恐い。法も道徳も全く何とも思っていないし、全く信用できない。尊敬することももちろんできない。すぐ暴力を振るうし、完全に頭がおかしい。そういうものとして扱わないといけない。損得だけで行動する盗人みたいなやつで、犯罪や暴力を肯定している。憎むべきやつらだ。そういうものとして対処しよう。
関西人がどうであれ、関係ない。自分のことをしっかりやる。ロドス島で飛べというのがある。どこであっても自分のことだけしっかりやればいいのだ。全ての労働は肉体労働だ。読書でも思索でも知的労働と呼ばれるものでさえ、頭脳による肉体労働といっても良い。誰かが変わりにやってくれるものではないからだ。自分が楽しみたいなら自分がやるしかない。誰かが自分の代わりにセックスしたら自分が気持ちがいいのか。そんなわけない。
私は女が大嫌いだ。でも体は好きだ。加藤さんが風俗が嫌いと言ったのは情の問題だろう。私は女に情愛を抱いたことなど一度もない。だから女と恋仲になったこともない。でも性欲は高まるので処理しているだけだ。小泉もそうなんじゃないかと思う。それを補うものは宗教じゃないかと思う。他人が愛し合うことは自然だと思うし、親子の情愛も夫婦の情愛も素晴らしいと思う。十分理解できる。それは宗教につながる。
嫌いなものを好きになる必要はない。女は大嫌いだけれどもだったら付きあわなければいいんだし、宗教的に接していればいいんじゃないか。ばあさんが寄ってきたとしても人間として尊重するが、女としては受け入れられないと言うことははっきりしていいんじゃないか。女が嫌いでも普通に付き合うことは可能だと思う。例えば会社でも仕事できているんだから、男女は関係ない。
今漸く真剣に生きられる。そのようにすればそうなる。なせばなる。能力は関係ない。というかどうにでもなる。悪くしようと思わなければならないんじゃないか。これからはどうにでもなる。ポジティブに生きるとはきっとうまく行くと信じることだ。実際努力すれば必ずうまく行くものだ。少なくとも努力した分はうまく行く。成果は自分のものになる。何をやってもうまく行かないなどと思わないことだ。何事も一所懸命にやることだ。必ずうまく行く。うまく行かせようとすれば必ずうまく行く。女とうまくいかないと言ってもうまく行くように努力すれば良いんじゃないのか。うまく行かないのは努力が足りないのだ。努力しよう。当たり前のことだ。長い病的な心理によって努力ができない、頑張れない人間になってしまっていた。これからは違う。頑張れる人間になった。
自分を守るために全力を尽くそう。それが自分をいたわることだ。人は優しくなんかない。ホームレスに暴行して殺すほどに人は残酷だ。自分を守らねばならない。方法は何でもいいのだ。他人の善意に依存することだけはやめた方がいい。自分の身は自分で守る。



2006年04月28日(金) 今日

今日は午前中プールに行った。平泳ぎのクラスを受けた。面白かった。水泳はやっぱり一番いいんじゃないか。ババアにセクハラされそうになったが、いいだろう。
変わらなきゃと思った。変われると。どういう風に変わればいいか、どうすれば変われるかも大体わかった。体育会系になることだ。インプットはいいからアウトプットをやることだ。to do listoを作ることだ。
面白かった。アサヒビールの工場ツアーに行って来た。出来立てビールの試飲をしてきた。それほどおいしくなかった。昼飯少なめにしていけばよかった。日本中を旅したい。車を買ってそれで旅行しても良い。ローカル線と温泉でも良い。頑張ろうと言う気になった。もともとうつだったところに病気になって、働くのが嫌になっていたのだが、そんなに怠け者と言うわけではない。父親の死とか不幸が重なってうつが悪化していたのだが、これからやっと働ける気がする。私はホストじゃないのだからあんなババアの話し相手になる義務はない。わかったか。今まででも一生分くらい楽しかった。本当に楽しかった。吹田のアサヒビール工場で、互親会会場で庭を振り返って眺めたとき、庭木の葉っぱが風にそよいでいるのを見ると、そこに音楽があるのを感じた。目に見える音楽。音楽を目で見たと思った。幸せな一瞬だった。良い小説が書けるかもしれない。
これからが人生楽しい。これからが休みも楽しい。私は神に等しいからだ。



2006年04月27日(木) 今日

今日はロカビリーと中尾ミエらのコンサートに行ってきた。何で行こうと思ったのか今となっては思い出せないが、行ってよかったと思う。おばさんたちが踊っているのを見て面白かった。減感作療法としても良かったと思う。でも嫌なことは嫌と言ったほうがよい。自分の身は自分で守るのだ。
こんな事態を招いたのも不徳の致すところだ。その根源を見極めて事態を打開しよう。かなり見えてきた。
私はどうしても宗教が必要だ。何も恐れないことはおかしい。現世的権力を嫌うのはいい。そんなやつはいくらでもいるし、居場所だってある。でも神仏を恐れないやつは居場所がない。現世でも来世でも。
本当に人間は弱い。無力だ。コンサートが終わって明るい戸外に出たとき、老人たちの群れに加わってゆっくり歩いていたとき、つくづくそう思った。人を助けるとき、人は救われるし、変われると言うようなことをあのおばさんは言った。結局それに尽きると思う。ボランティアをやってみたらどうか。あるいは宗教的な無償の行為。快楽を貪る行為ではなく。
何かに無心に全身全霊で打ち込むこと、他人がどう思おうと構わぬこと。ここ30年くらい何かに打ち込んだことは一度もない。仕事でも趣味でも私生活でも。それが良いことだと思った。でもよくない。腐ってきてしまう。何かに打ち込もう。無心に。私利私欲でなしに、一所懸命に。誰かと仲良くすることが大事なのではない。人間は限りなく無力だ。そんなものに頼ってはいけない。自分のできることを必死にやるのだ。買い込んだ本を全部読む。行きたい温泉に全部行く。海外に行く。
何かに打ち込むことはおばはんとは関係ない。打ち込んでいるときはそんなことは忘れるだろう。ヨガやスポーツが楽しいのはそういうことを忘れるからだ。おばはんを見ていておばはんを忘れるのはさすがに難しい。それでも今日はかなり平気になった。おばはんに囲まれておばはんを見る。拷問か。
善人であろうとすることはストレスの溜まることだ。こうして休むことは本当に自分にとっていいことだ。すぐに善人の振りをしてしまう私の悪い点が出ないからだ。はっきり言って文校では本当にひどい目に遭った。特にあのWには本当にひどい嫌がらせを受けた。私は善人ではない。だから善人のふりなんかしない。自分の身は自分で守る。そういうことだ。誰かが守ってくれると思うから善人でいようと思う。でも自分の身は自分で守ると言うのなら善人でなくても良い。



2006年04月26日(水) 昨日

昨日は和尚さんとoさんと京橋で飲んだが、ギクシャクして面白くなかった。理由はよくわからないが、私が余り調子がよくなかったために双方にうまく親切にできなかったことだろう。この間の京都での飲み会でも同じことだ。
どうしたら自分が満足するのか、それを考えた方がよい。自分が満足することはこれだと決めてやっていれば、人をうらむこともないだろう。たとえどんな苦労をしても苦労とは思わないだろう。例えば子育ては、誰も苦労とは思わないだろう。人のために何かしてあげることが楽しいと思えることが人生の喜びだ。
呼吸法が大事だ。そして自分を守ることが大事だ。私が病気で休むことになった直前はあのキチガイばかりではなく、北原もhも全員がモラハラ的状況だったと思う。私は自分を守れない状況だったから、自然とそうなる。自分が守れる状況は誰にも依存せず、自立した状況だ。私は今は誰も恐くない。こちらに向かって突進してくる車を見ても恐くなかった。その勇気が中学の頃あればよかった。教師でも親でも学校でも恐くなかったのに。今なら当時できなかったことができる。当然すべきことができる。自分を守るために必要なことができる。攻撃されたら反撃して自分を守ることだ。女に馬鹿にされたり、いじめられたりしたら黙ってないで反撃することだ。優しい人間という評判が何になる。いじめられて苦しんでいるのに。私は誰も恐くない。この間の変なグループのリーダーでも全く恐くなかった。私の行動は間違っていなかった。自分を守ること、反撃すること、攻撃されたら即座に反撃すること。呼吸法によってそれができるようになった。今の気持ちであれば、この会社を首になっても生きていける。ただし、必死で働かないといけない。なぜ働かないといけないか。自分を守るためだ。誰かを傷つけるためではない。食べること、眠ることは自分を守るために必要なことだ。私を見ると何の理由もなく、私を攻撃してくる。女だからといって許してはいけない。直ちに反撃することだ。文学とは関係のないことだ。それができなければ小説もかけない。攻撃的で行こう。プライドを守ろう。
自分を守ることが大事だ。攻撃されたら攻撃しよう。あの中学のときでも反撃すればよかったのだ。
楽しみを求めよう。フッキーさんのように愉しみと友を求めよう。
攻撃性と勤勉は比例する。攻撃性を抑えようとすれば、勤労意欲もなくなるし、自分を守ろうという意識もなくなる。何の理由もなく攻撃するやつには反撃せねばならない。仲良くなんかできない。攻撃してくるやつと仲良くなんかできない。女なんか全く恐くない。もし攻撃したらいくらでも攻撃できるのだ。仲良くしないといけないという理由はないし、道徳的でなければならないという理由も無い。まして関西人は犯罪者と同じだ。
攻撃性は勤勉と比例する。勤勉なやつは攻撃性が高い。A型とかいわれているやつだ。心臓病罹患率が高い。のんびり、癒しもいいが、攻撃性はどうしても必要だ。自分の身は自分で守っていいのだ。それだけのことだ。掃除だって自己防衛なのにそれができないということは死につながる。
攻撃性は勤勉に完全に置き換えることができる。だから最も穏やかで平和的で利他的で、優しい手段で自分の目的を完全にかなえることができるのだ。攻撃性とは何ら人に粗暴な行為をすることではない。日本人は最も攻撃性が高い国民だが、粗暴ではなく、世界一礼儀正しく温和だ。攻撃性と勤勉は同じことなので、むしろ攻撃的でない人間が礼儀知らずとみなされてしまう。
私は女が嫌いなんていっているのではない。自分を守りたいだけだ。だから女が嫌いと思う気持ちはある場合には全く正当化される。全く自分を守る術を持たない人間が自分を攻撃する人間に対するとき嫌悪感以外に身を守る術はないだろう。この間の集談会でもやられた。女の得意技だ。私はもっと理性的な方法で同じことをすることができる。
坂本冬美のコンサートに行ってきた。素晴らしいの一語に尽きる。歌も姿も最高だ。自分の妻だったらと想像してぞくぞくした。周りのおじさんたちもそう思っているかと思うと、ちょっと嫌な感じがした。彼女は完璧なパフォーマンスをする。それは疲れるだろう。でも最高だ。類まれな才能の持ち主だ。どの曲も最高だった。あの姿を見たら素人の女なんか馬鹿馬鹿しい。
勤勉であろうと思った。彼女の姿を見て元気をもらった。勇気をもらった。彼女はぎりぎりのところで頑張っている。彼女はしっかりと新たなステージに踏み出した。
自分で自分を守らないといけない。昼間町を歩いていると命を狙われる。馬鹿みたいな店員に馬鹿にされる。少し頑張ってみようかなと思う。頑張ってしかも元気で、楽しければ言うことはない。体で考える。自分で自分を守れないからいくら勉強してもだめだ。いくら価値を蓄えてもだめだ。自分で自分を守らないといけない。誰かが守ってくれると思ってはいけない。仲良くするとか穏やかであるとか関係ないじゃないか。優しいとか。もちろん最も宗教的な方法で自分を守ることはできる。ほとんどの場合はそうだ。でもそうでない場合もある。暴力を振るわれた場合どうする。犯罪者に襲われた場合どうする。自力で自分を守るのだ。あの胸糞悪いwに二度と会いたくないだろう。私が一肌脱ごうと思ったばかりに、傷つく。あいつは私を傷つけることしか考えていないのだ。永遠に二度と会いたくない。何かうまいことやって仲良くするなんて不可能に決まっているじゃないか。あんな境界例の女。絶対に心を許してはいけない。



2006年04月25日(火) 今日

昨日はよく眠れた。本当に疲れていたから。新しい人生を始めるに当たって混乱したり、疲れやすくなるのは当たり前だろう。今まで疲れて外に出なかった。今外に出られるようになって世界が広がっている。
今日はk和尚とoさんと京橋で飲んだ。余り盛り上がらなかった。私が疲れていたのが大きい。昨日5時まで起き上がれなかったのだから無理はない。飲みすぎだ。でも二人ともいい友達だから大事にしよう。でもoさんは声がでかいので恥ずかしい。何とかしてもらいたい。
私は神なので全く問題はない。全く恐いものはない。親鸞はお釈迦様のような繊細な人ではなかっただろう。私もそうありたい。
呼吸法は素晴らしい。これさえマスターすれば何でもできるし、どんな難題も解決できる。世の中思い通りになる。



2006年04月24日(月) 今日

昨日はテンションの下がる飲み会だった。何か変な交流サークルで難しいことを言う。食べない、飲まない、しゃべらない、というわけのわからないやつらだった。しまいにお互い同士、携帯のアドレス交換し始めてものすごく不愉快だった。差別だ。女が嫌いだ。嫌いで当然だと思う。好きになる必要などない。嫌いなものを嫌いといっていいのだ。ということを悟った。
怖いという感情と嫌いという感情は多分ほぼ等しい。女が恐いと思うから嫌いだと思う。なぜ怖いかというと簡単に私を傷つけることができ、全く無防備だからだ。キチガイみたいな境界例の女ども。嫌いで当然だろう。どれだけ嫌ってもいいのだと気付いた。嫌いなものを好きにならないといけないという風に思うからおかしくなる。嫌いなものは好きにはならない。嫌いでいいのだ。見合いも何回もしたが、結局恐いからうまく行かなかった。本当に恐かった。嫌いだし、絶対に仲良くできない。大阪の女は全員ヤンキーだ。ヤンキーでない女の方がむしろ恐い。本当に攻撃的で、犯罪者といっても間違いない。
女は全員境界例だ。こんなものまともに相手にできるわけがない。何で仲良くしようなんて思うのか全くわからない。
女は恐い。すぐに私を攻撃してくる。でもいつでもどんな手段でも即座に反撃していい。そう思うと全く恐くない。どんな陰湿な攻撃も全く恐くない。陰湿というのは無力ということだ。無力なものがなぜ恐いのだ。恐いわけがない。
恐がりと言うのは悪いことではないとヒクソンが言っていた。危険を察知できるからだ。クレバーだからだ。だから悪いことではない。でも恐がる必要のないものを恐がるとか、そのため日常生活にも支障をきたすとかになると問題だ。呼吸法がすごく効果があるとわかったのでこれに専念しよう。
昨日はいやな疲れ方をした。森田の会で既に変な疲れ方をしているところに、若者グループと全く噛み合わない話をして本当に疲れた。ああいうのがすごくボディーブローみたいに効いてくる。コントロールから自由になることがモラハラからの自由だ。あのキチガイに精神的にコントロールされていることが問題の本質で、私はもう8割方自由になった。人間は九割方善良で、何かに忠実であろうとする。何かに忠実であることはほとんどの場合、善良なことである。でもその対象が狂ったものである場合もある。ナチスとか戦時中の日本みたいに、日本人の善良なところを悪用して悪いことをするやつがいる。ある種の新興宗教とか。だから批判的精神も健全なことである。
婆へ。私はお前を許せない。でも神は許せといっているような気がする。いつの日かお前を許せる日が来るかもしれないと思っている。私はお前なんか全く恐くない。私はお前のコントロールから全く自由になった。お前は全く無力なババアに過ぎない。死すべき哀れな存在だ。私はお前のコントロールから完全に脱した。では永久にさようなら。
私は女と一緒にいると傷つく。それだけで。自分を守ることができないからだ。善良なだけではだめだ。私も善良なだけではない。だから苦しむ。大事なのは善良かどうかではなく、自分を守れるかどうかだ。恐怖と不安をコントロールできれば、恐怖にコントロールされることはない。恐怖政治はマイナスしかもたらさない。孔子の言うように徳による政治がベストだ。人間らしく生きたい。それは可能なのだ。イルカを見習え。
朝日カルチャーに行ってきた。面白い。植島先生は面白い。私の問題意識と一致する。日本人はなるほど宗教的だ。今日は疲れた。それでも不安定にはならない。危険な感じが全くしない。呼吸法のお蔭だ。善良だけではだめだ。人間の中には善と悪が共存するからだ。自分を守れる第一歩は呼吸法だ。呼吸法は護身術だったのだ。



2006年04月23日(日) 今日

昨日は楽しかった。クルーズの説明会にいって、地中海クルーズの説明を受けた。皆さん、余裕があって世界中旅行していらっしゃる人ばかりであった。一人自分にそっくりな男を見つけて嬉しくなった。話してみたいものだ。そこで一歩が踏み出せないのが友達ができない理由だ。
それからお遍路に行ったがこれはつまらなかった。俗物だ。須藤元気の話は唯一面白かった。夕方天満に移動して「家族ごっこ」鑑賞。小林育栄が良かった。また行きたい。ああ、毎日充実している。
今結構充実しているかもしれない。ものすごい勢いで目覚めつつある。多分、30年ぶりくらいに脳が目覚めつつある。今までさなぎみたいな状態だったのが漸く空を脱して生き始めたのだ。自分を守るためならいつでも何をしてもいいのだ。呼吸法だけで全てがうまく行き始めた。免疫力、防衛力が付いてきたのだ。自分の身は自分で守っていいのだ。そう考えるとすごく楽になった。女なんかを恐がる理由が全くないことが、体からよくわかった。イルカだと思えばいいのだ。女の存在理由は何か。あんなに無能なのに。それは命の守り手、心の癒し手としての役割だ。男の性の相手になり、子供を生み、育て、食事を作り、家を守る女の役割はそういうことだ。だから癒されたいがためにイルカに会いたいというのはいいが、すぐ身近に言葉の通じるイルカがうようよいるのだと考えればいいのだ。
私は理屈っぽいと言われることもある。数学は嫌いだったのに。論理的なことが苦手だといってもそれは食わず嫌いで、やれば人並みにできる。なぜできないかというと修練が嫌いだからだ。同じことの単調な繰り返し。それが退屈だからだ。スポーツが嫌いなのも同じ理由だ。それが嫌だと言うと無理やり暴力でやらされるというイメージ。イメージではなく、実際そうだ。もちろんそれは理にかなっているのだ。繰り返しによって、神経と筋肉のネットワークができるので、最善の方法なのだ。最近になってやっとそう気付いた。うまく世の中に適応できない人の多くはそういう修練ができなくなっている人だろう。森田療法も理屈じゃなくて、修練である。だから理にかなっていて万人に通用する。私が信じるゆえんである。
今ものすごく調子がいいので全ての問題を片付ける数少ないチャンスだと思う。あらゆることが理解できるようになった。働くのはなぜか。自分の命を守るためだ。仕事の第一歩は、食べること、排泄すること、眠ることだ。おかしくなると、食べられなくなるし、眠れなくなる。最近漸く食べられるし、眠れるようになった。働くことが自分の命を守ることであり、人を助けることだとわかれば、働くことに不同意ではなくなる。むしろ楽しく自発的になる。驚いたことに自分で自分が守れなくなっていた。多分、中学くらいから。三十数年にもなる。これは体が動かなくなっても無理はない。今修練をやっている。全ての仕事は簡単な修練の積み重ねだ。どんなに複雑に見える仕事でもそうだ。偉大な小説でも絵画でも音楽でもものすごい修練の積み重ね以外にそれができる方法はない。天才とはそれが自然にできる人だ。何も努力しない天才などありえず、人並みはずれた努力が苦もなくできる才能のある人のことだ。
自分の命を狙うやつは本当に腹が立つ。殺意を覚えて当然だ。自分よりどれだけ強かろうと向かっていくだろう。母親は自分の子供が襲われそうになれば、どんな凶暴なやつにでも向かっていくだろう。私の女に対する今の気持ちはそういうことだ。何で私に喧嘩を売ってくるのか知らないが、私は絶対に許さない。絶対に負けない。女なんかに力でも口でも頭でもありとあらゆることで絶対に負けない。そんなものが何で恐いのか。全く恐くない。女を傷つけてはいけないと思い込んでいるからだろう。何で一方的に言われないといけないのか。何で黙っていないといけないのか。何で仲良くなんかしないといけないのか。こんなに嫌いなのに。



2006年04月22日(土) 今日

昨日は金曜の集談会に行ってきた。何か若い根っこの会みたいで小説のねたになると思った。2,3変なやつがいた。最も私が一番変だが。特にちょび髭の完全な境界例のおっさんが明らかに私を敵視していた。何か部屋の隅で暴れ始めた。全く気にならない。私を恐がらせようとしているのだと感じた。気にしない。若くて可愛い子がいた。前に見かけた女の子が来ていた。追いかけてきたみたいに思われる。それでもいい。
昨日の朝日カルチャーの仏教講座は面白かった。親鸞、法然、先生がユニークで面白かった。声が良い。話がうまい。プロだ。ただ思想的にやや偏っている。よく朝日に採用されたものだ。懐が深いのか。
日本人は境界例だ。境界例が嫌でヤンキーになる奴もいるがそれはそれで境界例だ。一生懸命生きることにした。集中することにした。一度には無理だが、少しずつやっていこうと決めた。中学のときにうつの虫に取り付かれて以来だから、長くかかると思う。でも昨日の森田療法の本を読んでいると少し判る気がした。ずぼらと神経質について触れたところ。私は神経質だが、ずぼらでもある。ちょっと厄介だ。
意識がはっきりしない。そういうところが良くない。意識を集中することだ。注意集中ができるようにならないといけない。うつが慢性化してしまっている。一所懸命、目の前のことに集中する。無心で取り組む。これが大事だ。
クルーズの説明会に行ってきた。愛すべき人たちが多くてほっとした。だいぶ私も普通の人間に近づいている。もっと注意集中が苦もなくできるようになれば人に迷惑をかけることもなく、普通に働けるようになるだろう。
お遍路の講座に行ってきた。訳のわからない坊主のわけのわからない話を聞かされて、死にそうになった。それから家族ごっこの芝居を見た。面白かった。朝はクルーズの説明会に出た。事務所は恐ろしく狭いみすぼらしいもので大丈夫かなと思った。でもカジュアルな雰囲気はとてもよかった。ピースボートよりいいかもしれない。負担が少ない。今は自分への負担を減らすべきだ。明らかで最優先のことだ。
それから女とうまくやれなくても一向に構わない。嫌いなら嫌いでそういう対仕方はある。嫌いだったら女なんかと付き合う理由なんか全くない。事実ここ20年くらい女とは付き合っていない。問題はそれで不利益を受けるということは許せないということだ。女が嫌いでも一向に構わないし、好きになる理由なんか全くないし、自分が不利益を受けるなどという馬鹿な話は全くないということだ。自分で自分の身を守っていいということだ。
今ほっておいたら自然に女との関係は悪化する。どこに行っても女とは最初の一瞥で喧嘩しそうになる。本当に心から女が嫌いだ。建前とか道徳とか関係なく大嫌いでこれから身を守る権利がある。
女嫌いでも一向に構わない。それより、自分を自分で守ることの方が大事だ。何で嫌いな女と一緒にいないといけないのか。何でそんなリスクを負うのか。全くわからない。嫌いで何が悪い。嫌われるようなことをするから嫌いなのだ。何が悪い。



2006年04月21日(金) 今日

一所懸命生きることにした。
猛烈社員になることにした。簡単なことだ。日本人は昔からそうだったじゃないか。それが日本教だ。
すごく自分が見えてきた。何が問題なのか。何が原因なのか。どうすればいいのか。すごくよくわかってきた。起こった出来事にパニックになって、自分を見失う。自分が困ることをする。そうではない。自分をまず良い状態にする。ずっとその状態を保つ。自分を守る。衛生的で健康な状態にする。決して自分を損なわない。自分の身は自分で守る。守っていいのだ。誰かの助けなど要らない。人をコントロールすることは容易だ。自分をコントロールできれば簡単だ。
人は良き癒してになる。芸術家なんかは最高の癒し手だ。ドクターフィッシュのように私の問題点を見つけ、癒してくれる。
多分バリバリ働けそうな気がする。ぼけた状態で酔生夢死みたいなことではなくて、さえて何でもお見通しで、何でもできるそういう人になれると感じる。宗教的に生きるならば十分そういうことが可能だ。
今の気持ちを忘れない。ずっと良い状態を保てる。ストレスが溜まったり、パニックになったりすると、困ったチャンが出てきて悪さをする。今漸くあくが抜けて、すっきりした良い気持ちだ。この気持ちで自然に人と接するならば何も悪いことはないだろう。癒しだ。この世は助け合い、支えあい、癒しあうものだ。そう考えれば、恨む気持ちや、妬む気持ちはすっと消えていく。人は誰でも足りない点、弱い点だらけだ。そこを突かれたら、生きてはいけない。今の私がそうであるように。弱い点を助け、足りない点を補い合うのが人間ではないだろうか。劣った人間、ハンデを背負った人間を助けるのが強いものの仕事だ。
意識を今こそはっきりさせて、宗教的に意識を集中してよい仕事をしよう。今なら自然にできる。今私は永い眠りから覚醒して普通の人と同じように働き、笑い、泣けるようになったと思う。
人が困っていることは何かなと思うのが、人間の第一歩であり、それを助けるのが仕事のアルファでありオメガである。
女やおばさんとうまくやる方法、掌の上で転がす方法は簡単である。相手の弱みを見つけ、そこをフォローしてやることだ。羽賀研二はそのへんを知り尽くしている。弱みを見つけてそこを攻撃すれば簡単に敵を作ることができる。自己愛性人格障害のおばさんは褒めてやるに限る。簡単なことだ。女なんか弱点だらけじゃないか。そこを突いてやれば簡単なのだ。
自分を守る第一歩にしてゴールは、働くことだ。自分を守ることは敵を作ってそれをやっつけることではない。敵を作らず、友を増やすことだ。アメリカの今の行動は大人気ない、危険だ。思慮と品位と知性に欠ける。全く道理に反するといっても良い。アメリカ人は働き者だ。それは良い点だ。良い点が何もなかったら、世界一になんかなれない。
女をおぞましい化け物か何かのように思っているから仲良くできない。哀れでかわいらしい、弱い生き物だと思えば、いくらでもコントロールできる。
自分に今まで本当に酷なことをしてきた。ごめんなさい。それとありがとう。それを自分に言いたい。



2006年04月20日(木) 今日

今日は文楽の菅原伝授手習鑑を見に行った。思いのほか悲しい話で、つい泣いてしまった。日本人の心を見たような気がする。もちろん泣かせようとしているのはわかるんだけれども泣いてしまう。マインドコントロールだ。音楽と語りと人形の遣い手が三位一体となって感情を揺さぶる。やっぱりすごい。
昨日はy氏の転勤の話を聞いたが、いい話ではないようだ。上司と衝突して行きたくない所に行かされるらしい。あそこよりひどい職場ってどんなんだ。私もあそこを出たい。出られるものなら。でももっとひどいところだったらと足がすくむ。結局前の課長も転出先を探してくれたがだめだった。それはそうだ。もっと人間性を磨き、能力を高めればもしかしたら望みがあるかもしれない。あと15年もこの会社にいなければならない。それだったらもっと楽しく働きたい。



2006年04月19日(水) 今日

呪縛から自由になることだ。恐怖による支配から自由になることだ。境界例の皆さんを恐がらないことだ。自分で自分の身を守れることだ。
今日はヨガの見学に行った。きれいな子がいたのでそれにしようかなと思う。それから市役所に行って与謝野晶子倶楽部に入会した。ばあさんが何か応対した。不愉快だったが、我慢した。自分で自分が守れるようになるまでまだまだだ。それから自転車を盗まれたか、どこかに置き忘れたかしたので新しいものを買った。何か店員の対応がおかしかった。最近、店員にも馬鹿にされる。物を買ってやっているのに嫌味を言われたりする。何のことかわからない。



2006年04月18日(火) 今日

昨日は少し状態が悪かった。疲れていたんだ。私は自分に厳しい。結局それが嫌になって何もかも放り出してしまう。中間で行こう。極端に真実はない。体が大事だ。体は全て知っている。自分を守るとは大事なことだ。今までなぜかそういう努力を完全に放棄するようになった。エネルギーが枯渇しているからだ。優しく平和的な方法で簡単に身を守ることができる。怒り狂っていたとしても最も穏やかな方法で自分の怒りを伝えることができるし、願望を100%実現できる。
自分を守ることができなければならない。理屈抜きに反射的に守ることができなければならない。それは簡単なことだ。非常に簡単なことだ。子供でもやっていることだ。
今日はレイプされたアメリカ在住の女性フォトジャーナリストの講演を聞きに言った。面白かった。トラウマを負った人間は信頼感を失うという。今の私の状態はそういうことだ。しかし大阪の女という感じがした。転んでもただでは起きない。でも生きるために必要なものは何でも利用するのは賢いことだ。誰も傷つけているわけではない。宗教は大きい癒しになる。彼女が癒されたのは神父の勧めに従って犯人に手紙を書いたことからだという。許すことはできないが神が許せといっているように思う。今はあなたのコントロールから自由になったと。レイプとはコントロールだという。心までコントロールされてしまう。恐怖によって。私もあの婆が来たとき本当に恐かった。逃げたいのに逃げられず反撃もできず、だんだん弱っていった。我慢などする必要はない。この会社に入ったときも意味不明のいじめにあった。女が本当に嫌いだ。関西人が本当に嫌いだ。
私もコントロールから自由になろう。女を恐がったりするのはそのコントロール下にあるということだ。宣言することが大事だ。私はババアやヤンキーや爺やおっさんや若造が恐くなんかないし、仲良くしようなんて思わない。わかったか。
コントロールから自由になろう。それがポイントだ。昔から女とは仲悪かった。でももうコントロールから自由になるのだ。そうすれば立ち直るだろう。女よ。関西人よ。私はお前らの呪縛から自由だ。完全に立ち直った。
性的である必要があるだろうか。大嫌いな女のために性的である必要があるだろうか。女から自由になろう。女のコントロールから自由になろう。自分の足で歩こう。自分で自分が守れるようになろう。



2006年04月17日(月) 今日

朝からキチガイの書き込みを見てしまい、気分が悪くなった。本当にかわいそうなやつだ。哀れみの言葉も見つからない。あれでは就職も結婚も無理だろう。あれは社会が悪いせいではない。同情して損した。あれは遺伝病だ。真性の狂人であって矯正不能だ。
ところで私は何も人と比べて何も欠けた部分はない。何かとんでもない欠陥があるわけではない。だからこれまで生きてこれたのだ。何かの役に立ってきたから生きてこれたのだ。自分に酷なことをするのは止めよう。結局それが他人にも平気で酷なことをするというモラハラ行動が出てしまう。恐るべき何でもまねしババアが、それまで忠実にコピーして私にぶつけてきたので病気になってしまった。日本人はほとんど境界例だ。でも人間は全て境界例だ。あの文校は恐るべき境界例の巣だった。EGも完全にそうだった。でも現実の職場も電車の中も道も境界例の巣だ。
こんなことを書き連ねることも結局自分を酷使し、ゆがめ、、苦しめ、歪んだ考え方を増強し、固定化しているので、できるだけ減らして、体に基づいたより優しい、穏やかな平和的な道に戻ろう。宗教とは自分を守ることだ。まず自分自身から自分自身を守ることだ。
自分が嫌がることをやってしまう。これはパニック状態からくる異常行動だろう。呼吸法によってかなり改善できる。hもkも完全な境界例だ。だからいやだというのだ。自分が嫌がることをやる。これが私の悪い点だ。もっと自分に優しくしよう。自分にやさしくできなくなっていることが原因だ。母親も境界例ぽかった。父親も別の意味でそうだった。二人は共依存的だった。
呼吸法で自分を治すことはなかなか容易なことではない。時間がかかる。薬のように即効性はない。しかし確実で副作用が全くない。宗教も依存したりしない限りは非常に安価で有効な方法だ。誰も皆そうして自分を癒しながら生きている。宅間や宮崎は精神を病んでいたのでそういうことができない人間だった。あれを殺すことが本当に正しい処し方だろうか。日本人の境界例的な悪さが出ていると思う。人を殺すことが本当に癒しになるのか。人を殺すことを責めておきながら、自分は殺していいのか。死んでしまったら謝罪も反省も永遠に機会がなくなる。罪人が本当に心から反省することのほうが癒しになるんじゃないのか。人を殺すことで癒されるものなど余りにも少ない。日本人は宗教を忌み嫌い差別するので逆に妙なカルト集団が暗躍する素地になってしまう。もっと広い心で宗教的環境を整えることが寛容だ。国家がカルト集団みたいになる経験もした。江戸幕府は一切の宗教を認めないという点では清廉潔白であった。それが極端に振り子が触れて、国家が宗教みたいになってしまった。天皇を祭り上げて宗教を独占した。それが後の超国家主義、侵略戦争へとつながっていく。明治はまだのどかな時代で、健全だったと思うが。宗教的であるとは霊的に衛生的であるということだ。内田氏の言説に共鳴するのはそういう点だ。
芸術とか宗教に進むものはどうしても権力者から遠ざかる。身の危険が及ぶからだ。もう悪いことは散々した。これ以上悪いことをしたいとは全く思わない。うまいものが食いたいか。いい女が抱きたいか。うまい酒が飲みたいか。もう私は抱えきれないほどの富をもう持っている。私のミッションはこの富を人に伝えることだ。その最も優しい穏やかな平和的な手段の一つが芸術であることは疑いない。私が抱えきれないほどの富を既に有していて、後はそれを取り出すだけだというのはそのことだ。去年もちょっと小説を書いただけですごく褒められた。簡単なことだ。自分を損なわないように慎重に行動して、宗教に従って心穏やかに生きたい。そうすれば自然に回復して息をするように働けるようになり、会話できるようになるだろう。
私の労働意欲減退の根本原因は何だろうと考えて思い当たるのは、悪の問題だ。何が一番抑うつ気分に導くのか考えると、やっぱり私が余りにも深く悪にとらわれてしまっていることに気付く。こういうとz氏が怒りそうな気がするが、やっぱりそれは拭いきれない。苦しみの原因は悪にあると。それは絶対的なものとしてではなく、天邪鬼的な癖のようなものだ。それは状態が悪いというだけの話で、すぐ直るというか矯正可能だと思う。マインドコントロール的なことも一度は必要だったかもしれない。宗教的なものが非常に有効だと思う。身体的な働きかけとしては呼吸法、ヨガ、気功、スポーツがある。悪を根本的に解決するというのは思考に走った誤った考えの典型である。女が苦手だからといって、女を避け続けて生きていくことはまず不可能だ。道筋としては恐怖心を取ること。過敏状態を解消してきれいな状態にすること。それには呼吸法が一番いい。疑わないで実行あるのみだ。頭で考えて解決できたことは多分ほとんどない。体本位で生きているときのみ答えが出る。
すぐ誰かを責めたり、恨んだりする。日本人の悪い癖が私にもある。何が起こっても誰かのせいであることはほとんどない。人は怒るととんでもないことをするものだ。宅間事件の遺族は学校や国を責めた。多額の賠償を得た。それで癒されるだろうか。死んだ子が喜ぶだろうか。怒りはよくない。呼吸を整え、良好な状態でいたいものだ。
思想とは危険なものだ。暴力的で乱暴でほとんど常に間違う。それなのに大きな力を持つ。最も優しい、穏やかで平和的で、愛に満ちた行為だけが価値がある。人はそれほど疑ったり恐がったりするようなものではない。あのh君みたいにいっちゃってるやつでさえ、甥姪には無私の愛情を注ぐ。宗教的な気持ちが備わっている。でも思想はでたらめで乱暴で完全に間違っている。どうしてこうなるのか。宗教から切り離された思想ほど恐ろしいものはない。戦前戦時中の日本は、カルト化していた。宗教を権力と思想で極限まで捻じ曲げ、破壊しつくした。完全な病理現象だ。国家と宗教は厳格に切り離すべきだろう。でも国が完全に非宗教化することは不可能で不自然だ。アメリカのように宗教界と政治が良好な関係を保っている例もある。あれが普通だ。日本は極端すぎる。宗教は何も悪くない。悪用する連中が悪いのだ。
こんなことを書き連ねることは余りよくない。人工的に境界例状態を作り出している。悪への抑えがたい傾向があってそれが価値を破壊し、善に挑戦し、反社会的な行動に導く。h君ほどではないにしろ、悪への衝動、規範の侵犯、そういうものがある。それは誰の心にもある。災害の際に暴動や略奪、犯罪が発生するのはそういうことだ。抑えられた悪への衝動が一気に噴出する。それは法や道徳で厳しく抑圧されている。だからそんなに罪の意識を持つことはない。心の状態をきれいに保てば、おかしな犯罪衝動は自然に抑制される。呼吸法だ。これは怠ることなくきちんと続けよう。
今大体問題は解決しつつある。中学時代からの本来の問題がはっきりしてきて、解決に向かっている。もう答えは出揃った。後は実行あるのみだ。料理ができて食べるだけみたいなものだから、簡単だ。
自分を守ることが宗教的に生きる第一歩だ。なぜ働くかというと自分を守るためだ。衛生のためだ。自分を守ることだ。例えば部屋の掃除とか食事を作るとかはそれをやらないと病気になるし、死んでしまう。命を守るために働くのだ。例えば西部開拓であれば、働くことは生きるために他ならない。今衣食が足りているから働くことが自分の命を守ることだということがわからなくなる。呼吸をするように働くことができるようになる日は近い。
自分の身を守ることは簡単だ。宗教的に生きることだ。逆に最も簡単な方法で身を守ることだ。自分を守るためなら恐いものは何もないだろう。何が恐いのか。権力が恐いのか。鉦が恐いのか、女が恐いのか。最も簡単な方法で最も穏やかな方法で自分の願望を十分かなえることができる。
なぜ一所懸命働くか。自分を守るためである。中学から自分を守ることができなくなったのは、うつになったからだ。でも今は自分を守ることができる。簡単に守ることができる。最も優しく穏やかな方法で。
境界例の日本人から自分を守るのだ。最も簡単で優しい方法で守ることができる。



2006年04月16日(日) 今日

昨日は楽しかった。赤瀬川にしろ植島にしろ内田にしろはっきり言って役に立たない。やくざだ。アカデミズムの中でもまた芸術の中でも、とりわけ役に立たないことをやっている。
日本人は境界例だ。女は境界例だ。だから大嫌いだ。当たり前のことだ。境界例の人間は宗教が必要だ。だから日本人には宗教が必要だ。文学をやる人間は疑いもなく境界例だ。本当にひどい目に遭った。宗教は自分を守ることを許す。人間は境界例である。だから何をするかわからないので堅く自分を守らなければならない。中学の頃から成長が止まっている。しかしegから成長が再開した。成長は痛みを伴う。でもその方が自然で幸せだ。もっともっと幸せになりたい。このままではいけない。快楽を追求するのではない。幸せになりたい。
中学の頃どうして何もかも嫌になったのだろうか。個別には変なやつと付き合ったからだが、その前から少しおかしかった。そうなることは自然なコースだったのだ。やる気がなくなり、教師に反抗した。境界例のお決まりだ。尾崎豊だ。
自分に酷なことをするのは止めよう。人とのつながりを自ら断ち切るとか、人の助けを求めないとか。過酷な義務を自らに課すとか。女が大嫌いなのに。一緒にいようとするとか。自分を守るべきなのに守らないとか。
宗教的であろう。それが最高の知恵だ。政治経済を越えている。女とか境界例のやつが平気になる。自分の体の状態をコントロールできる。呼吸法だ。それから恐くなくなった境界例のやつを自由にコントロールできる。宗教的人間になることで自分をコントロールし、自分を守り、他者をコントロールできるようになる。そうなって初めてこの世の果実を得ることができる。また他人を助けることに喜びを感じることができるようになる。喜びと同時に実益も付いてくるだろう。日野原さんはこのような生き方をしている。宗教と芸術を医の道で実践している。私も宗教と文学と呼吸法と仕事と人付き合いと、社会参加と全て同じことだと、同時にできるとわかれば、あれかこれかと迷うことはなくなる。全て一つの行為が芸術であると同時に文学であり宗教であり、仕事であり、快楽であるという生き方があるのだ。多くの人はそのように生きている。フロー体験だ。
中学の頃から自分の身を守れなくなった。教師から迫害を受けても逃げることも戦うこともできなくなった。境界例の人間は私のような人間を見逃さない。私はなすがままだった。今は違う。自分を守れる。女はキチガイで途方もなく無力で弱い。いくらでも自分を守れる。
宗教的とは最も穏やかで優しく、平和的で寛容な方法で全ての願望をかなえることができる。これが私の観察に基づく信念だ。人は皆そうしている。仕事においても人間関係においても。ホリエモンのようにやっていたらだめなのは明らかだ。
日本人は宗教的である。でも江戸時代に仏教もキリスト教も弾圧され、骨抜きにされたので、日本人は宗教を嫌い、軽蔑し、タブー視し、場合によっては差別、迫害する。そういう歪みが軍国主義の歴史を生んだんじゃないか。乱暴な意見だが。国家主義で国民を洗脳する。自暴自棄な戦争に駆り立てる。宗教的な勢力があれば防げたんじゃないか。といってもドイツもキリスト教会はナチスを食い止められなかったわけだが。
私はむしろ思考をストップしよう。放棄しよう。少なくとも健全で衛生的な状態になるまで、中断しよう。考えることだけが問題解決の方法ではないことは今の私の窮状を見れば明らかなじゃないか。体で感じるのだ。体本位だ。呼吸法だ。体は最も優しい、穏やかな解決方法を知っている。それにじっと耳を澄ますのだ。
今日は料理教室に行った。ポルトガル料理。先生はポルトガル人の陶芸家。芸術家は食っていけないのだ。日本人と離婚して子供がいるらしい。面白い。でも女はやっぱり嫌いだ。すごく居心地が悪い。でも一人だけ可愛い子がいた。やっぱりヤンキーは嫌で、性格のいい子がいい。性格の悪い女とどうして一緒にいられるんだ。地女は面白くない。と昔の人は言った。確かに面白くない。コギャルというのは現代の花魁だ。遊女は昔から風俗、流行の最先端だったのだ。
宗教。宗教的であることは絶対に私に必要だ。自分の身を守れることが宗教の第一歩だ。まず物質的に。第二に霊的に。人は100%霊的に行動する。霊が存在するかどうかは科学では証明できないが、人が霊を信じて行動していることは明らかだ。と内田先生は言った。私もその通りだと思う。
最も穏やかで優しい平和的な手段で全ての願望をかなえることができる。それは例えば文学だったりする。スポーツでも呼吸法でも良い。
日本人は全員境界例だ。女はもちろん全員境界例だ。人間は全て境界例だ。本能が壊れているという時点で境界例であることを免れない。どうして人として生まれて死をうけいれることができようか。境界例にならざるを得ない。
思考に頼ろうとするのは明らかに間違いだとわかった。思考は暴力的だ。うそも本当になる。でも体は優しく穏やかで常に真実を知っている。思考は乱暴なこじつけや嘘が当たり前に紛れ込む。だから思考を信じるなどというナイーブな習慣はきっぱりと止めることだ。
私は神である。神である以上全てを理解できる。私の考えることは全て正しい。神である以上全て私の言うことは正しい。体本位ということと私が神であることは一致する。



2006年04月15日(土) 今日

昨日はだいぶ飲んだ。何が問題なのかわかってきた。従わない心。宗教的な気持ちが大事だ。z氏でも反抗精神旺盛だが家族を持ち、子供を持って生きている。会社勤めを選択している。結局宗教的に生きている。宗教というと怒るが。私を救うのは宗教だと思う。自分を守ること、働くこと、遊ぶこと、愛すること、自分の利益を図ること。それらは全て宗教的に許される。大いに働き、利益を得て、大いに遊べ。
昨日の社長たちは従っただろうか。へこたれただろうか。自分の誇りと命を賭けて戦ったじゃないか。私もそうしよう。これは宗教戦争だ。
熱い心は必要だ。負けず嫌いも大いに結構だ。それを実現するのに荒っぽい方法はいらない。穏やかで最も優しい平和的なやり方で全ての願望を完全に実現することができる。
正当防衛はなぜ許されるか。宗教だ。自明だ。考える必要はないのだ。そのことがやっとわかった。自分を守ることの正当性の根拠を考えるなんてどれだけ謙虚なんだ。生きていていいのだ。生きていていいのだから、自分の身を守っていいのだ。
今日は司馬遼太郎記念館で赤瀬川原平の公演を聴いてきた。面白かった。絵描きが芥川賞作家になるまで。私小説のあり方を説いていたのでヒントになるかもしれない。宗教的に生きよう。それから大阪に移動して内田樹とお坊さんの対談。ふざけていてとても面白かった。西洋合理主義に染まった私たちには新鮮だ。何が風水だ。ふざけきっている。でも一服の清涼剤というやつか。それと不可知なものを信じる。暗黙知。それは既に宗教的なのだと。いやでも応でも人は宗教的なのだ。霊的なものに突き動かされていることは疑いもない事実だ。ゲンかつぎに始まって、宅間のざんげまで霊的な動機は満ち溢れている。



2006年04月14日(金) 今日

今日は京大のベンチャーセミナーに行った。ある社長の話はとても感銘を受けた。起業家心得。全て納得の行くことばかりだった。人間力、コミュニケーション力、運、楽観性、諦めないこと。大体これが共通する資質であった。私もやれそうな気がした。変わり者が多いことは確かだ。ああいう良い変わり者が社会を変えていくのだ。
それから朝日カルチャーに行って片田珠美女史のお話を聞いた。うつの問題。SSRIで薬漬けにするのはよくないそうだ。ではどうすればいいのか。それが聞きたい。隣に明らかに病気とわかる変なやつがいて大変迷惑した。自分のみを守ることは宗教だと考えている。だから正当なのだ。家族を作ることも宗教だから許される。
宗教だから許される。自分のみを守ることが何で許されるのか、友達を作ることが何で許されるのか、セックスをすることが何で許されるのか、結婚することが何で許されるのか、子供を作ることが何で許されるのか、死ぬことが何で許されるのか、わからなかったが、それは宗教だと思うと理解できる。会社を興していいのも宗教だからだ。



2006年04月13日(木) 今日

自分に優しくしよう。それが宗教の第一歩だ。労働が宗教的である第一歩は自分を大事にできることだ。自尊心と完全に一致していて初めて宗教的といえる。母親は子供の世話をしていて喜びを感じるだろう。人生で一番幸せだ。
楽しくことは良いことだ。人は皆人生を楽しんでいる。穏やかに優しく交流し、深く愛し合っている。私ら境界例の人間は人と深い安定した愛情深い関係を保つことができないため、人生を楽しむことができない。それを取り戻そうとしてより過激な行動に出てしまい、更に傷つく。今色々外を回ってきて、集めてきたパンフレットを整理しているとこれはこれでとても楽しいことに気付いた。仕事でも苦役でもない。それ自体愉しみだ。人生は楽しみに満ちている。フロー体験だ。なぜこんな仕事を後回しをしてしまうか。本をいっぱい買ってきて読まないか。それは楽しむことができないからだ。楽しむことはそれ自体楽しく、生きている意味そのものだ。生まれてきてよかったと思う瞬間だ。これを素直に良いと思えないのがおかしいところだ。自分を抑圧して、本当に楽しいことがわからなくなっている。楽しんではいけないと思い込んでいる。女と愛し合ってはいけないと何の理由もなく思い込んでいる。これを徐々に変えていこうと思った。



2006年04月12日(水) 今日

今日は京都から帰ってきた。昨日は京都でサークルの飲み会。日本人女性が三人も来て盛り上がった。おばさんだとテンション下がるが、可愛い子だったのですごく嬉しかった。メルアドも交換して初めて女性からメールをもらって嬉しかった。人間になったという気がした。それからいつものホテルがいっぱいだったので四条西洞院の三井ガーデンホテルに泊まった。高かった、といっても7千円でとてもきれいないいホテルだった。さすが京都だ。
今朝帰ってきて、吉田氏となかもずで会い、いつものファミレスで面接。宗教宗教といったらすごく拒否反応だった。当然かもしれない。誰に言ってもそうなるだろう。人の嫌がることを言う悪い癖がある。それが宗教的でないことの証だ。人の喜ぶことをするのは当たり前じゃないか。子供を育てるのが宗教的といったので驚いたようだ。それほど私は宗教的でないということだ。約束も守れない。仕事もできない。人と付き合えない。社会のルールに従えない。宗教的になって、最も穏やかな優しい、平和的な行為に努めよう。自分にも優しくしよう。その第一歩として節約に努めよう。
それから帰って休む。加藤さんから電話。日程変更。仕事みたいだ。でも人のためというのは楽しい。仕事の基本だ。私利私欲のための仕事なんかこの世に存在しない。泥棒くらいだろう。私にやっていることは泥棒であり、犯罪である。そのことに気付いただけでもえらい。
色んな選択肢の中で最も穏やかで平和的な手段だけが意味があり、価値がある。宗教的とはそういうことで私以外の人間はそうしている。乱暴でわがままな行為は全く価値がない。人から金を奪うとか、殺すとか、全く価値のない行為だ。お金が欲しければ商売をして稼げばよい。人を殺したければ立ち去るか、言葉の力で変えればよい。人間の行為は全て宗教的であってそうでない行為は認められていない。食、性、生、出産、子育て、労働、死。いずれをとっても崇高で宗教的な行為だ。そう考えると安心して働ける。誰か不当に利得を得ているのではないかと。そんなやつは絶対に一人もいない。oさんはあれできっと多くの人の役に立っているのだ。
宗教的に生きることの一番いい点は苦境にあっても、不当な扱いを受けても、自分を疑わずにすむことだ。ナチスの収容所を生き延びたフランクルみたいなものだ。私が宗教法人を作りたいなどといっているのは気が狂ったわけではなく、自分が苦しみの果てにつかんだことを皆に教えてあげて役に立ちたいからだ。これを邪魔する奴はいないだろう。
私はいつも乱暴な手段だけをとる。ババアが私に逆らうならば、権力を使って無理やり言うことを聞かせようとする。そんなことは絶対に無理だ。掌の上で転がしてやればいいのだ。女なんか。
昔の青春ものが臭いのは宗教的だからだ。金八先生もそうだ。でも人の心を打ち、人気があるのも同じ理由だ。人は決して宗教的な感情を否定することはできないし、その必要などさらさらないのだ。呼吸法をやると宗教的な感情が自然によみがえる。
自然な感情は素晴らしいものだ。そこに宗教性がある。女を好きになり、いつも一緒にいたいと思う。それは宗教的な感情だ。そして結婚して子供を生み、育てることは自然で宗教的な行為だ。崇高で利他的で奉仕的で、高貴で穏やかで平和的で優しく美しい行為だ。どうしてそれを損なう必要があるだろう。自然な感情を抑圧したり、傷つけたり、否定することは宗教に反する行為だ。悪を良いものとみなすわけのわからない感情だ。今から死ぬ瞬間まで穏やかで平和的で優しく、最も優しく、宗教的でありたい。



2006年04月10日(月) 今日

今日はヨガに行ってきた。講師がばあさんでやたら体に触るのは困る。でも他にないから仕方がない。それから眠くなって夕方まで眠った。それから朝日カルチャーセンターに行った。思ったとおり気持ちの悪い空間だった。薄気味悪い女がいた。本当に女は嫌だ。本当に嫌だ。本当に嫌だ。おっさんも嫌だ。本当に人間が嫌いだ。
女は愛玩物だ。子供もそうだ。子供は無条件に可愛いと思う。男の子でさえも。でも女は愛せない。愛されるためにものすごい努力をしているらしいが、全く愛する気がしない。10代後半から20代前半の女性は全ての男から愛されようと猛烈な努力をする。全ての男に愛されるなんて非現実的なのに。そのため精神の平衡を失う女もいる。摂食障害、リスカ、OD。全ての男に愛される必要はないと気付いて一人の男に愛されて幸せになるのだろう。そうなってからの人生の方が圧倒的に長い。魅力的な時間が短いのはそのせいだ。仕方のないことだ。
弱いものを見るといじめたくなる心理は人間にはある。しかしかわいそうに思う心理も一方にはある。そちらの方を育てましょうというのが宗教だ。本能は自然とそうなっているが、人間は本能が壊れているので、宗教のような装置が必要だ。絶対に必要だ。宗教を持たない人間集団は絶対にない。日本人とて他の民族に比べて十分宗教的だ。今日の植嶋氏もそう言っていた。
女を肉体的愛玩物と考えれば良く理解できる。全く恐くないだろう。



2006年04月09日(日) 今日

昨日はピースボートの説明会に行った。最初からこうすれば不愉快な思いをしなかったのに。それから大阪学の集会に行ったが待ち合わせ場所がわからなくて会えなかった。すると電話が掛かってきて花見をしているというので行ってみると、もう終わったという。だったら呼ぶなよと思った。馬鹿にしている。もう嫌だ。それから7時から外人との串カツパーティーに行った。余り面白くなかった。コンディションが良くないとはこういうことだ。女を受け入れる余地がない。会社でも同じことだ。でも岡島さんには癒された。あの人は私のファンだからな。素直で何でも話を聞いてくれる。よく勉強をしているので大変勉強になる。フッキー氏と通じるところがある。彼は愛されているのだ。家族から。もう両親とはお別れしたそうだが、愛されていたのだ。今も家族としての役割を果たしているのだ。ところで机の整理をしよう。混乱のきわみだ。
文学を始めてから友達ができた。ちゃんと私を相手にしてくれるようになった。これは大事なことだ。それから男同士で阿倍野の居酒屋で深夜まで飲んだ。その間の記憶がない。危険なことだ。飲み過ぎないようにしよう。それから朝、風呂に入ってコーヒーを飲んでロビーでしゃべっているうちに機嫌が直ってきた。やっぱり、岡島さんは私の癒し手だ。愛されて生きてきたので疑うことを知らない。私の凍りついた心を解きほぐしてくれる。それから大寅食堂という定食屋に行って魚定食を食った。うまかった。味噌汁がうまかった。私の心は低空飛行を続けながら何とかもった。それから別のサークルの花見参加に誘われたので付いていった。桜ノ宮でナッツベリーというサークルに合流した。何かアウトドアっぽいものがしつらえられていて面白かった。障害者の青年がいて筆談を持ちかけてきた。面白いやつだった。宗教的に生きると決めたので、親切に相手をしてあげた。当然のことだ。最も優しく穏やかで平和的な方法だけが価値があるのだ。女の子が話せそうな雰囲気があったが、まだ十分回復していないので話すことができなかった。宗教的に生きるのならば当然話しかけるべきだった。それからそこを離れて、外人のイベントに向かった。そこは私が数日前、役者による小説のすすめのイベントに参加したカフェだった。奇遇だ。美人三姉妹がいて仕切っていた。可愛かった。でもうつなので相手ができなかったのは残念だ。でも金もだいぶ使った。でも金を使えば必ず見返りがある。だから今は金を使おう。
音楽はとてもよかった。若者がイマジンとかビートルズナンバーを歌っていて面白かった。私も創作活動に励もうと思った。発信できるということは素晴らしい。世界を手に入れたのと同じことだ。書けるということは世界を手に入れたのと同じことだ。世界をもっとリアルにみようと思った。



2006年04月08日(土) 今日

私は本当にいい人間だとつくづく思う。大体人間というのはいいのじゃないかと思う。恐怖心と猜疑心に駆られるとき訳もなく人を傷つけることはある。しかしそれはその人間が全て悪いということにはならない。宅間のやった行為は悪いが、宅間が全て悪く、従ってその存在を消してしまわねばならないとするのはやや感情的で行き過ぎだ。日本人は生真面目が災いして、感情的になっていることに気付かないことがある。特に最近は不況とか政治面でもうまく行かないせいか苛立っていて、すぐ感情的になる。寛容さが足りない。少年がホームレスを襲ったりするのは大人の感情を先読みしているのだ。
宗教的に生きるのだ。そうすれば商売、人付き合い、うまく行くようになる。文学も宗教的行為だ。最も崇高で穏やかな方法で自分の願望を100%かなえることができる。貪ってはならない。自分の姿がすごくクリアーに見えてくる。悪いことを考えても決してうまくは行かない。女とうまく行かないのはつい悪いことを考えてしまうからだ。
プラトンでも読んでみようかな。若い頃はよく読んだ。今自分の姿はとてもよく見える。人の姿も気持ちも手に取るようにわかる。老若男女掌の上で転がすことができる。女は男を恐がっていることを知った。確かに男は乱暴だし、色々女の知らないことを知っているから、恐がるのは当然だ。そこで優しくしてやればなびいてくる。あのお坊さんが取っている作戦だ。というより普遍的な真実だ。
宗教的で最も穏やかで最も優しく、繊細な態度で生きるならば全てがうまく行き始める。中断していた人生が再開するだろう。世界が広がり、夢がかなうだろう。丁寧によく味わって人生を生きる気になるだろう。投げやりで乱暴で自暴自棄的な気持ちは消え去るだろう。
女が嫌いということは人間が嫌いということだ。自分が嫌いということで、生きることがいやだといっているのに等しい。嫌なものを無理やりやらせることはできない。どんな暴力的な手段を使っても。恐怖を与えても。恐怖をコントロールするのだ。それはいとも簡単なことなのだ。私は小学校六年の時には既に人生に疲れていた。途方に暮れていた。うつ状態だった。それを反抗と捉えて、いじめた教師がいた。何もかも嫌になった。大人を社会を人間を憎んだ。この世を呪った。それもそうなるべくしてそうなったのだ。悔いてはいない。その代わりに人が見られない真実を見た。それが幸せかどうかは別にしても。ダンテのような地獄も煉獄も天国も見た。そして今は漸く荒れ狂った心は中年を迎えて静まろうとしている。今漸く人生の鳥羽口に立った気がする。静かにしかし熱く人生を丁寧に味わいつつ生きられるような気がする。もう今それが可能になったのだと思う。
私はこの世が愛しい。別れつつあるこの世が愛しい。小さな幼子が愛しい。昨日いい天気の三宮を歩いていたとき、とてもいい気分だった。呼吸が楽にできるようになったからだ。自分が安らかに解放されるのを感じた。都会の真ん中であってもそういう気持ちになれる。自分を大事にしよう。自分を虐待しない。丁寧に生きていこう。熱心に情熱を持って宗教的に生きていこう。



2006年04月07日(金) 今日

何でも丁寧にやったらいいんじゃないか。仕事も遊びも一緒だろう。雑にやるんだったらやらない方がましだ。昨日は失敗だった。脳の血流が集中して一所懸命にやることだ。丁寧に目の前のことを一所懸命やること。約束を守ること。人に優しく、親切にすることが仕事であって、嫌がらせをすることではないこと。これらのことを本当に理解できてから職場に戻ろう。
何で人が嫌いになるんだろう。わからない。病気だ。嫌な人は誰でもいるようだ。それを私みたいに大げさに騒ぎ立ててはいない。女とうまくやる方法を聞いたら、そんなものあったら教えて欲しいと言われた。誰もわからないまま、必死で生きているんだ。宗教的な人々なんだ。私だけだ不真面目なのは。本も丁寧に真面目に読もう。
丁寧に一所懸命にやらないので人はおかしく思う。いつからだろう。頑張りたくても頑張れなくなったのは。大学に入学してからだが、それ以前にも勉強以外は全て撤退して篭城していた。引きこもりというより籠城だ。今どんなことを考えているかというと宗教的であることだ。ミッションとはプロフェッションとは神との約束だ。約束とは宗教的行為だ。義務が生じる理由は約束からだ。
宗教的なのはいいことだ。最も優しく、穏やかで崇高で気高く献身的で利他的な行為のみによって、自分の願望を完全にかなえることができる。人に何かしてあげることに喜びを感じなければいけない。そうでなければ仕事なんかできない。win-winの関係になれる。一方的に得をしようとしてもだめだ。
自分を大事にしよう。自分をいたわってあげよう。本を買って読まないのは自分に優しくするのが嫌だからだ。自分にまず優しくしよう。それができれば人に優しくできる。
自分を虐待するのは止そう。



2006年04月06日(木) 今日

今日はいい天気だ。出かけたいが疲れている。少し散歩するくらいいいだろう。何も考えない方がよい。
 宗教的に生きるとは人のために何かしてあげることが喜びということだ。私は人がそんな崇高な生き方をしているなんて全く気付かなかったのでずいぶん馬鹿なことをしてこの年まで一人前になれない。でもこれからは違う。人のために何かをしてあげたぶんだけ、自分が楽になるのだ。こんな当たり前のことがわからなかったなんて。結婚もしていないし、子供もいないので人のために何かをしてあげたことがないのだ。人は皆可愛い。k和尚でも本当に可愛い。何であんなに素直なんだと思う。昨日のおじいちゃん、おばあちゃんもすごく可愛かった。



2006年04月05日(水) 今日

今日は楽しかったです。昨日はフッキーさんと謎のオーストラリア人と難波で痛飲した。その前に梅田で会ってフッキーさんと喫茶店で話してワタミに行った。ワタミが見つからなくて雨の中を東通を彷徨い歩いた。お初天神の店に行って飲んだ。そこにやっと外人から電話があってなんばに向かった。高島屋の前であって、ワタミに向かった。そこでパリの話や文学の話で12時過ぎまで飲んだ。今朝起きたら8時半でハイキングの時間に間に合わない。電話して遅れることを告げた。携帯の番号を言って少し遅れた。南御堂に直行した。親切に迎えてくれて良かった。やっぱり宗教的に生きる、優しく穏やかに親切に生きるということにより自分の願望を100%かなえることができるという私の考えが正しいことがわかった。若者も老人もそのように生きている。他人のために何かしてあげれば自分が生きるための貯金ができる。面白い社長さんに話しかけられた。面白い話が聞けた。やっぱり自分が変わりつつあると実感した。頭なんか使わなくていい。自然に動くものだ。芭蕉や西鶴の墓や旧跡を見て回ってとても楽しかった。帰りに爺さんに話しかけられた。面白い爺さんで帝塚山に住む悠々自適の爺さんだ。色々話をした。70まで会社勤めをしたそうだ。宗教的な気持ちで一所懸命話をした。一文もとくにはならないのだが、これが宗教というものだ。誰も皆窮地にあるのだ。私だって窮している。安全な場所にいるわけではない。この間の生活発見会でわかったことだ。都合のいいことだけ考えてもだめで、そんなことを考えているやつはいないのだ。ばあさんも可愛かった。とても教養があって優しくて、穏やかで心根が優しい。お花のことをよく知っていて、礼儀ただしくて可愛い。大好きになった。日本人て良いなあ。



2006年04月04日(火) 今日

 今日は朝プールに行った。ばあさんばっかりだったけど面白かった。二人、30代らしき女が二人いて何だか色気がないこともなかった。それと最後までうざい気持ちにならずに成長したぞ。宗教的に生きるという私の誓いは絶対に間違っていないと確信した。いい事だけが起こるのだ。最も優しく穏やかで気高く、崇高で献身的で利他的な行為だけが価値があり、許されているのだ。それだけで全ての願望をかなえることが可能なのだ。悪いことや利己的なことや犯罪的なことを考える必要は全くないのだ。地位が高い人ほどそうなのだ。まず人に何かしてあげる。優しくしてあげる。助けてあげることが自分が生かされることにつながるのだ。それ以外に貪ってやろうとか騙してやろうとか利用してやろうとかそんなことを考えているやつは一人もいない。少なくとも娑婆で働いている人の中には。おばさん嫌いとか言っていたけど、今はほとんど平気だ。プールですぐ隣にいても全く平気だった。にこやかに笑うことができた。当たり前なんだけどね。当たり前のことができるようになった。これから何でもできるだろう。



2006年04月03日(月) 今日

 今日は昨日と打って変わって良い天気だ。私の未来を祝福しているようだ。女を恐いと思う。ヤンキーとか恐いと思う。それは相手からすると攻撃と映るようだ。でもそれはやむをえないだろう。本当に恐いのだから。例えばwが恐いと思う。でも怖いという態度をしていると向こうも嫌がる。攻撃されていると感じる。あのババアとの間に起こったことと同じだ。どうしても避けられないとわかったら、恐がらないことが大事じゃないか。扁桃体か何かが以上に興奮しているのだ。だから自分では理由はわからない。恐くないようにする方法はあるらしい。もらはら講座で教えてくれる。
私はヤンキーだめなんですよ。でも例えばヤンキーであっても心を開いてきたら、相手にしてやったらいいじゃないか。それができないということが悪い点だ。はっきり敵対的、攻撃的な行為であって、外交儀礼上、大変な違反行為ということになる。その根源にあるのが昨日気づいた悪への親和性であって、生まれつきか三つ子の魂か私に組み込まれたものだ。それをしかし前頭全野の力でコントロールすることは可能だ。宅間みたいな奴であっても、殺すのではなく許して、矯正し、更生させることは十分可能であって、そのほうがより望ましい。宮崎もただ殺すのではなく、治療することが人権上望ましい。頭にかっと血が上って、相手を殺したいと思うのは相手と同じレベルに留まることだ。一段上に上って相手を許すことがより宗教的で崇高で気高く、自分も相手も救われる可能性が高い。相手が死んでしまったら相手に謝罪してもらう可能性が永遠に失われる。宅間は狂人ではない以上、改心して悔い改め、謝罪する可能性はゼロではなかったことは疑いない。宗教的に生きたいものだ。wさんでも顔が怖いとかそんな原始的な理由で拒絶するのは極めて未熟な態度だ。和尚さんのように懐に入れることがより大人な態度だ。私はそれができそうな気がした。
 今日は森田の会に行って来た。リーダーの何とかさんが何か普通の慰めの言葉をかけてくれて、ジンと来て涙が出そうになった。やっぱり弱っているのだ。女は容赦がない。こちらが弱っていると見ると余計に攻撃してくる。信じられない。全く信じられない。恐怖のサイクルができている。でもそれほど恐がるほどのものじゃないとわかってきた。弱くて馬鹿でどうしようもない奴なのだ。何で恐れる必要がある。
 優しく穏やかで、崇高で気高く、献身的で理想的で宗教的な行為だけが価値があるのだ。金になるかどうかにかかわりなく。名誉とか地位とは関係なく。全ての人はそうしている。
 体も自然に動くし、心も同じように自然に動くのだ。自然に動くままに任せて置けばいいのだ。そうすれば自然にうまく行く。女なんか放っておけばいいのだ。



2006年04月02日(日) 昨日

 昨日は起業セミナー楽しかった。輝かしい第一歩にしたい。私は神だ。でも私だけではなく人間は神なのだ。女も男も子供も若者も老人も皆神なのだ。自ずから無限の価値とパワーを持ってこの世に誕生した、超新星なのだ。真面目に生きていいんだ。私は人より恵まれているから、真面目に生きるだけですごい価値があるのだ。パワーがあるのだ。もう時間はない。本質的なこと、大事なこと欲しいものだけに絞ってやっていこう。もう回り道をしている暇はない。逃げ隠れしている場合じゃない。ああ楽しい。人生は楽しいと初めて感じた。最も穏やかで優しく、繊細で宗教的で崇高で高貴なやり方でどんな願望をもかなえることができる。しかも今すぐにだ。楽しく人と付き合いができて、その中で自己実現し、成長し、欲求を十分満たすことができる。物質的にも霊的にも。
疲れ、気分が悪くなるとネガティブな思考になる。なぜ嫌なのか。女が。いくら嫌っても良いし、いくら嫌われても良い。仕方のないことだ。私の力を超えている。私は自分の感情や欲求を抑圧してしまう。そして多分人にも同じ事を強いてしまう。自分の好き嫌いや感情を出す人間を見ると不快になる。女や子供が不快なのはそのせいだ。女や子供は哀れな生き物だ。若者も老人もそうだ。中高年だって哀れだ。哀れでないものはいない。だから恐がる必要などないのだ。
女が恐くて嫌いならそれはそれでいいじゃないか。本当は怖がるほどのものじゃないということはわかっている。だから順々に徐々に恐怖を取り除いていこう。それは可能だ。
 今日はナオミの家を見に行った。面白かった。あの女はやっぱり恐かったが、仕方がない。でも最後はよくしゃべった。これは話して良い、悪いということが前よりはわかるようになった。自分と他人の壁という問題が少しほどけてきた。変われば変わるものだ。私が大人になるのにこれだけかかったということだ。昨日書いたように穏やかで、優しく、親切で温厚な態度だけで全て通すことができる。正直で善良な私が唯一価値があるのだ。悪の私には何の価値もない。いくら悪ぶってもだめなのだ。何の役にも立たないのだ。
悪いことをされても自分は悪いことをする必要はない。悪いことをやっているやつがいたとしてもまねする必要はない。
 すごく簡単なことのような気がする。そのことに気付くまでにこんなにも長い苦しみと混乱と、他人と自分を傷つけ、人生の貴重な時間を空費してきたのだ。でもそれは今全て報われた。それは最も穏やかで最も優しく最も親切で奉仕の精神に満ち、宗教的で崇高で敬虔で高貴で勇敢で美しい行いのみが価値があり、認められるということだ。その場合のみがwin-winの関係になるのだ。誰とも衝突も葛藤もしない。この間の社長さんの話で私は救われた。人の困っていることを助けてあげよう、何とかしてあげようという気持ちだけが価値がある行為なのだ。お金は命と等価なものだ。血と汗であがなわれたものだ。この崇高で宗教的な気付きだけが意味があり、世間の人が容易に普通に行っていることなのだ。そして私が今までどうしてもできなかった、しようとしなかったことなのだ。wとの関係だって衝突なんかする必要は全くないと気付いた。いつでもwin-winの関係になれるものなのだ。私が前期のような利他的な宗教的な穏やかな気持ちになり、そのように現に常に行動する用にように心がけるならばいつでも可能なことなのだ。結婚もできるし、子供も持てるのだ。私の悪とトラブルと破滅を求めて高速回転する、脳の悪い状態が直ちに終息し、好循環に転じる唯一の道なのだ。誰も苦しめず、自分も苦しめず、自他を共に利する共存共栄の道なのだ。アングロサクソンでさえそんなことくらいはわかっているはずだ。
 なぜ姉が私を毛嫌いしていたかわかった。今でも女に警戒される理由は同じだ。それは穏やかで優しく、洗練されていて思いやりがあって、崇高で宗教的な奉仕的精神が全く欠けていて、自分の利益だけを他人の迷惑を顧みず、追求することにある。それを世間では悪と言う。兄や姉は私を本当に嫌っていた。私は私で理不尽だと怒っていたが、今思えばもっともだったかもしれない。道徳に対する理解力が不足していた。自然な行動や心の働きでそれが表せるのが普通の人間であり、それができるようになって初めて大人と呼ばれるのだ。
自分や他人を傷つけようとしている、ということがその状態になっていないことのシグナルだ。私は極度の緊張の余り、常にスイッチがオンになっていて、いつでも誰でも傷つけようとする。そういうタイプはいくらでも世の中にいる。境界例といわれる連中だ。私は意志の力でそれを脱出できることを確信した。競争なんかしなくていいのだ。利他的な行為と引き換えにきわめて穏やかで優しい楽な方法で望みのものを手に入れられるのだ。こんな自明のことに気付かなかったなんて。情けは人のためならず。必ず帰ってくるのだ。
恐らく今後は誰とも争うことなく、望みのものを手に入れ、幸せをつかむことだろう。誰もができていることだ。egで頭が勝手に動くようになった。夜も眠れなくなった。過労の余り、いらいらして攻撃的になった。被害妄想的な過敏状態になった。それは自己防衛的であることでは解消されない。穏やかで優しく宗教的であることでのみ救われるだろう。働くときは働く。でも休むときは休む。穏やかで優しくあることは簡単だ。常にそうでありたい。そのときだけが生きているといえるのだ。生きる価値があるといえるのだ。利他的で献身的で宗教的であるときのみ。



2006年04月01日(土) 今日

 今日は起業セミナーだ。洗脳されないように気をつけよう。誰もそんなことしないか。意識して悪いことを考えないようにしたらいいんじゃないか。
 セミナーに参加してきた。楽しかった。何かすごく暗い人間に見られたらしく、すごく浮いていたような気がする。でも練習だ。何事も。酒を飲み続けると思考力が落ちてくる。やっぱり自分を客観的にみてちゃんとしよう。いいことだけをしよう。無理とか無茶とかしないで穏やかで優しい方法でやった方が良い。いいことだけやって生きていけると確信した。自分に辛く当たったり、人に悪いことをしたり、考えたりしてはいけない。全く一生そんなことをしなくても、十分幸せに生きていけると確信した。常に他人と自分に小さな親切をしよう。もちろん仕事にも役立つ。
 非常に穏やかで優しい、紳士的で親切なやり方で完全に自分の欲求をかなえることができる。むしろ乱暴で過酷で非道でやりすぎなことでは決してかなえられない。完全に善良で優しい穏やかなやり方で何でも思い通りになる。誰にでも親切で正直で善良で、誠実であることは常に完全に可能である。むしろ自明である。


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