希望の日記

2006年01月31日(火) 今日

 今日また課長に呼ばれて診療所に行けといわれた。あのキチガイヤンキーが何かちくったに違いない。いくらでも行ってやる。私は全く正常だ。いじめとは戦う。それだけだ。体本位だ。体に委ねれば全てわかる。向かいの馬鹿女が朝から私をにらみつけて不愉快な態度を取った。それで私がキーボードの音を大きく立てると、いつものようにファイルを担いでどたばたやり始めた。体で威嚇するなんてどんな女だ。そうするとキチガイヤンキーがそれに反応してどたばたやり始めた。お前なんかに関係ないだろう。この精薄のおっさんが。
 jalから返事が来た。文句ない内容だ。こちらの言いたいことは伝わって、きちんとした回答が来た。これもアサーションだ。良い経験になった。こんなに怒りたくはなかったのだ。でもひどい目に遭ったのに泣き寝入りしてはいけない。自分のために立ち上がるのだ。今回のこともいくらでも乗り切ってみせる。部長が移籍になるらしい。引き取り手がなかったのだ。あのひどい態度ではそうなるだろう。弱いものいじめはいけない。パワハラ依存症みたいなもので病気だと思う。あのキチガイがそうだった。サディストだった。私は体に委ねることでそんなけちな変態性欲とはとっくにおさらばした。女とは最低の蛆虫だ。でも私には関係のない話だ。全く興味がない。
 体に戻ればどんな困難や迫害も跳ね返すことができる。怒る必要なんかない。あのキチガイは早速北原に何か言われていた。ざまあ見ろ。



2006年01月30日(月) 今日

 今日は平穏無事な一日だった。病院の窓口の女が態度悪かった。気にすまい。女なんか何の意味があるんだ。私にとって。あのくそババアは精薄のおっさんだ。これからそう呼ぼう。精薄のおっさん。体で見るとそういうことがはっきりした。体本位で行こう。体に委ねよう。体本位で行けば全てがわかる。あのババアについてももう一回くらい言ってやっても良い。あのくそ大女も一度言ってもいい。おかしなキチガイばっかりだ。精薄。死ね。精薄のおっさん死ね。体本位で行けばどんどん良くなる。100%良くなる。
 模範社員になろう。あんな精薄のおっさんがいたからといって何か問題あるのか。邪魔できるのか。あんな精薄のおっさんに。体本位で行けばそんなことくらいすぐわかる。全てうまく行く。すごくクリアーに見えてきた。咳なんか気になるわけないだろう。一昨日の小学生本当に腹が立つ。変な趣味が私の中に消しがたい痕跡を残した。しかしそんなことくらい簡単に解決する方法はある。体本位だ。体に委ねれば考える必要なんかない。もう二度と何も考える必要はない。
 精薄のおっさんが私の人生を邪魔する権利なんかあるのか。いい加減にしろ。精薄のおっさんがどうやって生きているのかわかった。



2006年01月29日(日)

 朝が来た。キチガイjalにメールを送った。愉しみだ。名誉毀損で訴えるなら訴えてみろ。キチガイめ。俺はキチガイだ。悪いか。あのくそ坊主。いい加減にしろ。体本位で行こう。体に委ねよう。それが一番正しい。u死ね。最近おかしいかな。この間、原稿を仕上げるのに大変苦労した。人間は親切ではない。優しくもない。犬畜生以下だ。昨日のくそガキなんか生まれてこなければ良かったんだ。今からでも死ね。俺が殺してやろうか。
 h君の気持ちがわかる。俺も躁状態になったことがあるから、躁うつ病かもしれない。小学生なんか死ねばいいのだ。何で生きているのだ。死ね。子供は皆視ね。
 私はかなり変わった。自分の状態が良くわかる。同時に他人が何を考えているかよくわかるようになった。私は悪いことをしていないだろうか。そうはいえない。模範社員になろう。簡単になれる。模範社員になるのに誰の許可も要らない。wさんとどうしたらいいかというと近づかなければいいのじゃないか。関わりにならない。相手もそう思っている。今はそれがすごくよくわかる。
 私は両親に悪いことをした。罪を償うためにも巡礼をしよう。金で快楽を追求したりするのは止めよう。作家はやくざだ。最後の職業といわれるゆえんだ。人間の皮をかぶっているが人を欺いている。でも良いのだ。救われる人もいるのだ。色んな職業があって良いのだ。売春婦もいる。やくざもいる。体本位で生きていれば良い。体に委ねていれば良い。脳が疲れた。脳を休ませよう。
 あのキチガイおっさんババアは頭がおかしい。犬畜生だ。私を殺そうとしているのに仲良くなんかできるか。どうしてどうやったら仲良くできるかなんて考えるのか。馬鹿じゃないのか。jalとも喧嘩したら良いのだ。私は悪くない。体本位で考えればすぐわかる。私は模範社員になる。文句ないだろう。簡単なことだ。一番簡単なことだ。何でそれを邪魔されなければならないのか。ありえない。wさんとのことなんか関係ない。楽しく生きていればいいんじゃないか。仲良くできない人とは近づかなければいいだけの話だ。
 私は模範社員になろう。不良社員はやめだ。飽き飽きした。私は素晴らしい人物なのに何で好き好んで不良になるんだ。
 私は悪いことをするのは飽き飽きした。良いことをしよう。馬鹿が嫌いだからといって仕事をしないという選択肢はない。喧嘩しながらでも仕事はいくらでもできる。あの職場はあのキチガイの私物ではない。キチガイにもほどがある。キチガイにはそれなりの扱い方があるのだ。キチガイ三人組。三婆。死ね。墓に行け。長生きしてんじゃない。
 私は書くことで救われたいといったが、その通りになった。今はだいぶ元気になった。一年前は躁状態ではあったが、元気ではなかった。トラブルに見舞われて弱りきっていた。体本位で行けば、誰とも争う必要はない。そのことを思い出せ。体は無欲で穏やかだ。わずかな食物で満足する。それが脳化すると狂ったように歯止めがなくなる。体に委ねよ。穏やかに暮らせ。あんなキチガイみたいになるな。何でも欲しがるな。何でも思い通りにしようと思うな。それは犯罪者の考えることだ。良き心を維持せよ。私にはその心が備わっている。当たり前だ。体に委ねればうまく行く。若い奴らはずいぶんおかしくなっている。ホリエモンみたいな犯罪者が出るようになった。メーカーが強いのは体本位だからだ。そこから幽体離脱みたいにさまよい出ても全く良いことなどない。体に帰れば何も恐いことなどない。kとかhみたいなキチガイも全く恐くない。もう誰とも争う必要はないのだ。くそガキとか不良とか喧嘩ずれしたきちがいどもと争う必要などない。本来の優しい心に戻ればきっとうまく行く。確信というより事実だ。
 最近の不調の理由は先週原稿で、二日連続一時まで起きていたこと、薬を少し減らしたこと。薬を増やすことはない。早く寝ればいいことだ。体に委ねることで必要なくなった。不思議なくらいだ。むしろ飲み続けることで生産性が落ちる。脳にも良くない。できるだけ減らそう。アドレナリンが出ていてもいいのだ。wさんも天然アドレナリンの生産者だ。薄気味悪い目をしている。友達を訴えたことがあるらしい。あまり近づかない方が良い。sさんもそうだ。あそこはキチガイの巣だ。あの坊主も調子に乗せるとひどいことになる。しゃれにならない。こういう風に悪循環になったのも元はといえば原稿のせいだ。でも原因も経過も結果もすごくクリアーに見えているところが以前と全く違う。馬鹿ではなくなった。体に委ねたからだ。妄想が嘘のように吹き払われた。後は良いことずくめだ。すごく調子が良くなってきた。朝起きたときはどうなることかと思ったが。自己治癒作用があるのだ。人間の心には。奇跡だ。和田アキ子と同じにおいがする。sさんでも適度な距離を保つのが良い。wさんでも同じことだ。可能です。北原もhを恐がっている。ほんとに薄気味悪い奴だ。あんなキチガイの巣に日がな一日いなきゃいけないなんて。さあ、外出しよう。人生を楽しもう。
 葛井寺に行ってきた。西国三十三ヶ所の第一番目の寺となった。寺男みたいのに納経の要領を聞いてやってみた。楽しかった。その男は感じの悪い奴だったが、窓口の爺さんはとても親切で良かった。神々しく見えた。涙が出そうになった。心がパーッと開かれた気がした。それから梅田に行って催涙スプレーを買った。田舎に行くときは用心のために持っていこう。田舎の不良中学生グループにホームレスと間違えられて襲撃されないようにしよう。おかしな奴らがどんどん誕生している。日本の未来は暗いだろう。でも望み無きにしも非ずだ。それから紀伊國屋で村上由佳の直木賞受賞作を買った。女の書いたものも読んでみたい。吉田修一も読もう。それから有頂天ホテルを見に行こうとしたが満員だった。予想通りだ。その後ロフトの方を散歩した。やっぱり梅田は何となく違う。若い奴らが多く、恐い気がした。それから太融寺に行った。ちょうど門を閉めるところだった。諦めて帰った。それからゆっくり駅の方に戻り電車で帰った。
 次回の合評が楽しみだ。生きていると楽しみなことがある。妄想は止めよう。体に委ねると妄想が吹き払われる。喜ばしい。頭でいろいろこねくり回すのが私の仕事だと思っていた。そんな仕事の奴はいない。仕事は全て肉体労働だ。わかりきったことだ。b校もあと一息だ。胸突き八丁だ。楽しかったし、多くのものを得た。期待以上のものを得た。私は善悪の区別がついていないところがある。差別をしないことはいいことのように思えるが、悪いものを許してしまうことは良くない。悪仲間しか残らない。やくざになる度胸もない。どうやって生きていくかというと肉体労働しかない。
 体さえ健康ならいつだって働ける。私は人の百倍頭がいいのだ。体本位で行けば、知恵は後からついてくる。簡単なことだ。何も考えないといけないことはないと気付いた。何もないのだ。
 体で生きていれば知恵は後からついてくる。だから考えることは何もない。人の数百倍頭は良く働くのだ。後は体でそれを表現することだけだ。体で生きると悪いことを考えなくなる。素直に正直になっていく。素晴らしいことだ。今こそ真面目になるときが来た。明日から模範社員になって猛然と働こう。絶対に文句は言わせない。



2006年01月28日(土) 文学自体が

 大きな力になった。人間とはどんなものかよくわかる。体本位で行こう。脳なんかに依拠するとキチガイになるだけだ。私は女を愛することはできない。女と付き合ったこともあるが好きだったわけではない。だから女を好きになったことはないのだ。これからもなさそうだ。悪いこととは思わない。性的魅力も感じなくなりつつある。それも悪いこととは思わない。もともとそういう人間だったのだ。だけど女を否定しているわけではない。お互い干渉しないよう離れて暮らそうといっている。体本位で行けばその辺の距離感がわかる。体本位で行くといろんなことがわかる。良い人だからといって何も得しない。金が儲かるか?女にもてるか?自分を傷つけようとしている人間と仲良くしようとするなんて。wさんの対応は正しい。私は女を愛することはできない。おばはん同士のように仲良くなんて真っ平だ。できるわけがない。心理グループとかいったけど女にいじめられた。やっぱり嫌いだとすぐにわかるんだ。父をなくしてから頑張れなくなった。うつになった。そういう人生を生きることもありだと思う。私は不思議なことに最近とても幸せだ。うつでも幸せなのか。うつはもう治ったのか。多分両方だろう。体に依拠していると混乱しないし、疲れないし、楽しい。いい人になる。少ないもので満足できる。この調子で行くと治るんじゃないか。楽しいことを自分に許そうと思う。クラッシックの良い音楽とか小説とか、お金をかけなくてもこの世の至上の愉しみを味わえる。それを許そうといっているのだ。古今東西の古典、現代文学。
 だからwの方に向かうよりsの方に向かった方が得じゃないか。でも女の相手をするなんて気が進まない。うつのせいか。本当に嫌いになったのか。男女とか抜きにして面白いじゃないか。
 朝から楽しい。体に委ねていると全てが楽しい。苦しい思いは散々したじゃないか。これからは楽しく仕事をしよう。楽しく暮らそう。私は十分楽しい。鈴木さんにも気を取り直して再アタックしよう。
 体本位で行けば、どんな障害もクリアーできる。父が死んでうつになったので働けないとは理由にならない。体に委ねればどんな障害もクリアーできる。うつでも乗り越えていける。結婚もできる。私の頭はもう壊れているので従ってはいけない。体に従って生きていこう。体が全てを教えてくれる。働くのは楽しいじゃないか。働いた金で遊ぶのは楽しいじゃないか。
 女嫌いでも良いのだ。体本位で行けば問題ない。前回は険悪な雰囲気になった。理由はすごくよくわかっているから大丈夫だ。h君だけは優しい。同病愛憐れむだ。体本位で行けば何をいつどのくらいやればいいかわかる。
 体本位で行こう。くそ田舎電車で吉外小学生に悪口を言われた。お前らなんか生まれてこなければ良かったんだ。今からでも遅くないからしね。死ね。死なないんだったら殺してやろうか。くそども。くず。犬畜生。今の日本はそんなくそがきばっかりだ。催涙スプレーを携帯しよう。和歌山のくそがきなんか今すぐ死ね。何で生まれてきたんだ。飯食わせねえぞ。今すぐ死ね。何のために生まれてきたんだ。今すぐ死ね。 
 体本位で行こう。体に委ねよう。これで完全にうまく行く。くそガキ。前からむかついていたけど死ね。生まれてくるな。拷問にかけて殺すぞ。皮はいで塩漬けにして殺すぞ。キチガイくそガキ。



2006年01月27日(金) 今日

 今日は平穏無事に終わった。勝利とはこういうことだと思った。私は喧嘩に負けたことがない。喧嘩500戦無敗だ。でも無理はせず慎重に行こう。体本位で行けばそんなことは簡単にわかる。体本位で行けばいつどういうタイミングでどう防御すればいいかわかる。瞬時にスムーズに簡単にわかる。連続殺人犯はある意味体本位であると思う。ものすごく狡猾なのは殺しの中で体本位になっているからだ。テッドバンディー。天才的シリアルキラー。恐ろしい犯罪をやってのける人間は恐ろしく狡猾だ。宅間、宮崎、小林。でも宅間は嘘つきでなかったのは珍しい。体本位。肉体労働でない労働などない。体に委ねると、妄想が消える。知恵が働き始める。きついことも少しもきつくなくなる。体さえ元気であればいくらでも仕事ができる。私が劇的に変わったことをまわりは気づいたようだ。b校でもすぐに気付かれた。変わったといわれるのに一年かかったといった人がいたがそんなことはない。一瞬でわかる。心理の勉強したのですごくよくわかる。女が嫌いでも体は一貫して正直で賢く働き者だ。奇跡だ。人の心はよくわからない。自分の心さえわからない。人の心はもっとわからない。でも体といういいものがある。万人に共通だ。
 私はaババアに似ている。あいつは私の母親に似ているからだ。体本位だと感情が高ぶったりしない。どう自衛したらいいかわかる。何もかもからだが瞬時に教えてくれる。考える必要は全くない。人は何も考えずに生きている。それが自然な姿で健全だ。私も人より考えるがそれで得したことはない。損ばかりしている。だから体に委ねよう。
 全ての労働は肉体労働なのだから、逆に簡単だ。考える必要はない。深甚な恐怖ということを考える。私はいつもそれを味わっている。片時も忘れたことはない。人は簡単にその恐怖を味わう。人に言うことを聞かせるときはそういう方法を使う以外にはない。あのキチガイヤンキーもそれを味わっただろう。朝はおとなしく仕事をしていた。昼ババアがいたのでやむを得ずキチガイの隣を通ったらまた咳を始めた。やっぱりキチガイだ。咳なんかほんとはどうでもいいんだ。とっちめてやりたかっただけだ。その目的は達した。あのババアにもその深甚な恐怖を味わわせてやった。そうしないということを聞かない。
 体に委ねよう。体が全てを知っているので体に従ったら良い。あんなババアとうまくやる方法などない。人を殺そうとしている奴とうまくやる方法を一所懸命考えるなんてお人好しにも程がある。体に聞いたら一切関わりあいになるなといっている。それでいいじゃないか。
 世の中を味わいたいと思った。悪行三昧をして金で快楽を貪るなんて人間のやることじゃない。そのホリエモン氏は獄に繋がれている。人と仲良くすることに気を配るなんてキチガイじみている。仲良くなんかできるわけないだろう。そうじゃなくて自分を守ることに必死にならないといけないのだ。それは体が教えてくれる。私は幸い人の数倍頭が良い。それを使えば簡単に身を守れることに気付いた。誰が仲良くしなきゃいけないといったんだ。あんなキチガイとそうじゃなくて身を守るんだろう。



2006年01月26日(木) 今日

 今日は会社で嫌なことがあってb校でも調子が出なかった。でも楽しかったけどね。あのキチガイヤンキーのことをついにぶちまけたった。ちょっとくらいびびっただろう。ざまあみやがれ。負ける気しない。あんなヤンキーは蛆虫だ。絶対私が正しいと確信した。北原も信じたみたいだ。当たり前だ。私はkやhに勝った男だ。あんなチンピラに負ける気しない。体本位で行けば絶対に正しいものが勝つ。蛆虫が。女はみんな蛆虫だ。偉そうにするな。正しいものが勝つのだ。散々人をいじめておいて開き直るな。文句があるなら止めるまで行ってやる。私は人事部長の嫁を止めさしたった男だ。明日からが楽しみだ。



2006年01月25日(水) 今日

 昨日は一時に寝たので疲れた。今日も印刷してコピーして綴じないといけない。本当に疲れる。疲れたせいか北原と喧嘩してしまった。人とどうして仲良くできないんだろうと思ったが、喧嘩を売ってくるからだと気づいた。一方的に譲歩するが絶対に喧嘩を売るのをやめはしないと気付いた。それだったら譲歩するだけ損だと思った。喧嘩上等だ。体本位であれば全く恐くない。
 コピー作りは本当に疲れる。腰が痛い。体に委ねよう。私は全く保護されていない。一体どんな幻想に取り付かれているのか周りの人間には全くわからないだろう。幻想から脱しよう。体に委ねることによってそれが可能になる。
 疲れた。やっと半分終わった。やっと終わった。これはこれで爽快感がある。明日が楽しみだ。鈴木さんは来るかな。



2006年01月24日(火) 寒い 

 今日は大変寒い。今日は小説を完成させてコピーを作らなくてはいけない。体に委ねよう。そうすると腹が立たなくなる。怒りが収まると知恵が湧いてくる。体本位で行こう。もう薬もいらないくらいイライラが消えた。認知療法も良かったかも知れない。小説は一応完成した。今回は余り評判にはならないかもしれない。平凡な内容だからだ。私は不幸な目に遭った。回復不能なほどの。元気に頑張ろうという気にならない。人生を無駄遣いしているように見える。でも今再び頑張ろうという気になってきた。脳は疲れていても体は幸い元気だ。もう一度立ち上がろう。私は病気で精神的にやられ、父の死で決定的なダメージを負った。そんな私をさらに追い討ちをかけるように攻撃してくる。どうすればよいか。人生は待ってくれない。体に委ねよう。



2006年01月23日(月) 月曜

 体本位で行こう。今日は疲れた。いつもにも増して疲れた。体本位で行こうと決めてからだいぶなるがかなりわかってきた。自分の姿が見えてきた。今だけではなく物心着くかつかない頃からの自分の姿が。なぜこうなってしまったのかがありありと見える。会社に貢献できてないと初めて思った。悪いことはしてないが良いこともできない。良いことをして始めて金をもらえる。考えたら中学時代から反社会的だった。その前の小学校から問題があった。b校みたいなところにさまよい出て行ったのは勇気ある行為で吉とでるか凶と出るかわからなかったが結果的にはうまく行った。体本位で行き始めると妄想が晴れてきて、正気に返る。今もう少しずつ晴れ始めている。少なくともこれなら生きていけるというところまで回復するのはもうすぐだ。そうすれば女とも衝突しなくなる。利害が衝突しないからだ。どうでもいいからだ。
12/31に最初に体に委ねるということを言っている。それから体優位の流れができた。何も考えなくても勝手に考えてくれるのだ。頭では何もできないのだ。労働とは全て肉体労働だ。自分が間違ったことをしていると気付いた。間違っているなら改めよう。会社に貢献しよう。
 妄想は止めて体に委ねよう。体に委ねればどうやって身を守ればいいかすぐわかる。体に委ねれば怒りが収まり知恵が湧いてくる。
 無防備でなければいけないと思ってきた。そんなことはない。体が言うとおりにしていればどう身を守ればいいかすぐわかる。キチガイババア、キチガイヤンキーから。



2006年01月22日(日)

 どうも早く目が覚めてしまい、辛い。でも楽しいんだけどな。目覚めたまま布団のなかで横になっているのは。何もしなくて良い幸福な時間。安逸を貪りたい。これが私の強烈な願望だ。苦しみや争いは嫌だ。インターネットでいくら得をしようと同じことだ。夢幻だ。女が卑しいから嫌いなのではない。卑しくなかろうと美しかろうと嫌いだ。むしろそれゆえに嫌いだ。hやkは通り魔だ。何の理由もなくいきなり暴力を振るう。昨日もババアに何度も不愉快な思いをさせられた。だから嫌いだというのだ。過去母親と葛藤があった。しなくてもいい争いをした。療養していた頃だ。父が死んで私は母と向き合った。心底恐怖を覚えた。そして逃げてきた。母親は私をどこまでも追いかけた。引っ越して電話番号がわからなくなったときは錯乱して騒いだ。完全におかしくなっている。私のせいだ。私の家にしきりに来たがる。私と一緒に住もうという。完全におかしい。私が死んだ父親に見えるのか。恐ろしいことだ。そのせいで私は女が嫌いになった。自業自得だ。誰も私に興味を持つ女はいないのだからそれでいいじゃないか。私は回復不能なダメージを負った。母親の生霊が取り付いて私に襲いかかってくる。宗教が必要だ。西国三十三ヶ所の旅に出よう。
 体本位だと、優雅な振る舞いはなくなる。ツッキーの文体はオニババ文体だ。欲に取り付かれた女の姿をしている。体本位だと嫌なものは嫌だというようになる。自分の命にかかわることは遠ざけるようになる。次第にというより即座に正常化する。うつも治る。女を真剣に遠ざけることを考えた方がよさそうだ。仏陀のように幸いというか必然的にというか、性欲はほとんどなくなった。ただこの間の飲み会で隣に座られたときは暴力的な欲情を覚えた。しかしそれは非現実的で一瞬のことだ。この間の温泉旅行でわかった。女は受け付けない。全く。完全に。体が拒否している。義務だからと女に近づいてひどい目に遭う。義務なんかではない。私は犠牲者なんかではない。身近に命を付けねらうものがいたら安心できるわけがない。今の私はそういう状態だ。何の理由もなくキチガイ女がいきなり暴力を振るってくる。それが私の置かれた状態だ。何で無防備でいるのか。何で仲良くできるのか。臨戦態勢にならないといけない。落ち着いていられるわけがない。仲良くしゃべってなどいられない。私は母に感じたのと同じ激しい嫌悪感を女に覚える。何で女が私に暴力を振るうのかはっきりわかった。体で考えるなら、猶予の余地はない。女を遠ざけることだ。何で仲良くできないのか考える余地などない。非常に危険な状態なのに、何でおとなしく無防備でいるのか。襲い掛かってくるキチガイを何で信用するのか。自分に危害を加えないとどうして信じられるのか。
 私の体には女を嫌うという誤ったプログラムがインストールされている。それを消去することはできない。どうやったって無理だ。ついに体が拒否するに至った。セックスというコミュニケーションを拒否するに至った。でもからだが決めたことが正しいことでそれに従うしかない。私が女と仲悪いのは中学からだ。今に始まったことじゃない。体に従おう。
 体に従うというのはそういう過激な思想ではない。この間組み会で人のにおいを好きになったという話。そういうことだ。男と女のにおいが入り混じった人のにおい。それが好ましく感じたということは性の区別はそこにはないということだ。性という役割にこだわりすぎ、囚われすぎなのだ。性などというのは社会的後天的なものだ。体はもっと開かれたゆったりしたものだ。性とか権力に囚われすぎ、搾取されすぎなのだ。それに唯々諾々と従いすぎなのだ。体の言うことに耳を傾けよ。体は拒否も否定もしていない。穏やかに異議を申し立てているだけだ。脳の暴虐に。体の穏やかな声に真剣に耳を傾け、それに従えば、脳の誤作動は自然に静まるだろう。競争とか性欲とか権力とかそういうものに囚われない非フロイト的な自然な領域があることを確信している。フロイト的悪夢に騙されてはいけない。体はすぐに少しのもので満足する。脳はいつも暴走してとても食べきれないものを欲しがる。一生かけても使い切れないものをせっせと稼いでどうなる。今の若者はそういうからだの声を表現しているのだ。ニートとかそういう形で。私は企業内ニートだ。体と脳を性から解き放とう。体はもっと穏やかなものだ。人のにおいで満足するほどの穏やかなものだ。
 女を嫌うのは脳の暴走だ。脳ではなく体に従うことだ。性を貪ってはいけない。人間はそういう意味ではちっとも進歩していないし、賢くはない。体が一番賢い。脳が肥大化し、体を貪っている。体を取り戻そう。
 私の中には性の区別は乏しいのではないだろうか。だから私の書いたものは男女区別なく受ける。性の区別のない世界の方が広々として豊かなことは疑いない。私がババアが嫌いであろうがなかろうがどっちでもいいことだ。ババアの挑発に乗ってはいけない。本当の幸せをつかむのだ。それはもう体が知っているのだ。
 あの組会のときに感じたあの気持ちが大事なんだと思う。あの時は男女なんか全く意識してなかったじゃないか。女が嫌いというのは差別に基づいている。私は差別論者だ。だからそれが女の気持ちを逆なでする。知らずに人を傷つけている。体に従っているとそんなことにはならない。自然に人を認め愛することができる。
 あのときの気持ちを今も持っているのだから、女がどうとか全くどうでも良い。問題にならないんじゃないか。あの酒屋のおっさんが嫌いなのは差別主義だからだ。嫌味だからだ。
 体が大事だ。体本位だ。体は行き詰まってなどいない。いつでも豊かでしなやかで強い。女はそのことを知っている。しなる枝は折れない。私は行き詰まってなどいない。体が行き詰まることなどありえないのだ。自分で自分の心を追い詰めているだけだ。
 性というのは人間の一部にすぎないのに全てと思い込んでしまう。もてたからどうしたと思う。馬鹿馬鹿しい。夫がいるのにもてたいなんて狂っている。性が存在を侵食している。ちょっと前までの私だ。ババアを前にして感じる恐れは殺人鬼を前にした子供のようなものだ。耐えられない恐怖だ。
 体を中心にしよう。そうすれば恐くない。脳本位になっていると妄想が芽生える。大学時代私がやっていたのは勉強ではなく妄想だった。本当に狂人になってしまった。体本位になればどうすべきかすぐわかる。大人にならなくて良い。子供のままで良い。体本位であればそれでいい。体本位であれば絶対にうまく行く。
 あのキチガイヤンキーもキチガイババアももう大丈夫だと思う。腹が立たない。体本位で行けば馬鹿馬鹿しくて腹なんか立つわけがない。北原も全く腹が立たない。感謝とかわざとらしいことを持ち出すまでもなく、普通に腹が立たない。私が変わったからだ。
 この間h君が会社でもはじけたら良いんじゃないかと言われたのが嬉しかった。確かに話していると楽しかった。もてたからじゃなくて話が噛み合ったことが嬉しかった。普通に会話に参加できたことが良かった。確実に変わった。私は。決定的に、不可逆的に。良い方向に変わった。体から言葉が出てくるようになった。私は理屈っぽいことを考えると途端に妄想になる。z氏にも何度も指摘された。女とか男とか全く関係ないという気がしてきた。何か意味あるか?全く無意味だ。男だ、女だと馬鹿だった。母親が私を父親と同視しているらしいがどこにそんな証拠があるのか。妄想だ。ツッキーにもそうは思わないといわれた。仮に一万歩譲ってそうだったとしてどうなんだ。無理もないじゃないか。お前がそうさせたんだから責任を取れ。母親の願いをかなえてやれ。それがお前にできる唯一の親孝行だ。
 私は反社会的だ。それは良くない。毎回飲み会に行っているのは何のためだ。ナンパじゃないぞ。親睦のためだろ。仲良くなりたいからだろ。それなのになぜ引いてしまうのかわからない。矛盾する行動だ。それだったら来るなということになる。前回は組会のときに良い感じを味わった。初めてのことだ。それをそのまま飲み会でも出せばいいのにナンパ大会になってしまった。それはオニババ化しているということだ。でも私は漸くそういうモードを脱した。人を出し抜いて自分だけ得をしようとかホリエモンみたいな。ホリエモンはただひなのと自家用ジェットでパラオに遊びに行きたかっただけの田舎もんで側近が悪い知恵をつけたのが悪い。
 仕事真面目にやろうと思った。それは病気なんか関係なく慣れだ。気持ちの問題だ。私の頭を覆っている妄想を体本位で吹き払えば今すぐできる話だ。今私は悪いことをしているのだという罪悪感が必要だ。長いこと悪いことばかりしていたので良心が麻痺しているのだ。それが私に必要なことで薬でも心理療法でもない。倫理観だ。悪いことをしているならすぐ改めよう。それだけのことだ。体本位で行けばすぐわかるはずだ。問題は倫理観だ。悪いことをしている。だから改める。これは病気の問題じゃないだろう。体本位で行けば全く簡単な問題だ。男とか女とか興味あるか?全く興味ない。
 明らかに私は悪いことをしている。悪いことをしている状態をまず改めよう。それが私のやるべき第一の仕事だ。遅刻をしているなら遅刻を止めれば問題は解決する。
 今日は充実した一日だった。本屋で西国三十三ヶ所巡りの本を買ってから、難波から今宮戎神社の方に歩いていった。歩く前にキャベツ焼きを食べた。おいしかった。110円とは安い。それから喫茶店でコーヒーを飲んだ。400円。大しておいしくないアメリカンコーヒーなのに高すぎる。失敗だった。それから日本橋を歩いて抜けて今宮戎に行った。誰もいなかった。老夫婦が一組、参拝していた。ばあさんの方は少ない賽銭で長いこと拝んでいた。欲張りなやっちゃ。それから参拝して、通天閣へ向かう通りを抜けて新世界を抜けて天王寺公園を通り抜けて天王寺駅から帰った。人間らしい気持ちになった。何て気持ち良いのだろう。人間らしく生きるとは。体本位で生きるとは素晴らしいことだ。
 明日から真面目に働いて文句を言われないようにしよう。悪いことは止めよう。悪いことをして金をもらえる奴なんていない。ありえない。もう大丈夫だ。体本位で生きれば悪いことは思い浮かばない。
 体本位になれば、女なんか全く恐くない。男女なんか意味ないのだ。わたしにとって。体本位であれば何も恐れることはない。悪いことはしないこと。当たり前だ。私は中学時代からおかしかった。遅刻を繰り返し、教師に反抗した。それ自体は良くあることかもしれない。でも妄想の芽はその頃からあった。高校を通じて膨らんだ妄想は、大学時代にはじけた。それからも妄想に苦しみ、今に至る。でも体本位という考えに思い至り、希望が出てきた。体本位で妄想を吹き飛ばそう。妄想が晴れて、真面目に働ける。悪いことはしなくなる。悪いことをしていない気で悪いことをする。これは改めよう。良いことをしよう。悪いことをしない。ヤンキーの仲間になってはいけない。悪いことはしてはいけない。体本位でいいことだけしよう。そうすればどんどんいい方向に行くだろう。男女なんか関係ない。体本位であればそんなことは何の意味もないことがわかる。
 体本位になれば身分に関わらず誰とでもコミュニケーションできる。体は全ての人が共通に持っているからだ。体から出てくる言葉は自明である。誰にとっても。だから通じる。誤解の生じる余地はない。妙心寺のババアみたいに根性の捻じ曲がった奴はまれに誤解するが。



2006年01月21日(土)

 今日は酒が飲める。楽しい。体本位で行こう。体本位であれば何でもできる。人付き合いもできる気がする。体本位であれば残りの人生も楽しく生きていける。体本位で行こう。幸せって何だっけ。それは想像力だと思う。金ではないことは確かだ。体本位で生きていると自然に人と言葉も心も通じ合うことを知った。体本位だとサド的な悪魔的思考が働かなくなる。体的思考だと馬鹿の考えていることがよくわかる。前は馬鹿が何考えているかなんて馬鹿すぎてわからなかったんだが、体思考だと馬鹿は体でしか考えていないことがわかったのですごく楽に読める。この調子で場数をこなしていけば簡単にクリアできると確信した。体本位は素晴らしい。
 今日は寒い。どこへ行こう。寺巡りをするか。それとも映画にするか。
 妙心寺に行ってきた。大心寺という塔頭の庭を見ようと思って入ったらキチガイみたいなババアが泥棒扱いして見張っていた。誰にでもあんなことをしているのか京都に行くといつも新鮮な怒りを覚える。死ねと思う。体本位で行こう。体本位はいいことだ。



2006年01月20日(金) 寒い

 体本位で行こう。思えば大学入学の日から私は変わってしまった。怠け者になった。それまでに完全におかしくなっていた。今根本的に変わろうとしている。私は文校はありがたいと思う。私みたいな人間を受け入れてくれるところは他にはない。10万円払っているとは言え、ありがたい。芸の力だ。いっそう精進しよう。一所懸命を思い出した。体本位でいけば自然と働きたくなる。
 やっぱり体本位ということでうまく行き始めた。体本位で考えるとおかしな奴らのキチガイ振りがわかるようになった。でも切れたりはしない。そんなことに左右されなくなる。体本位で行くと体に目が行くようになる。体は何でも知っている。頭で考える小賢しい知恵など全く取るに足りないと知った。初めての経験だ。嘘がつけなくなった。本音で正直に生きることが本当に素晴らしい。嘘など簡単に見破られるし、逆に簡単に見破れるようになった。頭で考えることは嘘をつくことに他ならない。自分の嘘で自分を騙す。でも人は騙せない。自分も騙せないからいつか病気になる。なんてもったいない。何でそんな理不尽な生き方を選ぶのか。女を見ろ。正直に体で生きているじゃないか。そのほかの生き方なんか絶対にありえないのだ。女にとって。男は小賢しく頭で考えて利口ぶるが体で考える女には勝てない。嘘をすぐ見破られるのはそのせいだ。体で生きることは何ら恥ずべきことではない。素晴らしいことだ。
 体本位で行こう。私は小さい頃からおかしかった。周囲に適応しようとしたがだめだった。でも西行も兼好も長明も芭蕉も皆変わり者だった。素晴らしいことじゃないか。こうなるべくしてこうなったのだ。体本位で行くとおかしいものはおかしいとわかるし、正しいものは正しいと思う。大変素晴らしいことだ。
 体本位はいいなあ。良い人のことはわかるし、悪人にも騙されたりしない。引きこもりもいいことだ。悪者から自分を守るためには仕方のないことだ。体本位というのはいいことだ。本当にいいことだ。キチガイに殺されなくて良い。馬鹿みたいに人の言うことを聞いている場合ではない。それがすごく簡単にスピーディーにわかる。
結局体本位になれば全然okになる。疑心暗鬼になることもないし、人を傷つけたり、傷つけられたりしない。頭を通して考えたことの全ては間違いだったと言い切れる。壮大な嘘。自分を騙すための。道徳や宗教について考えたことの全ては幻だった。体本位になればそんなことは簡単にわかる。自分を騙したり、人を騙したりする必要などない。女が好きになれない。結構なことじゃないか。節約できる。煩わされない。煩悩から自由になる。煩悩ガールズってどこに行ったのだ。



2006年01月19日(木) b校

 今日の文校は楽しかった。私だけが楽しかったのか。それでもいいじゃないか。体本位でということを気付いてから世の中少しわかるようになった。今日、文校で座って話を聞いているとすごく愛おしいと思った。皆が愛おしいと思った。もうすぐ別れるんだけど、すごく愛おしい。何か人のにおいがしてきた。座っていると。普通、体臭とかは嫌だと思うんだけど、そのときはとても愛おしかった。そんな気持ちになったのは初めてだ。人を好きになることはいいことだ。長いこと心を閉ざして生きていたのに漸く氷河が溶けるように心が解けてきた。体本位で考えていると人のことを嫌いにはならない。たとえ女でも。私もずいぶんまともになった。体本位で考えるとこうも違うものか。理屈なんか私は理解できない。多分誰にもできない。体本位で考えると人を好きになるんだ。人を尊重する気持ちになる。今まで人の言うことを聞き流していたのが耳に入ってくるようになった。初めて耳が聞こえるようになった気がする。と言うか普通やで。ってなんで関西弁?楽しかった。本当に楽しかった。嫌いな人間といるのは本当に辛いのに、好きな人といるのは楽しい。人を好きになろう。簡単なことだ。体本位で行けばいいのだ。



2006年01月18日(水) 寒い

 今日はカウンセリングだった。話したいことが全て話せてよかった。白熊のこととか、北原のこととか、体本位のこととか。z氏はカウンセリングは止めるらしい。会社の方針&本人の意向らしい。もう燃えなくなったみたいだ。確かに男子一生の仕事と言えるかどうかやや疑問だ。おばさんの仕事かもしれない。でも私はおばさんがだめだからかわいそうだから続けてくれるようだ。でもいつかは終わる日が来る。そう遠くない将来に。心の準備をしておこう。
 外界を尊重しなければと思うが、思うとおりに行かない。一所懸命にz氏に話していた頃が懐かしい。話すことがなくなった&何で一所懸命はなさないといけないのかわからなくなったと言うのが本音だ。こちらがサービスしているような気がする。体本位で行こう。脳本位でいくと行き詰まりか暴走のどちらかになる。
 体本位で行くと時間が貴重なものに思えてくる。無駄にはできなくなる。今日は疲れているので推敲は止めておこう。さえない。ピタッとこない。せっかくの作品が推敲しだいで台無しになる。私は女が嫌いなのでどうしてもそれが表に出る。だから女も自然と私を嫌いになる。当然のことだ。好きになれといっても無理だし、好かれても困る。法律がなかったら殺したい。絶対に殺すだろう。理由などない。



2006年01月17日(火) 寒い

 今日は嫌なことがあった。北原が私をいじめる。最初は電卓を貸せとか言っていたが何か態度が気に入らないのか、辛く当たり始めた。おかしい。くそヤンキーとのトラブルが元で気分が悪かったのを、自分に対するものと勘違いして私に当たってきた。おかしい。くそヤンキーは何も言わなくなったが、北原がおかしくなった。z氏に言ってみようか。
 体本位で行こう。父の死は大きかった。でももう十分私は喪に服した。十五年以上になる。私も傷ついた。ぼろぼろになった。もうこれ以上自分を傷つけることを父は望んでいないだろう。体本位で生きていこう。



2006年01月16日(月)

 雨が降ってきた。堺は人外境だ。人の住むところではない。住んでいるのは人間ではない。だから人間扱いされない。あのキチガイが帰ってきた。あの声を聞いているだけで頭が痛くなってくる。相手にされないとキチガイみたいに攻撃してくる。絶対に許さない。あのくそヤンキーも絶対許さない。体がもう受け付けない。体が拒否している。体本位で行こう。心が自分を必死で騙そうとしても体が拒否している。体本位で行こう。自分を騙すのはもう無理だ。
 良い人であろうとするのは結構だが、通り魔みたいなババアを目の前にしてそれは不可能だ。体本位で考えれば自分がいかに間違ったことをしているかわかるはずだ。
 体が拒否している。体本位で行こう。許すわけには行かない。体本位で行こう。体の言うことが正しい。



2006年01月15日(日) からだ

 体本位でいこう。今朝早く目が覚めて色んなことを考えた。私の考えることはくだらない。役に立たない。それでも考えてしまう。考えることを止めて体に従おう。それは人としての務めだ。中学のとき母親が嫌いになった。キチガイと付き合っておかしくなった。母親が嫌いになることはよくなかった。本能的にそう思う。自分を生み育ててくれる存在を憎むなんて本末転倒だ。でも何万人に一人かはいるだろう。エディプス的な衝動を人間は抱えて生きている。だからそれを戒めているのに、私はそれが許されていると勘違いする。やくざのような考えだ。だからヤンキーと相性が悪い。私の考えは何ら新しくも正しくもない。ヤンキーややくざの考えと全く一致する。それを珍しいことのように言い立てているだけだ。今母親は全く気味の悪い存在として私の前に立ち現れた。会社でもそういう存在がいる。私がおかしいからおかしな態度になって返ってくる。こういうときは体に従おう。考えているようで暴走しているだけだ。読みもしない本を買い、聞きもしないレコードを買う。でも漸く自分の姿が見えてきたのは小説を書き始めたからだ。美しくも醜くもない、あるいはその両方の存在。母親を嫌いになることもあるだろう。でもそれは間違いだったとはっきりいえる。誰だって欠点はある。美しい人や賢い人ばかりではない。昨日電車の中で人が恐くなった。いつまでも発車しない電車に次々イラついた不機嫌な顔で乗り込んでくる人々。恐くなって私は電車を降りた。
 私は漸く自分の姿が見えてきた。中学以来見失っていた自分の姿を。体本位で生きていこう。中年になるまでやってこれたことがこれからはやっていけない。当たり前のことだ。ヤンキーややくざだって生きてはいける。ヤンキーの約束事と言うのがある。それを守ればいいのだ。
 体本位で行こう。具合が悪いのに決定的に悪くならず、時間は快く流れていく。これがベストの状態なのだろう。私の場合は。最近、誰とでもうまく行かない。心が荒れてきた。z氏ともうまく行かなくなった。人から好かれることが重荷になる。不快に感じる。k女史が言っていたことがよくわかる。うまく行かない。母親との葛藤。それは女が母親と葛藤が生じることと重なるのだろう。生き辛さは私だけが感じているのではない。地べたに座る若者。社内で化粧する女。子供を産まない女。何かがおかしくなっている。先進国だからしょうがない。体本位で行こう。母親を嫌ってはいけない。小説もいいが、それなりの覚悟が必要だ。悪事を働くのとは違う。人間的に良いことをしたい。そういう文学も可能だ。電車に乗っていても街を歩いていても旅行をしていても私は疎外されている気がする。見下されている気がする。それは半ばは事実だろう。でも半ばは思い込みだ。気にすることはない。
 社会で役割を持っていない。家族や集団に属していない。そういう人間は社会で排除されていく。知らないうちに人を圧迫し、傷つけている。私の中に悪意が宿っている。悪意に気付くことが第一歩だ。人を傷つけたくないなら自分が傷つける人間だと気付かないと。体本位で行こう。でもb校に通うようになってからいろんなことに気づくようになった。やっぱり力になる。生き抜く力。自分が一番得意なことができないなんて生きてる意味がない。今は生きがいができた。
ツッキーやb校の皆には恩義を感じる。世話になった。悪いことをしても得することはない。立派な人間になろう。b校でもどこに行っても馬鹿にされるのは馬鹿にされるようなことをするからだろう。馬鹿にされないよう立派なことをしよう。仕事をちゃんとしよう。就職活動していたときも変な奴と思われた。やっぱり変な奴だったのだ。全然平均レベルにも達していないヤンキー野郎だった。でもこれからは違う。はっきり目が覚めた。大体社会に出て一度もきちんと仕事がこなせたことはない。でも小説だけは誉められた。これで飯が食えたらいいな。普通文学は孤独な行為で、一人営々と努力して、賞を狙ったり、持ち込んだり、勉強したりする。それができないのに集団に甘える。でもこれは労働運動の一環として始まったのだから当たり前だ。
 中学のとき色気づいて、変な世界に興味を持った。あんな変な奴と付きあったからだ。もう取り返しが付かない。そういう体質だったのだ。自分のことしか興味を持たないなんておかしすぎる。こんな日記も良くない。自分から外界に目を向けよう。性的に余りにひきつけられるのは非行と言えなくもない。道を踏み外した。今度の小説も道を踏み外す話だ。逸脱。若い頃にはよくあることだ。大人になった今では是非善悪の区別くらいはつくようになった。
 女のことも忘れたらいいと思う。一番手っ取り早い解決法だ。私の正直な気持ちだ。忘れたい。だから忘れる。
 昨日電車で見た小さい女の子の姉妹は本当に可愛かった。傍にいたお母さんが不審そうな目で見た。本当に可愛かった。でも育てるのは大変なことだ。自分の外にあるものを尊重する。他人とか社会とか、会社とか同僚とか。文学とか。体本位で行こう。自分の心の棘を抜いて素直になろう。自分の外にあるものでも価値あるものとして尊重しよう。女であっても。子供であっても、老人であっても皆存在するだけで価値がある。こんなことを素直にいえるようになっただけでも成長した。悪い方向に行くことだけはあるまい。意志の力でどうにでもなるじゃないか。
 確かに女性とうまく行かない。でもほとんどの女は女とうまく行かないんじゃないか。それを小さい頃から努力してうまく行くようになったんじゃないか。とりあえず忘れてみよう。今の精神状態で女と付き合おうとしてもうまくいかない。それだったら忘れてみると言うのもひとつの手だ。昨日もいきなり改札で喧嘩を売られた。この会社に入ったときも経理のおかしな女連中に何の理由もなくいじめられた。忘れたい。忘れたらいいのだ。どういうわけか女が嫌いになった。女に好かれるのも嫌だ。嫌いな奴に好かれるほど嫌なことはない。
 体本位で行こう。四天王寺に行ってきた。昔行ったことがある。その前に我孫子観音に行った。お参りすると心が安らぐ。平凡な庶民が幸せを願う姿は心を打つ。それから地下鉄で四天王寺に行った。広々とした境内は歩いているだけで心が安らぐ。私の心は悪が忍び込みやすい。悪徳の巣のようになっている。素直な人間が陥りやすい。庭園も見物した。宝物館は時間が終わっていて見られなかった。それから参道を歩いた。谷町筋沿いに歩いた。人通りが多かった。ずっと歩いていくとJR天王寺駅に着いた。これからは天王寺から歩いていける。新しい発見で嬉しかった。それから時間があったので天王寺公園の傍の歩道を歩いていった。動物園に通じるらしい。帰りの家族連れが多かった。見ているだけで癒された。私は孤独だと思った。自分につらく当たるのはやめようと思った。孤独が心地良いわけがない。人は一人で生きるより、誰かがいたほうが良い。母はそういうことで私を思いやって一緒に住もうといってくれたのだ。変な勘繰りは止めよう。頭で考えるからそういう途方もない妄想に陥る。体本位で生きていればそんなことは考えない。やせ我慢はやめようと思った。sさんでさえ生き物をたくさん飼っている。人は一人では生きられないのだ。
 それから天王寺の地下でコーヒーをいっぱい飲んだ。個性的な人々がコーヒー一杯で粘っていた。都会人の潤いを手に入れる方法だ。これが福山駅ではこうはいかない。尾道でも無理だ。大都会だから可能なことだ。私は心に余裕がないから、そんなことさえできなかった。人の気配や話し声を聞いているだけでほっとした。ああ、自分は人間が好きなのだと思った。人のぬくもりをこんなにも渇望しているのだと思った。体本位で行けば当然そうなる。簡単にわかることだ。b校で得たものは大きい。e女史やo女史との衝突、軋轢を越えて漸くここまで来た。wさんやyさん、nさんとも良好とは言いがたい。知らずに傷つけている。悪い癖だ。脳で考えないで体本位に戻ればほとんどの問題は解決する。体本位ということと、感謝と言うことだ。女は確かに馬鹿だが、体本位で生きているから男みたいに馬鹿な間違いはしない。私も体本位で行こう。
 新世界の町につながっていたので歩いてみた。最初は少し恐かったが、慣れればどうってことない。串カツ屋、スマートボール、映画館、劇場。楽しかった。
 人が偉く見える。生き生きと人生を謳歌しているように見える。私も早くそうなろう。会社に貢献できるようになろう。頭で生きるのは止めて体で生きよう。人に感謝でき、社会に貢献できる人になろう。悪の道から足を洗おう。
 この年になって漸く人の世が見えてきた。私も凡俗の一人だ。体を使って生きていこう。仕事は全て肉体労働と考えて間違いない。今までいかに盲目で生きてきたか最近わかる。なぜ人が私を嫌うかわかる。それがわかれば嫌われない方法もわかる。素直になることだ。私は超人ではない。凡人だ。こつこつ努力することだ。そうすればいつか報われる。
 普通の人の偉さを感じる。自分はエリートなんかではない。凡人と一緒に額に汗して働くのだ。頭ではなく体を使うのだ。普通の人が皆偉く見える。本当に偉いんだと思う。少なくとも今の私と比べたらほとんどの普通の人はすごいと思う。普通に働いて家庭を営む人々は本当に偉大だと素直に思う。
 女も子供も偉いなと思う。そのことに気付くことができたんだから私も捨てたもんじゃない。決して自分を諦めてはいけない。
 体本位で生きていこう。私以外の人が偉く見えるのは良い傾向だ。人を差別したりしなくなる。正常化への第一歩だ。私は人を差別するほどえらくはない。偉くても人を差別したりはしない。体本位で行けばすぐわかることだ。



2006年01月14日(土)

 今日は雨だ。浮かない気分ではある。でも最悪の気分や、パニックにはならないところが以前と違う。体本位に生き始めてからだいぶ違う。あのキチガイはあまりひどいようなら来週にでも言おう。それから女のことなんか興味ないのだから忘れていいんじゃないのか。というか前のキチガイ女でも全く忘れたら良いんだ。実際忘れてるし。
 自分の外側に確かな世界があると言うのは新しい感覚だ。小説を書き始めて初めてわかった。同じように仕事の世界にもあるのだがそういうものには一切興味が向かない。自分が利得が得られると思わないからだろう。出世とか未来が開けるとかそういうものがないと人間は働かないものだ。この職場に放り込まれた時点で全く勤労意欲を失った。人格が崩壊した。
 でも小説を書き始めてから変わった。自分の外に確かな世界があって自分が参加できると言う感覚は大きい。そこで快楽や喜びを得られるというのは嬉しい。
 女だけではなく男もあまり好きではない。体本位で行こう。体本位で行けば大きな間違いはない。自分をいじめてはいけない。体本位であること。
 私は自分勝手に生きてきた。野蛮だった。でも野蛮だけでは生きていけない。自分の外に実在があると言うことを認めることは重要であり、恥ずべきことではない。文学はそのひとつだ。社会と言うのはそういう側面がある。
 母親と温泉旅行に行かないかと言ってきたが、迷った挙句断った。親孝行は義務だが、嫌なことは嫌だ。母親との関係はおかしいと思う。私がこんなおかしな人間になってしまったばっかりに母親もおかしくなってしまった。罪深いと思う。母親は私の奥さんになりたいのだ。正直本当に気持ち悪い。受け入れられることと受け入れられないことがある。世の中で一番罪深いことは父を殺し母と交わることだとギリシャ人は考えた。私はその大罪を二つとも犯してしまった。嫌なことは断ろう。これもアサーティブだ。なんでもけじめなくずるずる悪い道に入ってしまうことが良くある。やりたくもなんともないし、やってはいけないこともわかっているし、我慢もできるのにやってしまう。愚の骨頂だ。
 体本位で行こう。小説はやりがいのある仕事だ。世界が手に入る。趣味のなかでも最高だ。
 どうもやっぱり調子が悪い。怒りっぽいし、僻みっぽい。自分が馬鹿にされているような気がして仕方がない。気のせいだ。車椅子を押す女から改札をどけと言われて切れそうになった。頭おかしいんじゃないのかと思った。車椅子だから偉いのか。でも冷静に考えてみると後ろを通してくれと言いたかっただけかもしれない。頭に血が上っていたのでそうは受け取れなかった。電車が遅れた。いつまで経っても出発しないので頭に来て地下鉄に乗り換えた。そのときに起こったことだ。私も大人気なかったかもしれない。偉そうにいわれると腹が立つ。怒るというのは損をする。私が今こんなに苦労しているのもあそこで我慢できなかったからだ。頭に血が上っているときは我慢ということができない。でも冷静に考えればどっちが得かわかるのに。怒っているときの思考や行動は全く非合理だ。



2006年01月13日(金) 楽しい

 文校は楽しい。旅先では孤独で情けなかったのに文校では楽しい。不思議だ。女なんか嫌いでも一向に構わない。松方は両刀らしい。不思議ではない。人をコントロールできる。自分をコントロールできる。文学は素晴らしい。
 私は嫌味なところがある。攻撃的ということ、意地悪と言うことだ。素直になろう。自信があれば素直になれる。それは文学によって得られるとわかった。しかも書くことによって。今回書いた小説を応募してみよう。ポケベルは応募したので二重投稿になる。
 体本位で行こう。女が嫌いでもいいのだ。寂しいなどと思ったことはない。嫌いなんだから一緒にいるのは嫌だろう。性欲は全くない。
 勘違いキチガイババア。何か私に欲情しているみたいでぞっとする。死んだらいいのに。自分が権力を得たので男を得られるという発想らしい。本当にぞっとする。そんなことに応じる必要はない。母親とあのキチガイババアが重なる。悲しいことだ。私はあの家に戻るべきではなかった。辛くても留まるべきだった。今となっては遅いが。私は体本位を取り戻した。もう大丈夫だ。これだけの時間がかかったと言うことだ。男は一人前になるには時間がかかると言うことだ。
 体本位でいくと怒りを感じることはほとんどない。焦ったり、パニックに陥ることもない。平常心で事に当たることができる。大変素晴らしい。体本位であれば自信を持つことができる。誰と対しても動じない。他人に思いやりを示すことができる。
 やっぱりどうしても嫌味な感じになってしまう。女が嫌いでもいいということだ。嫌いと言うことは変えられない。それを外に出す必要はないということだ。わざわざそんなことを教えてやる必要はないということだ。
 自分以外に世界があってそこには自ずから秩序や権力が存在すると言うことがどうも私は理解できないらしい。でも最近少しわかるようになった。小説のお蔭だ。小説は外にある存在であり、人に見られるものだ。内面とはまったく別のものだ。そういうもの、人工物を私もやっと認められるようになった。人が作ったものを認めること。それは文化的ということだ。野蛮人から文明人、文化人になると言うことだ。それに入っていくことは良いことだ。野蛮人のまま生きていくことはできない。
 衣食足りて云々というのがある。食欲とか性欲とか満たされて初めて文化とかそういうものに夢中になる。私は結局そういう不安があって、仕事とか趣味とかに夢中になれないんだ。でも最近体本位の考えになってから外界にあるものに目を向けることができるようになった。良い傾向だ。
 楽しい。人を憎む気持ちが不思議にも消えていった。人の心が手に取るようにわかるからだ。小説をやり始めてから大きなものを得た。egと比較してもより大きな成果だ。偶然入った学校だがとても良い結果が得られた。
 真面目にやろうと思うようになった。人のことが憎くなくなった。自分は自分で素晴らしいと思うようになった。女が嫌いなら嫌いでいいと思うようになった。
 地球には自分ひとりしかいないと思って生きてきた。統合失調症患者の考えだ。それは誤りだと小説を書き始めて思った。多くの人が同じひとつの確固たるものに向かって進み、命を賭ける。それを私は信じられなかったが、今は信じられる。大変な成長だ。他人の言葉にも耳を傾けられるのは自分の外に何かがあると信じるからだ。
 小説を書くことはただ日記を書くことや作文とは違う行為だ。私にはまだ全体像はわからない。でも理屈っぽくやっても私の場合はうまく行かないだろう。本能で書くしかない。小説は野心的な試みだ。世界を手に入れたいという。一握りの才能ある人しかだめだ。作家になろうとしたら相当な努力が必要だ。
 私は絵や音楽の才能はもともとそんなにない。でも皆無ではない。絵が得意じゃなくても偉大な小説家はいる。小説を書くなら天下を取ろうと言う気概が必要だ。



2006年01月12日(木) 文校

 今日は久々の文校だった。楽しかった。自分が成長している。体本位と言う呪文が私に効いている。会社の方も馬鹿馬鹿しいので相手にしないことにした。いざとなったらいつでも反撃できる。女が嫌いでも一向に構わない。小さい頃から嫌いだった。中学生くらいから決定的になった。でも嫌いでも一向に構わないと思った。私が女が好きであろうと嫌いであろうと誰にも咎められるいわれはない。忘れてもいい。前に座っている女が嫌いでも一向に構わないじゃないか。好き嫌いはどうしようもない。そんなことは表に出してはいけない。忘れるの一番だ。忘れていいのだ。大嫌いでもそれを表にさえ出さなければ全く構わない。ノープロブレムだ。忘れたらいいのだ。意識することはない。
 私は悪いことをする。悪いことを考える。それは良くない。そういう癖になっている。その癖を直さないと受け入れられない。良い方向に行こう。良い方向に行きたいと思わないのか。体本位であれば大丈夫と思う。体本位であれば良い方向に行きたいと思うだろう。体本位を見失ったのでおかしくなったのだ。体本位を取り戻したら、きっと元に戻る。



2006年01月11日(水) 今日

 あの馬鹿女のことは言わなかった。いつでもいけるから放っとこう。お蔭で機嫌が悪くなって北原と険悪になった。我慢しないで言ったほうがいいかもしれない。でも我慢じゃなくて無視したらいいと思う。喧嘩は一人ではできない。咳をしても自分には関係ない。存在していないのだ。存在しないものが何で気になるのだ。自然にうまくいくなんて考えてはいけない。絶対にうまく行かないのだ。その上で十分注意する。これが大事だ。本当に女が嫌いだ。うまく行くわけがない。だんだん腹が立ってきた。私の女嫌いは中学くらいからだ。高校、大学、社会人と一貫して嫌いだった。明日何かやってきたら北原に言おう。我慢する必要はない。仕事に支障が生じる。



2006年01月10日(火) 今日

 今日は割と眠れた。朝までぐっすり。薬のお蔭だ。旅先の嫌なことは大半忘れた。最近は忘れっぽいから便利だ。職場のくそ女のことを北原に言ってやろうかと思っている。しつこく嫌がらせをする。本当にヤンキーとは相性が悪い。
 今日は病院に行った。制度が変わるらしい。薬代が安くなっていた。嬉しかった。でも個人情報から言ってどうなんだろう。不安だ。少しあがるらしい。あのやろう。許すわけには行かない。体本位で考えてもやっぱり許せない。



2006年01月09日(月) 鞆の浦

 鞆の浦から帰ってきた。嫌なことが多かった。人とうまく行かない。それ以前に差別される。差別、排除だけは慣れることができない。誰でもそうだ。わきがのことでも神経がずたずたになる。感情が鈍磨してくる。博物館の窓口にまで嫌がらせをされる。不機嫌を通り越して無反応になってくる。うつ状態になる。文学だけが救いになると感じた。尾道の志賀直哉の旧宅を見た。おっさんが解説してくれて面白かった。嫌なことが本当に多かった。うつでかつとげとげしいのはあんな職場にいるからだ。人に近づきたくない。旅などしたくない。医王山という寺の境内から見た鞆の浦の風景は最高だった。あの一瞬だけが私を救ってくれた。人によって救われることはなかった。中村憲吉の短歌だけが私を癒してくれた。死を目前とした淡々とした心象風景。文学は救いを与える。
 体本位であること。これが大事だ。あの仙酔島の役人グループ。醜悪極まりない。朝から酒を飲んでいた。全く癒されなかった。神経がずたずたになった。うつに落ち込んでいたら死んでしまうだろう。だから武装していなくてはならない。職場でもうつなのに攻撃される。体本位であればバランスが取れるだろう。正気を取り戻せるだろう。敵と戦えるだろう。身なりで差別する。排除する。金品を奪おうとする。当たり前のことだ。人と係わり合いになってはいけない。体本位に生きなければ。
 体本位であること。それでかろうじて自分を保てる。本当に人間が嫌いになった。本当に心の底から嫌いになった。人が私を嫌うからだ。子供や犬まで嫌う。女が大嫌いだ。向こうも嫌いらしい。大体女なんか何で好きにならないといけないのか。嫌いでいいじゃないか。文学に生きよう。文学さえあれば人に嫌われようとどうしようと関係ない。文学は生きることそのものだ。強くなる。
 嫌われたらいいじゃないか。私も人間大嫌いだし、世の中本当に嫌になった。本当に嫌になってしまったんだ。誰も彼も嫌いだ。だけどだからと言って生きる価値がないとは全く思わない。私には文学がある。紫式部が寡婦になったとき生きる価値がないと思っただろうか。そうではない。人はどんな境遇でも生きる価値がある。自明である。
 本当に長年生きてきたが、これほど人が世の中が嫌になったことはない。認知療法を二十回くらいやらないといけない。私も人間嫌いだし、人も私が嫌いだ。全然矛盾がないじゃないか。会社でも好きになれないからそういう態度を取る。嫌いだから仕事をしないなんて言ってない。体本位で考えるならば、自然にうまく行く。
 人に嫌われてもいいじゃないか。嫌われたいわけではないが、大嫌いなのだから嫌われても仕方がない。女の子を見ていると可愛いこともあるが、大人の女は可愛くない。あのコンパニオンみたいな女には辟易した。女の皮をかぶったおっさんだ。人に親切にされても全くなんとも思わなくなった。そこが普通じゃない。感謝に気持ちが大事だ。



2006年01月08日(日)

 体本位で行こう。今朝は早朝覚醒だ。いらいらしている。この間何か言われたことが影響している。そんなことは普通にあることだ。でもストレスに感じていることは確かだ。いつもそうだ。何も矛盾に感じていなくても癇に障ることは確かだ。認知療法で一度やってみたら良い。体本位でいるからとことん悪化しない安心感がある。パニックにならない。人に意地悪されようが動じない。ストレスでもなんでもない。認知療法が役立っている。あのい先生自体が良かったのだと思う。最初の印象は干からびた理屈っぽい理論で食えなかったが、あの人の生きた説明でとても良くわかった。体でわかったのだ。あれから色んな結び目がほどけてきた。とても不思議だ。体本位で意識しているとそういう認知の歪みが面白いほど良くわかる。
 感謝の気持ちが大事だ。感謝の気持ちは実感されないことがある。今正直常には意識されない。でも憐れみや同情はある。思いやりもある。感謝はその先にある。心が弾力性を失っているのでうまく感じられないのだ。今物を買うときでさえ店員とぎすぎすする。なぜだろう。沖縄のタクシーの運転手ともめたとき。z氏とギクシャクしたとき。hともめたとき。あいつはチンピラだ。だがそれがもめる原因ではなさそうだ。嫌味な感じ。それは私の側にあることは間違いない。相手が誰であれ起こることだからだ。あのキチガイババアはその代表例だ。そして今ヤンキーがやっている。外人にもやられた。eg以来これが大きな問題になっている。処方箋は体本位と言う意識に変えていくこと。これは順調に行っている。目に見えて効果があるところを見ると、本質的な問題なのだろう。もうひとつは小説に打ち込んで別世界を持ち、ストレスを解放することだ。プライドを取り戻すほとんど唯一の道だ。金でも権力でもない第三の道。私にはこれしか残されていない。源氏物語を読んでいるときは王侯貴族になったような気分だ。谷崎も川端も寂聴も同じ気持ちだったに違いない。小説も体本位を思い出させてくれる。小説は読み飛ばしたり、誰かに変わって読んでもらうなどありえないからだ。あらすじで読む名作とか全く無意味だ。無意味なことをやる現代人は相当疲れている。
 それとはっきり言うことが大事じゃないか。相手が店員の場合、こちらの要求をはっきり伝える。急いでいるので早くしてくれとか。でもそれが本当の原因ではないので店員に言ってもだめかも。でもコミュニケーションとはそういうことだ。あのキチガイババアにも散々言ったから言わなくなった。言わずにわかってもらおうなんておかしい。切れたらいいのだ。対立するなら対立したら言いのだ。対立を恐れてはいけない。ゲームとかラケット感情とかいうことになるのだろう。一度交流分析を読んでみるといい。
 昨日は4時過ぎに目が覚めて日記を書いたが、その後少し眠れたようだ。今はすっかり快調になった。とことん悪くなると言うことがない。安心感がある。自分が正しいと思ったら一度言ってみることだ。アサーティブに。その過程でやっぱり自分がおかしいと思うかもしれないし、自分が正しいと確信するかもしれない。控えめかと思うと横柄で人格のバランスが取れていない。感謝の気持ちがあればその辺のことも間違ったりしない。自分が利益を受けていながら、責任は負わないと言うような間違いはしなくなるだろう。
 さあこれから鞆の浦に行ってくる。気分が見違えるくらい良くなった。全てうまく行く。自分が気分が良くなれば嫌味なこともなくなるだろう。控えめな自分と横柄な自分がバランスが取れない。でも調子が良い。最高に調子が良い。旅行は楽しい。



2006年01月07日(土) 感謝

 感謝の気持ちが大事だ。生かされてあると言う感謝。他人への思いやり、憐れみが必要だ。体本位と言うこと。これが大事だ。
 やる気が出てきた。体本位が大事だ。我ながらおかしいと思う。今朝気付いた。小説の成果だ。何か全てうまく行く気がしてきた。男とも女ともうまくやっていけそうだ。これから景気は回復する。株も上がる。株を買おう。預金で寝かせておく場合じゃない。
 住吉大社に行ってきた。人はそこそこいた。お参りをして、魔よけの鈴を買って、御神籤を引いた。大吉でめちゃくちゃ気分が良かった。これから毎年引こうか。それからミナミに出て、富岡多恵子とリービ英雄の文庫を買った。岩波の新古典文学大系の源氏物語を見た。思ったより良かった。あれなら読めるかもしれない。積読になる可能性もないではないが。今読んでいる寂聴の奴を読み終わったら本格的に取り掛かろうかと思っている。現代語訳をすっ飛ばしていきなり原典とは。まさに武勇伝。
 嫌味な奴が多くていらいらする。多分私がそんな態度をするのだろう。真面目に相手をするのが嫌になる。いっぺん切れてやろうかなと思う。
 人が嫌いになる。でもいいことだ。小説をやっているとそんなことはどうでも良くなる。
 明日は鞆の浦に行ってくる。行った方がいいのかどうかわからないがずっと家にいたので小旅行もいいだろう。温泉は断られたので。意外に金がかかる。でもきっと楽しいだろう。湯平温泉はまた今度行こう。これも金がかかる。温泉とは散財に他ならない。



2006年01月06日(金) 三連休

 明日から三連休。嫌なこともあったが今日は大過なく過ごせた。体本位で生きているから調子が良い。頭なんか使う必要はない。体本位で行けば良い。
 瀬戸内のすらすら読める源氏物語を買った。日本最大の小説家を読もう。体本位と唱えるだけでどんな心理療法より効果がある。体本位で生きていると感謝の気持ちが湧いてくる。嫌なものは嫌と言える。思いやり、哀れみの気持ちが湧いてくる。
 小説は少し進んだ。楽しい。もう一山だ。体本位で行こう。小説も。観念的なものは面白くない。というか小説ではない。小説は体で書くものだ。体から出て体が書くものだ。



2006年01月05日(木) 初出勤

 最近、レジ係まで馬鹿にされる。私は何もしていないのに何で馬鹿にされないといけないのか。図書館の窓口とか、クリーニング屋とか相性が悪い。気にすまい。心の読みすぎだろう。体本位で行けばそうはならないはずだ。掲示板見ていると変な奴ばっかりで気分が悪くなる。あんなのが平気になったらおかしい。おかしいものはおかしい。今日も会社では変な女が絡んできた。絶対に相手にしない。憐れみ、思いやり、感謝の気持ちがあれば誰にも腹が立たない。自分を侮辱する奴も自分が侮辱されていると思うからそうするのだろう。確かに私は知らぬ間に人を馬鹿にしている。
 体本位で行けばそういうことにも気付く。以前はそんなことにも気付かなかった。気付いても抑圧していた。体の言うことが正しい。体の言うことを聞いていれば間違いない。脳で考えようとするとたちまち暴走する。私の人生の数々の失敗は全部脳の暴走だ。
 私は心にもないことを言う。本心ではないのに人を傷つけるようなことを言う。でも言われた方は本心と区別がつかないから傷つく。体本位で行けばそうはならない。感謝や思いやりが働くからそうはならない。体本位だ。この正月は良かった。
 体本位で行こう。昨日眠れたので少しは調子が良い。体本位で考えているのでうまく行くのだ。心は行き詰っているようだが、体は行き詰ってなどいない。どんなときでも余裕がある。イラついたりあわてたりなど決してしない。



2006年01月04日(水)

 早朝覚醒してしまった。やや調子悪し。でも範囲内だな。昨日は飲みすぎた。ワイン一本空けてしまった。感謝の気持ちと哀れみの気持ちが大事だ。感謝は無理でも憐れみなら簡単だ。それと体本位であること。脳優位でいかないこと。最近暴力的な扱いを受けることが多い。これっておかしいかも。私は変に見られるが暴力は止めてほしい。何で暴力振るわれないといけないのか。道を歩いている奴らは人を人間とは思っていない。クリーニング屋の奴も人を人間とは思っていない。レジ係の奴も私が40過ぎて独身だからか。彼女いないからか差別じゃないのか。感謝と憐れみが大事だ。でも差別されたら戦わないといけない。アサーティブに立ち上がらないといけない。あのババが腹が立つのは明らかに差別しているからだ。差別ではなく憐れみが大事だ。さらには感謝が必要だろう。憐れみが自分と関係あるなら感謝となる。あまり違いはないように思われる。
 明らかに調子が悪い。今朝幻覚らしきものが見えた。そんな大げさなものではないが目をつぶっていると変な模様が浮かんで色んなものに見えたりして恐くなってあわてて目を開けた。前にも一度会った。脳が興奮しすぎている。勝手に暴走している。今日も寝ていられなくて7時から起きて選択している。脳が興奮しすぎるのはよくない癖だ。今年からはアサーティブに行こう。傷つけられたら怒ろう。ちゃんと抗議しよう。なぜ優しくしてくれないなどと思うより抗議しよう。止めさせよう。私は北原に言って止めさせた。完全に気が狂っている。私が差別しているとか勝手に思い込んで暴走している。あの馬鹿女も新年になっても同じことをするなら必ず北原に言って止めさせる。そういうシステムになっている。課長や他の奴に言っても言ってくれなかったことを北原がなぜ必ず言ってくれるのか良くわかった。理解力が素晴らしいからだ。私がどんな状況に置かれているかについての理解力が素晴らしい。いじめられて抗議する力もないということに気付いたのだ。それを他の連中は全く気付かない。重要なことだと思わない。信じられない。
 金で快楽を買うようなことをすると後できっとこんな精神状態になる。脳が興奮しすぎる。暴走を始める。私は至って金の要らない人間なのだ。でも昨日のしゃぶしゃぶは信じられないほどうまかった。年末年始のご馳走の中でベストだった。私は暴力を受けやすい。集団の暴力を受けやすい。差別や暴力のターゲットになりやすい。この会社に入ってからもずっとそうだ。その前からも解雇されたり、いじめられたり、社会で適応できたことはほとんどない。b校でさえもいじめにあった。暴力に弱い。暴力を誘発しやすい。あのツッキーも暴力的な人間だ。鍼灸院でも暴力を振るわれた。散髪屋でも女から暴力を振るわれた。マゾヒズムのせいだろうか。それもあるかもしれない。でもそれから決別して自分で暴力を排除する。誘発しないようにする。私にとっては人間は暴力を振るう存在だ。犬でも子供でも人間的な存在は暴力を振るう。私は暴力に弱い。自分を守れないのだ。人はなぜ家族を持つか。差別や暴力から身を守るためだ。それが私にはできないのだ。世界が暴力的であるという事実を受け入れられないのだ。認めたくないのだ。世界は暴力的であってはならないというのが私のibだ。世界は暴力的であってならないなどということはない。そう主張することと現実がそうかということは別だ。世界が暴力的であることを受け入れよう。法律を勉強するということで私は既に十分すぎるほど受け入れている。掲示板でも暴力を振るわれた。何度も。
 何で学習しないのだ。人は暴力を振るうということを。今日はさえている。というより脳化が始まっている。こういうときこそ体に戻らないと、体本位で行かないと危ない。女は暴力を受け入れている。そのように私は生きるべきだ。非暴力を願う。人間の営みは非暴力との戦いだ。法律や道徳は暴力を誘発しないための仕組みだ。私はそれをしばしば破ってしまう。それで暴力が誘発される。hやkの暴力的体質が嫌いで逃げていると余計暴力を振るってくる。ルールを守って注意深く暴力を避けることだ。会社でも挨拶を強要する奴がいる。暴力主義者だ。体育会系の。体育会系が嫌いな理由は暴力を自明の前提としているところだ。あのサークルでも合わない理由はそこだ。暴力を受け入れる必要なんかないことに気付いた。うまくコントロールして一生暴力と関係なく過ごすことができる。
 体本位で行こう。今日は疲れている。&壊れているのでこういうときこそ慎重に体本位で行こう。感謝の気持ちで行こう。
 青木家の大家族、皆さん見ました?あざみが妊娠しちゃったんです。かわいそうなあざみ。どうしてそういう不幸を自ら背負い込んじゃうことをするのだろう。母親に置き去りにされただけでも不幸なのに、妊娠してしまうなんて。相手は若くて育てられないと逃げてしまった。勝手すぎる。あざみはお父さんと結婚する道を選んだのか、自ら。逃げ出したい自分を納得させるために子供を作ったのか。わからない。偶発的な出来事だったのか。無意識のうちに選んだシナリオなのか。あざみは父と弟妹たちを愛しすぎたんだと思う。かわいそうな彼らをおいて逃げることはできない。女としての幸せを棒にふってしまうほど彼らを愛しすぎたのだ。自分の女としての幸せ、青春を謳歌したいが彼らを見ているとできない。だから彼女ができる唯一の選択だったのだろう。父もそうやって甘えてしまったのだ。今あざみに離れられたら一家は崩壊する。だからあざみが嫁ぐという選択肢は初めからなかった。そういうことなんだと思う。父もまたあざみを愛しすぎた。ヤンキーだから子供作るのは早い。それは仕方がない。だからこういう形が唯一可能な形だったのだ。生まれた子を抱くあざみの幸せそうなマリア様のような微笑を見ているとこの子はこれが一番幸せだったのだと思った。あざみが間違った選択をするわけがない。彼女は望みのものを手に入れたのだ。最も望む形で。父や弟妹から離れることなく自分の子も手に入れたのだ。お互い思いやる気持ちはすごい。彼らは私よりはるかに幸せそうだ。私も感謝と憐れみと思いやりで行こう。これは全部同じ心から出ている。他人を思いやり尊重する気持ちだ。
 でも彼女は過酷な人生を選んだ。自分が家族のために犠牲になる道を選んだ。自分の幸せより家族の幸せを選んだ。それを彼女自身の幸せとする道を選んだ。感動的だ。でも赤ちゃんを抱いている姿は十分すぎるほど幸せそうだ。女の幸せより母となる幸せを選んだのだ。それは半ば以上意識的なことだったと気付く。それは悪ではない。権利だ。犠牲となることと引き換えに彼女自身の幸せを彼女は正当にも要求し、受け入れられたのだ。少しも異様な行動ではない。誰も奴隷であることを甘受する義務はない。
 物語でしか私は世界を理解できない。逆に言えば物語さえあれば世界を理解できる。皆そうだ。物語を共有できる。それにしてもこの父親は仏のように優しい。でもあざみにも同じように仏になれというのは酷だ。あざみの精一杯の権利主張が妊娠という選択肢だった。だから父は裏切られたと傷つき、弟妹たちも動揺した。自分たちを捨てて自分の幸せを追求するのかと。でもそれはしないと知って彼らは安心した。あざみの選択を受け入れた。父も一応先方に話し合いに行ったがそれは形ばかりのもので、本当はあざみを手放す気など毛頭ない。今あざみに去られては困る。あざみもその気はない。あれが最善の選択だったのだ。
 あざみが逃げた母に子供を見せるシーンは感動的だった。あざみが自分のこだわりを離れて一人の娘に戻って笑顔を取り戻す様は感動的だった。あの逃げた母も鬼ではない。人間なのだ。人間だから過ちを犯す。娘はそれを許した。許すことを知った娘はまた一回り成長した。また新たな展開があったようだ。内容は三月放送までわからないが大体想像がつく。父も髪の毛が短くなり、白いものが目立った。父はあざみに家を出て独り立ちすることを勧めたんじゃないだろうか。あざみは人生を家族のために犠牲にするつもりだったが、父はあまりにかわいそうだと思ったのだろう。だってあれでは本当に父と結婚したのと同じことだから。女の幸せはないからね。母の幸せはあっても。それはあまりにひどいことだと父は気付いたんじゃなかろうか。その姿はやっぱり異様で長続きしない。子供たちにも良くない。やっぱり父が新しい嫁をもらうのが一番良いんじゃないだろうか。
 文学の肥沃な手付かずの大地が目の前に広がっている。私はそこに行って耕そうかと思っている。大変な仕事だけど。
 朝調子が悪かったけどすっかり立ち直った。あざみと家族の物語が私を癒した。気付きがまた押し寄せてきた。こういうときに混乱してはいけない。せっかくの気付きが台無しだ。今年はルールを守る年にしよう。仕事をきちんとして信頼を取り戻そう。道徳心ばかりか順法精神さえなくしている。これではいけない。心は立ち直った。それならルールは守れるだろう。ルールを守っていこう。ルール違反はいけない。危険すぎる。今まで職場を解雇された理由はルール違反だ。大変危険だ。鬼になって道理を忘れたのか。人の心、思いやり、感謝の気持ちを忘れずに生きよう。商人でもそういうものを失えば商売は続けられない。ルールを守ることは感謝の気持ちの表現だ。大阪人は単にルールを守らない人ではない。商人のルールはしっかり守っている。だから金儲けができるのだ。憐れみという言葉はきついので思いやりというようにしよう。でもたとえばホームレスを見たときの気持ちは憐れみだけどなあ。自分と関係することがはっきりしたときに思いやりに変わるのだろう。
 毎日感謝の気持ちを形に表すこと。それが勤労だろう。私は中学くらいから鬼になった。それ以来餓鬼道をひた走っている。もう立ち直ろう。いい加減に。世の中は甘いことと苦いこととちょうど半々でできている。
 b校は大きな気付きを与えてくれた。感謝の気持ちを忘れない。自分にも感謝だ。両親にも感謝。小説から離れて長かった私はとんでもない駄作を書いていい気になっていた。でもみるみる気付いて良い作品を描いた。皆に感謝、自分にも感謝。褒めてあげよう。
 感謝の気持ちさえ忘れなければきっと大丈夫だろう。大きな気付きが押し寄せている。これをうまく勤労に生かして行こう。私はもう大丈夫なので人と対立することはない。
 朝からすごく脳が活性化している。こういうときこそ体本位で行かなきゃ。
 自分を語るのでなしに、外界に向かおう。仕事に向かおう。文学も芸術も内面でなく外界である。描かれた一編の小説、映画は誰の目にも触れる客体に他ならない。それに触れ、それを生み出す仕事は外界に踏み出す有効な道だ。
 小泉はいけない。靖国で頑なな態度を取る。人間として根本的な欠陥のある人物だというのは明らかだ。それは外国人は怒るだろう。アメリカ人のために日本の利益を危険に曝している。早く降りてほしい。
 昼からどうしよう。昨日みたいに昼寝するか。伏見稲荷に行って帰りに三丁目の夕日でも見るか。どちらでもよい。疲れているけど眠れないので出かけるか。どちらでもいいのだけれど。多くの人に支えられていると感じる。家族がいない私にもわかる。痛いほどわかる。今晩は薬を飲んでゆっくり寝よう。自分を痛めつけてはいけない。年末のカニと白熊に始まり、多くの気付きが押し寄せ、なおかつ自分をコントロールできて混乱しなかった自分は素晴らしい。自分に感謝。他人にも感謝。
 伏見稲荷に行ってきた。いいこともあったし嫌なこともあった。それが世の中だ。三丁目の夕日は梅田で見たら満席だったので即諦めて帰った。寒かったし、遅かったし、それが良かった。dvdが出たら見たら良い。稲荷では稲荷山に上ったのが楽しかった。すごく参加している感じがした。宗教行事に。これから毎年恒例にしようかな。突然思ったが、あざみが六ヶ月になるまで妊娠を打ち明けなかったのは、赤ちゃんの命を守るためじゃないだろうか。母の頭には神が宿るという。すごい知恵が働いたのだ。もし打ち明けて相手の親とか父親に堕ろせといわれたら拒めないだろう。だから打ち明けなかったのだ。何て可愛そうな娘。
 本殿でお参りして御神籤を引いてから人の流れについて、鳥居をくぐっているうちに山を登るコースに入っていた。体本位の今年の私を象徴するようだ。とてもいいことだ。頭で考えて決めずに体が自然に決める。それが一番正しい。すごく良い予兆だ。頂上で温かいコーヒーを買ったが店員がとても良かった。信心深いことはいいことだ。良い一日だった。仕事への体ならしになるし、毎年恒例にしよう。帰りにどうにも腹が減ったのでワッフルを駅構内で買って食べた。少しこっぱずかしかったがおいしかった。これが体本位ということだ。既に実行できている。物事がバランスよくうまく安全に進むように思う。去年に比べて成長した。悪いことはキチガイみたいな爺に電車の中でカレー臭い屁をひっかけられたことだ。私が臭くて迷惑をかけているから報復のつもりだろうか。私だって好きで臭いわけではない。でもいつの間にか人に迷惑をかけて平気になっているかもしれない。デオドラントも全然しないし。身の危険を感じることがある。帰りの電車でもキチガイみたいなおっさんに偉そうにされた。本当におっさんは嫌だ。見た目といい、態度といい、最低だ。威張るな。
 梅田の紀伊國屋で枕草子リミックスを探そうとしたが人が多すぎて気分が悪くなったので、帰ることにした。体本位の適切な判断だった。何でも体本位で体に聞けばたちどころに正解がわかるのだ。体臭の問題でも心の問題だ。私が人に迷惑をかけていることを申し訳なく思い、人がおとなしく我慢してくれていることを感謝し、苦しみを思いやる心になれば腹は立たない。侮辱されたといって腹を立てることもなくなる。まず私が迷惑をかけていることをわきまえることだ。迷惑をかけて当然という態度は自ずから伝わって人を怒らせるだろう。新幹線の中でアメリカ人に大声で罵り続けられたこともある。つい最近もあった。外人女どもに罵られ続けた。絶対二度と行かない。外人は日本人を馬鹿にしているから平気で罵る。身の危険を感じる。絶対に近づかない。サークルももう行きたくない。変わり者でも友達いなくてもいいじゃないか。自分では全てわかっているんだし。人に迷惑はかけていない。
 頭を通さずに体で考えることが正しい。頭で考えてはいけない。今年は仕事に打ち込もう。仕事ができるようになろう。感謝、思いやり、憐れみの気持ちが大事だ。喧嘩をしないこと。これを今年の誓いにしよう。喧嘩は一人ではできない。
 お互い思いやりが大事じゃなかろうか。私だって悪気があるわけじゃない。でも迷惑をかけていることは明らかだ。迷惑をかけているのに当然という態度が癇に障るのか。でも二回も手術している。もう無理だ。後はデオドラントするくらいだ。酒を飲んだらひどくなるので人ごみに近づかないとか。小泉も靖国で迷惑をかけているのに当然という顔で強弁を繰り返す。意味不明だ。心の問題だ。思いやりの問題だ。アメリカはあれだけ思いやって延長しなくていいのに自衛隊延長したり、牛肉安全かどうかわからないのに解禁したり、一体どこの国なんだ。薄ら寒いのを通り越して心底恐くなってくる。早く正気にもどれ日本人。
 人に迷惑をかけない。これを今年の抱負としよう。迷惑をかけないのは最低限当たり前だろう。そして社会に貢献できる道を探る。感謝の気持ちで一日を過ごす。体本位で生きる。これできっとうまく行く。
 邪悪なことは考えないようにしよう。人をいじめたり、悪いことをしたり、迷惑をかけることが好きなはずはない。でもいつの間にか、人に嫌がられる自分が快感になっている。倒錯のきわみだ。人に好かれた方がいいだろう。嫌われても構わないなんて思っていないだろう。思ってもいないことをするなよ。体本位で生きている限りそうはならないはずだ。私のせいでhやkは苦しんできたはずだ。それは良くないだろう。人が苦しむのを見て本当に嬉しいのか。そんなはずはない。人に感謝しよう。優しくしよう。思いやり、憐れみを持とう。当たり前のことを何で言わなきゃいけないのだ。アザミを見習え。女の方が馬鹿といえるのか。お前の方がよっぽど馬鹿じゃないか。体に戻れ。体本位で感謝の気持ちで生きていれば間違いはない。



2006年01月03日(火)

 変な時間に目が覚めてしまった。こういうこともあるだろう。引っ越したいと思うときがある。高層階なので精神的に持たない。ストレスが知らない間にかかっている。どこか落ち着ける公団でも探そう。去年はマンションのことで混乱したっけ。今では良い思い出だ。生きることの重みをもっと自覚しよう。命を大事にしよう。親に感謝しよう。自分の命に感謝しよう。生きててくれてありがとうと自分の体に、命に言おう。兄とはうまく行かないと思う。ずっと喧嘩ばかりしてきた。今更仲良くしろといわれても無理だ。私にはわだかまりはないのだが。
 耳鳴りがする。苦しい。でも生きている。皮肉や嫌味は止めよう。素直に感謝しつつ生きよう。感謝とは単にへりくだることや卑屈になることではない。当然のことを知ることだ。今年は体本位で生きていこう。そう考えると既に変わってきた気がする。z氏との関係も改善しよう。
 この短い間にも自分が大いに変化していく。年末の絶好調と絶不調。持ち直しと現在の小康状態。一人で精神の健康を維持することは簡単ではない。さりとて人中にいると苦しい。厄介なものだ。感謝の気持ちが大事だ。体本意である限り大きな間違いはしない。脳化することは私には大きなストレスだ。体本位で行こう。そうすれば大きなストレスから解放される。
 昨日は結構寝られた。夜二時に目が覚めたが、それから朝までぐっすり眠れた。今このときに生きる。これが大事だ。この日記も現実逃避であってはならない。身の回りのことを書いていこうかと思う。読者を想定した作家のエッセーみたいなもの。
 今年から引きこもりは止めて外に向かう。勇気を出して外に向かう。かなり辛いだろう。でも得るものは多いし、それだけが生きる道だ。引きこもりは死に通じる。この日記は引きこもりそのものだ。だから外界のことを書いていこう。それをきっかけにしたい。
 中に向かわずに外に向かうのだ。芸術とは外に向かうことに他ならない。社会的行為だ。消耗するばかりでなくゲットしないとだめなんだ。あいつらどんだけがめついか。私も残酷な部分と優しい部分を使い分けないといけない。飴と鞭だ。私も天使ではなく生身の人間だ。足を踏まれりゃ痛いから怒る。
 今日は伏見稲荷でも行ってみようか。デパートなんかうろうろするよりよっぱど良い。今年は良い正月だった。あっという間だった。精神的不調にもほとんどならず、ずっと気分が良かった。
 楽しいな。良い正月だった。外に向かうことはおたくでもいいのだ。ローカル線でも温泉でも何でも良い。小説でももちろん良い。
 女に全く興味がなくなった。世界が違って見える。女に興味がない世界とそうでない世界。可愛く見せようとしているのが余計嫌だ。それで損しているとは思わない。命を永らえるのは小説しかない。
 感謝が大事だ。また憐れみもほぼ同じだ。感謝ができなければ憐れみが良い。誰に対しても感謝と慈悲の心が大事だ。
 昼から四時まで寝てしまった。伏見にはいけなかった。でも気持ちよかった。体が求めていたんだ。こちらの方がよかった。体本位の現われだ。今年は小説に打ち込もう。誰も傷つけぬ。元手要らずだ。女も要らない。世界が手に入る。白熊ピースに始まった。この年末年始、無事終わろうとしている。これまでにない実りを残して。
 思ったよりいらいらしている。いっぱいいっぱいなんだろう。スーパーに一人で行くと変な目で見られる。そんなことは自由だろう。レジのババアが割り箸をかごに放り込んだ。失礼極まりない。札幌のしゃぶしゃぶ屋の馬鹿女以来だ。感謝と哀れみはもちろん必要だが敵意むき出しの相手にはどうしたらいいんだ。日本人はすさんでいる。私なんかには親切にしたくないんだろう。全く親切になんかされたことがない。子供も変な目で見る。可愛いと思わない。全く。今までもそういう目で見られていたんだ。私は気付かない振りをしていたんだ。それだったらそういう態度で接するべきだ。ほとんど暴力寸前みたいな険悪なムード。何で暴力を振るわれないといけないのか。ヨドバシカメラで買い物したときもすごいひどい扱いを受けた。全くわからない。金を払っているのに何でそんな扱いを受けないといけないのか。
 この間も駅でおかしな男が絡んで来そうになった。私はその場を立ち去った。何もしていないのに何でそんな目に遭わないといけないのか。全くわからない。サークルに行ったときもおかしなおっさんにいじめられた。何が温厚だ。サディストじゃないか。
 やっぱり周囲に対しては武装した方がいいのか。武装ではなく対処した方がいいだろう。外交の世界はものすごい儀礼で固められていて、少しでも間違うと問題になる。それだけ神経を使うということだ。緊張関係があるということだ。私はどこに行っても怪しまれ、疎まれ、暴力を振るわれそうになる。おかしいじゃないか。多分、武装云々より小説に夢中になるとかそういう道が早道だろう。人と接しない方がいいと思う。多分今の状態で。文校でなじむのにも長いことかかった。今でもなじんでいるかわからない。あんな荒くれた奴ら。ババアは気持ち悪いし、武装しないで近づくのは自殺行為だ。
 棘棘した気持ちでは楽しむことさえあたわない。せっかく高い肉を買っても一人でしゃぶしゃぶなんてつまらない。かにを一人で食ったときもまったくつまらなかった。女が嫌いになってしまった。優しくできない。すると女の方でもかぎつけて邪険にしてくる。ブスとかババアとか関係なく嫌いだ。ちゃらちゃらした女は女で嫌いだ。憐れみと感謝だろう。全然関係なくても想像力の問題だ。
 楽しい。人と違ったことをするのが好きなのだ。それなのに人に変な目で見られたくらいでひるんでどうする。今からしゃぶしゃぶを食う。楽しからずや。生きているうちに楽しもう。
 しゃぶしゃぶうまかった。ババアに負けずに買ってよかった。年に一回くらいしかこんなことはしない。結構なことだ。但馬和牛なんて食わない。本当にうまかった。感謝と憐れみさえあれば自分のやりたいことをやっても良いんではないか。
 しゃぶしゃぶは感動した。味でこれだけ感動したのは久しぶりだ。ちょっとした金でこんな良い気持ちになるなんて。
 とても良い正月だった。薬が全く必要ない。酒がうまかった。食い物がうまかった。これから全然薬は必要ない。楽しかった。本当に楽しかった。だれにも偉そうにされず本当に楽しかった。外に向かうというのは大事なことだ。
 時を越えて君を愛せるか。小田は良い。私には愛する人はいない。だから余計に楽しい。今日は昼良く寝たので酒が良く飲める。疲れた。でも良い正月だった。とても良い正月だった。こんな良い正月が過ごせるということは良い一年が過ごせるということに他ならない。
 あのごみみたいな皆さんのことで悩んでいるなんて嘘つくのはやめましょう。悩んでなんかいないじゃないですか。
 良い正月だった。こんな良い正月は初めてだ。何かが変わったんだ。薬なしに酒びたりで気持ちよく過ごせたのは驚異でした。
 ブスとかババア大好きだけどなあ。神秘的だもんなあ。ワイン飲んでおいしかった。昼間寝たのでアルコール大丈夫だ。



2006年01月02日(月) 二日目 

 もう二日だ。信じられないくらい早いなあ。良い休みだった。短い間に大事な気付きがたくさん得られた。嬉しいなあ。体本位で行こうというのは良い気付きだった。外に向かおう。
 今日はちょっと昨日よりは調子が悪い。好調を維持するのは私にとっては大変だ。脳化すると鬼になる。バブルのときは日本人全て男も女も鬼になっていた。大きな扇を持って踊り狂う女ども。またあんな光景が始まるのか。世を避けて田舎に移り住みたい。今、nhkで温泉の番組をやっている。とても良い。nhkはいっぱい良い番組をやる。いいところがいっぱいあるのに余計な事を考えるから不祥事を起こす。本業に打ち込んで地道に良い番組を作っていればいいのに驕った考えをするから間違う。脳化の典型的な悪い例だ。脳化にも良い脳化と悪い脳化とあるかもしれない。ニュートンとかアインシュタインのような脳化だったら良いかもしれない。でもそれを利用して核兵器を作ってしまったり、人類の上に落とすなんて愚行に走るのは悪い脳化だ。アメリカ人も良い面と悪い面があるのは他の全ての民族と同じだ。礼儀正しく勤勉な日本人がアジアで大変な罪を犯した。良い脳化と悪い脳化の典型例だ。
 かしこぶるのはやめよう。賢い人は大勢いるとても勝ち目はない。ただここまではできるというところは見せておかないとなめられる。何せワニとトラと同じ檻に入れられているのだ。背中を見せると食われる。
 すごくこの正月は奇跡的なくらい多くの気付きがやってきた。やっぱり私は神に見放されてはいない。こうして正月が迎えられるのもその証だ。多くの人に支えられている。感謝感謝。感謝は自然な感情だ。自然に沸き起こってくる。あいつらとの付き合いも簡単だ。感謝すればいいのだ。私は今、というよりこれまでずっと仕事ができない。重責を背負えない。その間グループを支えてくれているのはあいつらだ。そんなことは誰の目にも明らかじゃないか。感謝の念があればhにもkにも腹が立つわけがない。中学の教師にも怒ったりしてすいません。感謝している。間違いに気付かせてくれた。簡単だ。感謝すれば良い。脳本位から体本位に立ち返ればすぐにわかることだ。暴走を止めるのは体だ。眠り何とかがフォーカシングに行くのもわかる。彼女に一番欠けているのは体への気付きだ。自己への配慮だ。自己への配慮は他者への配慮だ。人間は過ちを犯しやすい。自分を見ていればわかるだろう。誰でもそうだ。だが、間違いに気付いて修正する謙虚さが必要だ。間違いを間違いで上塗りしても仕方ない。
 体本位だ。これがキーワードだ。私の過ちや暴走を止めてくれるのはこれしかない。体本位で行く限り大きな過ちは犯さない。むしろ社会に貢献できる。外から見てもわかりやすいので誰かに注意してもらえる。誰かに注意してもらえるというのはありがたい。この年になって若い奴に注意してもらえるなんて最高に幸せじゃないのか。感謝が必要だ。hやkにも感謝がもっと必要だ。涙が出るほどありがたい。両親にも感謝だ。私を生かしてくれているこの世にも感謝だ。私の代わりに子供を育ててもらっている家族の皆さんにも感謝だ。誰にも感謝だ。チップは貧者への感謝だ。ヨーロッパ人でも知っている。感謝はただでできるだろう。hやkと一緒に仕事できるとはまだ思われないけど感謝はただでできる。態度はただだといっている。態度が悪くなってヤンキーと一緒みたいになっている。だからヤンキーに絡まれる。私はヤンキーではない。もう既にあいつらと一緒に仕事をしている。これは自分から望んだことだ。だって排除されるのは嫌だから。自分にも感謝を忘れないで。自分への感謝を忘れるから病気になる。今日は起きたときこそ気分がさえなかったが、実にさえてる。気分は良ければいいほどいいとは限らないのかな。だって世の中は甘いことと苦いことがちょうど半々になっているから。中ぐらいが一番。めでたさも中ぐらいなり。おらが春。
 薬を飲まずにこうして平静でいられるのはすごいことだ。良い状態だ。気付きに恵まれた。感謝だ。全てに感謝。自分にも感謝。この世は大きな物語だ。読みつくされることは決してない。
 感謝は最も高価な対価だ。ありがとうの一言で全て贖われる。全て報われる。恐いのは自分が感謝していないからだ。自分の心の貧しさを投影しているのだ。私をいじめるヤンキーも私のファンなのだ。感謝の気持ちで返しなさい。
 福袋のニュースを見ると和む。やっぱり女は馬鹿だという安心感。人間は馬鹿に見えるときが一番良い。表情が良い。
 こじきに必要なものは何か。感謝だ。感謝で食いっぱぐれがない。三日やったら止められない。感謝は最も高価な対価だという所以だ。
 感謝の気持ちは心を豊かにしてくれる。心だけじゃなく人間関係も豊かにする。人間社会のネットワークは感謝の念で結ばれる。馬鹿になることが大事だ。あの小説を書いているとき私は馬鹿になりきって書いた。賢そうに見えるかなとか一切考えなかった。小難しい小説は無理だ。でもそんな小説は評価されない。
 今年は馬鹿になろう。利口ぶるのは良くない。馬鹿になって初めて知恵が生きてくる。
 感謝は大事だ。ミナミに行ってきた。自転車の本と北陸の温泉本を買ってきた。島尾敏雄の死の棘日記を買った。今買う必要はないんだけれどもいつかは買うだろうということで。酒井順子の枕草子リミックスを買おうと思ったが、本が汚れていたので買う気を失った。今度ウェブで注文しよう。ミナミはおかしかった。人多すぎ。殺気立っていた。ものすごく雰囲気が悪かった。物欲に取り付かれ鬼と化した人々の群れ。醜悪な国になったものだ。松の内は家でゆっくりするか、せいぜい初詣に出かけるくらいだったのが、バーゲンや福袋に命を燃やすようになってしまった。まあ。これも新しい風物詩か。
 楽しかった。良い正月だった。良い気付きがたくさん訪れてパニックにはならず楽しく過ごすことができた。一年を経て大変成長した。
 帰りの電車で女が二人占いの本のページを見ていた。女は思ったよりはるかに馬鹿だ。さすがだと思った。馬鹿だからといってだめだとか死ねとかは全く思わない。馬鹿がいるから賢い人が目立つ。値打ちが出る。引き立つというものだ。馬鹿万歳。
 歌舞伎に興味がある。でも今教育テレビで見たらげんなりする。何でだろう。また元気なときに見よう。歌舞伎を見る理由は衒示ではないか。本当に楽しいからではなくこんなものがわかる俺はすごいだろう見たいな。誇示するみたいな。きっとそうだ。
 生まれ変わる私。今すごく物が良く見えている。やっぱりあっという間に休みは過ぎていった。夢のようだった。楽しかった。良い正月だった。今も夢を見ているようだ。新年からきっとうまく行く。
 紅白の舞台裏面白かった。この世の栄光をつかもうと必死な人々。楽しかった。感謝の気持ちが大事だ。体本位で行こう。楽しい良い正月だった。
 楽しい正月だった。初めてのお使いが面白い。
 疲れた。酔ってきた。日記というのは内面に留まることだ。外界に行かないといけない。
 良い正月だった。薬なしで何とか乗り切ったばかりでなく大きな気付きをした。成長を遂げた。すごくokになった。じぶんもok、せかいもokになった。
 初めてのお使いは面白い。子供は面白い。小説の方は進まない。正月は休みだ。この日記も何を書いているかわからないだろう。わかってもらうように書いていないから。私の人生が人にわかってもらえないから。感謝を大事にしよう。
 楽しい。本当に楽しい。良い正月だった。すごく成長した。何でもわかるし何でもできる。



2006年01月01日(日) 明けましておめでとう

 年が明けた。良い年になるだろう。楽しい。とても楽しい。昨夜の病的な気分とえらい違いだ。サザンの年越しライブを聞いている。いつもはこんなことはしない。外界に向かえば楽になる。内面を弄繰り回すと余計苦しくなる。
 山手のドルフィンは・・・ユーミン聞いてみるかな。年が明けた。割と眠れた。ワニとトラのいる職場で誇りを守り抜いて生き抜いた。とても立派だ。褒めてあげよう。外界に向かえば、いらいらや焦燥は癒される。it社長なんか皆そうだ。文学は内面ではなくまぎれもなく外界に向かう行為だ。だから私にとって大きな力になるのだ。文学は心に刺さった棘をダイヤに変える行為だ。カズミとの痛みと甘さに満ちた時間を十年を経て客観的に書いた。それが評価された。父の死という大きな棘。いつかは私は客体化したい。大きな実りとしたい。
 物語を通じてしか世界を理解できない。逆に物語で世界を理解できるんだ。物語では不十分だと思ったのでそれ以外の世界をみてきた。でも私はいつも物語を通して世界を理解してきた。私以外の人もそうだ。
 外界に向かえば楽になる。内面にこだわれば辛くなる。心を軽くするために外界に行こう。引きこもりが終わるときだ。
 今年は頭優位から体優位にシフトチェンジしよう。賢いといわれる養老とか何とか言う思想家にしても簡単なことしか言ってない。人間は馬鹿だから簡単なことしか理解できないだろう。理解できたようにしか行動できない。そこで一人だけ小難しいこといっても仕方ないだろう。そら病気になるわ。体を通さないで出てくることは100%間違っている。
 少し元気が出てきた。体を通さないセックスとか体を通さない遊びとか仕事とかそれは絶対うまく行かない。生きることが体を通して生きることだからだ。
 おとといくらい白熊のテレビを見て絶好調になった。それから揺れ戻しが来て、絶不調になった。それが大晦日の昨日からそこそこ好調になって無事新年を迎えることができた。やっぱり正月はめでたいな。
 遊び、仕事、休息の三つが必要だ。どれか一つ欠けていてもいけない。今年は仕事しよう。頭だけでやろうとすると鬼になってしまう。あの二人はそうなりかけている。欲望の塊みたいになって。鬼になる。体はすぐに満足するのに、心は欲望に囚われると歯止めを失って、鬼になる。体と心のバランスが大事だ。今年は体優位で行こう。
 体本位でやっていれば間違っても大したことない。間違わないし。脳だけで暴走し始めると大変な間違いをしでかす。体本位で乗り切ろう。
 初詣に行ってきたが、並んでいたので帰ってきた。何で元旦に行列?と思った。日本人てじっとしていられないし、働かずにいられないのね。競争心優位。私は今年も競争と争いを避けよう。争いは一人ではできないし、競争も同じだ。
 こんな日記も脳優位の行いだ。だからほどほどにしたい。ポイントだけでいいのだ。小説だってポイントだけ書いたものの方が評価が高かった。
 今年は外に向かう。内面の混沌にうずくまらない。外に向かえば混乱が解消するきっかけがつかめる。二番目は体優位で行こう。小説も間違いなく体優位の行為だ。外界に向かうことが大事だ。外界に向かうときどうしても体優位でなければ通用しない。体優位で行くとき間違いはない。三番目は仕事をちゃんとする。体優位で行けばできるはずだ。脳優位でいくと周りとバランスが取れなくなる。四番目は人間関係をうまくやることだ。強さが必要だ。ある程度は。小説を書いていると強くなれる。ペンは剣よりも強し。人を手なずけることだ。うまく手なずけること。
 外界に向かえば、必ず欲が出てくるはずだ。世界を所有したい。世界を支配したいという。小説は既にそういう欲望に基づく試みである。
 小説を読まなくなったのも外界に触れることを避けるようになったからじゃないか。新しい経験とか、濃密な人間関係とか嫌になったからじゃないのか。難しい本を読んでいるとき、活字を目で追っているが読んでないときがある。大学のとき法律書を読まされたときそんな癖がついてしまった。小説ではそうは行かない。一言、一句ゆるがせにできない。


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