希望の日記

2006年02月28日(火) 今日

 今日は葉山クラスの見学に行った。やっぱり合わないと思った。根暗なおっさんだ。今日はさすがに疲れていた。加藤さんも妙に思ったかもしれないが仕方がない。今の実力はこんなものだ。



2006年02月27日(月) 今日

 昨日はフッキー氏と痛飲した。疲れていたせいか正直不安な感じがして恐かった。向こうもそういうのを敏感に感じる人らしく、機嫌が悪そうだった。こちらの嫌がることを散々言われた。要注意だ。あの手のメンヘラーは。でもせっかくこちらから誘ったのだから、私ももっと機嫌良く振舞うべきだった。でも中盤から終盤にかけては徐々に調子が出てきてうまく噛み合うようになった。これが今の私の実力であり、勢いというものであろう。彼は高卒でありながら(ひどい差別)知的で世間知に長け、独自の鋭い分析力を持っていた。知識、知恵共に兼ね備えていた。あのくらいの年齢の人であれば当たり前なのかもしれないが、私は及びも付かない。従業員の女の子とも素直にお話ができてよかった。すごい進歩だ。二次会はフッキーさんの公団住宅の近くにある北花田の寿司屋で大阪寿司を食った。うまかった。冷酒もいけた。したたか酔った。自転車でふらつきながら自宅にたどり着いたらバタンキューだった。朝までぐっすり眠れた。久しぶりだ。世間の人はこのくらいのインテンシティーで生きているのだ。私も頑張ろう。というか頑張れると思えるようになった。今やらなくていつやるんだという気持ちになった。こんな気持ちになるのに33年掛かった。中学入学以来、やる気を失っていたからだ。これからの人生は実り多いものになるだろう。長い風雪に耐えた枝が美しい花を咲かせるように。
 dvdを観た。発狂しそうなくらい興奮した。女神と呼ぼう。女王様というのとは違う。あれが私の理想像かもしれない。自分が良ければいいのだ。相手がそれを十分理解してくれるのであるから全く問題ないのだ。変態というのとは違う。趣味嗜好の問題だ。尊重されてしかるべきだと思う。外人が好きとか気持ち悪いと思っていたが、ブロンド好きは世界中にいる。変態でも何でもない。世界の男の憧れなのだ。私もそう思うことを自分に禁じる必要はないのだ。私は快楽を追及することを厳しく自分に禁止してきた。でもそんな奴は古今東西余りいないのだと気付いた。自分の利益と快楽を最大限追求するのは人として当然の権利だ。それを罪深いものと考えたりするから企業と合わなくなってくるのだ。企業だけではなくあらゆる人間集団と限りなくずれていく。そんな必要はないことにやっと気付いた。嬉しいことだ。
 私は本当に良い人で優しく、能力があり、尊重されるべきだ。この会社に入ったときに世話になった人物が完全におかしかった。私は尊重されてしかるべき人間だ。善良でかつ役に立つからだ。卑下したり、自分で自分をいじめたり、人が自分をいじめることを許したり、そんな馬鹿な行為は二度としない。自分を酷使して燃え尽きさせたり、ぼろ雑巾のように扱ったり、危険に晒したり、自暴自棄になったり、そういうことはもう二度としない。
 33年前の出来事と今の私の姿がはっきりと見えてきた。いじめとか孤立によってうつに近い状態になっていた私は、遅刻を繰り返すようになった。それをsosサインなのに鬼のようにいじめた中学教師。それで私は決定的におかしくなった。社会に出てからも同じことを繰り返した。疲れているからできない。やる気が起きない。それを権力者は反抗と捉え、攻撃する。客観的には私が単に間違っていて、怠慢で不届き者で、罰せられるべき悪者で、権力者は正当に権力を行使しているとみなされる。抗議しても虚しい。こうして不調になって初めて少しは理解される。私を本当に理解してくれる人は数少ない。フッキーさんも私のことなど全く理解してなどいない。それも当然のことだが。私はモラハラを誘発する。権力によるいじめ、処罰を誘発する。私は自分の何が悪いのかわからないので、攻撃者を憎む。私と教師の関係、私と母の関係、私と上司の関係、私とおばさんの関係。でも今こうして33年ぶりに回復し、真っ当な道に戻れそうだ。本当に良かった。これを私とおばさんの関係、権力者との関係、世間との関係と捉えるのは誤りだ。33年間間違った試みをしてきた。そのことに漸く気付いた。これからは自分のために生きるのだ。いじめられて自分がリーダーになったことがあったがそれも既に病的だったのだ。望んでもいないことをいじめから逃れたい一心で引き受けてしまい、やがて燃え尽きたのだ。好きでもない重責を引き受ければ誰でもそうなる。私が回復する道は好きなことに打ち込んで生きることだ。ツッキーのように。メンタルが心配ならスポーツをやれば良い。本当にセルに入会したら良いんじゃないか。人生の師匠と考えても一向に間違いではない。私の問題は私と誰か権力者、世間との関係などではない。自分自身の問題だったのだ。それがわかったことは大変な発見だった。
 私がいじめやモラハラ、処罰を誘発するのは私が悪いからでは断じてない。疲れて弱り果てているからだ。弱り果てている人間をいじめるなということだけだ。私が言いたいのは。私がやるべきことはしかし、私が弱っているからいじめることは悪いことだと抗議することではない。私は十分に休養をとり、自分を酷使したり、危険に晒したり、粗末な扱いをしたり、配慮しなかったり、つまり自分を虐待することなく、希望を持って楽しく生きるようにすることだ。そうなるまでに33年掛かったのだ。世間への抗議のために貴重な人生を空費したのだ。楽しむ時間も貢献する時間もなかったのだ。痛ましいことだ。でも気付かずに死んでいったのではないことは本当に喜ばしいことだ。祝福すべきことだ。私の人生全体が報われたといっても過言ではない。人生を価値あるものに変えるのに必要なのはたった一日であるというようなことを曽野綾子が言っていた気がする。
 私は自分自身、過去、現在の私自身の姿をかなりクリアーに把握できるようになった。これなら私がどんな人間でどんな状況にあるかを誰にでも理解してもらうことができる。私は暴力が嫌いだ。暴力で人を思い通りにできると信じている人間を激しく憎む。誰もそんなことを信じてはいない。中学のあの教師、一時期の私自身。父が暴力嫌いだったので、母親がその分暴力的だった。私は混乱したのだろう。私の性的位相が混乱気味なのはそのせいかもしれない。私は暴力でしか母や姉の干渉に対抗できないと感じた。兄はそれをうまくコントロールできる力を持っていた。私は幼く全く無力だったため、その力を身につけることに失敗し、何もかも嫌になって疲弊しきって、感情が鈍磨し、正しい判断ができなくなってしまい、錯乱し、ついには引きこもった。これが私の全てだ。モラハラを誘発し、それに対処する力がない今の私の原型はそのとき構造化され、33年間私を苦しめ続けた。
 今私はいる仏女性学者の言う過敏状態にあるようだ。今に始まったことではなく、33年前からそうだった。自分が迫害されていると思い込んでいる。心を開けない。権力者と良好な関係を保てない。過敏状態にある人間は社会における立場が不安定でつまり、職業上の保障が未来に亘って保障されないから不安定になるという。もうひとつは自分のアイデンティティーを他人の目に自分がどう映るかに依存しているからだという。ナルシスティックなのだ。大変良く思い当たる。ゆっくり健康を回復してから、この構造化されたモラハラを解消する確実な方法を実行しよう。それはごく簡なことのように思えてならない。私一人の気持ちだけで100%確実にできる気がする。私以外のほとんどの人間はそれができているのだ。透明人間になることで恐怖を少なくしようと必死だがそれが全く効果がなく、逆効果でさえあることは明らかだ。どれだけ引きこもろうと、目立たなくさせようと、うつになろうとますますいじめを誘発するだろう。絶対に止むことはないだろう。
 航空会社を退職に追い込まれ、翻訳業に生きる道を見出していた境界例の女性が、非常勤講師として日の当たる道を歩もうとしているが、痛々しいことこの上ない。私自身を見ているようだ。



2006年02月26日(日) モラルハラスメント

 昨日はイルゴイエンヌ女史のモラハラの講演会に行って来た。すごく良くわかった。結局日本では放置されている。じきに日本でも取締りの対象になるだろう。職場の暴力。学校でも暴力があった。いじめという精神的暴力。私は社会の中でどうしても暴力を誘発するらしい。逃げるか戦うかしかないと気付いた。会社で昼休みに寛いでいたとき、あのキチガイが私に暴力を振るおうとした。私は暴力が嫌いだ。家庭でも暴力があった。姉による精神的虐待。言葉の暴力。あいつは頭がおかしかった。応急処置として暴力は有効である。というか唯一即効性のある正しい対処法である。他のより穏便な手段に頼る暇のないとき、それだけが選ぶべき手段である。それができない私は暴力の被害にあった。父は暴力を憎んだ。それは正しい。でもその結果、悪をのさばらせ、私に苦しみを与えた。
 暴力は普遍的である。近代においても中世においても古代においても。古今東西を通じて。
 だんだん正常化している。休めばやっぱり正常化してくる。私は勝利した。私は勝利した。当たり前のことだ。人生とは勝利だ。勝利とは自分の価値を証明することだ。私はもう自分の価値を証明する必要はない。
 私は女に愛情を余り感じない。女はそれに不満を感じ、絡んでくる。私はぴしゃりとはねつけられず、あいまいな態度を取る。女はますます攻撃的になる。これが私と女がうまく行かない理由だ。ハムレットみたいなものだ。女に尼寺に行けといってしまうタイプ。何様だ。いずれにしろとりあえずあのグループに戻るべきでない。結果はいくらなんでも目に見えている。処罰までは要求しない。彼らに問題を解決する能力はない。あのキチガイが来る前までは私は一応仕事はやっていた。hとkが来る前までは。でも今はあいつらがいるだけで脳が凍りつき、体がいうことを利かなくなる。こんな状態であのグループに残り続けるのは狂気の沙汰だ。健全な暴力は身を守るために最も即効性のあるお勧めの方法だ。とりわけたちの悪い犯罪者体質の奴らの中では。
 私はやっぱり暴力は苦手だ。でも日本人は世界的に見ても暴力的な国民だ。南京大虐殺を見ればわかる。あるいは慰安婦問題、他のアジア諸国での蛮行。国内ではほぼ完全に暴力はコントロールされているがだからといって暴力的でないというのではない。常に暴力的である。暴力的な奴は薄気味悪い。体育会系の奴は露骨に暴力的である。アート系の奴も別の仕方で暴力的である。私はアートによって暴力を満たすことができると考えている。
 悪は良くない。人に悪をなすことは良くない。決してしないと誓った。生涯、善行のみを行うと。普通の人間になるとは簡単に自分に向けられる、あるいはその可能性のある暴力から身を守れることだ。この世に暴力など存在しないかのようなかまととな態度は最も墓穴を掘る。また暴力が存在することを告発するような言動も同様だ。お前には性器があるという指摘と同じことだ。だからどうしたという話だ。
 暴力に対しても中道を取るべきではないか。謙抑的ではあっても自分の身を守るための最小限の力の行使は断固としてためらわない。それができなかったからここまでずるずる来たのだ。私だって健康に生き、働きたい。自己実現もしたいし、お金も欲しい。会社に行けず、給料ももらえず、働けない今の状態がいいわけがない。それが嬉しいと思える自分の今の状態の悪さ。体に戻ればどの程度暴力的であればよいかいつ暴力的であればよいかたちどころにわかる。
 ああ、人生無駄にした。暴力や悪を誘発するようなことばかりやっていてそのことの繰言をいつまでも言って貴重な人生を空費する。幸せになりたくないと固く誓っているとしか思えない。兄弟は私の幸せを激しく憎んだ。気の弱い私は幸せになることが恐くなってしまったのだ。これからは人生を大いに楽しむこと、勝ちある建設的なことに打ち込むこと。例えば仕事、例えば小説。この二つだけ考えて生きよう。ほかの事を考える暇のある人間なんかこの世にいない。
 私の姉は私にモラハラをやっていたことに気付いた。あいつの言葉に傷つけられたことは数知れない。あれで女が嫌いになった。あいつはどういうわけか激しく私を嫌っていて、決して愛情のある態度を取ったことはなかった。それだけで十分モラハラなのだが本人は気付いていない。私は家族からも学校でも心を閉ざすようになった。私は家庭内暴力に走った。言葉で人を傷つけることは暴力を振るうことと同じだと確信したからだ。それで漸く精神的平衡を保っていた。
 私がこの会社に入ったときの上司は紛れもないモラハラ野郎だった。面接のとき既に気付いていたのだが、度重なる失業で自信も誇りも失っていた私はその男にすがり付いてしまった。結果は案の定、というより、想像をはるかに上回るほどひどい目に遭った。
 今は去年のeg以来、異常に興奮しやすい状態になっている。瞳孔が開きっぱなしみたいに過敏状態になっている。人に悪いことをしてはいけない。職場でのモラハラも結局私が無意識のうちに入社したときにやられたことをやっていたのをまねしただけだと思う。戦うか逃げるかみたいな状況に置かれている。ずっと以前から。



2006年02月25日(土) 今日

 昨日は疲れた。一昨日死ぬほど疲れていた上に昨日はb校の見学で死にそうになった。いじめにあった。新参者はいじめるのが慣わしか。どう振舞っていいのかわからないので、いじめがエスカレートする。どこに行っても一緒だ。でも大体理由と対処法はわかったつもりなので大丈夫だ。昨日は帰ってビールと鍋の残りで腹を満たして寝た。二時頃一度目が覚めたが、また眠れたので良かった。少し落ち着いた。どうして自分を酷使し、いじめてしまうのかわからない。といって全く働かないでは許されない。中間が良いのだ。やり過ぎはいけないがやらなすぎもいけない。当たり前のことだ。ゆっくり休めばまた元気が出てくる。働いて遊んで休む。このサイクルが大事だ。特に休み。これを抜くと絶対に潰れる。働く、遊ぶ、どちらかを抜いても一向に構わないが、休みを抜くのは致命的だ。



2006年02月24日(金) やっぱり

 このままじゃいけないことに気付いた。当たり前のことに漸く気づきつつある。昨日、家の大掃除をやってもらった。目が覚めた。よみがえった。本当に私は半分黄泉の国にいたのをこの世に引き戻してもらった。z氏、ツッキーをはじめ文校の皆さんのお蔭だ。ここまで変わるものか。皆びっくりしているだろう。やりすぎは良くない。人間は生きていく上で悪いことをしなければならない。ひとりだけ口をぬぐって済まされることではない。生き物の命をいただいて生きている身の上だ。親や皆の恩は計り知れない。悪いことは最小限にして、謝罪と感謝の念が必要だ。ホリエモンみたいにやりすぎはいけない。私はいつもやりすぎてしまう。根は善良なのに悪いことをやりすぎればそれは悪人となって嫌われる。当たり前のことだ。やっとそのことに気付いた。人に優しくしよう。冷たすぎる。人に残酷すぎる。そんなことでは尾崎放哉のように一人で死んでいかなくてはならない。これからは良いことだけをして生きて行こう。今まで一生分くらい悪いことをしたんだからもういいじゃないか。これからは良いことだけをして善行を積んで死んでいこう。五木寛之のようになろう。宗教的に生きていこう。人に優しく親切に人として当たり前のことができなかったら死ぬしかない。幸い私は気付いて引き返す力を持っていた。z氏はじめ文校の皆さんにはいくら感謝してもし足りない。人を馬鹿にしたり、平気で傷つけたり、それがどんなに悪いことかわかっていない。いなかった。今はわかる。日本人はというより人間は気付く力が備わっている。それを当たり前に出せばいいのだ。体で生きていれば自然に気付く。正しい道に引き戻される。大いなる力によって。やりすぎは良くない。求めすぎ、怒りすぎ。全部良くない。魂に良くない。人にも迷惑をかける。私はもう顔までおかしくなった。態度といい、行動といい、かなりおかしい。でもようやくどこがどうおかしいかわかるようになって来た。善とか悪とかわざとらしく考えなくても体はちゃんと正しいことを知っている。
 人に悪いことをしちゃいけないし、する必要もないし、すれば必ず報いが来るということを私は漸く知った。悪いことを気付かずにしてきたが、挽回できないわけではない。人生最後の一日で悔い改めることができるという意味のことを曽野綾子が言っていた気がする。私は人生半ばにして漸く気付いた。いや気付かせてもらった。非常にこの上なく優しい仕方で。この世は良い所なのだ。人に優しくしていればそれでいい。悪いことをしなくても生きていけるのだ。商いとか人を支配するとか最小限の悪いこと(?)をやっておけば、後はうまく行くのだ。女とうまく行かないのは女を悪く考え、馬鹿にしたり差別したり、いじめたり、冷たくしたり、悪いことをしようとするからだ。oさんでも嫌ったり、いじめたりしてはいけないのだ。最近になって漸く気づいた。簡単なこと当たり前のこと、自分の本心に近いことじゃないか。大いなる勘違いだ。人をいじめないと生きていけないなどと考えるのは。人に悪いことをしていいと考えるなどということは途方もない誤りであると。
 今日から始めよう。良いことを。人に決して悪いことをせず、親切に礼儀正しく、良いことだけをすることを始めよう。そうすれば、誰もが私の変化に気づき、感動し、許し、愛し、友にいてくれるだろう。決して独りぼっちにはしないだろう。良いことだけをして生きて行こう。
 簡単なことだ。笑顔だ。人に優しく親切にしようとするならば自然と笑顔になるだろう。コスパのおねえちゃんは私を笑顔で迎えてくれた。私に笑顔がないのを見て少し怯えていた。しかし最後に私に笑顔がよみがえったのを見て満面の笑みを浮かべた。あのおばさんにしても私が余裕がなく笑顔がなかったことが、あの女を不安にさせ、攻撃的にさせたのだ。最初に入ったときにトラぶった同窓の女にしても、私が受け入れる余裕がなく笑顔がなかったからもめることになったのだ。女と見て侮ったというより、不当に取り扱おうとしたのだ。それは通るはずがない。私は社会的経験が圧倒的に不足していたのでやっていいこと悪いことの区別がつかなかったのだ。女は偉いのだ。馬鹿にする理由はないのだ。私の一番悪い点は悪いことを平気でやることだ。人を馬鹿にすること、差別すること。悪口を言うこと。平気で悪いことをすること。それに気付いたことはとてもよかった。これが私の転換点になるのは間違いない。
 私の顔には笑いジワがない。これは相当不気味な印象を与える。笑わない人間なんてよほど不幸か悪いことばかり考えているかどちらかだからいずれにしても人は忌み嫌い、警戒する。これからは笑って楽しい人生にしよう。昨日は山田さん、oさんと少し話すことができた。前はoさんとはほとんど話せず、本当に嫌だった。嫌いだからといって口を利かないとか無視するとか、いじめるとかいうのは最低の行為だ。私は悪いことを平気でやってしまうから人に相手にされない。これからはそういうことは決してしないようにしよう。怠慢というのも立派な悪である。善悪の区別もつかなくなってしまった。やりすぎてしまうのもそのせいだ。体で生きていれば自ずと善悪の区別が付くし、やりすぎる前に自然とブレーキが掛かる。



2006年02月22日(水) 盆梅展

 今日は盆梅展に行って来た。見事であった。樹齢数百年のものもあって花ばかりでなく枝ぶりや幹の肌が美しかった。苔の色も何とも言えなかった。ミニ盆梅を二鉢も買ってしまった。やっぱり金遣いが荒い。そこへ行く前に殺された園児に献花してきた。本当に何もない田んぼの側の農道で、側溝があった。そこに無造作に捨てられていたのだろう。痛ましいことだ。全国の殺された子供たちに献花して歩こうか。まず池田小から。神戸のタンク山を巡って、栃木に回る。覚せい剤中毒の男に殺された兄弟。刺殺されて雑木林に捨てられていた幼女。奈良で小林に殺された小学生。
 午前中はヨガをやった。とても気持ちが良かった。体のコリや歪みが治る。生体とか整骨院に行っても外から他人の力でやるのは限界がある。ヨガなら自力で自然治癒を促すことができる。続けてやってみよう。変なババアに暴力を振るわれそうになった。反撃した方がよい。誰からも暴力など振るわれるいわれはない。
 私はあの職場に戻りたくない。断固拒否する。他の職場に行きたい。当たり前のことで簡単に認められるだろう。まじめに何とかしようと考えるからおかしい。



2006年02月21日(火) 今日

 今日は昨日頑張りすぎて風邪気味だ。休めということだ。体も脳同様酷使してはならない。体を使うとキーボードが早くなるのは驚いた。思わぬ副次効果だ。好循環だ。全て私の身に起こることは好都合なことだ。良いことだけをやって生きていこう。
今日は風邪気味で心臓もバクバクするのでずっと家にいた。ふと思い立って住宅見学に行くことにした。一戸建てがいいんじゃないかと急に思った。こんな病気を抱えている以上、自然とか環境を重視した方がよいと思う。田舎暮らしというのは案外できるんじゃないか。堺の泉北は人工的だが田舎だ。戸建てであれば少々音量を大きくしても苦情は出ない。プライバシーも逆に守れそうだ。環境が良い。資産価値がある。マンションでは10年もたてば半分以下だ。土地は手堅い。
 今見に行ってきたがだめだった。思ったことを正直に言ったら、向こうから断られた。仕方がない。嫌なものを無理に買う必要がない。母親に頭金出してもらって一緒に住もうかと思う。私にできる最後の親孝行かと思う。あの家にいることは大変かわいそうだ。居場所がないと感じるだろう。私もいいことができるのだ。いいことしかしないと決めたのだ。
 今ほど懸命に生きている時はない。生きていて良かったと思う。全てが正しく感じられる。母親と一緒に住もうかと思う。家族や親を養うことは当たり前じゃないか。母親はあんな家にいて幸せなはずがない。姉も少しおかしい。死ぬまで面倒見ろといわれたらどうかわからないが、元気なうちであればいいんじゃないか。私もたった一人で生きるのは不安だ。一緒に御飯を食べてくれる相手が欲しい。たとえ80近いばあさんであっても。
 今何を失敗してもいいのだと気付いた。受け答えが変でも、人を怒らせても働けなくてもかっこ悪くても。だから休んでいるんだから恥ずかしいことはひとつもない。いつも働き始めても今と同じ気持ちを維持すればいいのだから簡単じゃないか。今が生まれて一番幸せだ。
 今日の不動産屋にしても目の前の人間を愛せない。これが今の実力だ。人を愛することは簡単だ。今すぐでもできるじゃないか。できることをどうしてやらないのか。卑怯じゃないか。母親の苦しみを見てみぬ振りをすることはできない。



2006年02月20日(月) 今日

 今日は雨だ。コスパに行ってきた。変な体操の奴に参加した。とても面白かった。おばちゃんがきれいなのでびっくりした。体操しているときはきれいだ。やっぱり私と違って体を使ってちゃんと生きてきたからきれいなのだ。小さい頃は可愛かった。年頃になってちやほやされたこともある。夫と愛し合って子供を育て上げた。今は女の務めを終えて静かに年取っている。いいことじゃないだろうか。非常に肯定的なイメージを持った。
 昼からプールのアクアビクスに行って来た。結構きつかった。これは汗とか気にしなくていいからいいんじゃないか。それにしてもきつかった。でも楽しかった。こんな楽しいことが世の中にあるのかというくらい。筋トレよりスタジオとかプールの方が楽しい。ジムで自転車とかマシンとか嫌じゃないか。嫌でもないけど飽きる。皆で何かやっている方が楽しい。有酸素やりたかったらプールがいいかもしれない。精神的にも少し楽になった。頭の中にドーパミンが勢い良く流れている。
 ジムのお姉ちゃんをナンパして遊ぼうか。酒くらいだったら付き合ってくれるんじゃないか。トーク喫茶より安上がりだ。じっとしていられない。少し横になったらまた活動したくなった。45年生きてきて今ほど楽しいときはない。もう戻りたくない。いろいろ仲良くする技術とか勉強してもとりあえずそこを離れることが肝心じゃないか。
 天王寺に出かけて、デオドラントとエンヤのcdを買った。金遣いが荒い。最初のうちだけだと思う。きちんと節約できる。目標を高く置こう。キリストや仏陀ほどでなくても良いが大人として恥ずかしくないようなもの。堕落した考えではいけない。悪いことをしようなんてもってのほかだ。そんなことは考えていないが。
 私は人を愛せなくなっているんだと思った。女であれ、親であれ、冷たくなる。ごく身近な人でも愛着を感じることはほとんどない。爬虫類のようだ。ツッキーでも最初は愛情を感じなかったが、最後の方は好きになりかけたのだがどうしても心を閉ざしてしまう。どういうわけだろう。父親の死をまだ引きずっているのか。瞬間的に好きになることはあるが長続きしない。これでは女と付き合えないし、人間関係を築けない。それをゆっくりと解きほぐしていこう。きっと人間らしい気持ちを取り戻せる。それが一番のテーマだ。人間らしい気持ちを取り戻すこと、人を愛せるようになること。
頭が壊れている。ゆっくり休もう。自分がきついと思うことはやらない。当たり前だ。病気になってしまう。女と付き合いたくないと思ったら付き合わなければ良い。



2006年02月19日(日) 今日

 昨日は芝居面白かった。芝居とは怪しい。三十女が中三の役で制服を着ている様はそれだけで怪しい。おまけにパンチラ大サービスで壊れている。精神的に不安定で突発性難聴だと言っていた。そういうものが表現者には必要なのだ。それがはじけて一気にすごいパワーとなって観衆を魅了する。芸とは制御された狂気だ。今日は堺の集談会に行こう。すぐ隣の建物でやっているらしい。日曜だし使える。酒を一週間くらい飲み続けているので疲れてきた。少し酒を抜こう。
 嫌なことは嫌といっていいのだ。小さい頃から嫌なことばかりやってきた。嫌なことは嫌といっていいのだ。良心に従い、取捨選択していいのだ。自分が嫌なことばかりやっていると人も嫌なことを我慢すべきだと思ってしまう。大変な勘違いだ。人の嫌がることをして言い訳がない。h君はそうやって社会の周縁に押しやられてきた。私も同じだ。自分が嫌なことを引き受けてきたから他人もそうすべきだと思う。それが大きな間違いだ。母親には大きな迷惑をかけた。父を殺し、家を焼き、引き受けを拒んだ。母は兄の家で嫁姑問題に苦しんでいる。この間はストレスから肺炎に罹り死にかけた。死にたがっているのか。今度は姉の家に引き取って欲しいといっている。それがベストだと思う。私には受け入れる精神的肉体的余裕はない。自分ひとりのことで精一杯だ。
 一番大事なものを台無しにする。h君と同じじゃないか。意図的にやっているところが余計にたちが悪い。神だったらどうするか。仏だったらどうするか考えて行動しよう。私にはその資格がある。父を殺し、母を殺し、悟ることがあると仏教では教える。人はそれだけ罪を背負って生まれてくる。でももう私は人になった。仏にも神にもなれる。
 体本位に戻ることだ。そうすれば女なんかどうにでもなる。自分にも身を守れるとわかった。嫌なことは嫌とはっきり言うことだ。それが全ての基本だ。私はあのグループには戻らないだろう。私はそんなお人よしではない。あんな不衛生な職場は真っ平だ。自分の身を守れないとはどういうことだ。身の危険を感じる職場ってどんなだ。私は暴力を誘発しやすい。小学校のとき転校していじめられた。それは収まったかに見えたが結局熾火のように私の中でくすぶり続けていたのだ。でもあの女優が言っていたようにこの経験で多くのことを知り、人より賢くなったので後悔はしていない。今は自分を守れるようになった。体本位で行くと簡単に身を守れる。護身術など習うまでもない。誰でもやっていることだ。z氏に心を開かれて私は20年以上掛かって人並みの人間になった。これからはちゃんと仕事ができる気がする。
 世の中は非常に危険に満ちている。家庭の中だってdvとか虐待がある。姉の家に行った時も歓待はされなかった。私が行ったことが娘に悪影響があるのだ。美しく生きたいし、そうする能力があるし、資格がある。私は暴力を誘発する。この会社に入ったときも理由もなく女にいじめられた。b校でも同じだ。女とは決してうまく行かない。でも今は自分を守れる。体本位になったからだ。egは暴力だ。洗脳だ。止めた方がいい。絶対に止めた方がいい。何でそんなに簡単に人を信用するのか。私は姉を信用できない。家に行こうとしたときいじめようとした。私は浩子は好きだが、姉は嫌いだ。
 今日は堺のs会に行って来る。小学校の頃から女は嫌いだった。それでも生きていかないといけない。女なんかどうにでもなる。怒らせようと思えば怒らせることもできるし、喜ばそうと思えば喜ばすこともできる。
 s会に行って来た。良さそうなので行ってみようかと思う。面白い人がいて、病気療養中で多趣味な人だった。小説を書いているというから変わり者だ。銀行を休職中だ。萩出身でホームページを持っている。パソコンに詳しい。凝り性だ。ネットトレーダーを自称している。友達になりたい。先達さんだ。他にも休職経験者が多かった。神経質症と言うのは私にも十分当てはまると思った。会社に行けないとか生活保護とか障害者手帳とか本格的な人もいた。私はそういう人たちのグループにはいっているのだ。そのことを認めれば楽になるし、無理をしなくなるし、友達もできる。認めなければいつまでも一人で苦しむだけだ。
 私は自分で身を守れるようになった。体で生きるようになったからだ。からだを動かすのがいいのはその間脳を酷使しないからだ。脳を酷使するから、精神安定剤を飲むことになる。



2006年02月18日(土) 今日

 物事が良い方向に回り始めた。私は人に好かれる。誰からも親切にされる。がつがつしなくてもいい。あの京都での一夜。二日間。私はあの頃からはっきり変わり始めた。今の私はもうはっきり別人だといえる。がつがつしなくても良い。女に好かれてもいいじゃないか。冥土の土産だ。いくらでもくれてやればいいじゃないか。女を愛することは功徳を積むことだ。あの和尚はいっぱい功徳を積んできたのだ。私は体を忘れて畜生道に落ちてしまったので、多くの罪を犯してしまった。私は今状態が悪くなっているだけだ。この一年で大きく変わった。貪らなくなった。体に委ねるようになった。もう頭を使うのは止めた。養老先生なんか頭なんか使ってない。体で書いているから矛盾がなく大衆にも受け入れられる。
 もう長いこと一人きりで生きてきたのでずいぶんおかしくなっている。人を受け入れられない。ツッキーも不審に思っている。向こうは心を開いているのに私の方はうまく心を開けない。人に好かれても人を好きになれない。人を尊重できない。依存もせず、離れもせず、うまく付き合うことは可能だ。
 ババアや女が嫌いなのも症状であり、反応に過ぎない。体を思い出せばどう振舞えばいいかわかる。でもこの症状を抱えたまま、ババアに近づくのは非常に危険極まりない。症状も取れるようになって来た。徐々に弱まってきた。最初の頃ツッキーと反発したのはあの人がおばさんだからだ。私が女を嫌いな状態になったのはセックスでイッた後に体を触れられたくない状態になることと似た状態になったからだ。しかしそれはいつか回復するはずだ。休むことだ。働く、遊ぶ、休むのバランスが肝心だ。体が回復すれば喜びは再び蘇ってくる。そのための休みじゃないかなと思う。体に聞きながらどう進めばいいかゆっくり考えよう。
 id用の写真を見て愕然とする。心が体を離れてさまよっている様が不気味だ。m君に言われたことの意味が漸くわかった。気が出ている。確かに悪い気が出まくっている。エクトプラズムだ。心と体がばらばらになって畜生道をさまよっているのだ。こうなったらスポーツとか文学とか森田療法とかありとある手段を使って心と体を統一しよう。体本位を取り戻そう。
 b校の有栖川有栖の講演を聴いてきた。面白かった。盛り上がりもまあまあで良かった。文学をやっていてよかったと思った。おかしな人も多いがそれがb校だ。有栖川氏は知的で遊び好きだ。私はいつの間にか知的に愚鈍になっている。遊びを止めると知的に堕落する。女なんかどうでも良い。恐くもなんともない。どうにでもなる。100%思い通りになる。100%女の考えていることがわかるのだから全くどうにでもなる。



2006年02月17日(金) 今日

 昨日はb校だった。wは私が好きではないようだ。これ以上仲良くしようとしても無理だろう。大体年が違いすぎる。距離を保つにしくはない。遍路の説明会に行った。金がかかる。道具が必要で何とか金を使わせようとする金儲け主義だ。歩いていくことも検討しよう。世の中で私の前で起こることは全て好都合だ。そんな気がしてきた。不都合なことは排除していいのだ。できるかどうかやっていいかどうか引き受けられるかどうか事前に良く考えよう。仕事でも遊びでもそうだ。遊ぶのにも金がかかる。得られる快楽とかかるお金を天秤にかけて自分が負担できるかどうか良く考えよう。この会社に入ったときもできるかどうかわからない職場に我慢ならない男の下に入った。wとか人を差別するので無理だろう。世の中は好都合なことでできている。不都合なことは捨て、好都合なことを取るからだ。そうすれば世の中は好都合といえる。しかし世の中には物好きがいて人が捨てて省みないものばかり追い求める奴もいる。世の中の仕事は全てそうしたものじゃないか。危険なこと、きついこと、苦しいこと。でも女でも不都合なら近づけなければいいだけの話だ。一緒にいて楽しくないなら一緒にいなければいいだけの話だ。どうしても全ての人と仲良くしなければいけないとか、中の悪い人を気にしなければとか、何とかしないといけないとか言うことはibだ。不都合なことはかかわらないこと、放っておく自由がある。でも短い間にすごく進歩した。埼玉では普通に見えるといわれた。女が私を嫌う。私が男らしくないから?別に気にしなくて良い。仲良くしたくなったら仲良くしたら良いし、仲良くしたくないなら無理しなくていいんじゃないか。体本位で行けば、その辺の呼吸がわかる。好きなものは取り、嫌いなものは捨てる当たり前のことだ。h君とは仲良くしたいと全く思わない。
神戸空港に行ってきた。その前にコスパに行ってきた。楽しかった。世の中は私を中心に回っているのだ。全ての人間は私に奉仕したくてたまらないのだ。今ほど楽しいときはない。私は人に嫌われる人間ではない。人に好かれ、放って置かれない人物だ。女たちは競って私の世話をしたがる。私は人に嫌われる人間ではないのだ。私は嫌われる人間ではないので人に嫌われるんじゃないかと心配する必要はないのだ。
 私は人に嫌われる人間ではない。そんなことを気にすることはない。世の中の全ての人は私に奉仕したがっている。毎日楽しい。こんな楽しかったことはかつてない。これからもないかもしれない。終わりのない楽しみ。



2006年02月15日(水) 今日

 昨日はあまり眠れなかった。そろそろアルコールを抜くか。小田を聴いていた。とてもよかった。変換がおかしくなった。
音楽はとても良い。文学の悪い部分を中和してくれる気がする。クラシックでも何でも聴いていこう。やっぱり予感通りこの日々が人生最高だ。それくらい楽しい。今日は何しよう。男たちの大和でも観にいこうか。
しんどい。でも楽しい。風呂に入ってenyaを聴いていたら気分が良くなった。
 南に行って例の喫茶の前を見てきた。でも入る勇気はなかった。すごくいらいらしていたので止めた。



2006年02月14日(火) 今日

 昨日は良く眠れた。一時に目が覚めたが、また眠れた。今朝はすごく気分が良かった。やっぱり睡眠が一番だ。小田を聴くととても気分が良い。これからこれにしよう。
 朝は調子が良かったのに午後から少しダウン気味なので昼寝した。だいぶ回復した。サド的人物がいたとしても健康な人間は影響を受けない。私はそうなりたい。スポーツ選手が全ておかしいとは限らない。ツッキーも相当おかしい。私は自分の心の姿がわかった。脳が興奮しすぎて疲れがどんどんたまっていく。それで反応が出てくる。疲れて慢性うつ状態になり、何もできなくなる。馬鹿にされようと反発できなくなる。自分を馬鹿にするようになる。
 さっき電車の中でおかしなおっさんに嫌がらせをされた。嫌がらせの天才みたいな奴だったが、嫌がらせを仕返してやったらおとなしくなった。安田みたいな奴が世の中にはいる。キチガイが。死ね。



2006年02月13日(月) 今日

 埼玉から帰ってきた。浩子に会えて本当に良かった。すっかり大人になっていた。本当はもっと年若い頃に会いたかったが大人になってからの方が本人のためになるだろう。瞳は声だけ聞いたが会えずじまいだった。義理を果たせて本当に良かった。義理を果たすのにも一定のパワーが必要で私にはそれがなかったということだ。しゃべっていて、普通だといわれた。一番嬉しかった。b校で鍛えられたお蔭だ。母親とも話した。前みたいに私に執着しなくなっていたので楽だった。でも少し寂しい気がする。人の世と人生を感じる。小田和正の確かなことを何度も思い出した。私も強くならねばあんな小さな女の子があんなに強いのだから。大いなる勇気をもらった。



2006年02月12日(日) しんどい

 昨日は一応眠れたが、今日は三時ごろに目が覚めた。h君も私も似たもの同士だ。でももうほとほと嫌だ。あんな奴と付き合うのは真っ平だ。こだわりすぎだ。絶対森田療法が必要と思う。世の中素晴らしいものがたくさんあるのに知らずに死ぬのはもったいない。せっかく生まれてきたのに、宅間や宮崎のように殺されるなんて真っ平だ。人が好きになった。h君は人が好きではないのだろう。あの和尚は自分が差別されたことがあるので差別に敏感だ。また人を差別しやすい。でも仕方のないことだ。こうしてみるとツッキーは懐が深い。私や和尚やh君みたいなおかしな奴らも受け入れてくれる。女性的なのだろう。



2006年02月11日(土) 今日

 昨日は楽しかった。b校の新年会というか、打ち上げみたいなの。とても楽しかった。一睡もしなかった割には楽しめた。ツッキーともよくお話できた。渡辺さんともお話できた。もうちょっとアプローチしたかった。やっぱり30代前半は若いと感じる。金沢さんの巨乳には驚いた。乳もみたかった。性欲は突然暴力的に襲ってくる。これで何人の男たちが女の手にかかったか。肉体は弱いというべきか。肉体は強く心は弱いというべきか。小田の確かなことを歌った。受けたのか受けないのかわからなかったが、気持ち良かった。睡眠不足で疲れていたにもかかわらず良く頑張った。良い師、良い友に恵まれてよかった。楽しかった。もう少し心を開けるといい。人を好きになること。もう少しひねくれを直すこと。サドを読むと心がひねくれ、人を疑い、ついには妄想に悩まされることになる。こんな奴はあまりいないとわかった。人を受け入れることにどうしても留保がついてしまう。もう私は行くところまで行ってしまった。ここで正反対に舵を切ろう。それが私の義務だ。それにしても疲れた。有頂天とサドとうつと不眠と飲み会。それは疲れるわ。女と仲良くしようと思った。昨日、内藤さんに見学を誘われた。本当に行ってみようかな。女と仲良くしてみようかなと思った。同性として。私のために全ての人が喜んで奉仕してくれる。それは当たり前だ。全ての人に当てはまる真実だ。本当に楽しかった。集団に属することは楽しい。私を中心に世界はまわっていると考えても全く間違いない。全ての人が私のためにスタンバイしてくれる。私は九州出身なので大阪には適応できない。私もずいぶん良くなってきた。昨日は疲れていたにも拘らず頑張った。でも考えるべきことを考えていないのかな。例えば内藤や渡辺との関係とか。姉との関係と同じで自然に悪化する。水が低きに流れるように。でもどうでもいいじゃないかとも思える。女なんかどうでも良い。いじめを誘発する行為を自らやっている。世界は自分中心に回っていると考えればうまく行く。このややこしい問題を完全に解決することは不可能だろう。でもそれでも全然okだし、それで世の中は回っていく。
自分を酷使しないこと。自分の品位を汚すことをしないこと。強くなるために努力すること。二時間風呂に入って気分が良くなった。倫理的に生きることが肝心だ。他人といさかいになる原因はほとんど私の非倫理的な行為が原因だ。なぜどんなときに倫理的でなくなるかというと疲れているときだ。疲れているときは怒りっぽい。あと倫理的でない行為に惹かれたりするのは明らかに異常だ。悪に許容的であることは問題だ。大変な損失でもある。私の人生は悪のために大きな損失を蒙った。反社会的な人間が社会生活を送れるわけがない。社会におかしな人が見当たらないのは排除されるからだ。精神病者、犯罪者は施設に入れられるか、引きこもりを強いられる。私は見違えるほど良くなる。確信している。いくら女に好かれようと嫌われようと構わないじゃないか。もちろん嫌われるより好かれるに越したことはないが。女に甘えたければ甘えたらいいんじゃないのか。女が人間に見えてきた。そうすると女を尊重しないといけないといういやしたいという気持ちになる。ネバならないではなくしたいという気持ちのほうがどれだけ素晴らしいか。生きねばならないといって生きている人間と、生きたいと思って生きている人間とでは全然違う。ネバならないといっている人間は病気になる。生きたいと思っている人間は素晴らしい仕事をし、大きな喜びを得て良き友、パートナー、家族に恵まれる。
 何をしていいかわからない、わかっていてもできないというのが今までの私だった。でも何をすべきかという問いを何がしたいのかという問いに置き換えればすごくうまく行く。
 まあいろいろ気付きがある。体本位で生きているので自然に気付くし、混乱したりしない。溢れたり、へたったりはしない。せっかくの宴会も義務になったとたんに楽しくなくなるじゃないか。人間は楽しいときが一番、能力が出る。h君は病識がないのがいけない。私は酔っ払おうとどうしようと病識はある。上品に生きよう。あの和尚も相当下品だ。年寄りは下品だから嫌われる。あと一息で私は変われる。焦る必要はないのでのんびりやろう。まあずいぶん良くなった。休むことだ。悪いことをして疲れ、疲れてまた悪いことをする。悪循環もいいとこだ。まず休むこと。とにかく休むこと。休むことでだんだんまともになる。体本位で行けば変化は徐々に訪れる。突然ではないだろう。訪れるときは突然かもしれないが。普段は自分の女性的な性向に合わせて、上品な生活をし、仕事のときは自分の性別と一致するために強く努力する。渡辺さんでも和尚さんでもちょろい気がしてきた。人間て面白い。手だれの小説家は面白さを見事に掬い取る。人間が好きになってきた。人間が好きでないと小説は無理みたいなことを言われた。本当にそうだと思った。人間が好きになれば合うことが苦痛ではなく楽しみになる。無意識のうちに悪いことをやってしまうことが、病気だ。宮崎に興味なんかないし、ロリコンなんか全く興味がない。アニメなんて脳化の最たるものだ。体に戻ればそうはならない。良心的になろう。人の考えていることがわからなくなったのは、悪いことばかり考えているからだ。悪に疲れ果て何が正しいかわからない。わかっていたとしてもどうしてもできない。それが今までの私のあり方だ。これを根本的に改めなくてはいけない。人間が好きになった。自分が好きになった。これが人付き合いの基本だろう。そうすれば仕事も好きになるだろう。好きな人間と接しられるのだから。こだわりの問題もある。こだわりはルールの遵守とか真面目とか良い仕事をするとか、勤勉とか、義理堅いとか良い人とか高評価につながることが多いのだが、反面、疲れておかしくなることもある。うつになるタイプはこれだ。あまりうぶでも騙されて犠牲になるだけだ。やっぱりh君とはあまり近づかない方がいいと気付いた。小学校の頃あの変な子に近づかない方がよかったのに近づいたことと同じだ。
 私はもう大丈夫だと思う。h君のようにはならない。疲れを取ることだ。真面目だから病的なレベルまで落ちてしまう。でももう大丈夫だ。



2006年02月10日(金) 今日

 全然寝られない。予想通りだから全然okだが。昨日のb校は楽しかった。30代の皆さんとは溝ができた気がする。皆私が悪いのだ。でもsさんだけは来てくれた。私にものすごいネガティブ光線出してたけど。そんな女だ。昨日はカウンセリングに行ってきた。なかもずの駅で待ち合わせた。新鮮な気分だった。結局恋人と会うような気分にさせられている。勝手にそうなっているだけか。休む前後の課長の言動などを聞きだして少し安心した。予想を超える事態など起こりはしないと確信した。信頼関係を損なうようなことさえしなければ。私は間違ったことはしていないと安心した。やっぱりz氏は無条件に優しい。安心して療養できる。女とは目が合った瞬間に合わないとわかる。切れられる。ヤンキーが特にいけない。そうでなくてもこちらか向こうが拒否る。これが最大の課題だが、多分大した問題ではない。ただ侮ってはいけない。慎重に扱ったほうが良い。この疲れさえ取れれば八割方解決する。z氏にも半年単位で考えた方がよいといわれて嬉しかった。良く私のことを理解している。四半世紀に亘って悪化してきたものが1,2ヶ月で完治することはありえない。ゆっくり考えよう。ただ、疲れが取れて問題点がはっきりすれば後はなだれを打って良くなる気がする。脳ではなく体で行く。これさえ気をつければ大丈夫だ。ここ最近の目覚しい変化はそのことを実行した成果だ。この調子でどんどん行け。この世の全ての人は赤ん坊から老人まで私に喜んで奉仕したがっている。少なくともお天道様の下を堂々と歩いている人間は100%そうだ。そうでなかったら飯は食えないようになっている。神仏の思し召しどおりに世の中は動いているのだから私が心配することはないのだ。しっかり稼ぎに専念すれば良い。真面目になることと、一所懸命に生きることと、働くこと、きわめてシンプルだ。
 今日は眠れなかった。ほんの15分くらい眠れた。予想通りだから構わない。こういうときのためにアロマテラピーを始めようと思う。今はどんなに混乱していてもokだ。そのために休んでいる。ゆっくり休むことだ。賭けに出ない方がいい。真田さんみたいに人生手堅く行こう。
 やっぱりちょっと疲れている。眠れないというのは堪える。今日を乗り切れば明日ゆっくり休める。b校もやっぱり考え物だ。今日は無事に乗り切ることだけを考えよう。具合悪ければ帰ればいいのだ。



2006年02月08日(水) 今日

 だんだん気分良くなってきた。この調子なら問題ない。疲れないようにゆっくり休むこと。疲れるようなことをしない。酷使しない。自分を痛めつけない。自分を粗末にしない。自尊心を守る。他人も尊重する。自分も他人も尊重するならうまく行く。トヨタの注文を出した。今日はえらく値下がりしていたので安く買えるのではないか。
 やるときは一所懸命やる。全力でやる。そうでなかったらうまく行くわけがない。うまく行っても面白くないだろう。
 コスパの見学に行ってきた。とても面白かった。ガイドの女性の説明を聞いているときまたあの発作が来た。うつの発作。親父が死んで以来、何を見ても泣けてきた。少しのストレスで涙が出てくる。涙はストレスを癒す。ということは脳が疲れているということで脳がそれを癒そうとするのだ。人と単に話しているだけで唐突に泣きたくなる。人と話すというレベルのストレスでそういう反応が発動する。それが今でも治らない。休むことだ。頑張り屋の私は疲れていても頑張ってしまう。こだわりやすい私の性質が悪く現れる。森田療法に頼ろう。
 ワキガ何とかならないかと思う。電車の中でもババアに嫌がらせされた。絶対にババアなんか見ないほうが良い。普通に対することは不可能だ。会社の方は半年くらい休んでもいいのかなと思う。出社しても状況は変わらないのだから、同じ状況に対処できるようにならなければ出社しても同じことだ。体本位で行こう。仲良くしようとかしてもだめだ。ワキガはワキガだ。それ以上でもそれ以下でもない。ワキガは本当に困る。穏やかな気持ちでいることは不可能だ。差別に対して平静でいられる奴は一人もいない。暴力を振るわれる。隠遁して住むのが一番いいと思う。田舎にいても能力はあるよという生き方。人の集まるところには行かない。
 部屋にいると落ち着いてくる。外に出ない方が良い。家で落ち着いているのが嫌なので外に出るが、白い目で見られる。書店をゆっくり歩いてみたら気持ちよかった。発見があった。目を見て話せというが見たかった見るし、見たくなかったら見ない。それだけの話だ。こだわる必要はない。目くらい見れる。あの面接のときに恫喝されたのでこだわるようになっただけだ。こだわる必要なんかない。時間は薬だ。



2006年02月07日(火) 四日目

 休み始めて四日目だ。全てが都合よく進んでいる。この世の全ての人は私に争って奉仕しようとしている。私は安心して生きてゆくことができる。全てが順調に進み、何の不安もない。生涯で最高に幸せな日々を楽しんでいる。サドショックは消えつつある。私は強くなった。人は強くならないといけない。
 今日はしんどかったがパスポートを取りに外出した。近鉄の八階でてきぱきと手続きを済ませた。若い頃はこういうの苦手だったなと思う。民間人をビビらそうとする女とかに特に弱かった。今は平気だ。今日はまだうつから復活していなかったが、勢いで難波に出た。ジュンク堂で一杯買い物したがすごいブスが私にぞんざいな態度をした。こんなことをされたのは何回目だろう。最近多い。女ともめる。私は普通にしているのに攻撃してくる。私に喜んで奉仕していればいいのに。一体何の要求しているんだ。もう忘れよう。忘れていいのだ。忘れていけないことはもっと他にある。世の中の全ての人間は喜んで私に奉仕する。この確信さえあれば良い。フォークナーの「八月の光」と京都の庭園の本と温泉の本と株の本を買った。それから小田のTV番組のDVDを買おうと思ったが、店頭から消えていた。仕方がないので帰ってからインターネットで注文した。こちらの方が安いだろう。それからコスパのパンフレットをもらった。それから卵用のフライパンを買った。女になりたいとつくづく思った。私のメンタリティーはまるっきり女なのだ。だから女と葛藤が生じるのは当たり前だ。何もしていないのに姉にいじめられた。その理由がわかった。今でも同じだ。私が悪いわけではないし、解決法はない。それを解決する方法はない。こだわりだと思う。それを完璧にクリアーしたいと考えるから病気になる。嫌われて当たり前なのだと開き直れば楽になる。だから森田療法が効果あると思う。
 体本位で行こう。こだわりをなくそう。女になりたいといってもかなわない。男として生きていこう。強くなるため努力しよう。受験勉強は強くなるための努力だったじゃないか。それを以後も続ければいいのにできなかったからこういうことになる。でも今からでも全く遅くない。人生は長い。私はうまれてきてよかったと初めて思った。この年になって、こんな状況になって初めて。全ての人が私のために喜んで奉仕してくれる。明らかなことだ。ほんのわずかな金で。金がなくても困っていれば誰でも助けてくれる。田舎に泊まろうは困っているから助けてくれるという話だ。でも強くならないと。いつも助けられているんじゃなくて人を助けられるのが本当の人間だ。



2006年02月06日(月) 今日

 少し風邪気味だ。病気療養ぽくていいかも。うきうきした気持ちにならない。そのうち回復するだろう。プチうつかもしれない。こういうときこそ病気関係の本を読もうか。元気なときは読まないもの。
 加藤諦三の本を読んでいる。なかなか良い。今に気持ちにぴったりだ。うつ状態は脱したような気がする。でもそれは類まれな自分の頑張りのお蔭だ。もっとこうすれば楽になってうつにはならないということがたくさんある。それを見つけよう。
 生活発見の会に行ってきた。初心者ということで見学させてもらった。全ての人は私のために喜んで奉仕してくれるという確信はますます強くなった。人間はそういう風にできている。世の中はそうなっている。会自体はとても良かった。元祖引きこもりだったおじさんもいて年齢、性別も絶妙にバランスが取れていていいんじゃなかろうか。あの谷町近辺というのは本当にディープな大阪で色んなものがある。b校も最たるものだ。これなら続けてみようと思う。是非続けたい。手ごたえを感じた。求めれば求めるほど応えてくれる。b校は求めるものと微妙にずれていた。あそこはぴたっと合っている。20年前に入会した人もいるというから信頼が置けるんじゃないか。



2006年02月05日(日) 昨日の今日

 昨日の扱いはひどかった。予約なしに行ったら追い返されそうになった。少し精神的に不安定でおかしい。egに行ったのは本当に良かったかどうか今でも疑問だ。パンドラの箱を開けたのか。しなくてもいい色んな不愉快なことを経験した。強くなっても元が不安定だからかえって良くないのじゃないか。こうして休む羽目になったし。でも隠されていたものが表に出ただけかもしれない。h君のように。過去のことを悔いても仕方がない。悪い影響を最小限にし、良い効果の方を引き出そう。悪い変化は眠れなくなったこと。統合失調症的になったこと。人の言うことを聞かなくなったこと。凶暴になったこと。社会から排除されやすくなったこと。以前からそうだが。昨日の講演内容自体は良かった。でも講演者、参加者含めどことなくおかしな連中ばかりだ。特にあのひげの店長みたいな奴、あいつは完全にいっちゃってる。客もどこから来たのかわからない変な奴ぞろいだ。
 最近どこへ行っても排除されがちなのは、精神崩壊がいっそう進んで精神障害が外から見ても明らかになってきたからではないか。今会社に出られなくなったのは明らかにそうだ。社会人サークルでした数々の嫌な経験はそうだ。宗教に従って生きようと思う。宗教とは自発的により高い道徳に基づいて、一定の宗教的指導者の元で、宗教的規律に従って生きることだ。悪いことをしがちなのは宗教的でない生き方をしているからだ。日本人は無宗教といいながら実に宗教的だ。何か目に見えない宗教的規律に従って整然と生きているからだ。それに従わない人間を迫害し、排除するという悪い癖もある。中野孝次が言っているように、貧しくとも清らかに生きることは十分可能だ。そのように考え、そのように一定の規律に従って生きていれば自ずとそうなるではないか。大半の日本人がやっていることだ。資本主義のハゲタカどもでさえ元はといえばプロテスタントだ。勤勉なのは宗教のせいだとウェーバーも言っている。私も清貧の思想でも読み直して宗教的に生きていこう。宗教的に生きられない奴が宗教的に死ねるか。道徳を破壊することがそんなに良いことか。サドのように。狂人ではないか。悪夢にうなされ、妄想に苦しみ、終生監禁された哀れな精神障害者。そんな奴にとらわれるな。一切のとらわれから離脱せよ。それは強く今すぐ実行することで可能だ。あの狂人の中には強烈な美学があって、非常に強いインテンシティーで築かれた妄想の城があった。三島由紀夫に良く似ている。とらわれなど捨てて楽になれ。天才になどならなくて良い。平凡な人間として清貧に生きよう。それが定まらないから妄想が忍び寄る。とらわれ、こだわりやすい私はどうしてもそうなりがちだ。とらわれず宗教的にシンプルに生きていけば持続可能だ。
 受け入れられるかと思っていってみればそこはキチガイの巣だった。キチガイとは付き合わないほうが良い。m君とか九重の奴らとかうっかり付き合わないほうが良い。いくら友達がいないからといって、オリバーツイストじゃなんだから。ひどい目に遭うだけだ。何が引きこもりだ。ずっと引きこもっていろ。私は自由だ。三ヵ月の間は真に自由だ。良いことだけをやって生きよう。良いと信じることだけを。
 世の中の全ての人は争って私にサービスしたがっている。私が清らかで美しい魂の持ち主だからだ。それにしても昨日のキチガイどもはひどかった。小娘に「待機」って言われたときには目の前真っ暗になった。あんな奴らなんで相手にしなければいけないんだ。サイテーの奴ら。小説三昧にしよう。書くほうはほどほどでインプットの方を多くして書くのを楽にしよう。読んだことないのに書けない。江向さんの作品を読んで書けるようになった。読むことは大事だ。
 昨日に比べると今日はだいぶ良い。少し寝られたからな。こだわりを捨てることだ。そうすると妄想が消える。自分に無理を強いること。これが一番いけない。さりとて何もしないでは許されない。中間があるだろう。自分にできることはいくらでもあるだろう。蕩尽ではなく有益なこと。
 人間はやっぱり強くないといけない。男女に限らず、強くなくてはいけない。女は本能的にからだでそのことを知っているが、男の中にはまれに私のようにわかっていない奴がいて、不思議な行動を取る。会社の中で生きていくにしろ、外で生きていくにしろ、強くなければならない。
 自分を酷使しない。私はスーパーマンではない。自分の尊厳を傷つけることは止める。強くなるために努力する。この三つかな。
 何もしないことに全力を尽くす。散髪に行ってきた。それで今日は終わりだ。その日を無事に過ごせれば良い。欲張る必要はない。休むだけでものすごい良い効果があるのだ。
 体に委ねるのだ。もちろん体もケアーしないと体にしわ寄せが来る。吐き気や不眠となって現れる。脳と体のバランスが肝心だ。体に委ねるが脳も使ってよい。酷使しないのであれば適度に脳を使うことはむしろ良いことだ。というより使わないと社会生活に支障が出る。
 さあ今日も一日が終わった。貴重な一日だ。人生の中で。人は私に奉仕するためにいるのだと思うようにしよう。私も人に奉仕するためにいるのだ。体本位で考えるとそうなる。今日は少し回復した。しばらくは何もしない。何も考えない。ただ頭と体を休めよう。



2006年02月04日(土) 今日

 昨日の有頂天な私から少し不調になってきた。全ての人が私に奉仕したがっていると言う気持ちはどこかに消えた。またよみがえるだろう。調子が悪いのもひとつの現実だ。受け入れよう。体に委ねよう。体本位で行こう。髪の毛が抜けるほどのストレスを5年以上も受け続けてきたのだ。一人は白髪頭、一人は低脳レズオヤジ、一人はデブ不良、一人はキチガイナルオヤジ、一人はヤンキー、一人はやくざ。egで人格改造までやったがついに力尽きた。まともな奴は一人もいやしない。体に委ねてゆっくり休むことだ。b校に行ったことは間違いとまでは思えない。多くの生きる力と気付きを得た。生きがいを手に入れた。自己承認と。でもそれがエネルギーを消耗したかもしれない。迷ってじっとしていればいいものを、歩き回って体力消耗みたいな。あの職場でおかしくなった奴を何人も見た。ところでb校はアカの巣窟というのは本当だ。h君もえらいところに入ったと思ったろう。一斉にバッシングを受けていた。私はそれに加わらなかった。以前はっきり口にしてたしなめられたことがあったからだ。
 物事には両面がある。必ずいい面と悪い面があるといっても良いだろう。サドの本を読んで脳が暴走し始めたのは悪いが物事がはっきり見え始めたという良い面がある。いずれにしろ今は休むことだ。ゆっくり休むことで快方に向かうだろう。体に委ねてゆっくり休むことだ。z氏は今の私は相当悪く映るらしい。いつもと違って敵を見るような目をしていた。メールに返事もよこさない。今はやらなくていいことを極力やらないことだ。映画も良くないかもしれない。オリバーも有頂天も観ていてきつかった。あることをやって悪くなるということは別のことをやると良くなる可能性があるということか。でも今はどちらでもなく何もしないで休むことだ。脳を酷使から解放することだ。私は今ひどく疲れている。休むことだ。全ての人は私のために奉仕してくれる用意がある。争って私を癒し、私に尽くし、助け、救ってくれるだろう。本当に行くところまで行ってしまった。力尽きてばったり倒れるまで休めないのだ。あの時もそうだった。あれから良いことなどない。いや、止めよう。良いことはたくさんあった。全ての人が私に争って奉仕してくれたのに、私が心を閉ざしたのだ。それが一番いけない。
 体で考えている限りは大きな誤りは犯さない自信がある。変な本を読んでおかしくなっても一時的なものですぐホメオスタシスが働く。それが体の賢さだ。何が起きても大した問題ではない。少し注意深くなるだけだ。危険を察知しやすくなっただけだ。騙されにくくなっただけのことだ。体は全てを有益なものに変える。休むことだ、と言ってこんなことを書いているようじゃいけないが。脳化してはいけない。体にいつも委ねないといけない。サドは脳化して妄想の中に住処を求めた。文学はそういうものか。反自然な行為か。それでも体に依拠しないと生きることさえ難しい。ストレスの原因は結局それだったのではないか。私は大惨事を経験したわけではない。地震とか、火事とか。体に依拠すれば女とも男とも衝突することはないのだ。女に対して言い知れぬ、また原因のわからない嫌悪感、反感、憎しみを抱いている。近寄れば傷つけてしまう。危険な状態だ。h君もそんな感じだ。正気とは思われない。体に委ねればそういうことも見えてくる。養老さんは脳化したキチガイでありながら、体に依拠しているので良い文章が書ける。体に依拠すれば少しくらいのストレスでは動揺しない。今は難しいことは考えずに野心を抱かずに休むことだ。体に委ね、脳をひたすら休ませることだ。
 昔保たれていた治安が今はなくなりつつある。若者だけの空間にはいると恐い。違う倫理観を持っているから、安心できない。若者はもはや大人と倫理を共有していない。女は体に依拠しているのであんなに馬鹿なのにめったに間違うことはない。すごく単純なことしか言わないから間違えようがない。h君みたいに難しいことに簡単に騙されるのは例外なく男だ。体に依拠すればストレスも有益なものに変わる。すごく知的なことを言うようになった。ああ、知的でありたいと思うことが多かった。それが大変なストレスだと気付いたので最近は努めて考えないようにしている。読んでも考えてもわからないから。わからなくて正解だ。わかっちゃうから幸せとは限らない。知恵の悲しみだ。女と対立する必要があるだろうか。女は全力で私に奉仕したがっている。奉仕したいだけ奉仕させてあげたらいいんじゃないのか。否定文が多くなると脳化している証拠だ。気をつけよう。体に委ねよう。そうすれば脳が暴走しかけても簡単にセーブできる。疲れているのに勝手に脳が暴走し始める。体に委ねよう。もしそういう状態になりかけても体に戻ればいつでも正常化する。そしてそのストレス状態を有益なものに変えることができる。体は真に偉大だ。賢い。何でも知っている。体こそ万人に共通な言葉を知っている。体に依拠すれば知的であることを恐れる必要はない。一切恐れるものはなくなる。女も恐くなくなる。憎しみも消える。
 私はこだわりが強い。囚われと言っても良い。見聞きしたもの経験したことに取り込まれるか取り込んでしまう。自分がお留守になってしまう。暴走しクラッシュする。女とちょっとトラブルになったくらいでそのことにこだわり、憎しみや嫌悪感を増幅させる。男同士だって争うのにそれはこだわらないのか。なぜ女だけこだわるのか。そのほかにもありとあらゆることにこだわる。中学時代、高校時代のこと。生育歴。そんなものに大きな意味はないのにたまねぎの皮をむくようにこだわり振り返り、時間と労力を浪費する。しかし、体に委ねると決めた今はもう決してそんなことはしない。つまらないことにこだわらない。男だ女だ、肌の色がどうしたといわない。こだわりのない真に自由な精神は体に委ねることで得られる。体に委ねることで脳が休まり、ストレスを再生産しない。無意味なこと、有害なことをしなくなる。
 さっきと比べると格段に楽になってきた。気分が良くなってきた。苦しみや不安を生み出し、常に再生産しているのはこだわりやとらわれである。だからそれを思い切って捨ててしまえば今すぐ楽になれる。それも体が教えてくれた。もっと大きな決定的なトラウマを負ってしまった人はいくらでもいる。私はそんなものなどありもしないのに、勝手に妄想を作り上げてストレスを再生産している。こだわりを今すぐ捨てれば楽になる。簡単なことだ。体で考えればどうしたってそうなる。一切のとらわれ、こだわりを捨てても全く困らない。それどころか自由になり、楽になり、救われる。今私はそれを体験した。こだわりを離れることは自分が独りぼっちになり、頼るものがなくなってしまいそうで実は恐い。妄想がどこから生じるかというとこだわりからである。こだわりは弱さや不安から生じる。だから一人ぼっちじゃないという安心感、これが大事じゃないか。世界中の全ての人がもし私が困っていたら争って奉仕してくれるだろう。世界中の人は私が好きで私の世話がしたくてたまらないのだ。今本当にそう思える。世の中は明らかに万人にとってそうあるように導かれている。ありとあらゆる目に見えないものによって。それを信じよう。ただ信じよう。これは賭けと同じだ。利得の多い方に賭けるのが当たり前だ。人が悪意に満ちているという方に賭けても一文の得にもならないのに対して、人が善意と奉仕の心に満ちていると考えた方が一億倍も得じゃないか。今私が全く無力になったとしても生きていけるだろう。誰かが私をきっと生かそうと必死になってくれるだろう。それを素直に信じたらいいのだ。
 私はもともとこだわりのない性分だ。善悪の区別すら怪しいところがある。それが一度痛い目に遭うと逆に極端に臆病になって全てにこだわり始めた。性、権力、人が一定の距離を置きたがるものに依存しようとした。自尊心、自立心が肝要だ。依存する必要などない。過度のこだわりが妄想を生む。こだわりを捨てればいくらでも自由に生きられるし、もっと元気になるし、もっと実力を発揮できる。もし体を基本にするならば道徳を大事にしたくなるだろう。一切の道徳や人間性を否定するなどというサド的な妄想には行かないはずだ。簡単な話だ。サドに関する一冊の本からこれほど大きな気付きを得た。やはり体に委ねることは素晴らしい。
 おぞましい。うっかり近づかない方が良い。吐き気がしてくる。こだわりを捨てよう。仏教の教えと一致する。妄想の元はこれじゃないかと思う。小学校の頃のいじめっ子との付き合い。もっと以前の変な子との付き合い。でもこだわるべきじゃない。全くこだわるべきじゃない。とらわれるべきじゃない。今私は大いにとらわれていて、魔術的思考や妄想にとらわれている。これを一気に吹き飛ばすのが、体本位思考で、こだわり、とらわれとの決別だ。まだまだ時間はたっぷりある。ゆっくり休もう。疲れている。
 妄想。こだわり。とらわれ。依存するのはだめだ。依存がこだわりを生む。自分は一人じゃない。全ての人が争って私に奉仕してくれる。自分探しというたまねぎの皮むきはもう一切やめた。こだわりと妄想を捨てよう。妄想が体系化されて性格の一部になると困ったことになる。この際、サド的な妄想を一括して捨て去ろう。こだわりと妄想の体系。なぜそんなものにとらわれる必要がある。あらゆるこだわり、とらわれから自由であってよいのだ。
 体本位で全てのこだわりから自由になろう。神だったらどう行動するか考えて行動しよう。今日は疲れているからゆっくり過ごそう。こだわりが妄想を生む。ゆっくり休もう。
 体本位でやろう。少し横になっていた。寒気がした。吐き気もする。今は少し不安定だ。落ち着こう。体本位で行けばきっと落ち着く。でもはしゃぎすぎなところがあったから良かった。不安定になってもおかしくはない。サドはひどい。具合が悪くなった。あんなものは見てはいけない。何もしないのが仕事だ。誰でも仕事のないときはじっとしているか寛いでいる。私ももっと寛ごう。
 体本位でこだわりを捨てよう。こだわりを捨てると法律や常識や道徳に従って勤勉に働こうという気になる。思い切り、こだわりを捨てよう。この際だから。宗教でも道徳でも受け入れよう。体で生きていけば妄想の入る余地はない。
カフェコモンズに行って来た。半農半xというのが流行らしい。ちょっと興味がある。後半は鈴木樹里という面白い女の話だった。いじめ、不登校から自然食レストランという話が面白かった。小説のねたになる。少し落ち着いた。今日は異常な状態だった。鳥肌が立ってストレスが体に来た。体と脳のバランスが大事だ。



2006年02月03日(金)

 新しい朝が来た。希望の朝だ。一人はみんなのために、皆は一人のために。理想の実現のために頑張るのだ。車を買おう。しけた話はなしにして夢の実現にまい進するのだ。世の中は私のためにある。皆私に奉仕したがっている。私も皆に役立ちたがっている。それが私の生存につながるからだ。こんな当たり前のことに気付かないなんて。やっと気付いた。体で気付いた。もう不可能はない。私は有頂天だ。それはそうだろう。今まで生きてきてこんな嬉しかったことはない。積年の悩みが解決した。世の中の快楽という快楽をむしゃぶりつくすのだ。あのくそ坊主に弟子入りしてもいいくらいだ。うつも治るんじゃないかな。これはうつなんかじゃなくて反応に過ぎないのだ。ババアと接しなければならないという苦痛から来た心因反応なのだ。
 どれだけ多くの人にどれだけ好かれてもいいじゃないか。いくらでも好かれればいいじゃないか。何が不満なんだ。世界中の人は私が好きでたまらないのだ。私が困っていたらいくらでも助けてやりたがっているのだ。私が好きで好きでたまらないのだ。全ての人が例外なく私のことが好きなのだ。私もこの世の全ての人が好きだ。愛おしくてたまらない。助けてあげたい。奉仕してあげたい。そうやって世の中は成り立っているのだ。子供を生み育てるなんて奉仕の心無くしては不可能だ。
 私に会社に来るなというなんて何て優しいんだ。何て私のわがままを聞いてくれるんだ。皆私に親切にしたがっているとしか思えないじゃないか。これだけ優しくされたら私も優しくするしかないじゃないか。いくらでも優しくしてやるよ。ほんとだよ。
 有頂天ホテルを観て来た。面白かった。大爆笑というのではないが、引きつり笑い、静かな笑いが溢れていた。あまり関西にはない笑いだが、結局笑いはべたなんだと思った。ひねったり知的であろうとしても結局はベタなねたが一番受ける。しかし脚本はとても凝っていた。いくつものエピソードが同時進行し、時に絡み合う絶妙な話。特に感動とか、すごいとか言う話ではなくコネタの積み重ねだ。そこは好感がもてた。結局感動とは自分のために必死でサービスしてくれる姿に感動するのである。人は必死に自分の職分に忠実であろうとし、それが時に笑いを呼ぶ。人の善良さをどこまでも信じる姿に感動を覚えた。
 人は争って私に奉仕したがる。心から喜んで私にサービスしたがる。私は可愛そうなのかなと思う。でもいい。私がすごい目を持っていると恐れているのだと思うようにしよう。この世の全ての人間は私に必死でサービスしようとしている。もちろん全ての人に対してだが。そして私もこの世の全ての人に奉仕する用意がある。いくらでも奉仕してあげよう。私は全ての人はそういう風にできているのだ。
 サドの本を買った。サドの研究書だ。大変魅力的だ。サドが非常にナイーブで純真な人間だったと気付いた。私に比べると非常にナイーブだ。妄想に取りつかれる人間はナイーブであることが多い。
 神だったらどう考えるだろうと思う。人は神の考えを一部であるが知ることができる。それくらい賢い。神が考えるとおりに行動しよう。普通に私は自分のことを神だと思う。神だから人類を幸せにするために全力を尽くす。自分が神であることを確信する。全てが美しく調和し、私に奉仕していることを感じる。今が人生最高の日であると確信する。神になった日だ。私が神になった日だ。
 体に委ねよう。体本位で行こう。サドの本は読まない方がよいだろう。少し頭がおかしくなってきた。神になった私。体本位になれば問題ない。体に委ねよう。考えるのは無駄だから止めよう。休むことが大事だ。働くこと、遊ぶこと、休むこと。この三つが大事だ。
 サドの本を読んだら少しおかしくなってきた。もちろん良くなるだろう。でももう読まない方がよいだろう。気が確かになってきた。流れが生じてくる。体に委ねれば大丈夫だ。少し頭がしっかりしただけだ。サドの本を読むどころか書いた女がいるのだ。読んで悪いことはない。自分が神とか言ってたのとどっちがおかしいのだ。体に委ねよう。体本位で行こう。明日には回復しているだろう。今日のほうがおかしかったじゃないか。



2006年02月02日(木) 眠れぬ

 眠れない。4時前だ。でもなんとも思っていない。楽しい。明日会社に行く必要はないのだ。岡本のところに移ろうかと考えている。あのキチガイの側にいることが嫌なのだ。あいつは私が死ぬまで攻撃してくる。不倶戴天とはこのことだ。あいつと仲良くするくらいなら死んだ方がましだ。おぞましいレズオヤジ。低脳精薄精神異常の。
ついに一睡もできなかった。b校は一年休もうかなと考えている。無理といえばこれほど無理なことはなかろう。創作の無理、集団の無理。あの坊主だけでも相当なストレスになっている。周りの女性の皆さんも私に相当ストレスを感じていらっしゃると思う。おかしいのに強くなると危険なことになる。今回のことでとてもよくわかった。主治医も危惧の念を示していた。b校は私に多くのものを与えてくれた。でも今の私にそれに耐えられるだけのキャパがあるかというと疑問だ。断念ということも賢い選択肢だ。むしろ一年充電して作品を書き溜めた方がいいのじゃないか。そうしよう。
 会社には今日休むと連絡した。後三ヵ月は会社に行かなくても良い。もっと穏やかな気持ちになることだ。体は穏やかに決まっている。あの石垣の海に浸かったときのように穏やかで喜ばしい気持ちになろう。寛容になろう。女は馬鹿だ。でも私には関係ないじゃないか。馬鹿だと私の銀行の残高が減るのか。寛容になろう。
今日のb校は楽しかった。私の小説は評判いまひとつだった。でも満足だ。実力のほどがわかった。世の中はうまく行っていると思えば楽だ。全てうまく行っているのだ。私が思い悩むようなことは何一つない。誰も私のことを悪く思っていないし、何もかもうまく行っている。私が休もうと会社はうまく行っているし、休むことで私もうまく行っている。体で考えればすぐわかる。誰も私のことを悪く思ってなどいない。私を嫌ったり陥れようとなどしていない。皆私が好きだし、全てうまく行っている。本当に申し訳ないが楽しませてもらおう。休ませてもらおう。
 今日はオリバーツイストを観た。観るのがしんどかった。19世紀のイギリス、ロンドンとはひどいところだった。イギリス人は残忍だ。資本主義は残酷だ。



2006年02月01日(水) 今日

 今日は特別な一日だった。会社を休むことにした。これは自分が希望したことだ。遠い昔、結核で会社を休むことになったときのほっとした気持ちを思い出す。派遣のキチガイ女とトラブったことに課長が怒って私を産業医のところの行けと言った。それでさっき行ってきた。するとzさんが来ていて、事情を話した。私はzさんによるとやばいところに来ているという。課長や周囲が私の行動に過剰な反応を示しているという。z氏の判断が正しいと信じて思い切って休ませてもらうことにした。確かに疲れ切っていた。eg以来必死で頑張ってきたがそろそろ一休みしろという天の声だ。確かに私は前に悪いことをした。若い頃家庭内暴力を働いたこともある。でも今は違う。体で考えることを知った。だから全く心配はない。それなのにやばいとz氏は言う。やらなくていいことを必死でやり、やらなければならないことを全くやらない。これではいけない。私は高まっているかもしれないがそんなにおかしいとは思わない。でも疲れてはいる。疲れるとおかしな反応が出るのは確かだ。体本位というのは良くないことなのだろうか。そうではなくて焦りすぎたのだと思う。私の変化の早さについていけないのだ思う。確かに疲れ切っている。実感としてわかる。疲れているからミスが多い。不機嫌になる。暴力的になる。妄想が出てくる。egに出たのは悪かったのか。よくわからない。完全に自分を信じきることは良くないだろう。この疲れを何とかしないといけないのだ。sさんなんかは少しおかしいと思う。それと同じで疲れすぎているのじゃないか。帰ってくる頃はいづらくなって辞めているといいな。私は全く大丈夫だからいつでも復帰できる。ただ疲れているだけだ。北原の下になってから疲れがひどい。egの後の不安定さ。マンション騒ぎ。あれからおかしくなった。でもこれは試練だ。自分の変化が本物であるためにはこんな試練に耐えねばならないのだ。
 まだまだ長く勤めたいのだ。だからゆっくり休もう。バージョンアップのために休もう。
 体本位が本当に根付くまで時間が必要なのかもしれない。私がおかしくなったのは中学生くらいだ。12からだとすれば33年もの間苦しんでいる。
 休む必要はない。でも休んでいいというから休もう。5年以上もあのキチガイの側にいて頭がおかしくなってきた。アサーティブに行くことはできなかった。それがこの結果になってしまった。どっかんになってしまった。アサーティブに言えばあんな脅しに屈する必要はなかったのだ。派遣元に言うというのは脅しだと私は見抜いた。何で私が休まなければならないのかわからないが休ませてくれるのだから休もう。派遣のキチガイ女の脅しにビビルとは本当に情けない。男は本当に弱い。私は女だから何も恐くない。全然okだと思っているのだが、休んでいいのだから私は利得を得たのだ。申し訳ないが休ませてもらおう。
 z氏の目から見るとおかしいということはやはりおかしいのだろう。今は何も考える必要はない。ゆっくり休もう。


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