なか杉こうの日記
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しばらく「チャングム」から遠ざかっているけど、なぜ良かったかと考えるに 日常からトリップできたんだね。それも最高のトリップ。時を越え、空間を越えて違う世界に行く。
たとえば日本の時代劇とかを見ていてもそんな感じは全然しない。ファンタジーの要素がないんだね。ところがチャングムにはそれがあった。 今思い出すのは、高い山の上で、なくなったなんという名だっけ、サングンの遺骨を撒く場面。
また最初から見てみよう、と思う。
涼しい風が吹いてくると、ふうっとして息がつける。むかしは「トリップ」できたことがいくつかあった。小さい頃は本を読むこと。学生時代は書くことによって。自分は完全に別世界に入ってしまった。それは何時間でもそうだった。
ところが今は・・・全くそんなことがない。現実ばかり。近頃は詩を書くこともないので窮屈な世界だ。
そうだ、新聞に元ロシア語の通訳で今はエッセイスト、かな、の米原万里さんが亡くなったと書いてあった。びっくりした。あの方の本を読んで自分はずいぶん身近に感じた人だった。すごい才能と才覚の人だった。びっくりだなあ。合掌。
2006年05月28日(日) |
「ダヴィンチ・コード」 |
「ダヴィンチ・コード」の本も映画も私は見ていないが、人からあるいはテレビなどでその筋書きを知るにつけて、なんかいやなことがある。キリストについての冒とくかどうかの問題はそんなに気にならない、というかわたしはクリスチャンではないので。
しかしながらいちばんいやなことは、レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその作品を大衆向きの小説と映画に利用したことである。
つまり、大多数の人々が、今後あのモナリザを見るたびにコードのあのミステリアスな筋書きを想像するだろうし、そのミステリーの象徴としてしか考えられなくなるだろうからだ。
あの「最後の晩餐」の絵画を見るたびに子供たちはMだかVだかのきわめて卑俗なアイデアのストーリーと結びつけることだろう。そのストーリー自体はきっとうまく作られたすばらしいミステリーかもしれない。
だけれど絵画そのものに含まれる「天啓」というのかしら、モナリザの不可思議とされる微笑は現実的な「謎」とは違うと思う。最後の晩餐がこちらに引き起こす神秘な感じ、そのわからないままの神秘さがあの、大衆的な筋書きと簡単に結び付けられてしまう・・・。
簡単に言えば「著作権の侵害」である。何百年も前の作品にもちろん著作権などないのだろうが、ダ・ヴィンチはあの世で「あさはかなことよ」とふふん、と笑っているのではないか・・・。
マグダラノマリアとキリストを結びつける概念は、自分には「もしかしてそんなことがあってもおかしくない」と思われる。それはキリストを冒涜するとは思わない。
モナリザの絵が気の毒である。勝手に映画のポスターやキーホルダーや本の装丁に使われて・・・。
五月病か わからんけれども 気力がなえて 仕方がない 五月も半ばを過ぎ 人生も半ばを過ぎ ことり、と音がして 葉っぱが飛んでゆく 五月病が からだに巣くって かさかさ かさかさ どこかしこも 音を立てている 人から心配など こんりんざい してほしくない というのはある。 空はしろくて 相も変わらず 車は走って行く 息をしているのだろうか 生きているのは感じられる 過ぎた友だち 過ぎた人々 ことり、と音がするのは いったい 何ものか。
昨日はとても風が強く、夕方久しぶりに見たきれいな夕暮れであった。とおくの 雲がピンク色で。しかも空気が澄んでいて、この匂いは子供のときに馴染んでいた匂いだと思い出した。 このようなうつくしい夕暮れをしょっちゅう見ることのできる人は幸福である。ふだんオフィスで働き、スポーツジムに通い、夜は夜で飲みにでかけうさを晴らし、恋に夢中になり・・・という暮らしではあのようなうつくしい夕焼けを毎日見ることは不可能であろう。
しかしながら、あのような夕暮れを見ずに一生を過ごす人は哀れである。あの澄んだ空気を吸わずに働く人々は。
家ではたらく主婦は子育ての合間に毎日でもあのような夕暮れを見ているのだろうか、と思った。ならばわたしの人生はなんであろう。このまま夕暮れを見るのが退職後になってしまうだけの人生か。
そんなことを考えた。
雨が降っている すごく降っている 前のとおりを バチャバチャと音を立て 車が走っていく 雨の音は好きだ ときには 嵐の音さえ。 サッシにあたる雨粒の音 風の響き ゴォーッゴォーッという音を聞いていると どこかとおくへ運んでいかれそうで からだがフワッと浮き上がる むかしガラス戸を 風は叩いて吹き抜けた 母はいつもそんなとき 眠れなくなるのだった 風だねえ、いやだねえ、と 瞳を見開いて言った きっとなにか 連れ去られるということで 嫌な思い出があったのだ ざあっと通り過ぎる雨 かしかしかし、とサッシを鳴らす音 台風の突風でさえ 嫌いでないこともある 台風の目に落ち込んだときの 雲間から出てきた 明るい月。 今夜もときおり さあっと音を立て 過ぎ行く さあっさあっと わたしのこころを掃除するように 吹き抜けてゆく
写真を見た なくなった人の写真である いくつもの旅 流れる雲 あっという間の 当たり前の こんなふうに人は
過ぎ行く。
写真を見た それはじぶんの写真である いくつもの 当たり前の 笑いさざめき それは虚偽の笑いで
そうだ、と わたしはアルバムから顔をあげる こんなふうにして ひとは過ぎ行くのだ こんなふうにして あっというまに
旅の途中のソテツ ゴオゴオと揺れている そんなふうにして 人生は過ぎ行くから。
虚偽の笑い、と幾回も わたしはつぶやいた こんな風にして こんな風にしてひとは いなくなるのだ そんな風にして 虚偽の笑いばかり残して あなたは。
先週は仕事の帰りになんとか間に合って三越でやっていた「チャングムの誓い」展に行った。三越新館ってたぶん初めて行ったけれど入るなりとてもいい香りがするんですね。 チャングムの方はそんなに期待するほどではなかった。というか、実際に撮影で使った手紙とか包丁とかも展示していたが、これを古いといっていいのか新しいといっていいのか、複雑な感情である。
王さまが食事をしたときのセットや、スラッカンの調理場を再現していた。重そうな鍋類。かまど・・・。テレビでは明るい女官たちが行き来していたから感じなかったけれど、この重さはなんだろう・・・。
むかし、アメリカのセーラムだったか、二百年以上も前の台所を見たとき、なんとそれは憂鬱で重苦しく、そこで働いていた人の辛さが見えたような気がした。
スラッカンで働く女官達はきっとあんなかわいらしい人たちではなかったと想像する。まず、力がなくては。体力。手の器用さ。
その大鍋を見ただけで気が重くなってしまった。しかしわたしは韓国のことについて何も知らないのだ・・・。
さきほどテレビで睡眠障害のことをやっていた。眠りにつく前一時間ぐらい、自分なりにリラックスして入眠するようにと言っていた。好きな音楽を聴くとか、肩の凝らない本を読むとか。
わたしはあまり好きな音楽というのがないし、本を読むというとついのめりこんでしまう本かあるいは無理して考えないと読めない本になる。
風呂に入ってハーブティーでも作ってリラックス・・・なんて雰囲気ではない。部屋が散らかっているので。そもそもありがたいことにどうしても寝られないというのがめったにない。かといってぐうぐう寝ることができるわけではないが。
きのうはチャングムのシナリオ第一巻と「王様が語る!もうひとつのチャングム」の本が届いた。王さま、すなわちイム・ホさんの書いたチャングムの俳優さんたちの本である。ついついのめりこんでしまった。
NHKで予告編などでちらりとチャングムのドラマが出てくると、なつかしい故郷の人々に出会ったようである。なにしろ54編すっかり見てしまったのだからね。この中宗の朝鮮王朝をほろぼしたのは秀吉ということがどこかに書いてあったが・・・。わたしの、そして日本人の無知には驚くね。
そうだ、漫画「日出る処の天子」にも、朝鮮から来た陶工が出てきた。われわれの師匠として描かれていた。あのような敬意が時代を下るに従って消えてしまったのはなぜなのだろうか。考えてみれば世界史で自分が詳しく習ったのはたとえば英国王朝、アメリカの歴史、フランス王朝の歴史・・・ときわめて限られている。
中国の歴史もわけわからないけど結構出てきた。しかしながら朝鮮・韓国の歴史とか、南米の歴史とか、ましてやアフリカとか、ほとんど出てこなかったような・・。チャングムのドラマは自分の閉じられていた片方の眼を見開かせてくれたような気がする。
昼寝をしたら夢を見た。 わたしは医療関係の研修をしている。周りは白衣を着た女性の研修生ばかりで、何人かずつに部屋が割り当てられている。 医師の先生が、これで輸血(?)又は注射又は点滴をしなさい、とわたしに器具をポン、と渡す。わたしはそのやり方がさっぱりわからないことに気づく。自分がこれまで怠けていたような気がしてどうしようと思う。ほかのみんなはよく知っていることなのに。 わたしはどうしてよいかわからず、先生にきっとひどくしかられるだろうと思いおろおろしている。自分の部屋に戻ろうとするが、どこも同じようで行き着けない。 しばらくすると誰かがわたしの代わりにそれをやってくれている。わたしはほっとする。しかし自分はなんでできないのか非常に口惜しい気がする。 人に呼ばれてふっと目が覚めた。長いストーリーの夢を見ていたような気がした。
好きなことができなくてなんであろう、じんせいは短いのだ、なんて わかったような言葉がよぎる 世界ははな。はなびらが万華鏡のように 散らばっている 人生のはな はるはさくらのいろ はらはらと、散る 好きなことができなくてなんであろう、と 妙な化粧をした女の子が テレビの前で言う 批評家はあなたたち、だまされる前にトーキョーから去りなさいと 懸命なあどばいすする、しかしわたしは きみたち、瞬時のたのしみのために お小遣いをため トーキョーまできたのだね たった二時間のライブのために 数時間のショッピングのために それはいいことだ たいせつなことだ 生きがいのあることだ ならば。 人生ははな はらはらと空中に色とりどりの はなびらが舞う すきなことができなくて、どうする しょせん一瞬のよろこび すぐに消えうせる はらはら、はらはら まるでちいさなビーズのようだ
先ほどテレビで (あたしはまるで一日テレビしか見ていないようだ・・・) 細木先生が相談者のことを「ジコチュウなんですよ」と言っていた 自己中心か。 いまさら言われることもないが あたしがそうであろうか。 だとすればどうすればよろしいのか いまさら細木先生に言われるまでもない ひとはそれを口にしないだけだ 自己チューならば 徹底して 自己チューになれれば良いのだが ときどきうんざりするので 変えてみたいと思ったりもするのだが すべてがヤッカイだ・・・
* * *
今朝テレビで近頃起こった自分の子供を殺めた母親の気味の悪い事件をそれぞれ著名人がコメントしていたが、その中で誰だろう、結構年の行った女性が、「この母親の経歴というのは、そうですねー、この豊かな時代にこんな人生もあったのかと驚きます・・・」などと言っていた。それはこの母親が中学卒業後就職列車にのり都会で働き出し・・・という人生を指しているのだが、その言い方がいかにも上から言うようで非常に不快な感じがした。
彼女の言葉はまさに偏見である。political correctnessに抵触すると思う。中卒で上京し働いて離婚したりすれば皆この母親のようになるとでも言うのか。この母親の年ならばこういう人生もアリだろうし、こういう人生を過ごしたからこういう気味の悪い事件を起こすというのは、全く関係がない。
セレブだかなんだか知らないが、どんな裕福な暮らしをしていてもこういう偏見に満ちた考えしかもっていない人というのはいるようである。この事件はむしろ精神異常の分野から探ったほうがいいだろう。というとまた精神に障害を持つものへの偏見と言われそうだが、精神的なものと、性格と、環境とすべてにかかわってくるのだろう。 最近のゾッとする幾多の事件。ひとには他人を共感する想像力の遺伝子がもともとかけている者もいるらしい・・・。
京都を五時過ぎに出てほぼ三時間後にはうちに着いている。驚きだ。感覚がわからない。第一、のぞみのあのがたがた揺れるのは疲れる。
昔はひと月。早馬で三日でしたっけ。それがたった三時間!まだ外国から成田に着くほうが良い。空港について、もわっとした気分でいて、都心まで出てそれからうちに帰るうちにだんだんと慣れてくる。
ところがのぞみを途中で降りるときっかり三時間でうちに着けるものだから、その感覚のギャップったらない。ほんわかまるっこい京都弁に囲まれていたのが、夜の慣れ親しんでいる景色のなかに突然投げ出される。まるで空間をワープしたようだ。
先週は前にも書いたけれど職場の人が外国の雑誌に投稿する記事を英訳して それがひとつ、終った。昨日はうちの関連施設の展示物の英訳のチェックをしていたなにしろ江戸時代の事物の言葉が出てくるので、日本語の意味でさえ定かではないから、いろいろ調べるのに時間がかかる。
本を図書室で借りて、インターネットで調べて、とやっていたが、江戸時代の事物の説明をした本を見出すとこれがなかなか面白くて、つい「ふんふん」なんて読んでしまう。これがわたしの仕事の一部とは!なんか申し訳ない気持ちである。
なにしろ文を書くのは好きなので、英語も自分なりのストーリーでざあっと書く分には抵抗はない。しかしそれが正確かどうかは別物。シンプルでわかりやすい英語がもっと上手くなりたいなーと思う。
チャングムのDVDは五十何巻すべて見終わったから寂しくてしょうがない。昼間でも目に登場人物の顔がちらついている。韓国のテレビ局がファンクラブを作っていて、それに入るといろいろ得点があるけれども、テーマパークまで作っていてなんか商売じみていて、入る気になれない。
また、俳優さんに会えるツアーもいろいろあるらしい。でも六月にある、旅行者のツアーは、なんと最低人数百人ですって。人気があるんですね。わたしにはどうしようもない。だからわたしの場合は、見たあのストーリーのみに限るとしよう。
最近は、「ナルニア国ものがたり」や、あの大好きな「ゲド戦記」が映画化、アニメ化されているようで、非常に落胆の思いである。ゼッタイに映画など見ない。
ゲド戦記は青年の成長の物語である。影と光。それと「言葉」のもつ神聖さも現れている。自分の名前を明かさないこと。それは魔力を持つこと。アーシュラ・グインは父親が人類学者だったから、彼女の作品には、西欧の常識とは異なる、論理、慣習などが貫かれている。
あれがアニメ化なんて、ぜったいに困る。というか、できない。宮崎駿の映画になるそうだが、彼のアニメ映画は社会化というか、社会の構図のカリカチュア的な要素があって、すごく面白いとは思うが、好きになれない。ファンタジーはあくまで人の「無意識」に働きかけるものである。彼の映画は意識も意識、「ああ、社会のこのことを風刺しているのだな」とあらわにわかるので、そこが嫌いである。映画自体はもっのすごく面白いとは思うけど。
今日はいい天気だ。
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