2017年08月29日(火) |
ざぶん/嵐山 光三郎 |
文士放湯記
漱石、子規、露伴、紅葉、鴎外、独歩、一葉、鏡花、花袋、藤村、鉄幹、晶子、荷風、武郎、啄木、白秋、牧水、潤一郎、直哉、康成
著者が奥会津の山また山の奥の一軒宿に、段ボール49箱分の文献資料古雑誌を持ち込んでの執筆。 明治の文士はじつによく温泉に入った。 そんな文士たちが好んだ温泉は、ことごとくがひっそりと静かな天然純朴の湯ばかりだった。値段も安かったようだ。 川端康成が長期滞在した湯ヶ島の宿は、東京の下宿よりも安かったから、一年も二年もいられた。
有名な明治の文豪たちの温泉が舞台であったり、仕事場であったりの面白い裏話とでもいうべきお話の数々。
2017年08月18日(金) |
みかづき/森 絵都 (もり えと) |
あらすじは、昭和36年、小学校用務員の大島吾郎は、勉強を教えていた児童の母親、赤坂千明に誘われ、ともに学習塾を立ち上げる。女手ひとつで娘を育てる千明と結婚し、二人の間に二人の娘も誕生し、千明の母も交えて家族になった吾郎。ベビーブームと経済成長を背景に、塾も順調に成長してゆくが、予期せぬ波瀾がふたりを襲い、文部省を毛嫌いする千明と山あり谷ありの人生を送る。昭和〜平成の塾業界を舞台に、吾郎と千明、蕗子・蘭・菜々美の三人の娘、そして蕗子の長男一郎と、知らず知らずというか運命なのか塾という教育の荒波に巻き込まれていく。
あの子は人を裁いて、そして、許さない。あの子、幸せになれるのかしら。 どんな子であれ、親がすべきことは一つよ。人生は生きる価値があるってことを、自分の人生をもって教えるだけ。 (千明の母、頼子が吾郎に語った想い)
「でも私、あのころの自分も、今のあの子たちも、かわいそうとは思ってません。お金はなくても、母親のド根性を見て育ったおかげで、私、裕福なうちの子にはない強さをもらえたと思ってますし。カズちゃんや真奈ちゃん見てても、そういう力、感じますもん。なんていうか、ほんまもんの『生きる力』 (一郎が塾に通えない本当に支援を必要としている子供たちにタダで勉強を見てやる、という決心をした時)
失われた声に耳をすませて (あの日、あの時、一瞬にして世界が変わった。 そこに確かに存在した人々の物語。 あなたに彼らの声が聞こえますか?)
時々、本を読んだあとでその物語の中から抜け出せないで、しばし無というかぼうっとしてしまうことがある。 この本もそんな一冊であの日、確かに生きていたあまた多くの市井の人々、私も今、そのなかの一人のような思いでいる。
なぜ、あんなことが起きたのか。なぜ、何万人もの人が生きながら焼かれるようなことになったのか。 町に爆弾が落ちて、やがて町の外にも黒い雨が降りはじめたとき、私は思ったのだ。 ああ、空が泣いている。こんなむごいありさまを見た空が泣いていると。 空さえ泣き出したからには、この雨が降りやんだら、今見ていることはみんな悪い夢だということになるかもしれない、そして今朝見上げたばかりの、あの晴れわたった青空が広がって、またうるさいほどの蝉時雨が聞こえてくるのかもしれないと。 だが、黒い雨がやんでも、目の前のむごい光景は変わらなかった。 町からは次から次へと生きながら焼かれた人たちが逃げてきて、幽鬼の群れみたいな行列は消えず、それどころか長く長く伸びていくばかりだった。 あの日から続く悪い夢の連なりのなかに、私は、今も立ち尽くしているような気がすることがある。
「あなたでも私でもよかった。焼かれて死んだのも、鼻をもがれたのも、石に焼きつけられたのも。あなたでも、私でもあった。死ぬのはだれでもかまわなかった」 そのとおりだった。 「私にはいまだに、その答えがわからないのです。……だからこそ、あの日を記憶しておかなければと思うのです。あの日を知らない人たちが、私たちの記憶を自分のものとして分かち持てるように」 〜 「一人ひとりが、確かにここで生きていたことも。これ以上ないほど無意味な死を死んでいったことも」 僕たちは、また黙って川を見つめた。
八月の光が、あたりに満ちていた。
|