四国の大河・吉野川の源近い清流の岸に生い立った少女が父母の愛に包まれてその生涯の想いをつづった、著者の自伝的小説。
父の青春や母の死、杉並の家、そして死にゆく姉など本当に細やかな人の思いのような文章が心に残った。
父の健康状態を医者に診断してもらうことなど、わたしは一度も考えなかった。父も医者ぎらいであった。健康保険のなかったとき人間は異変の起こるまで医者へはゆかなかった。黙って自然に死のやってくるのを待ち、従順にそれを受け入れるものだと考えていた。 現在で考えると、あまりにも病気についてしらなかったことに唖然とするほどであるけれど、あれであの時代は長閑で安らいだ時代であったのではないだろうか。 ちょっとした医学生くらい病気について知識を持っているいまの老人が、果たして昔の老人よりも幸せでいるのだろうか。朝に夕べに血圧を心配し、しんぞうの調子を案じ、運動を義務のように実行し、コレステロールだの鉄分だの脂肪だの考えて生きている老人が、父の頃の何も考えなかった老人より果たして仕合せだろうか。
↑ 正に我が意を得たり。 健康診断やサプリメント大流行りの昨今に、くさびを打つような記述。 されど私は痛いところがあればすぐに医者というか鎮痛剤に頼る日々。
死にたいと わめいた口で 飯食らう
2017年04月01日(土) |
九十歳。何がめでたい/佐藤 愛子 |
著者が88歳になった時、今まで何十年も頑張ってきたのだから、これからはゆっくり老後を過ごせばいいと言われたのだが、いざゆっくりとした何もしない生活に入ってみれば気力も起きず、老人性ウツ病みたくなってしまった。 そんな時に 「女性セブン」からエッセイ連載の話がきた。 毎週はしんどくても隔週ならということで始めたものを、約1年2か月分くらいを まとめたもの。
内容はボヤキ漫才のような、長年生きてきていまの若いもんは、昔は良かった的な愚痴めいたものが多いけれど、何気に共感できる内容だった。
ああ、長生きするということは、全く面倒くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。始終、涙が滲み出て目尻目頭のジクジクが止まらない。膝からは時々力が抜けてよろめく。脳ミソも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている。 「まったく、しつこいねェ」 思わず呟くが、これは誰にいっているのか、自分にか? 神さまにか ? わからない。
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