2015年07月17日(金) |
死に支度 瀬戸内 寂聴 |
私は人よりも老いが早いと痛感する日々を過ごしているから、こういうタイトルの本には過剰反応してしまう。 これからの私の人生に何か参考になることはないか、薄暗くてもいいからひとすじの燈明を見つけられるかもしれないと思うのだ。
寂聴さん、91才の本当に死を身近に感じての感想というか本音の想い。 現在の寂庵の様子とか親や姉の身近な人の死を邂逅してのお話。
ここまで長生きするとか夢にも思っておられなかったようで、ここまできたら生きていることそのものが死に支度なのだそうだ。
正直に言えば、私はもうつくづく生き飽きたと思っている。我が儘を通し、傍若無人に好き勝手に生きぬいてきた。ちっぽけな躰の中によどんでいた欲望は、大方私なりの満足度で発散してきた。 最後のおしゃれに、確実に残されている自分の死を見苦しくなく迎えたい。人は自分の生を選び取ることは出来ないけれど、死は選ぶことが許されている。
一年に三万人という自殺者が一向減らない日本の現状に対してマスコミから意見を需められたりする時は、人間は定命が尽きるまで自分を殺してはならないなどもっともらしく答えているが、私の心底を覗きこむまでもなく、老人で生きつづけることに喜びと情熱がなくなれば、自殺してもいいように常に思っている。僧侶の立場では絶対口にできない考えだが、小説家としての私の心の底には自殺した作家たちの誰彼をとがめたりけなしたりする気持ちは毛頭ない。 むしろその人たちになつかしさを感じているのだった。
私も本音を言えば自殺したい。 できたら医療機関などで正式な手続きで家族に迷惑をかけることなく、しっかりした本人の強い考えのもとに注射1本で安楽死させてほしい。 尊厳死を通り越して。 そういうことが認められる社会にならないかなぁ、と秘かに願っている。
2015年07月12日(日) |
ふぉん・しいほるとの娘 吉村 昭 |
文庫の上下本でまるで幕末の歴史を学んでいるかのような記録物語。
1823年のシーボルトの来日から、1903年にお稲(伊篤)が亡くなるまでを、この作者ならではの丁寧な文章が続く。 特にシーボルトが何を日本に残したのか、どんなことをやろうとしていたのかが、詳細に分かる。 シーボルトはまるでスパイかのように日本の文化や地理や国情を収集して国外追放になったとは驚きだが、それに関係した日本人の処罰には心が痛む。 また、出島でのオランダ人の生活風景や暮らしぶりと日本人との関わり合いや 幕末のオランダ以外の外交交渉の行方や幕府の動き、長崎貿易の実際まで理解しやすく述べられている。 まるで幕末の大河ドラマを見ているかのごとく、幕府と諸外国との外交交渉や貿易の動き、また諸藩との政治情勢まで学べる。 もちろん、シーボルトと愛妾其扇(お滝)との葛藤、お稲の波乱に満ちた一生もしっかり書かれている。 まさにお滝とお稲の幕末の二人の女性史として充分に読み応えがあった。 ただ 申し訳ないけれど、ペリー来航の様子や高野長英のことは省いてもよかったのではないかと思う。
それにしてもお稲がシーボルトの弟子である井上宗謙に犯されて、おタカを一人で産むシーンでは思わず涙が出た。 日本で初めての女性の産科医を目指して修行するお稲にとって何という皮肉な運命なのだろうと。
|