読書記録

2014年06月11日(水) あい 永遠に在り       高田 郁


幕末 徳島藩医まで出世をし、さらに戊辰戦争で活躍するもも73歳にして北海道の開拓を志した医師関寛斎。
寛斎は千葉県銚子の近くの農村に生まれ、3歳のとき母親が死んだため、母の姉が嫁いでいた寺子屋の師匠のところに養子にもらわれていった。
そんな寛斎を傍らで、ずうっと支え続けた妻あいがこの物語の主人公だ。


━人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り


決して贅沢をせず寛斎の養母に仕込まれた機織りで貧しい家計を支えていく。
12人の子を生すも半分は夭逝するという悲しい現実の中で、寛斎73歳・あい68歳の時に徳島で築いた財産を全て整理して、北海道開拓へふたりして新たな旅立ちをする。
息子又一が政府から払い下げられた陸別へ足を踏み入れることなくあいは心臓病で不帰の客となる。

そして 夫寛斎にあてた遺言だが
葬式は決して此地にて執行すべからず。牧塲(陸別)に於て、卿が死するの時に、一同に牧塲に於て埋めるの際に、同時に執行すべし
と 言い残している。
この遺言通り、二人はいま陸別の丘の上に眠っているそうだ。


控えめながらもいつも家族の中心にいた女性の物語、のめりこむように一気に読んだ。

それにしても あいの織った 上総木綿と藍縞木綿の実物を見てみたいものだと、心から思う。












2014年06月05日(木) 忘我の記               中里 恒子

 
 大正12年9月1日の関東大震災は、箱根湯元に住む辻村伊助一家5人を直撃した。丘の上の貯水池が地震振動により決壊、山崩れを誘発し、一家全員土石流の下に埋没。
この時、伊助は37歳、スイス人のローザ夫人との間に授かった3人の子供たちも・・・一瞬の出来事で逃げ出す事もできなかったのであろう。
スイスから持ち帰った植物も試行錯誤して移植し、5千坪の農園というかロックガーデンに姿を変えつつあったというのに何と哀れな現実であろうか。

この物語は
生前、辻村伊助が大正11年8月に刊行した「スイス日記」をもとに、著者なりの想いで伊助の私生活のほうに重きをおいて書いたもののようだ。
この頃では珍しい国際結婚であるローザ夫人とのロマンスはさらりと流されているが、それは伊助が「スイス日記」にほとんどプライバシーなことは記さなかったことによる。

が、ひとりの女性の波乱に満ちた人生の物語が好きな私としては遠く離れた日本に来たローザ夫人の想いを、それこそ物語として文を進めてほしかったなぁ、と やじうま精神旺盛なおばちゃんはちょっと物足りない気がした。













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