2013年03月26日(火) |
蘆火野(あしびの) 船山 馨 |
明治維新という日本が大きな転換を迎えようとしていたときのお話。
微録の旗本直参の息子、河井準之助と函館にある諸術調所の下女おゆきとの恋物語。 だが一口に恋物語と言い切れない面白さがあった。 まるで函館戦争とパリコミューンの実況のような展開で歴史の勉強をしているような感じもあった。
準之助が西洋コックとなるべく、追われるように二人してパリに行ったものの時代の渦に巻き込まれて準之助は死んでしまった。 まだ産後の養生をしなければならないおゆきだったけれど、準之助の終焉の地を去りがたく準之助の忘れ形見である寛を女手一つで立派に育てあげた。
明治27年(1894)の晩春、おゆきは寛とともに24年間住み馴れたパリを後にして帰国の途についた。 準之助とおゆきの青春を秘めた函館基坂下の雪河亭、現在寛から数えて三代目に当る。人眼に立たない仕舞屋のようなつつましい店構えではあるが、味はとびきり値段は手頃、という準之助の夢は、店の名とともにいまも生きている。
それにしてもこの作者の書いた『石狩平野』『お登勢』ともに、貧しい境遇ながら主家の主人を思いながら直向きに生きている女性の物語が多い。 時代の渦に巻き込まれながらも己を失わず健気に生きていく主人公ばかりで、何気に世間を斜に見ながら鬱屈した日々の私にはその都度いろんなことを考えさせてくれるなぁ・・・と新たな思いはするのだが。。。
2013年03月14日(木) |
月の輪草子 瀬戸内 寂聴 |
枕草子を書いた清少納言は生年月日が不詳とある。
そして この月の輪草子を書いた寂聴さんは90歳を越えられて、 いつしか年老いて草庵暮らしをする清少納言が乗り移ったかのようだ。 寂聴さんはとっぷりと源氏物語の現代語訳に浸っておられた時期があった。 その重荷を下ろして90歳を越えたからこその老いた清少納言を抱えられたのだろうか。 清少納言が心身ともに仕えた中宮定子の幸薄い人生を、無我夢中で書き下ろしされたのがこの本だ。 物語風にはなっていないが、時折 清少納言と寂聴さんが一心同体かのような進め方だった。 あの時はあぁだった、こうだったというような回顧録のような感じ。
「いやなことは忘れなさい すんだことは捨てなさい」
わたしもいつか忘れるほどの昔、尼になっている。どんな死に方をするやら、すべては仏まかせ、もし、それでも仏が願いをお聞き下さるなら、地の涯まで芒のたなびく野の中で、ひとり行き倒れ、その死体を銀色にそよぐ芒の波でおおい包んでほしいものだ。 あの世とやらで、今更誰に逢いたいとも思わない。生も死も一度きりですましたい。なみあむだぶ…… なみあむだぶ……なみあむだぶつ……
2013年03月02日(土) |
山峡絶唱 小説・西塔幸子 長尾 宇迦 |
やまかいぜっしょう ”さいとう こうこ” と 読む。
岩手師範学校の女子部を卒業して小学校教師となり、岩手県内の小学校を転々と歴任した教師で ”女啄木”とも呼ばれた歌人だった。 夫も同じ教師で二人の間には6人の子もいる(長女の房子は夭逝) 享年は数えで37、満で35歳のとき(昭和11年)、急性関節リュウマチから肺炎を併発して、お腹に末子を妊娠したまま亡くなった。
この本を読むかぎりでは幸子は夫の庄太郎に殺されたようなものだ。 夫婦とも教員でそれなりの生活が出来ていたはずなのに、夫の収入は酒代と実家への仕送りに消えていった。 それでもこの時代の女性ゆえに、幸子は愚痴も言わずに夫や子供のために生きていく。 あれほど熱烈なプロポーズをした結婚なのに庄太郎はあまりにも身勝手な夫だった。 今なら家庭を省みない夫として妻のほうからの離婚請求もできただろうに・・・と思うのだ。
そんな中での創作は幸子にとって生きる糧だったのだろう。 うれしいときや楽しいときよりも、辛くて苦しいときのほうが歌が浮んだと、文中にあった。
声あげて何か歌はむあかあかと 夕陽が染むる野面に立ちて
夫のため我が黒髪もおしからず ささげて祈る誠知りませ
酒を嫌(い)む吾にはあれど旅にして 夫のみやげに良きを求めつ
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