読書記録

2013年02月24日(日) 私は私。母は母。             加藤 伊都子


 あなたを苦しめる母親から自由になる本。


正直なことを言ってしまうと中学生の頃から母が嫌い(父も嫌いだった)で、そのくせ学校を出てから家を出る勇気もなくて、23歳のときに親から逃げたくて結婚したから、今さらだがこの本を読めば少しは答えがみつかるかもしれないと思った。

結論としては 答えは見つからなかったけれど、ぼんやり思ったことは
私は私。母は母。・・・そして娘は娘だということ。


親から逃げるように結婚して息子と娘を産んだ。
母のように父の愚痴ばかり言う人間になりたくなくて、仲の良い母娘になろうと私なりに努力してきたけれど、結果として私も娘に嫌われる母親になってしまった。
私の母のような苦労を私はしていないけれど、少なくとも娘との関係では私のほうが打ちのめされていると思う。
私は母が嫌いでもやはり親だからそれなりの配慮はしてきたつもりだ。だが娘の私に対する態度は容赦がなかった。
娘との関係がボタンの掛け違いのような違和感を感じた時、母のことを思った。
因果応報とでもいうのだろうか・・・私が母を嫌ったから私も娘に嫌われたのか???

今 私の身体の何処を切っても娘の名前が出てくるのではないか、と思うくらい娘のことを思っているけれどそれも所詮伝わらなくては意味がない。

・・・繰り返しになるが、 娘は娘、私は私、と言い聞かせて毎日をやり過ごしている。















2013年02月16日(土) 日御子               箒木 蓬生

 
  卑弥呼ではなく日御子、そして邪馬台国ではなく弥魔大国の設定になってる。
卑弥呼のことは学術的にもまだまだ解らないことも多いから、著者の素晴らしい創作によって生まれた物語でかなり面白かった。

 古代倭国が多くの国に分かれていた頃、九州の強国は皆、漢語や韓語を読み・書き・話せる 通訳ともいうべき”使譯(しえき)”と言う役人を抱えていた。彼等は皆、元を正すと一つの「アズミ族」の人達で、安曇、安住など色々な苗字を持って使えていた。
 各国のアズミたちは、共通する3カ条の教えをそれぞれの国で守り伝えてきた。
 1つめは「人を裏切らない」。
 2つめは「人を恨まず、戦いを挑まない」。
 3つめは「良い習慣は才能を超える」である。
そしてこの物語では、登場人物を 最初の漢へ行った灰から治(灰→圧→針→江女→朱→炎女→在→銘→治)と9代の使譯にわたる時代史を、親から子へ、または孫へ、娘へと、自分が守り伝えてきた事柄や自分で見聞きした内容を語り聞かせている。

さらに日御子に巫女として直接仕えた炎女の言葉として、仕事と仕事の間に骨休めがある。刀子で竹簡を作る、文字を書きつける、その間に骨休めがある。繰り帰せば一日だって可能だ。あとは夕餉を口にして、眠るだけだ、という4つ目の教えを伝えた。

この部分の創作などこの作者ならではの思いだと感じる。
いままで読んだこの作者の物語の主人公は、いつもひたむきで日々努力を怠らない勤勉な若者たちばかりだ。
きっと作者自身がそのような毎日なのだろうと思うのだ。

でも 作者が北九州出身だから、物語を九州に設定したのだろうけれど、やはり邪馬台国はヤマト(奈良)ですよ!! って 私は思っているのだが。。。












2013年02月01日(金) 河井継之助             童門 冬二



 米百俵の小林虎太郎はあまりにも有名だが、その考えのもとともいうべき河井継之助のことは小林虎太郎ほどには知られていないのではないだろうか。
戊辰戦争で焼け野原となった長岡が貧窮していたときの話である。

物語の主人公である河井継之助 と、小林虎太郎とは意見が異なった。
だが あの戊辰戦争のとき長岡牧野藩のトップは河井継之助であって、小林虎太郎はもうすこしあとの登場になる。
直接意見を戦わしたわけではないのだ。

小林虎太郎の師は佐久間象山だが、継之助は象山を嫌って備中高梁・松山藩家老の山田方谷に学んだ。
「入るをはかって出づるを制する」という財政を重視する考えを山田方谷は実践していた。

が結果として 中央集権化に抗し武装中立の考えだったはずの長岡藩は、明治維新という時代の波に飲まれてしまった。


 春雨の わきてそれとは降らねども
 うくる草木の花は色々












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