2010年09月30日(木) |
謀略の渦 有間の皇子の生涯 山路麻芸 |
いつも本を借りている図書館で、平城京遷都1300年に関した図書の特集をしてくれているので、今まで知らなかった物語に出会うことができてとてもうれしい。
偽りの世の汚濁に染まぬ少年有間皇子にとって、張り巡らされ、策謀される奸計の罠をくぐり抜けるのは並大抵のことではない。 なんといっても、相手は、知略にたけた冷徹な中大兄皇子であり、深謀遠慮の中臣鎌足であり、出世欲に目のくらむ蘇我赤兄である。 いかに有間皇子が智力を尽し、狂人を装ったところで歯のたつ相手ではないのだ。 有間皇子は彼が、孝徳天皇の皇子として生まれたということに最大の原因がある。 天皇家の男子は天皇になるか殺されるか、どちらかの道しかないのかも知れない。
今を生きる我々は有間皇子の悲劇を知っているから、物語が進んで蘇我赤兄が皇子に近づいてきたときには思わずダメよ!、 罠にかかったらあかんよ!と叫んでいた。
再び八釣姫の待つ一分の里に帰ることもなく、有間皇子は藤白坂のかたえの荒土に十九歳を一期として、永遠に返らぬ旅路へと旅立ったのだ。 それにしてもいつもいつも為政者の非情さをしみじみと思わずにはいられない。
磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む 万葉集、巻3−141
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 万葉集、巻3−142
2010年09月18日(土) |
柚子の花咲く 葉室 麟 |
青葉堂村塾の教授梶与五郎が隣の鵜ノ島藩で殺された。 与五郎は日坂藩家老の永井兵部の妾腹の息子で勘当されていた。 本名は永井清助といった。 村塾で弟子だった穴見孫六が死の真相を探るべく鵜ノ島藩へ出掛けていって師と同じく殺害された。 孫六と同じく与五郎の弟子だった筒井恭平が、鵜ノ島藩と日坂藩との干拓の境界線をめぐる争いと 二人の死の真相をさぐるため乗り出した。
二つの藩の家老意外はみんなすらすらと事の真相を話すので、事件の内容がよく理解できて読みやすい物語だった。 ただ・・何度も命の危険に会いながらも総て解決したことに少し抵抗を感じた。 話しが出来すぎてると思うのだ。
桃栗三年柿八年 柚子は九年で花が咲く―― 。
本来ならば国がなすべき巨大な事業を、一紙半銭の資金も与えられず、事業費の総額も事業の期間も分からないまま、無名の六一歳から自ら望んで始め、老骨の八六歳に至るまで、痩躯をもって走廻・活動し、最期にはすべての財貨と所領を社会に還元し、私物を残すことなく生涯を燃焼しつくした男。それが重源。同行の集団は個人の次元に解体され、教団も教義も残すことはなかった。
政府は、ただひとつのものを与えた。源平相争う国土内乱のなかで、「大勧進」という職名だけ。彼は聖なる高僧というよりは、常の衣を墨染めにしただけのしたたかな事業家という方が、より真実に近い。悪徳と美徳の矛盾の仮面をつけながら、それらは表をみせ裏をみせながら地上に落下していった。
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こういう彼の姿は、社会からみれば一枚の枯葉や落花のようなものである。善悪を葉や花びらの裏表にして、きらめき翻えりながら落ちていく。地面に落ちれば土に還る。それが人生である。それ以上もそれ以下でもない。
作者には日本の建築史家、工学博士、建築評論家そして作家という肩書きがついているが、やはり建築家として大仏殿を見たときにあの時代でこれだけの大修理を成した重源という人物に興味をもつことはとても自然なことで、清濁併せ持つ重源の物語がとても読み応えのある一冊になった。
今年 旧暦の俊乗忌に東大寺の俊乗堂にお参りに行った。 ツアー客らしい集団が去ったあとのお堂でじっくり拝見させていただいた御坊の像は、口元がしっかり合わさっていて意思の強さのようなものを感じた。
俊乗忌 往時を偲ぶ阿弥陀仏
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