昭和30年代から50年代に新聞や雑誌のコラム欄に掲載されたエッセイをまとめたものだった。
作者の思いや若かれし日々の出来事や旅の思い出、愛犬や作家仲間のとのことや、そしてご自身が小説として発表された作品のことなどがほんとうにたくさん埋まっていた。 そして表題の『柊の花』だ。 私は柊に花のあることを知らなかった。
小米桜のような小さい白い花で、その花びらは青みを帯びて、めしべは黄色の花粉をつけている。 小さい花が寄り集まって小枝という小枝にまみれるようについて、遠くまで放香を放っている。 いかつい葉のかげに全く目立たない花だが、その香りの高さに毎年のようにおどろく。 (昭和42年11月26日・サンケイ新聞)
いちばん印象に残ったのはやはりあとがきだ。
小説と違ってこちらは素顔なので、素顔というものは自分自身にとってもおもしろいものだ、という発見をする。余所ゆきの顔というものはいつも一応鏡のなかに見ているのでおおよその記憶にあるが、素顔の表情というものは思いがけないものがある。「生きるということ」 の なかにそういうめぐりあいがある。
表題の柊の花の香りに染みながら・・書かれたのだろうか・・と。
男というものが生涯を賭ける政治というもの、事業というもの。 人間が幾世代を経ても繰返す、政治という名においての残虐さ。 政治にも事業にも参加することのできない場所に置かれている女というもののそれをじっと見つめている眼。 女は何も言えなかったし、何もすることはできなかったけれども、じっと真実を見ていた。女に眼があるのは、歴史の真実を見てとるためなのだ、そう思った。
第一章 ゴミ屋敷 第二章 家族 第三章 巡礼
第一章で この物語の主人公は誰なのだろうと思っていた。 それが第二章ではっきりして、ゴミ屋敷の住人忠市だった。 昭和一ケタ生れの忠市が普通に働いて、普通に家庭を持ってそして失ってしまった。 真面目に働いてきたはずなのにひとり息子が亡くなり妻が去り、家業もうまく立ちゆかなくなってきて忠市はこれ以上何も失いたくない・・とゴミ集めに走ってしまう。 ゴミ屋敷としてテレビに出た忠市を音信不通だった弟の修次が第三章で再び登場して、ゴミ屋敷をキレイに片付けたあとに兄の忠市と四国巡礼に旅立つ そして忠市はその巡礼の途中で死んでしまうのだ。
妻は逃げた。子は死んだ。妻は去った。父は死んだ。忠市の中には、そのような過去の節目しかない。闇の中に羽を休めて飛んで行ってしまう鳩のような「過去」に手を伸ばしても、儚ない過去は断片となって消えて行く―まるで、ゴミの山に埋もれて見えなくなってしまった「有用なもの」のように。
自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かっている。しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう? 自分には、もうなにもすることがない。片付けられて、すべてがなくなって、元に戻った時、生きて来た時間もなくなってしまう。生きて来た時間が、「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
修次は、暗い闇の中にいた自分の兄が、金色の仏と夜の中で出会ったのだと思った。そのように思いたかった―。
私も・・・ 失ってしまったかもしれないものを毎日追い続けている。 もがいてももがいても答えが見つからない日々を生きている。
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