読書記録

2009年07月22日(水) たった一人の老い支度 実践篇      岡田 信子


 私が常々思っているのはいかに死ぬか! である。

どんな名医でも治せない寿命という決して避けては通れないその時がある。
いつか必ずその時がくる。
ただ よく言われるように楽に死にたい、コロッと死にたいという願いはなかなかに叶えられるものではないようだ。
主人と私の双方の四人の親の最期を見てきて思うのはその日はいつ来るか神のみぞ知る・・である。
ゆえに その日のためにいかに心構えをしておくかだ。
病は千も万もあるが健康は一つしかない。
私らの年代になったら健康とお金だけが味方だ。

そしてこの本の作者。
我慢を重ねたあげく夫と別れ、三人の子どもたちとは絶縁状態。
それが51歳の時。
そして相続権を有する家に家賃を払って住んだのに、血を分けた弟や義理の妹から追い出され身ひとつになる。
室内に洗濯機を置くことのできない集合住宅で、娘ほどの年の若い女性たちに混じり、掃除のおばさんに間違われながらの再スタートだったという。

そう・・人生には完璧な計画などないのだ。
思いがけないめぐり合わせやどんでん返しもある。
要は自分を守るのは、うまくいかないことがあっても落ち込みを長く引きずらずに、はね返すことのできる、柔軟な精神力なのだ。
そして賢い生活術だ。

小ずるく
小けちで
小うるさく
小ぎれいにして
小おどり 
しながら・・ね












2009年07月03日(金) ひろさちやの「空海」を読む


 弘法大師空海は真言密教の始祖になる。
私は真言にわざわざ密教とつけることをとても不思議に思っていた。

文中に
密教とは、仏のまねをして仏になりきっていく仏教なのです、とあった。
まねしてまねしてまねして、死ぬまでまねし続ければよいわけです。
それができれば、われわれは、結果的に仏として生きられたことになります。

川の流れにたとえれば、川を遡っていこうとするからむずかしいので、川上から水の流れにまかせて下ってくれば簡単というわけです。それが密教の考え方です。

正直 私の頭のレベルではよく分かったような分からないようなそんな気持ちでいる。

のちに袂を分かった最澄とのことも 以前に読んだ物語に比べたらソフトな書き方がしてあった。それも言い換えれば密教なのかと思ったのだ。

最澄のあり方は、川の下に立って川上を眺め、この川を遡ろうとするのです。川を遡ろうとするから、かなりの困難です。
しかし、最澄はその困難を克服しようとする不屈の意思を持っていました。
それに対して空海は、川上から川下を眺める人間です。川上から水の流れにまかせて川を下るのだから、わりと楽です。空海の仏教は、そのような仏教でした。
最澄の仏教は凡夫が努力に努力を重ねて、修行によって仏になろうとするものでした。
空海の仏教は、われわれ人間ははじめから仏であるのだから、赤ん坊の仏が大人の仏に成長すればいいと考える仏教でした。

だが 川上には簡単に行けるのだろうかと・・ふと そんなことを思ってしまった。





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