2009年06月21日(日) |
山流し、さればこそ 諸田 玲子 |
小普請世話役として出世の道を歩み始めていたはずの矢木沢数馬は、突然、通称「山流し」と呼ばれる甲府勤番を命じられた。 同僚の讒言による左遷だった。家族と共に甲府に下った数馬は、商いで繁栄する城下とは裏腹に、荒んだ武士たちの姿を目にする。事なかれ主義の上役や、乱暴狼籍を働く勤番衆たちに新参いじめに会う。 そして頻発する商家を狙った不思議な盗賊騒ぎと・・。
治安を守るべき武士が町人をいじめ、刀を振り回す。 女史を手篭めにする。 これでは浪人や流れ者よりひどい。
自分はこれまでずっと橋のこちら側にいた。 向こう側のことなど、一度として考えたことがなかった・・・。
山が夕日に染まっていれば、だれもが目を向ける。 山の向こうになにがあるか覗いて見たくなる。 燃え盛る太陽があるとわかれば、山流し、さにあらず・・・いや、 山流し、さればこそ桃源郷だ。
物語というよりは痛快時代劇という感じで、事件は解決するし最期は住めば都になるのだ。 寛政年間から江戸の最期までの物語だったが、最終章が一番よかったかな。
2009年06月07日(日) |
戦国女人抄おんなのみち 佐藤 雅美 |
☆小田原後家の割り込み先 富子とは家康の次女で北条氏直に嫁いでいたが北条が秀吉に滅ぼされてから実家に戻って小田原後家といわれていた。 信長の乳兄弟である池田信輝の子である輝政のもとには糸子という正妻がいたが、家康は輝政を味方に引き入れようとそれを押しのけて富子を池田家の後家に収めたのだ。
☆秀頼の忘れ形見駆け込み寺の尼の復讐 秀頼が大阪夏の陣で二十三歳で死んだとき、端女に生ませた七歳の娘がいた。 その娘が駆け込み寺あるいは縁切り寺として名高い鎌倉の東慶寺の尼になって生涯を終えた。
☆新婚夫婦を翻弄した家康の過酷な命 前田利家の7女で千世なる娘は、秀吉の勧めで細川忠興の嫡男忠隆に嫁いだ。
☆夫を餓死させられた満天姫の恨みと運命 家康は自身の異父弟松平康元の娘満天姫(まてひめ)を福島正則の養嫡子正之に嫁がせた。 が正則は実子に家督を譲るため正之が狂疾したとして餓死させた。 その後満天姫は亡き夫の形見ともいえる、のちに「津軽屏風」といわれるようになった屏風を嫁入り道具にして津軽家に嫁いでいく。
☆夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘 秀吉の命で秀次の家臣になった前野長重に嫁いだ於長(おちょう)だったが、秀次と夫が切腹させられたあとは、秀吉の目から逃れるように父忠興の所領地である丹後に落ちて幽居する。
☆奔放に好き勝手に生きた猛女おごう お市が遺した三人の娘のなかでは茶々と言った淀君が有名だが、奔放に好き勝手に生きたという意味では淀殿はおごうに一歩も二歩も譲るだろう。徳川二代将軍の秀忠が恐妻と恐れるくらいの存在感があったのだ。
☆謂れの無い汚名を後世に残した悲劇の女 通りすがりの男を招く吉田御殿の主として千姫にはまがまがしい汚名が残された。 もともとは生まれる前から秀吉の打算によって秀頼に嫁ぐことを義務づけられていたのだ。
戦国時代のあまりにも戦利戦略にあふれた家と家との繋がりが、私にはややこしくてならない。 戦国武将の家に生まれてしまったゆえに戦略結婚ばかりで、それでもで多くの女たちはしたたかに生きたのだろう。 あの時代ゆえに女たちもそれぞれが必死で時代と戦っていたのだろう。
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