2009年05月24日(日) |
時雨の記 中里 恒子 |
時雨とは秋から冬にかけて、 さぁっときてさぁっと止んでいくにわか雨のこと。
読みやすい物語でほんとうにさぁっと読み終えた。
大磯の山沿い家でひとり静かな生活をおくる40代の寡婦と、会社社長をしている50代の男との密かな恋物語だ。 若い頃に一度だけ出会ったことがある女性を忘れられないでいて、20数年後を隔てて再開したときに男は矢も盾もたまらないようになって、大磯の女の家を訪ねてしまうのだ。 そして静かな大人の恋を育てながら心臓を患っていた男は急死してしまった 女から見たらほんとうに男はさぁっときてさぁっと通り過ぎていった時雨のようなものだった。
映画化もされたようだけれど、京都にある藤原定家ゆかりの時雨亭が映画を見ていない私には途轍もなく想像をかきたてる場所になった。 そういう意味でもこの物語は大人のメルヘンなのだろう。
言わぬは言うにまさる。
会わないでいると、会った瞬間に見えないものが心に映るのです。
2009年05月10日(日) |
夜叉桜 あさの あつこ |
なにげなく選んだ本だったけれど、読み始めてすぐに二年前に読んだ『弥勒の月』の続編だと気がついた。
前回は下町同心の小暮信次郎が主だったように感じていたが、今回は小間物屋の遠野屋清之介がやわらかい商人に変化して主人公になっている。 そして今回の事件は女郎殺しで最期は少々屈折してしまった親子の情が招いた事件だった。 最期まで読んでみたら次もありそうな予感・・。 遠野屋が引き取った女郎菊乃の娘 おこま という女の子がきっと成長して関わってくるような・・。
人は誰もが夜叉を飼う。 よく分かっている。 弥勒にも夜叉にもなれるのが、人という生き物なのだ。ときに弥勒、ときに夜叉。いや・・・仏と鬼との真ん中に人はいる。それはまた、仏でもなく、鬼でもなく、仏にもなれず、鬼にもなれず、人は人としてこの世に生きねばならぬということなのかもしれない。菊乃は夜叉を育て過ぎたのか。 鬼に変化する前に男を道連れに命を絶った・・・。
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