読書記録

2008年09月29日(月) 母・円地文子            富家 素子


 作家円地文子さんの一人娘さんが母を書いた本。
円地文子はお嬢様だったのだ。
挿入されている家族写真を見ても成程と思える。
祖父は東京帝国大学の文学部教授で、文子が生まれた頃の父親は東京日日新聞の記者でベルリンの特派員だった。
母の好きな事は、美味しい物を食べる事、旅行、着物、芝居見物で年の暮れから正月にかけて箱根の富士屋ホテルや熱海ホテルで過ごすのが習慣だった時期もあった、と作者も書いている。
あの頃の大部分の人は旅行なんて夢の世界の出来事だったんだから。
それに家事もせず、軽井沢への疎開も死ぬまでも女中から家政婦と呼び名が変わっていく人を置いていたのだ。

まぁ いろんな本があってそしてそれぞれに作者がいて、読み終えた時に何故作者はこんな物語を書いたのだろう、・・これは実体験だろうか、などと思い巡らすこともあるけれど円地文子の書くものはそういったことを思わす物語ではない。
そして この母を書いた本も作者が自分に長い文章が書けたことの自己発見だけに終ったように思えてならない。









2008年09月23日(火) 丹生都比売(におつひめ)        梨木 果歩

 天智天皇がお隠れになって、壬申の乱が始まるまでの物語。
壬申の乱といえば大海人皇子だけれど、これは草壁皇子とその母持統天皇が書かれている。
ファンタジーなのかスピリチュアルなのか とても静かで美しい物語だ。
今まで 私はかなり意識的に草壁皇子のライバルのような大津皇子の物語を好んで読んできた。
大津皇子が陽なら草壁皇子は陰、大津皇子が動なら草壁皇子は静のイメージが強くインプットされているけれど、この作者によると草壁皇子は陰ではないが静ではあるようだ。
でも心の中では静かな動の息づかいを感じるのだ。
 
そしてタイトルの丹生都比売だけれど、大海人皇子や持統天皇が隠遁していた吉野の山に繋がる高野山に丹生都比売神社なる場所があるようだ。
最後はドンデン返しのように、草壁皇子や忍壁皇子の遊び相手だった大人には見えない地の少女キサが実は丹生都比売だった・・と締めくくる。
歴史の事実を元にしてこんなにも美しい物語を書くなんて・・。
























2008年09月19日(金) 美貌の斎王           藻里 良子


 桓武妃酒人内親王

奈良朝の最も輝かしい光を浴びた聖武天皇の皇女井上内親王を母とし、天智を祖とする光仁天皇を父として生をうけた酒人内親王は、母井上とそして桓武との間に生れた朝原内親王と三代に渡って伊勢の斎王を務めた。
天平勝宝六年孝謙天皇の御世に生を受け、孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武・平城・嵯峨と七人の帝の政事を見てきたことになる。

奈良に都があった頃の女帝たちは別格として、藤原氏の勢力の前ではいかに内親王といえど影の薄い存在だった。
酒人も輝かしい生まれでありながら、桓武の皇后にはなれず娘の朝原も平城天皇の皇后には立后されなかった。
天皇の側にいた多くの女たちには、当然のこととしてそれぞれの立場での思いや野望があったことだろう。
後宮に仕える名もない大勢の女達や、そしてこの物語の主人公である酒人やその母の井上皇后や娘の朝原内親王にも・・
やはり男と違って女は子供を生む側、生ませられる側にいるのだ。
誰だって自分の子供と自分が可愛いのだから・・
それにしても人生の終盤にであった空海と高岳親王(真如)のことは、物語ではなく・・真実とすれば・・面白いものだった。














2008年09月08日(月) 大津皇子               生方 たつゑ

 天武天皇の第一妃、大田皇女(天智皇女)の息子として生れた大津皇子は、母が存命ならば、当然時の皇太子となるはずであったのに、母は亡く姉の大伯皇女も遠く伊勢の斎宮として赴いていた。
母の妹である第二の妃鵜野皇女の息子草壁皇子の存在のために、学問も武道も人望もすぐれた大津皇子は悲劇の皇子の運命を辿らねばならなかったのである。

作者は同じく悲劇の運命を辿った有間皇子をだぶらせながらこの大津皇子を書き進めていったようで、二人の皇子の悲しい運命を私も確かに感じた。
だが 作者はやはり女性らしく
「同じ母より生まれしごとく」
と、吉野の宮滝で、天武天皇と共に誓った日を裏切って天武天皇の御子である大津皇子を刑死させた行為を、怜悧な女帝にしても打ち消しがたい悔いを焼きつかせたと表現している。
ゆえに朝に夕に直視しなければならない二上山に大津皇子の墓を移葬したのも、悔恨によって大津皇子の鎮魂をはかったのではないかと書いている。
母親というものは自分の子供ほど可愛いものはなくて、それは持統天皇も同じであろう。自分の子供よりも甥のほうが優れている・・その事実を作者は認めながらも性善説で物語を書いたのだろうなぁ。

私はこの物語を読む前に二上山にも、その二上山に落ちる夕日が眺められる場所にも行っている。
大津皇子の刑死によって伊勢の斎宮を解かれて帰ってきた姉の大伯皇女が、日々弟の魂を鎮めるべくあの有名な歌(うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと我が見む)を詠んだといわれる場所にも行ってきた。これも悲しい歴史の事実であろう・・。



     祀られし 悲運の皇子に思い馳す

     ふたかみの 水の流れに木漏れ日や

     ふたかみの 木漏れ日ひかる そまの道




















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