我が奈良県にはあまり偉人はいないと、私の周りの人間の間ではそう思っていたが、あの幕末の吉田松陰までが師と仰いだ人物がいたのだ
大和五條が生んだ幕末維新の大儒森田節斎。吉田松陰までが師と仰いだほどの男。松陰は桜のように美しく散った。そして名を残した。節斎は命を重んじぶざまに逃げ回った。そして裏切り者と罵られた。 節斎と松陰ら志士達の生と死。時代の激流に生きた思いと限界。節斎に関わった多才な人々の群像。様々な出会いと別れ。節斎はなぜ、生に固執したのか。どうして維新の先駆け天誅組に加わらなかったのか。なぜに天皇への認識を変えていったのか? そんな疑問からこの物語は書かれたようだ。 実在した証しのない初恋の女性、いつも心の中にいたおここという女性。 おここに始まりおここで終わった物語だった。
日本人は悲劇的な死を好み、憂国の死を美化しすぎるのではないか・・・。
2008年06月13日(金) |
わが父波郷 石田 修大 |
ふとしたことで知った俳人石田波郷のことを書いた 辻井 喬著の『命あまさず 小説石田破郷』が 何故か心に残っていた そして これは波郷のご子息が父のことを書いておられることを知って飛びついた本だ さすがご子息の書かれたものだけに、ご子息がだんだんと成長されてひとりの大人として波郷を見ておられたようで晩年の波郷のことが詳しい 作者にとっては母である波郷の奥様のことや療養生活が特にくわしい そしてたっぷり俳句が紹介されていてこれもうれしいことだ
破郷はわずか十七字に自らを託し、三千五百余句、単純計算で六万字弱を書いて俳人としての人生を全うした。私は新聞記者として、その何十倍何百倍もの原稿を書いてきたが、さて何を残し得るのか。50歳代に入って、あと六年、五年とカウントダウンが始まるにつれ、漠然とした焦りにとらわれていたが、いよいよあと一年、五十五歳の誕生日を迎えた直後に腎臓癌が見つかり、左腎全摘手術を受けた。子どものころから親に似ているとはいわれたが、まさか享年まで一緒になるのでは。 たまたま白水社から波郷のことを書いてみないかととの誘いがあり、自分の五十六年を振り返ってみるために、波郷の人生をなぞってみようかという気になった。
石田波郷氏(俳人、本名哲大=哲夫)21日午前八時三十分、心衰弱のため東京都北多摩郡清瀬町の国立療養所東京病院で死去、五十六歳。自宅は東京都練馬区高野台3−17−7. 告別式の日取り未定。喪主は長男の修大氏。 水原秋桜子に師事、俳誌「鶴」主宰。44年3月、芸術選奨文部大臣賞受賞。
昭和44年11月21日、日本経済新聞夕刊社会面に掲載された死亡記事である。 父親の死を、新米の新聞記者だった私が、病院から電話送稿したものだ。
逢ふ不安逢わぬ不安や二輪草 病経てやや気弱にて椿市 すでに褪せぬ妻とわれとの麦藁帽 寒菊や母のようなる見舞妻 沙羅の花捨身の落花惜しみなし 雪降れり時間の束の降るごとく
2008年06月07日(土) |
我、弁明せず 江上 剛 |
私の大いなる誤解によって詠み始めたこの本は、経済のことなど何も知らない私にはなかなか読み進めない物語だった。 昭和金融恐慌もドル買い事件も血盟団事件も、近代の歴史なのに知らなかったのだ。 今は銀行の再編時代で、ましてやある意味個人の利益ばかり求める時代にあっては主人公の池田成彬が生きていれば何と言うだろうか、どんな対処をしてくれるのだろうか・・という思いは消せないのだ。 作者があとがきで書いているように、サムライ経営者とまで表現される池田成彬のような筋を通した経営や行き方をする人物が今のこの日本のリーダーであってほしいと切に思う。
「池田という男は己と三井の利害の相反する時は三井を先にする。三井と国家との利害が相反する時は三井の利益を考えないで国家の利益を考える」 と、二・二六事件の際に首相を務めていた岡田啓介から評される。
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