2008年05月30日(金) |
天璋院篤姫 宮尾 登美子 |
いつの時代でも人間の家ではタテマエとしては男どもが上に立ち、一家を代表し、時には必要以上に威張っている。 だが家の運営の実権は大部分が女の手中にあり、女の意志のままに動いていく。そして、この原理は封建時代の男尊女卑をむねとする道徳が支配的であった頃の大名家や将軍家でも十分に機能していたのであろう。しかし、それを機能させる、させないは妻の座についた女の資質しだいである所が、また逆に言えばいかにも男社会的でもあるわけだ。しかもその上、この原理を十二分に活用した場合は昔から「女傑」「男まさり」「ヤリテ」等々のレッテルが貼られるのだから、女性側は何とも間尺に合わないということにもなろう。 しかし「ヤリテ」とカゲグチ叩かれようとも、それが間尺に合わなかろうとも結果的にはそうに生きざるを得ない女性たちの一群が昔も今もいるわけで、そこにいつも男社会と張り合ったり、同性の数多くの妬視を向うにまわしたりのドラマが生れる。それは「ヤリテ」であると同時に、間尺に合わない熾烈な人生でもある。天璋院篤姫もその一人であろう。
以上の解説を読みながら 篤姫はなまじ頭がよかったために養父の斉彬に利用され、またそのことに気がついても引き返しのきかない人生を送ることになってしまったのだなぁ、とつくづく考えさせられた。 やはり今も昔も男社会ゆえに、女はちょっとばかりNO天気気味のほうが生き易いのだろうか・・なんて思ってしまうのだ。
ここんとこ何冊か大奥づいてしまったけれど、こうして原作を読んでみたらやはりテレビはとても面白く作ってあるなぁと感心してしまう。 小松家に養子にはいった尚五郎さんのことは宮尾さんの原作には1行も出てきませんものね。 そしてNHKの『そのとき歴史は動いた』の篤姫も原作とは少々、イメージが違うようだ。 テレビでの篤姫が一番、イメージが強いように思うのは仕方のないことなのだろう。
2008年05月18日(日) |
桂昌院藤原宗子 竹田真砂子 |
五代将軍徳川綱吉のことは、テレビドラマの見過ぎかもしれないがマザコンというイメージが常についてまわる。 そして桂昌院のことについてはそれ以上に子離れできない親ばかの見本のように思っていた。(私もかなりの親ばかを自認する毎日だが、天下に何の影響も与えない下々ゆえに除外してほしい)
でも タイトルの 桂昌院一品大夫人藤原宗子。 いっぽんだいぶにんふじわらのそうし という藤原の文字を見たとたん読みたいと思ってしまった。
そして 物語は桂昌院となるまでの、お玉というひとりの女の出世物語だった。まぁ 美貌と運と女ながらに策をこらして家光の側室になっていく様子は面白いけれど、周りの迷惑顧みずのところは何だかなぁ・・。 物語の綱吉は親孝行ではあるが親離れのできないマザコンではなかった。 征夷大将軍には正一位、御台所には従一位が贈られるようになっているというものの、それは死後の追贈で、徳川家では今まで誰一人生前に一位を贈られた女はいない。その得難い位階を、綱吉は母のために、禁裏を動かして授けてくれたのだ。
だけど 後世に伝えられている『生類憐れみの令』という事実があるかぎり、やはり綱吉は将軍の器ではなかったと言うしかない。
本を読み始めるとき この本を読もうと決めているときと タイトルをみて何気にひかれるときがある この『仇花』はタイトルにひかれて読もうと思ったもので 55歳も年齢差のあるお六という家康の最後の側室の物語だった あの戦国時代はことに男なら戦で勝利して一旗挙げたいと願う人も多かったようだが、女とてそういう望みを抱く時代でもあったのだろうか
争乱のるつぼで生まれ育ったお六は、栄耀栄華を手に入れたい、我が手で天下を取りたい。 恋も財も地位も、すべてを欲しがったがお六からみて高齢だった家康の死去のあとは兄弟として育てられた兄である千之助を思うのだった。
読んでいる途中にこの作者の『月を吐く』という 築山殿のことを思い出していたら、やはり文中に登場してきた 家康は信長の命で殺さなければならなかった最初の妻の築山殿の面影をお六に見たのだと・・。 だからなのか この物語の終りも『月を吐く』と同じなのだ。 物語のなかに 幕末・江戸と題して千之助、お六という同じ名前の夫婦を登場させている。こういうところがこの作者のうまい、というか私が引かれる理由なのだと改めて思ったことだ。
欲は欲を生み、不安を生み、執念を生む。
人生が二度あれば━━━
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