読書記録

2007年12月27日(木) 芥火               乙川 優三郎


 芥火
正直なところ、彼女は囲われて一年もしないうちに、日がな一日化粧をして、来るのかどうかも分らない男を待つことに飽きていた。
男でも金でも、かつ江は目の前に何か追いかけるものがないと生きてゆけない。男を待つだけの退屈で無意味な日々に疲れると、彼女は新しい刺激を求めて着物に夢中いなった。

 夜の小紋
小紋の型染め師として好きな女と暮らしていくつもりが、兄の急死により実家の魚油問屋の主という立場が降ってきた。
生まれた家、生きてきた世間が違えば、食べるものも親しむものも違う。人は自ら経験しないことには鈍感だから、頭で思うほどには分かり合えない。結局は分相応に暮らすことが互いの幸せにつながる。

 虚舟
彼女はいま、何よりも人に迷惑をかけない生き方を心掛けている。それにはやはりひとりがよかった。重いものを持つのがつらくなったものの、働けるうちは働き、自分で自分を支えるのがよかった。
世間の目にどう映ろうとも、貧相な見かけほど悲愴感はない。雨や雪の日はためらわずに休んで好きなことをし、晴れれば外に出て鉢植えの植木の世話もする。一日二合の酒を楽しみに、穏やかな気持ちで過ごせれば言うことはなかった。そんな自分を人と比べて不幸だとも思わない。

 柴の家
兄は自身よりも高禄の家の跡取りとなる弟を羨んだが、恵まれた縁談を辞退する理由も力もなかった新次郎は、あとからすべてを受け入れる形で承諾した。そんな新次郎が瀬戸助という陶工を知って焼き物の魅力に取り付かれた

 妖花
夫の柳吉は大仏師で留守勝ちなため、仕事場を兼ねた裏に竹薮のある住まいは浅草育ちのさのにとって陰気なだけの家だった。寂しさを紛らすかのように万引きを覚えてしまったけれど、息子の眼に改心を思ったとき夫に女がいたことを知る。


どれも 現代の生活にも繋がる話で、今さらに人の心の難しさを思う。

それにしても 『芥火』 とは・・・人の心にふと差す弱みのことだろうか











2007年12月20日(木) 天辻峠             城野 隆

短編集は読みやすいようだけど私は何気に苦手で1冊、読み終えるのに
エラい時間がかかってしまった

 月冴え 
寺で死人の湯灌を手伝う辰吉は幼なじみのキヌが生活のため茶屋奉公に出ることを知る。仕事仲間の熊太や平次やそして大塩平八郎の洗心洞で学問する浪人の十兵衛も同じ長屋に住む。
そんなある日、いつものように死体の湯灌を始めた辰吉はその死人がキヌであることを知って愕然とする。
十兵衛に今の世の中の生活苦は人災と教えられていた辰吉は、町方に追われて死んだ十兵衛が遺した銃を手にして大塩平八郎の決起に加わるべく道を急ぐのだった。大阪の町を覆う火の手はキヌを極楽浄土へ導びく精霊火だと思う辰吉だった。
龍のいる村
畿央龍神村の若衆組が公に休みを認めてもらおうと巳代次を頭に陣屋にたて突いた。が 龍神山に10日立てこもって巳代次を所払いにして決着がついた。巳代次のあとに頭になった龍吉だったが雨乞いの人柱にたったサキを救うことはできなかった。
6年の所払いから戻った巳代次がまた、年貢の軽減を願って陣屋と一戦をかまえた。巳代次は数人の仲間と戦ったが、最後に人柱となって湖に沈んだはずのサキの居所と抜け道を龍吉に教えて自爆してしまったのだ。

 霧の中へ
泉州下津藩の勘定方の次男・篠崎源次郎が、自分の栄達のみを先行させる兄に反感を持ち、不条理な藩命に抵抗する。嫂と心通わせてしまった源次郎は家老の息子を切り嫂と共に脱藩を決める
 
 天辻峠
文久三年(1863)に起こった天誅組の乱の裏側には、朝廷の攘夷親征の捨て石にされかかった十津川郷士たちがいた。そんな十津川郷士である仙蔵の苦衷の選択と、天誅組に男装して参加している清佳との絡みを書いている

 海の遠景
神戸にできた海軍操練所で坂本龍馬と知り合い、その勧めで航海の技術を習得していく船修理見習いの東洋市が、幼い頃に父親を目の前で武士に無礼討ちされたトラウマをのり超えて時代の潮流に目を開いていく

 雑兵
野菜売りのかたわらに町道場で剣術の稽古に励んでいた弥助が、師の推挙で幕府の雇兵応募に採用され、鳥羽・伏見の戦いに駆り出されたことで、時代の歯車が音をたてて回転していく様を直視することになる


一つ一つの話は独立していて、登場人物にも何の繋がりもないけれど歴史の流れは続いているのだ
いずれも波乱の激動期に、その渦に巻き込まれていった若者たちが登場している
ある日、若者は不条理なるものに抗して立ち上がる。あふれる情熱ともて余し気味のパワーを自分のために、愛する者のために、惜しみなく使い果たす。「おれたちは『生きる』ために生れてきた」と声高に叫びながら・・。

                     作者 あとがき














2007年12月09日(日) 百名山の人           田澤 拓也


 NHKで『日本百名山』を見たのは何年前だったろうか。
もう亡くなられているけれど相川浩というアナウンサーの朗読がとても素晴らしくて、まるで自分自身が登山しているかのように山の清浄がつたわってくるようだった。
その短い番組で初めて『深田久弥』という名を知った。
登山家である前に作家だったが、若い頃に発表した作品は最初の妻である『北畠八穂』との共著だったらしい。
私は『深田久弥』という作家のことも『北畠八穂』のことも知らなかった。
『北畠八穂』は脊髄カリエスで寝たきりに近い状態だったので、妻を置いて山に登るうちに深田は初恋の人にめぐり合い子供を作ってしまった。
折からの徴兵で中国に行き、復員後は北畠の元には戻らず子供をなした
しげ子と暮らし、故郷の大聖寺に引っ込んでしまうのだ。
それでも山好きが高じて、次第に世間に認められていき『日本百名山』へと深田の戦後の人生がつながっていくのだ。

私は山が好きだから、骨董を愛する人が骨董を見ると目の色が変わるように、山を見ると心がたかぶる。どんな山でもいい。五十年、私は山をながめ、山へ登ってきた。学者でもなければ、クライマーでもない。ただ山が好きの一事に尽きる。その愛する山にオマージュを呈しようというのが私の念願であった。

今 中高年による登山ブームとも聞く。
私ももっと若い頃から山に登っておけばよかったと思う日々だ。
今は目先のことにかこつけて毎日を送っているけれど、せめて 『日本百名山』のDVDを手に入れたいと願望している。













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