2006年10月30日(月) |
女にこそあれ次郎法師 梓澤 要 |
領主の一人娘として生まれた祐は父の死後、仕える今川から家臣の息子と一緒になるようにいわれたのを拒否して出家したが、それにもかかわらず否応なく家名の存続、領地支配と支配される側の苦衷を味わわされていく。後に徳川四天王の一人に数えられた井伊直政の養母でもあり、先代の井伊家当主でもあったその女性の名を、井伊次郎法師直虎という。
支配する側の苦労と支配される側の苦衷、領地を失う衝撃。女で出家した身であるからこそ生き延び得た一方で、子を持てなかった痛みをもちつつ、家を継がねばならぬことのむごさを自分しかいないのだ、やるしかないではないか、人にはなすべきことがあって、避けては通れないと生きていくのだ。 辛苦を越えて井伊家を守り通し、俯瞰的に世の中を見る目を持つに至った祐に、清々しささえ感じる。祐と直政の関係だけでなく、祐と父・直盛および母、直政と実母の関係、祐と交わりのあった瀬名(家康の正室・築山御前)と信康の親子関係も濃く描かれていて、先に読んだ諸田玲子の『月を吐く』と重なる部分もあって、私の中ではほんとうに読んでよかったと思う一冊になった。
━領主とはいったい何なのか、と考えずにいられなかった。 武士は、農民たちのように植えも耕しもせず、ただ実りを取り上げる。市人たちのように物を作って売りもせず、儲けを吸い取る。そのかわりに敵が攻めてきたら守ってやると言いつつ、いくさにかり出して死なせているのが現実である。 その武士の上にふんぞり返っているのが領主。そしてその上に大名がいる。 ━支配と服従。 その狭間に落ち込んで、ただもがくしかなかった。
覚書
次郎法師井伊直虎、祐圓尼。 天正十年八月二十六日永眠。 法名妙雲院殿月泉祐圓大姉。
2006年10月24日(火) |
中納言秀家夫人の生涯 中里 恒子 |
宇喜多秀家は、戦乱の世に、太閤秀吉の信頼を得て、若くして栄達を得、中納言、大老の一人としての地位栄光を掌握した人物だが、一朝、破れて凡ての権力を失い、一流人として、五十余年の後半生を送った悲劇の大名である。 私はこのなかで、人間の幸福というものが、外面ではなく、自分の中にあったことに気づいてゆく、その生き方を描きたいと思った。そして、流人となったその時から、主人公のもっとも人間らしい孤独な生活が始ったと解釈した。 作者 あとがき
加賀藩主前田利家の四女で、太閤秀吉の養女となった豪姫は、幼なじみの宇喜多秀家に嫁ぎ、華やかな女の幸せに包まれていた。が、関ヶ原の戦いに敗れた秀家は八丈島に流され、生きてまた逢うことのない夫婦の、永い埋れ木の日々がはじまった。
前田家が、奥方の臨終の折の心労を慰めるべく、信義を重んじてその後も、代々、米、金子、衣類、医薬品を送りつづけていたことはあきらかだが、宇喜多一族も、代々相続のたびに申し伝え、届け出て、合力を受け継いだ。前田家への信頼は、加賀百万石の富ばかりではなく、大名と流人一族の間の、人間的な愛憐の流露であろうか。
「美しいのう、見せたいのう、誰ぞおらぬかいな」 奥方は、縁に座して、落葉を眺めていた。南の島の八丈にも、紅葉はあろうか。・・・殿は、都路の紅葉の秋を覚えていようか。一葉、また二葉、紅葉のいろが褪せて乾き、いずくともなく飛散してゆく道の辺の、うすらつめたいうら淋しささえも、哀れではなく、あでな、しあわせな秋の色であった。 だが、ただひとりで見る、来る年々の秋色の艶は、なんとむなしく見ゆることよ。 奥方は、秋が去れば永い冬が来る、そしてまた、春が萌え出す・・・そんな思いで、やっとのことで、胸につかえた悲しさで、縁に座っていた。
20年以上も前に読んだことがあったものを読み返してみた。 私も娘に逢えない日々を過ごしている・・・。 豪姫と比べるべきもないけれど、淋しさや悲しさは自分の心の中で折り合いをつけて静めていくしかない。 まさに秋さかり・・・身に染む季節ではある。
2006年10月20日(金) |
中世炎上 瀬戸内 晴美 |
先に読んだ 杉本苑子の『新とはずがたり』と同じ題材の作品になるが、杉本苑子の書いた物語のほうは西園寺 実兼の視点から書かれているが、この『中世炎上』は二条が主人公という設定になっている そして 私にはこの中世炎上のほうが昭和13年に発見されたという『とはずがたり』に近いように思った
『とはずがたり』とは 鎌倉政権下、両統迭立時代の後深草院の女房二条で、その十四歳から四十九歳までの三十五年間に及ぶ後宮生活や諸方への旅行の追憶を記録した、水色地表紙の五巻からなる冊子本のことである 筆者は関東申次の西園寺実兼のことは「雪の曙」と表現し、後深草院の異母弟の性助法親王のことは「有明の月」と記している
この頃は 元寇が日本に攻めてきたりと大変な時代だったが、政治の実権は鎌倉幕府に移っていたので京は正に乱れた宮廷社会だったようだ 源氏物語の女版というようにも思えるだろう
昔、和泉式部や、小野小町も、歌を詠み恋にめぐまれ、人にねたまれるほどの華やいだ青春を送ったのに、晩年は、旅にさすらい、乞食のようになって、どこに果てたともわからなくなっている。 男の放浪者は、どこまで行ってもその行跡がすがすがしく記録されているのに、女の放浪者の末はどうしてああもみじめなのだろうか。どうせ、自分の旅の涯も、式部や小町にまさるとも劣らないみじめな果て方を迎えるのだろうと、二条は思いめぐらせるだけでもう涙があふれてくるのだった。
2006年10月09日(月) |
平城山を越えた女 内田 康夫 |
平城山(ならやま)と読む
いつものように殺人事件に巻き込まれる浅見光彦だが、今回の物語の筋は失礼ながらどうでもよいというのが感想か 終わり方がとても納得のいくものではないのだ それより 物語の大事なポイントである新薬師寺の十二神将のことや、盗まれたとされている香薬師仏の存在が気になった この本を読む少し前に、盛りの萩を見るために私は新薬師寺へ行っているのだ 香薬師仏のことは何も知らなかった・・・ そうでなければ すべて国宝だという十二神将のおわす古い本堂で、十三仏の朱印を押してもらった堂守さんに聞くこともできたものを、悔しくてならない
せめて 新薬師寺の盛りの萩でも見てください
古都行けば 鐘の音ひびき 高き空
ゆるき坂 香がただよい 寺近し
薄日さし 和上を偲ぶ 苔光る
雨上がり 古刹の寺に萩こぼる
さからわず 風に流るる コスモスや
元本も文庫も絶版になっていたようで 私の読んだのは愛蔵版だそうだ
花と男と女とそして死とにまつわる短いお話が綴られている
私が思うに最近のちまたの花は和花が少なくなって、洋花というかカタカナで現すお花が増えてきたように思う ガーデニングというような表現をされるサフィニァ、ペチュニア、ベゴニア、マーガレット、ハーブ類・・・などなど どれもこれもキレイなお花だけれど、私が子供の頃に親しんだ和花が忘れられていくような何気に寂しい思いでいる でもこの本に書かれているお花は漢字で表現する和花が多い 冬薔薇、梅、鬱金桜、けし、桔梗、女郎花、柊、しだれ桜、石楠花、てっせん、曼珠沙華、枯蓮、水仙、沈丁花、ライラック
ライラックの章は作者自身の若い頃の話そのものか・・ 北京にさいていたライラックを思い出してのお話だが、私は作者とほとんど同じ時期に満州にいた母を強く思った 作者より二歳くらい年上の母も満州でライラックを見て、おなかの子供に語っていただろうかと・・
あなたに愛された日から、私の花が変わったとしても当然でしょう。私にはそれまで目に見えていたものがすべてだと思っていましたが、肉眼には映らない他のものが、まだこの世にはみちみちていることがわかりはじめました。心の眼が開いたということでしょうか。 花のひとつひとつに宿る精霊の声が聞こえるようになったのです。 枯蓮の章より
2006年10月02日(月) |
文車日記 ━私の古典散歩━ 田辺 聖子 |
古事記や万葉集、江戸時代までののいろんな文学作品の中に散らばるエピソードを分りやすい文章で書いている 日本語のもつ美しさや言葉の響きも教えてくれる 額田王あり、大伯皇女あり、但馬皇女あり、そして私の知らなかった人物ありで面白く興味深く読んだ 平家の最後もあるし、神話もあった 作者の膨大な読書歴から 自身の好きだと思う話ばかりが紹介されているのだけれど、幅広い作品の取り上げには感服させられた
あるとき、若い美しいお嬢さんが、かなもじを紅色に散らし書きして染めた着物を、身にまとっていられるのをみました。それは、「あけぼの」「くれなゐ」という文字でした。━まさに、あけぼのもくれないも、若い娘の美しさ、清らかさをあらわす、こよない言葉に思われました。 それで私もまた、そんな美しい言葉をちらし書きして染めた着物を着てみたいと空想しました。 おぼろよ、かげろふ、あぢさゐ、あさゆき、はるさめ、なのはな、うぐいす・・・口ずさむだけで、美しさに酩酊するような言葉がたくさんあります。もし私が時代小説を書くときは、ヒロインたちに字も発音もイメージも美しい、こんな名を与えたいなと思います。 もしかしたら、日本の女が美しかったのは、日本語が美しかったせいではないでしょうか。日本の若いお嬢さんに、美しい言葉をたくさん知ってほしい気がします。 「あけぼの・くれなゐ」の章より
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