2006年09月28日(木) |
望みしは何ぞ 永井 路子 |
『王朝序曲』では 藤原冬嗣を 『この世をば』では 藤原道長を そしてこの『望みしは何ぞ』では 道長の息子の藤原能信(よしのぶ)を書いていて、あわせて平安朝三部作ということになる
道長の二人の妻である倫子(鷹司殿)と明子(高松殿・源高明の娘)のことは『この世をば』で詳しい。倫子の子供達は一条帝の中宮彰子など、輝かしい未来が待っていた。しかし対象的に高松系の子供達には苦労が待ち受けていた。能信は高松系の出生だ。その高松系に生まれた彼の苦悩の一生が屈折の思いで書かれている。そして彼が出世をかけて守り通した人。それは不運を背負ってこの世に生を受けた三条の后ひとりである妍子の産んだ、禎子内親王。禎子の子、尊仁を帝位に立てるべく奔走する能信。尊仁は後三条帝となり、その子、貞仁は後の白河天皇となって、能信が自身に問いかけ続けた望みしは・・が 能信の死後に叶えられたということだろうか。
一生 屈折した思いで能信は鷹司系への報復を意識していたようだけれど、白河天皇の即位後は藤原摂関家の影響力はしだいに薄れて院政が開始されていく 外戚に代わって上皇(法皇)が権力の中心に座るようになるわけだけれど、その院政権力にまつわりついていくのは能信の系列ということなのだ
院政きっての専制君主白河は、能信について語るごとに、 「大夫どの」 と敬称をつけて呼んだという。それは幼児に、その膝で遊んだことへの懐かしさからではなく、皇位への道を切り拓き、時代の枠を大きく踏み破ってくれた能信への敬意をこめた呼びかただったのではないだろうか。
2006年09月23日(土) |
竹ノ御所鞠子 杉本 苑子 |
鞠子は、源頼朝の子で第二代将軍であった源頼家の遺児である そして鞠子の母の刈藻は頼家の側室で、木曽義仲の娘である
三代将軍実朝が亡くなって、次期将軍の選定が焦眉の急となり、鎌倉幕府は、九条左大臣道家の子三寅に白羽の矢を立てた 源氏の血統を根絶やしにしてきた尼御台と北条義時は、唯一残っていた‘頼朝の血’の伝え手としての鞠子に注目し、まだ五歳の三寅と二十一歳の鞠子を婚約させる やがて義時が亡くなり、政子もこの世を去り、新執権の座に義時の嫡男泰時がつき、三寅は八歳で元服して頼経と名を改め、征夷大将軍となる その拝賀の祝いの席で、二十五歳の鞠子と九歳の頼経将軍の婚約が正式に発表された そして婚約の夜から数えて二年後、鞠子は死胎児を生み、出血にまみれて死んでしまう 三十一歳であった鞠子の死で、源頼朝の正嫡、つまり源家の血はすべて絶え果てたことになる 女ゆえに、謀叛人に担がれる危険がなく、また女ゆえに、子を産む道具として残された鞠子だが、頼朝の血筋で最後まで生き残った人ではあるけれど男たちの権力の犠牲になったことになる
鞠子が頼経と結婚させられる前に、木曽義仲の股肱の臣下の末裔である近習の諏訪六郎雅兼とひっそりと祝言をあげ万亀という娘をもうけていたが、この事実が義時に知れ六郎と万亀は殺されてしまう 鞠子が夫を持ち、子を生み育てていた事実は闇に葬り去られてしまった これは事実だろうか、作者の創作だろうか・・・ 作者の鞠子という女性への関心が素晴らしい作品となったわけで、それを読むことのできる幸せを思う 表舞台にはでることのない女性たちの歴史の一コマが面白いのだ
2006年09月16日(土) |
朱なる十字架 永井 路子 |
細川ガラシヤ。洗礼前の名はお玉。父は明智光秀,夫は細川藤孝の息子、細川忠興。お玉が嫁いでから起きた荒木村重の謀反。荒木村重の子、村次に姉のお倫が嫁いでいたために、父明智光秀が仲立ちするも、お倫は明智家に返され荒木村重は城を捨てる。次には光秀丹後攻略の癌、波多野秀治に降伏を求めお玉の祖母を人質に出すが、信長は波多野秀治を殺し、お玉の祖母も殺されてしまう。そして有名な歴史の事実である光秀の謀反。光秀の謀反によりお玉は奥深い山中である味土野へ身を隠す事になる。お玉が大阪へ戻った時、世の中は秀吉の天下となっていた。お玉が幽閉されていた間の側室の存在を夫が話してくれなかったことへの夫との心のすれ違い、父を殺した秀吉、お玉の心に渦巻くものがキリスト教へ心を傾けることになる。忠興のお玉への愛の真実と家が大事の現実、お玉の信心、戦国の世でなかったらと思うばかり。お玉の死が安らかであったには違いないだろうけれど、今の感覚で言えばやはりかなしい歴史の事実ということか。
人間には、それぞれの答、それぞれの立場がある。 ━次々と起るとまどいの中で、自分の道を選ぶ。 そのことがつまり、生きるということなのだ。
2006年09月11日(月) |
石川 節子 澤地 久枝 |
愛の永遠を信じたく候
十四歳のときの初恋の人・石川啄木と結ばれた節子は、誰よりも早く彼の天才を信じた人だった。 二十歳で結婚して二十七歳で亡くなった短い生涯は病気と貧困と家庭不和に脅かされ続けた。 命がけの献身によって啄木の芸術を支えながら、生活に追われて心は次第にすれ違っていく。 タイトルは石川節子になっているが、やはり石川啄木の物語だろう。 私は石川啄木の作品が好きでこの本は25年も前に自分で買ったものだが、どうしたことか読んだ記憶がないのだ。そういう意味では節子の存在も新鮮だったし、啄木の生活破綻者ぶりにも少々驚いた。借金まみれの人生で、男の身勝手さと人間的な弱さをかなり持っていたようだ。 啄木を美化していたわけではないけれど、正直読まなければよかったぁ・・という思いもしている。 作者はあとがきで 長い旅をつづけてきて、まだ目的地に到達し得ていないような気がする。もっと書きたいこと、書かなければならないことがあるのに、わたしの中のなにかが、それを切り捨てさせたというような、あとをひく思いもある、と書いている。 それは読み手も何気に感じることだ。 生身の節子の姿が何となくぼやけているような・・・。
啄木の葬儀は明治45年4月15日に浅草の等光寺で営まれた。 (亡くなったのは4月13日だが、明治45年4月15日というのは私の父が生まれた日である。それがどうした・・と言われそうだが・・・) ということは今年は啄木が没して94年ということになる。 あと6年で没後100年になる。
2006年09月05日(火) |
箸墓伝説 内田 康夫 |
私にとっては久しぶりの浅見光彦の登場
箸墓というタイトルにひかれて読もうと思った作品だ 箸墓古墳はヤマトトトヒモモソヒメ=邪馬台国の女王だった卑弥呼の墓 ?・・と云われている その箸墓を舞台にどんな物語に仕立ててくれるのだろうと興味があった 表紙の帯には歴史を超えた女たちの冥い情念とあったが、普通そう簡単に殺人は起こさないだろうというのが正直なところか それよりも章が変わるたびに引用されているいにしえ人の歌がいい いつもながらの浅見光彦の推理は素晴らしいが、何よりもこれだけの物語を書くということは生半可な歴史の知識ではムリだろうと思う 物語の舞台へも度々訪れているのだろうなぁ プロローグでわくわくさせておいて、本文で納得させる そして全部読んだあとで、再度プロローグを読み返すと内容が走馬灯のように駆け巡る しばし 物語の中に身をおいて読後感にひたる 改めて面白いと感じる
それよりも 近いうちに当麻寺と箸墓とホケノ山古墳を含むオオヤマト古墳群を歩いてみようと思う
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