読書記録

2006年08月28日(月) 告白           チャールズ・R・ジェンキンス


 拉致被害者曽我ひとみさんのご主人の手記

貧しい家庭出身の若く愚かな兵士で陸軍以外に頼るべきものもなかったはずなのに、逃亡してすべてを投げ捨ててしまった。問題に正面から立ち向かうことをせず、逃げ出したのだ。自分の行為のもたらす重大な結果について深く考えず、北朝鮮の実態もよく理解せずに、非武装地帯を越えてしまったのだ。北朝鮮に居つこうと思っていたわけではなく、共産主義シンパでもなかった。何らかの方法で出国するか逃げ切れると考えて逃亡してきたため、ここ北朝鮮で永久に囚われの身となる運命だと気づいたときには、激しいショックに見舞われ、すぐにこの国を憎悪するようになった。

私は郵政民営化に代表されるような、今一番国民が期待していることを無視して自論を推し進めていく総理大臣を評価していないが、この拉致問題についてだけは評価したいと思う
ただし途中で投げ出してしまった気はしているが・・
今までの大臣は拉致問題を疑っていたはずなのに知らん顔をしてきた
いかに無法な国が相手とはいえ、自国の国民が拉致されたのだ
どうして何もしてくれなかったのか
それに比べたら少なくとも小泉さんの訪朝で5人の拉致被害者の家族だけは帰還できた
日本の拉致被害者の象徴ともいえる横田めぐみさんも何とかして、お父さんとお母さんのもとに返してあげてほしい
帰国された5人の拉致被害者の人たちは公表されないまでも、いろんなことを関係機関に話されているとは思うけれど一日も早い全面解決をどの国民も祈っているのだ










2006年08月23日(水) 新とはずがたり          杉本 苑子


 後深草院二条の回想録『とはずがたり』を題材にして、原文にない部分を取り入れて新しい作品を生みだしたいという作者の意欲から書かれた作品だ
実在した関東申次役という西園寺実兼の目を通して、作者の思う二条が創りだされた
野の花に似て儚げな美少女は父親のような後深草院の寵姫となりながらも、弟宮の亀山院や性助法親王ら実兼の思われ人にもなってしまう
そんな二条が一心不乱にわが生きざまを見つめ続けてついには髪を剃ろし出家してしまう
私が面白いというか巧いなぁと思ったのは、当時踊り念仏の集団をひきいて精力的に全国を布教して廻っていた一遍上人の存在と、二条の精神を重ね合わせたことだろうか
元寇という歴史の事実や鎌倉幕府の現状も取り入れられていて、私がもひとつ理解できないでいた両統迭立のこともふれられていた
ラストで実兼が二条のことを思う場面では「捨てて、捨てて、捨てようと願う気持までを捨てて、二十年間、行としての漂泊をつづけながらも、ただ一つ最後まで捨て切れなかったもの・・・。それが後深草院の存在だったのではあるまいか」と憶測している
それは『捨て聖』に徹した一遍の存在とも重なり合うのだろう


   おのづから相逢ふときも別れても
     一人はいつも一人なりけり

               一遍



2006年08月14日(月) 秀吉と利休         野上 弥生子


 正直 私は秀吉も利休も好きではない
テレビのドラマからの印象はどちらも権力者だと感じていたから
それがこの物語を読もうと思ったのは先に読んだ『百枚の定家』で、お茶の世界に少々興味をもったからだ
まず利休を知って、古田織部、小堀遠州もおいおいに読みたいと思う
作者の視点が違うから茶事の床に飾られる小倉色紙のことは1ヶ所のみ
利休の弟子で秀吉から所払いになっている山上宗二が、配流先の小田原で北条氏政の大伯父である北条幻庵の隠居家での茶事でのみ用いられていた
その床での小倉色紙は誰の句だったのだろう・・

利休が秀吉に切腹を言い渡された理由として、大徳寺の三門に建立した利休の木像のことは知っていたがこの物語では私の理解していた娘のお吟さまのことは書かれていない
利休が秀吉の朝鮮出兵について「唐御陣は明智討ちのようにはまいらぬ」と言ったようにされている
そしてこのことは解説では虚構とされている
でもこの虚構は見事だと私は思う
人は真に言われることには時として自分でも理解できないくらいの反発を感じるものだ
だが 利休を死なせたことで秀吉は利休の存在からなおいっそう離れられなくなっていくのだ
石田三成はここでも悪者だ


生まれたからには、死ぬほかはない。このわかりきった道理の中で人間が誰もあえて死のうとしないのは、きまっているのは死だけで、行き方にはきまりがなく、千差万別、どう生きようと勝手であるところに、生きる悦びも、値打ちもあるはずだ。彼はこんなことまで思いながら、果してどんな生活を自分自らは求めているかは、わからなかった。



2006年08月07日(月) 百枚の定家        梓澤 要


百人一首を編纂した藤原定家がみずから一首ずつしたためた、小倉百人一首のオリジナル、それが『小倉色紙』です。かるたの原型ともされているそれを、藤原定家は七十四歳の老齢で書いたとされています。その頃の彼は中風と眼疾に悩まされていましたから、百枚もの色紙を書くのは苦行に近い状態だったでしょう。鼻先を紙にくっつくほど近づけ、慄える手で筆を押さえつけるようにして、ようやく書き上げたはずです。
定家の死後、それは忘れられ、いつしか行方不明になりました。子孫である二条家・京極家・冷泉家の『歌の家』の宗家争いがあり、定家卿崇拝が過熱して、その偽書が争ってつくられました。歌道秘伝『古今伝授』が表なら、小倉色紙は裏━。ひそかに守り伝えられたのかもしれません。



ふと思った。
藤原定家もこうして夜更けに一人、筆を走らせる手を止めて野鳩の声に聞き入ったかもしれない。俗世を捨てた西行法師もまた、粗末な庵に座して山の濃い闇を透かし見てもの思いに耽ったであろう。来ぬ人を待ちわびつつ夜空を渡る月を観る女、桜吹雪に老いゆくわが身のはかなさを思う者、しめやかな雨の音に聞き入る人・・・。
パソコン画面の白々とした光に照らされている現代の自分が、時空を超えて彼らと直接つながっている、そんな気がした。
(そうか・・・)
百首の歌には百人の人間がいる。あたりまえのそのことを、はじめて実感として感じた。




かなり読み応えのある分厚い本で少々疲れた。
そして情けないことにどこが歴史の事実で、どのへんが物語りなのか私の知識では区別できないことだ。
別に区別する必要もないのだろうが・・・。


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fuu [MAIL]