2006年06月29日(木) |
よみがえる万葉人 永井 路子 |
歴史ものを書いていると、さまざまの歴史上の人物と顔なじみになります。ここにとりあげたのは、なにかの意味で私にとっては親しい人々、いわば「わが万葉紳士・淑女録」ということになりましょうか。 従って、なるべく肩書や表向きの衣裳を脱ぎすてた素顔をスケッチしました。 (作者 あとがきより)
作者のいう万葉の紳士、淑女が作者の目を通してその方々の歌とともに紹介されている 有名な額田王、長屋王、大伴家持、柿本人麻呂などをはじめ、世にはあまり知られていない方々もあり、始めて知った人物も多い 今までに何冊かの万葉の物語を読んだが、それらを思い起こしながら楽しく読んだ 私はやっぱり無理やり歴史の表舞台から引き摺り下ろされた人物が好きだなぁ・・ 有間皇子、大津皇子、長屋王・・・ 歴史にもしも・・・はないけれど、この方々が天皇になっていたら・・・とどうしても想像してしまう
東の野にかぎろいの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
柿本人麻呂
2006年06月23日(金) |
天平大仏記 澤田 ふじ子 |
この本を読んで奈良の人間には象徴ともいえる大仏を見る目が更に違った 前に『穢土荘厳』を読んだときにも、大仏建立の底辺で人間扱いをされていなかった奴婢たちがいたことを思っていた
天平十五年、聖武天皇は金銅盧舎那仏造顕の詔を発せられた。卓越した技能をもつ造仏工・天国や当麻呂、手伎をもつ奴婢たちは、その身分を良民に直され、大仏建立に携わることになる。だがこの大事業には、熾烈な政争や陰謀が渦巻き、天国たちに過酷な試練が襲いかかる…。
盧舎那仏完成のあかつきには天国たちを再び、奴婢に戻すという企みがあった。正に地を這うように底辺に生きた奴婢たちの生命をかけさせられた働きがあってこその盧舎那仏の完成である。 それにしても藤原鎌足を祖とする藤原氏の存在とは・・・? 光明皇后もこの物語の藤原仲麻呂も私はどうも好きになれない!!
現代にも通用することとして、社会システムの底辺にはいつの時代も呻吟している人間の姿がある。ただその姿を見ようとするか、しないかという違いがあるだけだ。 今まで知らなかったことを知った時、人間の想像力は他人の痛みを思いやることへと使われる。それは人間に与えられた能力の最も優れたものであるかもしれない。この物語はそうした思いを抱かせてくれる作品だった。
この物語の題材である明和事件を知らないのでネットで検索した
この事件は宝暦事件とともに,江戸時代中期におこった最初の尊王運動で,幕府は山県大弐と藤井右門を死罪に処した。山県大弐は甲斐国出身で,敬義派儒者で神官でもあったが加賀味桜塢,および徂徠学派の儒者五味釜川に師事し,1756年(宝暦6)江戸に出て塾を開き,その門下は盛大であった。儒学・神道・兵学などに通じた大弐は,1759年(宝暦9)『柳子新論』を著し,日本の歴史や思想を論じたが,幕府から疑いの目でみられた。大弐の弟子,上野国小幡藩家老吉田玄蕃が,ゆえあって大弐の兵学が幕府を傾けるものと,1766年(明和3)に讒訴し,同志藤井右門とともに1767年(明和4)に処刑された。藤井右門は越中国に生まれ,1745年(享保20)京都に遊学して竹内式部と知り,尊王論を説いた。竹内式部は1758年(宝暦8)の宝暦事件により重追放になり,藤井右門も連坐したが,江戸に逃れて大弐の家に寄宿していた。式部は,のち,右門との関係から,再び罪されて遠島に処せられた。
幕府転覆を諮ったのは山県ではない。砦に隠れ住む竜神一族である。そのことはすでに報告がなされているはずだ。だがこれを公にすれば、墓をみすみす暴くことにもなりかねない。幕府の威信は地に落ち、人心を惑わせるもととなる。 山県一人に汚名を着せてよいものか。助命の動きもあったというが、止めを刺したのは山県が危惧した通り、弟子同士のいがみ合いから発した讒訴だった。弟子の藤井は粗暴な男で、幕府への暴言を吐き散らしていた。穏健派は藤井に反感を抱き、保身のため、山県と藤井に反逆ありと自訴して出たのである。 のちの知ったことだが、山県の辞世は、次のようなものであったという。
くもるともなにか恨みん月今宵 晴を待つべき身にしあらねば
この物語の主人公、芙佐の夫である奥村賢太郎はこの明和事件でどんな働きをしてどんな立場だったのかが、私の頭では理解できないでいる。 この時代だから夫には口出し、口答えせずにひたすら仕えるのが妻の美徳とされるだけに芙佐も自分が負わされたことも話さないかわりに、夫にも事件のことを聞かない。 確かに生きていくうえで知らないほうが幸せなこともある、と最近は思うようになっている。知ればしんどいし、さらにその先が知りたくなってくるからだ。 そういうことを感じさせる物語ではあったようだ。
2006年06月13日(火) |
淳和院正子 三枝 和子 |
いつも感じることだけれど女性の書いた作品は天皇位に執着を持たない設定が多い。 この53代天皇の淳和院もそういう設定になっている。そして正子もそんな夫の生前の言葉を思い出しながら,我が子可愛いさゆえの煩悩ゆえに天皇の位への執着を捨てて仏に仕える生活に入っていくのだ。
「私には、自分の子が可愛いいという煩悩がある。これが捨てられないのだ。何も皇子を天皇にしたいのではない。重々のしがらみのなかで、私が位に即かなければ皇子の命が危ういと思われることがあったのだ。妻を得、子供をつくって生きていると辛いことが多い。私は弱い人間だからこのしがらみに縛られて生きて来た。死ぬことによってしか、このしがらみから自由になれないことが、いまになってやっと分って、せめて死後の成仏を願って、葬儀は薄葬、散骨にしてほしいと遺言するつもりだ。」 散骨自体、前例がない。突っ切って突っ切れないことはない。日頃から山陵に神として鎮まるのではなく、仏法にしたがい、尽十方(じんじっぽう)に遍満する救世の大悲である仏と一つになる散骨を願っていた淳和上皇の望みをかなえようとする正子。
先に読んだ「壇林皇后私譜」の橘嘉智子の娘になるが、二人の間には少々確執があったようだ。
恒貞親王廃太子〈承和の乱・842年〉に関わった母を、正子はそんなふうに捉えて納得した。もちろん藤原良房の陰謀であることは疑いようもないけれど、無意識にその陰謀に加担した母に、正子は、正子を国母にしたくなかった母の奇妙に屈折した心情を感じとっていたのだった。 ━しかし、それもこれも、もう終りだ。 もう終りだと思えば、母とのあいだのあらゆる事柄が無意味になって来る。あらゆる事柄に対する執着が消える。正子は、死んで成仏するということの意味が初めて分った気がした。生身の人間であれば総ての執着を断つなどということは滅多にできるものではない。死んではじめて、どの人でも執着が消える・・・・・。 ━真如法親王さまなら、私がこんなふうに言い出したら何とお答えになるだろう。 正子は法親王と恒貞親王が空海の「即身成仏義」について話しあっていた場面を思い浮かべた。たしか、「三劫成仏〈三大無数劫すなわち無限の長い時間、修行して初めて成仏するということ)」のちがいを討論していた。そのことが、いま、確執のあった母の死を目前に、はじめて逆算して分って来たような気がしたのだ。つまり、限りなく死に近く生きる・・・。自分は死ぬことはできなくとも、相手が死んでしまえば、その関係は執着でなくなる。現実に相手が生きていても、死んだものだと思ってつきあえば、執着のない関係は可能になる。相手が執着の関係を迫れば逃れればよい。
正子も橘嘉智子も書き手によって印象がかなり異なる。 いくら母娘でも相性というものが確かにあるのだろう。 まして時代という抗うことのできない状況を考慮に入れるとしたら。 橘嘉智子のいう流され流されて生きてきたというほうが私は共感を覚える。 母とても生身の人間なのだから・・・。
2006年06月09日(金) |
壇林皇后私譜 杉本 苑子 |
平安初期 第52代嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子(壇林皇后)が官寺として創建した壇林寺 という尼寺がある
生きてきた人生は、一見単色に見えながら、襞々に複雑な濃淡を秘めた起伏に富んだものであった。無数のむざんな死と、愛憎と権謀とに血なまぐさく彩られ、好むと好まざるとにかからず嘉智子自身、その渦中に漬かりながら宮中での歳月を、流され流されてすごしたのである。 罪と知りつつ、あえて犯した罪もあり、結果から見て彼女に帰すべき罪もあった。巷に餓える者がい、病み凍える者が充満するかぎり、皇后の顕位にあることじたい、すでに罪なのだ。そうなるべく望み、そのために戦った生涯である以上、犯した罪から目をそらす気はなかった。罪に課せられる当然な罰からも、卑怯に逃げかくれするつもりはない。
地、水、火、風の四元素から成り立つ人身は、死ねば元の空に━無に還る。死後の世界にまで延長して自己を認識する霊魂などというものは、実際には存在しない。地獄を現出するのも浄土を形成するのも、すべて生き身のうちの働きであり、だからこそ、今日ただいまのこの〃生〃をいかに生かすかが、重大な問題となるのだ、との、明快な把握であった。 「四大元空」 つぶやいた瞬間、嘉智子の中のこだわりが、乾いた軽やかな音を立てて、からからと崩れた。一種の悟りであったかもしれない。しかし意識としては、そんなものものしい自覚もなかった。 以来、しばしば彼女の心象に、夕焼けの寂光が拡がった。この世ならぬ美しさで音もなく燃える茜・・・。その下に累々と打ち重なる死者たちも、すべて無言であった。音のない、透明なあかるさの中で、新しい屍体、古い屍体の上に進行していた壊滅の種々相━。河原の土手で目撃したあの光景である。 戦慄と恐怖なしには想起できなかった惨状を、魔訶止観に説かれている九相観として、平静にいま、嘉智子は思い返した。 息を引き取って七,八日たつと、人間の亡骸はすさまじく膨張しはじめる。これを脹相という。やがて腐乱がはじまる。壊相という。さらに進んで血塗相となり膿爛相の惨鼻を呈する。蛆と蠅にまみれ、死臭はなはだしくなるのはこの期間だ。ついで青瘀相が訪れ、噉相の段階に入る。もはや人体とは思えない。青ぐろく色を変じ、野犬、狼、鳶鴉などに噉い尽くされて、わずかな筋や肉、贓物のたぐいが骨にからまりついているだけとなる。それらも風化すると骨相あらわれ、ばらばらに骸骨が散乱して散相に達する。そして最後、土に帰納する焼相まで、九つに分かれた変容を九相観と称するのであった。 修行の手段としてではなく、あるがままの滅びの姿として、嘉智子はくり返し、若き日の、あの目撃を脳裏によもがえらせた。 (わたしもいずれああなる) そう思うことで、むしろふしぎな落ちつきが与えられた。 火葬にせよと遺言し、山頂の夕風の中で骨粉を撒かせた淳和院、即身仏になることを誓ってがん中にこもった空海・・・。その、いずれでもなく、自分の死後は、遺体を野辺に捨ててほしいとさえ、嘉智子は願うまでになっている。女人として最高の顕位に座り、それゆえに、千人の兵士によって具象化されている千の罰を受ける身なら、野ざらしの壊滅こそいさぎよく、ふさわしかった。
2006年06月01日(木) |
天の鎖 澤田 ふじ子 |
小説・日本庶民通史/平安篇
血のつながりがないのに『牛』と呼ばれた三代の『牛』の物語
だが 『牛』が主人公と思わせる裏で、陰の主人公は『空海』だろうか
今まで 何冊かの奈良時代から平安時代の頃の物語を読んだが、政治をつかさどる周辺にいた人々の物語ばかりだった 今回の物語は 歴史の事実を織り込みながらも我々と同じ、国の出来事にいやが応でも従わざるをえない庶民の小説で興味深く読んだ
作者はあとがきで 輪廻転生の思いを託し、幕末に生きた『牛』までをどう書くか、社会の状況をうかがいながら考えている、と記しているので私は一日千秋の思いで楽しみにしている
延暦少年記・応天門炎上・けものみち
延暦年間、平安遷都で喧しい世相の中、山背国の少年"牛"は貧しい暮らしの中で、若き空海やその師"行叡"と出会い、仏師となる決意を固める。だがそれは同時に世の荒波にもまれてゆくことでもあった。 親の言うとおりの新京造都の工匠より仏師になりたい牛はある日出奔してしまう。
東国から約六十年ぶりに京へ戻った"牛"は、そこで豊安という少年に会い、彼を弟子として東寺で仏像を刻むこととなる。そんな中、東寺の奴が良民の娘とわりない仲となり、狭隘な人々が彼らを追いつめたりとするなかで、応天門炎上という歴史の事実のなかに牛たち、庶民も組み込まれていく。 幼い頃から"牛"と呼ばれていた赤麻呂〈東寺奴の子〉は十歳の時、奴として東寺に引き取られた。そこでは不思議な効験力をもつ唯空のもと、夜叉神堂に仕え、同時に逃亡を図った僧侶を始末する闇の仕事を担うが、やがて真の特命(空海入寂後の高野山と東寺の三十帖策子のゆくえ)が与えられ、己の生の意味を知ることとなる。
鎖は金属製の輪、一つひとつが頑丈につなぎ合わされ、ひも状にできている。 物と物とをつなぎ、暗い時代には残酷にも人間すらつないできた。 人間の歴史はこの連鎖に似ており、いまの存在をさかのぼれば、あらゆるものが昔の輪につづいているはずである。〈作者 あとがき〉
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