2006年01月22日(日) |
紅蓮の女王 小説 推古女帝 黒岩重吾 |
現代社会のひずみや現代人のエゴと欲望といった面から人間を凝視してきた作者が、自身の子ども時代をすごした高松塚古墳の発見から古代への夢と ロマンに惹かれて取り組んだ作品だ
後に推古女帝となる炊屋姫(かしきやひめ)の人間像もさることながら、蘇我馬子という人物の政治性をうまく書いている 馬子は相当な政治家だったようで、姪でもある炊屋姫の女としての情念を巧みに利用して、強敵の物部氏をほろぼし、さらには蘇我氏を大王家にとってかわる存在のまで押し上げることを狙っている
どの作品にもいえることだが作者が登場人物というか主人公にほれ込んで、人間的な共感をイメージとしてふくらませて書き込んでいくようだ それは読み手にもいえることで私などはいつも主人公に感情移入してしまうので、読み終わったときは疲れもあるし、達成感のような思いもある 作者がいっているように歴史は人を溺れさせる危険性を持っている、とあるが私も古代のロマンにひかれつつある
2006年01月20日(金) |
橘 三千代 梓澤 要 |
2002年の1月にこの本を読んでいて2度目になる
天智、天武、地統、元明、元正、文武、聖武天皇と続いた歴史の流れを読んでいたらどうしてもこの『橘 三千代』の存在を注目しないわけにはいかない 『女帝・氷高皇女』でも 『穢土荘厳』でも、作者は橘 三千代の功績は認めつつもやはり臣下としか見ていない 変な言い方になるけれど読むのが2度目のこの本は、主人公が橘 三千代である だからそこのところをどういう表現にするのか確かめたいと思った 和銅元年に元正女帝が県犬養という姓を改め、橘という姓を名乗ることを許す場面もこの本の先に読んだ『穢土荘厳』では解釈が違った 一般的には三千代の先の夫とのあいだの息子である葛城王と佐為王の兄弟が聖武天皇に臣籍への降下を上表した時の、 橘は 実さえ花さえ その葉さえ 枝に霜降れど 益常葉の樹 と歌われるように 天皇自らが忠勤の三千代を賞したように伝えられている 『穢土荘厳』 では 「にこやかな仮面のかげで、皇統への侵蝕、藤原勢力の伸張を策していたあの、獅子身中の虫ともいえる女に、朕が嘉賞などするはずはありますまい。三千代が自分で橘の実を取り、盃に泛かべて『橘姓をご下賜いただきたい』と押しつけがましく申し出たのです。ただの美称としてならば、何と名乗ろうと勝手だと思い、許してやっただけのことなのに、まるで三千代を、この朕が無二の股肱とでも信頼しているような書きざまをするとは!」と表現している 文武、聖武の父子の乳母だったころの忠勤は認めても、三千代が藤原不比等と一緒になるころからは三千代の存在に脅威を感じていたと思われる 三千代自身もそういう世間の見方はわかっていただろうけれど、今でいうところのキャリアウーマンへの道を歩き始めてしまった三千代としては夢を追い続けたということだろうか
作者あとがきより
天武、持統、文武、元明、元正、聖武━六代の天皇に仕えた後宮女官。そのうちの文武天皇と聖武天皇、父子二代の乳母をつとめた希有なひとでもあります。 飛鳥から奈良へ━。壬申の乱終結から奈良時代前期にかけての約六十年間、華やかな天平文化の幕開けまでは、「日本国」が出来上がった時代でした。天武天皇という偉大な帝王がプランニングした「律令国家」実現に向けて、歴代の天皇と臣下たちが奮闘した時代です。複雑に絡み合った血縁関係、その血の絆を刃で断ち切るような陰謀、帝位継承争い、権力闘争・・・・・。女帝の時代でもありました。持統、元明、元正。彼女は三人の女帝に信任され、「橘」の美姓を賜り、五百人の女官を統率するトップでした。 官廷生活五十有余年。 誇るほどの氏素性をもたない女が、自分の才覚一つでのし上がって絶大な影響力を持つようになり、その死後「正一位」を贈られ、ついに位人臣を極めるところまでいったのです。色香を武器に権力者の寵愛を得てその地位まで昇ったのではなく、もちろん運や巡り合わせはありましたが、決してそれだけではありません。もしもそういうことなら、最後まで勝ち抜けなかったでしょう。 したたかに、しなやかに━。強靭な精神力と柔軟な感性のもちぬしだったのではないでしょうか。それが天賦のものだったのか、それとも自ら培っていったものなのか?
2006年01月06日(金) |
天智天皇をめぐる七人 杉本 苑子 |
作者あとがきより 『天智天皇をめぐる七人』は、蘇我氏打倒のクーデターから壬申の乱前後までを描いていますが、当時を生きた人々の中から七人の男女をピックアップし、その、それぞれの運命を見ていくことで、彼らに関わった中大兄皇子━天智帝の実像を、焙り出そうとこころみたわけでした。 歴史上の人物に、感情的な色分けをするのはつつしむことですけれど、正直いって私は、天智帝という人があまり好きではありません。ただ『水鏡』に記されている白馬の話には、かねがね強く魅せられていました。天智帝の死をめぐって、なぜこんな謎めいた、美しくも奇怪な伝説が生まれたのか。この「なぜ?」に触発されて、私は彼を追いかける気になったといえます。
風鐸 ━ 軽皇子の立場から
琅玕 ━ 有間皇子の立場から
孔雀 ━ 額田女王の立場から
華鬘 ━ 常陸郎女の立場から
胡女 ━ 鏡女王の立場から
薬玉 ━ 中臣鎌足の立場から
白馬 ━ 鵜野皇女の立場から
作者に感化されたわけではないが私も中大兄皇子は好きではない 弟の大海人皇子も同じだ 作者の意向は大いにあるだろうけれど、権力というか帝位についた人たちより表舞台から消されていった人たちのことを強く思う とくに 風鐸と琅玕の章に登場した軽皇子とその妃である有間皇子の母、小足媛(おたらしひめ)に興味を覚えた 小足媛の手にもどされたのは、有間の袍の裾を切り取り、やや武骨ながら規格正しい楷書で、大海人皇子がしたためたあの、旅中の歌二首と、指にはめていた琅玕の指輪だけだった。 見おぼえのある息子の着衣の一部に、叮嚀に包まれてきたささやかな遺品・・・・・。小足媛はでも、指輪をつまみあげた刹那、反射的にそれを床に叩きつけていた。 磚を敷きつめた冷たい床にひざまずき、そっと指輪を拾いあげたのは、有間の詠歌に、涙が涸れ果てるほど泣き悶えたあとである。 (からかいであれ遊びであれ、一ッ時、愛息に虹色の夢を見させてくれた女) 真先くあらば、また還り見むとは、この母をか、額田女王をか? 問うすべは、もはや絶たれた。有間のそばへこちらから行くほか、再会の手立てはなくなってしまった。 ・・・・・屋敷から二丁ほど離れた用水池に、小足媛の溺死体が浮いたのは、その日の夕方である。懐中ふかく秘めて出たはずなのに、投身するさい底に沈んだか指輪はなく、髪に一筋、短い水藻が絡まっていたにすぎない。琅玕の青の深さとは較べようもなく淡い、濡れそぼった藻の色であった。
磐代の 浜松が枝を引き結び 真先くあらば また環り見む
この描写がとても きれいで心に染み入るように思った 後世を生きる我々が事実を知るすべはないけれど、作者のこの描写に万にひとつの違いもないように思う もう 私は母の立場でしか何事も感じないのだろうとも思う
2006年01月02日(月) |
穢土荘厳 杉本 苑子 |
えどしょうごん
穢土━罪悪によってけがれている現世(しゃば) 荘厳━仏像や寺を飾りつけること
華やかに咲き誇る天平文化の裏側で恐るべき陰謀が進行していた。持統、元明、元正ら蘇我氏系の女帝に対し、宇合を中心とする藤原氏が権力奪取を企てたのだ。最大の政敵長屋王襲撃で闘いの火蓋は切って落とされ、血で血を洗う抗争で一気に長屋王一族滅亡へと突き進む。その後、大地震、飢饉、天然痘による藤原四兄弟の死、めまぐるしい遷都、藤原広嗣による叛乱、安積皇子の暗殺と聖武帝はいっときも心がやすまらない。懊悩の果て、遂に大仏建立を決意、天平15年、詔と共に国中の富と民がかき集められ着工された。帝の悩み、実力者達の思惑、民の苦しみ、すべてをのみ込んで仏は巨大な御姿を現してゆくのだ。
大仏建立の鞴(ふいご)踏みの苦痛に耐えかねて、連日、屈強の男奴が幾人も斃れている。それを造った彼らにこそ毘慮遮那仏の救いはもっとも厚くもたらされてよいはずなのに、鞭の乱打と薄い粥しか、連中は現身に享受できない。その上、来世に於ける救済の約束すらおぼつかないとしたら、いったい何を支えに生きたらいいのか
奈良に住んで大仏の存在は知ってはいるが、あの時代の便利な道具など何も無かった時代によくもまぁ、あれほど巨大な仏を建立したものだと改めて驚ろかされる 帝位にいた聖武天皇の懊悩を形に表せばあのような大きさになったとでもいうことなのだろうか
浄土は空のあなたに在るのではなく、めいめいの心の中に求めるべきものなのだ。 ただ、行浄自身の実感をも踏まえて、つくづくやり切れなくなるのは人間の業の深さ、迷妄の種の限りなさだった。振り切った、と歓喜した次の瞬間に、もう新たな愛憎、新たな苦しみに鷲づかみされている人間というものの救いがたなさ・・・・・。仏に成りうる存在でいながら、一生涯、ついにその可能性への憧れだけで終らなければならない事実に絶望して、せめて造形の上でだけでも満たされたいと、聖武天皇は念願したのではあるまいか? そう思って眺めれば、きらびやかに装われた大仏殿が、きらびやかなだけになお、たまらなく淋しいものに感じられてくる。上皇の孤独、人間すべての苦悩の、無限を具象するものとも映るのだ。
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