氷のように冷たく輝く月
ふつう 歴史小説を書く場合、主人公に入れ込んでその人物を題材に物語を進めていく この『氷輪』 の 場合は 唐招提寺の創始者鑑真だろうか、それとも若き碧眼の僧如宝だろうか 藤原仲麻呂、孝謙天皇、弓削道鏡など歴史上の人物の分析もとても細かいと感じた ふだん 私のように刹那的に毎日を送る人間にとって、歴史に興味をもったとしても第一級資料たる『続日本記』をはじめとする書物にまではとても目がいかない それをこの本はいろんな歴史書共々に読み聞かせてくれている 随所に作者の意見や考えをちりばめて時代を解説してくれている そこのところを作者は正直に文中に入れている ・・・・・例えばA・ B ・C ・D の史料のうち、これしか真実と思えるものがないと覚悟をきめたら、それで一気に書くより切りすてることでもある。時には無知や考えの甘さをさらけだす結果にもなるが、ともかく作業をしおえたときには、一筆描きの水墨画を描きあげたような、緊張感を通りぬけた爽快さも味わうことができる。 と 潔い表現をしている。
そして 戒和上になった如宝の思いで文を締めくくる。 とりわけ寒さの厳しい夜更け、金堂での礼拝をすませ、黒々と浮き出た大屋根の上に輝く月をふり仰ぐと、亡き師の俤が眼裏に浮かぶ。 中天にかかる月は氷のごとくきびしく、そしてはるかに遠い。そして自分はその冷徹、静謐な光を受ける一枚の屋根瓦、一葉の木の葉にすぎないと如宝は思ったことだろう。
解説もまたいい。 「まこと歴史とは語られた部分と同じくらいに、語られざる部分に大きな意味がこめられている。」
正にその通りだろう。
神武天皇に始まり、今上天皇に至る天皇家の長い歴史の中で、その歴代の系図から消されている天皇がいる。 元弘元年(1331)、後醍醐天皇から三種の神器を継承し、天皇として一年八ヶ月の在位期間を持ちながら、 その即位を否定された゛幻の九十七代゛光厳天皇である。 幼児から厳格な帝王学を受け、純粋で英明な人柄を讃えられた光厳帝は、なぜ゛廃帝゛とされなければならなかったのか。
舟もなく 筏も見えるおほ川に われわたりえぬ道ぞくるしき
あす知らぬ身はかくても山ふかみ 都は八重の雲にへだてて
゛老僧の滅後、いっさいの法事は無用なり゛ 光厳院はそう遺誡を残された。 ゛遺骸はただ山の麓に埋めよ。墓はいらない。その塚の上に松や柏が自生し、風や雲が折々に往来するのが、 私にはふさわしい。村人が哀れんで小塔を建ててくれるなら、それもよし。火葬もよし。 四十九日の仏事も必要ない。多くの供物、布施をもって、追善供養したなどとは、ゆめゆめ思ってくれるな。 一切空、どこであれ、日常の静かな仏道修行こそが、老僧への何よりの供養である゛
確かに学校で学んだはずの北朝、南朝のことは恥ずかしいくらい何も覚えていない。 両統迭立のはずだったのが、後醍醐天皇の権力への執着からこの光厳帝の悲劇は始まったのだ。 楠木正成、新田義貞、足利尊氏といった武士たちによる権力争いの戦があったことはわかる。 物語の文中では戦による血なまぐさい表現も見られたが、読後感は光厳帝を思わすかのようにとてもキレイという気がしている。 散りしくしだれ桜の霞のなかで琵琶を奏でる光厳帝が朧に浮かぶ。 ただ当の光厳帝は運命にさからわず、胸が痛いばかりで涙の出ない悲しみもあることを身をもって知る。 生きるとは悲しいことなのだ。
文中の西行のうたも私のこころに残った。
身を捨つる人は まことに捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけり
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり
2006年02月08日(水) |
落日の王子 蘇我入鹿 黒岩 重吾 |
蘇我本宗家の長子である入鹿がその頃、帰国した留学僧たちから、大唐の律令制について学びとり、それにならった中央集権国家の成立を考え野望を燃やす。 当時 入鹿の父でもある大臣蝦夷は政治権力を一手に握ってはいたが、神祇の最高司祭者としての大王の地位は高く、完全な独裁とはいえなかった。中国の皇帝のような立場を手に入れ、新しい政治体制をつくりあげたいと願う入鹿は、舒明大王の歿後、王位を継いだ皇后宝皇女(皇極天皇)と交渉をもち、聖徳太子の子である山背皇子やその一族を滅して、蘇我本宋家の権力を誇示する体制をかためていった。 だが群臣の間に入鹿への警戒心や反感がつのり、とくに入鹿にたいしてつよい憎しみを抱く中大兄皇子は、蘇我本宗家を倒して強力な新国家の建設を意図する中臣鎌足と結んで、入鹿の謀殺を決行した。後にいうところの皇極4年、645年の大化の改新である。作者は乙巳(きのとみ)のクーデターと表現している。
すこし前に読んだ杉本苑子著『天智天皇をめぐる七人』の中で登場した軽王(入鹿が暗殺されたすぐあとに即位した孝徳天皇)は、天皇の位に執着していないような描写だった 前回読んだこの作者の『天翔ける白日』での、草壁皇子と大津皇子の描写でも感じたことだが、女性作家と男性作家では微妙に描写が違うのだ。 私の読んでいるのは作者の想像による飽くまでも小説である。『日本書記』 を読んだ作者のうらやましいまでの想像力の賜物である。
それにしても 本殿での入鹿暗殺の場面は読み手にもたっぷり想像力をうみだしてくれる素晴らしい描写だったと私は思う。正に手に汗握る場面だった。 いつも感じることだけれど 策を弄して陰謀を成功させた中臣鎌足よりも、確かに横暴だっただろうけれど歴史の表舞台から無理矢理引きずり下ろされた入鹿のほうに私は興味を覚える。
2006年02月03日(金) |
天翔ける白日 小説 大津皇子 黒岩 重吾 |
大津皇子の母は天智天皇の娘大田皇女で、天武天皇の皇后である鵜野讃良(後の持統天皇)の姉にあたる。だが、大津と彼の姉の大迫皇女を残して早逝したために、皇太子には皇后の子で大津と同年の草壁皇子が選ばれる。病弱で凡庸な草壁に対して、大津は文武にすぐれた偉丈夫で、人間の器もはるかに大きく、宮廷内の人望を集めていた。そのために、皇后に草壁の敵とみなされ、憎まれることとなる。 草壁との対立は運命的なものがあり、大津は天武の長子でありながらも、その周囲には見えない網が張りめぐらされ、彼の生きる道は網を切って自分の存在を確立するか、網に巻かれて皇后に阿諛追従するかの二つしかない。 律令制の基礎ともなる姓制の改革(八色の姓)を断行した頃から、天武は病いに倒れ、皇后の権力が日増しに強くなって、大津を政治の中枢から疎外し、圧迫をかけ始めた。その頃、大津は美貌の女官大名児と恋に陥っていたが、食うか食われるかというところにまで追いつめられて、ついに彼を慕う御方皇子とともに、天武の死の直後に皇后と草壁を斬る計画を立てる。だが、二十五歳の大津より四十二歳の皇后のほうが一枚上で、計画はすぐに発覚。大津は捕えられ、謀反のかどで処刑される。妃の山辺皇女も大名児も大津のあとを追ったと伝えられている。
少し前に読んだ『女帝 氷高皇女』でも、『橘 三千代』でも 草壁皇子は政権に執着がなかったように書かれている。共に女性の作者だ。今回の作品では正反対の解釈をしている。男性の作品だとやはり権力への思い込みが表に出てきている。 歴史にもしも・・・は禁物だけれど、もし大田皇女が早逝していなければ大津は天皇になれたかもしれないのだ。 いつの世も母親というものは自分の子どもが一番可愛い。 鵜野讃良も例外ではないけれど、母の思いとはうらはらに草壁皇子は天皇にはなれなかった。草壁も早逝してしまった。 それにしても大津は哀れだ。これも運命とは思うけれどなまじ人望を集めたゆえに自滅していく。 やはり権力を手にしていく人物よりも、死というかたちで歴史の舞台から去っていく人物にとても魅力を感じる。
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