読書記録

2005年07月29日(金) 劫尽童女        恩田 陸


書籍内容

父・伊勢崎博士の手で容易ならぬ超能力を与えられた少女・・遥。彼ら親子は、属していた秘密組織「ZOO」から逃亡していた。そして、七年を経て、組織の追っ手により、再び戦いの中へ身を投じることに !  激闘で父を失った遥は、やはり特殊能力を持つ犬・アレキサンダーと孤児院に身を潜めるが―。殺戮、数奇な運命、成長する少女。彼女の行く手に待つのは何か。



『劫尽』とは何か宗教的な意味のある言葉なのだろうと思っていたが、辞書には載っていなかった
国語辞典では
『劫』は、ほとんど無限ともいえるほどの長い時間の単位
『尽』は、すがれ、盛りをすぎて衰えかかったもの、とある
・・・・・分からない・・・・・

エスパー少女、遥ということか


この作者の『まひるの月を追いかけて』という作品を少し前に読んでいたので、同じような感じでいたがちと違った
正直、こういう構成は苦手だ



2005年07月23日(土) 卒業           重松 清

 気に入った本があれば その作家の他の作品も読む
前回の『きよしこ』がよかったので 以前、新聞の新刊紹介で読もうと思っていたこの作品を図書館で借りた
4つの短編が収められていて、いづれも40歳の男が主人公になっている

まゆみのマーチ

まゆみが好き、好き、好き、まゆみが好き、好っき! まゆみが好き、好き、好き、まゆみが好き、好っき! まゆみが好き、好き、好き、まゆみが好き、好っき!
(たしか題名は『悟空の大冒険』といった。手塚治虫のマンガを原作にした、孫悟空が主人公のコメディ。)


あおげば尊し



卒業

ひとは、どんなときに死を選んでしまうのだろう。絶望でも悲しみでも、借金でも身内の不幸でも失恋でもなんでもいい。自殺に価する条件が揃ったとき、なのだろうか。そんなに割り切れるものではないような気がする。コップの水は満杯になってからあふれてしまうわけではない。ほんのわずかでも、コップそのものが傾いてしまえば、こぼれる。誰のコップも、決して空っぽではないだろう。コップは揺れている。きっと誰もが、それぞれの振り幅で。

追伸

取材で、子育て中の母親にしょっちゅう会っている。育児に悩む母親の愚痴を毎日のように聞き、親バカの子ども自慢に付き合っているうちに、わかってきたことがある。
「親子って、ざらざらしてると思うんですよ。サンドペーパーとかマジックテープみたいなんだな、って。摩擦の力がすごく強いんですよ。だからピタッとくっつくようにわかり合えるときもあるし、逆に、ちょっとずれるだけで傷つけ合っちゃうし・・・・・」



2005年07月16日(土) きよしこ           重松 清


 ━星の光る夜、きよしこは我が家にやってくる。すくい飲みをする子は、「みはは」という笑い声で胸をいっぱいにして、もう眠ってしまった。糸が安いから━
おかしな言葉をおかしなぐあいにつないだ、おかしな文章だ。
ノストラダムスの予言詩?
残念ながら不正解。
これは、昔むかし、ある町に住んでいた少年が勘違いして覚えた『きよしこの夜』の歌詞だ。
「きよし、この夜」を「きよしこ、の夜」と間違えていた。「救いの御子」が「すくい飲み子」になり、「御母の胸に」は「『みはは』の胸に」なった。「眠り給う」は「眠りた、もう」、「いと易く」は「糸、安く」・・・・・。
ひどい勘違いだった。少しさびしい勘違いでもある。歌詞には書いていない「我が家にやってくる」という箇所を、想像で勝手にくっつけたところが、さびしい。


『カ行』と『タ行』と濁音がつかえてしまう吃音の少年の物語
父親の転勤で小学校を5回も転校して、その度に自己紹介をさせられ自分の名前の『きよし』でどもってしまい、笑われからかわれる。
それでも中学、高校と進むうちにだんだんと吃音は少年の個性として友達にも受け入れられていく。苦手な言葉を言わなければならない時は、代わりの言葉を捜すがたいていは自分の心の中にしまってしまう。
大学受験までの少年の心うちが見事に書かれている。
それにしても作家というのは、状況や場面の描写と登場人物の心理描写を何と見事に表現してくれることか。
そして人生というか生きていくということは、人の気持ちを知り何より自分の気持ちと真摯に向き合うことだと・・改めて感じた。



2005年07月05日(火) 萌えの朱雀        仙頭 直美

奈良の山村で両親や祖母、いとこの栄ちゃんと暮らす、みちるの夏の物語。長く携わってきた鉄道建設が中止となり、張り合いを無くした父が、みちるが18歳の夏祭りの日に自殺。家族は静かに崩壊していく…。静謐な日常をとおして、少女は受け継がれていく「生」の意味を知る。カンヌ映画祭の最優秀新人監督賞受賞作を、監督自ら小説化。

人が生きて死を迎えるまでの間には、数えきれないほどたくさんの出来事がその周りで起こり続けるのだろう。これまでも、これから先も。そして幾度もの苦悩にぶつかって、その時々に精一杯の自分で乗り越え続ける。それらの日々の確かな記憶が、自分を創り上げ豊かにする。


奈良出身の作者による奈良が舞台の映画だということは知っていたけれど残念なことに見ていない。本を読んだ今となっては悔しいとしか言いようがない。静かな日常のほのぼのと暖かい描写を見てみたい。
この本の前に読んだ『火垂』ともども、この作者の自然な描写がとてもすばらしい。私の子供のころの日常をたっぷりと思い出させてくれて『ほんとにありがとう』という気持ちでいる。
やっぱり 『奈良』 っていいなぁ!



2005年07月03日(日) 火垂            河瀬 直美

 ヒガシヤマ ダイジ

 ミズサワ アヤコ


もしも感情を持たないガラスのような冷たさで、目の前で起こっている出来事にただ流されて生きてこられたなら、歪んだ心で世の中を見る目など持たずにいられたのかもしれない。もっと素直にもっと清らかに私は生きていたいと思いながら、その反対側でいつも何かをはすかいに見ている。そうすることが私なのだと決めつけ、世界を敵にまわし、それと戦うことでやっと自分の存在理由を見出しているのだ。



奈良を舞台の白黒の映像を見ているような気がした。

何故か 主人公のアヤコに私は娘を思った。
もちろんアヤコと娘は境遇も生い立ちも何もかも違うけれど、こころを流れるものが同じだと思ったのだ。
作者の心の表現がとても正直で美しいとも感じた。


10年ぶりに思いついて郷里を訪ねるとばあちゃんが死んでいた。そのばあちゃんの通夜の場面で私は涙した。私自身アヤコに何を重ねているというのか・・。

願わくば 娘に大司のような男性の現れることを祈る。








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