銀河鉄道を待ちながら
鬱と付き合いながらの日々を徒然に

2007年10月28日(日) 自然と触れ合ってみた

10月28日 晴れ  行き先  鶴来町樹木公園

そろそろ秋本番ということで、紅葉を見に鶴来町にある樹木公園に行ってきました。

樹木公園にはこの時期になるとキノコがたくさん生えます。
そのキノコを見るために行くのです。

今日は嬉しい偶然がありました。

何と、野生のリスを見ることができたのです。

野生のリスがふさふさした尻尾を揺らしてぴょんぴょん飛び跳ねていました。口をふくらましていたので、何か口の中にためていたのもしれません。

公園の中はくるみなどの木の実がたくさん落ちているので、餌が豊富にあるのでしょう。

そしてもう一つ、生き物と出会いました。
ヘビです。

緑色で細く、体長が60センチくらいでしたので、青大将か何かだと思いますが、くねくねと這い回る姿を見たのは8年ぶりくらいでしょうか。

小さな頃、実家の方でヘビにちょっかいをかける遊びをしていたことを思い出し、懐かしい気分になりました。

蟹の爪、というキノコが公園の中に生えるときがあるのですが、今回は見ることが出来ませんでした。誰かが取ってしまったのかもしれません。

それは残念でしたが、スギヒラタケなど他のキノコがたくさんあったので、秋らしい気分を満喫でき、大満足でした。   



2007年10月20日(土) 第1回「みんな知らない生活保護の話( 1.車の所有)」

久しぶりの日記更新です。

平凡な日常を送っていると、なかなか日記に書くほどのことが起こりません。

平和でいいんですけどね。


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最近というか、このところ生活保護関連の記事が新聞等のマスメディアを賑わすことが多くなっています。

目立つのは、生活保護を巡る行政の不手際に関するものです。

例えば、保護をすべき人を保護せずに結果的にその人が亡くなってしまったことや生活保護費の着服などがそれに当たります。

社会保険庁の年金管理のずさんさが明らかになり、行政、というか公務員不信が広まりを見せていることに関係して、大きくスポットを浴びたのかもしれません。

そんな中、一つおもしろい記事を見つけました。

それは、九州の方で、とある住民団体が「生活保護者の自家用車の保有を認めるべき」という意見を行政に対して申し入れた、というものでした。

今回は、これを題材にしたいと思います。



第1回「みんな知らない生活保護の話( 1.車の所有 )」


生活保護の制度は、日本の社会保障を語る上でとても重要な位置を占めるのですが、一般的にはそれほどなじみのないものだと言っていいと思います。

理由は色々あるのでしょうが、一番分かりやすいのは「生活保護にお世話になることはあんまりないから」という理由ではないでしょうか。

例えば、何かと話題の年金制度なんかは、まず間違いなく皆さんお世話になるものだと思います。介護保険なんかもかなりの確率でお世話になると思います。誰でも年は取りますから。

もっと身近なのは、医療保険でしょう。年齢に関係なく皆さんお世話になります。けがや病気で病院に行くことは当たり前のことです。


それに比べ、生活保護は非常に対象者が限られています。現金、預金、株式、不動産等の資産を持っておらず、働く能力もない人だけです。

厚生労働省の統計では、平成19年4月現在で生活保護を受けている人の数は約150万人(1,526,027人)で、一見ものすごく多いように見えますが、人口の約1.2%に過ぎません。

さて、そんな生活保護の制度ですが、さきほど述べたとおり、日本の社会保障では非常に重要な位置を占めています。

その意味は、「最後のセーフティネットだから」であるとか、「生存権を保障するものだから」である等様々な表現を使うことができますが、今回注目したいところは……

「憲法が定める『健康で文化的な最低限度の生活』とは具体的に何か、ということを表している」

という点です。

これを今回のテーマに結びつけると、「自家用車の所有することは、『健康で文化的な最低限度の生活』を営むのに必要なのか?」ということになります。

さて、どうでしょう?

おおよそ、二つの意見に分かれると思います。

一つは、「今の世の中車がないと何もできないよ」という肯定的な意見。

もう一つは、「車なんかおれだって持ってねえよ。自転車があるだろ、自転車」というような否定的な意見です。

現在、自動車は裕福な家庭だけが持つものではなく、通勤やレジャー、買い物等の日常生活のための便利な移動手段として、非常に広く普及しています。

その点だけを見ると、前者の肯定的な意見が説得力を持つようにも思われますが、もう少し深く考えなければなりません。

本当に自動車がなければ生活していけないのでしょうか?

大都市では交通網が発達し、地下鉄やバスに乗ることによって目的地に辿り着くことは十分に可能です。駐車場が限られ、交通量が多すぎるので、自動車による移動は決して有効ではありません。

大都市とは言えないまでも、ある程度の規模がある都市であれば、大都市のように本数は多くないかもしれませんが、電車やバス等の公共の交通手段が広い地域をカバーしているので、バスと徒歩、あるいはバスと自転車等を組み合わせることによって、行きたい場所へは行けるはずです。

小さな都市あるいは町村では、十分に公共の交通手段が整備されていないことも多いでしょうが、それでも、自転車で一時間も走ればスーパーや病院等に行くことはできるでしょう。

確かに、自動車があれば便利で快適な生活をすることができます。しかし、それがなければ生活できない、つまり他に代替するものがない、という人はまずいないのです。

そして、生活保護は「便利で快適な生活」を保障するものではなく、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するものです。

車が「健康で文化的な最低限度の生活」に必要なものであるとすれば、車を持っていない人は「健康で文化的な最低限度の生活」を送っていないことになります。

また、生活保護を受けている人が車を持つということは、その人の持つ自動車にかかる税金や車検代、ガソリン代まで全てを国民が払う税金でまかなうことになります。

そのことを受けいれることができる人は、ごく少数でしょう。

ですから、どちらかといえば、後者の否定的な意見の方が妥当だと言えます。

実際、件の住民団体の主張に対するネット上での反応は、批判的なものがほとんどでした。


しかし――ここからが重要なのですが――その住民団体の主張は荒唐無稽なものかというと、そうではありません。

ここで住民団体が行政に申し入れた意見の内容の詳細を取り上げたいと思います。それはこういうものでした。

「子供の送り迎えなどで自家用車を手放して公共交通機関を利用することが不可能な場合もあり、車を売却せず活用した方が受給者の自立につながる場合は保有を認めるべき」

彼らは、単純に車の保有を認めろ、と言っているわけではないのです。かなり限定された条件での所有を想定しています。

条件は三つあります。

1.「子供の送り迎えなどで」

2.「自家用車を手放して公共交通機関を利用することが不可能な場合」であって

3.「車を売却せず活用した方が受給者の自立につながる場合」

以上です。

それらの条件から、住民団体がどのような人のことを考えてそのような申し入れしたのが分かります。

まず、「子どもの送り迎えなどで」とありますから、送り迎えが必要な小さな子どもがいる家庭ということになります。

次に、「自家用車を手放して公共交通機関を利用することが不可能な場合」ですが、子どもの送迎が難しいくらいバス、電車の本数が少ない僻地に住んでいる場合が考えられます。

最後に、「車を売却せず活用した方が受給者の自立につながる場合」ですが、そこでの「自立」という言葉は、おそらく「経済的な自立」を表していると思いますので、生活保護を受けている家庭の中に働くことができる人がいないとこの条件を満たしません。

まとめると、こうなります。

「送り迎えが必要な小さな子どもがいて、しかも公共交通機関が十分にない土地に住んでいるので、一家の働き手が働くために車を必要とする場合」

もちろん、働き手以外に子どもの世話をする人が家庭内にいる場合や、周囲に子どもを預けることができる親族や近しい人などがいる場合はそれに当てはまりません

従って、事実上、その条件を満たすのはいわゆる母子家庭か又は両親のうち一人が障害や病気で働くことのできない家庭ということになるでしょう。

ちなみに、生活保護を受けている母子家庭の数は約9万(平成17年度 厚生労働省のデータ)です。その数字から交通が便利な大都市に住んでいる家庭を除き、更に子どもが低年齢である家庭に絞っていくと……その条件に当てはまる生活保護受給者がどれだけ少ないかが想像できます。



その極めて限られた人たちに車の所有を認めることは、生活保護の制度に反しているのでしょうか?

車の所有について、国はこのように定めています。

「『障害者が自動車により通勤する場合』や『山間へき地等地理的条件、気象的条件が悪い地域に居住する者等が自動車により通勤する場合』には『社会通念上処分させることを適当としないもの』として通勤用自動車の保有を認めてよい」

実は、車を所有することは、そもそも全面的に禁止されているわけではなく、場合によっては例外的に認められているのです。

ですから、住民団体の方たちが主張していることというのは、正確には、

「生活保護の受給者に車の所有を認める」ことではなく、

「例外的に認められる場合の一つとして、『送り迎えが必要な小さな子どもがいて、しかも公共交通機関が十分にない土地に住んでいるので、一家の働き手が働くために車を必要とする場合』も含める」こと、なのです。

そう考えれば、その主張がある程度説得力のあるものであることが理解できると思います。

所有する車が不必要に価格と維持費の高いものでないことや収入の額、子どもの預け先や職場との距離、家族の構成、他の代替方法の有無などを十分にかつ慎重に調べることが条件となりますが、私見としては住民団体の意見は受け入れることは可能だと思います。後は行政の運営の問題でしょう。


生活保護の不正受給や職員の生活保護費の着服など、スキャンダルばかりが取りざたされる生活保護の制度ですが、「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かという中身についての深い議論はおざなりになっています。もっと正面から、制度についてマスメディアが取り上げてくれることを期待しています。



2007年10月08日(月) ほっと一息

8日午前9時頃、僕の乗った飛行機は関空に到着しました。

飛行機はフィンランドのヘルシンキから飛び立ち、約10時間のフライトを終えました。

ヘルシンキ経由、イタリア8日間の旅が終わった瞬間でした。

そう、僕は人生初の海外旅行に行ってきたのです。


旅程は、ベネチア、フィレンツェ、ローマをそれぞれ2日間ずつ廻るもの。ツアーでしたが、とても充実した旅でした。

海外旅行に行ったことがない、という点は、結構長い間僕のコンプレックスの一つだったのですが、これでそれが解消されたことになります。

おかで様で、海外出国の手続きから関税や帰国の手続きまで、海外旅行で必要となる一通りの知識を得ることができました。

たった8日間、という言い方もできるでしょうが、毎日が発見ばかりの今までに体験したことのないほど中身の濃い日々でした。


さて、まずは僕が感じたイタリアという国の印象から。

1.どの都市も歴史的建造物でいっぱい。
2.ご飯は割といける。
3.イタリア人は結構親切。
4.色んな国の人がいる。
5.サッカーは国技。

教会とか、宮殿とか、石造りで建てられたものは地震がない限りなかなか劣化しませんね。中世どころか紀元前の建物が未だにたくさん残っていることはすごいことです。木造が中心の日本ではなかなかこうはいきません。
食事は日本人の口に合うような気がします。若い人は特にそうですが、ピザとかパスタとか、イタリアンは普段口にする機会が多いですから、違和感がないです。日本のイタリア料理のレベルが非常に高いことに気付いて感心しました。もちろん、口にしたことのない不思議な味がするものもありましたが。
イタリアを訪れる外国人が多いせいか、イタリア人は外国人に慣れているような気がしました。英語や日本語を話す人は意外に多いですし、割と親切でした。
僕が行った都市はどこも観光スポットですから、外国人はとても多かったです。アメリカ人、フランス人、ドイツ人、中国人、韓国人、日本人など。特にアメリカ人は多いような気がしました。それが逆に安心でしたが。異邦人は僕だけじゃないんだ、的な。
テレビや新聞を見ていて思ったのですが、やっぱりサッカー(カルチョ)人気がすごいですね。どうでもいいようなことで何時間も討論してたり、新聞の扱いも比較的大きいです。文化として根付いているのを感じます。

そして今度は僕が感じたイタリアのネガティブな印象。

1.街中の交通がむちゃくちゃ。
2.観光客だから分かるまい、と値段に不相応な飯を平気で出す。
3.ボる。
4.意味不明なチケット販売方法。
5.ホテルの設備が悪い。

イタリアは景観を大事にしていますし、歴史的な経緯がありますから、駐車場が作れないとか、難しい問題を抱えているのは理解できるのですが、違法駐車を放置しているところとか、結構イタリア人って仕事に対してテキトーな感じがしました。ていうか、全体的にアバウト?
基本的に料理はおいしいのですが、値段が高いと思いました。観光地ということもあるのでしょうが、「この値段なら日本のイタリアンの方がおいしいなあ」と思うことが多々ありました。30ユーロ程度(日本円で4600円くらい。10月1日時点)で食べられるところは、あまり感動がないです。
ぼったくり、とても多いですね。無理矢理買わせるアイスクリーム屋とか、気をつけないといけないところが多いです。露店の飲料とかも。値切ればいいんでしょうけど、面倒です。アイスクリームはバチカン市国の中の店が良心的でした。値段は1.5ユーロから2ユーロくらい。露店のジュースは3ユーロとぼったくりでしたが、店で働いているのは少数民族の人らしくて、「こいつらこれで食っとるんやなあ」と思うと、値切る気がしませんでした。
チケット販売の方法は分かりにくいです。チケット一枚で複数の場所を見ることができるという方式(ローマで)は、なじみがなく、戸惑ってしまいます。
建物が古いせいでしょうが、ホテルは相当高いところでない限り、日本のホテルに比べて設備で劣るようです。お茶を飲みたくても、湯沸かし器がありません。とはいえ、最低限の生活をするのに支障はないようです。


最後に、イタリアでの思い出ベスト3.

1.ベネチアで、アメリカ人のばあちゃんにいきなり英語で話しかけられ
  たこと。
2.フィレンツェで食べた豆の煮込み。
3.おばさんのタクシー運転手。

ベネチアのサンマルコ広場で座って休んでいたら、隣に座っていたおばあちゃんにいきなり英語で「Are you japanese?」と話しかけられたので、イエスと言ったら、その後延々と「英語で」話を聞かせられた。僕は英語ができないので「わっかんねえなあ」と思いつつ、とりあえず話を合わせようと「oh」とか「reary?」とか、適当に相槌を打ってたら、英語が理解できると思ったのか、更に長々と話が続いてしまった。英語ができないとダメだなあ、と痛感した事件。
地元の料理なのでしょうが、豆の煮込みの味がとっても謎でした。豆の味なのか料理の味付けなのか不思議なテイスト。いい意味でサプライズでした。
英語以上にイタリア語ができないので、タクシーは使いたくなかったんですが、ローマはとても広く、観光するのにタクシーを使わざるを得ませんでした。女性のタクシー運転手と会ったのはホテルまでの帰り道。変なタクシー拾ったらやだなあ……と思いながら、タクシー乗り場で待っていると、女性が運転しているタクシーを見つけました。女性の方が安心かな、と思いそのタクシーに乗ったのですが、予想以上に運転手の女性はとても親切でした。笑顔がとてもかっこいい人でした。

余談ですが、イタリア人が乗る車はほとんどマニュアル車で、オートマはほんの少しでした。好みなんでしょうか?


思い出が盛りだくさんの素晴らしい旅行でした。
イタリア大好きです。


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