綿霧岩
DiaryINDEX|past|will
2006年03月31日(金) |
ニュースとか歴史とか |
世の中で起こっているといわれることや、過去に起こったといわれることについて、見たり聞いたり読んだりすることが、こんなに快感を覚えることだったとは、知らなかった。(怒り、不可解、理不尽といった思いを伴っても、ここでは快感と言わせて頂く)
自分自身のスケールの中で、自分のことを見なくてすむようになるからだろうか。 私の知らない現実(少なくともそう言っている人がいる、という現実)が増えるたびに、私は世界の中で小さく小さくなっていく。私は遥か遠くに、私のちっぽけな現実を見ることができる。それは私に、大きな安心をもたらすのだなあ。
天気は暑いくらいのぽかぽかから一転、黒雲に覆われて春の雨が不安定に降り、職場では、いつも以上に客の理解力が低い!と例によってオゴリタカぶって憤っていたら、自分自身もぼけぼけしててうっかりミスや連携プレーがうまくいかなくてガタガタし、東海道沖ではマグニチュード6.0の地震があり。大阪では桜が開花。
電車に乗っていたら、正面に兄、弟、妹の三人兄弟とそのお母さんが乗っていて、子供たちのかわいらしさに目が離せませんでした。 じっと見ていると、末っ子の彼女がこちらを見返してきました。 きっとまだ5歳にもなっていない彼女は、なんの臆面もなく私の目を見ておりました。何を彼女は思っているのか、さっぱり分からず、しかし私に嫌悪感を抱いていないことだけは確かだろうと思え、この未知との遭遇のようなメンチのきりあいは、いつまでだって続けていたいと思うほどに安らぎを感じていた私ですが、あまり子を見続けていると、彼らの母に不審に思われる、と、社会性を取り戻した私は、ついにこちらから目をそらしてしまったのでした。
今日は花粉で空気がくすんでいるかのような我職場。 地下三階なので余計に花粉もたまるのです。 お客様と共に、花粉もやってきます。 今期は、甜茶を常飲しているせいかどうなのか、鼻炎の症状は私はうんと軽めですが、同僚にもお客様にも、花粉症で大変そうな方々がいらっしゃいます。 風邪で高熱が出る、よりも目や鼻がやられる方が、心は消耗する、というか集中力を奪われる、ような気がします。 花粉症は本当に厄介。ああ、やっかい、やっかいだわ〜。
この頃なんとなく、ずっと、頭のどこかで、おもしろいってなんだろう、と考えたりしています。 そんなふうに過ごしていると、なんだかなんでもおもしろく思えてくるんですが、「はい、おもしろいでしょ。」と提示されるものに限っては、なんとつまらないのだろう、と思ったりもします。どうしてつまらないのか、はたと考え込む自分をかえりみて、その自分の姿がなんとおかしいことよ、と思ったりもします。 幸せですね。 自分が好きなんですかね。お馬鹿ですね。
つまらないと思ったら、昔は、はいさようならと切り捨てていました。が今、寸止めで、ずるずると自分の中にとどめて、それを楽しむことを覚えつつあります。 歳をとったということなんでしょうか。 とはいえ、様々なものに対して気持ちの良い距離をとることについては、修行中と言うしかありませぬ、が。
しかしこれは、私のわりには浮かれた文章です。 花粉の吸いすぎなのかしら。
雨があがって、いつもはドロドロに汚れた町の空気も、昨日はずいぶん澄みきっていました。こういう日は、思い過ごしかもしれませんが、いつもの景色もクリアに見えます。 卒業の、袴をはいた女子学生。むやみやたらとすれ違う人に話しかけるおじさん。 風は強くて冷たくて、髪の毛がばさばさにふかれながらも、根拠もなく心は躍ります。
音声ガイドの取扱い方を客に説明するバイトをしている。 それにしても、有閑マダム&元企業戦士たちの話の聞けなさっぷりはすごい。 人の話が聞けない、というのは私にとってみたら致命的な、人としての欠陥だと思うのだがどうだろう。 彼らにしてみれば、この歳になって、こんな小娘(実際のところは娘とも言いがたい年齢なのだが)に何かを教えてもらう、ということが我慢ならない、のかもしれない。 また彼女らにしてみれば、とにかく自分の目に入ったものから、周りの人も巻き込んで確認しながら処理していかないと自分が崩壊してしまう、のかもしれない。 子供じゃないんだから、いや、昨今、子供の方がよっぽど話をよく聞いて理解している。子供たちに説明するとき、私は同じ人間として扱われている、と感じる。 人の話を聞かない、という行為は相手の人格を無視することだ。 人生50年も60年も、それ以上も生きた人々に、日々学ばせて頂くこの頃である。
|