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2023年07月23日(日) 漫画コンプレックス

ふだんスマホをほとんど使わない私であるが、最近アプリで漫画を読む楽しみを知った……という話を少し前に書いた。『ドラゴン桜』を読み終わり、いま読んでいるのは『静かなるドン』だ。
表の顔は女性物の下着メーカーに勤めるさえないデザイナー、その正体は一万人の子分を持つ暴力団・新鮮組の三代目総長という主人公がカタギとヤクザ、ふたつの世界で繰り広げる物語なのだが(なんて説明の必要はないか。大ヒット作なんだってね)、魅力的なキャラクターがたくさんいて、すっかりハマってしまった。
毎朝六時に六話分無料で読めるようになる。だから職場に向かう途中、つづきが気になってしかたがない。ものすごくいいところで話が終わっているときなど、「家に帰るまで待ちきれない!」と思う。

……と書いたら、「だったら電車の中で読めばいいじゃない」という声が聞こえてきそうだ。
それがですねえ、厄介なことに私の中には「早く読みたい!」だけでなく、「でも人前では読みたくない」という頑なな気持ちもあって、通勤電車や昼の休憩室ではアプリを開けないのである。
何の漫画を読んでいるか知られたくないから、ではない。漫画を読んでいる姿を人に見られたくないのだ。



「漫画を読む」という行為に妙に引け目を感じるのは、子どもの頃に大人から「漫画なんか」と刷り込まれたせいだと思う。
小学校の先生は「漫画を読むとバカになる」とよく言っていたし、親も私が友だちから借りてきたものを読んでいるといい顔をしなかった。昭和の人気番組『クイズダービー』のレギュラー回答者で漫画家のはらたいらさんは、その驚異的な知識量で“宇宙人”の異名をとったが、
「漫画家の地位が低かったため、自分ががんばれば世間の評価が変わると思い、必死で勉強した」
と言っていた。
たしかに当時は「漫画=くだらないもの」というのが人々の認識だった。

そのため、それを心置きなく読めるのは児童館くらいのものだった。そうして大人の目を避けながら読んでいるうちに、「漫画を読むのは褒められたことではないのだ」という意識が植えつけられたのだろう。
だから大人になってからも、通勤電車で漫画雑誌を読んでいるサラリーマンがいると冷めた目で見たものだ。漫画を読むこと自体ではなく、いい歳をして家に着くまで読みたい気持ちを我慢できないこと、人からどう見えるかに無頓着なことにゲンナリした。
いまは「スマホで読むから目立たないし、みんなやっているんだから、かっこわるいとかはずかしいとかもう気にしなくていいんじゃないか」が頭をよぎることもある。「知り合いに会うかも」と思うと、実行には移せないのだけれど……。

あの頃、大人はどうしてあんなに漫画を悪く言ったのだろう。
絵で理解するため考えることをしなくなる、想像力がなくなるとよく言われたっけ。漫画を読むのに根気はいらないからそれに慣れてしまい、活字を読むのを苦にする子どもが出るのを危惧したというのもありそうだ。
でも私は大人になって、「活字は尊く、漫画は劣っている」なんてことはないと知った。「漫画なんか読まずに本を読め」としょっちゅう言われたが、小説でもくだらないものはくだらなく、漫画にも名作と呼ぶべきものはいくらでもある。
私の周囲には『キャプテン翼』や『タッチ』がきっかけでサッカーや野球を始めたという男の子がいっぱいいたし、私の同僚は『キャンディ♡キャンディ』の主人公に憧れて看護師になったそうだ。
息子の担任の先生が発行してくれる学級通信には、毎回のように漫画のワンシーンが引用されている。登場人物のセリフを通して、生徒にとって大切だと思うことを伝えてくれるのだ。


末次由紀 『ちはやふる』 7巻



森川ジョージ 『はじめの一歩』 42巻


作中の人物の状況や心情をイメージして自分に置き換えてみるというステップを踏むと、親や先生に理詰めで言われるよりもずっと、「ああ、本当にそうだよなあ」と思えるような気がする。
こういう面を評価しないで、とにかく子どもから漫画を遠ざけようとしたのが不思議でならない。



その「漫画なんか」と言われて育った子どもが親世代になり、漫画に対する世間の目はずいぶん変わったと思う。
日本の漫画が海外で高く評価されていることが知られるようになり、『鬼滅の刃』は老若男女に支持されて社会現象となった。もう「漫画=子どもとオタクが読むもの」ではない。

付き合い方次第で、害にもなれば為にもなる。これは漫画にかぎったことではないだろう。
うちの子どももやっぱりゲームやYouTubeが好きだが、約束事が守られていればそれらを悪者にする理由はない。彼らの毎日をポジティブなものにしてくれるアイテムであってほしいと思っている。

【あとがき】
電子書籍はいつでもどこでも読める(私は別として)のがメリットですが、私は紙の方が好き。電子書籍は特定のシーンを読み返したいと思っても探しづらいし、目が疲れるし、“読んだ”感も薄い気がするんですよね。私は無料の範囲内で読んでいるのですが、どうしても最終話まで読みたいとか繰り返し読みたいとかで購入するとなったら、ぜったい紙ですね。気に入ったものは手元に置いておきたいし。
それにしても、スマホがなかった頃に電車で漫画を読んでいた人たちは、ジャンプとかマガジンとかあんなかさばるものを持ち歩いていたんですねえ……(いまじゃ考えられないですね)。


2023年07月09日(日) ペットの幸せってなんだろう。

同僚のスマホの待ち受け画像は家で飼っているトイプードルだ。
ペットショップのショーケースに、でかでかと「SALE!」と書かれた紙が貼られている犬がいた。ほかの子よりひと回り体が大きい。元の値段の半分にまでなっているのを見て、彼女は「これでも買い手がつかなかったらどうなるんだろう」ととても気になり、セール最終日にもう一度店に行ってみた。「売約済」の札がついていることを願いながら……。
それから八年。その犬は「あんたの留守中、誰が面倒をみるの」と渋っていた彼女の母親に溺愛されているらしい。
林真理子さんのエッセイでも似たような話を読んだことがある。生後八か月になっても売れ残っているゴールデンレトリバーが不憫でならず、自分の家では飼えないのにお金を置いて帰った。知り合いに「犬は好きですか、家は広いですか」と訊いて回り、いまその犬は老舗旅館のアイドル犬となって、みんなにかわいがられているという内容だ。

私は野良犬や野良猫の保護活動をしている人のブログをよく見るのだけれど、「動物の運命はどんな人間と出会うかで決まる」とつくづく思う。
外で生きていくのは過酷であるが、人に飼われたからといって平穏に暮らせるとはかぎらない。生存権、人で言うところの「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されないことすらあるのだ。
先日は、多頭飼育崩壊の現場からレスキューされた猫たちの“その後”の報告にぐっときた。預かりボランティアの家で十分な量の食事、清潔なトイレと寝床を与えられて生活するうちにおもちゃに興味を示したり、人に甘えるしぐさが見られたりするようになったという。痩せてカマキリのように三角形だった顔がふっくらし、目に力が宿っている。
住人が退去したアパートの部屋に置き去りにされていた猫のことも気にかかっていたのだが、そちらはひと足先に里親希望者が現れ、「かわいい、かわいい」と言われて暮らしているそうだ。

こんなふうに、最初の飼い主にひどい仕打ちをされても心ある人に救われ、幸せな“犬生”や“猫生”を送れるようになる場合もある。でも、それは運のよかったごく一部の犬や猫だけだろう。
うちのくり坊もそのうちの一匹である。保護主さんによると、淡路の漁港にある日突然、きょうだいらしき猫と現れたのだという。
「魚を食べて生きられると思うのか、猫を捨てに来る人が多いんです」
こんなところにいたら釣り針を踏んだり海に投げ込まれたりするかもしれないと捕獲器でつかまえたが、子猫なのに攻撃性が強く、とても人馴れしそうになかった。そのため、去勢手術をしたら安全な場所で地域猫にと考えていたのであるが、リリース当日の朝、なにか感じるものがあって「ダメもとで家猫修行をしてみよう」と思い直した。そうしてうちにやってきたときには警戒心のかけらもない、スリスリゴロゴロの甘えん坊になっていた。
飼い猫の平均寿命は十五年、かたや野良猫は数年と言われる。もし保護されていなかったら、リリースされていたら、いまごろ生きていたかどうか。
ケージの外から孫の手でなでるところから始め、世話をするときは革手袋をはめたそうだ。そこまでして「なんとか家猫にしてあげたい」と思ってくれる人に出会えたから、くり坊のいまがある。



癒やしを目的にペットを飼う人がいても否定はしない。でも、「抱っこしたい」「散歩に連れて行きたい」という動機でウサギや犬を飼った自分の子どもの頃を思い出す。
いま思えば、当時の「かわいがる」は自分の欲求を満たすための自己本位なものだった。

うちにはくり坊のほかにもう一匹、野良猫出身の子がいる。皮膚病にかかって無残な姿になっているのをつかまえ、治療のためにうちの子になってもらったのだが、三年経っても怖がりで、眠っているときにそっとなでることしかできない。
「そんなの家の中で野良猫飼ってるのと変わらないじゃない。触らせてもくれなかったらつまらないね」
と言う人もいる。むかしだったら私も、膝に載ってきたり一緒に寝たりしてくれないことを残念に思ったかもしれない。
でもいまは、くり坊と追いかけっこをしたりおなかを出して眠ったりしている姿を見られるだけで十分だ。
二匹の猫に望むのは、「元気で仲良くね」と「ずっとここにいてね」だけ。猫らしく気ままに暮らしてくれればいい。

家の中で人と暮らす以上、コントロールせざるを得ないことはある。でも、可能なかぎり彼らから習性を取り上げることなく自然な姿でいられるようにしてやりたいと思っている。
動物が幸せというものを感じるとしたら、それが叶えられているときなんじゃないだろうか。

【あとがき】
小学生の頃、セキセイインコを飼うのが流行っていたのですが、当時は当たり前のように羽切りが行われていました。窓からの脱走や室内で放鳥している時の事故(壁に激突したり鍋の中に落下したり)を防ぐ目的で、風切羽を切って自由に飛べなくするんですね。手乗りインコにするために切っていた人もいました。
あるとき、友だちが肩に載せて遊びに連れてきたのですが、「飛ぶ生き物が人の手で飛べなくされている」ことが怖く、悲しかったのを覚えています。