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2022年01月31日(月) それは夕食のおかずになるか

「うそでしょー、もうこんな時間!」
帰り支度をしていた同僚が悲痛な声を上げた。
オペも検査もない日曜は早く帰れることが多いのだが、その日は日勤終了間際に緊急入院が二件あり、二十時を過ぎてしまった。彼女はこれからスーパーに駆け込み、夕食の準備をするという。
「だんなさん、今日は休みじゃないの?なんか作ってくれてるかもよ」
「それはない。在宅勤務になって毎日家にいるけど、米を洗ってくれたこともないよ。作り置きしてたって、自分でレンチンするくらいなら腹空かして待ってたほうがましっていう人だから」
へええ!私だったら耐えられないな……と思いつつ、
「コロッケでも買って、キャベツと味噌汁でいいんじゃない。明日も日勤なんだから」
と言ったところ、同僚は悲しげに首を振った。彼女の夫にとってコロッケはつまみかおやつという位置づけのため、献立のメインにはできないらしい。

「コロッケはおかずではない」「コロッケでごはんは食べられない」という人が世の中に一定数いることは知っている。
二十代の頃、デパ地下に出店している洋総菜の会社でサラリーマンをターゲットにした弁当の企画を担当したことがある。営業部にその品揃えを提案したところ、「コロッケ弁当はランチタイムのみの販売にしたい」と返ってきた。
「夕食を弁当で済ませるということだけでもわびしさがあるのに、その上に“ごちそう感”のないコロッケは選ばない」
と言われ、そうだろうかと首をひねったが、その後届いた夕食の献立についての市場調査の結果を見て、驚いた。「唐揚げやミンチカツはメインディッシュになるが、コロッケはならない」という回答が三割強存在したからだ。

私の身近にも「コロッケはおかずにならない派」が何人かいる。
その中には「ごはんとコロッケだと炭水化物×炭水化物だから」を理由に挙げる人がいるけれど、私にはよくわからない。おかずになるかどうかは一緒に食べたときにごはんがすすむか否かで決まるんじゃないのか。私は主材料の栄養素が何であるかでごはんとの相性をはかったことがない。
そういう人は中華料理屋でラーメンライス(ラーメンをおかずにごはんを食べる)を頼むこともないんだろうか。
また、ある人は「コロッケはイモだから」と言う。「君はフライドポテトでごはんを食べられるか?えっ」と詰め寄られ、「なるほど……」とうっかり頷きそうになったが、いやいや、コロッケとフライドポテトは違う。コロッケはソース味ではないか。
むかし、椎名誠さんのエッセイで読んだ「びちゃびちゃコロッケライス」。皿にソースをたっぷり注ぎ、コロッケの両面をひたす。別の皿に盛ったごはんにコロッケの大きさのくぼみをつくり、ソースで真っ黒になったそれを置く。ごはんをかぶせ、ソースがごはんに染みわたったところでワシワシ食べる------というのに憧れて、こっそりやってみたことがある。
ソースびたしのコロッケをごはんに埋め込んで食べる、なんて一人のときにしかできませんワ……。これは手作りのほくほくコロッケではなく、スーパーか肉屋の安いコロッケとウスターソースの組み合わせでなくっちゃ!という気がする。そのジャンクなおいしさに一時はまったっけ。
コロッケしかり、トンカツしかり、串カツしかり。ソース味の揚げ物とごはんは相性ばっちりだと思うんだけど。



「蓮見さんは晩ごはん何にするの」
同僚に訊かれ、「私は昨日休みだったから、おでんを大量に作ってきたよ」と言うと、彼女はまたしても首を振った。
「うちはおでんもだめなんだよねえ」

林真理子さんのエッセイにこんな話があった。
ある日の夕食をおでんにしたところ、夫は席に着くなりむっとした顔で、「おでんなんておかずじゃないよ、まったく。ちゃんとした家庭料理を食べさせてくれよな」。
もちろんそれはコンビニで買ってきたものではない。米のとぎ汁で大根を下茹でし、うんといい昆布でダシをとって作ったものである。北風の中、スーパーに買い物に行き、原稿を書きながら煮込んだのよ……。思わず涙がこぼれたそうだ。

味のしみた大根や玉子がおかずにならないなんてことがあるだろうか。現に、職場の食堂には「おでん定食」があるし、病院食でも出る。
しかしながら、「おでんは酒の肴。おでんでごはんは食べられない」という人も少なくないらしい。マイナビの「夕食に出ると『がっかり』するおかずランキング」で、おでんは堂々の第二位だ。「夕食には向いていない」という意見が多数、だって。
じゃあおでんの日はごはんがすすんで困る私はいったいなんなの。たしかにビールや日本酒にも合うだろうが、昆布やかつお節のダシがきいた和風の味つけとごはんが合わないはずないでしょー……ブツブツ。

コロッケもおでんも夜の食卓に当たり前に出てくる家庭に育った私には、どちらも立派なごはんのおかず。
子どもも「今日はコロッケ?やったね!」「おでんは大大大好きなメニューだ」と喜んでくれる。彼らは大人になっても、それらをメインとする献立に抵抗は感じないだろう。
結局、それが夕食のおかずになるか否かは習慣によるところが大きいんじゃないのかなあ。

【あとがき】
スーパーや肉屋で売っているコロッケは安くて“B級”というイメージがあるから、夜に食べるのはわびしいと思う人がいるのでしょう。手作りするとすごく手間がかかる、ごちそうだと思うんですけどね。


2022年01月23日(日) 「お酒を飲めない人は人生半分損」論

出勤したら、ナースステーションの机の上にミネラルウォーターのペットボトルが並んでいた。
どうしてこんなところにと思っていたら、
「中身は水じゃないよ」
と夜勤明けの同僚。え、「富士山の天然水」じゃないの?
「それ、全部お酒」
と言うからびっくり。
夜中にある患者の部屋を見回りに行ったら、お酒のにおいがする。本人に確認したところ、日本酒をペットボトルに詰め替えて持ち込んだと話したそうだ。
病室でタバコを吸い、没収される患者はときどきいるが、お酒は初めて。看護師に見つからない方法を一生懸命考えたんだろうなあと思ったら、笑ってしまった。



私の周囲にもお酒好きは多い。昼の休憩室で、オンライン飲み会の話題になった。
何人かのスタッフが定期的に参加していると言い、リモート飲みの良さを説く。店で飲むより安上がり、メンバーに遠慮せず好きなだけ飲める、移動の面倒さがない、遠方の人とも飲める、などメリットが次々と挙がる。
そうしたら、「家飲みだったら、つぶれても安心だしね」と付け加えた人がいた。彼女は外で何度か記憶をなくしたことがあるそうだ。
「目が覚めたら、隣に見知らぬ男の人が寝ていた」というエピソードはドラマでありがちだし、現実でも痴漢や暴力行為をした人が「酔っていて覚えていない」と供述しているというニュースがしばしば流れる。私なら朝起きて、夕べ自分がなにをしたかわからなかったら恐怖を感じると思うのだが、それを繰り返す人はそれほど不安でもないんだろうか。

ところで、私がオンライン飲み会をしたことがないと言うと、みな一様に意外だという顔をする。
そう、むかしからなぜか、一度も一緒に飲んだことのない人からも酒豪扱いされる私。
サークルや職場の飲み会に行くと、やたらビールを注ぎに来られたものだ。彼らがよからぬことを考えて私を酔わせようとした……なんてわけはもちろんなく、私がイケる口だと信じて疑わなかったらしい。
「ごめんやけど、私、お酒弱いんよ」と手でコップに蓋をしても、「ハイハイ」と払いのけられるのが常だった。
実際は、ビール一杯でゆでだこのようになるというのに。憎からず思っている男性から「蓮見さんってよく飲むんでしょ」と言われると、
「この人の中で、私は“可愛らしい”イメージではないのね……」
と複雑な気持ちになったっけ。

酒の飲めない人は本当に気の毒だと思う。私からするならば、人生を半分しか生きていないような感じがする。

(山口瞳 『酒呑みの自己弁護』 ちくま文庫)

と書いたのは作家の山口瞳さんであるが、同じように思う人はときどきいて、「え、飲めないの?もったいない。ぜったい人生損をしてるよね」と言われることがある。
そのくらい、彼らにとってお酒のない生活は考えられないのだろう。

私は量を飲めるようになりたいとは思わないけれど、「お酒の味がわかったらいいのにナ」と思うことはある。
なにを飲んでも、私の舌は「苦い」「渋い」「甘くない」としか判定しない。夏の暑い日に至福の表情でビールを飲んだり、「三が日はおせちを肴に昼間っから飲んじゃったよ」とうれしそうに話したりする人を見ると、それをおいしいと思えるって幸せなことだなあと思う。
ときどき仕事帰りにバーに立ち寄るという友人がいる。美人の彼女がカウンターでひとり静かにカクテルグラスを傾けていたら、絵になるだろう。
「私のイメージでカクテルをつくってくださる?」
「あちらのお客様からです」
なんてこともあるんだろうか。
どきどきしながら訊いたら、ドラマの見過ぎだと笑われてしまった。
でも、ゆっくりお酒を味わいながらひとりの時間を楽しむなんて、まさに「大人の娯楽」。ちょっぴり憧れる。



ところで、飲める人が口にする「お酒を飲めないなんて、人生の半分損をしている」について、やはり下戸だという同僚が「そうだよ、飲めない人間はぜったい損!」と激しく同意したものだから、驚いた。
えっ、私はそんなこと思ったことないわ。
「だって、飲む人だけで高いワインを何本も頼んどいてキッチリ割り勘だよ。それに、帰りは当たり前のように家まで送ってって言われるけど、ガソリン代や駐車場代を出してくれたことなんていっぺんもない」
なるほど、そういう“損”ね……。
だったら、次からはリモート飲みにしたらどうかしらん(オンライン飲み会にはこういう問題が発生しないというメリットもあったのね)。

【あとがき】
飲まない人の“割り勘負け”問題については、私は「こっちはソフトドリンクなんだから、その分安くしてよ」とは思わないなあ。よく飲むけどあまり食べない人、飲まないけどよく食べる人、よく飲むしよく食べる人、いろいろいるでしょう。飲み食いした量(金額)に応じてというのは無理だし、そこはもう「参加費」ということで。まあ、よっぽど高いお酒をガンガン頼んでいて「一律○○円」となったら、気が利かないなと思うでしょうけど。
「人の車をタクシー代わりにしているのに、誰ひとり駐車場代を出そうかと言わない」というモヤモヤはわかります。お礼の気持ちって大事。


2022年01月07日(金) ペットの不幸と喪中はがき

同僚の話である。
毎年かならず元日に年賀状をくれる知人から今年は届かず、体調でも悪いんだろうかと気にしていたら、しばらくしてはがきが届いた。
十二月に長く飼っていた犬を亡くし、新年のあいさつを控えていたことを知らせる内容だった。会ったこともない犬だったが、はがきの写真を見たら知人の犬への愛情が偲ばれ、うるっときたそうだ。

ところで、同僚は「虹の橋へ旅立つ」という表現を今回初めて知ったという。
「○月○日、愛犬△△が虹の橋へ旅立ちました」
という文面を見て、虹の橋ってなんだろうとネットで調べたという。
ペットの死を意味する婉曲的な表現であるが、実は私も二年前に猫を亡くすまで知らなかった。斎場で火葬が終わるのを待っているあいだに手に取った冊子に、「虹の橋」という題名の詩が載っていた。
「生涯を終え、愛する人と別れた動物たちは天国のすぐそばにある“虹の橋”と呼ばれる場所にやってくる、と遠い昔から伝えられています」
で始まる短い物語がその由来である。

……と話したところ、「犬や猫のお葬式があるの!?」と同僚。
彼女は生まれてこのかたペットを飼ったことがないというから、驚くのも無理はない。しかし、ヤフーで「ペット 葬儀」で検索すると二千万件ヒットするし、実際、私の周囲で犬や猫を亡くした人のほとんどが火葬だけでなくお葬式もしている。
私が何度か経験した「立ち会い葬」は、喪服こそ着ないが人のお葬式とほとんど同じだ。祭壇に花を飾り、棺には好きだったおやつやおもちゃを入れる。読経してもらい、お焼香をし、出棺に立ち会い、お骨を拾う。人の場合、
「喉仏がきれいに残ってますね。お釈迦様が座禅を組んでいるように見えるでしょう」
と職員が説明してくれるが、犬や猫のお骨上げでも、
「この一番長いのが大腿骨です」
などと教えてくれる。骨壺に納めた遺骨は家へ持ち帰り、気持ちの整理がついたら庭に埋葬したりお墓やペット霊園に納骨したりするのだ。

子どもの頃、近所のあちこちで番犬が飼われていたが、そんなふうに見送ったという話は聞いたことがない。猫はみな放し飼いであったが、出かけたまま帰らなければ、
「車に轢かれたか猫同士のケンカで死んでしまったんだろう」
「猫は死期を悟ると姿を消すっていうから」
で納得していた。飼い主はもちろん悲しむけれど、当時はペットに対して「供養する」という発想はなかったと思う。
時代が変わり、いま庭先につながれている犬を見かけることはめったにない。猫もそう。「外で見かける=野良猫」であり、サザエさんちのタマのような猫はもういない。
そうして犬や猫を室内で飼うようになると、人とペットの関係性はおのずと変化する。
数年前、猫が初めてわが家にやってきたとき、犬を外飼いしていたときとはスキンシップの量がまったく違うことに衝撃を受けた。視界に入るたびに名を呼び、膝に乗せてテレビを見、一緒に眠る。なでたり抱きしめたりする機会が多いほど親しみを感じ、愛おしさが増すという傾向はまちがいなくあると思う。
人が防犯やネズミ駆除の目的で犬や猫を飼っていた頃、飼い主は彼らの“主人”だったかもしれない。でもいま、多くの人にとってペットは家族の一員だ。

職場で、回復の見込みがないと告げられた患者の家族がどこまで治療をつづけるか悩んだり、患者の死後に「これでよかったのか」「もっとしてあげられることがあったんじゃないか」と涙する姿を見ることがあるけれど、その状況になったらペットの飼い主の苦悩もまったく同じ。
だから、私はペットを亡くして年賀欠礼しようとする人がいても「変わった人」認定はしない。「おめでとう」が言えないほど悲しみが深いのだなと思う。
……とはいえ、喪中はがきを送ろうとしていたら、犬友・猫友だけにしておいたほうがいいと伝えるけれど。

三十年来の親友A子から、続柄の記載のない喪中葉書を受け取りました。両親どちらかの逝去かと思い、A子に電話をすると、死んだのは飼っていた猫でした。
どれほど溺愛していたとしても、年賀状を辞退する対象にするのは非常識ではありませんか?もうちょっと社会性を身につけたほうがいいよ、とだけアドバイスして電話を切りましたが、それっきり謝罪の連絡もありません。
私から歩み寄ってあげてもいいのか悩むところです。

(発言小町 「非常識な喪中葉書を送ってきた親友」 を要約)


「人の不幸と動物の不幸を同列に扱うなんて」と思う人もたくさんいるのだろう。
しかし、世の中のペットに対する意識が昭和の頃のそれに逆戻りすることはたぶんない。多くの家庭ではこれからもきっと家族やパートナーとしてペットを迎える。
そうしたら、いまは“ありえない”こと------たとえばペットの介護で休暇を取ったり、ペットの不幸で喪に服したり、ペットを同じお墓に入れたり------が常識になる時代がきても不思議ではない。ペットのお葬式だって、四十年前は誰も考えなかったもの。

【あとがき】
道を歩いていて突然ワン!と吠えられ、飛び上がって驚く……ということがまったくなくなりました。
犬が庭先につながれていて、門柱には「猛犬注意」のシール。昭和の風景ですね。
いつか訪れるペットとの別れをテーマにした「虹の橋」。作者不詳のまま全世界に広がったこの詩には、「愛するペットとの別れは永遠ではない」と詠われています。(「虹の橋の物語」by いのりオーケストラ)