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2021年12月31日(金) 好きこそものの……

ある作家のエッセイを読んでいたら、自身のブログについての話があった。
ひと月のアクセス数が三百万を記録したとある。パソコンが苦手で、これまでも人に勧められて何度かwebサイトをつくったもののつづかなかったはず。でも、今回のブログは順調に更新しているんだなあ。
と思い、見に行って驚いた。誰と対談で会った、どこそこでこんな服を買ったという話が写真とともにアップされているのであるが、「へえ、そうなんだー……」以上の感想が生まれない。はっきり言って、ものすごくつまらなかったのだ。
その作家の文庫本になったエッセイはすべて読んでいるし、講演会に行って手紙を渡したこともある。そんな三十年来の読者である私がブックマークすることなくページを閉じた。

「これだったら、私がいつも読んでる日記のほうが断然おもしろいな」
とつぶやいてふと思い出したのは、むかし読んだ林真理子さんの「文章読本」の中のこんなくだりだ。
有名人でもなんでもないあなたが誰と食事をし、どういう話をしたかなんて知らされても誰も喜ばない。あなたがどんなふうにご主人と出会い、どんな子育てをしているかなんて聞かされても誰もうれしくない。しかし、そこのところを勘違いしている人がとても多い。
「誰もあなたのことなんか知りたくないのだ」
素人の人はこのことをまず心に刻みなさい。それでも手記やエッセイを書きたいと思うのなら、相手の耳をこちらに向けられるようおもしろいものを書くための努力を必死でしなさい。さもなければ、誰にも読んでもらえないものをひたすら書き続ける「投稿おじさん」「投稿おばさん」になってしまう------という内容だ。

これを初めて読んだのは二十年近く前であるが、そのときすでにweb上で文章を公開していた私は「厳しい言葉だけど、そのとおりだな」と思った。
なにを食べた、誰と遊んだ、といった他愛のない話を楽しみにしてくれる人がいるとしたら、恋人と故郷の両親くらいのものだろう。精進しなくっちゃと思ったものだ。

しかしながらいま、私は林さんの言う“素人の人”がブログなどに書いている文章を読むのがとても好きで、その身辺の話に十分楽しませてもらっている。
自分が書きたいから書き、それを「ひとりでも多くの人に読んでほしい」と願う人はおのずと“努力”することになる。結果として、作家が著書の宣伝とファンサービスのためにブログにあげる文章よりずっと読み甲斐のあるものになっている。
「好きこそものの上手なれ」というように、この「書きたい」という衝動にはプロといえどもかなわないことがあるのだなあ。
そして私はきっと来年も、名も知らぬ人たちの結婚生活や子育てや仕事の話に舌鼓を打つのだろう。



自分自身を振り返ると、「誰のためにも書かない。」(2021年9月5日付)に書いたように、私は「自分が納得のいく文章を書きたい」という思いひとつでここまできた。
どれだけの人に読まれたかではなく、更新したあとにも何度でも読み返したくなる文章であるかどうかが、クオリティの指標。私は投稿おばさんになることより、自分が自分の熱心な読者になれないことのほうが百倍怖い。

読み手あっての日記書き。書き手あっての日記読み。今年も私の趣味を支えてくれた人たちに感謝の気持ちでいっぱいだ。
「そこにいてくれてありがとう」

みなさま、どうぞよいお年を。

【あとがき】
今年は41本のテキストを更新することができました。多忙な毎日の中で、これだけ書けたら上出来。
2022年もよろしくお願いします。


2021年12月24日(金) 青春の後味

私はいま、電車とバスを乗り継いで職場に通っている。そのため、「どうして通勤に小一時間もかかるところに就職したの」と同僚によく不思議がられる。
たしかに、スタッフの多くは車かバイクで通勤しており、自宅から三十分圏内という人がほとんどだ。病院はいくらでもあるから、わざわざ遠くを選ぶ理由が思い浮かばないのだろう。
私は教育体制がしっかりしているところに就職したかったので現在の病院に決めたのであるが、十代の終わりまでその町に住んでいてノスタルジーがあったことも少しは関与している。
毎日、自分が通っていた小学校、中学校、高校の前を通るのだが、変わらない建物や通学途中の子どもたちを見ると、懐かしさとちょっぴりせつない気持ちに包まれる。

ところで、長く暮らしていた町で働いていると、当時の知り合いと思いがけず“再会”することがある。
近所に住んでいた人だったり習い事の先生だったり学校の同級生だったりが、患者あるいは患者の家族として突然私の前に現れるので、びっくりしてしまう。
といっても、何十年かぶりであるから顔を見ただけではわからない。名前に覚えがあり、カルテの年齢や住所を見てはじめて、やっぱりそうかとなる。
年に一度か二度そういうことがあるのだけれど、「むかしお世話になった○○です」「同じクラスだったんだけど、覚えてる?」と私から名乗ることはない。
誰だって自分を知る人に健康や生活の状況を知られたくはないし、処置やケアで身体を見られるのも嫌だろう。こちらとしても相手が私と気づいていないほうが気を遣わずに済むし、仕事の中にプライベートな要素は混入させたくないという思いもある。

今月の初め、足の骨折で緊急入院してきたのは中学時代の同級生のAくんだった。
「本日担当させていただく看護師の蓮見です」
あいさつしながら、さりげなく顔を確かめる。
三十数年ぶりの対面だから、道ですれ違っても気づけないくらい変わってはいた。でも、よく見たら面影が残っている。そう、こんな感じだった……。
Aくんとは一年生のときに同じクラスで、一緒に委員長、副委員長をしたことがある。部活も同じバレーボール部。
しかしながら、ちゃんと話をしたことは数えるほどしかない。さすがに私のことは記憶にあるだろうが、こちらは常にマスクをしているし、苗字も変わっている。Aくんに「もしかして……」と思われることはないと思うと、気は楽だった。

それでも、今回はこれまでにないやりづらさがあった。
手術までの数日間は足の痛みが強かったのと安静指示があったのとでAくんは自力で動くことができず、保清と排泄の援助をしなくてはならなかったからだ。
四、五十代の若い男性患者への身体に触れるケア、たとえば着替えや清拭、入浴、陰部洗浄やオムツ交換、便秘時の処置は知り合いでなくても気を遣うものだ。こちらは仕事だから抵抗ないが、される側ははずかしいだろう。
そのため、できるだけ男性看護師に頼むのだけれど、無理な場合も少なくない。
だから手術後、順調にリハビリが進み、Aくんが自分で身の回りのことをできるようになっていくのをほっとしながら見ていた。



看護師が受け持つ部屋(患者)は毎日変わるのであるが、Aくんが退院する日の担当は私だった。
松葉杖で歩く彼の荷物を持ち、病院の玄関口まで一緒に行く。装具を着けた足は靴を履けず、迎えを待つあいだ、指先がとても寒そうだ。
「足、寒くないですか」
「大丈夫です。家、すぐそこなんで」
そうなんですね、と答えたあと、心の中でつぶやく。
知ってるよ、ついでにあなたの実家も。だって、三十五年前のバレンタインデーにチョコを渡しに行ったもん。
友達には「えー、あんなまじめがいいのお?」と言われていたけど、まともに目も合わせられないくらい好きだったんだから。三年間ひとすじだったんだから。
あ!そういえば、返事もお返しもくれなかったよね。いまさらだけど、ちょっとヒドイんじゃない。チャイムを押すとき、どれだけ勇気がいったと思ってんの……。
イケナイ、余計なこと思い出しちゃった。

目の前に一台の車が止まった。降りてきた若い男性を見て、思わず言ってしまった。
「そっくり……ですね」
「え、そうですか?あんまり言われたことはないんですけど」
ううん、本当によく似てる。あの頃のあなたと。

病棟に戻り、Aくんがいた個室をのぞいたら、ベッドの上に脱いだ病衣がきちんと畳んで置かれていた。
こういう人だったな、と笑みがこぼれる。
私、知らなかったよ。初恋って、青春って、何十年たってもあまずっぱいままなんだね。

【あとがき】
Aくんの部屋を掃除しようと入ってきた看護助手さんが驚いていた。退院するときにこんなふうに布団や病衣を畳んでいく男の人はめったにいませんよ、と。
「ジェントルって感じの人でしたね。朝食のお茶を配りに行ったとき、『今日退院なんです。お世話になりました』って言ってくれたんですよ!」
すてきな男性になっていたことがわかって、うれしかった。ありがとう。


2021年12月19日(日) 大門未知子にはなれないから。

女性患者の四人部屋を訪ねると、カーテン越しに世間話をしていることがよくある。
そんなときは処置をしながら会話に混ぜてもらうことがあるのだけれど、今日はいつもと様子がちがった。部屋の入口で「失礼します」と声をかけた途端、話し声がぴたりとやんだのだ。
看護師の愚痴でも話してたのかな、と思いながらAさんに点滴ボトルの交換に来たことを伝えると、バツが悪そうに、
「いまね、空気殺人の話をしてたの。ほら、施設で介護士が患者に注射器で空気を入れて……って事件あったでしょ」
と言った。

その話題だったらべつに看護師に聞かれても支障はない気がするけどなと思っていたら、Aさんがつづけた。
「その患者さん、抵抗した様子がなかったんだって。なにも気がつかないうちに……だったんでしょうね。それで、もし近くにそういう人がいたら怖いねって話をしてたの。ううん、ちがうの、ここの看護師さんはいい人ばかりだから、もちろんそんな心配はしてないのよ」
あはは、まるで言い訳をしているみたい。私に途中まで聞かれてしまったと思い、気を遣ったのかもしれない。

とそのとき、「けどな、ニュース見とったら気色の悪いんおるで」と合いの手が入った。
隣のベッドのBさんは思ったことをズケズケ言うので苦手だという同僚もいるが、私は嫌いじゃない。
「どっかの病院でも消毒薬入りの点滴された患者が死んどったやん。うちら、なにされててもわからんもんな。そやからいまも、『せいぜい恨まれんようにせなあかんな』って話しとってん」
あちゃー。BさんはAさんの配慮をぶち壊した。

たしかに、“気色の悪いん”がいるのはどこか遠い町の病院だとは限らない。
ずいぶん前であるが、私の職場でも患者のテレビカードの紛失がつづくという不可解なことが起きたことがある。買い直してもしばらくすると、またなくなったと訴えがある。それがいつも同じ人たちなのだ。
「収集癖のある認知症の患者さんがあちこちのテレビカードを集めて回ってるとか?」
「スタッフの誰かがテレビカードの残高を精算してフトコロに入れてるんじゃないの」
みなであれこれ推理したが、どの説も「特定の患者のテレビカードがなくなる」という点を説明してくれなかった。

が、真相はある日突然、判明した。
当時、ベッドのシーツを交換してくれる人が週に数回来てくれていたのだが、彼女が病室のテレビからカードを抜き取るのを同僚が目撃したのだ。報告を受けた師長が確認したところ、その人の所業だったことがわかったのだが、驚くべきはその動機。
「テレビを見ているからとシーツ交換に協力してくれない患者がいて、いつも困っていた。カードがなくなってテレビが見られなくなれば、仕事が進むと思った」

ベッドを空けてくれないからといってこういう方法で解決を図るのか。いい年をした大人がそんな短絡的な発想をすることがとても不気味だった。
患者もそんなこととは夢にも思わなかっただろう。まったく、なにが理由で“恨み”を買うかわからないものだ。



患者は「悪意」を恐れる。
しかし、私たち看護師も恐れているのだ。自分もいつ患者を傷つける側になるかわからない、と。
それは、きっかけがあれば自分も空気の入った注射器を握りしめて患者の枕元に立ってしまうかもしれない……という不安ではない。患者の安全を脅かすのは悪意を持った人間だけではないと知っているからだ。

三十年も前に新聞で読んだ牛乳点滴事故を覚えているのは、「看護師免許を持った人がそんなミスをするのか!」とあまりにも驚いたからである。
しかし、入職して数か月の一年生が初めて胃ろうから栄養剤を注入する場面に立ち会ったら、彼女はコーヒー味の飲料を満たしたチューブの先端をどこに接続すべきか迷っていた。患者の体には何本ものカテーテルやドレーンが留置されていたとはいえ、完全に知識不足である。
もしこのとき、指導する看護師がついておらず、かつ彼女に自己判断してしまう傾向があったら……。
教育体制が整っていなかったり、わからないことを「わからない」と言えない雰囲気の病棟は世の中にいくらでもあるだろう。だから、どこで“牛乳点滴事故”が起こっても不思議ではないといまは思う。

病棟での看護業務は医療事故と隣り合わせだ。
患者が点滴のクレンメ(滴下数を調節する部分)を触り、医師指示の何倍もの速度で薬剤が投与されたり、「飲んでおいてね」と薬を渡したらシートごと飲み込んだり、食事の途中で義歯を外して誤嚥窒息したり、ひとりでトイレに行こうとしてベッド柵を乗り越えて転落したり。
患者についての分析が不十分で危険を予測できていなかったら、こういうことが起きてしまう。
患者は障害が残ったり寝たきりになったり、最悪の場合死亡するかもしれず、その日の受け持ち看護師のショックは大変なものだ。

まあ、そのような重大事故はそうあることではないが、インシデント(ヒヤリハット)レポートを書いたことのない看護師はいないと思う。
「私、失敗しないので」
と言える人はドラマの中にしかいないのだ。
人間はミスをする生き物である。だから、これからも私は自分の無知や怠慢や“うっかり”を恐れながら、病室に向かおう。

【あとがき】
看護学校時代、先生が「なにかあっても、ドクターや病院は守ってくれないからね。自分の身は自分で守るしかない」と言っていたのを思い出します。
「自分の身を守る」とは、事故の当事者にならない(事故を起こさない、あらぬ疑いをかけられない)こと。
だから私はなにをするときもマニュアルを守る、知識やスキルを高める、同僚との関係を良好に保つ、カルテを正確に書く、パソコンのログアウトを忘れない、を意識しています。


2021年12月10日(金) お里が知れる

年下の友人が派手な夫婦ゲンカをしたという。発端は、保育園に通っている子どもの食事中の行儀がよくないと先生に指摘されたこと。
「大人がしていることを見て自然にマナーを身につけていくことも多いので、お父さんお母さんがお手本になって、声かけしてあげてくださいね」
そう言われ、夫に抱いてきた鬱憤が爆発したという。

結婚したときから気になっていた。夫の偏食がひどいこと、左手を使わずに食べること、茶碗にごはん粒がたくさん残っていること、食事中に平気でトイレに立つこと。
義父や義兄も同じ食べ方、食べ姿であることに気づいてからは危機感に変わった。
「子どもが父親を見て、これでいいんだと思ったら困る」
しかし、その思いは夫には理解されなかった。それどころか、どうしてそう“細かいこと”を言われなければならないのか、という不満がありありと見える。
食べながらスマホを触るのはやめてほしいと言ったときも、「食事中に新聞を読むのはよくて、スマホはどうしてだめなんだ?」と返ってきたという。
新聞だってよくはない。でも朝は忙しいし、夜も帰りが遅くて読む時間がないだろうと思って、黙っていただけ。
「だったら、スマホでニュースを読むのだってかまわないだろ。ゲームをしてて文句言われるのなら、まだわかるけど」

父親が目の前でそうやって食べているのに、「好き嫌いしないで食べようね」「左手はお茶碗に添えるんだよ」「ごはんのときはウロウロしないよ」「ごはんの時間だから、おもちゃを片付けておいで」と言われたら、子どもはあれ?と思うだろう。
「自分の姿が子どもの目にどう映るかなんて、一切考えてないのよ」
友人はため息をついた。



彼女の話を聞いて、私は少し前に読んだ「発言小町」のトピックを思い出した。
トピ主はゼロ歳、三歳の子どもを育てる女性。

朝子どもにパンを食べさせるとき、ティッシュに載せて出すことが多いんですが、今朝夫に「子どもが変なことを覚えるといけないから、皿に載せて」と注意されました。
たしかによくはないと思いますが、皿ティッシュはそんなにダメでしょうか。



自分でも「よいことではない」と思いながらしていたことを誰かに指摘されたら、「やっぱりダメだよね、テヘ」となりそうなものだが、この女性は「そんなにダメでしょうか」と食い下がる。
そんなに納得がいかないんだろうか、と驚いてしまう。「夫はこのように育児に関して注意だけして、私の負担を増やす傾向にある」とつづけているが、皿を数枚余分に洗うのがそんなに手間なのか。
いや、夫婦ふたりなら、パンを新聞紙に載せようがテーブルに直接置こうが好きにしたらいい。本来は皿に載せて食べる、と知っているから。
でも、三歳児はそうじゃない。パンがいつもティッシュに載っていたら、そういうものと思い込んでしまう。しかし、それは世間の常識ではない。
親の教え、家庭のやり方が子どものスタンダードになることを考えたら、夫の「皿に載せてほしい」という感覚は真っ当だ。

大人は仕事や育児に追われ、食事が空腹を満たすためだけのものになることがあるが、幼児にとってのそれは食べ方を教わり、食べる楽しさを知る時間でもある。
畳の縁を踏んではいけないことを知らなくても、恥をかく機会はそうないかもしれない。しかし人前で食事をすることはいくらでもあり、そのマナーを知らないと人を不快にするし、「お里が知れる」とまで言われてしまうのだ。
パンをかわいい皿に載せてあげたらよろこぶだろうに、洗い物を増やさないためにティッシュで代用とは……。子どもが学ぶべきことを学べない食卓は豊かとは言えまい。
そして、食事の場面をおろそかにする人はほかのことでも時短や効率を優先して、子どもへの影響についてはまったく考えないか二の次三の次にしてしまうんじゃないだろうか。
私はできた母親ではないけれど、「真似をしないほうがいい」と思うこと------食事と言葉遣いに関してはとくに------は子どもの前ではしないよう気をつけている。

逆に言うと、社会生活を送る上で必要な常識や習慣を子どもがひと通り身につけ、「よそではやっちゃダメだからね」「わかってるってば」という会話をできるようになったら、多少のずぼらは許されるのではないかしらん。

子供の頃から、祖母に「買ってきたお惣菜等をパックのまま食卓に出してはいけない」と言いつけられていたが、高校生くらいで「そろそろ食べ物をパックのまま食卓に出してはいけないとわかっただろうから、今日からパックのまま食卓に出しても良い事にする」と解禁された。禅問答めいている

(鴫鳥の宗教へようこそ(@kamozi) March 2, 2021 より)


「親は子どもの前で横着をしてはいけない」のではない。そのとき、「横着をしていること」を子どもがわかっていることが大事なのだと思う。

【あとがき】
親だって未熟な人間だもの、いつもいつも“お手本”ではいられません。疲れたら、横着もしたくなります。
でも、手を抜いて楽をしていい場面とそうでない場面がある。皿ティッシュは……私はなしだな。料理に合った器を使うことも、箸の持ち方を練習させるのと同様、「食べ方」を教えることだと思います。


2021年12月02日(木) 困った贈り物

電車の中で、年配の女性二人の会話が盛り上がっていた。
息子夫婦がマンションを購入したため押し花を額に入れたものを贈ったのだが、飾ってくれているのを見たことがない、と憤慨している。
「押し花って、新聞に挟んでおけばできあがるんじゃないの。ガーベラなんか本当に大変で、ああいう花びらが重なり合ってるのは水分が抜けにくいから、分解して乾燥させてからまた組み立てるの。バラみたいなふくらみのある花は押したときにシワができないように花びら一枚一枚に切り込みを入れたりね」
すると、もう一方の女性が深く頷く。
「こっちがどんな手間暇かけてそれをつくったかなんて、もらうほうは考えないのよ。私も陶芸習ってた頃、見栄えがいいのができたら嫁に持たせてたんだけど、家行ってびっくりよ。あげた茶碗で猫が水飲んでたんだから!」

もう少しで吹き出すところだった。まあ、自信作が猫の水入れになっていたら、ショックだよね。
でも私はどちらかと言えば、贈った側の「せっかくあげたのに」という無念より、趣味に合わないものを受け取ってしまった側の困惑のほうに親身になる。
新居だからこそお気に入りの絵を飾りたいし、素人がつくった分厚く重い皿や碗を普段使いするのはむずかしいだろう。



北海道土産に「まりも」をもらった友人は、育て方のしおりに「上手に育てれば人間より長く生きます」とあるのを読み、即刻返却したくなったという。
「ってことは私、一生これの世話しなきゃならないの?」
この話を職場でしたところ、「生き物系はほんと困るんだよね」と同僚。
ある年の暮れ、彼女の自宅に大きなトロ箱が届いた。木屑の中でごそごそと動くものを見てびっくり。伊勢海老が二匹入っていたのだ。
「活き伊勢海老のさばき方」という冊子が添えられていたが、生きているものに包丁を入れるなんてぜったいに無理。困り果てた彼女はあちこちに電話をかけ、なんとかもらい手を見つけたそうだ。
「生きてるものを料理するなんてハードル高すぎでしょ!そもそも伊勢海老なんて食べ方わからないし、一人暮らしなのに二匹もどうしたらいいの。受け取る側のこと、ぜんぜん考えてないよね」
同僚は電車の中の女性と真逆のことを言った。

彼女たちほど困った経験はないけれど、私にも人からもらうのは気が進まないものはある。たとえば、縁起にまつわる品。
かつて、うちのリビングにはだるまがズラリと並んでいた。遊びに来た友人がそれを見て「めずらしい趣味だね……」とつぶやいたので、そうじゃなくて義父が毎年正月に必ずくれるのだ、どうしてかしらねと言ったら、彼女はあきれ顔で言った。
「そんなの決まってるじゃない。早く子どもを生んで目を書き入れろってことでしょ」
それはともかく、縁起物だけに、たとえ趣味でなくとも押入れ行きというわけにいかない。
ある神社にお礼参りに行く際にここぞとばかりに持参したら、「だるまはお預かりできません」。お寺でないとだめらしい。しかし、神社よりさらに行く機会がない……。

扱いに悩むといえば、御守りもしかり。
以前、神社仏閣巡りが趣味で有名どころに出かけるたびに買ってきてくれる人がいたのだが、三つ、四つと受け取るうちに気が重くなってきた。
私が自分で御守りを買うことはない。その有効期限は一年と聞く。その後はお寺か神社でお焚き上げしてもらわなくてはならないことを考えると、面倒だからだ。
その人はキーホルダーを買うような感覚で、お土産にと考えてくれたのだろう。しかし、「返しに行かなきゃ」と思いながら古くなったそれを持ちつづけているのは宿題を抱えているようで、すべてを返納したときは肩の荷が下りた気がした。
だから、私は誰かにものを贈ろうとするときは、「処分するときに気がとがめないか、お金や手間がかからないか」という点をまずチェックするのだ。



友人のまりもはお盆の帰省から戻ってきたら、変色して水に浮いていたらしい。
「生き物を死なせてしまったっていう、なんとも言えない気分だったわ」
伊勢海老の同僚は「生きているうちに届けなければ」と夜に車を走らせたという。
「どうしてもらったほうがこんな苦労しなくちゃならないの」

こんな顛末、贈った人は思いも寄らないだろう。相手が受け取った後のことをイメージしないで“自分が贈りたいもの”を選んでしまうと、こういうことが起きる。
今朝の読売新聞の悩み相談欄のタイトルは「祖母から迷惑な贈り物」。親友の形見だという色紙十五枚を「価値のあるものだから、ずっと大切に飾って」と託されてしまったという。
「臭うし、正直ちょっと気持ちが悪い。祖母が死ぬまで持っていなくてはいけませんか」
祖母が虫眼鏡を使って毎日この欄を読んでいるのを知っていて、あえて投稿するところに困惑を超えたものを感じる……。

【あとがき】
どの家にもひと通りのものは揃っていて、「もらえるならなんでもうれしい、ありがたい」という時代ではとうにない。しかも近年、世の中は断捨離ブーム、終活ブーム。収納スペースの都合もあって、できるだけものを増やたくないと考えている人は少なくないでしょう。
好みやこだわりがはっきりしていて、趣味に合わないものはむしろ迷惑、と感じる人もいる。人に喜ばれるものを贈るっていうのが、いつのまにかこんなにむずかしくなっていたんだなあ。