電車の中で、年配の女性二人の会話が盛り上がっていた。
息子夫婦がマンションを購入したため押し花を額に入れたものを贈ったのだが、飾ってくれているのを見たことがない、と憤慨している。
「押し花って、新聞に挟んでおけばできあがるんじゃないの。ガーベラなんか本当に大変で、ああいう花びらが重なり合ってるのは水分が抜けにくいから、分解して乾燥させてからまた組み立てるの。バラみたいなふくらみのある花は押したときにシワができないように花びら一枚一枚に切り込みを入れたりね」
すると、もう一方の女性が深く頷く。
「こっちがどんな手間暇かけてそれをつくったかなんて、もらうほうは考えないのよ。私も陶芸習ってた頃、見栄えがいいのができたら嫁に持たせてたんだけど、家行ってびっくりよ。あげた茶碗で猫が水飲んでたんだから!」
もう少しで吹き出すところだった。まあ、自信作が猫の水入れになっていたら、ショックだよね。
でも私はどちらかと言えば、贈った側の「せっかくあげたのに」という無念より、趣味に合わないものを受け取ってしまった側の困惑のほうに親身になる。
新居だからこそお気に入りの絵を飾りたいし、素人がつくった分厚く重い皿や碗を普段使いするのはむずかしいだろう。
北海道土産に「まりも」をもらった友人は、育て方のしおりに「上手に育てれば人間より長く生きます」とあるのを読み、即刻返却したくなったという。
「ってことは私、一生これの世話しなきゃならないの?」
この話を職場でしたところ、「生き物系はほんと困るんだよね」と同僚。
ある年の暮れ、彼女の自宅に大きなトロ箱が届いた。木屑の中でごそごそと動くものを見てびっくり。伊勢海老が二匹入っていたのだ。
「活き伊勢海老のさばき方」という冊子が添えられていたが、生きているものに包丁を入れるなんてぜったいに無理。困り果てた彼女はあちこちに電話をかけ、なんとかもらい手を見つけたそうだ。
「生きてるものを料理するなんてハードル高すぎでしょ!そもそも伊勢海老なんて食べ方わからないし、一人暮らしなのに二匹もどうしたらいいの。受け取る側のこと、ぜんぜん考えてないよね」
同僚は電車の中の女性と真逆のことを言った。
彼女たちほど困った経験はないけれど、私にも人からもらうのは気が進まないものはある。たとえば、縁起にまつわる品。
かつて、うちのリビングにはだるまがズラリと並んでいた。遊びに来た友人がそれを見て「めずらしい趣味だね……」とつぶやいたので、そうじゃなくて義父が毎年正月に必ずくれるのだ、どうしてかしらねと言ったら、彼女はあきれ顔で言った。
「そんなの決まってるじゃない。早く子どもを生んで目を書き入れろってことでしょ」
それはともかく、縁起物だけに、たとえ趣味でなくとも押入れ行きというわけにいかない。
ある神社にお礼参りに行く際にここぞとばかりに持参したら、「だるまはお預かりできません」。お寺でないとだめらしい。しかし、神社よりさらに行く機会がない……。
扱いに悩むといえば、御守りもしかり。
以前、神社仏閣巡りが趣味で有名どころに出かけるたびに買ってきてくれる人がいたのだが、三つ、四つと受け取るうちに気が重くなってきた。
私が自分で御守りを買うことはない。その有効期限は一年と聞く。その後はお寺か神社でお焚き上げしてもらわなくてはならないことを考えると、面倒だからだ。
その人はキーホルダーを買うような感覚で、お土産にと考えてくれたのだろう。しかし、「返しに行かなきゃ」と思いながら古くなったそれを持ちつづけているのは宿題を抱えているようで、すべてを返納したときは肩の荷が下りた気がした。
だから、私は誰かにものを贈ろうとするときは、「処分するときに気がとがめないか、お金や手間がかからないか」という点をまずチェックするのだ。
友人のまりもはお盆の帰省から戻ってきたら、変色して水に浮いていたらしい。
「生き物を死なせてしまったっていう、なんとも言えない気分だったわ」
伊勢海老の同僚は「生きているうちに届けなければ」と夜に車を走らせたという。
「どうしてもらったほうがこんな苦労しなくちゃならないの」
こんな顛末、贈った人は思いも寄らないだろう。相手が受け取った後のことをイメージしないで“自分が贈りたいもの”を選んでしまうと、こういうことが起きる。
今朝の読売新聞の悩み相談欄のタイトルは「祖母から迷惑な贈り物」。親友の形見だという色紙十五枚を「価値のあるものだから、ずっと大切に飾って」と託されてしまったという。
「臭うし、正直ちょっと気持ちが悪い。祖母が死ぬまで持っていなくてはいけませんか」
祖母が虫眼鏡を使って毎日この欄を読んでいるのを知っていて、あえて投稿するところに困惑を超えたものを感じる……。