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2021年11月25日(木) 二・五人称の死

私が勤務している病院は、複数の看護学校の臨地実習を受け入れている。
実習には基礎、成人、老年、小児、母性、精神などさまざまな種類があり、学生はトータル千時間超という厖大な時間を看護師の指導を受けながら現場で履修する。
そのため、私の病棟にもしょっちゅう学生がいるのであるが、昨日の夕方、三年間の総まとめとなる「統合実習」を終了したグループの一人があいさつに来てくれた。
「この病棟で実習をさせてもらえてよかったです」
という言葉をうれしく聞く。見るからに忙しそうな看護師に声をかけるのは勇気がいっただろうに、一日の始まりには今日の目標を、終わりにはその日の学びをしっかり伝えてくれた彼女。まじめで勉強熱心なこの子なら、いい看護師になるだろう。
「就職は決まってるの?」
「はい、こども病院に。私、子どもが大好きで、いつか小児の専門看護師の資格も取りたいと思ってるんです」
そうだったんだ。
安堵と達成感に満ちた顔でほかの学生たちと病棟を後にする彼女に、「その夢、きっと叶えてね」と心からのエールを送った。



私は小児科病棟で働きたくて、看護師になろうと思った。
しかし、いま私がいるのは患者の平均年齢七十四歳の病棟。配属の希望が通らなかったのではない。悩んだ末に小児科看護師になることを断念したからだ。

看護学校の二年次から小児看護学の講義が始まったら、私は自分に思わぬ弱点があることに気づいた。
教員の臨床での経験談や教材のビデオに登場する患児や家族に感情移入しすぎて、授業中にしばしば涙してしまうのだ。
患者の痛みや苦しみが“他人事”ではぬくもりのある看護はできない。だから看護師には共感力が求められるが、私の場合は度が過ぎている。テキストの事例問題を読みながら、ペーパーペイシェント(紙上の患者)の置かれた状況に胸が塞がるなんて。
そういえば、私はふだんから子どもの事故や虐待のニュースが自分の目や耳に触れないようにしているのだった。そういう見出しの新聞記事は読まず、テレビのチャンネルも変える。詳細を知ってしまうと怒りや悲しみをしばらく引きずり、しんどいからだ。
「こんな私が、死を避けられない子どもや虐待にあった子どもがいる場所で働けるんだろうか……」

元気になって退院できる子どもばかりではない。そのとき、遠い町で起こったニュースを直視できない私が目の前の現実を受けとめられるだろうか。病状が悪化していく子どもや死を嘆き悲しむ両親の姿に心が参ってしまうんじゃないか------。
「家族と離れて治療や療養をしている子どもを支えたい」と思い、この道に入った。しかし、その看取りを支える覚悟を持つことができなかった。

病棟で働くかぎり、患者の死からは逃れられない。
私がいるのはERの後方病棟。子どもの入院こそめったにないが、成人の死は身近だ。
この世の死には三種類ある。一人称(自分)の死、二人称(家族や愛する人)の死、三人称(他人)の死。
では、患者の死は三人称か……?
感情に呑まれて涙を流すことが「寄り添えている証」ではない、といまならわかる。私は誰かが人生の幕を下ろすのを見届ける者として、「もし自分の家族だったら、私はなにをするだろう」と問いつづけることで二人称と三人称の間にありたいと願うのである。

【あとがき】
私の病棟は救急搬送された患者が多く入院していて、死亡退院も多い。子どもでなくても、命の灯が小さくなっていくのを見ているのは本当につらいです。その精神的負荷については、「大切なのは『そこにいる』こと」(2021年2月22日付)に書いたことがあります。
看護職や介護職は「感情労働」と言われますが、まさにそうだなあと思います。


2021年11月13日(土) 関西人は一日にして成らず

病室を訪ねると、Dさんはラジオを聴いていた。先週も同じ番組を聴いていたなあと思い、「面白いですか」と尋ねたら、意外な答えが返ってきた。
「実はね、話の内容、半分もわかってないのよ。この人たち、とっても早口なものだから」
とおっとりと笑う。Dさんは関西に移り住んで三十年になるが、ハイヒールリンゴ・モモコの“しゃべり”にはまったくついていけないという。耳が慣れたら聞き取れるようになるのかしら、と英会話のリスニングのトレーニングをするように毎週聴いているそうだ。

この話を昼の休憩室でしたところ、若いスタッフが「わかります、何年住もうと関西圏外の人間はネイティブにはなれないんですよ」と頷いた。十八歳で地方から大阪に出てきた彼は、大学の入学初日に洗礼を受けたという。
「みんな初対面でしょ、だから自分のこと話してたら『オチまで遠いな〜』って言われたんですよ!自己紹介にオチを要求されるなんて意味がわかりませんでした」
しかし、彼が戸惑ったのはそれだけではなかった。
「会話の最中に『そこはボケなあかんやろ』って、そんなの無理ですよ。芸人じゃないんですから……」
よって彼はかなりの期間、関西弁を操る人と話すときはビクビクしていたそうだ。「オチが弱いわ〜」「そこボケるとこやで!」「おもんな」と言われるんじゃないか、と。

大学時代に付き合っていた人は東京出身だったのだが、彼は聞き慣れない言葉に出くわすたび「関西人は関西弁を全国共通語だと思っている」とぷりぷりしていた。私はそれを見て、「へえ、これは方言だったのか」と知るということが何度もあった。
「自分、出身は?」と話しかけられ「そんなこと俺が知るわけないだろう」と怪訝に思ったとか、「ゴミほっといて」と言われたから放っておいたら後で文句を言われた(ほる=捨てる)とかいう話には笑ったが、
「どうして関西人は『蚊にかまれた』って言うんだ。こっちの蚊には歯があるのか?蚊には『刺される』だろ」
と指摘されたときは驚いた。
言われてみればその通りなのだが、周囲もみな「かまれる」だったし、その表現に疑問を持ったことなどなかった。関西から出ることなく生活していると、なにが関西弁特有の言い回しでよそでは通用しないのかがわからないのだ。
惣菜メーカーの企画部にいたときのこと。新商品の発売前日に全国の販売店にプライスカードを送付したところ、関東の店舗から電話がじゃんじゃんかかってきた。「こんなのじゃ売れない。大至急作り直してくれ」と言う。

「どういうことですか」
「こっちでは『ミンチカツ』なんて言わない。『メンチカツ』に決まってるだろっ」
「な、なんですか、そのメンチって……」
「こっちではそう言うんだよ!」
「そちらでは挽き肉のことを“メンチ”って言うんですか?ハンバーグは“合挽きメンチ”で作るんですか?」
「いや、それはミンチ」
「じゃあミンチのカツがどうしてメンチカツになるんですかっ」
「それを言うなら、『ヘレカツ』ってなんだよ。フィレ肉がどう訛ったら“ヘレ”になるんだ。ヒレカツだろ、ヒレカツ」

関東の人がなんと言おうと、関西人にとって「メンチ」は切るものであって(メンチを切る=眼を飛ばす)、カツにするものではない……という主張も空しく、急遽ミンチカツとヘレカツのプライスカードを差し替えることになった。



関西ローカルな話を日記に書くと、「この機会に」と思うのだろうか、身近にいる関西人の独特のノリやコミュニケーションを受けとめきれずにいる関西圏外の人たちからコメントをもらうことがある。

大阪出身の友人が「当たり前、当然だ」と言うとき、いつも「あたりきしゃりき、けつの穴ブリキ」と言います。すごく品がないように思うのですが、関西では日常語なのでしょうか。

関西の人って、「ちゃうねん」で話が始まりますよね。なにも違ってなくても。で、自信満々で話した後に「知らんけど」で終わる。えっ知らなかったの?いま断言してたよね?っていつも思います。

小学生のとき京都に引越しました。「坊さんが屁をこいた!坊さんが屁をこいた!」と叫ぶ声が聞こえてきたのでびっくりして外を見たら、近所の子がだるまさんが転んだをしていました。
後に一緒に遊ぶようになりましたが、子ども心に恥ずかしく、ぜったい鬼になりたくないと思ってました。

大阪出身の元同僚が言っていたのですが、「今朝、駅の階段で転んだのに誰もつっこんでくれないから恥ずかしかったわー」って、大阪では本当に転んでる見知らぬ人に「なにコケとんねん」とか言うんですか?東京人からするとつっこまれたほうがよほど恥ずかしいんだけど。


自分の生活圏にいる関西人についてのこうした素朴な疑問や感想にはくすっと笑ってしまう。
目の前で誰かが転んだら、私たちだって「大丈夫ですか」と声をかける。駆け寄って、「自分、なにコケとん」なんてもちろん言わない。
でも、そういうイメージをちょっと面白がっているところはあるかもしれない。

【あとがき】
「だるまさんが転んだ」の遊びは私も小学生の頃によくしましたが、文句は「坊さんが屁をこいた」か「はじめの第一歩」でした。「坊さん」のほうは往来で女の子が口にする(どころか大声で叫ぶ)にはあんまりなフレーズだと思うけど、当時はなんとも感じていなかったんだよなあ。でもよそから来たら、そりゃあ抵抗ありますよね。


2021年11月01日(月) ばっちりメイクの文章

昼の休憩室で、「この一年、化粧品をまったく買っていない」とあるスタッフが言ったら、同意の声が相次いだ。
「最低限の化粧しかしないから、ほんと化粧品代がかからなくなったね」
「防護服着なきゃならないうちはまともに化粧なんかできないよ。汗でどろどろになるんだから」
「私も最後に口紅塗ったのいつだろうって感じ」
「口紅どころか、顔の下半分はファンデーションも塗ってないよ」
「私なんか上半分も塗ってなくて、眉毛だけ。こないだはそれすら忘れててロッカーで鏡見てびっくりよ。あわてて鉛筆で描いたわ」
私の知るかぎり、看護師は薄化粧の人が多い。夜勤の日はたいていが「ほぼすっぴん+メガネ」だ。忙しくてトイレすら我慢することがあるくらいだから、化粧直しなどもちろんできない。「どうせすぐ崩れるんだから」とあきらめたり、開き直ったりしてしまうのだ。
その傾向はコロナ禍以降、さらに強まった気がする。

そんな中、隣の病棟のA看護師はいまもむかしもフルメイクだ。人前でマスクを外すことがなくなっても手を抜かないのはえらいなあと思うが、マッチ棒が余裕で三本載りそうなマスカラはやっぱりちょっとやりすぎかも。
「顔だちが派手な上にがっつり化粧してるから、コスプレみたいに見えちゃうんだよね」
「あれは目元だけでも相当時間かかるよ」
「それがね、前に『どのくらいかかるんですか』って訊いたら、十分か十五分って言うんだよ。そんなわけないじゃない」
「それじゃあベースメイクも終わらないでしょ。サバ読まなくていいのにねー」

同僚の辛辣なコメントを聞きながら、ふと思った。
A看護師の「十五分以内」がサバを読んでいるのかはわからない。でも、たしかに女性には化粧にかかる時間を少なめに答えてしまうところがあるんじゃないだろうか。
「キレイですね」とは言われたいが、抜かりなく化粧していることは知られたくない。どうせなら素材の良さだと思わせたいし、間違っても「ふうん、それだけ念を入れているわりには……」とは思われたくないもの。



そして、これと同じ心理が働き、私がつい短めに答えたくなるのが「日記書きの所要時間」である。
「どのくらいの時間をかけて書いてるんですか」と訊かれることがときどきあるが、いつも返答に悩む。
なぜって、はずかしいから。気持ちやできごとを飾らない言葉で淡々と綴る“ナチュラルメイク”の文章に対して、私のはああでもないこうでもないと言葉をこねくり回す“ばっちりメイク”。それに「長文しか書けない」という要素が加わるため、びっくりするほど遅筆なのだ。
でも同じ成果なら、「ねじりハチマキして書きました」より「さらっと書き上げました」という顔をしていたほうが文才があるみたいでかっこいいじゃないか……。

しかし、そんなふうに考えるのは私だけではないような気がする。
というのは、これまで何人もの書き手に所要時間を尋ねたことがあるのだけれど、彼らの答えはいつも私の目算の半分以下だからだ。
日記の読み書きというのは料理と似て、食べるのはあっという間だが、作るのにはその何倍もの時間がかかる。私も“料理人”の端くれ、誰かの料理を食べれば、食材の調達や調理にかかった手間暇がどれほどのものであるかだいたいの見当はつく……つもり。
この長さ、このクオリティ、どう少なく見積もっても二、三時間はかかるだろうと思うのに、相手は「ちゃちゃっと書くから一時間かからないよ」などと言う。とても信じられない。

とはいうものの。
そのむかし、「日記書きさんに100の質問」というお題が流行ったことがある。その中に「日記を書くとき何分くらい時間をかけますか」という問いがあるのだが、十五分とか二十分という回答が圧倒的に多かった。
いまも毎日更新だったり、ほかの場所でも書いていたりする人は少なくないから、やっぱりこのあたりが大多数なのかもしれない。
うちは月数回の不定期更新。一話に何日かかろうと(あ、言っちゃった)かまわないのだけれど、時間をかけたからといって良いものが仕上がるとはかぎらないのが切ないところではある(お、これも女性の化粧と同じだ)。

【あとがき】
ナチュラルメイクの文章を読むと書き手の素顔が垣間見えるような、「文章からイメージする書き手と実物がそう違わないんじゃないか」という気がすることがあります。
人も文章も、人前に出るときは“すっぴん”というわけにはいきません。ナチュラルメイクか、フルメイクか。それが個性ですね(「メイク感がないのに完成している」というのが私の理想の文章タイプ)。